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(>>34 からのつづき)
その間、朝鮮人蔑視の意識は徹底しており、たとえば1931年5月現在の職員数は、技師が専任15人、
兼任13人、属が専任7人、技手が専任31人、兼任4人、合計70人であったが、その内、朝鮮人は技手にただ
一人、それも専任ではなく、兼任にすぎなかった。
こうして、朝鮮の農業は日本人農学者によって日本人向けにつくりかえられ、たとえば稲作も、在来の
朝鮮品種、栽培方法を否定されて、日本人向けの品種と、それに適した栽培方法に変更することを強制
された。その結果、1912年を100とすれば、1928年の米の生産高は150と急速に増加したにもかか
わず、日本への米の輸出額は186、朝鮮人一人あたりの米の消費量はついに69と激減している。朝
鮮人農家は、みずから生産した米は食べることができず、満州(中国東北部)から輸入した高粱
(こうりゃん)や粟(あわ)や稗(ひえ)を食べなければならなかったのである。
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