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『遊郭の歴史』
ホン・ソンチョル著 / ペーパーバック、359ページ、1万8000ウォン
この本は韓国性売買集結地に対する報告書だ。 著者はこの本で売春現場の遊郭がどのように生じて、
どのように変わってきたかを探訪し、検証した。 遊郭という空間の生成と消滅を素材にした微視史技術
を本格試みた漸移眼に触れる。 細かい資料が本内容に相当な重さを与えたうえに、踏査と探査でツヤま
で加えた。 韓国売春歴史に対する珍しい著書でもある。
著者は今日韓国置屋街の起源を日本式遊廓に帰す。 売春女性が集団居住する‘遊ぶ家’という意味だ。
1876年江華島(カンファド)条約で朝鮮が開港した後釜山(プサン)・原産・仁川(インチョン)などに
日本人居住地ができてこの土地に入ってきた毒きのこだ。 1879年日本新聞には長崎の商人が釜山(プサン)
で店舗を運営しようと遠く大阪まで遊女を募集しに行ったという記事が出る。 記録によれば1883年日本人
997人が居住する釜山(プサン)に遊女と遊女が94人がいて、遊郭が9ヶ所営業した。 男性100人に売春婦
10人、業者1人の比率だ。
その後居留民を管理した日本当局が性病と風紀紊乱予防を理由で韓国の開港場で風俗業者の集結を政策的
に推進して釜山(プサン)にこの土地最初の置屋街のアミ傘下遊郭が入る。 1902年7月24日、日本人上野
安太郎が副平正1四つ角にたてた安楽亭という女郎屋が中心だ。 料理を売て売春をする日本特有の業態だ。
この店近隣に第一塁・ククポンヌ・国戍楼など7集が雨後の筍のように入って280人余りが従事する置屋街
を作り上げた。 アミ傘下遊郭は場所が狭かったので、1907年、近隣のミドリマーチ(緑町)に移した。東洋
最大の風俗街と呼ばれた玩月洞(ワンウォルドン)はこのように誕生した。ここでは1970~80年代、120軒
を越える旅館に春を売る女性が2000人余りいた。 (つづく)