06/06/18 17:26:42
>>166
以下、ウィキペディアから引用
具体的な神戸沖空港建設の計画は、1969年5月に当時の運輸省の関西新空港構想に始まっている。
この構想で関西新空港予定地は神戸沖の他、明石沖、淡路島、泉州沖が想定されていたが、
大都市圏からのアクセスの利便性から神戸沖が有力とされていた。
しかし1972年、革新市議団が有力だった神戸市議会は神戸沖空港反対決議を賛成多数で可決。
翌年の市長選挙では空港問題が争点となり、当時の宮崎辰雄市長も神戸沖空港の反対を表明し
空港推進派の推す対立候補を退け再選された。その結果、神戸沖建設構想は消滅した。
その背景には、宮崎市長が、高度経済成長と共に社会問題となっていた公害、環境問題に対する
世論の関心の高まり、成田、伊丹を契機とする、反騒音、反公害運動の活発化を無視できなかった
ことにある。