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だれかのまなざし
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・死別の先にある、家族への想い、満たされる幸せ
別れ、特に死は悲しく、重く、辛いものです。
だから、悲しくて「泣ける」。
同時にそこを強調しすぎると、あざとさを感じます。
不用意に、泣けるから、大衆受けするから、この入魂の作画と熱いメッセージと叙事的な音楽で、「泣け」っていうのがあって。
そういうのには、私、距離を置いてしまいます。いや、さ、なんというか。
でも、この作品は死そのものは、描いてないんです。
猫のみーさんは、老齢で弱っている。それからナレーションでふと語り手への予感が走り、死んだとの連絡が鳴る。
この死までの詳しい過程は、省かれています。ぞぬ号のように子供を庇って死んだとか、キミボのように院内感染の病気にかかってとか。
ただそこに佇んでいて、何時の間にか消えていく。死体も死に際もナッシング。
かと言って、ねこさんを、おざなりにはしていません。
>「他の人間の誰が死んだって、こんなに悲しくはならないと思う」
>「家族だったもん」
飾ったりドラマチックなセリフじゃない分、実感があって、心に響きます。
またその中で猫が出てくる夢を見た。と語られますが。
あの、製作者側への、物凄い誘惑として、どんな夢か描きたくなる、セリフ内で明確に示唆、或いは夢そのものを描写したくなる。
実際、ドラマチックな離別の話なら、ここでもうファンタジーなんだからナレーションのように直接家族へと最後の言葉を話しかけたりとか。したくありません?
(例えば「め組の大吾」というサンデーの長編漫画があるのですが、この作品だと死んだ愛犬が夢の中で日本語で主人公に語りかけるんです。
それが物語のテーマな才能の開花、成長を象徴していて、「ああ、ここまで来たんだな」とこれはこれで心動かされたんですが)
本作の描かない、と言う選択は怠惰でも逃げでもなく、生産的な決断に思えます。