24/08/18 03:50:57.87 3BiOmKvf+
愛の思想形態。
2:名無しさん@3周年
24/08/18 04:06:27.14 O8Ugypcp3
憲法学者兼博士龍神様々。『我々は、エデンの西園から移動する事が、出来ない。観に行く事出逢ったり、確かめる事は出来る。(イグ・ノーベル賞。)。
3:名無しさん@3周年
24/08/20 18:09:40.88 HqaSX2JiN
書けなくなったよ~~ん
4:名無しさん@3周年
24/08/20 18:11:08.22 HqaSX2JiN
(1)アンジェリスの報告から
サハリンのアイヌ民族と明朝―15世紀―
末期の江戸の風景 030
ジェロニモ神父は、当時、北海道の南端部にあった日本人の都市である松前藩に滞在
し、そこで蝦夷人(えぞじん)、すなわちアイヌ民族に出会って、蝦夷の地に関した、
様々な情報を聞き込んて得ている。その情報には、次のような記事がある。松前には、
毎年、蝦夷の東部にあるメナシ地方(目梨=千島列島や道東)から、そこに住む蝦夷人
が 100艘の船に鮭(サケ)や鰊(ニシン)を積んでやって来る。また、ラッコという、
ヨーロッパでの貂(テン)に似た動物の毛皮を、沢山持って来る。ラッコは蝦夷の地、
つまり北海道には生息しておらず、東方の ラッコ島に生息しているので、メナシ地方
の蝦夷人、つまりアイヌ民族は、冬場にそこへ行ってラッコの毛皮を買いに行くという
。またラッコ島の近くには、その他にも多くの島があり、その島の、住民はあまり色白
くなく、鬚がなく、その住民が二人、昨年、松前にやって来たが、彼らの言葉を、理解
できる蝦夷人は、まずいなかった。という。アンジェリスは蝦夷人、すなわち、アイヌ
民族について、毛深く、胴部に達するほど長い鬚がある。と言っている。したがって、
蝦夷人や蝦夷アイヌ人と異なる言語を話す民の島というは、その島の住民はアイヌ民族
ではなかったのであろう。また蝦夷の、北部にある天塩(てしお=天塩川以北・樺太)
地方からも、そこに住む蝦夷人が、船で松前にやって来て、さまざまな品物とともに、
中国製の様なきらびやかで、稠密な絹織物を沢山持って来るという。「アンジェリスの
第2蝦夷報告」には、蝦夷の地を描いた地図が添えられていて、そこには蝦夷の地が、
本州の北に巨大な島として描かれている。この巨大な島の西端にある天塩地方の、向か
い側、つまり西側は朝鮮・中国の北東部が描かれている。アンジェリスは、そのような
地理上の認識から、天塩からもたらされる絹織物を中国製と推測したのであろう。
5:名無しさん@3周年
24/08/20 18:21:36.91 HqaSX2JiN
末期の江戸の風景 031
しかしながら、実際には、それらの絹織物は15世紀に苦夷、つまりサハリンのアイヌ
民族が、明朝のヌルガンの役所に貢物を納めるのと引き換えに与えられたのと同様の絹
の衣服だった。と思われる。そのような絹織物がサハリン経由で天塩にもたらされてい
たのである。カルワーリュの旅行記も、また松前に滞在して、蝦夷の土地に関する様々
な情報を聞き取り、書いている。その情報によれば、北東方向から蝦夷人が60日あまり
航海して、松前にやって来て、ラッコ島から産出するラッコの毛皮という柔らかい毛皮
をもたらす。という。また彼らは生きた鷹(タカ)や、日本人が 矢に付けて飾る鷲(
ワシ)の羽をもたらす。という。また北方から蝦夷人が70日あまりも航海して、松前に
やって来て、非常に上質な絹を持ってきていたともいう。このようにジェロニモ神父と
カルワーリュの報告から、17世紀初めに北海道の、アイヌ民族が 北はサハリンに居住
しているアイヌ民族と、東は千島列島に居住しているアイヌ民族と広範囲にわたる交易
に頻繁に、冬の氷上を犬ぞりを使って、毎年の様に従事していた。事がわかってくる。
しかし、17世紀に、ロシア人は、シベリアの探検と開拓を目指して南下し、東方へ進み
、17世紀末にはカムチャツカに到達する。カムチャツカの大地は、どこまで続いている
のか確かめ、更に砂金の出先を求めた。その探検を1697年に命じられたウラジーミル・
アトラーソフは、カムチャツカ半島の 中央部で現地の住民であるカムチャダール民族
に出会って、次いで南端部でカムチャダールとは 顔つきが異なる人たちに出会った。
その人たちをアトラーソフはクリルと呼んだ。アトラーソフは、シベリアの中心都市で
ある レナ川中流域のヤクーツクに置かれたシベリア統治のための役所シベリア庁で、
カムチャツカ探検を報告する。その報告によれば、クリルたちのところへは海上の島々
から陶器や木綿服が運ばれて来るというものである。
6:名無しさん@3周年
24/08/20 18:22:21.56 HqaSX2JiN
末期の江戸の風景 032
こうして、カムチャツカ半島の向こう側の、海上に島々があることがわかると、すか
さずロシア政府は、それらの島々の探検をシベリア庁に命じている。こうしてイワン・
コズィレフスキーが派遣され、彼は1711年に第1の島シュムシュ島に渡り、1713年には
第2の島パラムシリ島に上陸し、島民と争いになっている。パラムシリ島で島の住民に
会い、また、その時、たまたま、はるか遠いエトロフ島からパラムシリ島に交易にやっ
て来ていた、シャタノイという名前の異人に出会った。彼はアトラーソフが、クリルと
呼んだ人たちと同じ人達だった。コズィレフスキーはシャタノイからさまざまな情報を
得て、これを、同じ様にヤクーツクのシベリア庁に報告した。この報告は、18世紀初め
にアイヌ民族がカムチャツカ半島の南端部、千島列島、北海道を結ぶ活発な交易に従事
している様子を生き生きと具体的に伝えている。北海道・千島・カムチャツカを結んだ
交易路があって、アイヌ民族は千島列島を経由して カムチャツカ半島に至り、そこで
入手した商品を持って松前にやって来る。第1の島シュムシュ島にはクリル人が住んで
いて、この島には、南方の島のクリル人たちがやって来ては、ラッコやキツネの毛皮、
矢に付けるワシの羽を持ち帰る。第2の島パラムシリ島にも クリル人が住んでいた。
この島にも、遠い島のクリル人が商売にやって来て、絹織物や綿織物、刀や鍋、陶器を
持って来る。第3の島オンネコタン島にもクリル人が住んでいる。この島の住民達は、
カムチャツカに、ラッコやキツネの毛皮を買い付けに行き、それを持って南の遠い島々
に行く。しかも、この島の住民は、カムチャツカの人たちの言語を知っていた。理由は
なぜなら、彼らはカムチャダールと交易し、結婚していたからである。すなわち、彼ら
はカムチャダールの娘たちと結婚し、彼らの方からも、カムチャダールに自分たちの娘
たちを嫁がせている。という。血統に縁戚関係を持っていた。つまりカムチャダール人
や族であったのである。
7:名無しさん@3周年
24/08/20 18:35:04.81 HqaSX2JiN
小学3年生読本‥・・・経済と政治01
「皆んながどんなにがんばっても、全員がお金持ちになることはできません。でも、
皆んなで頑張れば、全員が幸せになれる社会を作ることは出来る。大切なのは、お金を
増やすことではなく、そのお金を何処に流してどんな社会を作るか。なんです」 経済
の教養が学べる小説『きみのお金は誰のため??ボスが教えてくれた「お金の謎」と、
「社会のしくみ」』の著者である田内学氏は元ゴールドマン・サックスのトレーダー。
資本主義の最前線で16年間戦ってきた田内氏はこう語る。今回は、8月5日の日本株暴落
を受けて、あらためて「投資」と「ギャンブル」の違いを解説してもらう。
1)「ギャンブル化」してしまう投資
日銀による想定外の利上げをきっかけに、この1週間で為替相場は1ドル152円から142
円まで下落し、3万9000円台だった日経平均株価も一時3万1000円台にまで暴落しました
(8月6日には為替相場は 一時1ドル146円程度まで、日経平均株価は3万4000円台まで戻
しています)。わずか0.25%の利上げで、これほどの相場が動いた背景には、アメリカ
経済の減速への警戒感が高まった。こともありますが、個人投資家による 投機的な、
ポジションの積み上がりも一因としてある。でしょう。投資商品を勧めたいがために、
「投資はギャンブルではない。」という人もいますが、一歩間違えれば路頭に迷う。も
う間違えなくとも、投資はギャンブルである。損得に動く、そうならない為には、投資
というゲームの正体を知ることが重要です。投資によって儲ける時が、その利益は主に
2ヶ所からやってきます。1つは投資先の企業の利益で、もう1つは他の投資家からの
支払いです。