21/02/20 01:30:02.90 fnoO5aty.net
>>53
>まず、全体的、かつ、私見交じりの話であることは断っておく。
私見が交じっている箇所によっては「立証」とはほど遠く、「文明人」にもほど遠いということになる
さて、どこに私見が交じっているのか?
>日露戦争終戦後の時点では戦術・戦略で戦力差をひっくり返せてしまうことがままあった
「ひっくり返せることもあった」は「ひっくり返せると判断しても当然と言えるだけの状況だった」は異なる
「ひっくり返せるかも知れない」でやってみたけど、やっぱりひっくり返せませんでした、
ひっくり返せなかった挙げ句、数百万人の日本人が死んで、得るものはありませんでした、というのは大きな責任にはならぬのか?
>国民の責任:満州進出の時点で、欧米列強へのいずれ来るであろう敗北を露見できなかった責任。
その「敗北」の内容には、「原子爆弾の投下や東京大空襲を含む数百万人の日本人の死」という結果も含まれる
敗北を露見し、満州進出を見合わせていればこの結果はなかった、つまり国民はこの結果について責任があるということである
責任の大小を決める要素には「予見可能性」「回避可能性」に加えて「結果の重大性」もあるのだ
この責任を「大きい」と見るか「小さい」と見るかは人それぞれだが、キミにとっては「小さい」ということか
>そもそもをいうのであれば、満州進出がターニングポイントだ。
ハル・ノートが提示されたとき、「中国から手を引く」という選択を捨てて「戦争で解決」を選択した責任はどうなる?
なぜそこはターニングポイントにならぬのか?
さて、キミは責任を問う上で「それが間違いだとどう露見できたのか」をきちんと延べよ、と言っている
つまり、「敗北するということを露見できたはずだ」ということを「どう露見できたのか」まで含めて述べねばならない
キミの論でいくならば、「露見できなかった」だけでは責任があるとは言えぬのではないのかね?
キミの今までの主張では、「露見できたはずなのに露見できなかった」ということになって初めて「責任あり」になるのではないのかね?
国民に責任あり、というのであれば、「敗北するということを露見できたはずだ」ということを立証してもらわねば困る