21/01/24 13:12:34.96 /cOFwQHS.net
― 「智」とは「知(しる)」なり。
人生まれて耳目の及ぶ所、物として知らざるは無し。
知ると雖も其の理を極めて、是を辨ずるにあらざれば、智の要を爲さず。
格物致知は則ち學?の先務なり。
雖然(しかれども)是を知る而已(のみ)にして、慧(くゑい)無き?は悟るに由無く、才(ざえ)無き?は智を致す縡得ならず。
此のゆゑに智慧(ちゑ)と謂ひ、才智と謂ふ。
佛?に所謂(いはゆる)「般若」は智慧なり。
智と慧と具足して、悟る可く致す可きを「才(ざえ)と謂ふ。
智慧も亦大(おほい)なる哉。
蓋し智と慧とを相(あひ)佐(たす)けて用を做すや、譬へば人の身に魂と魄と有るが如し。
云々(畧)
智慧と才幹と相佐けて、譱(よ)く致す縡あるも、此の理(ことわり)を以て知る可き而已。
然るに智に上智あり、邪智あり。
上智は良善の縡に用ゐて、毫(ちと)も奸惡の事(わざ)に移らず、進退必ず度に稱(かな)うて、動くと雖も跌(つまづ)かず。
是を賢才叡智と謂ふ。
才(ざえ)は智の乖(すゐ)なる?なり。
爰を以て?しとす。才無く智無きは則ち下愚なり。
又邪智は奸惡の事(わざ)に用ゐて、仁義の心無く、進むを知りて退く縡を思はず、動く時は人の礙あり。
奸民盜人の才あるは是なり。―