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パウロが、善人だとすれば、律法で世界を救おうと悩んだのだとするならば、際限のない悪の手口、欺瞞や偽善のテクニック、罪のないものに罪を着せ、善悪を覆して罪のないものを殺せてしまう。
パウロは先輩に相談したことだろう。
警官や武道の達人も、人を素手で簡単に殺せる。気が付きもしないうちに簡単に殺せるだろう。だから、普通の人よりも律しなければならない。
力のないものがどれだけ殺意を込めて殴っても、ブルブル震えて身動きも取れないで泣き崩れたり、ほっぺにかするくらいの打撃しかできない。
それが、悪の悪意で憎悪であり、ひどい逆恨みでも、どんなに怒りや憎悪をぶつけても殺傷力がない。
しかし、警官や武道の達人は、ささいなあくいに身を任せれば簡単に殺せてしまう。殺しのテクニックが際限なく心に思い浮かぶ。
即座に息の根を止められる。
心を悪意や怒りに任せれば破滅しかない。だから、ここ穂を鍛えなければいけないし、律しなければならない。
力を悪に使えば暴力団や獣で檻に閉じ込められたり、撃ち殺されるほかない。
どんなに鍛えても殺処分されるだけ。
パウロは何に救いをもたらしたのだろうか?
誰も裁けないから、すべて許そう、全部救われるのだなどとは思わなかったことだろう。
なぜなら、独裁者に拉致餓死させられ奴隷制で苦しみ、恐怖支配の金持ち女カルトの奴隷の下で、襲われ殺され使い捨て殺される無数の虐げられた罪の女を見てるからだ。
パウロは、資本主義の格差には、交渉したり警察の対応で解決可能だと同意したことだろう。
しかし、死の棘を持った本物の奴隷制や悪人たちがもたらす、本物の奴隷制や悪人の恐怖支配は許せなかったことだろう。
だから、律法ではなく、愛の心を信じたのだろう。
悪魔と言われてもイエスを引き止めたペテロに愛を見出し、
言葉に従ってつけ込んで殺したユダに破滅みもたらしたのだろう。
金で買うことのできない愛の有無に希望を見出したのかもしれない。