17/10/20 14:32:33.32 tRlucUj+.net
権力史観では、
応仁の乱のあと、戦国時代の混乱に入る。
それを、信長、秀吉、家康によって、江戸時代の統一へ至る、と考えるが、
民衆史観を考えなければならない。
戦国時代、国が混乱する中で、
平安時代からの荘園制が崩れ、
イエが集まった自治惣村が成立していく。
むしろ自由に豊かになっていく。
ムラは中に武士、商人、お寺を持ち、治安、司法、経済を内包する。
秀吉が行ったのは、全国のムラムラを統治することだ。
太閤検地は管理するだけでなく、中間搾取を排除し、より直接、ムラから効率的に税をとる。
刀狩りは、ムラから暴力を一掃する。代わりに秀吉が治安を守る。
さらに家康は檀家制によって、すでにムラムラにある寺を整理して、
農民の住人台帳を作らせて、管理する。
ようするに、すでにあるムライエと対立するのではなく、それを活用し統治するよう進めた。
だからムライエのもつ自治や生産性向上は任せた。
いわば、日本の荘園制に近い体制が残り続けた西洋の農奴制とは違う。
左翼は、すぐに西洋の農奴をもとにした差別史観をそのまま、日本の農民にも展開するが、
それが大きな間違いである。
江戸時代以降も、ムライエは自立的な大きな力を持ち続けた。
その具体的な現れが一揆であるが、一揆は単なる反乱でもましてや革命ではなく、
正統な法を越えた武士層への訴える方法であった。
日本で近代革命が起こらなかったのは、ムライエは自治権をもち革命を起こす必要が無かった。
明治維新でも、戦国時代、江戸時代、明治、そして現代まで、日本の基盤としてのムライエは変わっていない。
世間はそのような基盤をもとに、江戸時代の平安と豊かさの中で生まれてきた。