14/08/14 18:04:34.79 90+brAcv.net
(>>420の続き)
・・・また、外国の君主、要人、高位聖職者、国、または主権者は、わが国においては、いかなる裁判権、権力、至上性、優越性、または教会もしくは宗教に関する権限をも有せず、
また有してはならないことを宣誓します。神にかけて。」と臣民が暴力によって君主に退位をせまったり、君主を殺害したりする行為を嫌悪し、憎悪し、かつ廃棄することを臣民の側から宣誓している。
この立憲君主制のもとでの衆議院の代表制民主主義こそが、真の「正統性のある政体」である。
第二に「法の支配」及び「立憲君主制」が確立していた、ベンサムの19世紀英国の時代に「何百万もの人々が、一人の人間(=君主)の意志と快楽のために苦しめられる」とか、「その君主の最大幸福が、
一人(=君主)を除くその他のすべての人々の最大幸福をあらゆる場合において犠牲にすることを要求しても仕方がない」などという偏見は、時代錯誤も甚だしく、明らかな謬論である。
君主に対するベンサムの個人的怨念か、王制廃止の目的の国民への煽動としか思われない(フランス革命のシェイエスを思わせる)。少なくとも英国臣民(国民)の一般的な君主観とはかけ離れている。
第三に、「王権神授説」について。 近代的な「主権」の概念はフランス人のジャン・ボーダン(1530~96年)の『国家論六巻』(1576年)をもって発祥とする。
・・・フランスについて言えば、対外的に独立が達成され、しかも国内的にも法秩序が整備されて繁栄に向かって進展する「近代国家」となった時、具体的にはウェストファリア条約(1648年)をもって、無用の長物と化した対内的な主権論の方は直ちに廃棄すべきであった。
「主権論の父」ボーダンが生きていればそうしただろう。ところが、人類にとって不幸なことに、17~18世紀の「君主主権」論が、「朕は国家なり」と権力を振るう太陽王ルイ十四世への軽佻な追従にすぎない、
「全国家は君主一身のうちにある。・・・全人民の意志も彼のうちにある・・・」(ジャック=ベニーニュ・ボシュエ)などの未開で前近代的な「王権神授説」の流行によって堕落したことであった。