24/07/15 02:38:14.78 nwB3dwHz0.net
秦王朝の三十一代王にして、ちう国最初の統一国家の初代皇帝となり、以後二千年も続く中華帝国の基礎をつくり、万里の長城も建設した始皇帝も、まおズーシーお気に入りの皇帝だつた
始皇帝は儒者を生き埋めにし、古典籍を焚書したけれど、まおズーシーに云わせれば、処刑した儒者はわずか 260人に過ぎず、始皇帝の努力に較べれば、枝葉末節を誇張して偉大さを無視すべからず、となる
唐王朝の三代皇帝、高宗の皇后だつた則天武后も、あまりにも疑い深く、余りにも多くの密告者を抱え、余りにもたくさんの人をころしたのだけれど、まおズーシーに云わせば、則天武后は社会改革者であり、貴族や有力大家族を犠牲にして、中小地主の利益をはかったといふことになる
随王朝の第二代皇帝、煬帝(ようだい) についても、ちう国の民衆からみれば、酒池肉林の退廃をきわめた極悪非道の人であり、大運河の開削を命じた土木工事ではおびただしい人命が失われても、まおズーシーは煬帝を「ちう国最高の皇帝」と位置付けたのである
ちう国の河川はすべて西から東へ流れ、黄河から淮水(わいすい)にに達する「通済渠」、ついで「永済渠」といふ大運河の建設で北と南が一直線に結ばれ、国家をひとつに結び付けるベルトとなった
煬帝もまた最高かつ偉大な統一家といふ塩梅である
ちう国の故事を政治操作に活用し、古代宮廷に於ける権謀術数は、マルクス・レーニン主義よりも遥かに強い影響をまおズーシーにもたらしておったのである
云ふなれば、社会主義は、ちう国人民の創造的エネルギーを爆発させる方便のひとつに過ぎず、ソ連型の社会主義ではなく(まおズーシーはソ連には面従腹背、ソ連はお嫌い)、常にちう国的な特質を持った社会主義により、ちう国古代の栄光回復、さらには経済成長、大躍進を目指したのである
(同じ皇帝でも、束弐の事業をせず、保身だけだつた御仁よりマシとするか否か、微妙なところではあるが)