25/01/23 00:34:59.98 4L3lTa2J0.net
南海3000系 泉北高速鉄道9300系導入に伴い3509F 3511F 3521Fを購入して同形式に編入
南海7100系を置換
改造内容は3517F 3555Fに準じる
524:名無し野電車区
25/01/24 15:30:07.92 Q7fksfmP0.net
>>517
そんなことしなくても2階建てサロに倣って
クハ125-モハ125-モハ124-クハ124でよかったな
クモハさえつくらなければ形式重複はない
525:名無し野電車区 (ワッチョイ cf68-0rZq)
25/01/24 20:34:13.14 cv161wGL0.net
キハE130系910番台
JR東日本が開発した「電動アシスト気動車」。
液体式と電気式を両方搭載し、急勾配の登坂能力向上を図った。
既存の気動車のT台車にモーターを取り付けて加速をアシストする。
当初マイルドハイブリッドにすることも検討されたが、床上に機器室を設けなければならず見送られた。
しかしアシスト機構にエンジン出力を奪われる格好になるのでエンジン出力が350PS以上必須であり、大昔のDMH17HやDMF15HSA搭載の気動車への搭載は不可能である。
526:名無し野電車区
25/01/25 09:29:34.16 CKebxDHY0.net
キハ40形1900番台
JR北海道でキハ40形1700番台を電動アシスト化したもの。
エンジンを330PSに交換したところ石北本線の急勾配で空転する事象が多発したため、>>525のキハE130系910番台を参考にT台車にモーターを取り付けて電動アシスト化。
これにより勾配区間での粘着特性が改善した。
527:名無し野電車区
25/01/26 23:08:51.28 iuULnbkR0.net
阪急新2200系
阪急電鉄が製造した2000系ベースのフレキシブル組成可能試験車。
京成3200形を見習い2両または3両単位でフレキシブルに組成可能とした。
2両ユニット(TcMとMTcがある)と3両ユニット(TcMMc、Mcが片側の台車のみモーター搭載)を組み合わせて最大10両編成まで組む事が出来る。
今津南線・甲陽線の3両編成や京都本線の7両編成といった奇数両編成を組成可能とするため3両ユニットも作ってる。
運転台は113系初期車のように助士席側を折り畳める構造として客室スペース拡大を図った。
528:名無し野電車区
25/01/28 23:51:02.03 2zusKDQs0.net
EV-E601系
JR東日本が開発したEV-E301系の交直両用バージョン。
仙石東北ラインの電車化のために導入したが、連絡線があまりにも短すぎてデッドセクションが設けられないため交直両用バッテリー電車の開発を決断。
連絡線内でバッテリー走行し、交流と直流の両方でパンタからの集電を可能とした。
529:名無し野電車区
25/02/02 16:09:47.63 K928KiSW3
東急デハ250形電車
東京急行電鉄が同社の軌道路線において運用する目的で、1967年(昭和42年)に導入した路面電車車両である。
1969年(昭和44年)に玉川線の廃止後は世田谷線において運用され、
同じデザインのデハ150形電車より一足早い1990年(平成2年)に引退となった。
同軌道線の朝夕ラッシュ時は全列車2両編成化で運行が行われおり、
1967年4月からは終日運行も2両編成化が行われる事から車体構造は150形と同じながらも、
同線初の貫通二両編成で、デハ251 - デハ266の16両が東急車輛製造において新製された。
車体
150形と同じ車体長13,320 mm・車体幅2,308 mmの全金属製車体を備え、
奇数番号車の渋谷方、偶数番号車の二子玉川方の屋根上には菱形パンタグラフを1両あたり1基搭載する。
530:名無し野電車区
25/02/08 12:32:12.89 ford7+p50.net
キ1000
JR貨物が製造した機関車用ラッセルアタッチメント。
DD200にラッセル翼を取り付けると非常に重くなる上に強度の問題が生ずるため、車輪付きアタッチメントになっており車籍を有している。
DD200の他EH200やDF200などの各種機関車や電車や気動車と連結して使用できる。
531:名無し野電車区
25/02/15 20:22:29.69 D9XpgEJ51
小田急1600形電車
東京急行電鉄(大東急)・小田急電鉄が保有していた全長17m級の通勤車両である。
1930年代後半から輸送量が右肩上がりで増加した小田急では車両不足を感じるようになり、
早急に車両増備を迫られた事で、川崎車輛に一定数の編成数、デハ‐クハの2両編成を10編成発注した。
デハ1600形
俗に「関東型」と呼ばれる、側面窓配置d1D(1)3D(1)3D(1)1の片運転台として、
窓の天地寸法を大きくとった軽快なデザインの半鋼製車体を備える。
このスタイルは東京横浜電鉄デハ3550形(後のデハ3650形)を先取る戦前関東私鉄スタイルだが、
前面が非貫通では無く貫通型で、乗務員室は解放全室、関東私鉄スタイルでは異色の存在だった。
全車、新宿向きで集電装置は運転席側に搭載、屋根上にはガーランド式ベンチレーターが、
中央に1列に配置され、その左右に歩み板が設置されていたほか、
屋根布押さえの乗務員室扉、乗降扉上部には水切りが設置されていた。
車内内壁は木製ニス塗り、天井は木製白色塗装、床は木製の床油引きで、室内灯は白熱灯で、
白色のグローブが天井中央に1列に6基設置されてそれぞれに常用2灯が組込まれていたほか、
うち4基には予備1灯も組込まれていた。
532:名無し野電車区
25/02/15 21:03:07.12 D9XpgEJ51
クハ1650形
デハ1600形の制御車で片運転台、側面窓配置d1D(1)3D(1)3D(1)1、
台車はデハ1600形と同じ住友鋳鋼場KS-31-Lの基礎ブレーキ装置を、
直列の両抱式から複列の両抱式へ改良したイコライザー式鋳鋼製台車のKS-33-Lを装備した。
戦後は車両荒廃の整備とともに沿線開発で乗客数の増加に対応する為、
1950年頃からは4両編成で運行、1956年より東急車輛製造で更新改造が開始され、
正面窓のHゴム支持化、側面窓のアルミサッシ化、客用扉のプレスドア化、尾灯の窓上設置、
室内デコラ張り化、室内灯の蛍光灯化、肘掛けのパイプ化、電動発電機 (MG) ・空気圧縮機 (CP) をクハに移設、
屋根上のベンチレーターをガーランド式から押込式に変更、屋根全周に金属製の雨樋を設置、
狭幅貫通路の広幅貫通路化、開放全室運転台は密閉全室化などがなされた。
1957年からは1800形、2000形以外は6両編成で運用される事になり、1700形、1900形、2100形などの、
4両編成用増結2両編成として使用されることになり、その後、OM-ATSが1965年に新宿 - 向ヶ丘遊園間で、
翌1966年から全線で使用されるようになり、車上装置の搭載対象外となった事で、
主電動機を新しく製造される大型通勤車両である4000形に提供することになり、
1965年から1967年までに全車両が廃車となった。
主電動機などの電装品の一部を4000形製造時に転用したためデハ1600形の車体と台車、
クハ1650形の車体および台車が岳南鉄道、近江鉄道、三岐鉄道、上田丸子電鉄、関東鉄道に譲渡された。
533:名無し野電車区
25/02/15 21:55:27.77 D9XpgEJ51
小田急1700形電車
本格的な特急専用車両として1951年に2本(以降、第1編成、第2編成と呼称する)、
1952年に2本(以降、第3編成、第4編成と呼称する)の4両編成×計4本が導入された。
新宿 - 箱根湯本・片瀬江ノ島間の特急列車として運行され、特急ロマンスカーの地位を、
不動のものにした車両とされていて、装備はこれまでの小田急にはないもので、
「走る喫茶室」も進化させて設置、側窓は眺望性に優れる幅広のもの、座席は転換クロスシートとなった。
1958年に3000形SE車の4編成導入された後にロングシートの通勤車両に改造され、
1970年11月に主電動機を4000形に転用し、全車両が廃車となった。
車
制御電動車のデハ1700形と付随車のサハ1750形によるMcTTMcの4両固定編成とし、
車両構造は定員確保を前提に客用扉は両端のデハ1700形に1箇所設置されるのみで編成全体で片側2箇所とした。
車体長は17.5mの18m級車体でながら台枠は戦災国電の台枠を使用した事から、
車体幅が2800mmと地方鉄道の車両限界を超えるサイズとなり、客用扉はデハ1700形に、
幅1100mmのものを片側1箇所、窓と扉の配置はデハ1700形がd10(1)D、サハ1750形が12、
塗装は腰部と上部および屋根肩部が青色、窓周りが黄色の旧特急色であった。
前面は国電の半流線型車に近い丸みを帯びた幅1130mm、高さ850mmの非貫通2枚窓に、
運転台は密閉型全室、各車の車体は張上げ屋根で、貫通路は広幅貫通路を装備、
内装は壁面と天井が白色に塗られた化粧板、座席は転換クロスシート、
室内灯は当時最新のアクリルカバー付きの交流蛍光灯を天井中央に連続1列に配置、
電源はサハ1750形の新宿方奇数車にCLG-107電動発電機を1基搭載、
パンタグラフはデハ1700形の奇数車、偶数車ともに運転台側に搭載し、
主電動機は三菱電機製MB-147-CFA、台車はデハ1700形、サハ1750形ともに、
住友金属工業製のFS-108ゲルリッツ式台車を装備した。
534:名無し野電車区
25/02/15 22:28:56.38 D9XpgEJ51
1958年4月に3000形SE車が使用開始となり、第4編成まで揃った時点で本形式の特急での運用が終了、
本形式は通勤車に改造されることになり、改造に際しては、当時の小田急通勤車両は全長約18m級と、
20m級が入れ混じっており、年々急増する通勤輸送への対策と車体を台枠を残して全解体する必要から、
台枠を延長して2000形と同じ20m級4扉ロングシートに改造されることになり、
まず1958年7月から9月にかけて東急車輛製造で第1編成と第2編成の改造を実施、
順次第3、第4編成も20m級4扉車に改造された。なお改造に際して前面は2000形と同じ、
非貫通2枚窓のままとされた事で、外観上は2000形同じで、車番以外で見分けるのは困難だった。
また3000形SE車の登場で特急色が変更された事から通勤車の標準色が旧特急色となった。
1969年以降、通勤車の塗装はケープアイボリーにロイヤルブルーの帯が入る塗装に変更、
全車とも5000形の増備で余剰が始まった1975年から廃車が始まり、
20m級4扉の大型車体だった事から地方鉄道に譲渡は無く、全車が解体された。
535:名無し野電車区
25/02/15 22:38:23.25 8RxusopS0.net
東武8000系の抑速ブレーキ取り付け改造
東武鉄道で8000系を日光・鬼怒川線に投入する際、電制がない構造であるがゆえに制輪子の異常摩耗が発生する懸念から抑速ブレーキを取り付け。
主制御器・マスコンハンドルの換装と主抵抗器の容量増強が行われている。
発電ブレーキは構造複雑化を避けるため抑速専用で、停止ブレーキは従来通り空制のみで行う。
会津鉄道の会津田島駅まで乗り入れたことがある。
536:名無し野電車区 (ワッチョイ 4b68-fem9)
25/02/16 00:05:41.89 pgz/5twl0.net
キロハ186-1000番台
JR四国でキロハ186にエンジン出力を増強したもの。
当初はJR九州のキハ186のようにエンジン増設も検討されたが、グリーン室の騒音が増大するため1000形と同等のエンジンと変速機に取り換え、M台車を2軸駆動化した。
これによりオール2基エンジンと同等の走行性能を確保。
537:名無し野電車区
25/02/16 13:39:25.32 xbK5iglg0.net
近鉄28000系こまどり・16800系かもしか
28000系はJR西日本による奈良方面のアクセス施策へ対抗するため、16800系は低迷している吉野特急の需要喚起を目的として投入された。
80000系のレギュラー車両に匹敵する設備や多目的室の導入などで座席数の大幅な減少が避けられないこともあり、3両編成に統一している。
特別車両料金を設定している点から他の汎用特急形式と併結して営業運転する機会は無く、多客時間帯は2本を連結した6両編成で運行する。
28000系は京奈特急や京橿特急用だが、2本のみ阪神への乗り入れに対応していて、不定期運転ながら神戸三宮方面で姿を見せることもある。
538:名無し野電車区
25/02/16 23:15:52.59 pgz/5twl0.net
315系900番台
JR東海が製造した315系の飯田線特化試験車。
急カーブの多い飯田線での走行安定性を高めるため、台車を操舵機構付きインダイレクトマウント台車のC-DT69X・C-TR257Xに変更。
これにより急カーブでの横圧低減に成功してる。
539:名無し野電車区
25/02/21 02:38:57.70 .net
モハ313、サハ313-300番台
313系0番台の増結ユニット
540:名無し野電車区
25/02/22 22:53:56.80 /RaneLhO0.net
ヨ48000
国鉄でヨ8000を試験的に冷房改造した車両。
AU12形クーラーを1基取り付けているが、1個用のキノコ型キセを流用したために屋根全体を低くする必要性が生じ(キセがベンチレーターと兼用であり埋没させると通風できなくなる為)屋根構体をごっそり取り換えており形状が変わってしまった。
冷房電源は車掌室の片隅に置いた小型発電機から供給される。
のちに改造されたヨ48001では改造費低減でキロ28用の箱型キセを屋根に埋没させて取り付けており、通風のためのガラベンが残されている。
541:名無し野電車区
25/02/23 00:41:16.50 t187CtEj0.net
>>540
そんなの家庭用クーラーで事足りそう
542:名無し野電車区
25/02/23 17:42:48.40 gJADC4gx2
京成1600形電車
京成電鉄が所有していた電車で、当初は「開運号」専用特急形電車であり、更新後は一般車両として使用された。
1953年(昭和28年)に先頭電動車モハ1601-1602と中間付随車サハ1651の3両編成で登場、
翌年にかけて4編成、モハ8両とサハ4両が汽車製造東京支店で製造された。
1968年(昭和43年)に先頭電動車のモハ8両が帝國車輛工業で新造車体に更新、
中間付随車のサハは津田沼第二工場で解体された。
全長18m級、車体長17.500m、全幅2.750m、全高4.200m、自重31.6t、
正面2枚窓の「湘南タイプ」の前面を持つノーシル・ノーヘッダーの流麗な車体を持ち、
室内もデパート風の扉や壁を利用したショーウィンドーなどのアイデアを生かしたデザインとなり、
さらに簡易リクライニングシートを採用、なお流麗なボディではあるものの、
高性能車輌が出現する直前に登場したこともあり半鋼製であり、駆動装置は吊り掛け式で、
主電動機は600形と同じTDK-553、制御装置は手持ち品のES-516-B、台車はKS-104Aを装備、
パンタグラフは運転台側に搭載され、便所は中間付随車の両端、一次・四次側に設置された。
543:名無し野電車区
25/02/23 17:59:01.42 gJADC4gx2
1966年(昭和41年)からは2編成を繋いだ6両編成で運用されたが、
1967年(昭和42年)に3200形セミクロスシート仕様車(3291 - 3298)登場で特急運用を離脱、
離脱後も夏季臨時運用や貸し切り運用などにあたっていたが、
前述のとおり吊り掛け駆動・一部半鋼製であり、機器の老朽化もあって、
1969年(昭和44年)に通勤車に更新される事が決定、車体は青電と同じく片開き3扉となったが、
鋼製では無くアルミ車体(1D4D4D1)が載せられ、アルミ無塗装に青帯を配した。
この更新で不要となった旧車体のうち先頭車の二輛、1601—1602は谷津遊園(既に閉園)に保存、
閉園後は京成に返還され、宗吾車両基地で静態保存されている。