24/01/26 21:31:35.76 +pWwuPTW0.net
関東大震災の発生した1923年、大正12年は野田線にとって記念すべき年
同年、京成電氣軌道創業者本多貞次郎翁の手により北総鉄道船橋線柏~船橋間が開通するとともに、千葉県営鉄道野田線は北総鉄道に払い下げられ、北総鉄道野田線となる
野田線南半分の完成である
北総鉄道の業績は好調(←ここ大事)だったため、さらに野田町~大宮間の路線延長と、野田線全線の電化が企画され、大正15年に免許を得て資本金の増資を計画
この増資分5万株の引き受けを巡り、本多翁と野田醤油側が対立
結局、京成本多翁は退陣
京成系の北総鉄道大宮線として計画された北半分は、結局、総武鉄道大宮線として開業、経営は一旦、野田醤油の手に渡ったのである
その後は、戦場措置により、単に粕壁で交差するに過ぎなかった東武鉄道に吸収され、全線一括で野田線とされ、
どうでもよいものはゴミ袋に一切合切まとめて放り込まれたような扱いとなってしまったのである (無念
戦前の東武初代根津嘉一郎翁は昭和15年に逝去、後事を託した吉野社長も間もなく急逝、結局、藤太郎が社長となるも、野田線や東上線なんぞ乗ったことないから何にも分からん、
事業にはリスクが伴う、
無駄な投資はしない
と、放置すること50年
国鉄出身の内田社長が 3000系5000系アコモ車の一掃を命じるまで、シャビーな電車が走る運命となったのである (無念