23/08/05 09:34:45.40 9SNgi00L.net
したがって、咎(とが)めとして行使されるものとされる
「暴力」の実効性が、人々の集団として力関係の優位性
に依存する限り、ま(真)こと(言/事)」の人にとっての
「絶対性」は、つねに暫定的である「相対的な絶対性」
でしかあり得ないのである。そして、そのことは、
人々が集団として「神」を絶対的な上位の審級として
認めることにしたところで何も変わらない。
214:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/05 10:40:23.65 9SNgi00L.net
「相対的な絶対性」とは、すなわち、
「『ま(真)こと(言/事)』をともに誓ふ」ことが成立しない
相手、互いにとって「絶対的」であるとされる上位の
審級の存在者を認めない相手は、「人外」の、または
「人未満」の存在者と見做して、それ相応に扱ふことが
許されるものとされる、ということである。
このことは、歴史上の宗教的な「暴力行為」を正当化
する論理として働いていただけでなく、現代の
「民主主義制度」に基づく政治体制をとっている
とされる社会においても同様の論理として働きつづけている。
現代では、人だけでなく、他の生き物の権利も認める
ようにしようという「アニマル・ライツ」のような
思想も提唱されているではないか、と言はれるかも
しれないが、私には、そのような思想の提唱は、
かなり露骨な「奸計」であるようにしか見えない。
なぜなら、「人外」の、または「人未満」の存在者と
あらかじめ一般に認められている相手に対して「人権」
を付与することは、原理的に不可能だからである。
むしろ、そのような思想の提唱は、その実現不可能な
ことを人々に突き付けて露骨に要求することにより、
人々が依拠している「相対的な絶対性」の「相対性」
を隠蔽して、それを単に「絶対性」なものとして
認めるように人々に迫っているのである。
215:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/05 10:47:08.68 9SNgi00L.net
ところで、「相対的な絶対性」においても、
互いにとって「絶対的」であるとされる上位の
審級の存在者は、それが主権者として表象される
「国民」であるにせよ、「世界市民」であるにせよ、
「人類」であるにせよ、あるいは「神」や「自然」
であるにせよ、それが「存在者」とされる限りで、
つねに「人外」の存在者なのである。
216:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/05 10:50:34.29 9SNgi00L.net
誤:それを単に「絶対性」なものとして
正:それを単に「絶対的」なものとして
217:生理的に有理
23/08/06 09:09:44.60 enORnXS7.net
>理(ことはり)というのは、最初にある
ものではなく、折り合ひをつけた結果
、"moderation"/»Mäßigung«により
もたらされた"modesty"なのです。<
「生理的に無理」という表現について考へて
みよう。「生理的に無理」とは、一般に、
「みづから(身づ柄/自ら)の身体的な感覚として
受け付け難い」ことを意味するように用ひ
られているだろう。つまり、「生理的に無理」
とは、言い換へるなら、「それ」が何である
とされるにせよ、「それ」を「みづから
(身づ柄/自ら)が受け付けるように『折り合ひ』
がつかない」ことを意味していると云ふ
ことができる。
218:生理的に有理
23/08/06 09:17:34.36 enORnXS7.net
例えば、一般に、人にとって大豆を生で食べることは、
「生理的に無理」である。
>未加熱の大豆には消化酵素「トリプシン」の働き
を阻害する物質「トリプシンインヒビター」が含まれて
います。 そのため未加熱の大豆を摂取すると
消化不良を起こすことがあるのです。 加熱をすることで
トリプシンインヒビターは壊れ、働かなくなります。<
(出典 kikkoman.com/jp/kiifc/information/old/rp20121218.html)
しかし、それを加熱したなら、一般に人は大豆を食べる
ことができるようになるだけでなく、人に好んで食べられる
食料となる。つまり、生のままでは人にとってそれを
食べることが「生理的に無理」である大豆も、加熱したなら、
それを「みづから(身づ柄/自ら)が受け付けるように『折り合ひ』
がつく」ようになる、つまり、「生理的に有理」となる。
219:生理的に有理
23/08/06 09:24:21.47 enORnXS7.net
ところが、加熱して「生理的に有理」となるように大豆
を煮た場合、煮てからしばらくの間は、確かに
「生理的に有理」となるが、そのまま放置しておくと、
見た目でもすぐに分かるほど様々な菌が大量に繁殖して、
それを食べると消化不良を起こす可能性が高まり、
それを食べることは、ふたたび「生理的に無理」となる。
220:生理的に有理
23/08/06 09:47:17.58 enORnXS7.net
「折角(せっかく)」、「生理的に有理」となるように大豆
を沢山煮ても、その機会に食べられる量を超えて残って、
ふたたび「生理的に無理」となってしまうのは勿体ない。
人々は、そう感じて、どのようにかして、煮た大豆を
「生理的に有理」なままに長期間、保つことができない
か、いろいろ工夫を試みたのだろう。その結果、煮た
大豆を藁に包んで比較的安定した温度湿度環境に置いて
おくことで納豆が作られ、また、麹と塩を加えて甕に
入れておくことで味噌が作られるようになり、
無為に放置しておけば、「生理的に無理」な状態に
なってしまう煮た大豆を、より長期間にわたって
「生理的に有理」に保つことができるようになった。
さらに、人々は、煮た大豆がどのような作用/働き
により納豆や味噌に変化するのか、その詳細について
はよく知らなかったものの、それでも、それが
人の意図だけではもたらすことのできない、
何らかの「他者の作用/働き」のお陰で可能になって
いることは、つねに明確に意識していた。
221:生理的に有理
23/08/06 10:02:23.35 enORnXS7.net
この例に限定されず、「生きる」とは、一般に、
事象が、「みづから(身づ柄/自ら)」にとって
それを受け付けることが「生理的に有理」となる/
「折り合ひがつく」ようになるように
「他者の作用/働き」を利用することにより
成立している。例えば、人は、腸内細菌という
「他者の作用/働き」がなければ、
「みづから(身づ柄/自ら)」が生きることも
かな(適)はないだろう。
人々が集団組織を形成するのも、人それぞれが
「みづから(身づ柄/自ら)」にとって「生理的に有理」
となる/「折り合ひがつく」ように「他者の作用/働き」
を利用することができる状態の、安定した
「相対的な絶対化」をもたらそうと努めている
からである。
222:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/10 14:28:47.77 svQgqtJ2.net
一般には、哲学は、日常言語における表現とは異なる
抽象的な概念を駆使して物事について考へる専門の
学問であると思はれている。したがって、哲学者と
して名の通っている著名な人物が用ひた「概念」
を学んで、それを使って物事について語ることが
できるようになったなら、哲学をしていることになる
というのが、一般に通用しているイメージだろう。
しかし、ここには、哲学することそのものを
ひどく妨げる根本的な誤解がある。確かに、
哲学しようとするなら、概念化した表現を用ひる
ことが求められることになるが、ほとんどの人は、
概念化するとは、どのような行為であるのか自覚的に
理解できていない。だから、多くの人々は、「哲学
用語」と見做されている既成の概念を物事に適用して
みせることが、哲学することであると思い込んで
しまうのである。
223:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/10 15:19:30.31 svQgqtJ2.net
こういうことは、具体例から考へてみたほうが分かりやすい。
例えば、以前から私は、日本語の「~が」という表現は、
「発話遂行的に同一性を確立する」ように用ひられると
指摘してきた。これは、私自身が「~が」について
哲学的に考へるために用ひた概念化の一例である。
しかし、日本語の「~が」は、日本語学/国語学において
一般に「助詞」という概念により、また、さらには
「格助詞」という概念により分類されて、例えば、
「が - ウィクショナリー日本語版」のサイトに記載
されるとおりに説明されている。
>助詞
格助詞
体言の後などに付いて文節を作り、その文節がそれを
受ける文節との係わりにおいて主格であることを表す助詞。<
224:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/10 15:51:18.86 svQgqtJ2.net
したがって、いくら私が、日本語の「~が」は、
「発話遂行的に同一性を確立する」ように用ひられる
表現であるという「概念化」を「独自に」示したところで、
大多数の人々は、「何を意味不明なことを言っているの
だろう。『が』は、日本語の文法で「助詞」として分類
される言葉で、その文法的な機能以外に「言葉としての
意味」があるはずはないじゃないか」といった類の
反応をすることになるだろう。そのような人々に
とっては、まず「名詞」、「動詞」、「助詞」、
「副詞」といった既成の概念が確定したものとして
存在して、日本語の言語表現について考へるとは、
そのような概念に言葉を「正しく分類する」こと
であり、「~が」を「助詞」という既成の概念に
分類すること自体が、「~が」を「『助詞』として
概念化する行為」であることには思ひが及ばず、
ましてや、「『助詞』として概念化する」とは
どのようなことなのかについては、そのように
概念化することがどのように役立つのかを検討する
以前に、何が問はれているのかすら思ひつかない
ということになる。
225:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/10 16:25:27.18 svQgqtJ2.net
私にとって哲学することは、云はば、事象が
「生理的に有理に」うまく「を(収/治/長)さまる」
/「まとまる」ようにしようとするこころ(試)み/
(心観)であるが、事象を既成の概念に「分類」
しようとする行為は、それとは逆に、さらに
複雑で細かい分類を次々に派生させることになる。
実際、日本語学/国語学における「助詞」の分類
の説明を参照してみるといい。事例を「~が」だけに
限定しても、夥しい数の細かい分類を派生させる
ことになっていることが分かるだろう。日本語の
「助詞」という概念全体でみれば、その説明的な
記述は、日本語学/国語学の「専門家」ですら、
それをすべて把握していることが困難なほど、
その分類は、複雑で細かなものとなっているの
ではないかという印象を私は受ける。
しかし、哲学において、概念化することは、
次々により細かく明確に規定された概念に事象を
分類して整理していくことなどではない。
例えば、私が、日本語の「~が」は、「発話
遂行的に同一性を確立する」ように用ひられる
表現であるという「概念化」を示すとき、
私には、ドイツのTVドラマを観ているとよく
耳にすることがある»Mann, Mann, Mann...«
という一般に「間投詞」と分類される表現と、
日本語の「~が」は、言語表現として同様の機能を
担っているように見える。
> ⸨話⸩ ⸨間投詞的に⸩ まあ, おや
~ [Gottes]!|⸨怒り・警告⸩ なんてことだ,なんだって.
Mein lieber ~!|⸨驚き・不快⸩ おやおや, なんてことだ.<
(出典 kotobank.jp/dejaword/Mann)
このような「まとめ方」は、日本語学/国語学の
「専門家」にとっては、普通は、まったくナンセンス/
意味不明であると受けとめられるだろう。ところが、
学問としての「哲学」の専門家も、「概念」を
日本語学/国語学の「専門家」にとって「文法的な分類」
とさして変わらないようなものとして理解して、
日々、研究に励んでいるように私には見える。
226:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/10 16:44:52.61 svQgqtJ2.net
例えば、間投詞とされるドイツ語の»Mann«についてなら、
ドイツ語を母語とする専門家に訪ねてみれば、それが
どのような表現なのか明確な応へが得られるはずで
あると思っているような「専門家」は多い。しかし、
私には、一般には、そのような期待を頼りにすること
には無理があるだろうと思う。それは、日本語の
「~が」について、日本語を母語とする「専門家」に
尋ねたなら、それは「主格」を示す「格助詞」で
あると、まず説明されて、さらに追及しても、次々に
事例の分類が細かくなっていくのと同様である。
ドイツ語を母語とする専門家がそのような説明は、
しないのだから、»Mann«は、「発話遂行的に同一性
を確立する」表現であるなどと、ドイツ語の初歩
すら教育を受けたことのない私が勝手に主張しても、
何の信憑性もないだろう。それでも、言語間の
対応関係を考えるなら、ドイツ語のこの間投詞
として使はれる»Mann«が、英語では、やはり
間投詞として使はれる"My!"に対応することは、
誰にも否定しようがないだろう。
>Etymology 2
An abbreviation of an oath such as my word or my Lord
Interjection
Used to express surprise, shock or amazement.
My, what big teeth you have!<
(出典 en.wiktionary.org/wiki/my)
ところで、間投詞ということではなく、単に"my"
として考へれば、"my"に対応する中国語の漢字は、
「我」であり、これは、古代から日本語では、
「が」と読まれる。
227:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/10 17:25:14.83 svQgqtJ2.net
「そんなことは、偶然合致しただけ」、そう思ふだろうか。
英語の語源説明ですら、この間投詞の"my"は、
"my God!"や"my Lord!"の省略から生じたのではないか、
と説明していて、それが、「発話遂行的に同一性
を確立する」表現であるなどとは説明していない。
> As interjection, by 1825, probably a shortened
form of my God!<
(出典 www.etymonline.com/search?q=my)
しかし、私には、私独自の「概念化」が妥当であるという
確信がある。なぜそこまで確信があるのかと言えば、
それは、その妥当性を表現の用法そのものが示して
いるからである。例えば、この間投詞とされる
ドイツ語の»Mann!«や英語の"My!"に置き換へて、
日本語の「本当に!」や「まった(全)く!」を代入
してみるといい。多くの場合、ぴったりと当てはまる
だろう。さらに、ここで、次のような会話を想定
してみるといい。
>人物A: 「明日また来るよ」、人物B:「本当に?」、
人物A:「本当に」<
この最後の人物Aの発言は、「私『本当に』来るよ」
とさらに言ひ換えることもでき、この「本当に」
が「~が」に対応する発話遂行的な同一性の確立
の役割を果たしている。つまり、「来る」=「来ると発言
した私」である。さらに、この「本当に」の意味合ひ
で頻繁に使はれるのが、まさしく「同一性」を
表現するポルトガル語の"mesmo"である。
>❹ 本当に
Você vai mesmo para o Brasil?|あなたは本当にブラジルに行くのですか
― É mesmo? ― É isso mesmo.|「本当ですか」「本当です」
(出典 kotobank.jp/ptjaword/mesmo)
228:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/10 17:39:17.29 svQgqtJ2.net
これでも、まだよく分からないというのであれば、
例えば、日本語の「この愚か者が!」という表現を
考へてみるといい。これは、その言葉を向ける相手
を「愚か者そのもの」、「本当の愚か者」として
発話遂行的に同一性を確立する発言だろう。
また、
>mesmo
プログレッシブ ポルトガル語辞典(ポルトガル語・
日本語の部の解説<
(出典 kotobank.jp/ptjaword/mesmo)
の記述と、
「が - ウィクショナリー日本語版」のサイト
の記述をよく比較してみるといい。多くの共通点を
見つけることができるだろうと私は思ふ。
そして、私にとって、そのことには何の不思議もない。
なぜなら、私自身は、以前からそう指摘してきたとおり、
日本語の「~が」の「が」は、まず間違いなく、
中国語としては「我(Middle Chinese: /ŋɑX/)」として
使はれた表現(出典 en.wiktionary.org/wiki/我)の、
「同一性」を表現するものとしてピジン語的に解釈
された「日本語」として流用だと考へているからである。
229:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/11 09:58:54.81 J4OKWYXy.net
誤:「日本語」として流用
正:「日本語」としての流用
230:ににんがし
23/08/12 00:37:12.19 g9QERiOX.net
それはそうだ『が』
Ancient Greek
>ὅμως • (hómōs)
nevertheless, yet, all the same
Etymology
From ὁμῶς <
>ὁμῶς • (homôs)
together
equally, alike<
(出典 en.wiktionary.org/wiki/ὁμῶς#Ancient_Greek)
231:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/12 06:37:54.90 g9QERiOX.net
語学の学習に「文法」を勉強することが重要である
かどうかがよく議論されることがある、というより、
それが議論されるとき、ほんとんどの場合は、
いかに「文法」を教へる/学ぶことが疎かにされて
いるかが問題にされ、いかに「文法」を教へる/
学ぶことが大切であるかが説かれているといって
いい。しかし、その際、そもそも「文法」を知る
とは、いったいどのようなことであるのかが
議論されることはなく、一般に、「~が」の「が」
は、「助詞」に分類され、さらに「格助詞」として
分類されて、「主格」を示すように用いられる、
といったように、文法用語とされる既定の「概念」
とそれに合わせて表現を分類する、またはその
概念を表現に適用してみせるようなことが、
「文法」を知ることであるとされ、そのように
既に了解している(つまり、「そのように考へる」
のですらなく)ことが当然の如くに前提とされて
いる。このことは、すなはち、表現の用法を
概念化しようとする姿勢の「あらかじめの排除」
に他ならない。「文法」を教へる/学ぶことの
目的が、言葉の用法を身につけることにあると
すれば、これ以上に奇妙なことがあるだろうか。
232:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/12 07:01:27.20 g9QERiOX.net
「文法」を教へる/学ぶことの大切さが説かれるとき、
そこで忘れられているのは、そもそも、文法用語
とは、「概念」であり、概念化の取り組みによって
もたらされたものであるということだ。
それが、概念化の取り組みによってもたらされた
ものであるなら、他の概念の場合と同じく、当然、
そのように概念的にとりまとめることが「どのよう
に」、「どれだけ」有効なのかが問はれなければ
ならない。
233:名無しさん@お腹いっぱい。
23/08/12 09:37:10.08 g9QERiOX.net
様々な表現を、みづから(身づ柄/自ら)に生理的に有理に
つか(使/仕)ふにあた(能/価/値)ふようにすべく、
それらが互いにうまくをさ(収/治/長)まりが
つくよう概念化できることが、文法を適切に
し(知/識/領)ることである。