24/03/05 15:40:10.32 DiAGG02P0.net
役員信者の大半は開祖派ですから、王仁三郎の霊力や実務能力は認めざるを得ないものの(王仁三郎がいなくなると、教団が維持できないという現実がある)、王仁三郎が改心しなければいけないということを名目に、妨害や迫害を続けました。
最終的には、大正5年の「神島開き」のとき、神様から開祖に王仁三郎の神格(ミロクの神=救世主)が示され、なおが王仁三郎の権威を認めることになります。漢字を使ってはならないというお筆先を王仁三郎が漢字仮名交じりの文に改め、『大本神諭』として発表する権限を持つようになったのも、これを根拠としています。
しかし、これに不満を持ち、内心認めていなかった開祖派の人も少なくありませんでした。その代表格がなおの三女である福島ひさです。
ひさは八木(現在の京都府南丹市八木町)に住んでいたので、ひさを中心とする人々は八木派と呼ばれ、今では単に王仁三郎に反対した異端という位置づけですが、当時はかなりの影響力を持っていただけではなく、大正初期の大本の発展に寄与した軍人や知識人(その代表が浅野和三郎)の入信も、彼女らの活躍によるところが大きかったようです(因みに、王仁三郎が綾部に来るに当たっても、きっかけを作ったのはひさでした)。
ひさを中心とする人たちは、開祖のお筆先が絶対で、自分たちこそ開祖の教えの忠実な継承者であると考えていました。王仁三郎がいなければ大本が維持できないことは理解していても、開祖を超える権威を持つことには我慢がならなかったはずです。
まして、融通無碍で奔放な王仁三郎は、生真面目さを美徳とする開祖派の人たちから見れば悪の身魂としか見えません。その立場から、あくまで王仁三郎に改心を求めたわけですが、改心するどころか、お筆先を封印し、勝手に『霊界物語』などという怪しげなものを出し始めたのですから、許し難いと思っていたでしょう。