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一応、地の意識を十分に受け継ぐ者が、極東の血に、数人(2~3人以上はいる)が
誕生した。そして、それまでもいた(チェロキーインディアンのワンネスの思想を
受け継ぐ人たちとか)。ある程度の数になった、意識が少し変容した。
しかし、たいして変わらないともいえる。
イエスはダメであるが、キリストなら許すだろう、ということで、
キリストの名において、秋田のファティマの女神像の涙から、緑の石の改革を
行うこととする。これが今、決定された。
ミドリの石=馬と話す女(これはマグダラのマリアのことであったが、今は、
今の時代では、地の民と共に秋田と戯れるマリア像であると仮定する)、そして、
この女が、巾着袋に、その緑の石を入れる。なぜ入れるのか、それは、マリアは、
なにが欲しいのか、容易にわかるからである。
地と共に、いえ、まずは、地が安心する、そういう意識に支えられた文明を
築く(気づき)、そして、その上で、生の喜びを謳歌、いえ欧化してきた文明の
愚かしさを嘆くのではなく、許し、そして、むしろ逆に、欧米人に問う。
何が必要か? そういう民がいてもよいのではないか。
そうではないものはどうするか、と問われれば、こう答えよ。
来るもの木庭舞わない。彼はいらぬ。おちるな。ゆらぐな、それが条件ぞ、と。