17/02/02 03:32:43.26 DXIDeU1Y0.net
>>447
日頃、社会や生活の中で祈る時は、「人もよし、我もよし」とお祈りしてると思います。
それは、目標や発願があっての祈りでしょう。
それも必要ですが、それだけでは、だんだん我や欲心や執念が出て、祈りに「澄み切り」が足りなくなってくるのです。
もちろん、感謝や発願の祈りも大事です。
しかし、「利他の祈り」や慈愛に徹する「母性の祈り」に徹したとき、澄み切った愛念や御魂の輝きを取り戻せるのです。
また、そこに飛び込む勇気、度胸、捨て身、根性、粘り、忍耐がないと、荒魂の発動がなく、御魂の霊威や威光が輝きません。
この時にこそ、守護霊団が加勢し、神仏の篤きご守護がさずかるのです。
少なくとも、困難な事にチャレンジする気概がないと、荒魂は全く発動しません。
この二つがエンゼルや菩薩、如来、正神界の神々、また正神界の龍神やご眷属の共通する精神なのです。
そこに、天来の叡智が星降る如くやって来ます。
だから、この神霊たちと神人一体となるには、その方々と同じ心、同じ志、同じ意識にならないと、一体にはなれません。
少なくとも、できてもできなくても、そこを目指す志がない者は、神仏から見れば遠い存在です。
すなわち、俗人、平凡人、小市民、永遠の中有界の御魂です。
守護霊から見れば、もどかしい「木偶の坊(でくのぼう)」、「腑抜け(ふぬけ)」、「根性なし」、「バカ者」、「あほか」です。
つまり、守護霊が加勢し、神懸かるのに値しない、「情けない奴」なのです。
私はこれを、15才から何万回もしごかれてきたのです。今日に至るまで、それは変わりません。
その私から見れば、全ての会員はふがいないのです。神仏も同じ思いで、私に託して、人をじっくり育てているのです。
ところで、時間と費用を使い、仕事や家庭のやりくりをして、はるばると神事会場に来て、自分以外のことを祈るのは、
この世的にみればバカみたいなことです。しかし、神様の目から見ると、それは神々の世界の住人が普通にしてることです。
すなわち、地上の天人や生きてる菩薩なのです。
生きてる時に、地上の天人や菩薩になれない人が、死んで神界や天界に住む事はできません。
だから、また生まれ変わって修業をやり直すのです。