14/10/27 17:04:04.14 DwhwoRJR0.net
カントは、いろんなものを「批判」したわけだな。
1790年代には、処女懐胎、三位一体、原罪、奇跡、復活などを人々は信じていたわけだな。
それらを批判するというスタンスだ。
俺は個人的にはトマス・アクィナスのように「昨日出来なかったことが今日出来る」ことにも神はあると思っている。
カントが高度な学問を身に付けていくにつれ神を批判できなくなるわけだ。
ありきたりな表現だが、「知識の限界に信心深さがある」とカントは言っている。
これに対して、新カント派が、「知識も神によって与えられるものだ」としている。
カントは超越論的理想主義に宗教の根拠を求めた。
「超越論的」というのは「大きすぎるもの、小さすぎるもの」という意味だが、宇宙論がそれに当たる。
カントは、人間の経験には限界があり、大きすぎるもの、小さすぎるものも分からなければ死後の世界も分からないと考えたが、
それらの世界に人間が入っていく現実的な可能性(リアルポシビリティー)があるとした。
純粋理性批判は「ウチ」の法則で、実践理性批判は「ソト」の法則だが、ソトは未知なるものに溢れており、ここでカントの宗教哲学と、
彼の批判哲学は結び付く。
人間は、「知識」「意見」「信心深さ」の三つをもってこの未知の世界と向き合う。
信心深さというのはお互いに議論が可能だ。
知識も意見も議論が可能である。
道徳のレポートで書いたように、経験、趣味、宗教が人々に共有可能であり、それが自分を自由にする。