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波照間島
波照間島では、1945年2月、クズ酒井喜代輔軍曹(中野6期戊種)は山下虎雄の名で小学校の代用教員として潜伏。全校生徒250名の4年生の担任となり、
青年学校の柔剣道教師を兼任した。その後、石垣島司令部より波照間島に米軍の上陸が予想されると、「全島民を西表島に疎開させ、その後建造物一切を焼却し、
井戸を埋没して使用不能にせよ」との命令が出された。
住民たちはマラリア発生地である西表島への疎開は困難であると何度も訴えたが、
山下は一変して中尉を名乗り、疎開を受け入れない一部の住民には軍刀で脅すなどして、
全島民を西表島へ強制疎開させた。その際、波照間の豊かな家畜資源2,000頭あまりの牛馬、
羊や豚や鶏などを住民に命じて殺処分させ、日本軍の食料として鰹節工場で燻製にさせて持ち去った。住民はマラリアの流行る南部地域に移住させられたため、
由布島に移住したもの以外はマラリアにかかることとなり多数が亡くなった(戦争マラリアの項も参照)。戦後の山下は滋賀県で工場を経営していた。
生存者の中には「今でも会ったら殺してやりたい。」と述べる者がおり、山下が戦後訪れた際には各団体から正式に抗議を受けるなど恨まれている。