17/11/24 02:54:54.89 zaV6eD5Ma.net
人間が生き物であるという事は、即ち野生由来であることを意味する。
邪念も邪心もわいて当たり前であり、時に人に非る非行を起こしうる危惧があるのは、DNA自体が野生由来である以上致し方無いのである。
性としてどうしようもない事もあれば、またどんなに内省しても湧き上がる感情やら抑えの効かない衝動やら気性もまたそれにあたる。
更に言うのであれば、これからの人生においてもまた大いにそれらの邪念、邪心、衝動、気性は自分を迷わせる問題となるであろう。
そこはこれからも変わらないのだ。
その性からはどうにも逸脱出来ない運命を背負った我が身であるならば、もはや上手く付き合うしかないのである。
遺伝子の起こしうるバグ。遺伝子の非合理生は誰にでもあるのであるから。
もはや楽しんで遺伝子の非合理性と付き合うしかないのである。私はそう解釈した。そうすればもぅ悲観なんかないじゃ無いですか?
敵を知り己を知れとの言葉があるが、我が身の行動原理もよく分からない様ではいけない。
我が身の遺伝子の非合理性とは楽しんで向き合え。
直ぐ匙を投げるなんてのは、全く何の意味も無い。それにより悲観して落ち込む事は、最もバカげたことだ。
いつしか意思をもって、衝動なり邪心なりを上手く支配できたら、彼らは力になってくれるものだと思っている。実は武道の思想の中にはそれを理解した軌跡やら布石があるから面白い。
だから柔道の名言に『柔よく剛を制す。』があるがアレは本当だ。身体の仕組みを上手く理解して、重力の移動を理解しているものは、必ず勝つ。
衝動や気性、邪念や邪心と上手く付き合うのだ。無理に邪心や衝動、気性に蓋をしようとする大人が居るが、あれは全くダメだね。
そんな事出来っこない