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5月23日 5月19日号掲載【第11回】
終戦後、朝鮮人を利用して勢力を拡大した共産党 党史には書かれない“不都合な真実”
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終戦当時、組織も資金もネットワークもなかった「日本共産党」は、その活動の多くを「在日本朝鮮人連盟」に負っていた。
だが、両者の力関係はほどなく逆転する。党は、朝連の朝鮮人に入党して日本人とともに活動するよう要請し、
事実上、指揮下に置いたのだ。
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在日本朝鮮人連盟(朝連)の創設メンバーだった張錠壽は、こう書いている。
「解放後になってから共産党員になった。... 朝連でもはじめは日本にいる朝鮮人は全部入るということになっていたから、
民族反逆者であっても誰でも受け入れた。日本共産党もそういう形で、...みんな入れたわけだ」...
朝連と日共の関係
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公安調査庁の坪井豊吉は、1945年12月に開催された日共の党第4回全国大会について、「このときの経費の大半は朝連の献金
によったよう」と書き、徳田球一ら5人の共産党員が当選した翌年の総選挙でも「朝連から日共にたいして積極的な資金援助や
実力援助がおこなわれた」(法務研究報告書)としている。...
1946年2月15日、日共と関係の深い朝鮮共産党が中心となって左派勢力が結集、ソウルで朝鮮民主主義民族戦線が結成された。
朝連は2月末に開催された第2回臨時全国大会(2全大会)で、それに加盟することを決定する。この戦線への参加が朝連と日共の
関係を決定づけていく。
「このころまで、朝連は一応日共の指導をうけている形とはいえ、その実力と行動では、常に党朝鮮人部と朝連が一体となって、
日共をリードしてひっぱっているようにみられた」(坪井・同前)
一体となって活動するよう要請
だが、この2全大会以降、朝連内には共産党のフラクション(分派組織)が置かれ、朝連幹部に日共党員が配置されるようになった
のだ。この時、徳田球一らと府中刑務所に収監されていた朝鮮人共産党員・金天海が朝連の顧問に就任する。
すでに日共では前年12月の第4回全国大会で内部に朝鮮人部を設立し、徳田球一、志賀義雄、袴田里見に次ぐ序列4位の金天海が
部長に就任、朝連を革命運動の一翼と位置付けていた。