15/08/26 17:44:48.79 .net
前掲、もと編集局員氏の「狂おしく・・」よりの引用続き
解放戦争としての総括軸対革マル戦を「解放戦争」として総括しようとする時、多くの壁が立ちはだかる。
第4インターへのテロを頂点とした、力による他党派・無党派への圧迫、これは釈明できない。
次に「生と死」の問題。「完全せん滅」(殺人)の重さ、その目的意識的追及―その事実から目を背けることは出来ない。
70年の海老原事件は、意図せざるものだったが、革マルの好戦世論を引き寄せた。中核派の中に、「内ゲバ主義」への嫌悪と動揺が広がる。
もちろん、辻・正田同志の虐殺や、本多さんの虐殺への怒りをもって、この事件を相殺する事は根本的な詰まりだ、今、私はそう思う。
「生と死」、人のあらゆる可能性の全抹殺という事の前に私たちはたじろぐ。私はこの意味を「戦争をもって戦争を養う」という視点から解明
してみたい。革マルの死の問題は措こう。問題は中核派側の対応にある。中核派は、「殺す意図は海老原事件では無かった」とのみ声明した。
沖縄の比嘉事件では、最後まで誤爆の死であることを認めなかった。私は思う。除名を含む処分、軍法に則り、処分は厳正でなければならない。
弾圧・長期投獄によって代替する事も許されない。軍の規律・モラルなしに解放戦争はあり得ない。もちろん、「一部の未熟分子」への責任転嫁
も許されない。その責任を、党自らのものとして、共に荷うべきなのだ。指導の重心・組織・財政その全てで、苦しみを共有するべきだ。
「謝罪と賠償」は不可欠だった。障壁になったのは「革マルに謝罪するのか?」、「軍がもたない」だったろうか。救対は、その重みを荷うに足る
ものだったろうか?指導は共有したろうか?この問題を避けた結果、恐るべき「モラルの崩壊」が起こってしまった。精神が萎縮する。
「負け戦の中でそんなの空論」だろうか?では問おう。いつなら出来たのか?いつやったのか?誤爆事件への唯一つの自己批判があった。
74年、在日女性への襲撃、この時は『前進』紙上でも明快に自己批判し謝罪した。