21/05/05 02:38:42.54 .net
空想で他者を埋めるのか、他者自身で他者を埋めるよう努力するのか、
それはもう好みというか信念の問題です
そうだな、K-3さんにひとつ書こうと思っていたことがあった
オレはかつては、自分がなにも知らないまま死んでいくということが怖かった
なんにも自分にはわからない、なぜ自分が生まれたのかもわからないし、
なぜ自分が彼らと知り合い、理不尽な目に遭ったり、楽しいことがあったり、
人を好きになったり、別れてしまったりしたのかわからない
自分の夢はかなわず、誰かの夢はなぜかなうのか、わからない
このなんにもわからない状態で死んでいくというのは、ほとんど屈辱なことだと考えていた
まあしかし、いまはそうでもない
うちは暖かくなるとハンモックを出すんだけれど、ハンモックに娘姫を抱っこして寝ていると
大人より熱い彼女の体温と完全に自分の身体の重みをゆだねてくれていることに安心する
自分の肌を通して感じる彼女の重みというのは、体重計に表示される数字とは違った価値をもつ
仮に、なにもわからないまま死んでいくという情況が急に自分に訪れたところで
その熱と重みを思い出せば、きっとそうはがっかりしないで死を済ませられるように思える
経験や体感というのは、自分の空白を埋める
他者と自分の間の空白もちゃんと埋めてくれる
以前の自分といまの自分の違いは、より深く経験主義者になってきたということだと思うし
それは、もうあと数年で70にもなろうとする歳にもなれば、
自分にいつも寄り添っているのを生々しく感じざるを得ない死ゆえであろうとも思う
空想では肝心なものは埋められないという信念が
ここ数年、オレがよく学んだことです