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2017年12月30日
いろいろあったよなと思いながら自分の8年にわたるTwitterを思う。
良い出逢いや考え方をもらえたのはいいことだけれども、反面自分のTwitterが非公開にしても2とか5とかに監視されていると思うと気持ち悪いとさえ思えた。
そうやって言葉やつながりを奪い取っていくんだなって。
それに何かに属していると言葉も思うように連ねることができないんだなという不自由さも感じた。
本名にしてもHNにしてもどこかで誰かが見ているんだと思うと怖さがあるし、つらいしんどいも言いにくくさせるんだなって思った。ネットって反復的に良いところもある反面、人の自由を奪うものでもある。
もちろん言葉について言えば自分にも非があるし、使ってほしくない言葉をぼやかして使うってことができなかったな。
覚えた言葉が悪かったのだろうか。誰かにイメージを汚す壊すとか言われたところでどんな言葉を使えば目の前のひどさやつらさを言えるのかを考えざるを得なかった。
確かにこの8年間は震災とかあらゆるヘイトとか向き合わざるを得なかったし、世の中がどんどん悪い方向に動いていくのをTLでまじまじと見てた。
その中で自分が発する言葉の遣い方が悪いと呼ばれる表現をしなければならないときは本当に言葉を選んだ。でも限界があった。
本当はもっと闊達な議論とかあってもいいけれど、140文字では言い切れないよ。もっと言葉を連ねなければならない。
だから確かにTwitterは議論向けではないけれど、そこから考えて自分が外に出る動きを作ってくれたのは確かだ。好きも不快も喜怒哀楽もあるが、それらを手軽に表現できた。
悲しいのは自分が自己主張と興味の振り幅が強く激しい人間であり、それがこの8年の間に分かった発達障害の部分もあるのかなってなんとなく感じる。
知らない他人が自分にどうこう言う言葉も目に入ればしんどかったし、そこで自分の気持ちを逆撫でされればそれはそれで怒りたかった。
自分を貶めたいがためにつながった人もいるだろう。それは鈍感な自分が悪い。実際それは自分が直面した。ただ非ばかりを論う人は愚かだ。
想像だけで人のことを言い続ける人は自分の何を知っているんだろう。Twitterだけではない自分がいるのに、自分のTwitterの言葉=自分とされてしまうのは悲しい。
自分の場合、勤務先や福祉事務所、自分の実家にも被害が及んだ。発した言葉は取り消せないけれど、こういうことがあっていいのかなって考える。
自分が責められるのは自分の非だけでいい。だけど今は被害に遭った人や出来事に罵声を浴びせる人が目立つでしょう?それだけ人の心がすさんでいる現実。
こうして世の中が「言葉でリンチしたい」人たちや悪い奴を成敗してくれるわみたいな不思議な正義感を持った人たちで溢れ返って、自分を是とするような歪な正義感で攻撃する。
見えない血がところどころで飛沫をあげているようだ。自分にとって2とか5にいるようなネット右翼のような人間は本当に敵。
だけど自分はTwitterの使い方が下手だったな。趣味や自分の興味に限定すればよかった。自分の気持ちを書くことでこんなにしんどい気持ちになるとは思わなかった。
世の中がこんなに気持ち悪くて、せめて平静でいようと思ったけれど難しかった。言葉は本当に難しいと思う。
2018年からは言葉と向き合うことを大事にして、自分の気持ちはアナログな部分で記すことから始めて、ずっとほったらかしにしていた創作ー詩とか作詞とか、
俳句短歌川柳コラム短文エッセイなど自分を言葉で表現することを目指してこれまでTwitterに時間を費やしていたぶぶんをこちらにシフトさせたい。
こんな世の中だから情報の取得や共有の部分ではTwitterが無いということで劣ってしまうけれど、フェイクやヘイト、理不尽を許さずに、教わりながらちゃんとしたリテラシーを持って言葉や表現を考えていきたい。
そして自分を大事にする。自己肯定感を持つ。言葉を学ぶ。Twitterが無くても順応する。
では、インスタ、FB、note、うたよみん、そして街のどこかでお逢いしましょう。 大晦日のお昼にはアカウントを消します。今まで自分の不安定な喜怒哀楽にお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
あおきりょう