08/10/07 14:14:19 YFUiyp11.net
>>705
亀だけど興味深いなと思ったので
この差っていうのは相手を人間と思ってるか、CPUと思ってるか、じゃないかな。
人間のマスター相手でいきなりNPC斬り殺す、なんてやるのはあまりに無礼だし
マスターがブチ切れてゲームが終わりかねん。
でもCPU相手だとそんな心配はないし、逆にこちらが気を使っても全く無視。
どうせ理解なんて望めないなら、自分勝手な欲望プレイを楽しむか、わざとムチャして
CPUの奇怪な反応を楽しむ方がおもしろい。
「自由」が思い通りになる事だとすると、まず「不自由」なもの、思い通りにならないもの
がないと「自由」と感じられないわけだ。
(例えば足が不自由な人は歩けるだけで自由と感じるだろうが、健康な人はそんな「自由」に
気付かないし感じない)
その上で、その「不自由」をどれくらい解消できるか、その落差が「自由度」ということになる。
「他人」はこの上なく思い通りにならないけど、理解し合う事で解消も出来る。
ものすごく「自由度」の落差がある。
だからプレイヤーもその理解を見越した上で「自由」を追求する。
「CPU」は思い通りにならない上に理解も望めない。
プレイヤーもそれを見越してるから、少しでも理解させようと攻撃的になったり、
無視できないようなムチャをやりたくなるんじゃなかろうか。
個人的に自由なゲームを作るポイントだと思うのは、プレイヤーの思考を制限する事だと思う。
>>707さんの言うように、下手に分岐があると想像力が解放されて、急に世界が窮屈になる。
ゲームの趣旨に沿う形でプレイヤーの行動を制限して、その中であれこれ可能性を考慮させる。
>>724さんのアイデアは、自然な形で行動が制限されつつ、その範囲で色々な選択肢を予感させる
という意味でかなりいいと思います。
逆に言えば、こういうフレームを必要とする辺りがコンピュータゲームの限界かな、と感じもする。
書きたい事書いたって感じですいません