22/01/05 10:08:26.21 0.net
じょぼじょぼ
2:名無しさんといつまでも一緒
22/01/05 12:11:32.65 0.net
立ちションすんな
3:名無しさんといつまでも一緒
22/01/07 12:44:55.97 0.net
死に方が悲惨な有名人
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4:名無しさんといつまでも一緒
22/01/07 12:45:50.67 0.net
香月弘美(かつき ひろみ、本名:小笠原 弘恵、1936年8月21日 - 1958年4月1日)は、宝塚歌劇団月組の元タカラジェンヌ(娘役・41期生)
神奈川県藤沢市片瀬出身。湘南白百合学園小学部、中学部の同級生で中学卒業後すぐ宝塚歌劇団に入った松島三那子の影響で、湘南白百合学園高等学校中退で宝塚音楽学校入学。
愛称は「ヒロエちゃん」。初舞台は1954年(昭和29年)4月の「宝塚春のをどり」。
5:名無しさんといつまでも一緒
22/01/07 12:46:47.25 0.net
事故概要 (中略)
松島はトランプの国の場が終わった後、早変わりですぐ次の役に扮しなければならなかった。
そのため、姿が客席から見えなくなるとすぐに体をふりほどき、相手役に「オーキニ」と言った後背を向け、セリが下がりきるのを待たず奈落に飛び降りて早変わり室に駆け込んでいた。
この日も飛び降りて三歩ぐらい走った時、「ヤメテー」という叫びがしたのと同時に
バリバリという音、何かが飛び散る音がした。
驚いて振り返ると、蝋細工の人形のように無表情な香月の顔と、衣装ドレスの赤い生地がセリのシャフトにからみついて回っているのがみえた。
この間一秒程度であった。
松島の衣装の背中には、血しぶきがかかっていた。香月の衣装ドレスにはすそを広げるための幅2センチ、厚さ1ミリのスチールベルトが腰まわり、ひざ、すその三カ所にそれぞれ直径約60センチ、70センチ、1メートルの輪になって取り付けられていた。
6:名無しさんといつまでも一緒
22/01/07 12:47:47.13 0.net
衣装ドレスの裾がセリのシャフトに巻き込まれたため、セリ台のワクの鉄製ベルトと舞台を支える鉄製アングルの支柱の間に足を挟まれたまま引きずり込まれ、腰まわりのスチールベルトが香月の胴を締めつけ、身体が真っ二つに切断され即死してしまったのである。(朝日新聞1958年4月2日)
しかし香月の切断部は衣装ドレスで覆われていたため、松島は香月が死亡したことを認識できなかった。
動転した松島は、「トメテートメテー」と怒鳴りながら、早替わり場にかけつけた。
次の場もあるので、とりあえず衣装をつけたが、その時香月が死亡したことを聞き、松島はその後の記憶を失った。
後に松島が周囲にいた者に聞いたところでは、その時の彼女は泣きながら香月の名を大声で呼んだり「私が代わりに死ねばよかった」と叫んだりしながら暴れるなど、半狂乱だったという(一部に「松島は鮮血に染まりながらゆっくりと香月の胴体が切断されてゆく様を
ただ黙って見ていることしかできなかった」とする記述があるが、松島の回想に拠れば事実ではない。
7:名無しさんといつまでも一緒
22/01/07 20:35:23.17 0.net
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8:名無しさんといつまでも一緒
22/01/07 20:37:45.86 0.net
保倉幸恵
幼い頃から舞台女優として活躍しており、1960年代から1970年代にかけて「週刊マーガレット」などの少女雑誌に少女モデルとして頻繁に登場していたほか、
週刊朝日でも1970年1月2日から1971年12月31日までカバーガールを務めた。若草時代の同期生に女優の桃井かおりがいる。高い人気を得るが、その後モデル業を引退。
映像メディアへの出演はモデル時代だった頃は1968年放送の「竜馬がゆく」や1971年放送の「天下御免」に出演。その後、モデル廃業後の1974年11月に芸能界に女優として復帰し、
同年11月20日から放送が開始されたNHKの銀河テレビ小説「黄色い涙」で本格的な女優デビューを果たす。
9:名無しさんといつまでも一緒
22/01/07 20:39:12.36 0.net
1.2mの柵を越えて8m下の線路に飛び降り、そこを通りかかった久里浜発東京行きの普通列車に轢かれて即死した。享年22。
高速列車に轢かれたために事故現場は凄惨で、遺体は顔面が完全に粉砕され、胴体も手足が轢断して四方八方にバラバラに飛び散るなど損傷が酷かったと言う。
加えて身元を証明出来る所持品が一切無かった事から警察は身元確認に手間取り、当初は身元不明人として荼毘に付された。
その後、家族からの捜索願や着用していた衣類、血痕などから自殺者が保倉である事を
突き止めたのは7月10日になってからであった。
遺体の検視で暴行の兆候があったとされ殺害も疑われたものの、遺体の損傷や腐敗が酷く、すぐに火葬されたため結局再捜査はされず自殺と断定された。
自殺の動機については母親の病気の介護や当時出演していたドラマの俳優との性的な人間関係、
ノイローゼからくる情緒不安定など諸説あるが、遺書が無かったため現在に至るまで不明である。
女優として順風満帆な活躍としていると思われていた矢先の突然の自殺だった事から、
当時は「謎の自殺」と騒がれた。
10:名無しさんといつまでも一緒
22/01/07 20:44:31.90 0.net
岡田 有希子(おかだ ゆきこ、1967年8月22日 - 1986年4月8日)は、日本のアイドル歌手、女優である。本名、佐藤 佳代(さとう かよ)。
愛称は「ユッコ」。
愛知県名古屋市熱田区出身。サンミュージックに所属していた。1980年代中期のトップアイドルのひとりであり、ポスト松田聖子として期待されたが、
人気の絶頂期であった1986年(昭和61年)に自殺した。
11:名無しさんといつまでも一緒
22/01/07 20:48:24.47 0.net
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12:名無しさんといつまでも一緒
22/01/07 20:49:52.28 0.net
(1)はじめに
4月に書いた岡田有希子さんについては28年前の出来事なので、覚えている方は多いと思いますが、これからお話しさせていただく少女の出来事は39年前なので、リアルタイムではご存知ない方が多いのでは、と思います。
実は私もそうでした。その当時は6才で小学校1年生、間近だった誕生日と夏休みの過ごし方に期待を膨らませていたと思います。
その少女は、保倉幸恵(やすくらほくら さちえ)さん(以下「彼女」)といいます。生年月日は1953年(昭和28年)4月5日、没年月日は1975年(昭和50年)7月8日です。享年22才。
彼女の事を知ったのは今年1月、そもそもの理由は覚えてませんがネットサーフィンをしていた時に、彼女について取りあげたホームページを見つけた事です。
その時は、単純に
「まだこんなに若かったのに」
と思っただけですが、色々調べているうちに、これだけではなんか納得できない気持ちになり、
「できるだけ調べてみよう」
と思った次第です。
13:名無しさんといつまでも一緒
22/01/07 20:51:27.26 0.net
(2)調べるにあたって
前記の通り39年も前の出来事のため、まずはできる限り当時の状況を調べなければいけません。
そこで、彼女の来歴、エピソード、画像、動画などを、以下の方法で調べてみました。
*インターネット
やはり39年間の壁は厚く、画像は数少なく、動画のアップロードに至っては全くありません。
おまけに、彼女が最後にテレビ出演したNET(現在テレビ朝日)系ドラマ「鏡の中の女」は、ウィキですらも項目がないくらいです。
14:名無しさんといつまでも一緒
22/03/02 21:19:54.15 0.net
ジョオオオ~
15:名無しさんといつまでも一緒
22/07/30 21:39:51 0.net
汚ねえスレだな