18/06/22 17:10:36.27 .net
この夜、凶なきか。日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。深更に魘さるるか。
あやふきことあるか。
独り言がほのかにも韻文がかった日には、それこそ用心したほうがよい。降
り降った世でも、あれは呪や縛やの方面を含むものらしい。相手は尋常の者と
限らぬとか。そんな者にあずかる了見もない徒だろうと、仮にも呪文めいたも
のを口に唱えれば、応答はなくても、身が身から離れる。人は言葉から漸次、
狂うおそれはある。
そう戒めるのも大袈裟な話で、私は夕刻から家を出て、蛇がくねるのに似た、往年
の流れの跡と聞く道路を、最寄の電鉄の駅へ向かっていた。この夜というほどの一夜
ではない。日没が夜の重さに続くような暮らしでもない。鳥は町でもけっこう鳴いて
いる。近くには林がまだわずかばかりあり、椋鳥だか、塒に帰った群れがやすむ前に
躁いでいる。耳を遣れば暗さのまさる中で何事か異変のありげな乱れ方だが、それで
も車の往来の音に紛れ、際立って呼ぶ声もない。どのみち、あらかたの事柄にたいし
て、聞いていても聾唖に近い声だ。
車はたそがれると、赤系のものからみえにくくなるという。どの程度、目からうせ
るものか。
空には雲が垂れて東からさらに押し出し、雨も近い風の中で、人の胸から頭の高さ
に薄明かりが漂っていた。顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。何人かが寄れば
顔が一様の白さを付けて、いちいち事ありげな物腰がまつわり、声は抑えぎみに、眉
は思わしげに遠くを伺う、そんな刻限だ。何事もない。ただ、雲が刻々地へ傾きかかり、
熱っぽい色が天にふくらんで、頭がかすかに痛む。 奥歯が、腹が疼きかける。たがいに、
悪い噂を引き寄せあう。毒々しい言葉を尽くしたあげくに、どの話も禍々しさが足らず、
もどかしい息の下で声も詰まり、何事もないとつぶやいて目は殺気立ち、あらぬ方を
睨み据える。結局はだらけた声を掛けあっ て散り、雨もまもなく軒を叩き、宵の残りを
家の者たちと過して、為ることもなくなり寝床に入るわけだが。
古井由吉「眉雨」より