17/07/22 06:02:59.98.net
空所補充問題のため、文章を書いてみました。アドバイスお願いします。
6世紀初め、継体天皇を擁立するなど力を強めていた大連(① )は、
(② )への任那四県割譲が非難されて失脚し、磐井の乱を鎮圧した大連物部氏の
一強状態となった。その後、欽明天皇の時に百済の聖明王から仏像などが献じられると、
当時財政を担当していた大臣蘇我稲目は崇仏派の中心となり、排仏派の(③ )と
対立する。
彼らの子の世代では、馬子が守屋を倒した後、崇峻天皇を暗殺し(④ )天皇を
擁立する。渡来人の伝える仏教や儒教を吸収した父稲目の代に続き、馬子らは、(⑤ )や
留学生の派遣を通して、さらに積極的に大陸の文化や制度を吸収し、
冠位十二階の制や憲法十七条など政治改革を行った。代表的な(⑤ )としては
小野妹子、留学生には高向玄理、旻、南淵請安がいる。また隋の煬帝から答礼使として
(⑥ )も送られた。
まもなく、(⑦ )の子である山背大兄王を攻撃して自殺に追い込んだ蘇我入鹿が
645年皇極帝の皇居で暗殺され、(⑧ )を内臣として大化の改新が始まる。646年正月、
孝徳天皇が造営中の難波長柄豊崎宮で宣布した(⑨ )は、唐に習った改新の基本方針が
(⑩ )制、地方制度、班田収授、税制の4項目にまとめられている。
難波の宮完成後まもなく孝徳天皇が崩御すると、皇極上皇が(⑪ )天皇として重祚し、
次いで皇子の(⑫ )、(⑬ )、(⑬ )の皇后であった(⑭ )へと
改革が引き継がれていく。
語群
遣隋使 遣唐使 欽明天皇 天智天皇 敏達天皇 天武天皇 崇峻天皇
推古天皇 聖武天皇 持統天皇 斉明天皇 裴世清 物部尾輿 大伴金村
中臣鎌足 聖徳太子(厩戸王) 新羅 百済 公地公民 改新の詔