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▽三好氏
永正八年(1511)、阿波で兵を養った三好之長は播磨の赤松氏の支援を取り付け、大軍を率いて京都に攻め上ったが、大内軍に大敗を喫し政賢は戦死、之長らは阿波に逃げ帰った(船岡山の戦い)。
以後、阿波に雌伏して兵を養い、足利義稙・細川高国・大内義興政権打倒の機会をうかがった。
永正十五年(1518)に連合政権の一翼を担っていた大内義興が帰国、高国と将軍義稙との間も円滑を欠くようになった。
京都の情勢を睨んでいた之長は、翌十六年、海部・香川・安富氏らを従え兵庫に上陸した。そして、翌年二月、高国を近江に奔らせて京都に入った。
澄元は将軍義稙の支持を得て家督に返り咲いたが、ほどなく六角定頼の助けを得た高国が反撃に転じた。
一戦に敗れた之長は百万遍で自害、子息長光・長則らも捕えられて殺害された。
澄元は播磨を経て阿波へ没落、ほどなく失意のうちに死去した。
ふたたび管領職に復活した高国は将軍義稙と対立、義稙は阿波に逃れたため、前将軍義澄の子義晴が将軍に擁立された。
…『国盗り物語』のこの時期、三好氏は阿波で逼塞しており、京の都にはいない。