三島由紀夫のおすすめエンタメ&戯曲at BOOKS
三島由紀夫のおすすめエンタメ&戯曲 - 暇つぶし2ch200:無名草子さん
11/06/21 12:32:50.07 .net
五月九日(金)
キェルケゴールの有名な「あれかこれか」の一節は永いこと私を魅してゐた。
「結婚したまへ、君はそれを悔いるだらう。結婚しないでゐたまへ、やつぱり君は悔いるだらう」
(中略)
私は又、晩年のフロオベエルが公園を散策しながら、乳母車を押してゆく家族づれを見て、「私もああいふ生涯を
送ることもできたのだ」と述懐したといふ挿話をもよくおぼえてゐた。
人生が一人宛たつた一つしかないといふことは、全く不合理な、意味のない事実である。殊に小説家にとつては、
自分の創造の条件に対する侮辱とさへ思はれる我慢ならない事実である。これに対する解決は何も見当たらないが、
これをなだめすかす慰藉の方法がないわけではない。ディオゲネースのあの定言的な言ひ方を崩すには、たつた
一つの方法しかない。事実が決定的であり、人生が一個であるならば、これをうけとめる人間一般の感情の法則を、
せめて自分だけでも免れようとすればよからう。「結婚したまへ、君はそれを悔いるだらう。結婚しないでゐたまへ、
やつぱり君は悔いるだらう」……それなら、ままよ、後悔しなければいいのである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

201:無名草子さん
11/06/21 12:33:15.51 .net
(中略)
このやうな悔いは自由意志の幽霊のやうなもので、或る作為あるひは不作為が一個の人生を決定してしまふのを
見た自由意志自身の不安なのである。自由意志は無限の選択をするのではない。選択は百のうちから十、十の
うちから三つ、三つのうちから二つ、二つのうちから一つといふ具合に、徐々に限られて来て、最後に自由意志は、
それをするかしないかといふことだけを選ぶために現れる。しかしここまで追ひつめられた選択と、自由意志の
本質とは必ず矛盾する。自由意志は、選択の機能を本来帯びてゐなかつた自分に気がつくのである。自由意志は
決断のために使はれるべきではなく、作為と不作為との間に常に追ひつめられてゐる人間の、可能性の問題なのだ
といふことに。……自由意志にとつては、本来、人生は一人一個宛ではなかつた筈なのだ。
私がもし悔いないでゐられるなら、それは宿命を是認することになるだらうか。さうではない。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

202:無名草子さん
11/06/21 12:33:47.06 .net
私が悔いないといふことは、自由意志に対する嘲笑ではない。どんな選択も、どんな決断も、どんな行為も
自殺でさへも、最終的に人間の状況を決定することはできない、と私は考へるから、決断に従つたことを悔いも
しないし、おそらく決断に従はなかつたときも悔いはしまい。人間は選ぶことができないのではないが、最終的に
選択の不可能なことを知つてゐるのは自由意志であつて、さればこそ、人生がたつた一つであることをどうしても
肯はない自由意志は、宿命に対抗することができるのである。だから「悔い」といふ形であらはれる不安は、
自由意志にとつて本質的なものではない。宿命はすでに選択してゐるし、自由意志は永遠に選択しない。そして
行為とは、宿命と自由意志との間に生れる鬼子であつて、人は本当のところ、自分の行為が、宿命のそそのかしに
よるものか、自由意志のあやまちによるものか、知ることなど決してできない。結局、海水の上に浮身をするやうな
身の処し方が、自分の生に対する最大の敬意のしるしのやうに思はれる。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

203:無名草子さん
11/06/23 10:36:36.85 .net
八月八日(金) 悪と政治と
いろんな意味で対蹠的なサルトルの「殉教と反抗」(ジャン・ジュネ論)と界外五郎氏の銀座の一級ヤクザとしての
告白「恐喝」の二冊を、それぞれおもしろく読んでゐるうちに、日本よりさらに暑熱のきびしいイラクでは、
大がかりな「切つた張つた」がはじまつた。(中略)
その上私はナセル大統領の「敵に対しては、われわれは原爆さへもおそれてゐないことを警告する」といふ演説に
接して、「矢でも鉄砲でも持つてこい」といふ超現代的表現はかうもあらうかと思つて感心した。こんなバカげた
啖呵を切れる日本の政治家は一人もあるまいが、政治外交上の嚇し文句はそこまで行かなければ本当ではあるまい。
中近東や東南アジアの民族主義に対するわれわれの同意は、伝来の「弱きを助け強きを挫く」助六精神であるけれど、
弱い筈の民族主義者が、モスクワから帰つてくると、「原爆さへもおそれてゐない」と啖呵を切り出し、一方、
「強きを挫く」だけの助六の腕力がわれわれに欠けてゐる以上、民族主義に対するわれわれの立場は、不透明に
ならざるをえない。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

204:無名草子さん
11/06/23 10:37:11.30 .net
第一、日本にはすでに民族「主義」といふものはありえない。われわれがもはや中近東や東南アジアのやうな、
緊急の民族主義的要請を抱へ込んでゐないといふ現実は、幸か不幸か、ともかくわれわれの現実なのである。
今や明治維新の歴史的価値は、ますます高められてきた、と私は感じる。
さて界外氏の「恐喝」に話を戻して、氏のヤクザの定義を読むと、かうである。
「ほんとうのヤクザの社会では、タタキ(屋内強盗)やノビ(忍込み強盗)をするような人間は鼻にも引つかけない。
理由なくして金銭をホシイママにすることを極度に嫌う。泥棒社会の人間など普通ヤクザといわれている者とは
住む世界が違うし、実際に刑務所に入っても全然派閥が違う。というより色彩が違う。人の物を盗むようになったら
完全に浮かばれない。理由はともかく、尠くとも大義名分をはっきりわきまえているヤクザと破廉恥行為以外
なにものもない彼等とは全然世界が違うのである」

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

205:無名草子さん
11/06/23 10:37:48.23 .net
(中略)
日本にはキリスト教の神の観念がないから、悪の観念も従つて稀薄だ、といふのはずいぶん言ひ古された議論で
あるけれど、マキャベリ以来の西欧の政治学にひそむ悪、そのもつとも理想主義的な政治学にさへ自明の前提として
受け入れられてゐる悪に比べれば、日本の政治は、正に界外氏の定義にすつぽりあてはまるヤクザ的なものだと
云つてもよからう。おんなじアジアでも、旧植民地諸国の政治家は、自分たちを虐げて来た帝国主義者たちから、
少くとも悪の原理と悪の知恵を学んでゐる。ネールなんぞは私にはその典型だと思はれる。ネールの孤独を、
たはむれに前掲のジュネの孤独と比べて、泥棒の代りに政治家として読み代へてみたまへ。「神に捧げられた子」
としての政治家の孤独がはつきりするだらう。
さて、ジュネは、この孤独から、しばしばの裏切りによつて自己聖化に達するのであるが、裏切りは界外氏の
定義によれば、ヤクザのもつとも忌むところであつて、日本の政治は共産党のいはゆる「民衆に対する裏切り行為」
などに専念する勇気がない。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

206:無名草子さん
11/06/23 10:38:18.55 .net
日本の悪は悪といふよりも、局限的道徳なのであつて、世間一般の道徳との間に範疇の差はなく、ただニュアンスの
相違でつながつてゐるだけで、政治家の道徳とヤクザの道徳は、局限的道徳であるといふ点だけで、世間の道徳に
対して特色を発揮してゐるにすぎない。
イラクのクウ・デタに対する日本政府の三転四転した腰の据わらぬ態度は、私には、日本の政治家が、自分の
ヤクザ性にも、模して及ばぬ悪人性にも、どつちにも徹し切らない中途半端から来るやうに思はれた。「民族主義に
対する裏切り」をおそれながら、一方アメリカにも気兼ねをし、やつとのことで国連的正義感に便乗してゐるのは、
ヤクザにしても性根のないヤクザで、せめてナセル親分ぐらゐに、「原爆おそるるに足らず」ぐらゐのことを
言つたらいい。日本に原爆を落とされた手前、それだけは死んでも言へないといふなら、逆に悪に徹して、
資本主義の走狗をつとめて、民族主義を弾劾するがいい。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

207:無名草子さん
11/06/23 10:38:50.66 .net
東洋の一角で憂ひ顔の騎士が、事あるごとに、厩につながれたままの馬にまたがつて、悲しい御託宣を並べるのは、
毎度のことで、もう漫画にもならない。国家が必要悪であるならば、国家のエゴイズムが最高の要請であるべきだし、
政治が悪であるならば、裏切りがそれを聖化するだらう。西欧のチトー元帥は裏切りの上に国を建てた。しかし
われわれの住んでゐるのは、悪の国ではなく、ヤクザの国であり、界外氏のヤクザの定義はいかにもわれわれの
心性に叶つてをり、悪のイデアに対してほどほどの距離と自己弁護の立場を忘れない。それはまた民衆の
平均的趣味であり、不徹底な現実主義の土壌の上に、ヒロイックな夢を咲かすことである。それにしてもヤクザは
原爆を持つことができず、持つことができるのは、せいぜい機関銃が限度である。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

208:無名草子さん
11/06/25 00:29:14.29 .net
八月十二日(火)
私は今、人生に関する文学的誤解からやうやく抜け出して、その次の危険な場所、文学に関する人生的誤解に
そろそろ近づきさうな予感がしてゐる。若い人たちの作品の人生的無知を苛立たしく感じたりするのは、その
危険な兆候だ。戒めなくてはならぬ。とにかく「人生では知らないことだけが役に立つので、知つてしまつたことは
役にも立たない」のであるから。


十月二十日(月)
退屈でないのは慣習や熟練、要するに「くりかへし」の作業であり、冒険こそ、その当人にとつては、一等退屈な
作業だといふことを忘れてはならぬ。また人を退屈させることも怖れてはならぬ。現代の忙しいジャーナリズム裡の
作家の最大の病気は、「読者を退屈させやしないか」といふ神経性である。小説では或る程度の退屈なしには、
読者の精神を冒険に誘ひ込むことができないやうに思はれる。私が今こそわがものにしたいのは、ゲーテの
「ヴィルヘルム・マイスタア」のあの退屈さである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

209:無名草子さん
11/06/25 00:30:20.91 .net
十月二十一日(火)
ポオのファルスに属するものは、「十三時」「ボンボン」「ペスト王」「ミイラとの口論」などであらうが、
可成物語的構成を持つたものの中でも「タア博士とフェザア教授の治療法」などは、ファルスに入れてもよからう。
そこには知的ノンセンスともいふべき高度の趣味があつて、もつとも下らない馬鹿話の中へ、完全に身を隠し
了せたとき、知性はもつとも美しいものになるといふ逆説が証明されてゐる。メルヴィルの「白鯨」だつて
最大の規模を持つたファルスと云へないことはない。ポオのファルスがどんなに馬鹿さわぎを演じても、品位と
重厚さを失つてゐないのは、知性が遊戯に熱中して柔軟になりきるときにこそ、知性の目的は没却されて、
知性の姿だけが目に見えて来るからであらう。品位は知性の生れながらの態度(アティテュード)であつて、
合目的的な知性は、ともするとこの態度を失ふのである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

210:無名草子さん
11/06/25 00:34:05.34 .net
十一月二十一日(金)
批評する側の知的満足には、創造といふまともな野暮な営為に対する、皮肉な微笑が、いつまでもつきまとふことは
避けられない。この世には理想主義的知性などといふものはないのだ。あらゆる理想主義には土方的なものがあり、
あらゆる仕事は理想主義の影を伴ふ。そして批評的知性には、本来土方の法被(はつぴ)は似つかはしくないもので
あるが、批評の仕事がひとたびこの法被を身にまとふと、営々孜々として破壊作業に従事するか、それとも
対象から遠く隔たつて天空高く楼を建てるかしてしまふのである。

十一月二十三日(日)
私の言葉は理性的に出てくるのではない。コンディションの良好なとき、気に入つた対象すなはち好餌があらはれると、
私は蜘蛛のやうにその好餌に接近して、言葉の網でしやにむにからめとらうとする。さういふ狩猟に似た喜びの
瞬間には、言葉は精力的に溢れ出し、何か肉体的な力で言葉が動き出し、対象をつかまへて、舌なめずりし、
その対象をできるかぎり丹念に隈なく、言葉で舐めつくさうとするのだ。いささか薄気味わるい比喩だが、言葉が
私の中から湧き出てくるときにはさういふ感じがする。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

211:無名草子さん
11/06/25 00:34:58.56 .net
言葉が花火のやうにはじけ、一瞬にして拡散し、対象の上にふりかかつて、それを包み込まうとする動きを
感じるとき、ほとんど書く手が追ひつかず、次の行に書くべきことを忘れないために、欄外にいそいでメモを
書きとめなくてはならぬ。このときの速度は一体、どんな種類の速度なのであらう。何故なら、書く手が
追ひつかぬほど言葉が先に走つてゆく感に襲はれながら、実際のところ、筆の速度は、大したものではなく、
書ける枚数も二、三枚、多くて四、五枚で終つてしまふ。こんな興奮は決してそれ以上持続しないのだ。
かういふときアメリカの或る作家たちのやうにタイプで原稿を書き、もし又タイプに熟達してゐれば、書く作業に
よつて抑制されることなく、言葉の走る速度にぴつたり合つた文章が出来るかもしれない。しかしそれが文章と
いふものであらうか? 文章はむしろ言葉に対峙するもののやうに思はれる。言葉の本質がディオニュソス的なら、
文章の本質はアポロン的、といふ具合に、言葉は私にとつてはひどく肉体的な、血や精液に充ちたものだ。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

212:無名草子さん
11/06/27 11:01:41.99 .net
十一月二十五日(火)
人にすすめられて「短歌」といふ雑誌を読み、春日井建といふ十九歳の新進歌人の歌に感心する。(中略)
かういふ連作は、ソネットのやうなつもりで読めばいいのであらう。私は海に関する昔ながらの夢想を、これらの
歌によつて、再び呼びさまされたが、十代の少年の詩想は、いつも海や死に結びつき、彼が生きようと決意するには、
人並以上に残酷にならなければならないといふ消息が、春日井氏のその他の歌からも、私には手にとるやうにわかつた。
いづれにしても詩は精神が裸で歩くことのできる唯一の領域で、その裸形は、人が精神の名で想像するものと
あまりにも似てゐないから、われわれはともするとそれを官能と見誤る。抽象概念は精神の衣裳にすぎないが、
同時に精神の公明正大な伝達手段でもあるから、それに馴らされたわれわれは、衣裳と本体とを同一視するのである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

213:無名草子さん
11/06/27 11:02:20.08 .net
十二月十七日(水)
今夜は日活撮影所へ「不道徳教育講座」のプロローグとエピローグの二カットに出演するため行かなければ
ならないが、こんな私の軽薄な振舞については、一家そろつて大反対である。(中略)
―二度目のテストではセリフをとちつた。もうやたらにセリフをとちるからとて、俳優を莫迦扱ひするのを
止めなくては。トチリとか失敗とかは正に神秘的なもので、人間の努力の及ぶところではない。


昭和三十四年一月二十五日(日)
「夜遊び」といふものがいかに本当の夜から遠いことか。われわれはもう殆ど「夜」を持たなくなつてしまつた。
どんな秘密な遊びも、隠密な犯罪も、厳密に「夜」には属さない。明治神宮の初詣でに深夜群をなして集まる人々を、
晃々と照らすライトの下に映したテレヴィジョン放送を見て、そこにはもはや「夜」がなく、人々が「夜」を
望みもしない状況を、私はつぶさに眺めた。折口信夫氏の「死者の書」のやうな「夜」の文字を、二度と
われわれは持つことができぬであらう。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

214:無名草子さん
11/06/27 11:02:48.45 .net
三月二日(月)
私は外国で大いに世話になり温い親切をうけた外人の来朝には、出来るかぎりの歓迎をすることにしてゐる。
といふのは、見知らぬ他国へ着いた旅人の受ける、その土地の人からの親切ほど、忘れがたいものはないからである。
見知らぬ他国では何もかもが怖しい。郵便局や銀行へも一人ではゆけず、バスや地下鉄に乗つたつてどこへ
連れて行かれるかわからない。善人と詐欺漢との区別もつかず、すべてが五里霧中である。
私にとつても、外国で受けた、骨に徹するほどの不親切の思ひ出もある。むしろそのはうが多いかもしれない。
しかし考へやうによつては、その国の人同士の間では、これくらゐの不親切、冷酷非情のはうがむしろ当り前で、
ふつうそれくらゐのことで人を傷つけるとは思はれない。ところが旅人はひどく傷つくのである。
私はかういふ経験をしばしば味はひ、その中に記憶に残る温い親切を思ひ出すと、自分の味はつたそのうれしさを、
その人にも味ははせてやりたいものだと思ふ。殊に一人旅の旅人には尽して上げたい。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

215:無名草子さん
11/06/27 11:03:16.78 .net
(中略)
一方、日本へ知人の外人を迎へてつくづく思ふのは、さういふ人たちへの一寸した心尽しでも、ありていに云ふと、
こちらの生活の歯車を少からず擾(みだ)すことになるので、立場を変へて、私が当然のやうに受け入れてゐた
外国における個人的厚意が、どれだけ先方の生活の歯車を狂はせてゐたかがわかるのである。外国人は実によく
遠来の客をねぎらふ。私はどれだけ人の私宅へ招かれて泊めてもらつたかわからない。
それにまた外人がわれわれの国の踊りなり芝居なり美術品なりのイカモノに感心しようとしてゐるとき、
「あれはニセモノだよ」と冷水を浴びせてやるくらゐ愉快なことはない。紐育で、メキシコの某クラブで見た
民俗舞踊に感心した話をしてゐたら、居合はせたメキシコの一富豪が、「ありや真赤なニセモノですよ」と
一言の下に片附けたが、そのときの彼の愉快さうな顔と云つたらなかつた。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

216:無名草子さん
11/06/27 11:03:46.29 .net
(中略)
私は今、一向旅心を誘はれない。海のかなたには何があるか、もうあらかたわかつてしまつた。そこにも人間の
生活があるきりだ。どんな珍奇な風俗の下にも、同じやうな喜びや嫉妬があり、どんな壮麗な自然の中にも、
同じやうな哀歓があるのを、この目ではつきりと見て知つてしまつた。そして世界中を歩いてみても、自分の
生涯を変へるやうな奇抜な事件は決して起り得ないといふことも、もしそれが起るとしても、自分の心の中にしか
起らないといふことも。
先生に引率された小学生たちが沢山傍らを通る。子供たちの目はまだ見ぬ世界への夢に輝いてゐる。この
子供たちこそ世界を所有してゐるので、世界旅行は世界を喪失することだ。尤も、生きるといふことがそもそも
人生をなしくづしに喪失してゆくことなのであるから、人間の行為と所有とは永遠に対立してゐる。すべてを
所有しようと思つたら、断じて見ず、断じて動かず、断じて行はないことだ。王国はかくて立ちどころに所有される。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

217:無名草子さん
11/06/28 00:23:27.24 .net
四月十日(金)
庭で素振りをしてから、馬車行列の模様をテレヴィジョンで見る。
皇居前広場で、突然一人の若者が走り出て、その手が投げた白い石ころが、画面に明瞭な抛物線をゑがくと見る間に、
若者はステップに片足をかけて、馬車にのしかかり、妃殿下は驚愕のあまり身を反らせた。忽ち、警官たちに
若者は引き離され、路上に組み伏せられた。馬車行列はそのまま、同じ歩度で進んで行つたが、その後しばらく、
両殿下の笑顔は硬く、内心の不安がありありと浮んでゐた。
これを見たときの私の興奮は非常なものだつた。劇はこのやうな起り方はしない。これは事実の領域であつて、
伏線もなければ、対話も聞かれない。しかし天皇制反対論者だといふこの十九歳の貧しい不幸な若者が、
金色燦然たる馬車に足をかけて、両殿下の顔と向ひ合つたとき、そこではまぎれもなく、人間と人間とが向ひ
合つたのだ。馬車の装飾や従者の制服の金モールなどよりも、この瞬間のはうが、はるかに燦然たる瞬間だつた。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

218:無名草子さん
11/06/28 00:23:59.09 .net
われわれはこんな風にして、人間の顔と人間の顔とが、烈しくお互を見るといふ瞬間を、現実生活の中では
それほど経験しない。これはあくまで事実の事件であるにもかかはらず、この「相見る」瞬間の怖しさは、正しく
劇的なものであつた。伏線も対話もなかつたけれど、社会的な仮面のすべてをかなぐり捨てて、裸の人間の顔と
人間の顔が、人間の恐怖と人間の悪意が、何の虚飾もなしに向ひ合つたのだ。皇太子は生れてから、このやうな
人間の裸の顔を見たことははじめてであつたらう。と同時に、自分の裸の顔を、恐怖の一瞬の表情を、人に
見られたこともはじめてであつたらう。君候がいつかは人前にさらさなければならない唯一の裸の顔が、いつも
決まつて恐怖の顔であるといふことは、何といふ不幸であらう。
それにしても人間が人間を見るといふことの怖しさは、あらゆる種類のエロティシズムの怖しさであると同時に、
あらゆる種類の政治権力にまつはる怖しさである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

219:無名草子さん
11/06/28 00:24:27.80 .net
六月二十九日(月)
「鏡子の家」は、いはば私の「ニヒリズム研究」だ。ニヒリズムといふ精神状況は、本質的にエモーショナルな
ものを含んでゐるから、学者の理論的探究よりも、小説家の小説による研究に適してゐる。
(中略)
……オンボロ貨物船を引きずつて、船長は曲りなりにも故郷の港に還つて来た。主観的にはずいぶん永い航海だつた。
無数の港々、荷卸しや荷揚げの労苦、嵐や凪、それから航海に必ず伴ふ奇怪な神秘的な出来事、……さういふものは、
まだありありと頭の中に煮立つてゐるが、それも徐々に忘れられるだらう。暫時の休息ののち、船長は又性懲りもなく、
新しい航海のための食糧や備品の買出しに出かけるだらう。もつと巨きく、もつと性能もよい船を任される申し出に
よし出会つても、彼はすげなく拒むだらう。彼はこのオンボロ貨物船を以てでなくては、自分の航海の体験の量と
質とをはかることができないからである。それだけがあらゆる船乗りの誇りの根拠だ。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

220:無名草子さん
11/07/01 14:06:37.89 .net
そもそも推理小説とは欧米でも売れて売れて困るもので、売れない推理小説は、そもそも推理小説の資格がない
やうなものだ。


純文学には、作者が何か危険なものを扱つてゐる、ふつうの奴なら怖気をふるつて手も出さないやうな、取扱の
きはめて危険なものを作者が敢て扱つてゐる、といふ感じがなければならない、と思ひます。つまり純文学の
作者には、原子力を扱ふ研究所員のやうなところがなければならないのです。(中略)小説の中に、ピストルや
ドスや機関銃があらはれても、何十人の連続殺人事件が起つても、作者自身が何ら身の危険を冒して『危険物』を
扱つてゐないといふ感じの作品は、純文学ではないのでせう。


純文学は、と云つても、芸術は、と云つても同じことだが、究極的には、そこに幸福感が漂つてゐなければ
ならぬと思ふ。それは表現の幸福であり、制作の幸福である。どんな危険な怖ろしい作業であつても、いや、
危険で怖ろしい作業であればあるほど、その達成のあとには、大きな幸福感がある筈で、書き上げられたとき
その幸福感は遡及して、作品のすべてを包んでしまふのだ。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

221:無名草子さん
11/07/01 14:07:04.67 .net
(中略)
人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は絶望的で、どんな死に方をしたつて醜悪なだけである。それなら、
もう、しやにむに生きるほかはない。
室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。
老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。殊に肉体芸術やスポーツの分野では、
東西の差が顕著で、先代坂東三津五郎丈は老齢にいたるまで見事な舞台姿を見せたが、セルジュ・リファールは
もうすでに舞台姿は見るに堪へぬ。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へらないが、
七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる。
肉体の領域でもこれだから、精神の領域では、日本人ほど「老い」に強い国民はないだらう。室生氏などは
世阿弥のいはゆる「珍しき花にて勝」つた人であらう。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

222:無名草子さん
11/07/01 14:07:31.74 .net
(中略)
このごろは町で想像もつかないことにいろいろぶつかる。小説家の想像力も、こんなことに一々おどろいてゐる
やうでは貧寒なものだ。
旧文春ビルのTといふ老舗の菓子屋で買物をしたら、私の目の前で、男の店員が、私の買物を包んでゐる女の店員に、
「領収書は要らないんだろ。もう金もらつた?」
ときいてゐた。
客の前で、大声で「もう金もらつた?」ときく心理は、どういふのだらう。
やはり銀座の五丁目のMデパートで、菓子売場の女店員に、
「舶来のビスケットある?」
ときいたら、
「チョコレートならありますけど、ビスケットは舶来はありません」
と言下に答へた。売場を一まはりして、さつきの女店員の立つてゐる飾棚を見たら、ちやんと英国製ビスケットが
二缶並んでゐる。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

223:無名草子さん
11/07/01 14:08:39.66 .net
「ここにあるぢやないか」
と言つたら、
「あら」とゲラゲラ笑つてゐた。
この二種類だけかときいたら、二種類だけです、と答へ、別の女の子が、他にも二種類あります、と持つて
来たはいいが、値段をきくと、全然同じ缶を二つ並べて、片方を八百円、片方を千五百円といふ無責任さ。
そのあひだゲラゲラ笑ひどほしで、奥の売場主任も我関せず焉で知らん顔をしてゐた。
(中略)
―かういふいろんな不条理か事例は、小説に使つたら、みんな嘘と思はれるだらう。もし今忠実な風俗小説といふ
ものが書かれたら、超現実主義風な作品になるのではないかと思はれる。

三島由紀夫37歳「『純文学とは?』その他」より

224:無名草子さん
11/07/08 11:20:39.16 .net
女のまねをする女形は、女形芸術の墓穴を自ら掘つてゐるものだと思ふ。女形の範はあくまで能の鬘物のシテに
あるので、世にも高貴な美女の仮面をとほして、神秘的な、暗い男の声がひびいて来、美しい唐織の衣装の袖から、
無骨な男の手がむき出しになつてゐるべきなのだ。
といふことは、女形の真骨頂は仮面劇にあるのであつて、歌舞伎の女形といへども、変成男子の神秘感を失つては
ならないのだ。
といつて、私は、女形が日常生活でスポーツ・シャツを着てゴルフをしたり、「僕が」とか「僕が」とかいふ
一人称を使ふのを、推賞してゐるわけではない。ただ、女形美といふものが、女性美とは別の独自性を持つて
ゐることを忘れてはならない、といつてゐるのである。
そんな美的好尚は、もはや現代人からそつぽを向かれてゐるから、女形は衰滅するだらう、といふ主張もある。
事実、明治以後、女形は、だんだん女性美へ色目を使つてきた。かつての九代目団十郎の女形などを、今の人は
想像もできないだらう。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美―女形は亡びるかどうか」より

225:無名草子さん
11/07/08 11:21:03.44 .net
といふことは、一方、世間の女の男性化の傾向にもよる。女形芸のうちで悪婆(毒婦)や若衆方に接近した要素が、
一等早く衰退の気配を見せてゐるのは、悪婆的女性や若衆的女性がふえてきたからである。逆に女性的女性が
減つてきたので、真女形の稀少価値が生じて珍重されるにつれ、女形は女の模倣の方向へ傾きがちになり、女優と
見紛ふやうな芸を見せる役者も出て来て、歌舞伎の女形のセリフからは義太夫の暗い渋い律調が失はれてしまつた。
先々代時蔵の最後の政岡を見たときに、私は哀惜の念に耐へなかつた。
(中略)
さて、その女形の将来であるが、今は万事にアメリカ風の、浅薄な健全第一主義の時代であるけれど、日本人の
血の澱みは、一朝一夕に浄化されるものではない。
女形を気味がわるいと思ふ観客がふえたこともたしかだが、そんならその気味のわるさに将来性がある筈で、
芸術の歴史はみんなさういふ試練を経て来たのである。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美―女形は亡びるかどうか」より

226:無名草子さん
11/07/08 11:21:33.22 .net
私のつねづねふしぎに思つてゐることがある。
前述したやうに、今はむしやうに女が強くなつて男性化した時代のやうにいはれながら、女の顔自体は、昔に比べて、
だんだん男性的威厳を失つてきてゐるのである。理想の美女は、現代では、イタチが猫か少年の顔にちかく、
明治時代の女性のやうに、むしろ男性的威厳を帯びた顔は、ゐなくなつたか、少なくとも、流行らなくなつて
ゐるのである。海水浴などに行くと、たしかに女性の体格のよくなつたことはおどろくばかりだが、顔はますます
小さくなる傾向にあり、髷の似合ひさうな顔は一つもない。明治時代の名妓の面影はあとをとどめない。
女性が女性的であつた時代に、却つて、女形風な顔や美がもてはやされ、沢山生存してゐた、とはどういふこと
だらうか。あれこれ思ふと、現代の女優で片はづしのカツラの似合ふやうな人は一人もなく、過去の壮大な悲劇に
似合ふ舞台上の女性は、どうしても、男にカツラをかぶせるほかはなくなるのである。ブリジット・バルドー
みたいな顔をした八重垣姫なんか、どう考へてもをかしいではないか。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美―女形は亡びるかどうか」より

227:無名草子さん
11/07/08 11:21:55.71 .net
男が女に化けてゐるといふ芝居のウソの前提を、観客がもつと強く意識するやうになれば、女形の将来は捨てた
ものではなく、また女形自身も、舞台では女、日常生活では男、などといふコセコセした枠を作らず、舞台の上で
女形であること自体に、堂々たる男性的威厳を発揮することに努めれば、世間の目も変つてくることであらう。
重ねていふやうに、日本人の血の澱みの深さは、アメリカ人などとは比べものにならないのである。
女形のやうな、面白い、気味のわるい、エクストラオルディネール(異常)なものを、さうむやみに捨て去ることの
できる日本人ではない。その点はもつと安心して、大悟徹底してゐるべきだと思ふのである。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美―女形は亡びるかどうか」より

228:無名草子さん
11/07/11 15:57:10.06 .net
現代におけるリリシズムがどんな形をとらねばならぬか、といふことが、現代芸術の一番おもしろい課題だと
私は考へてゐる。リリシズムは、現代において、否定された形、ねぢまげられた形、逆説的な形、敗北し流刑に
処された形、鼻つまみの形、……それらさまざまのネガティヴな形をとらざるをえず、そこから逆に清冽な
噴泉を投射する。もし現代において、リリシズムが一見いかにもこれらしい形をとつてゐたら、それは明らかに
ニセモノだと云つてよい。これが、私の「現代の抒情」の鑑定法である。
細江英公氏の作品が私に強く訴へるのは、氏がこのやうに「現代の抒情」を深くひそませた作品を作るからである。
そこには極度に人工的な制作意識と、やさしい傷つきやすい魂とが、いつも相争つてゐる。薔薇は元来薔薇の
置かれるべきでない場所に置かれて、はじめて現代における薔薇の王権を回復する。

三島由紀夫「細江英公氏のリリシズム―撮られた立場より」より

229:無名草子さん
11/07/14 17:56:07.95 .net
映像はいつも映画作家の意志に屈服するとは限らぬことは、言葉がいつも小説家の意志に屈服するとは限らぬと
同じである。映像も言葉も、たえず作家を裏切る。


われわれの古典文学では、紅葉(もみぢ)や桜は、血潮や死のメタフォアである。民族の深層意識に深く
しみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を数百年に亘つてつづけて来たので、歴史の
変遷は、ただこの観念聯合の秤のどちらかに、重みをかけることでバランスを保つてきた。戦争中のやうに
多すぎる血潮や死の時代には、人々の心は紅葉や桜に傾き、伝統的な美的形象で、直接の生理的恐怖を消化した。
今日のやうに泰平の時代には、秤が逆に傾いて、血潮や死自体に、観念的美的形象を与へがちになるのは、
当然なことである。かういふことは近代輸入品のヒューマニズムなどで解決する問題ではない。

三島由紀夫「残酷美について」より

230:無名草子さん
11/07/16 14:12:41.57 .net
能は、いつも劇の終つたところからはじまる、と私はかねて考へてゐた。(中略)
能がはじまるとき、そこに存在するのは、地獄を見たことによつて変質した優雅である。芸術といふものは特に
このやうなものに興味を持つ。芸術家は狐のやうに、この特殊な餌を嗅ぎ当てて接近する。それは芸術の本質的な
悪趣味であり、イロニイなのだ。
(中略)
優雅と、血みどろな人間の実相と、宗教と、この三つのものが、「大原御幸」の劇を成立させてをり、かつ文化の
究極のドラマ形態を形づくつてゐる。この一つが欠ければ、他の二つも無用になるといふ具合に。
ところで、現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の実相は、
時たま起る酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、病院や葬儀屋の手で、手際よく
片附けられる。宗教にいたつては、息もたえだえである。……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、
煙のやうに消えてしまふ。

三島由紀夫「変質した優雅」より

231:無名草子さん
11/07/16 14:13:54.06 .net
かうした芸術の成立の困難は、女院が味はつたやうな困難とはちがふ。女院が、変質した優雅をもてあまして、
表現と体験の板ばさみになつてしまつたやうな事情とはちがふ。むしろ、現代の問題は、芸術の成立の困難には
なくて、そのふしぎな容易さにあることは、周知のとほりである。
それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、人間の死と腐敗の実相は、赤い血のりをふんだんに
使つたインチキの残酷さでごまかされ、さらに宗教の代りに似非論理の未来信仰があり、といふ具合に、三者の
代理の贋物が、対立し激突するどころか、仲好く手をつなぐにいたる状況である。
そこでは、この贋物の三者のうち、少くとも二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、
文学らしきものが生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、悩まされることに
なつたのである。

三島由紀夫38歳「変質した優雅」より

232:無名草子さん
11/07/28 11:11:54.62 .net
別離だから悲しからう、悲しければもたもたするだらう、といふのが浅薄な心理主義と私の呼ぶところのものである。
別離は、劇に於ける超人間的なモメントだといふことが、そこでは完全に忘れ去られてゐる。それは別離を人間の
常態だと説いた哲学からの、なまぬるい離反なのであつた。


そもそも「見られた主体」とは「主張する客体」といふのと同じやうに、不可思議な存在である。戯曲といふ
純粋主体は誰の目にも見えず、俳優といふものの客体的要素が、それを人の目に見せる媒(なかだ)ちをする。
(ラジオ・ドラマでは、肉声が、この客体的要素に当る)。ところで、俳優の客体的要素が高まれば高まるほど、
映画俳優やバレエ・ダンサーのやうに、それはますます、主題を表現する抽象的役割を担ふのである。中では
舞台俳優が、セリフを通じて、もつとも主体的要素を含みつつ、実はその役割は、ますます具体的なものになる。
舞台の上では、裸体ほど抽象的で観念的なものはなく、セリフほど具体的なものはない、といふ逆説が、ここに
明らかになる。

三島由紀夫「芸術断想 舞台のさまざま」より

233:無名草子さん
11/07/28 11:13:10.96 .net
芸術家の値打の分れ目は、死んだあとに書かれる追悼文の面白さで決ると言つてよいが、世間をあげて哀悼の意を
表しても、つまらない追悼文しか書かれない芸術家の死は哀れである。


サルドゥの「トスカ」で、私が主要な俳優たちにしばしば忠告したのは、この種の芝居における登場と退場の
大切さであつた。
役の人物があらはれる一瞬前に、役者が登場しなければならぬ。役の人物が退場した一瞬あとに、役者が
退場しなければならぬ。それがかうしたシアトリカルな芝居の味はひであると私は信じてゐる。
(中略)
つまりかういふ芝居で、観客は、役者と演技との或る一瞬のズレをたのしむのだが、それは必ずしもスタアへの
憧れや、あるひは役者の素顔に対する期待を意味するものではない。まづ存在を見、それから演技を見たいと
望んでゐるのである。それは奇術師の対する期待と似てゐて、一つのおどろくべき能力を見せられる前に、その
能力の容器をじつくり見せてもらひたいのである。

三島由紀夫「芸術断想 猿翁のことども」より

234:無名草子さん
11/08/03 09:58:37.62 .net
能以外の劇は、すべて、運動会のピストルみたいな幼稚な効果にたよつてゐる点で、大きな顔はできない。
「桜の園」の幕切れの有名な効果音も、いくら象徴的な効果を狙つても、この域を出ない。われわれは、劇の
総合的な効果といふものについて、丁度現実の突発的な小事件の連鎖のやうな、因果律の虜になつてゐる。
ピストルを打てば、消音ピストルでなければ、音がしなければ納まらない。しかし遠い花火があのやうに美しいのは、
遅く来る音の前に、あざやかに無言の光りの幻が空中に花咲き、音の来るときはもう終つてゐるからではないだらうか。
光りは言葉であり、音は音楽である。光りを花火と見るときに、音は不要なのだが、あとからゆるゆると来る音は、
もはや花火ではない、花火の追憶といふ別の現実性のイメーヂをわれわれの心に定着しつつ、別の独立な使命を
帯びて、われわれの耳に届くのである。

三島由紀夫「芸術断想 詩情を感じた『蜜の味』」より

235:無名草子さん
11/08/03 09:59:19.06 .net
『真相』なんて、大ていまやかしものに決まつてゐる。いつでもすばらしいのは事件そのもので、それだけなのだ。


「希望は過去にしかない」といふ悲観哲学は、伝統芸能の場合、一種特別な意味合ひを帯び、「昔はよかつた」
といふ言葉にたえず刺戟されないかぎり、芸術的完成はありえないことを、特に若い歌舞伎俳優に銘記して
もらいたいと思ふのである。


低級な剽窃はさておき、小説で模倣の目立つほどの作品は、却つて形式意欲の旺盛な、芸術的な作品に多い。
これから見て、模倣の目立つ絵は、それだけ芸術的に高度な、あるひは高度なものを目ざした絵であるか、
といふと、それはちがふ。絵画では、形式や色彩は、より本質的なものであるから、従つて形式や色彩は画家の
無意識的なものに緊密に結びついてゐるから、その模倣は、一そう低級であつて、第一義を誤まつてゐる。
これに比して、小説の文体その他形式上の模倣は、小説における形式が非本質的かつ知的なものであるから、
その模倣も、多少とも知的なものと考へられて恕される。

三島由紀夫「芸術断想 期待と失望」より

236:無名草子さん
11/08/03 09:59:53.97 .net
私には、「ワグナーの純粋化」といふ観念そのものが、世にもばからしく思はれたのである。
ワグナーとは、あらゆる純粋性に対する反措定なのだ。その点では、ワグナーは、象徴主義にとつてさへ敵である。
その「綜合」の意識、「全体」の観念には、おそろしく冒涜的な力があつて、その力がもつとも崇高なものから
もつとも猥褻なものまでのあらゆる価値を等しなみにし、そこに彼独特の甘美な怖ろしい毒を、甘美な病気を
ひろめたのであつた。「トリスタン」は、ただ単に官能的だから怖ろしいのでもなく、ただ単に形而上学的だから
崇高なのでもない。そこではバスを待つ人の行列のやうにお互ひに無関心に、官能と形而上学とが一小節づつ
平然と隣り合つて並んでゐる。こんなグロテスクな無差別の最高原理である「綜合」や「全体」が、死神にしか
似てゐないのは当然だらう。死神の鎌の無差別が、人間精神の全体性への嗜慾の象徴になる。それだから
「トリスタン」は怖ろしいのである。「トリスタン」の腐敗の力に、なまなかの純粋精神などが歯が立たないのは
このためなのだ。

三島由紀夫「芸術断想 三流の知性」より

237:無名草子さん
11/08/05 11:47:15.38 .net
芝居とはSHOWであり、見せるもの、示すものである。すべてが観客席へ向つて集約されてゆく作業である。
それだといふのに、舞台から向う側に属する人たちのはうが、観客よりもいつも幸福さうに見えるのは何故だらう。
何故観客席のわれわれは、安楽な椅子を宛はれ、薄闇の中で何もせずに坐つてゐればよく、すべての点で最上の
待遇を受けてゐるのにもかかはらず、どうしてこのやうに疲れ果て、つねに幾分不幸なのであらう。
私は妙な理論だが、こんなことを考へる。つまり人生においても、劇場においても、観客席に坐るといふ人間の
在り方には、何かパッシヴな、不自然なものがあるのである。示されるもの、見せられるものを見る、といふ
状況には、何か忌まはしいものがある。われわれの目、われわれの耳は、自己防衛と発見のためについてゐるので、
本来、お膳立てされたものを見且つ聴くやうにはできてゐないかもしれない。

三島由紀夫「芸術断想 劇場の中の『自然』」より

238:無名草子さん
11/08/05 11:48:40.11 .net
芸術の享受者の立場といふものには、何か永遠に屈辱的なものがある。すべての芸術には、晴朗な悪意、幸福感に
充ちた悪意がひそんでをり、屈辱を喜ぶ享受者を相手にすることをたのしむのである。そのもつとも端的な
あらはれが劇場芸術だと言つてよい。(中略)
劇場とは、どんな形であれ「存在」の仮構であるが、劇が進行するあひだ、俳優が存在を代表し、観客が存在を
放棄してゐるやうなあの状態、(いかに観客が舞台に「参加」してゐるといふ仮説が巧みに立てられようとも)、
あの状態からは、何か人間の幸福といふものに関する空しい教理がひびいてくる。もつと厳密に言へば、俳優は
彼自身の存在を放棄し、彼ならぬ別個の人格の「役」の存在証明にすべてを捧げてゐるからこそ幸福なのであり、
一方観客は、彼自身の存在をあいまいに受動的に保ちつつ、彼以外のものになるあらゆる可能性を、俳優によつて
奪はれてゐるからこそ不幸なのであらう。劇場の暗闇へなど入らぬかぎり、われわれはみなそれぞれの社会で
固有の役割を果してをり、決して「観客」などといふ、十把一トからげの、不名誉な呼称で呼ばれないですむのである。

三島由紀夫39歳「芸術断想 劇場の中の『自然』」より

239:無名草子さん
11/08/25 10:55:11.54 .net
映画「憂国」を見た人、いや、それよりも、見ない人が、一様に抱く疑問は、なぜ作者自身が主演したのか、
といふことであるらしい。これが最大の謎のやうに思つてゐる人もあるらしい。そこで考へられるのは、作者の
ナルシシズムだとか、マゾヒズムだとか、ぼろぼろに使ひ古された精神分析用語を持ち出して、もののみごとに
謎を解明したつもりになることである。しかしこれでは何も謎は解明されない。精神分析学の発明以来、
精神分析学を手段として利用しない芸術ジャンルは、ほとんどないと云つても過言ではないのであるから、
上のやうな言ひ方は、単なる芸術の同義反復にすぎない。
(中略)
さて、私は俳優、殊に映画俳優といふもののふしぎに魅せられてゐた。正直に言つて、これは俳優芸術のうちでも、
もつとも自発性の薄い分野である。ある意味では、影の影、幻の幻である。しかし、自発性、意志性が薄くなるに
従つて、存在性が重要性を増してくる。彼が影であることと、彼が確乎とした存在であることは、毫も矛盾しない。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より

240:無名草子さん
11/08/25 10:56:14.01 .net
まづ彼が、目に見えるモノとしての存在感と「それらしさ」に充ちあふれてゐなければ、影の影、幻の幻としての、
自律性を持ちえないのである。演技はその先の問題であつて、映画ではミス・キャストがいかに致命的であるかを
考へれば、思ひ半ばにすぎるものがあらう。
一方、私は小説家であり、劇作家である。小説家や劇作家は、精神、意志、知性、その他の自発性を第一条件とする。
もちろんこれには感受性が二次的に必要であるが、彼の仕事には、何よりもまづ、そこにモノを存在せしめるといふ
意志の自発性が必要である。
しかし、人間といふものは奇妙なもので、自発性、意志性が濃くなるに従つて、単なる存在性は稀薄になつてくる。
もちろん、私が、一般論として、人間の自発性、意志性が濃くなるにつれて、存在性が薄くなると云はうとして
ゐるのではない。たとへば、政治家の場合は、ナポレオンやヒトラーなど、その自発性、意志性の濃度に従つて、
存在性も濃くなつてゐた、といへるであらう。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より

241:無名草子さん
11/08/25 10:57:17.45 .net
が、芸術家の場合には、作品といふものがある。芸術家は、ペリカンが自分の血で子を養ふと云はれるやうに、
自分の血で作品の存在性をあがなふ。彼が作品といふモノを存在せしめるにつれて、彼は実は、自分の存在性を
作品へ委譲してゐるのである。
ここに芸術家の存在性への飢渇がはじまる。私は心魂にしみて、この飢渇を味はつた人間だと思つてゐる。
さういふ私が、存在性だけに、その八十パーセントがかかつてゐる映画俳優といふふしぎなモノに、なり代らうと
する欲求は自然であらう。
いはば私は、不在証明(アリバイ)を作らうとしたのではなく、その逆の、存在証明をしたい、といふ欲求に
かられたのである。だから映画「憂国」は、私の不在証明を証明しようとしたものの如く見えるだらうが、実は、
その逆、私の存在証明をしようとしたものだ。そして、さういふときの「私」とは、世間の既成概念にとぢこめ
られてゐる小説家としての「私」ではなく、もつと原質的な、もつと始源的な「私」であることは、いふまでもない。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より

242:無名草子さん
11/08/25 11:01:04.01 .net
ところで、映画俳優とは、選ばれる存在である。自分で自分を選ぶとはどういふことか? そこには論理的矛盾はないか?
選ぶ者と選ばれる者とを一身に兼ねることは、ボオドレエルではないが、「死刑囚と死刑執行人を一身に兼ねる」
ことに等しい。その成否は一に、画面の「私」が、作中人物としての自明の存在感を持ちうるか否かにかかつてゐる。
それは危険な賭である。自己を客観的に見ようとするときに起りがちな誤算は、誰しも免かれないにしても、
この場合は、それが最小限でなければならない。
画面の「武山信二中尉」の存在に、ほんの少しでも「小説家三島由紀夫」の影が射してゐたら、私の企図はすべて
失敗であり、物語の仮構性は崩れ、作品の世界は、床へ落ちたコップのやうに粉々になつてしまふだらう。
この危険が私に与へた魅惑、スリム、サスペンスは限りがなかつた。私が、影の影、幻の幻としての存在感を
持ちうるか否かは、私にとつての、人生の究極の夢に関はつてゐた。
しかも、この賭において、世間はすべて私の敵へ賭けてゐるのである。
さて、あとは、御覧になつた観客各位が判定を下して下さるのみである。

三島由紀夫41歳「『憂国』の謎」より

243:無名草子さん
11/09/12 23:22:44.61 .net
或る小説がそこに存在するおかげで、どれだけ多くの人々が告白を免かれてゐることであらうか。それと同時に、
小説といふものが存在するおかげで、人々は自分の内の反社会性の領域へ幾分か押し出され、そこへ押し出された以上、
もちろん無記名ではあるが、リスト・アップされる義務を負ふことになる。社会秩序の隠密な再編成に同意する
ことになるのである。
このやうな同意は本来ならば、きびしい倫理的決断である筈だが、小説の読者は、同意によつて何ら倫理的責任を
負はないですむといふ特典を持つてゐる。その点は芝居の観客も同様だが、小説が芝居とちがふ点は、もし単なる
享受が人生における倫理的空白を容認することであれば、いくらでも長篇でありうる小説といふジャンルは、
芝居よりもずつと長時間にわたつて、読者の人生を支配するので、(あらゆる時間芸術のうちで、長篇小説は
いちばん人生経験によく似たものを与へるジャンルである)、人々は次第に、その倫理的空白に不安になつて、
つひに自分の人生に対するのと同じ倫理的関係を、小説に対して結ぶにいたることがないではない。

三島由紀夫「小説とは何か 一」より

244:無名草子さん
11/09/12 23:23:32.91 .net
世間一般では、小説家こそ人生と密着してゐるといふ迷信が、いかにひろく行はれてゐることだらう。何よりも
それを怖れて小説家になつた彼であるのに! 私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、
新聞雑誌の人生相談の欄に招かれることである。それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、
オレンヂの樹の栽培について答へてゐるやうなものだ。
人生に対する好奇心などといふものが、人生を一心不乱に生きてゐる最中にめつたに生れないものであることは、
われわれの経験上の事実であり、しかもこの種の関心は人生との「関係」を暗示すると共に、人生における
「関係」の忌避をも意味するのである。小説家は、自分の内部への関係と、外部への関係とを同一視する人種で
あつて、一方を等閑視することを許さないから、従つて人生に密着することができない。人生を生きるとは、
いづれにしろ、一方に目をつぶることなのである。

三島由紀夫「小説とは何か 二」より

245:無名草子さん
11/09/12 23:24:19.27 .net
一面からいへば、神は怠けものであり、ベッドに身を横たへた駘蕩たる娼婦なのだ。働らかされ、努力させられ、
打ちのめされるのは、いつも人間の役割である。小説はこの怖ろしい白昼の神の怠惰を、そのまま描き出すことは
できない。小説は人間の側の惑乱を扱ふことに宿命づけられたジャンルである。そして神の側からわづかに
描くことができるのは、人間(息子)の愚かさに対する、愛と知的焦燥の入りまじつた微かな絶望の断片のみで
あらう。神は熱帯の泥沼に居すわつた河馬のやうだ。
「お前の母親は泥沼の中でしか落着けないのよ」
人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は「本心からではない」ことをバタイユは冷酷に指摘する。
その「本心」こそ、バタイユのいはゆる「エロティシズム」の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの
遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。

三島由紀夫「小説とは何か 七」より

246:無名草子さん
11/09/12 23:24:50.04 .net
バルザックが病床で自分の作中の医者を呼べと叫んだことはよく知られてゐるが、作家はしばしばこの二種の現実を
混同するものである。しかし決して混同しないことが、私にとつては重要な方法論、人生と芸術に関するもつとも
本質的な方法論であつた。(中略)
私のやうな作家にとつては、書くことは、非現実の霊感にとらはれつづけることではなく、逆に、一瞬一瞬自分の
自由の根拠を確認する行為に他ならない。その自由とはいはゆる作家の自由ではない。私が二種の現実のいづれかを、
いついかなる時点においても、決然と選択しうるといふ自由である。この自由の感覚なしには私は書きつづける
ことができない。選択とは、簡単に言へば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、といふことであり、その際どい
選択の保留においてのみ私は書きつづけてゐるのであり、ある瞬間における自由の確認によつて、はじめて
「保留」が決定され、その保留がすなはち「書くこと」になるのである。この自由抜き選択抜きの保留には、
私は到底耐へられない。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

247:無名草子さん
11/09/12 23:25:22.49 .net
「暁の寺」を脱稿したときの私のいひしれぬ不快は、すべてこの私の心理に基づくものであつた。何を大袈裟なと
言はれるだらうが、人は自分の感覚的真実を否定することはできない。すなはち、「暁の寺」の完成によつて、
それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の
現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私に
とつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、
二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。それは私の自由でもなければ、
私の選択でもない。作品の完成といふものはさういふものである。それがオートマティックに、一方の現実を
「廃棄」させるのであり、それは作品が残るために必須の残酷な手続である。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

248:無名草子さん
11/09/12 23:27:53.27 .net
私はこの第三巻の終結部が嵐のやうに襲つて来たとき、ほとんど信じることができなかつた。それが完結することが
ないかもしれない、といふ現実のはうへ、私は賭けてゐたからである。この完結は、狐につままれたやうな
出来事だつた。「何を大袈裟な」と人々の言ふ声が再びきこえる。作家の精神生活といふものは世界大に大袈裟な
ものである。
(中略)
しかしまだ一巻が残つてゐる。最終巻が残つてゐる。「この小説がすんだら」といふ言葉は、今の私にとつて
最大のタブーだ。この小説が終つたあとの世界を、私は考へることができないからであり、その世界を想像することが
イヤでもあり怖ろしいのである。そこでこそ決定的に、この浮遊する二種の現実が袂を分ち、一方が廃棄され、
一方が作品の中へ閉ぢ込められるとしたら、私の自由はどうなるのであらうか。唯一ののこされた自由は、その
作品の「作者」と呼ばれることなのであらうか。あたかも縁もゆかりもない人からたのまれて、義理でその人の子の
名付け親になるやうに。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

249:無名草子さん
11/09/12 23:28:26.63 .net
(中略)
吉田松陰は、高杉晋作に宛てたその獄中書簡で、
「身亡びて魂存する者あり、心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり」
と書いてゐる。
この説に従へば、この世には二種の人間があるのである。心が死んで肉体の生きてゐる人間と、肉体が死んで
心の生きてゐる人間と。心も肉体も両方生きてゐることは実にむづかしい。生きてゐる作家はさうあるべきだが、
心も肉体も共に生きてゐる作家は沢山はゐない。作家の場合、困つたことに、肉体が死んでも、作品が残る。
心が残らないで、作品だけが残るとは、何と不気味なことであらうか。又、心が死んで、肉体が生きてゐるとして、
なほ心が生きてゐたころの作品と共存して生きてゆかねばならぬとは、何と醜怪なことであらう。作家の人生は、
生きてゐても死んでゐても、吉田松陰のやうに透明な行動家の人生とは比較にならないのである。生きながら
魂の死を、その死の経過を、存分に味はふことが作家の宿命であるとすれば、これほど呪はれた人生もあるまい。
「何を大袈裟な」と笑ふ声が三度きこえる。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

250:無名草子さん
11/09/13 11:56:27.10 .net
ドストエフスキーの「罪と罰」を引張り出すまでもなく、本来、芸術と犯罪とは甚だ近い類縁にあつた。
「小説と犯罪とは」と言ひ直してもよい。小説は多くの犯罪から深い恩顧を受けてをり、「赤と黒」から
「異邦人」にいたるまで、犯罪者に感情移入をしてゐない名作の数は却つて少ないくらゐである。
それが現実の犯罪にぶつかると、うつかり犯人に同情しては世間の指弾を浴びるのではないか、といふ思惑が
働らくやうでは、もはや小説家の資格はないと云つてよいが、さういふ思惑の上に立ちつつ、世間の金科玉条の
ヒューマニズムの隠れ簑に身を隠してものを言ふのは、さらに一そう卑怯な態度と云はねばならない。そのくらゐなら
警察の権道的発言に同調したはうがまだしもましである。
さて、犯罪は小説の恰好の素材であるばかりでなく、犯罪者的素質は小説家的素質の内に不可分にまざり合つてゐる。
なぜならば、共にその素質は、蓋然性の研究に秀でてゐなければならぬからであり、しかもその蓋然性は法律を
超越したところにのみ求められるからである。

三島由紀夫「小説とは何か 十二」より

251:無名草子さん
11/09/13 11:57:11.57 .net
法律と芸術と犯罪と三者の関係について、私はかつて、人間性といふ地獄の劫火の上の、餅焼きの網の比喩を
用ひたことがあるが、法律はこの網であり、犯罪は網をとび出して落ちて黒焦げになつた餅であり、芸術は適度に
狐いろに焼けた喰べごろの餅である、と説いたことがあつた。いづれにしても、地獄の劫火の焦げ跡なしに、
芸術は成立しない。
(中略)
悪は、抽象的な原罪や、あるひは普遍的な人間性の共有の問題であるにとどまらない。きはめて孤立した、
きはめて論証しにくい、人間性の或る未知の側面に関はつてゐる筈である。私はアメリカで行はれた凶悪暴力犯人の
染色体の研究で、男性因子が普通の男よりも一個多い異型が、これらの中にふつうよりもはるかに多数発見されたと
いふ記事を読んだとき、戦争といふもつとも神秘な問題を照らし出す一つの鍵が発見されたやうな気がした。
それは又裏返せば、男性と文化創造との関係についても、今までにない視点を提供する筈である。

三島由紀夫「小説とは何か 十二」より

252:無名草子さん
11/09/13 11:58:17.03 .net
文学と狂気との関係は、文学と宗教との関係に似たところがある。ヘルダーリンの狂気も、ジェラアル・ド・
ネルヴァルの狂気も、ニイチェの狂気も、ふしぎに昂進するほど、一方では極度に孤立した知性の、澄明な高度の
登攀(とうはん)のありさまを見せた。何か酸素が欠乏して常人なら高山病にかかるに決まつてゐる高度でも、
平気で耐へられるやうな力を、(ほんの短かい期間ではあるが)、狂気は与へるらしいのである。
(中略)
分裂病の進行が、往々あるやうに、殺人や自殺に終つても、それを厳密な意味でクライマックスと呼ぶことは
できないであらう。こちら側から見れば、危険な反社会性の現実化であり、一つの社会事件としてのクライマックスで
あつても、向う側から見れば、さらに進行する経過の上の偶発的事件であるにすぎないからである。
(中略)
しかるに、狂気は、その進行過程において、つひに必然的クライマックスを持たない。必然的クライマックスとは
「物化」「自己物質化」であつて、常人の側からは「死」と同じことである。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

253:無名草子さん
11/09/13 11:58:52.18 .net
狂人の自殺は二重の意味を持つ。すなはち、自己物質化を狂気が達成しうるのに、さらに死によつてその達成を
助けることだからである。一方、狂人の殺人は、その反社会性によつて社会とは一見対立関係に立つやうだけれども、
法も亦責任能力を免除してゐるやうに、厳密な一対一の対立関係は成立しない。「きちがひに刃物」とはよく
言つたもので、狂人に殺された人間は、社会の用語によれば「事故死」なのである。
このやうな偶然性の体現、自己の行為を偶然化されること、そのこと自体が、自己物質化の進行と浸潤を意味する。
なぜなら、偶然とは「物」の特質だからである。これを宗教の用語で言へば、偶然とは「神」の本質であらう。
すなはち人間的必然を超えたところにあらはれる現象は、神の領域に他ならないからである。
(中略)
狂気と正常な社会生活との並行関係乃至離反のプロセスだけが、小説の題材になりうる。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

254:無名草子さん
11/09/14 10:16:46.96 .net
狂気の困つた特色は、その本質が反社会性にあるのではなくて、狂気の論理自体にしか本質がないのにもかかはらず、
狂人の幻想には社会生活の残滓が、(もつとも低俗なものをも含めて)、横溢してゐるといふことなのである。
このことは、前回の犯罪の問題と比べてみるとよくわかるだらう。犯罪的素因を先天性のものと考へるロムブロゾオ
などの諸説はともかく、犯罪はその本質を反社会性に持つてゐる。なぜなら犯罪を正当化する最高の論理は、
政治的犯罪と非政治的犯罪とにかかはらす、われわれが自己の社会を正当化する論理と同じ次元に立つてゐる
からである。このことが、小説の題材として、古来、狂気よりも犯罪が親しまれてきた一因であらう。
われわれが殺人を許容しない社会に住んでゐることは、一種の社会契約によつて、われわれ自身の殺人をも
許容されないものにしてしまつてゐるわけだが、狂気はあくまで病気の一種であり、人間の自由意志とは関係が
ないから、いかに狂気が危険でも、われわれ自身が発狂することは許されてゐるのである。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

255:無名草子さん
11/09/14 10:17:13.70 .net
これは一見ヘンな論理だと思はれるであらう。しかしここには小説の大切な問題がひそんでゐる。
なぜなら、小説も芸術の一種である以上、主題の選択、題材の選択、用語の選択、あらゆるものに、作者の意志が
かかり、精神がかかり、肉体がかかつてゐる。われわれはそれを不可測の神の意志、あるひは狂気の偶然の意志に
委ねるわけには行かないのである。なるほどソクラテスはその哲学をデエモンの霊感によつて得た。しかし、
ソクラテスは狂気には陥らなかつた。
選択それ自体が自由意志の問題を抱へ込んでをり、小説は、「自由意志」といふ信仰の極限的実験であつたとも
いへる。この社会の要求する社会契約も、倫理的制約も、すべて自由意志自身の責任において乗り超え踏み
破らうとする仮構であつた。
ひとたびここへ狂気の問題を導入すると、この根本的なメカニズムにひびが入つてしまふのである。自由意志が
否定されたところで、どうして小説世界の構築性といふ、自由意志の精華のやうなものが具現されるであらうか。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より

256:無名草子さん
11/09/14 10:20:28.33 .net
小説とは何か、といふ問題について、無限に語りつづけることは空しい。小説自体が無限定の鵺(ぬえ)のやうな
ジャンルであり、ペトロニウスの昔から「雑俎(サテュリコン)」そのものであつたのだから、それはほとんど、
人間とは何か、世界とは何か、を問ふに等しい場所に連れて行かれる。そこまで行けば「小説とは何か」を
問ふことが、すなはち小説の主題、いや小説そのものになるのであり、プルウストの「失はれし時を求めて」は、
そのやうな作品だつた。概して近代の産物である小説の諸傑作は、ほとんど「小説とは何か」の、自他への
問ひかけであつた、と云つても過言ではない。小説はかくて、永久に、世界観と方法論との間でさまよひつづける
ジャンルなのである。その彷徨とその懐疑とを失つた小説は、厳密な意味で小説と呼ぶべきでないかもしれない。
そこで小説とは、小説について考へつづける人間が、小説とは何かを模索する作業だ、と云つてしまへば、
技術的定義に偏して、重要な何ものかを逸してしまふ、といふところに、又、小説の怪物性がある。

三島由紀夫43~45歳「小説とは何か 十四」より

257:無名草子さん
11/10/11 14:41:19.56 .net
どうしても心の憂悶の晴れぬときは、むかしから酒にたよらずに映画を見るたちの私は、自分の周囲の現実を
しばしが間、完全に除去してくれるといふ作用を、映画のもつとも大きな作用と考へてきた。大スクリーンで
立体音響なら申し分がないがそれは形式上のこと、それで退屈な映画では何にもならぬ。(中略)これを一概に
「娯楽」といふ名で呼ぶのは当を得てゐない。私の映画に求めてゐるのは「忘我」であつて、娯楽といふ名で
括られるのは不本意である。私はただの一度も、映画で「目ざめさせて」もらつた経験もなく、又目ざめさせて
もらふために、映画館の闇の中へ入つてゆくといふ、ばからしい欲求を持つたこともないのである。
官能の助けを借りながら、知的探究をさせてもらふ、といふ、怠け者の欲張りが、いはゆる芸術映画の観客の
大半なのであらう。目に見えるものはいやでも官能に愬へ、しかも音が加はり、色彩が加はりすれば、どんな
知的な映画でも、その複合的効果を免かれることはできないのである。

三島由紀夫「忘我」より

258:無名草子さん
11/10/11 14:42:00.91 .net
そして忘我とはこれ又複雑な要素を含み、エロティシズムや恐怖といふ感覚的衝撃も十分忘我の材料になりうる
けれども(因みに、笑ひはたえず人を目ざめさせるから、忘我のたのしみには適しない)、知的なパズルも亦、
しばし自分の頭脳を他人のなかなか隅におけない頭脳の支配に委ねるといふ快感において、忘我のよすがになる
わけであるから、私が喜んで見る映画は、おのづから限られてくる。そしてこれらすべての条件を具備したものが、
他ならぬヒチコック映画なのであるが、今度の「トパーズ」を含めて、ヒチコックの近作に、往年の色艶が褪せて
来たことは淋しい。
美しい人間が出てくる、といふことも映画の与へる忘我の大切な要素であり、「トパーズ」にもやはりキューバの
地下組織の代表者として、目もあやな美人(カリン・ドール)が現はれ、その死までも華麗を極めてゐる。
美しい人間といふものは映画にしか出て来ない、といふのがわれわれの年齢の人間の、幼時から温めてきた信仰で
あつた。逆も真なりで、映画に出る人なら美しい人間に決つてゐた筈であつた。

三島由紀夫「忘我」より

259:無名草子さん
11/10/11 14:42:32.17 .net
ところが人間の肉体に対する信仰がどこかで崩れ、肉体の「偉大さ」が信じられなくなつてしまつた。これが
スター・システムの崩壊につながつたことは言ふまでもないが、美貌のみによつて偉大である、といふシンボル賦与の
役割を映画がすでに果さなくなつたことと照応してゐる。
その代りにタブーが取り去られ、「性」が映画の中央にしやしやり出てきて、どんな無気力な性を描いても、
性が主人公である映画が続出するやうになつた。現在氾濫してゐる二流映画の中で、私が感心したのはギリシアの
「猫の舌」ぐらゐのものであるが、面白いことには、性が前面に出てくればくるほど、スターは不要になり、
この面からもスター・システムの崩壊は推し進められてゐることである。
スターは性的シンボルであつたが、それは覆はれた性的シンボルであり、性の無名性の逆説であつた。

三島由紀夫「忘我」より

260:無名草子さん
11/10/11 14:45:38.33 .net
すなはち性的対象が一つで、こちらが不特定多数人だとすれば、たつた一つの性的対象に対してできるだけ多数の
不特定人が集まれば集まるほど、経済的効率は上るわけであるから、そのためには宣伝が必要になり、宣伝の
公共性がスターをいやが上にも有名にすると共に、性の無名性(性的独占の条件)はますます薄れ、人々は共有の
法則に従はざるをえなくなる。そこに神聖化が行はれ、幾多の処女伝説が発生した。しかしブルー・フィルムでは、
この事情は逆になる。俳優は無名であればあるほど、性的独占の対象として直接性を帯び、それはいかにも任意の
対象といふ風情をそなへ、観客と俳優は一対一で映像の性関係に入ることが容易になる。そのためには、公共性を
必然的に持つ宣伝は、すべてを阻害することになる。
未来の映画は、すべてブルー・フィルムになるであらう。そして公認されたブルー・フィルムの最上の媒体は、
ヴィデオ・カセットになるであらう。なぜならそれは映像の性的独占を可能にするからだ。

三島由紀夫「忘我」より

261:無名草子さん
11/10/11 14:47:06.89 .net
これはもう予期された結末であるが、それといふのも、映画は性を扱ふ時に圧倒的な効果を発揮するにもかかはらず、
劇場映画に要する厖大な制作費の条件は、性を無名性と個人的独占から遠ざけるやうにしか働らかないからである。
かういふことをうすうす感じてゐるからこそ、若い監督たちはあのやうな難解な映画を次々と作るのであらう。
どんな形而上学的主題も、或る巨大な性の影に包まれてゐるといふのが映画の本質であるのに、性を前面に扱へば
扱ふほど、かつてのやうなスターといふ存在のシンボル操作による、あの性の万能性・公共性・象徴性・神聖性は
失はれたのである。従つて、映画は或る巨大な性の影の庇護下にあらゆることを語りうる媒体であることを自ら
諦らめねばならず、一方では文学的演劇的な形而上学的主題へ逃げ、一方では芸術映画に特有な、汚ならしい
男女優による汚ならしい性的シーンの氾濫になつたのであらう。
かくも忘我から遠いものはないために、私は、これを見定めて、忘我を与へてくれさうな映画を見るとき以外に、
映画館へ足を運ばなくなつたのであつた。

三島由紀夫45歳「忘我」より

262:無名草子さん
11/10/18 10:35:11.66 .net
むかしはどこの家の中も暗かつた。このごろの団地の子供は、ハバカリへ行くといふことの恐怖も快楽も知らない。
あの怖ろしい暗い穴の中から、立ちのぼつて来て目にしみるアンモニアの匂ひ、それから煙出し片脳油の
胸せまるやうな悲劇的な匂ひ。それに、どうしてむかしの家では、ハバカリの電気をあんなに倹約したものだらう。
大と小との境目に、五燭ぐらいの電燈がぼんやりついてゐて、それに金蠅の羽音がまつはりついてゐる。それなら
まだいいはうで、全然灯火のないハバカリさへあつたのだ。
(中略)このごろでは全然見かけなくなつたあの片脳油といふもの。あれにはたしか、ノコギリ形の屋根と
黒煙を吐く煙突から成る古くさい工場の絵を描いたレッテルが貼つてあつた。それは大てい油じみて、半分
やぶれかけたレッテルだつた。ほかの防臭剤には、蠅が薬の霧を吹つかけられて、ジタバタして、瀕死の表情を
うかべてゐる絵が描いてあつたものだが、そのすぐそばで、本物の蠅は、逞しく生を謳歌してゐたのだつた。

三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」より

263:無名草子さん
11/10/18 10:35:43.73 .net
(中略)ビール罎の廃物利用の焦茶いろの罎に、ものすごい刺戟性の薬液がたつぷり入つてゐて、そして何よりも
そのレッテルだつた。子供はしやがんでゐるあひだ、ずつとそのレッテルと睨めつこをしてゐるわけだから、
いやでも覚えてしまふ。
ノコギリ屋根と暗い煙突、それは正に暗い前近代的な工場の風景で、その屋根の下ではきつと家族的な暗い
労働条件があつたのだ。(中略)曇つた朝空へのぼる煙突の煙には、それなりに悲壮なものがあつた筈だ。
日本資本主義の最底辺の、ハバカリにつながる工場の悲哀のなかにも、何かしら、すばらしい矜持があつた筈だ。
日本そのものの匂ひ、都市における唯一の農村の残存物であるところの、あの人糞人尿の匂ひに対抗し、
打ち克つために、正に近代的化学技術の粋を尽してつくられた、圧倒的、殲滅的、かつ、感傷的、近代的スプリーン
そのもののやうな匂ひの発明者としての。

三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」より

264:無名草子さん
11/10/18 10:36:07.05 .net
それから、これは多分、私の記憶ちがひであらうが、片脳油のレッテルには、子供にとつて最大の宇宙的無限の
謎を誘起する、当時はやりのデザインがあつたかもしれない。それは、人が何か手にもつてゐる図柄の中に、
又、人がそれを持つてゐる図柄があり、その中に又、人がそれを持つてゐる図柄がある、といふ無限小数的な
デザインである。さういふ、悲しくなるほど永遠に遠ざかり深まつてゆくものを暗示したデザインこそ、あの糞臭と
片脳油の匂ひのなかで鑑賞すべきものであつたのだ。
遠い汽笛、……どこの家でもきこえて、子供の夜を、悲しみでいつぱいにしてしまつたあの汽笛、しかし同時に
夜に無限のひろがりと駅の灯火の羅列とさびしい孤独な旅を暗示したあの汽笛は、どこへ行つてしまつたのか。

三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」より

265:無名草子さん
11/10/18 10:36:40.79 .net
幼時の思ひ出は、どれをとつても、文字どほりウサン臭いのである。
暗さばかりかと思ふと、思ひがけない痴呆的な明るさが現前する。それはたとへば、聯隊の軍旗祭の記念の風呂敷だ。
いやに赤つぽい桜、富士、旭日の光芒、紫、黄、赤などのものすごい配色。あそこには、栄光といふものと生活の
さびしさとがせめぎ合つた、ヒステリカルなけばけばしさがあつたのだ。私は証言する。むかしの日本人は、
さびしかつた。今よりもずつと多い涙の中で生きてゐた。嬉しいにつけ、悲しいにつけ、すぐ涙だつた。そして
軍隊の記念の風呂敷の、あのノスタルジックな極彩色は、その紫がただちに打身の紫、その赤がただちにヒビ、
アカギレの血の色を隠してゐた。人間といふものはもともと極彩色なのだ。
大日本帝国の一人一人の生活は、湿つた暗い蒲団に包まれてゐた。なぜ蒲団はあのやうに暗く、天井はあのやうに高く、
ハバカリはあのやうに臭く、そしてあらゆるものに、バカバカしく金ピカのレッテルが貼つてあつたのだらう。

三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」より

266:無名草子さん
11/10/18 10:37:27.88 .net
(中略)
お祭は、花やかで、きらびやかで、しかも陰惨そのものだつた。人々はまだ、不具に対する劃一的なヒューマニズムの
擒になつてはゐなかつた。あの安つぽさ、買つてくると一日でこはれる玩具、あきらかに有毒な着色剤を使つた菓子、
飲物、……そこではすべてが「禁止」されてゐた。少くとも「良家」の子供にとつては。従つてその禁止によつて
圧倒的な魅力を放つてゐた。
見世物の見るもおどろな泥絵具の大看板の、陰惨醜悪怪奇をきはめた半人半獣の図は、ここでもまた、紫の
ビロードと、金糸の縫取と、金銀の縁取りの房に囲まれてゐた。さういふものは、少年雑誌「譚海」の血みどろの
「切つたはつた」にもつながりがあつたのだ。衛生的な大人たちは、子供が「譚海」を読むことを賢明にも禁止し、
明るい、清潔な、そして親には孝行、軍国主義には賛成といふ、「少年倶楽部」を推賞したのだつた。

三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」より

267:無名草子さん
11/10/18 10:48:23.03 .net
私の子供時代はそんなものであつた。そしてさういふ、さびしい極彩色の日本人の生活を私はなつかしむ。
家のどこかでは必ず女がこつそりと泣いてゐた。祖母も、母も、叔母も、姉も、女中も。そして子供に涙を
見られると、あわてて微笑に涙を隠すのだつた。私は女たちがいつも泣いてゐた時代をすばらしいと思ふのである!
しかし泣いてゐた女たちの怨念は、今のやうな、いたるところで女がゲラゲラ高笑ひをし、歯をむき出してゐる時代を
現出した。むかしの女の幽霊は、さびしげに柳のかげからあらはれ、めんめんと愚痴をこぼしたが、今の女の幽霊は、
横尾忠則の絵にあるやうな裸一貫の赤鬼になつて跋扈してゐる。うわア怖い!

……私は一体何を語らうとしてゐたのだらう。私は横尾忠則について語らうとしてゐた筈だ。しかし、私は別事を
語りながら、すでに彼についてすべてを語つてしまつたやうな気がしてゐる。少くともその根元的なものすべてを。

三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」より

268:無名草子さん
11/10/19 15:51:14.53 .net
ふしぎでならないことは、彼が彼の年齢にもかかはらず、戦前の「暗い日本」と、同時にそのノスタルジックな
けばけばしい意匠とを、潜在意識の底にしつかり貯へ持つてゐるやうに見えることである。(中略)たとへば
彼が作つたアニメーションの映画で、旭日の沈む海に、涙を流しつつ男の横顔が沈んでゆき、その上に強大な
女の横顔がおほひかぶさるコマ絵の連続を見ても、私には、それが、大東亜戦争の敗北と大日本帝国の崩壊を、
肉体的に味はつた世代の人間でなければ描けない図柄のやうに思はれたものだ。
もちろんそれは一面的な解釈である。彼の世俗的な成功は、日本的土俗の悲しみとアメリカン・ポップ・アートの
痴呆的白昼的ニヒリズムとを、一直線につなげたところにあつた。(中略)はつきり云つて、それは、日本的恥部と
アメリカ的恥部との、厚顔無恥な結合、あるひは癒着であつたといへる。(中略)
恥部とは何だらうか。それはそもそも、人に見せたくないものだらうか。それとも人に見せたいものだらうか。
これは甚だ微妙な、また、政治的な問題である。

三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」より

269:無名草子さん
11/10/19 15:51:52.38 .net
横尾氏のやつたことは、+に+を掛けて-にすることではなく、-に-を掛けて+にすることだつたが、これは
いはば国際親善とは反対で、又、ツーリズム、世界的流行、工業化社会、都市化現象、大衆化社会などとも反対の、
人の一番心の奥底から奥底への陰湿な通路を通つた、交霊術的交流なのだつた。彼は、日本の土俗の霊を以て、
アメリカに代表される巨大な機械文明の現代に、或るフハフハした、桃いろの、ポップ・コーンのやうでもあり、
ゴム風船のやうでもあり、いづれにしても、パンと割られたらおしまひの、合成樹脂製の人魂を喚起したのだつた。
この人魂には、ハバカリの匂ひや、悲しい巨大な旭日の栄光や、女の涙や、やさしい不具者や、あらゆる人間的な
ものがまつはつてゐた。それにしても、とにかくそれは人魂なのであり、人間の霊魂の証しなのだつた。
霊魂は温かい、唯一の温かい言葉になつた。彼の芸術の独特の暗さと温かさは、かくて霊的なものである。
それは(中略)心と心との交流、すなはち心霊術に基づいてゐるからである。

三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」より

270:無名草子さん
11/10/19 15:53:59.91 .net
そこに「英雄」が立ち現はれる。
英雄は、正にこのやうな交霊によつて喚起され、土俗の中から、土でつくられた巨大ゴーレムのやうに立上ら
なければならない。一例が、横尾氏の夢寝にも忘れぬ英雄、高倉健は、花札の刺青を背中に散らした土俗の
アイドルであると同時に、近代都市の映画産業のメカニズムを通じて、深夜興行といふもつとも文明的な興行形態の
中に生きのびてゆく幻影なのである。死んでもらひませう! さういふ血の叫びをあげるとき、われわれの中の
血の叫び、あらゆる進歩主義者、改良主義者、ヒューマニストが、おぞ毛をふるつて避けて通る血の叫びが、
よびさまされて、かう怒鳴る。「カッコいいぞう!」……しかしそのとき、こんなパセティックな共感のうちに、
われわれは無限に喪失してゆく。何かを。何を喪失するともしれず、ただ喪失してゆく。ハバカリの匂ひを、
農村を、血の叫びを。……そして何十年かのち、コンピューターに支配された日本のオフィスの壁には、横尾忠則の
ポスターだけが、日本を代表するものとして残されるだらう。

三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」より

271:無名草子さん
11/10/27 08:57:20.66 .net
フハフハしたw

272:無名草子さん
11/10/31 02:14:23.96 .net
age

273:無名草子さん
11/11/06 07:15:01.86 .net
iyjuae
PDJW0027713470944435
wwarof
hob5903outdo

274:無名草子さん
11/12/01 09:45:28.97 .net


275:無名草子さん
11/12/02 09:57:30.53 .net
宇宙的見地に立てば、建築そのものと建築模型とのあひだのひらきは、ほとんどゼロに等しいほど微小なものに
なるであらう。人間がこれを区別するのは、ただ単に、実用に供しうるか否かといふプラクチカルな価値判断しか
ないからであるが、そもそも建築の本質が、実用価値(人が住み、あるひはその中で仕事をしうるといふ価値)
だけにあるのではないことは、例へばアンコール・トムのバイヨン寺院一つ見ても明らかであらう。そして、
人が住み、その中に入りうるといふ実用価値を絶対的に否定しようとすれば、何よりの捷経は、その建築を、
人の決して入りえないサイズに縮小してしまふことである。
人の決して入れない建築、住めない建築、しかも太陽の明暗のくつきりとした建築、……さういふものを考へて、
子供の私が、フィクションとしての文学に到達したのは、すこぶる自然であると言はねばならない。

三島由紀夫「電灯のイデア―わが文学の揺籃期」より

276:無名草子さん
11/12/11 18:05:42.00 .net
キリスト像があんなにアバラが出て痩せこけてゐるのは、人間が精神を視覚化するときに、なるたけ肉体的要素を
払拭した肉体を想像する傾きがあるからであらう。その反対でバッカス像は必ず肥つてゐる。それは快楽と肉と
衝動の象徴だからである。かうした象徴は世間の常識に深く入つてゐる。
肉体的な逞ましさと精神美とは絶対に牴触するといふ信念は広く流布してゐる。インドの苦行者のやうな
骨だらけの体を、日本人は一種のアジア的感受性から、尊崇する傾きがある。
象徴や、世間の通念はそれでいい。しかし御当人に何が起るかといふ問題である。人間の肉体と精神は、
象徴のやうに止つてゐないで、生々流転してゐる。肉体と精神のバランスが崩れると、バランスの勝つたはうが
負けたはうをだんだん喰ひつぶして行くのである。痩せた人間は知的になりすぎ、肥つた人間は衝動的になりすぎる。
現代文明の不幸は、悉くこのバランスから起つてゐる。

三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より

277:無名草子さん
11/12/11 18:06:08.90 .net
文士の例でいへば、面白いことに、戦後の破滅型の小説家、坂口安吾や田中英光の人並外れた巨躯はもとより、
太宰治もかなり頑丈な長身であつた。三人とも体にはかなり自信があつたので、肉体蔑視の思想にとらはれ、
自分たちのかなり頑丈な肉体に敵意を燃やし、この肉体を喰ひつぶすほどの思想を発明するために、生活を
めちやくちやにしてしまつた。彼らはわざわざ、むりやりにアンバランスを作り出したのである。
もつともこの三人とても、頑丈な体を持ちながら脳ミソの空つぽな作家に比べれば、どれだけ文学者らしいか
わからない。
一方では、知的でありすぎ、あるひは感覚的でありすぎる作家たちがゐる。文学作品を通した感覚といふものは、
元来知的なものであるから、知的な作家にこの二つを引つくるめてもよい。
彼らの作品には、確乎たる肉の印象がどこかに欠けてゐる。肉の耀やきが、本当の官能性といふものが欠けてゐる。
これは前記の例の逆のアンバランスである。

三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より

278:無名草子さん
11/12/11 18:06:36.79 .net
このアンバランスのはうが重大かと思はれるのは、ジイドもいふやうに「官能性こそは芸術家の最上の美徳」
だからである(因みにいふと、ジイドその人にも官能性が欠けてゐる)。これらの作家たちは、たとへ細緻な
性的感覚をゑがいても、肉の力と形態を欠いてゐるのである。
近代芸術の短所は、まさにその点にある。知性だけが異常発達を遂げて、肉がそれに伴はないのだ。
肉といふものは、私には知性のはぢらひあるひは謙抑の表現のやうに思はれる。鋭い知性は、鋭ければ鋭いほど、
肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的なものである。精神の羞恥心が肉を身に
まとはせる、それこそ完全な美しい芸術の定義である。羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
ロダンの彫刻「考へる人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致してゐる。
だまされたと思つてボディ・ビルをやつてごらんなさい。

三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より

279:無名草子さん
11/12/26 14:09:41.35 .net
格の正しい、しかも自由な踊りを見るたびに、私は踊りといふもののふしぎな性質に思ひ及ぶ。無音舞踊といふ
のもないではないが、踊りはたいがい、音楽と振り付けに制約されてでき上がつてゐる。いかに自由に見える
踊りであつても、その一こま一こまは、厳重に音楽の時間的なワクと振り付けの空間的なワクに従つてゐる。
その点では、自由に生きて動いて喋つてゐるやうに見える人物が、実はすべて台本と演出の指定に従つてゐる
他の舞台芸術と同じことだが、踊りのその音楽への従属はことさら厳格であり、また踊りにおける肉体の動きの
自由と流露感は、ことさら本質的なのである。
よい踊りの与へる感銘は、観客席にすわつて、黙つて、口をあけて、感嘆してながめてゐるだけのわれわれの
肉体も、本来こんなものではなかつたかと感じさせるところにある。踊り手が瞬間々々に見せる、人間の肉体の
形と動きの美しさ、その自由も、すべての人間が本来持つてゐて失つてしまつたものではないかと思はせるとき、
その踊りは成功してをり、生命の源流への郷愁と、人間存在のありのままの姿への憧憬を、観客に与へてゐるのである。

三島由紀夫「踊り」より

280:無名草子さん
11/12/26 14:10:11.73 .net
なぜ、われわれの肉体の動きや形は、踊り手に比べて、美、自由、柔軟性、感情表現、いやすべての自己表現の
能力を失つてしまつたのであらうか。なぜ、われわれは、踊り手のあらはす美と速度に比べて、かうも醜く、
のろいのであらうか。
これは多分、といふよりも明らかに、われわれの信奉する自由意思といふもののためなのである。自由意思が、
われわれの肉体の本来持つてゐた律動を破壊し、その律動を忘却させたのだ。
それといふのも、踊り手は音楽と振り付けの指示に従つて、右へ左へ向く。しかしわれわれは自由意思に従つて、
右へ向き左へ向く。結果からいへば同じことだが、意思と目的意識の介入が、その瞬間に肉体の本源的な律動を
破壊し、われわれの動きをぎくしやくとしたものにしてしまふ。のみならず、何らかの制約のないところでは、
無意識の力をいきいきとさせることができないのは、人間の宿命であつて、自由意思の無制約は、人間を意識で
みたして、皮肉にも、その存在自体の自由を奪つてしまふのだ。

三島由紀夫「踊り」より

281:無名草子さん
11/12/26 14:10:38.93 .net
踊りは人間の歴史のはじめから存在し、かういふ肉体と精神の機微をよくわきまへた芸術であつた。武道も
もともとは、戦ひの技術を会得するために、まづ肉体に厳重な制約を課して、無意識の力をいきいきとさせ、
訓練のたえざる反復によつて、その制約による技術を無意識の領域へしみわたらせ、いざといふ場合に、無意識の
力を自由に最高度に働かせるといふ方法論を持つてゐるが、踊りに比べれば、その目的意識が、純粋な生命の
よろこびを妨げてゐる。
踊りはよろこびなのである。悲しみの表現であつても、その表現自体がよろこびなのである。踊りは人間の肉体に
音楽のきびしい制約を課し、その自由意思をまつ殺して、人間を本来の「存在の律動」へ引き戻すものだといへる
だらう。ふしぎなことに、人間の肉体は、時間をこまごまと規則正しく細分し、それに音だけによる別様の法則と
秩序を課した、この音楽といふ反自然的な発明の力にたよるときだけ、いきいきと自由になる。

三島由紀夫「踊り」より

282:無名草子さん
11/12/26 14:11:05.56 .net
といふことは、音楽の法則性自体が、一見反自然的にみえながら、実は宇宙や物質の法則性と遠く相呼応して
ゐるかららしい。そこに成り立つコレスポンデンス(照応)が、おそらく踊りの本質であつて、われわれは
かういふコレスポンデンスの内部に肉体を置くときのほかは、本当の意味で自由でもなく、また、本当の生命の
よろこびも知らないのだ、としかいひやうがない。
(中略)ずいぶん話が飛んだやうだが、実は私は、新年といふ習慣も、この踊りの一種であるべきであり、新春の
よろこびも、この踊りのよろこびであるべきだといひたかつたのである。新しい年の抱負などと考へだした途端に、
われわれの自由意思は暗い不安な翼をひろげ、未来を恐怖の影でみたしてしまふ。未来のことなどは考へずに
踊らねばならぬ。たとへそれが噴火山上の踊りであらうと、踊り抜かねばならぬ。いま踊らなければ、踊りは
たちまちわれわれの手から抜け出し、われわれは永久によろこびを知る機会を失つてしまふかもしれないのである。

三島由紀夫「踊り」より

283:無名草子さん
12/01/26 22:17:45.77 .net
宮本亜門×平野啓一郎 アフタートークショー開催決定! - げきぴあ
URLリンク(community.pia.jp)

284:無名草子さん
12/01/30 21:09:12.97 .net
【韓国の今も続く食糞文化】

ホンタク・ エイの糞漬けについて(後半 韓国若手芸人による獣の糞喰い)

URLリンク(www.youtube.com)

  韓国は風呂は半月に1度、台所に便器があるのが普通の国です。

  日本人が風呂に毎日入ると聞いた韓国人が「日本人は嘘を言うな!」と激怒したそうです。




285:無名草子さん
12/02/18 10:24:36.55 .net


286:無名草子さん
12/03/01 16:36:55.24 .net


287:無名草子さん
12/03/02 05:57:26.30 .net
6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。

三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を
俺をモデルにして書き直すコトは絶対に間違え無いだろうゼッ!
そして俺の前に跪いて泪ながらに求愛するは必定なのサッ!!
勿論、言下に断ってやるゼッ!! 
どんなに哀願しても無駄なのサッ!!
アイツは腋臭が超ヒデエからナッ!!!!
分かったナッ!!!!!!!



288:無名草子さん
12/03/02 06:36:29.50 .net
2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。

三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を
俺をモデルにして書き直すコトは絶対に間違え無いだろうゼッ!
そして俺の前に跪いて泪ながらに求愛するは必定なのサッ!!
勿論、言下に断ってやるゼッ!! 
どんなに哀願しても無駄なのサッ!!
アイツは腋臭が超ヒデエからナッ!!!!
分かったナッ!!!!!!!

『春の雪』の映画化だって断然オレを主役に決定してただろうしサッ!!!

289:無名草子さん
12/03/03 04:09:15.10 .net
ナッちゃん、ステキ!

290:無名草子さん
12/03/05 23:46:58.21 .net
新人の辛さは、「待たされる」辛さである。


私もそのころの太宰氏と同年配になつた今、決して私自身の青年の客気を悔いはせぬが、そのとき、氏が初対面の
青年から、
「あなたの文学はきらひです」
と面と向つて言はれた心持は察しがつく。私自身も、何度かさういふ目に会ふやうになつたからである。
思ひがけない場所で、思ひがけない時に、一人の未知の青年が近づいてきて、口は微笑に歪め、顔は緊張のために
蒼ざめ、自分の誠実さの証明の機会をのがさぬために、突如として、「あなたの文学はきらひです。大きらひです」
と言ふのに会ふことがある。かういふ文学上の刺客に会ふのは、文学者の宿命のやうなものだ。もちろん私は
こんな青年を愛さない。こんな青臭さの全部をゆるさない。私は大人つぽく笑つてすりぬけるか、きこえないふりを
するだらう。
ただ、私と太宰氏のちがひは、ひいては二人の文学のちがひは、私は金輪際、「かうして来てるんだから、
好きなんだ」などとは言はないだらうことである。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より

291:無名草子さん
12/03/05 23:47:35.03 .net
青春の特権といへば、一言を以てすれば、無知の特権であらう。人間には、知らないことだけが役に立つので、
知つてしまつたことは無益にすぎぬ、といふのは、ゲエテの言葉である。どんな人間にもおのおののドラマがあり、
人に言へぬ秘密があり、それぞれの特殊事情がある、と大人は考へるが、青年は自分の特殊事情を世界における
唯一例のやうに考へる。


小説は書いたところで完結して、それきり自分の手を離れてしまふが、芝居は書き了へたところからはじまるので
あるから、あとのたのしみが大きく、しかもそのたのしみにはもはや労苦も責任も伴はない。


芝居の仕事の悲劇は、この世でもつとも清純なけがれのない心が、一度芝居の理想へ向けられると、必ずひどい目に
会ふのがオチだといふことである。その一例として、今もときどき私が思ひ出すのは、加藤道夫氏のことである。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より

292:無名草子さん
12/03/05 23:48:10.01 .net
芝居の世界は実に魅力があるけれど、一方、おそろしい毒素を持つてゐる。自分だけは犯されまいと思つても、
いつのまにかこの毒に犯されてゐる。この世界で絶対の誠実などといふものを信じたら、えらい目に会ふのである。
或るアメリカ人が、ニューヨークで、芝居を見るのは実に好きだが、劇壇の人たちはcorrupt people(腐敗した
人たち)だからきらひだ、と言つてゐたのも、一面の真実を伝へてゐる。
しかし、煙草のニコチンと同じで、毒があるからこそ、魅力もある。こればかりは、どう仕様もない。



大体私は「興いたれば忽ち成る」といふやうなタイプの小説家ではないのである。いつもさわぎが大きいから
派手に見えるかもしれないが、私は大体、銀行家タイプの小説家である。このごろの銀行が、派手なショウ・
ウィンドウをくつつけたりしてゐる姿を、想像してもらつたらよからう。


忘却の早さと、何ごとも重大視しない情感の浅さこそ、人間の最初の老いの兆だ。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より

293:無名草子さん
12/03/30 21:20:49.69 .net
up !

294:無名草子さん
12/03/30 21:21:34.66 .net

詩人の高橋睦郎も『西洋古典学事典』を愛読してやまないと聞いた。
納得した。
素晴らしい内容だから。
もしも三島由紀夫が生きていたなら絶賛するだろう。

総合★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★







295:無名草子さん
12/04/24 10:04:25.44 .net
新橋演舞場 五月花形歌舞伎
2012年5月1日(火)~25日(金)
夜の部
通し狂言 椿説弓張月
曲亭馬琴の原作に、三島由紀夫が構想を得て書き下ろし、自ら演出した渾身の
長編大作。「三島歌舞伎」の最高峰とも言われる傑作をたっぷりとご堪能下さ
い。
URLリンク(www.kabuki-bito.jp)


296:無名草子さん
12/05/24 14:01:21.08 .net


297:無名草子さん
12/06/13 08:48:07.06 .net
>>295
忙しくて見逃した

298:無名草子さん
12/07/20 17:40:43.23 .net
何かをきれいだと思つたら、きれいだと言ふさ、たとへ死んでも。

三島由紀夫「卒塔婆小町」より

299:無名草子さん
12/08/03 15:57:34.99 .net
仕事の捗るときほどの幸福感、その仕事の出来上つたときほどの幸福感がこの世にあらうとは思へない。
多くの人は、理性でたしかめられない状態を幸福と名附けてゐる。しかし芸術家の幸福感は、理性で百度も
たしかめられた幸福の意識であつて、もし幸福が夢だとするなら、それは覚めながら見る夢といふより、
最も覚めてゐる状態にしか現れない夢とでもいふべきものだ。
悲惨や苦悩を紙上に定着するときの作家の幸福感は、必然的に、作家の世間並みの誠実さを裏切る。(中略)
私は誠実さうな顔をした作家が、自分の読者を相手にして、誠実に人生的教訓を垂れたりしてゐるのを見ると、
彼は自分の制作の幸福感を偽善的に隠してゐるのか、それとも彼はさういふ幸福感を味はつたことのない
不幸な作家なのか、と疑はずにはゐられない。(中略)
私にとつては作家の真の誠実さは、おのれの制作の幸福感に対する、あらはな、恥知らずの誠実に尽きると
思はれる。少くともゲエテはあたりはばからずこのエゴイスティックな誠実を開陳しつつ生きたが、これこそは
おそらく唯一の、臭味を伴はぬ誠実なのであつた。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より


300:無名草子さん
12/08/14 23:36:51.34 .net
ツマンネ

301:無名草子さん
12/09/08 17:07:44.77 .net
私は「黒蜥蜴」が好きです^^

302:無名草子さん
12/10/01 20:27:52.35 .net
決して終らない音楽、決して幻滅を知らない恋慕、この同じやうな二つのものは、前者が
音楽の中にしか存在せず、音楽そのものによつてしか成就されないやうに、後者も情念の
或る瞬間にしか存在せず、その瞬間の架空の無限の連鎖のなかにしか成就されない。
かういふものが、ワットオのゑがいたロココの快楽であり、又快楽の法則だつたやうに
思はれる。

セザンヌの描いた林檎は、普遍的な林檎となり、林檎のイデエに達する。ところがワットオの
描いたロココの風俗は、林檎のやうな確乎たる物象ではなかつた。彼はそのあいまいな
対象のなかから、彼の林檎を創り出さなければならぬ。ワットオの林檎は、不可視の
林檎だつた。
実際この画家の、黄昏の光に照らし出された可視の完全な小世界は、見えない核心に
むかつて微妙に構成されてゐるやうにも感じられる。この画家の秘められた企てに、画中の
人物は誰一人気づいてゐない。気づかれないほどに、それほど繊細に思慮深く、画家の手は
動いたのだ。その企図がわづかながらうかがはれるのが「シテエルへの船出」なのである。

三島由紀夫「ワットオの《シテエルの船出》」より


303:無名草子さん
13/01/08 16:21:09.11 .net


304:無名草子さん
13/01/29 22:45:12.57 .net
三島由紀夫のさくひんではないが実は生きていた三島が主役の「不可能」て小説はまあまあだったよ

305:無名草子さん
13/02/10 10:35:17.82 .net
あの筋肉隆々の体は美輪明宏の一言が切っ掛けで出来上がったんだよ

306:無名草子さん
13/05/23 22:39:05.22 .net
天才作家ミシマ

307:無名草子さん
13/07/28 NY:AN:NY.AN .net
u

308:Q
13/08/22 NY:AN:NY.AN .net
Mishima

309:無名草子さん
13/10/16 20:21:10.35 .net
13年10月から16年9月までのおよそ3年間にわたり、三島由紀夫を顕彰する企画「2015年 三島由紀夫生誕90年・没後45年記念プロジェクト」が始動。その一環として「三島由紀夫DVD戯曲全集」と題し、『近代能楽集』が映像化される。

本作では、三島戯曲の魅力を再現するため、原文を一字一句変えることなく演出された舞台を、高性能カメラで撮影・編集。
各篇の映像監督には、映画監督や舞台演出家、劇作家、アート・ディレクターなど、さまざまなジャンルで活躍する気鋭のクリエーターを迎えるという。
第1弾としてリリースされるのは、『近代能楽集』の中でも人気の高い、「卒塔婆小町」「葵上」の2篇。両作の監督を努めたのは、映画「雪に願うこと」「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」などで知られる根岸吉太郎だ。
キャストには、寺島しのぶ&北村有起哉(「卒塔婆小町」)、中谷美紀&柄本佑(「葵上」)という顔ぶれがそろった。

DVDは、10月31日(木)に同時発売。価格は、各6,090円(税込)。
各巻には、著名執筆陣による解説書が封入される。
URLリンク(www.theaterguide.co.jp)

310:無名草子さん
13/11/08 16:02:37.36 .net
>>309
吉松隆の音楽も面白い。卒都婆小町は作曲家が「ゲゲゲのワルツ」とか言ってるが劇の進行とともに華麗に変身する。

来年6月東京新国立劇場でオペラ「鹿鳴館」

311:無名草子さん
13/11/25 21:22:39.45 .net
命日。

312:無名草子さん
13/12/13 20:32:34.13 .net
出版社は編集者レベルで朝鮮系 だから日本人は作家にすらなれない

反論、異論は認めない、というのも現在の文壇のほとんどが 
         朝鮮左翼系だから 
      自虐史観を新聞、テレビと共に
      誰が植えつけてきたか考えよう

気づけよ 日本人!!




もはやすべての文学賞受賞者は 朝鮮人認定式 と成り果てましたな

戦後、出版社が朝鮮人にのっとられてどこの賞も日本人が受賞できなくなった
だから文壇は左翼と反日の巣窟
おまいら、本なんて絶対買うなよ、朝鮮人に貢ぐだけだ

おまいら黙過の代償以下 自虐史観にのっとられた受賞作みてもなにも思わないか?
朝鮮人は一度利権を確保するとレイシストだから日本人には絶対手渡さないぜ

313:無名草子さん
14/11/03 13:03:10.18 .net
捕手

314:無名草子さん
15/01/09 13:37:19.82 aM1gbxvud
三島由紀夫は評論書かせるとほんとにおもしろいな
今の日本にこういう人がいないのは悲しい

315:無名草子さん
15/09/13 19:13:37.64 .net
up !

316:無名草子さん
15/09/22 19:22:56.31 .net
294 :無名草子さん:2012/03/30(金) 21:21:34.66
詩人の高橋睦郎も『西洋古典学事典』を愛読してやまないと聞いた。
納得した。
素晴らしい内容だから。
もしも三島由紀夫が生きていたなら絶賛するだろう。
総合★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

317:無名草子さん
15/09/25 19:05:47.43 .net
AKB渡辺麻友の漫画「さばドル」の絵を描いて作者よりか上手いだろアピールするバカ発見
URLリンク(inumenken.blog.jp)

318:無名草子さん
15/10/09 18:33:49.63 .net
153 :無名草子さん:
詩人の高橋睦郎も『西洋古典学事典』を愛読してやまないと聞いた。
納得した。
素晴らしい内容だから。
もしも三島由紀夫が生きていたなら絶賛するだろう。
総合★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

319:無名草子さん
17/05/13 16:14:41.57 .net
深川図書館特殊部落

同和加配

人ボコボコぶんなぐってもOK お咎めなし
ガキどもが走り回る 見て見ぬふり
公務員による恣意行為
etc

なんのための施設か? →特殊な関係用

320:無名草子さん
17/06/17 06:07:29.00 .net
深川図書館特殊部落
同和加配
人ボコボコぶんなぐってもOK お咎めなし
ガキどもが走り回る 見て見ぬふり
公務員による恣意行為
etc
なんのための施設か? →特殊な関係用

321:無名草子さん
17/11/24 18:29:53.74 .net
漫画はありますか?

322:無名草子さん
17/11/24 18:30:35.45 .net
有名な作品は?

323:無名草子さん
18/01/12 10:59:11.60 .net
一般書籍よりもおすすめてきにネットで得する情報とか
グーグル検索⇒『稲本のメツイオウレフフレゼ
HGUXZ

324:無名草子さん
18/03/21 10:49:51.15 .net
江東区立深川図書館特殊
銅和加配
在特
奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
被害者が警察を呼んでくれと何度も言っているのに公務員は無視し続けてた
幼児が歓声上げて走り回る       見ぬふり
小学生が歓声上げて走り回る     見ぬふり
中学生が大声で談笑して走り回る   見ぬふり
高校生が閲覧机で談笑雑談      見ぬふり
公務員による恣意行為
etc
なんのための施設か? →特殊な関係用
翌日、被害者を公務員が脅していた

325:無名草子さん
18/05/29 18:43:58.12 .net
7EQ8Y

326:無名草子さん
18/09/23 19:01:56.63 .net
江東区立深川図書館特殊B
銅和加配
在目特券
奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
被害者が警察を呼んでくれと何度も言っているのに公務員は無視し続けてた
幼児が歓声上げて走り回る       見ぬふり
小学生が歓声上げて走り回る     見ぬふり
中学生が大声で談笑して走り回る   見ぬふり
高校生が閲覧机で談笑雑談      見ぬふり
公務員による恣意行為
etc
なんのための施設か? →特殊な関係用
翌日、被害者を公務員が脅していた


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