三島由紀夫のおすすめエンタメ&戯曲at BOOKS
三島由紀夫のおすすめエンタメ&戯曲 - 暇つぶし2ch150:無名草子さん
11/04/16 11:46:45.71 .net
野暮くさいレッテル、何とかマッチの大箱のレッテル、小学校の教科書のやうな薄暗い画で飾られたレッテルを
僕は愛しました。そのくせ僕はアド・バルーンやネオン・サインはそれほど好きでもなかつたのです。
詩情をよびおこすものは消費面より生産面のはうが多いのではないかといふ僕のドグマティックな想像を裏書する
よい証拠はないものでせうか。それともそれは消費面に育つた都会児のセンチメンタルな憧れにすぎないのでせうか。
僕はビルディングの窓々にともる灯火よりも、工場街の灯火のはうに、深い郷愁をそそるものがあるのを感じます。
それは正にコムミュニズムとは全く無関係な立場でです。昼のサイレンよりも、工場の作業開始のサイレンのはうが、
何故かしら僕のあこがれる世界に近かつたのです。そこでは又しても暗いどよめきの彼方に、汚れた河口や、
並立つ煙突や、曇つた空や、それらの象徴する漠たる人工の苦悩が聳(そび)え立つてくるのでした。

三島由紀夫23歳「インダストリー―柏原君への手紙」より

151:無名草子さん
11/04/20 16:54:37.94 .net
感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に感じるほどのことを、他人は
自分に感じないといふ認識で軽癒する。(中略)
世間の人はわれわれの肉親の死を毫も悲しまない。少なくともわれわれの悲しむやうには悲しまない。われわれの
痛みはそれがどんなに激しくても、われわれの肉体の範囲を出ない。
感じやすさのもつてゐる卑しさは、われわれに対する他人の感情に、物乞ひをする卑しさである。自分と同じ
程度の感じやすさを他人の内に想像し、想像することによつて期待する卑しさである。感じやすさは往々人を
シャルラタンにする。シャルラタニスムは往々感じやすさの企てた復讐である。
私はまづ自分の文体から感じやすい部分を駆逐しようと試みた。感受性に腐蝕された部分を剪除した。ついで
私の生活に感じやすさから加へられてゐるさまざまの剰余物、こつてりとかけられたホワイト・ソースの如きものを
取り去らうと試みた。私の理想とした徳は剛毅であつた。それ以外の徳は私には価値のないもののやうに思はれた。

三島由紀夫「アポロの杯 航海日記」より

152:無名草子さん
11/04/20 16:55:03.28 .net
ここでは表情自体はあらはで、苦痛の歪みは極度に達してゐる。その苦痛の総和が静けさを生み出してゐるのである。
「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。一定量以上の苦痛が
表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、
どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは
限りもしらないものに思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての苦痛の
不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。この領域にむかつて、画面の
あらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の
高みにまで達してゐない。一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を
ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。

三島由紀夫「アポロの杯 北米紀行 ニューヨーク」より

153:無名草子さん
11/04/22 11:04:42.79 .net
或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。美は自分の秘密をさとられ
ないために、力めて凡庸さと親しくする。その結果、われわれは本当の美を凡庸だと眺めたり、たゞの凡庸さを
美しいと思つたりするのである。
(中略)
記憶はすべて等質だから、夢の中の記憶も現実の記憶と等質のものでしかないこと、その記憶の瞬間において、
私の観念はまた何度でもリオを訪れリオに存在するかもしれないが、私の肉体は同時に地上の二点を占めることは
できないこと、もはや死者が私の中に住むやうにしてリオは私の中に住むにすぎまいが、もう一度現実にリオを
訪れても、この最初の瞬間は二度と甦らぬであらうといふこと、その点では時がわれわれの存在のすべてであつて、
空間はわれわれの観念の架空の実質といふやうなものにすぎないこと、そして地上の秩序は空間の秩序にすぎない
こと、……私はこれらのことをつかのまに雑然と考へ、荘子の胡蝶の譬や、謡曲邯鄲の主題をあれこれと思ひうかべた。

三島由紀夫「アポロの杯 南米紀行―ブラジル リオ―転身―幼年時代の再現」より

154:無名草子さん
11/04/22 11:05:04.74 .net
荘子の譬は、転身の可能について語つてゐる。われわれは事実、ある瞬間、胡蝶になるのだ。われわれはさまざまな
ものになる。輪廻は刻々のうちに行はれる。大きな永い輪廻と、小さな刹那々々の輪廻とがある。小さな輪廻と
大きな輪廻とは、お互ひを映してゐる鏡影のやうなものである。ひとりわれわれの意識が、われわれをあらゆる
転身の危険から護り、空間にとぢこめられた肉体の存在を思ひ出させてくれるのである。さもなければわれわれは
二度と人間に立戻らないで、その瞬間から胡蝶になつてしまふことであらう。

三島由紀夫「アポロの杯 南米紀行―ブラジル リオ―転身―幼年時代の再現」より


時々、窓のなかは舞台に似てゐる。多分その思はせぶりな照明のせゐである。

「アポロの杯 南米紀行―ブラジル サン・パウロ」より

155:無名草子さん
11/04/24 10:50:30.19 .net
曲馬はこれを見るごとに、およそ平衡を失はなければ、どんな危険を冒しても安全だと語つてゐるやうに私には
思はれ、また、どんな不可能事の実現と見えるもののなかにも、厳然と平衡が住んでゐることを教へられるのである。
われわれは肉体の危険にもまして、たびたび精神の危険を冒す。そのときわれわれは曲芸師のやうにかくも平衡に
忠実であらうか。曲芸師が綱から落ち、曲芸師の額から皿が落ちるときに、われわれは彼等があやまつて肉体の
平衡を冒したことを如実に見るが、われわれが自ら精神の平衡を失ふさまは、これほど如実に見ることはできない
ので、それだけ危険は多く且つ重大である。
曲芸師は肉体の平衡を極限まで追ひつめて見せる。しかしかれらはそのすれすれの限界を知つてをり、そこで
かれらは引返して来て、微笑を含んで観衆の喝采に答へるのである。かれらは決して人間を踏み越えない。しかし
われわれの精神は、曲芸師同様の危険を冒しながら、それと知らずにやすやすと人間を踏み越えてゐる場合が
あるかもしれない。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 パリ シルク・メドラノ」より

156:無名草子さん
11/04/24 10:50:54.75 .net
思惟が人間を超えうるかどうかは、困難な問題である。超えうるといふ仮定が宗教をつくり、哲学を生んだので
あつたが、宗教家や哲学者は正気の埒内にある限り曲芸師の生活智をわれしらず保つてゐるのかもしれない。
もし平衡が破られたとき実は失墜がすでに起つてをり、精神は曲馬の円い舞台に落ちて、すでに息絶えてゐるかも
しれないが、そののち肉体が永く生きつづけるままに、人々は彼の死を信じないにちがひない。
狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、破局とすれすれの状態で
保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも一そう露はなのだ。たとへばわれわれは歩行の
場合に平衡を意識しないが、綱渡りの場合には意識せざるをえないのと同じである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 パリ シルク・メドラノ」より

157:無名草子さん
11/04/26 10:48:29.83 .net
オリンピアの非均斉の美は、芸術家の意識によつて生れたものではない。
しかし竜安寺の石庭の非均斉は、芸術家の意識の限りを尽したものである。それを意識と呼ぶよりは、執拗な
直感とでも呼んだはうが正確であらう。日本の芸術家はかつて方法に頼らなかつた。かれらの考へた美は普遍的な
ものではなく一回的(einmalig)なものであり、その結果が動かしがたいものである点では西欧の美と変りがないが、
その結果を生み出す努力は、方法的であるよりは行動的である。つまり執拗な直感の鍛錬と、そのたえざる試みとが
すべてである。各々の行動だけがとらへることのできる美は、敷衍されえない。抽象化されえない。日本の美は、
おそらくもつとも具体的な或るものである。
かうした直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。芸術家の抱くイメーヂは、
いつも創造にかかはると同時に、破滅にかかはつてゐるのである。芸術家は創造にだけ携はるのではない。
破壊にも携はるのだ。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より

158:無名草子さん
11/04/26 10:49:00.49 .net
その創造は、しばしば破滅の予感の中に生れ、何か究極の形のなかの美を思ひゑがくときに、ゑがかれた美の
完全性は、破滅に対処した完全さ、破壊に対抗するために破壊の完全さを模したやうな完全さである場合がある。
そこでは創造はほとんど形を失ふ。なぜかといふと、不死の神は死すべき生物を創るときに、その鳥の美しい歌声が、
鳥の肉体の死と共に終ることを以て足れりとしたが、芸術家がもし同じ歌声を創るときは、その歌声が鳥の死の
あとにまで残るために、鳥の死すべき肉体を創らずに、見えざる不死の鳥を創らうと考へたにちがひない。
それが音楽であり、音楽の美は形象の死にはじまつてゐる。
希臘人は美の不死を信じた。かれらは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を信じたかどうか疑問である。
かれらは具体的な美が、肉体のやうに滅びる日を慮つて、いつも死の空寂の形象を真似たのである。石庭の
不均斉の美は、死そのものの不死を暗示してゐるやうに思はれる。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より

159:無名草子さん
11/04/26 10:49:33.19 .net
希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が「精神」を発明するまで、人間は「精神」なんぞを
必要としないで、矜らしく生きてゐたのである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より


私は器楽よりも人間の肉声に、一層深く感動させられ、抽象的な美よりも人体を象つた美に一層強く打たれるといふ、
素朴な感性に固執せざるをえない。私にとつては、それらのもう一つ奥に、自然の美しさに対する感性が根強く
そなはつてをり、彫像や美しい歌声の与へる感動は、いつもこの感性と照応を保つてゐる。私には夢みられ、
象られ、さうすることによつて正確的確に見られ、分析せられ、かくて発見されるにいたつた自然の美だけが、
感動を与へるのである。思ふに、真に人間的な作品とは「見られたる」自然である。
希臘の彫刻の佳いものに接すると、ますますこの感を深められる。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より

160:無名草子さん
11/04/29 15:05:36.68 .net
(中略)
このうら若いアビシニヤ人は、極めて短い生涯のうちに、奴隷から神にまで陞(のぼ)つたのであつたが、それは
智力のためでも才能のためでもなく、ただ儔(たぐ)ひない外面の美しさのためであり、彼はこの移ろひやすい
ものを損なふことなく、自殺とも過失ともつかぬふしぎな動機によつて、ナイルに溺れるにいたるのである。
私はこの死の理由をたづねようとするハドリアーヌス皇帝の執拗な追求に対して、死せるアンティノウスをして、
ただ「わかりません」といふ返事を繰り返させ、われわれの生に理由がないのに、死にどうして理由があらうか、
といふ単純な主題を暗示させよう。
一説には厭世自殺ともいはれてゐるその死を思ふと、私には目前の彫像の、かくも若々しく、かくも完全で、
かくも香ばしく、かくも健やかな肉体のどこかに、云ひがたい暗い思想がひそむにいたつた経路を、医師のやうな
情熱を以て想像せずにはゐられない。ともするとその少年の容貌と肉体が日光のやうに輝かしかつたので、
それだけ濃い影が踵に添うて従つただけのことかもしれない。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より

161:無名草子さん
11/04/29 15:06:00.53 .net
(中略)
アンティノウスの像には、必ず青春の憂鬱がひそんでをり、その眉のあひだには必ず不吉の翳がある。それは
あの物語によつて、われわれがわれわれ自身の感情を移入して、これらを見るためばかりではない。これらの作品が、
よしアンティノウスの生前に作られたものであつたとしても、すぐれた芸術家が、どうして対象の運命を予感し
なかつた筈があらう。
(中略)
希臘人の考へたのは、精神的救済ではなかつた。かれらの彫像が自然の諸力を模したやうに、かれらの救済も
自然の機構を模し、それを「運命」と呼びなした。しかしかうした救済と解放は、基督教がその欠陥を補ふために
のちにその地位にとつて代つたやうに、われわれを生から生へ、生の深い淵から生の明るい外面へ救ふにすぎない。
生は永遠にくりかへされ、死後もわれわれはその生を罷(や)めることができないのである。あの夥しい希臘の
彫刻群が、解放による縛しめ、自由による運命、生の果てしない絆によつて縛しめられてゐるのを、われわれは
見るのである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より

162:無名草子さん
11/04/29 15:07:06.64 .net
彫像が作られたとき、何ものかが終る。さうだ、たしかに何ものかが終るのだ。一刻一刻がわれらの人生の終末の
時刻(とき)であり、死もその単なる一点にすぎぬとすれば、われわれはいつか終るべきものを現前に終らせ、
一旦終つたものをまた別の一点からはじめることができる。希臘彫刻はそれを企てた。そしてこの永遠の「生」の
持続の模倣が、あのやうに優れた作品の数々を生み出した。
生の茫洋たるものが堰き止められるにはあまりに豊富な生に充ちてゐる若者たちが、さうした彫像の素材に
なつたのには、希臘人がモニュメンタールと考へたものの中に潜む、悲劇的理念を暗示する。アンティノウスは、
基督教の洗礼をうけなかつた希臘の最後の花であり、羅馬が頽廃期に向ふ日を予言してゐる希臘的なものの
最後の名残である。私が今日再び美しいアンティノウスを前にして、ニイチェのあの「強さの悲観主義」
「豊饒そのものによる一の苦悩」生の充溢から直ちに来るところの希臘の厭世主義を思ひうかべたとしても
不思議ではあるまい。

三島由紀夫27歳「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より

163:無名草子さん
11/05/04 11:13:13.82 .net
少年時代にほとんど性欲的な知性の目覚めといふものを持たない人は、人生の半面しか知らない人ではないかと
思はれる。


私は徐々に文学の上で知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではないといふことを考へるやうになつた。


私はやはりニイチェ的な考へでギリシャの芸術を見てゐたと思ふのであるが、どこをつついても翳のないやうな
明るさ、完全な冷静さ、ある場合には陽気さ、快活さ、若々しさ、さういふものが見かけだけのものではなくて、
一番深いフシギなものをひそめてゐることに打たれた。そして一番表面的なものが、一番深いものだとさへ
考へるやうになつた。なぜなら私は心理分析にあきてゐたし、そこから人間の問題が全部出てくるとは思へなかつた。
むしろ人間のちよつとした表面の動きとか、太陽の光にさらされた平面を描いたものの中に、人間の存在の
恐ろしさとか、暗さとかが逆に出てくるやうに感じた。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

164:無名草子さん
11/05/04 11:14:10.53 .net
私は建設的な芸術といふものをいつまでたつても信じることができないし、そして芸術の根本にあるものは、
人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、ギョッとさせるといふことにかかつてゐるといふ
考へが失せない。もし芸術家のやることが市民の考へることと全然同じになつてしまつたら、芸術が出てくる動機が
ないのである。そして現在あるところのものを一度破滅させなければよみがへつてこないやうなもの、ちやうど
ギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から生れてくるやうに、芸術といふものは
一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ
点では文学も古代の秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅も
そのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

165:無名草子さん
11/05/04 11:15:47.79 .net
大体私は死や破滅そのものだけをテーマにした芸術にはあまり興味がない。いはゆる狂気の芸術及び狂気の
天才といふものには大して興味がない。やはり私は死や破滅を通していつもよみがへりを夢見てゐるのであるが、
さういふことを夢見ることと、根本的な破滅の衝動とがうまく符節を合したときに、いい芸術ができるのでは
ないかと思ふ。


立派な芸術は積木に似た構造を持ち、積木を積みあげていくやうなバランスをもつて組立てられてゐるけれども、
それを作るときの作者の気持は、最後のひとつの木片を積み重ねるとたんにその積木細工は壊れてしまふ、
さういふところまで組立てていかなければ満足しない。積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな
作者は、私は芸術家ぢやないと思はれる。世の教訓的な作家とかいはゆる健全な作家といはれてゐる連中は積木を
壊すことがイヤなのである。最後の一片を加へることによつてみすみす積木が崩れることがわかつてゐながら、
最後の木片をつけ加へる。そして積木はガラガラと崩れてしまふのであるが、さういふふうな積木細工が芸術の
建築術だと私は思ふ。

三島由紀夫31歳「わが魅せられたるもの」より

166:無名草子さん
11/05/10 10:19:54.22 .net
この地上で自分の意欲を実現する方式に二つはないのではないか? 芸術も政治も、その方式に於ては一つなのでは
ないか? だからこそ、芸術と政治はあんなにも仲が悪いのではないか? ただ、いつも必ず失敗し、いつも
必ず怒つてゐるのは、理想主義者だけなのである。
ワグナーは、加藤道夫氏とちがつて、どうやら、理想の劇場は死んだといふことを、誰よりも鮮明に、腹の中で
知つてゐた男のやうに思はれる。だから彼の「理想の劇場」が建つてしまつたのである。しかしこの壮大な規模の
古代祭典劇の再現を自分で見ながら、やはりワグナーは、その友にして仇敵ニイチェが荘厳な面持で、
「神は死んだ」と言つたやうに、ニヤリと笑ひながら、「理想の劇場は死んだ」と呟いてゐたかもしれない。
私はワグナーといふ男のことを考へると、彼の作品のあのやうな悲愴さにもかかはらず、ワグナー自身は、毫も
悲愴さを持たぬ人間だつたやうな気がしてならない。それは多分彼が「芸術家だから理想主義者ではない」といふ
風土に、育ち且つ生きたからであらう。

三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論 理想の劇場は死んだ」より

167:無名草子さん
11/05/10 10:21:06.70 .net
ラヂウムを扱ふ学者が、多かれ少なかれ、ラヂウムに犯されるやうに、身自ら人間でありながら、人生を扱ふ
芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。
ラヂウムは本来、人間には扱ひかねるものである。その扱ひには常に危険が伴ふ。その結果、人間の肉体が犯される。
人間の心とは、本来人間自身の扱ふべからざるものである。従つてその扱ひには常に危険が伴ひ、その結果、
彼自身の心が、自分の扱ふ人間の心によつて犯される。犯された末には、生きながら亡霊になるのである。そして、
医療や有効な目的のために扱はれるラヂウムが、それを扱ふ人間には有毒に働くやうに、それ自体美しい人生や
人間の心も、それを扱ふ人間には、いつのまにか怖ろしい毒になつてゐる。多少ともかういふ毒素に犯されて
ゐない人間は、芸術家と呼ぶに値ひしない。

三島由紀夫32歳「楽屋で書かれた演劇論 俳優と生の人生」より

168:無名草子さん
11/05/13 17:38:17.23 .net
マヤの死の神はたえず飢ゑてゐて、がつがつと餌を求めてゐる。ここでは人が死ぬといふことは、自然が自然に
喰はれ、生命が生命に喰はれることであり、たとへ自然死であつても、それは何か蝶が蜘蛛に喰はれるのと似てゐる。
かうして半ば文明生活に護られてゐながら、どこかに自分を打ち倒すいやらしい生々しい生命の存在を予感して
ゐるのは、私だけだらうか。
いや、私だけではない。コミュニストたちは革命の名の下に、砂塵をあげて攻め寄せてくるより強大な生命を
描いてみせながら、思ふ存分、今なほ衰へぬかうした伝来的恐怖を利用する。メキシコの左翼画家リヴェラが
描く威嚇するやうな労働者群は、人間的規模を越えて、熱帯のあくどい圧倒的自然に近づいてゐる。
(中略)
熱帯の人々の生き方には、その外圧的なより強力な生の模倣がひそんでゐる。われわれは巨大なてらてらと
光つた植物や、鸚鵡や豹の生命を模倣しようとする。それに参画しようとする。……これが生きるといふことであり、
これが不可能になつたときそれは死であり、模倣の代りに喰べられ同化されてしまふことなのである。

三島由紀夫「旅の絵本 1 禿鷹の影」より

169:無名草子さん
11/05/13 17:41:50.45 .net
チチェン・イッツァのマヤランド・ロッヂ・ホテルの二階の柱廊から、私は鬱蒼と茂つた熱帯樹の葉むらのかげに、
うす紫の寄生蘭が花咲いてゐるのを見た。と、突然、その蘭の花弁をかすめて、数羽のたけだけしい羽音が起り、
黒い影が目の前をかきみだして翔つた。それは禿鷹だつた。
死はこんな白昼に、こんなにも人々の食卓や寝椅子に近く、力強く羽撃いてゐた。その影は午後の酒を置いた
テーブル・クロースの上をも翳らした。それは不吉な黒い姿をしてはゐるが、やはり強大な生命の一種に
他ならないのだ。
他者としての生命、自我にかかはらない生命……、かういふものの考へ方は西欧人をぞつとさせる。それは容易に
生命と死の同一視にみちびくからである。そしてかういふ考へ方は、必ずどこかで太陽崇拝に結びついてゐる。
身を突き刺す嚠喨たる喇叭の音のやうに、たえず鳴りひびいてゐる熱帯の日光。空気は幾条もの亀裂を生じて澱み、
椰子や火焔樹は目くるめく海の背景に象嵌されて身じろぎもしない。

三島由紀夫「旅の絵本 1 禿鷹の影」より

170:無名草子さん
11/05/14 11:47:33.26 .net
廃墟といふものは、ふしぎにそこに住んでゐた人々の肌色に似てゐる。ギリシアの廃墟はあれほど蒼白であつたが、
ここウシュマルでは、湧き立つてゐる密林の緑の只中から、赤銅色の肌をした El Adivino のピラミッドが
そそり立つのだ。その百十八の石階には古い鉄鎖がつたはつてをり、むかしマキシミリアン皇妃がろくろ仕掛の
この鎖のおかげで、大袈裟にひろがつたスカートのまま、ピラミッドの頂きまで登つたのであつた。
そこらの草むらには、はうばうに石に刻んだ雨神の顔が落ちてゐた。この豊饒の神の顔は怒れる眉と爛々たる目と
牙の生えた口とをもち、鼻は長く伸びてその先が巻いて象の鼻に似、しばしば双の耳の傍から男根を突き出してゐる。
(中略)
巨大な中庭をかこむ四つの尼僧院の壮麗さは私をおどろかせたが、そこを出て、(中略)ウシュマルのアポロ神殿
ともいふべき「支配者の宮殿」の前に立つたとき、いくつかのゴシック風のアーチの余白をのぞいて、残る隈なく
神秘的な浮彫に飾られた横長の壮大な建築は、私の心をいきいきとさせ、ついで感動で充たした。

三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より

171:無名草子さん
11/05/14 11:48:37.37 .net
大宮殿はおそらくその下に石階を隠してゐる平たい広大な台地の上にあつた。この正面に相対して、二頭の
ジャグワの像を据ゑた小さい台地があり、さらに宮殿の入口の前には、巨大な男根が斜めにそびえてゐた。
壮麗な建築がわれわれに与へる感動が、廃墟を見る場合に殊に純粋なのは、一つにはそれがすでに実用の目的を離れ、
われわれの美学的鑑賞に素直に委ねられてゐるためでもあるが、一つには廃墟だけが建築の真の目的、そのために
それが建てられた真の熱烈な野心と意図を、純粋に呈示するからでもある。この一見相反する二つの理由の、
どちらが感動を決定するかは一口に云へない。しかし廃墟は、建築と自然とのあひだの人間の介在をすでに
喪つてゐるだけに、それだけに純粋に、人間意志と自然との鮮明な相剋をゑがいてみせるのである。廃墟は現実の
人間の住家や巨大な商業用ビルディングよりもはるかに反自然的であり、先鋭な刃のやうに、自然に対立して
自然に接してゐる。それはつひに自然に帰属することから免れた。それは古代マヤの兵士や神官や女たちの
やうには、灰に帰することから免れた。

三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より

172:無名草子さん
11/05/14 11:49:28.75 .net
と同時に、当時の住民たちが果してゐた自然との媒介の役割も喪はれて、廃墟は素肌で自然に接してゐるのである。
殊に神殿が廃墟のなかで最も美しいのは、通例それが壮麗であるからばかりではなく、祈りや犠牲を通して神に
近づかうとしてゐた人間意志が、結局無効にをはつて挫折して、のび上つた人間意志の形態だけが、そこに
残されてゐるからであらう。かつては祈りや犠牲によつて神に近づき、天に近づいたやうに見えた大神殿は、
廃墟となつた今では、天から拒まれて、自然―ここではすさまじいジャングルの無限の緑―との間に、対等の
緊張をかもし出してゐる。神殿の廃墟にこもる「不在」の感じは、裸の建築そのものの重い石の存在感と対比されて
深まり、存在の証しである筈の大建築は、それだけますます「不在」の記念碑になつたのである。われわれが
神殿の廃墟からうける感動は、おそらくこの厖大か石に呈示された人間意志のあざやかさと、そこに漂ふ厖大な
「不在」の感じとの、云ふに云はれぬ不気味な混淆から来るらしい。

三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より

173:無名草子さん
11/05/15 20:42:09.16 .net
大体アメリカの貧乏は日本の貧乏よりすご味があります。たとへば年金制度が発達して、隠退後の老人は
働かないでいい、といへば結構なやうだが、さういふ老人はどうやつて余生を送るだらう。ある寒い午後、
友人とセントラル・パークへ散歩に行き、小高い丘の上にある六角堂みたいな建物に入つてみると、その中は
暖房がしてあつて、たゞで西洋将棋ができるやうになつてゐる。むうつとするたばこの煙のなかで、行き場のない
老人ばかりが、じつとチェスの卓を囲んでゐる。長考の顔の深い皺。……スチームのそばのベンチは、ただ
放心したやうに腰かけてゐる老人で一ぱいだ。日本の縁台将棋のやうなにぎやかさはなくて、私は一種凄愴の
気を感じて、いそいで立去りました。

三島由紀夫「旅の絵本 ニューヨークの炎」より

174:無名草子さん
11/05/15 20:43:39.73 .net
アメリカ人がハイチをよろこぶのは、ニューヨークから数時間の飛行でアフリカのにほひをかげるためだといふ。
事実ここにはアフリカ的なものが根強く残つてをり、ほんの少数の富裕なインテリの黒人は、さういふ民衆から
隔絶して、ラシイヌやモリエールを論じてゐる。
山の中腹に市がたつてゐて、そこで売つてゐるもののきたならしさにはびつくりした。牛だか、羊だかの腸を
乾燥させたものや、干魚など、それにぎつしりハヘがたかつてゐる。ハヘはまるでなくてはならない薬味のやうに、
金カンに似たカシュウ・ナットにも、小さい青いレモンにも、パンにも、砂糖菓子にもたかつてゐる。黒い豚や
山羊がつながれ、ロバに乗つてくる女もある。
市中でタクシーに乗つてゐたとき、道の途中で手をあげた男が車を止めて勝手に私のとなりへすはり込み、勝手に
行先を命じて、金も払はずに下りてゆくのに私はあきれて、おこる気もしなかつたが、運転手にいはすと、
あれは移民官だから仕方がないといふのであつた。

三島由紀夫33歳「旅の絵本 ポートオ・プランス(ハイチの首都)」より

175:無名草子さん
11/05/20 10:45:01.96 .net
(神輿の)懸声は、単純な拍子木や、原始的な金棒のひびきに導かれて、終始同じリズムでやりとりされてゐる。
もし神輿に懸声が伴はなかつたら、それは神輿の屍体にすぎぬ。なぜなら、(おそらくここに、神輿の懸声が、
他の肉体労働の懸声とちがつてゐる点があるのだが)、このリズムある懸声は、神輿の脈搏なのである。それは
理性の統制を決して意味することなく、われわれの動きを秩序づけようと作用することもない。正しい懸声の
あひだにも、肩にかかる力は目まぐるしく増減してをり、足元は人に踏まれたり踏み返されたりしながら、調子を
とらうとするそばから小刻みに乱される。われわれの気儘な動きのあひだにも、心臓が鼓動を早めながら、なほ
正確な脈搏を忘れぬやうに、そのとき懸声は担ぎ手たちの感じてゐる自由な力を保証するために挙げられてゐる。
あの力の自在な感じは、懸声がなかつたら、忽ち失はれるにちがひない。

三島由紀夫「陶酔について」より

176:無名草子さん
11/05/20 10:46:15.61 .net
そしてリズムある懸声と力の行使と、どちらが意識の近くにゐるかと云へば、ふしぎなことに、それはむしろ
後者のはうである。懸声をあげるわれわれは、力を行使してゐるわれわれより一そう無意識的であり、一そう
盲目である。神輿の逆説はそこにひそんでゐる。担ぎ手たちの声や動きやあらゆる身体的表現のうち、秩序に
近いものほど意識からは遠いのである。
神輿の担ぎ手たちの陶酔はそこにはじまる。彼らは一人一人、変幻する力の行使と懸声のリズムとの間の違和感を
感じてゐる。しかしこの違和感が克服され、結合が成就されなければ、生命は出現しないのである。そして結合は
必ず到来する。われわれは生命の中に溺れる。懸声はわれわれの力の自由を保証し、力の行使はたえずわれわれの
陶酔を保証するのだ。肩の重みこそ、われわれの今味はつてゐるものが陶酔だと、不断に教へてくれるのであるから。

三島由紀夫31歳「陶酔について」より

177:無名草子さん
11/05/21 11:31:27.07 .net
歌右衛門丈については、すでにたびたび書いた。そのたびに同じやうなことを書くことになるのは、丈に
進歩発展がないといふことを意味しない。たとへば一輪のみごとな大輪の菊や、夕闇にうかぶ夕顔の花や、
さういふものについて何度も書いて、そのたびにちがつたことが書けるわけはない。昼夜二部制興行で一日五役や
六役に変貌しても、俳優といふものは役の背後に全く隠れ切つてしまへるわけではない。あらゆる芸術家の中で、
舞台芸術家は、おのれの肉体的条件、おのれの肉体の檻の中にもつとも決定的にとぢこめられてゐる。顔や声や
体つきが個性を暗示するのにもつとも力があるとすれば、顔や声や体つきにもつとも縛られてゐる俳優なるものは、
いちばん個性的芸術家なのである。たとへば個性といふ見地からは、団十郎や菊五郎のはうが、森鴎外や夏目漱石より
個性的なのである。この私の意見はもつと詳述を要するけれど、今はこのくらゐに止めておかう。

三島由紀夫「豪奢な哀愁」より

178:無名草子さん
11/05/21 11:31:51.39 .net
舞台の芸が時間の経過と共に一瞬一瞬に観客の記憶の中へ組み入れられつつ消え失せてゆくことを思ふと、
われわれは俳優といふ存在に一そう熱狂し、それを失ひたくない思ひにかられる。舞台の上に今歌右衛門丈が
踊つてをり、袖がひらめき、美しい流し目が見え裾の金糸がかがよひ、黒い髪が乱れ……さういふとき、われわれ
観客は自分の全存在を歌右衛門に賭けてしまつてゐるのだが、それといふのも丈が世界中にかけがへのない花だと
いふ意識がわれわれにあるからである。
それは一種の幻覚にすぎないかもしれない。丈がかけがへのない存在なら、お客の一人一人だつてかけがへの
ない存在なのであり、地位やお金や才能の高下があつたところで、だれだつて人間は一人一人かけがへのない存在で、
誰しもそれを知つてゐるから、自分の命が何よりも惜しい。それにもかかはらず、舞台の上の俳優の芸の美しい
一瞬一瞬のためにこちらの存在が空つぽになつてしまつたやうに思へること、これはいかなる魔術であらうか。

三島由紀夫「豪奢な哀愁」より

179:無名草子さん
11/05/21 11:32:47.13 .net
丈の舞台はとにかくそれだけのものをもつて来たのである。芸の些末なふしぶしがどうあらうと、とにかく見て
ゐるわれわれには、今舞台の上に、途方もない贅沢千万な生命の浪費が行はれてゐるといふ感じが来る。生命の
大盤振舞、金に糸目をつけぬ豪奢な饗宴がくりひろげられてゐるといふ感じがまづ先に来る。そしてこの途方も
ない浪費は、まさにわれわれのために行はれてゐることに気づくと、たぐひない満足と喜びが感じられるのである。
咲き誇つた花や、庭に突然舞ひ込んでくる大きなきらびやかな蝶を見るとき「今見ておかねばならぬ。そして今
見てゐるものこそ、幻ではなくて、本当の美の瞬間の姿だ」と思ふやうに、丈の舞台を見てゐるとき、私は
ときどき、自分が一生に何度とない善尽し美尽しの饗宴の只中にあるやうな気がし、又、あの歓楽尽きて哀傷生ずと
歌つた詩そのままの、いふにいはれない哀愁を感じることがある。宴のさかりにほのかに吹いてくる冷たい
夕風のやうなものを感じることがある。さういふ感じを与へるところが、丈の身上なのかもしれない。

三島由紀夫33歳「豪奢な哀愁」より

180:無名草子さん
11/06/04 20:29:41.84 .net
ここには、湧き立つやうなリオ・デ・ジャネイロの狂熱のカーニバがある。オルフェのギリシア神話の現代版がある。
そしてヴードゥーに似たブラジル特有の神がかりがある。
第一に、この単純な物語の舞台の背景がすばらしい。リオ市の奇妙な特徴は、ふつうなら上流人士の住処に
なるべき筈の市中の山の頂きが悉く貧民窟になつてゐることで、モーロの聚落は、その不潔さと極度の貧しさで
有名である。市中の一等景色のよい、海の眺めのひろい場所を臭気ふんぷんたる連中が占領してゐるのである。
しかも貧しい黒人たちは、一年中働らいて得たわづかな金を、カーニバルの四日四晩で完全に費消してしまふ。
ブラジルは人種的偏見の少ない国だが、それでも黒人の悲願は白人に生れ変ることであり、かういふ宿命を
抱いた人たちは、当然仮装に熱中する。仮装こそ、「何かになりたい」といふ念願の仮の実現だからである。
だから貧しい黒人たちの仮装は豪華であつて、なけなしの金をはたいて、カーニバルの数日のためだけに、
最上の装ひを凝らすのである。

三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より

181:無名草子さん
11/06/04 20:30:04.87 .net
第二に、ギリシア神話の現代化のために、リオのカーニバルと黒人の生活が選ばれたことが、すばらしい着眼点だと思ふ。
私も一九五二年にこのカーニバルに踊り狂つた一人だが、現代の世界で、これほどディオニュソス的感動に
近いものはないと思つた。(中略)
この映画のラストで、黒いオルフェは、嫉妬に狂つた許嫁ミラに投石されて、崖から落ちて死ぬが、ミラと
その一党は、いふまでもなくオルフェを八つ裂きにしたバッカスの巫女たちの翻案である。しかし、「カーニバルで
狂騒と嫉妬にかられた黒人女」といふ設定は、そのまま「現代のバッカスの巫女」として、何ら無理なく通用する、
「現代のバッカスの巫女」を世界中に求めたら、おそらくここに帰着するだらうと思ふ。
こんなわけで、ギリシア神話が、ここでは、全く自然に、いきいきと蘇つてゐるのである。オルフェの地獄めぐりも、
神がかりのシーンで代置されるが、この神がかりはおそらく、芝居でなくて実写だらうと思ふ。あんまり迫真的
だからである。

三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より

182:無名草子さん
11/06/04 20:31:21.87 .net
(中略)
閑話休題。これらの点で、ギリシア神話の単純素朴と原始的狂熱を現代に移すのに、リオのカーニバルと黒人以上の
ものはないことは自明である。大体白人はすでに、素朴な恋物語や、純真な情熱や、身を滅ぼす狂躁を、演じにくく
なつてゐるのではなからうか。その衰弱を救ふのが黒人であつて、先頃の「カルメン」Carmen Jonesも、ビゼエの
古い歌劇が、黒人のおかげで、完全に現代に蘇つたのである。
(中略)
私は、オルフェとユリディスが、薄暮の裏庭で語らつてから、一夜を共にし、オルフェの絃歌で、カーニバルの
日の出を迎へるまでの、繊細微妙な演出と、黒人俳優たちの悲しみをたたへた表情の美しさに感動した。
オルフェの神話の翻案としては、警察の書類だらけのガランとした事務室から、オルフェの地獄落ちを暗示する
螺旋階段の長いシーンなどに、面白い趣向を感じた。とにかく趣向の面白さを味はつて見るべき映画である。

三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より

183:無名草子さん
11/06/09 12:26:00.21 .net
いま瞼の裏にありありと残つてゐるのは、ポルトガルの首都リスボンの絶妙の美しさだの、カイロのピラミッドの
ふしぎな生々しい存在感だの、香港の阿片窟の暗い夢魔的な雰囲気だの、……さういふ断片的な印象の光彩である。
私はこんどの旅行では、ことさら自分を、一瞬にしてすぎる感覚的享楽だけの受動的な存在に仕立てて歩いた。
たとへばピラミッドの存在感といふものは独特で、実に気味がわるい。私はもとメキシコで、階段式ピラミッドの
無気味な姿を見たが、あれはまだ密林に包まれてゐるから始末がいいので、サバクの中からぬつと突き出し、
近代都市のすぐ近くに接近してゐるギザのピラミッドなどの無気味さとは比較にならない。ゴルフ・クラブの
バルコニーに招かれて、何の気なしにふりむいたところに、ユーカリのこずゑ高く、ピラミッドがのしかかつて
ゐる姿を見たときは、まさにそこにあれが「ゐた」といふ感じだつた。夜中に厠の戸をあけたら、そこにお化けが
「ゐた」といふときの「ゐた」といふ感じはまさにこれだらう。

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より

184:無名草子さん
11/06/09 12:26:48.66 .net
お化けはまだしも人間に似てゐるからいい。しかしピラミッドはいかにも無機的で、しかもギリシャの廃墟のやうな
建築的形態をとどめたすがすがしい石だけの存在ではなくて、何かいやらしい中間的存在である。それは人間と
精神との間に永遠に横たはり、人間と精神との親密な結合を、いつも悪意を以つて妨害してゐる。ヨーロッパの
すべての遺物には、この種の親密な結合があり、それは高い趣味のものから最低の悪趣味のものまで共通してゐる。
しかしエジプトはいやらしい記念碑を建てたものだ。ピラミッドはたしかにある目的のために建てられたのだが、
いま見ると、それはただ「ゐる」ために、存在するために、存在しはじめたやうにしか見えないのである。
死と永遠の時間に対抗するには、エジプト人は、どうやら人間の力だけでは足りないことを自覚して、精神なんかは
押しのけておいて、ひたすら大きな存在の力を借りたやうに思はれる。かくて人間が存在の中へ埋没し、
ピラミッドだけが「ゐる」ことになつたのだ。

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より

185:無名草子さん
11/06/09 12:27:16.74 .net
これも一つの文明の方法にはちがひなく、また一つの宗教の帰結にはちがひないが、それは本当に目くるめくやうな
暗い黒い文明で、ヨーロッパをまはつてここへ来ると、はじめてヨーロッパは小さな一大陸の特殊な文明形態に
すぎぬことがはつきりする。
(中略)そこからアジアにかけて、何か途方も知れない暗い文明、ヨーロッパ的人間がかつて一度もその力を
借りなかつた存在学的文明がはじまるのを見るやうな気がする。
さて、人間を手取り早くただの「存在」に還元する方法、それが麻薬といふものだらう。中国人が建てた万里の
長城などの無気味な姿は、同じ中国人の発明にかかる阿片、すなはち、死と永遠の時間に対抗するために、人間の
生身を存在それ自体に変へてしまふ秘法と、どこかでこつそりつながつてゐるにちがひない。
現にエジプトでも、カイロ南郊の訪れる人の少ない半ばくづれたダシュールのピラミッドの片ほとりに、私は
砂に埋もれかけてゐるハシシュのくさむらを見た。この麻薬の草は、サバクを吹いてくる微風に、とげとげしく
身をゆすつてゐた。

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より

186:無名草子さん
11/06/09 12:27:45.73 .net
香港。私がはじめて見る中国の街。ここへはおびただしい難民と一緒に、中国大陸ですでに禁じられた古い悪徳も
逃げこんできて、わづかに余喘を保つてゐる。
手入れのために十人の警官が踏み込むと、せまい迷路をたどつてその街を出たときには、いつのまにか八人に
なつてゐるといふ九竜城の暗黒街を、私は老練な案内書の懐中電灯のあかりをたよりに歩いた。
深夜の家々は雨戸をとざし、夜業の織物工場の機械音が単調にひびいてゐるあひだを、石段の曲がりくねつた小径が、
臭い溝に沿うて上つたり下つたりする。高い石室のやうな家の二階の小窓が暗い穴を闇の中にうがつてゐる。
ときどき灯明りの洩れるところには、茶店の店先で麻雀をやつてゐる人たちが、我々のはうを鋭い目で見返る。
道ばたで煎つてゐるにくにくの実の嘔吐を催すやうなにほひ。それが通のくと、こんどは人気のない闇の小路に、
血のにほひが漂つてくる。ここらでは豚の密殺も行はれてゐるらしい。

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より

187:無名草子さん
11/06/09 12:28:22.89 .net
とある家の軒下に、闇に半ば身を浸して、黒い中国服の初老の男が、じつと身をもたせかけて立つてゐる。
あらぬ方を見てゐる目は黄いろく澱み、顔の皮膚は弾力のない馬糞紙のやうな色をしてゐる。明らかな阿片患者である。
彼はまさしくそこに「ゐた」。ピラミッドのやうに「ゐた」のである。存在の奥底に落ち込んでゐるその顔は、
我々の社会的な証票ともいふべき顔の機能をすつかり失つて、一つの小さな穴のやうに見える。それは小さいが
実に危険な穴で、ひとたびその中をのぞき込んだら、世界はその中へ身ぐるみ落ち込んでしまふにちがひない。
しかしそれは存在してゐた。人間と精神を連結しようとするあらゆるヨーロッパ的な努力を嘲笑して存在してゐた。
私はかういふ顔がまだ世界のそこかしこにいつぱい存在してゐることを知つてゐる。そしてかういふ顔を忘れて
暮らしてゐるあひだ、同時に我々は、楽天的にも、死や永遠の時間といふものも忘れて暮らしてゐるのである。
何しろ付き合が忙しいから!

三島由紀夫36歳「ピラミッドと麻薬」より

188:無名草子さん
11/06/16 10:52:05.42 .net
この世界には美しくないものは一つもないのである。何らかの見地が、偏見ですら、美を作り、その美が多くの
眷族(けんぞく)を生み、類縁関係を形づくる。しかも、どうやつたら美の陥穽に落ちないですむか、といふ課題は、
多くの芸術家にとつては、かなり平明な課題であつたと思はれる。彼らはただ前へ前へ進めばよいと思つたのだ。
そして一人のこらず、つひにはその陥穽に落ちたのだ。美は鰐のやうに大きな口をあけて、次なる餌物の落ちて
来るのを待つてゐた。そしてその食べ粕を、人々は教養体験といふ名でゆつくりと咀嚼するのである。
どこかの国、どこかの土地で、歴史の深淵から暗い醜い顔が浮び上り、その顔があらゆる美を嘲笑し、どこまでも
精妙に美のメカニズムに逆らつてゐるといふやうな事態はないものだらうか。ひそかにこれを期待しながら、
この前の旅行で、メキシコのマヤのピラミッドを見たときも、ハイチのヴードゥーを見たときも、私の見たものは
美だけであつた。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より

189:無名草子さん
11/06/16 10:52:43.03 .net
(中略)
もはや美の領域で、「ブゥルジョアをおどろかす」やうなものは存在しない。超現実主義は古い神話になり、
抽象主義は自明な様式になつてしまつた。抽象主義はやがて、ゴシックが中世に於て意味したやうなものに
なつてしまふであらうし、それだけのことだ。モデルの体に絵具を塗つて画布の上にころげまはらせても、
悲しいかな、結果は自明であり、美は画布の上に予定されてゐる。われわれはもはや、ウヰリアム・ブレークが
描いた物質主義の代表者「ピラミッドを建てた人」の肖像ほど醜くあることはできず、骨の髄まで美に犯されてゐる。
われわれの住んでゐるのは、拒否も憎悪も闘ひもない美の「民主主義的時代」なのだ。しかも近代の教養主義の
おかげで、歴史上のどんな珍奇な美の様式にも、われわれは寛容な態度で接してしまふ。
香港。―この実に異様な、戦慄的な町の只中で、私はしかし、永らく探しあぐねてゐたものに、やうやく
めぐり会つたやうな感じがする。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より

190:無名草子さん
11/06/16 10:53:22.92 .net
私は今までにこんなものを見たことがない。強ひて記憶を辿れば、幼時に見た招魂社の見世物の絵看板が、
辛うじてこれに匹敵するであらう。その色彩ゆたかな醜さは、おそらく言語に絶するもので、その名を
Tiger Balm Garden といふのである。
(中略)
地獄極楽図はまことにグロテスクの極致であつて、神桃を捧げられた神々や、竜馬にまたがつた神将、天女などの
足下には、雲を隔てて地獄の光景がひろがり、(中略)いまはしい囚人の姿が、新鮮なペンキの血をふんだんに
使つて、陰惨なリアリズムで描かれてゐる一方、この庭の童話的な趣向も忘れられずにをり、陰府刑車と大書した
近代的な自動車が、囚人を満載して近づいてくるのである。
ガーデンの特色の一つは、どんな遊園地にも似ず、一切の動きがないことだ。胡文虎氏は電気仕掛を好まなかつた
らしい。氏の庭はすべて永遠不朽のコンクリートで固化してをり、あらゆる激動の瞬間は、死のやうな不動の裡に
埃を浴び、虎は永遠に吼えつづけ、囚人は永遠に呻きつづけてゐる。このふしぎなモニュメンタルな死の気配に、
胡文虎氏の美学と経済学の結合があるらしい。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より

191:無名草子さん
11/06/16 10:53:58.66 .net
(中略)
この庭には実に嘔吐を催させるやうなものがあるが、それが奇妙に子供らしいファンタジイと残酷なリアリズムの
結合に依ることは、訪れる客が誰しも気がつくことであらう。中国伝来の色彩感覚は実になまぐさく健康で、
一かけらの衰弱もうかがはれず、見るかぎり原色がせみぎ合つてゐる。こんなにあからさまに誇示された色彩と
形態の卑俗さは、実務家の生活のよろこびの極致にあらはれたものだつた。胡氏は不羈奔放を装ひながらも、
この国伝来の悪趣味の集大成を成就したのである。
中国人の永い土俗的な空想と、世にもプラクティカルな精神との結合が、これほど大胆に、美といふ美に泥を
引つかけるやうな庭を実現したのは、想像も及ばない出来事である。いたるところで、コンクリートの造り物は、
細部にいたるまで精妙に美に逆らつてゐる。幻想が素朴なリアリズムの足枷をはめられたままで思ふままに
のさばると、かくも美に背馳したものが生れるといふ好例である。
なぜ踊つてゐる裸婦の首が蜥蜴でなければならないのか。この因果物師的なアイディアは、空想の戯れといふ
やうなものではない。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より

192:無名草子さん
11/06/16 10:54:26.65 .net
いたるところに美に対する精妙な悪意が働いてゐて、この庭のもつとも童話的な部分も、その悪意によつて
どす黒く汚れてゐる。そしてそれはグロテスクが決して抽象へ昇華されることのない世界であり、不合理な
人間存在が決して理性の澄明へ到達することのない世界である。現実は決して超えられることがなく、野獣の咆吼や、
人間の呻きや、猥褻な裸体は、コンクリートの形のなりに固化したまま、現実のなかにぬくぬくと身をひそめてゐる。
しかもここには怖ろしい混沌の勝利はないので、混沌の美は意識的に避けられてゐると云つていい。一つの断片から
一つの断片へ、一つの卑俗さから一つの卑俗さへと、人々は経めぐつて、つひに何らの統一にも、何らの混沌にも
出会はない。おのおののイメージは歴史や伝説からとられたものであるのに、ここにはみぢんも歴史は感じられず、
新鮮なペンキだけがてらてらと光つてゐる。そして人々はこの夢魔的な現実のうちで、只一人の人間らしい顔にも
出会はないのである。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より

193:無名草子さん
11/06/19 10:08:20.95 .net
昭和三十三年二月十七日(月)
さて今日は格別のたのしみがある。ニューヨークのタイムス・スクウェアの土産物屋で、ゴムで出来てゐる
人狼(ウェアウルフ)のお面を買つて来たのだが、それが実によく出来てゐて怖ろしい。(中略)
かへりのタクシーで、福田氏を文学座の前で下ろし、それからじつと黙つてゐて、タクシーが外苑の暗がりへ
入つたところを見計らひ、やをらお面をかぶつて、うしろから運転手の肩をグイと手をかけたら、ふりむいて
アッと叫んだ。
かういふ風に人を脅かして、人のおどろく顔を見るといふたのしみは、たのしみの極致を行くものである。
おどしやタカリの味を覚えた愚連隊のたのしみが想像される。彼らはそのために一生を棒に振り、私は一日を
棒に振つただけであるが、それも自分に裨益するところは少しもなく、ただ他人の反応だけを目的にした行為であつて、
悪といふものは多かれ少なかれ、これほどに献身的なものである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

194:無名草子さん
11/06/19 10:08:59.70 .net
二月二十七日(木)
石橋広次選手はリング上で決して興奮しない人である。ボクシングにおけるほど、観衆の熱狂と選手の冷静が
見事な対照をなすものはない。闘争を見ることの熱狂は人間の本性に根ざしてゐるが、ボクシングはもつとも
よく出来た闘争のフィクションである。スポーツの中でもつとも現実の闘争と似た外観を呈してゐながら、
そのスポーツとしての技術性科学性(私のいふフィクション性)は高度である。私にそれがジャンルとしての
小説を想起させる。映画をのぞいては芸術中もつとも現実と似たジャンルである小説は、それだけに一層高度な
技術を要求されるが、ボクシングの試合を見て現実の喧嘩と混同する観衆の無邪気な熱狂と同じものが、今日
素人小説家の無数の輩出を惹き起してゐる。ボクシングなら叩かれれば痛いから自分の非にすぐ気がつくが、
かういふ連中は痛さを知らないから始末がわるい。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

195:無名草子さん
11/06/19 10:09:37.94 .net
三月十八日(火)
今まで見たところ大江健三郎の小説には、最近作「鳩」にいたるまで、ひんぱんに動物があらはれる。いはゆる
動物文学とは、多かれ少なかれ、動物の擬人化にもとづいたものであるが、大江氏のはそれと反対で、人間の
擬動物化ともいふべきものであり、われわれのうちにひそんでゐる人間の奴隷化や殺戮の欲望が、動物を相手に
充たされてゐる。状況がゆるせばもちろん人間そのものの動物的奴隷化が可能になるので、「飼育」や
「人間の羊」はその好例である。これを私は新しい動物文学と名附けよう。
(中略)
大江氏の小説の特色は、いろんな点で小説の近代的特色を根本的に欠いてゐるところにある。氏は登場人物の
近代的個性といふものを重視しない。氏の作品に登場する人間は、たかだか一般概念以上のものを要求されないのだ。
そしてそこに登場する動物群にも、個性的な擬人化された動物は出て来ないので、一般概念としてとどまつてゐる。
だから大江氏の小説は、比喩でもなく寓喩でもない。アレゴリーの根本条件が欠けてゐるのである。まして
いはんや風刺ではない。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

196:無名草子さん
11/06/19 10:10:23.25 .net
強ひて言へば、メタモルフォーシスの小説といふことができよう。「人間の羊」は羊のやうな人間を描いた
小説ではなく、人間が羊に変貌する物語であり、「飼育」は動物のやうに飼はれる黒人兵を描いたものではなく、
飼はれる動物、強い耐へがたい体臭を放つ家畜に変貌した黒人兵の物語である。
氏の小説のサディスティックな嗜欲は、かくて一般概念としての動物を、一般概念としての人間と対置し、人間が
動物を飼育したり殺したりするのを、汎性的な対等の関係でながめてゐる。鼠のやうな、また羊のやうな人間の
悲惨さと弱さは、比喩としてではなく、容易に、人間そのものの常態として語られる。日本人のお尻をバスの中で
まくつて叩く米兵と、叩かれる日本人とは、かかる関係において対等であり、死体とこれを見る青年(死者の奢り)
との関係も、鳩とこれを殺す少年との関係も、黒人兵とこれを飼育する少年との関係も、同様に対等であつて、
あらゆる政治的寓喩や人間的風刺を峻拒してゐる。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

197:無名草子さん
11/06/19 10:10:50.48 .net
そこには縛られた強者と残酷な弱者、あるひは残酷な強者と殺される弱者があるだけであり、最後に死体と、
殺された鳩の屍とが残される。なぜなら死とエロティックにおいてだけ、人間と動物とは一般概念によつて
同一化されるのであり、個性を持つてゐた筈の人間が一般概念に変貌する際の色情的かつ獣的な美しさを存分に
ゑがいた「飼育」は、殺された小動物の美を暗い背景の前に鏤(ちりば)める「鳩」に達する。(中略)
「鳩」の小動物たちは、それぞれ鼠やモルモットや鳩を呈示するにすぎないが、その宝石のやうに凝つた血によつて、
鼠一般、モルモット一般、鳩一般の荘厳な象徴と化し、色欲的観念の具現となるのである。そこにはサディストの
究極の夢があり、われとわが手で殺した小動物は、動物であるがゆゑに、永遠に一般概念の彼方にとどまり、
精神や個性の片鱗をひらめかすことはない。そこでこの殺戮行為は、黒人を飼育するよりももつと純粋な
エロティックな行為として終るのである。それはアニミズムからもつとも遠い文学である。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

198:無名草子さん
11/06/19 10:18:06.84 .net
四月十八日(金)
どの小説家も抱いてゐる或る感じ、自分の書いた小説のなかで、あるひはその小説を通じて、はじめて自分の
人生に本当に対面したやうな気のするといふ或る感じ、これは彼の実際に日々生きてゐる人生の像を、幾分か
ぼやけた不確かなものにすることは争へない。認識の手間をはぶいて表現することによつて、作家は生の人生を
幾分かのこしておかなければならないが、今日の河野先生の話ではないが、小説家は厳密に言ふと、認識者ではなく
表現者であり、表現を以て認識を代行する者である。作家が小説を書くことにより、表現してゆくことにより、
はじめて認識に達するといふ言ひ方は正確ではない。作家の狡猾な本能は、自分に現前するものに対して、つねに
微妙に認識を避けようとするからである。殺して解剖しようとする代りに、生け擒(ど)りにしようと思つて
ゐるからである。
もちろん生かしておいて認識するといふ手もある。卓抜なエッセイストはさういふ人種であつて、猛獣使ひの
やうなものであらうか。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

199:無名草子さん
11/06/19 10:18:31.54 .net
さて、作家が自分の生に対していつもあいまいな放任の態度を持してゐるとき、彼はいはば、それが認識の素材に
なることを免れさせてゐるのである。トオマス・マンの云ふやうに、「作家の幸福は、感情になり切り得る思想であり、
思想になり切り得る感情」(ヴェニスに死す)だとすると、彼の生は、まだ思想にもなりきらぬのみか、感情にも
なりきらない部分であり、さうなることを無意識に抑制されてゐる。感情の中にも思想の中にも安住できない人間が、
幸福になる方法は、おそらく表現することだけで、このやみくもな行為に耐へるには、明敏なだけでは足りない。
もちろんバカなだけでも足りないが……。そして表現したあげくの、創造の喜びといふやつは、又しても彼を
認識者たることから遠ざける。なぜなら認識にとつて歓喜ほど始末に負へぬ敵はないからである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

200:無名草子さん
11/06/21 12:32:50.07 .net
五月九日(金)
キェルケゴールの有名な「あれかこれか」の一節は永いこと私を魅してゐた。
「結婚したまへ、君はそれを悔いるだらう。結婚しないでゐたまへ、やつぱり君は悔いるだらう」
(中略)
私は又、晩年のフロオベエルが公園を散策しながら、乳母車を押してゆく家族づれを見て、「私もああいふ生涯を
送ることもできたのだ」と述懐したといふ挿話をもよくおぼえてゐた。
人生が一人宛たつた一つしかないといふことは、全く不合理な、意味のない事実である。殊に小説家にとつては、
自分の創造の条件に対する侮辱とさへ思はれる我慢ならない事実である。これに対する解決は何も見当たらないが、
これをなだめすかす慰藉の方法がないわけではない。ディオゲネースのあの定言的な言ひ方を崩すには、たつた
一つの方法しかない。事実が決定的であり、人生が一個であるならば、これをうけとめる人間一般の感情の法則を、
せめて自分だけでも免れようとすればよからう。「結婚したまへ、君はそれを悔いるだらう。結婚しないでゐたまへ、
やつぱり君は悔いるだらう」……それなら、ままよ、後悔しなければいいのである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

201:無名草子さん
11/06/21 12:33:15.51 .net
(中略)
このやうな悔いは自由意志の幽霊のやうなもので、或る作為あるひは不作為が一個の人生を決定してしまふのを
見た自由意志自身の不安なのである。自由意志は無限の選択をするのではない。選択は百のうちから十、十の
うちから三つ、三つのうちから二つ、二つのうちから一つといふ具合に、徐々に限られて来て、最後に自由意志は、
それをするかしないかといふことだけを選ぶために現れる。しかしここまで追ひつめられた選択と、自由意志の
本質とは必ず矛盾する。自由意志は、選択の機能を本来帯びてゐなかつた自分に気がつくのである。自由意志は
決断のために使はれるべきではなく、作為と不作為との間に常に追ひつめられてゐる人間の、可能性の問題なのだ
といふことに。……自由意志にとつては、本来、人生は一人一個宛ではなかつた筈なのだ。
私がもし悔いないでゐられるなら、それは宿命を是認することになるだらうか。さうではない。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

202:無名草子さん
11/06/21 12:33:47.06 .net
私が悔いないといふことは、自由意志に対する嘲笑ではない。どんな選択も、どんな決断も、どんな行為も
自殺でさへも、最終的に人間の状況を決定することはできない、と私は考へるから、決断に従つたことを悔いも
しないし、おそらく決断に従はなかつたときも悔いはしまい。人間は選ぶことができないのではないが、最終的に
選択の不可能なことを知つてゐるのは自由意志であつて、さればこそ、人生がたつた一つであることをどうしても
肯はない自由意志は、宿命に対抗することができるのである。だから「悔い」といふ形であらはれる不安は、
自由意志にとつて本質的なものではない。宿命はすでに選択してゐるし、自由意志は永遠に選択しない。そして
行為とは、宿命と自由意志との間に生れる鬼子であつて、人は本当のところ、自分の行為が、宿命のそそのかしに
よるものか、自由意志のあやまちによるものか、知ることなど決してできない。結局、海水の上に浮身をするやうな
身の処し方が、自分の生に対する最大の敬意のしるしのやうに思はれる。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

203:無名草子さん
11/06/23 10:36:36.85 .net
八月八日(金) 悪と政治と
いろんな意味で対蹠的なサルトルの「殉教と反抗」(ジャン・ジュネ論)と界外五郎氏の銀座の一級ヤクザとしての
告白「恐喝」の二冊を、それぞれおもしろく読んでゐるうちに、日本よりさらに暑熱のきびしいイラクでは、
大がかりな「切つた張つた」がはじまつた。(中略)
その上私はナセル大統領の「敵に対しては、われわれは原爆さへもおそれてゐないことを警告する」といふ演説に
接して、「矢でも鉄砲でも持つてこい」といふ超現代的表現はかうもあらうかと思つて感心した。こんなバカげた
啖呵を切れる日本の政治家は一人もあるまいが、政治外交上の嚇し文句はそこまで行かなければ本当ではあるまい。
中近東や東南アジアの民族主義に対するわれわれの同意は、伝来の「弱きを助け強きを挫く」助六精神であるけれど、
弱い筈の民族主義者が、モスクワから帰つてくると、「原爆さへもおそれてゐない」と啖呵を切り出し、一方、
「強きを挫く」だけの助六の腕力がわれわれに欠けてゐる以上、民族主義に対するわれわれの立場は、不透明に
ならざるをえない。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

204:無名草子さん
11/06/23 10:37:11.30 .net
第一、日本にはすでに民族「主義」といふものはありえない。われわれがもはや中近東や東南アジアのやうな、
緊急の民族主義的要請を抱へ込んでゐないといふ現実は、幸か不幸か、ともかくわれわれの現実なのである。
今や明治維新の歴史的価値は、ますます高められてきた、と私は感じる。
さて界外氏の「恐喝」に話を戻して、氏のヤクザの定義を読むと、かうである。
「ほんとうのヤクザの社会では、タタキ(屋内強盗)やノビ(忍込み強盗)をするような人間は鼻にも引つかけない。
理由なくして金銭をホシイママにすることを極度に嫌う。泥棒社会の人間など普通ヤクザといわれている者とは
住む世界が違うし、実際に刑務所に入っても全然派閥が違う。というより色彩が違う。人の物を盗むようになったら
完全に浮かばれない。理由はともかく、尠くとも大義名分をはっきりわきまえているヤクザと破廉恥行為以外
なにものもない彼等とは全然世界が違うのである」

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

205:無名草子さん
11/06/23 10:37:48.23 .net
(中略)
日本にはキリスト教の神の観念がないから、悪の観念も従つて稀薄だ、といふのはずいぶん言ひ古された議論で
あるけれど、マキャベリ以来の西欧の政治学にひそむ悪、そのもつとも理想主義的な政治学にさへ自明の前提として
受け入れられてゐる悪に比べれば、日本の政治は、正に界外氏の定義にすつぽりあてはまるヤクザ的なものだと
云つてもよからう。おんなじアジアでも、旧植民地諸国の政治家は、自分たちを虐げて来た帝国主義者たちから、
少くとも悪の原理と悪の知恵を学んでゐる。ネールなんぞは私にはその典型だと思はれる。ネールの孤独を、
たはむれに前掲のジュネの孤独と比べて、泥棒の代りに政治家として読み代へてみたまへ。「神に捧げられた子」
としての政治家の孤独がはつきりするだらう。
さて、ジュネは、この孤独から、しばしばの裏切りによつて自己聖化に達するのであるが、裏切りは界外氏の
定義によれば、ヤクザのもつとも忌むところであつて、日本の政治は共産党のいはゆる「民衆に対する裏切り行為」
などに専念する勇気がない。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

206:無名草子さん
11/06/23 10:38:18.55 .net
日本の悪は悪といふよりも、局限的道徳なのであつて、世間一般の道徳との間に範疇の差はなく、ただニュアンスの
相違でつながつてゐるだけで、政治家の道徳とヤクザの道徳は、局限的道徳であるといふ点だけで、世間の道徳に
対して特色を発揮してゐるにすぎない。
イラクのクウ・デタに対する日本政府の三転四転した腰の据わらぬ態度は、私には、日本の政治家が、自分の
ヤクザ性にも、模して及ばぬ悪人性にも、どつちにも徹し切らない中途半端から来るやうに思はれた。「民族主義に
対する裏切り」をおそれながら、一方アメリカにも気兼ねをし、やつとのことで国連的正義感に便乗してゐるのは、
ヤクザにしても性根のないヤクザで、せめてナセル親分ぐらゐに、「原爆おそるるに足らず」ぐらゐのことを
言つたらいい。日本に原爆を落とされた手前、それだけは死んでも言へないといふなら、逆に悪に徹して、
資本主義の走狗をつとめて、民族主義を弾劾するがいい。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

207:無名草子さん
11/06/23 10:38:50.66 .net
東洋の一角で憂ひ顔の騎士が、事あるごとに、厩につながれたままの馬にまたがつて、悲しい御託宣を並べるのは、
毎度のことで、もう漫画にもならない。国家が必要悪であるならば、国家のエゴイズムが最高の要請であるべきだし、
政治が悪であるならば、裏切りがそれを聖化するだらう。西欧のチトー元帥は裏切りの上に国を建てた。しかし
われわれの住んでゐるのは、悪の国ではなく、ヤクザの国であり、界外氏のヤクザの定義はいかにもわれわれの
心性に叶つてをり、悪のイデアに対してほどほどの距離と自己弁護の立場を忘れない。それはまた民衆の
平均的趣味であり、不徹底な現実主義の土壌の上に、ヒロイックな夢を咲かすことである。それにしてもヤクザは
原爆を持つことができず、持つことができるのは、せいぜい機関銃が限度である。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

208:無名草子さん
11/06/25 00:29:14.29 .net
八月十二日(火)
私は今、人生に関する文学的誤解からやうやく抜け出して、その次の危険な場所、文学に関する人生的誤解に
そろそろ近づきさうな予感がしてゐる。若い人たちの作品の人生的無知を苛立たしく感じたりするのは、その
危険な兆候だ。戒めなくてはならぬ。とにかく「人生では知らないことだけが役に立つので、知つてしまつたことは
役にも立たない」のであるから。


十月二十日(月)
退屈でないのは慣習や熟練、要するに「くりかへし」の作業であり、冒険こそ、その当人にとつては、一等退屈な
作業だといふことを忘れてはならぬ。また人を退屈させることも怖れてはならぬ。現代の忙しいジャーナリズム裡の
作家の最大の病気は、「読者を退屈させやしないか」といふ神経性である。小説では或る程度の退屈なしには、
読者の精神を冒険に誘ひ込むことができないやうに思はれる。私が今こそわがものにしたいのは、ゲーテの
「ヴィルヘルム・マイスタア」のあの退屈さである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

209:無名草子さん
11/06/25 00:30:20.91 .net
十月二十一日(火)
ポオのファルスに属するものは、「十三時」「ボンボン」「ペスト王」「ミイラとの口論」などであらうが、
可成物語的構成を持つたものの中でも「タア博士とフェザア教授の治療法」などは、ファルスに入れてもよからう。
そこには知的ノンセンスともいふべき高度の趣味があつて、もつとも下らない馬鹿話の中へ、完全に身を隠し
了せたとき、知性はもつとも美しいものになるといふ逆説が証明されてゐる。メルヴィルの「白鯨」だつて
最大の規模を持つたファルスと云へないことはない。ポオのファルスがどんなに馬鹿さわぎを演じても、品位と
重厚さを失つてゐないのは、知性が遊戯に熱中して柔軟になりきるときにこそ、知性の目的は没却されて、
知性の姿だけが目に見えて来るからであらう。品位は知性の生れながらの態度(アティテュード)であつて、
合目的的な知性は、ともするとこの態度を失ふのである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

210:無名草子さん
11/06/25 00:34:05.34 .net
十一月二十一日(金)
批評する側の知的満足には、創造といふまともな野暮な営為に対する、皮肉な微笑が、いつまでもつきまとふことは
避けられない。この世には理想主義的知性などといふものはないのだ。あらゆる理想主義には土方的なものがあり、
あらゆる仕事は理想主義の影を伴ふ。そして批評的知性には、本来土方の法被(はつぴ)は似つかはしくないもので
あるが、批評の仕事がひとたびこの法被を身にまとふと、営々孜々として破壊作業に従事するか、それとも
対象から遠く隔たつて天空高く楼を建てるかしてしまふのである。

十一月二十三日(日)
私の言葉は理性的に出てくるのではない。コンディションの良好なとき、気に入つた対象すなはち好餌があらはれると、
私は蜘蛛のやうにその好餌に接近して、言葉の網でしやにむにからめとらうとする。さういふ狩猟に似た喜びの
瞬間には、言葉は精力的に溢れ出し、何か肉体的な力で言葉が動き出し、対象をつかまへて、舌なめずりし、
その対象をできるかぎり丹念に隈なく、言葉で舐めつくさうとするのだ。いささか薄気味わるい比喩だが、言葉が
私の中から湧き出てくるときにはさういふ感じがする。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

211:無名草子さん
11/06/25 00:34:58.56 .net
言葉が花火のやうにはじけ、一瞬にして拡散し、対象の上にふりかかつて、それを包み込まうとする動きを
感じるとき、ほとんど書く手が追ひつかず、次の行に書くべきことを忘れないために、欄外にいそいでメモを
書きとめなくてはならぬ。このときの速度は一体、どんな種類の速度なのであらう。何故なら、書く手が
追ひつかぬほど言葉が先に走つてゆく感に襲はれながら、実際のところ、筆の速度は、大したものではなく、
書ける枚数も二、三枚、多くて四、五枚で終つてしまふ。こんな興奮は決してそれ以上持続しないのだ。
かういふときアメリカの或る作家たちのやうにタイプで原稿を書き、もし又タイプに熟達してゐれば、書く作業に
よつて抑制されることなく、言葉の走る速度にぴつたり合つた文章が出来るかもしれない。しかしそれが文章と
いふものであらうか? 文章はむしろ言葉に対峙するもののやうに思はれる。言葉の本質がディオニュソス的なら、
文章の本質はアポロン的、といふ具合に、言葉は私にとつてはひどく肉体的な、血や精液に充ちたものだ。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

212:無名草子さん
11/06/27 11:01:41.99 .net
十一月二十五日(火)
人にすすめられて「短歌」といふ雑誌を読み、春日井建といふ十九歳の新進歌人の歌に感心する。(中略)
かういふ連作は、ソネットのやうなつもりで読めばいいのであらう。私は海に関する昔ながらの夢想を、これらの
歌によつて、再び呼びさまされたが、十代の少年の詩想は、いつも海や死に結びつき、彼が生きようと決意するには、
人並以上に残酷にならなければならないといふ消息が、春日井氏のその他の歌からも、私には手にとるやうにわかつた。
いづれにしても詩は精神が裸で歩くことのできる唯一の領域で、その裸形は、人が精神の名で想像するものと
あまりにも似てゐないから、われわれはともするとそれを官能と見誤る。抽象概念は精神の衣裳にすぎないが、
同時に精神の公明正大な伝達手段でもあるから、それに馴らされたわれわれは、衣裳と本体とを同一視するのである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

213:無名草子さん
11/06/27 11:02:20.08 .net
十二月十七日(水)
今夜は日活撮影所へ「不道徳教育講座」のプロローグとエピローグの二カットに出演するため行かなければ
ならないが、こんな私の軽薄な振舞については、一家そろつて大反対である。(中略)
―二度目のテストではセリフをとちつた。もうやたらにセリフをとちるからとて、俳優を莫迦扱ひするのを
止めなくては。トチリとか失敗とかは正に神秘的なもので、人間の努力の及ぶところではない。


昭和三十四年一月二十五日(日)
「夜遊び」といふものがいかに本当の夜から遠いことか。われわれはもう殆ど「夜」を持たなくなつてしまつた。
どんな秘密な遊びも、隠密な犯罪も、厳密に「夜」には属さない。明治神宮の初詣でに深夜群をなして集まる人々を、
晃々と照らすライトの下に映したテレヴィジョン放送を見て、そこにはもはや「夜」がなく、人々が「夜」を
望みもしない状況を、私はつぶさに眺めた。折口信夫氏の「死者の書」のやうな「夜」の文字を、二度と
われわれは持つことができぬであらう。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

214:無名草子さん
11/06/27 11:02:48.45 .net
三月二日(月)
私は外国で大いに世話になり温い親切をうけた外人の来朝には、出来るかぎりの歓迎をすることにしてゐる。
といふのは、見知らぬ他国へ着いた旅人の受ける、その土地の人からの親切ほど、忘れがたいものはないからである。
見知らぬ他国では何もかもが怖しい。郵便局や銀行へも一人ではゆけず、バスや地下鉄に乗つたつてどこへ
連れて行かれるかわからない。善人と詐欺漢との区別もつかず、すべてが五里霧中である。
私にとつても、外国で受けた、骨に徹するほどの不親切の思ひ出もある。むしろそのはうが多いかもしれない。
しかし考へやうによつては、その国の人同士の間では、これくらゐの不親切、冷酷非情のはうがむしろ当り前で、
ふつうそれくらゐのことで人を傷つけるとは思はれない。ところが旅人はひどく傷つくのである。
私はかういふ経験をしばしば味はひ、その中に記憶に残る温い親切を思ひ出すと、自分の味はつたそのうれしさを、
その人にも味ははせてやりたいものだと思ふ。殊に一人旅の旅人には尽して上げたい。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

215:無名草子さん
11/06/27 11:03:16.78 .net
(中略)
一方、日本へ知人の外人を迎へてつくづく思ふのは、さういふ人たちへの一寸した心尽しでも、ありていに云ふと、
こちらの生活の歯車を少からず擾(みだ)すことになるので、立場を変へて、私が当然のやうに受け入れてゐた
外国における個人的厚意が、どれだけ先方の生活の歯車を狂はせてゐたかがわかるのである。外国人は実によく
遠来の客をねぎらふ。私はどれだけ人の私宅へ招かれて泊めてもらつたかわからない。
それにまた外人がわれわれの国の踊りなり芝居なり美術品なりのイカモノに感心しようとしてゐるとき、
「あれはニセモノだよ」と冷水を浴びせてやるくらゐ愉快なことはない。紐育で、メキシコの某クラブで見た
民俗舞踊に感心した話をしてゐたら、居合はせたメキシコの一富豪が、「ありや真赤なニセモノですよ」と
一言の下に片附けたが、そのときの彼の愉快さうな顔と云つたらなかつた。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

216:無名草子さん
11/06/27 11:03:46.29 .net
(中略)
私は今、一向旅心を誘はれない。海のかなたには何があるか、もうあらかたわかつてしまつた。そこにも人間の
生活があるきりだ。どんな珍奇な風俗の下にも、同じやうな喜びや嫉妬があり、どんな壮麗な自然の中にも、
同じやうな哀歓があるのを、この目ではつきりと見て知つてしまつた。そして世界中を歩いてみても、自分の
生涯を変へるやうな奇抜な事件は決して起り得ないといふことも、もしそれが起るとしても、自分の心の中にしか
起らないといふことも。
先生に引率された小学生たちが沢山傍らを通る。子供たちの目はまだ見ぬ世界への夢に輝いてゐる。この
子供たちこそ世界を所有してゐるので、世界旅行は世界を喪失することだ。尤も、生きるといふことがそもそも
人生をなしくづしに喪失してゆくことなのであるから、人間の行為と所有とは永遠に対立してゐる。すべてを
所有しようと思つたら、断じて見ず、断じて動かず、断じて行はないことだ。王国はかくて立ちどころに所有される。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

217:無名草子さん
11/06/28 00:23:27.24 .net
四月十日(金)
庭で素振りをしてから、馬車行列の模様をテレヴィジョンで見る。
皇居前広場で、突然一人の若者が走り出て、その手が投げた白い石ころが、画面に明瞭な抛物線をゑがくと見る間に、
若者はステップに片足をかけて、馬車にのしかかり、妃殿下は驚愕のあまり身を反らせた。忽ち、警官たちに
若者は引き離され、路上に組み伏せられた。馬車行列はそのまま、同じ歩度で進んで行つたが、その後しばらく、
両殿下の笑顔は硬く、内心の不安がありありと浮んでゐた。
これを見たときの私の興奮は非常なものだつた。劇はこのやうな起り方はしない。これは事実の領域であつて、
伏線もなければ、対話も聞かれない。しかし天皇制反対論者だといふこの十九歳の貧しい不幸な若者が、
金色燦然たる馬車に足をかけて、両殿下の顔と向ひ合つたとき、そこではまぎれもなく、人間と人間とが向ひ
合つたのだ。馬車の装飾や従者の制服の金モールなどよりも、この瞬間のはうが、はるかに燦然たる瞬間だつた。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

218:無名草子さん
11/06/28 00:23:59.09 .net
われわれはこんな風にして、人間の顔と人間の顔とが、烈しくお互を見るといふ瞬間を、現実生活の中では
それほど経験しない。これはあくまで事実の事件であるにもかかはらず、この「相見る」瞬間の怖しさは、正しく
劇的なものであつた。伏線も対話もなかつたけれど、社会的な仮面のすべてをかなぐり捨てて、裸の人間の顔と
人間の顔が、人間の恐怖と人間の悪意が、何の虚飾もなしに向ひ合つたのだ。皇太子は生れてから、このやうな
人間の裸の顔を見たことははじめてであつたらう。と同時に、自分の裸の顔を、恐怖の一瞬の表情を、人に
見られたこともはじめてであつたらう。君候がいつかは人前にさらさなければならない唯一の裸の顔が、いつも
決まつて恐怖の顔であるといふことは、何といふ不幸であらう。
それにしても人間が人間を見るといふことの怖しさは、あらゆる種類のエロティシズムの怖しさであると同時に、
あらゆる種類の政治権力にまつはる怖しさである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

219:無名草子さん
11/06/28 00:24:27.80 .net
六月二十九日(月)
「鏡子の家」は、いはば私の「ニヒリズム研究」だ。ニヒリズムといふ精神状況は、本質的にエモーショナルな
ものを含んでゐるから、学者の理論的探究よりも、小説家の小説による研究に適してゐる。
(中略)
……オンボロ貨物船を引きずつて、船長は曲りなりにも故郷の港に還つて来た。主観的にはずいぶん永い航海だつた。
無数の港々、荷卸しや荷揚げの労苦、嵐や凪、それから航海に必ず伴ふ奇怪な神秘的な出来事、……さういふものは、
まだありありと頭の中に煮立つてゐるが、それも徐々に忘れられるだらう。暫時の休息ののち、船長は又性懲りもなく、
新しい航海のための食糧や備品の買出しに出かけるだらう。もつと巨きく、もつと性能もよい船を任される申し出に
よし出会つても、彼はすげなく拒むだらう。彼はこのオンボロ貨物船を以てでなくては、自分の航海の体験の量と
質とをはかることができないからである。それだけがあらゆる船乗りの誇りの根拠だ。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

220:無名草子さん
11/07/01 14:06:37.89 .net
そもそも推理小説とは欧米でも売れて売れて困るもので、売れない推理小説は、そもそも推理小説の資格がない
やうなものだ。


純文学には、作者が何か危険なものを扱つてゐる、ふつうの奴なら怖気をふるつて手も出さないやうな、取扱の
きはめて危険なものを作者が敢て扱つてゐる、といふ感じがなければならない、と思ひます。つまり純文学の
作者には、原子力を扱ふ研究所員のやうなところがなければならないのです。(中略)小説の中に、ピストルや
ドスや機関銃があらはれても、何十人の連続殺人事件が起つても、作者自身が何ら身の危険を冒して『危険物』を
扱つてゐないといふ感じの作品は、純文学ではないのでせう。


純文学は、と云つても、芸術は、と云つても同じことだが、究極的には、そこに幸福感が漂つてゐなければ
ならぬと思ふ。それは表現の幸福であり、制作の幸福である。どんな危険な怖ろしい作業であつても、いや、
危険で怖ろしい作業であればあるほど、その達成のあとには、大きな幸福感がある筈で、書き上げられたとき
その幸福感は遡及して、作品のすべてを包んでしまふのだ。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

221:無名草子さん
11/07/01 14:07:04.67 .net
(中略)
人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は絶望的で、どんな死に方をしたつて醜悪なだけである。それなら、
もう、しやにむに生きるほかはない。
室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。
老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。殊に肉体芸術やスポーツの分野では、
東西の差が顕著で、先代坂東三津五郎丈は老齢にいたるまで見事な舞台姿を見せたが、セルジュ・リファールは
もうすでに舞台姿は見るに堪へぬ。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へらないが、
七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる。
肉体の領域でもこれだから、精神の領域では、日本人ほど「老い」に強い国民はないだらう。室生氏などは
世阿弥のいはゆる「珍しき花にて勝」つた人であらう。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

222:無名草子さん
11/07/01 14:07:31.74 .net
(中略)
このごろは町で想像もつかないことにいろいろぶつかる。小説家の想像力も、こんなことに一々おどろいてゐる
やうでは貧寒なものだ。
旧文春ビルのTといふ老舗の菓子屋で買物をしたら、私の目の前で、男の店員が、私の買物を包んでゐる女の店員に、
「領収書は要らないんだろ。もう金もらつた?」
ときいてゐた。
客の前で、大声で「もう金もらつた?」ときく心理は、どういふのだらう。
やはり銀座の五丁目のMデパートで、菓子売場の女店員に、
「舶来のビスケットある?」
ときいたら、
「チョコレートならありますけど、ビスケットは舶来はありません」
と言下に答へた。売場を一まはりして、さつきの女店員の立つてゐる飾棚を見たら、ちやんと英国製ビスケットが
二缶並んでゐる。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

223:無名草子さん
11/07/01 14:08:39.66 .net
「ここにあるぢやないか」
と言つたら、
「あら」とゲラゲラ笑つてゐた。
この二種類だけかときいたら、二種類だけです、と答へ、別の女の子が、他にも二種類あります、と持つて
来たはいいが、値段をきくと、全然同じ缶を二つ並べて、片方を八百円、片方を千五百円といふ無責任さ。
そのあひだゲラゲラ笑ひどほしで、奥の売場主任も我関せず焉で知らん顔をしてゐた。
(中略)
―かういふいろんな不条理か事例は、小説に使つたら、みんな嘘と思はれるだらう。もし今忠実な風俗小説といふ
ものが書かれたら、超現実主義風な作品になるのではないかと思はれる。

三島由紀夫37歳「『純文学とは?』その他」より

224:無名草子さん
11/07/08 11:20:39.16 .net
女のまねをする女形は、女形芸術の墓穴を自ら掘つてゐるものだと思ふ。女形の範はあくまで能の鬘物のシテに
あるので、世にも高貴な美女の仮面をとほして、神秘的な、暗い男の声がひびいて来、美しい唐織の衣装の袖から、
無骨な男の手がむき出しになつてゐるべきなのだ。
といふことは、女形の真骨頂は仮面劇にあるのであつて、歌舞伎の女形といへども、変成男子の神秘感を失つては
ならないのだ。
といつて、私は、女形が日常生活でスポーツ・シャツを着てゴルフをしたり、「僕が」とか「僕が」とかいふ
一人称を使ふのを、推賞してゐるわけではない。ただ、女形美といふものが、女性美とは別の独自性を持つて
ゐることを忘れてはならない、といつてゐるのである。
そんな美的好尚は、もはや現代人からそつぽを向かれてゐるから、女形は衰滅するだらう、といふ主張もある。
事実、明治以後、女形は、だんだん女性美へ色目を使つてきた。かつての九代目団十郎の女形などを、今の人は
想像もできないだらう。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美―女形は亡びるかどうか」より

225:無名草子さん
11/07/08 11:21:03.44 .net
といふことは、一方、世間の女の男性化の傾向にもよる。女形芸のうちで悪婆(毒婦)や若衆方に接近した要素が、
一等早く衰退の気配を見せてゐるのは、悪婆的女性や若衆的女性がふえてきたからである。逆に女性的女性が
減つてきたので、真女形の稀少価値が生じて珍重されるにつれ、女形は女の模倣の方向へ傾きがちになり、女優と
見紛ふやうな芸を見せる役者も出て来て、歌舞伎の女形のセリフからは義太夫の暗い渋い律調が失はれてしまつた。
先々代時蔵の最後の政岡を見たときに、私は哀惜の念に耐へなかつた。
(中略)
さて、その女形の将来であるが、今は万事にアメリカ風の、浅薄な健全第一主義の時代であるけれど、日本人の
血の澱みは、一朝一夕に浄化されるものではない。
女形を気味がわるいと思ふ観客がふえたこともたしかだが、そんならその気味のわるさに将来性がある筈で、
芸術の歴史はみんなさういふ試練を経て来たのである。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美―女形は亡びるかどうか」より

226:無名草子さん
11/07/08 11:21:33.22 .net
私のつねづねふしぎに思つてゐることがある。
前述したやうに、今はむしやうに女が強くなつて男性化した時代のやうにいはれながら、女の顔自体は、昔に比べて、
だんだん男性的威厳を失つてきてゐるのである。理想の美女は、現代では、イタチが猫か少年の顔にちかく、
明治時代の女性のやうに、むしろ男性的威厳を帯びた顔は、ゐなくなつたか、少なくとも、流行らなくなつて
ゐるのである。海水浴などに行くと、たしかに女性の体格のよくなつたことはおどろくばかりだが、顔はますます
小さくなる傾向にあり、髷の似合ひさうな顔は一つもない。明治時代の名妓の面影はあとをとどめない。
女性が女性的であつた時代に、却つて、女形風な顔や美がもてはやされ、沢山生存してゐた、とはどういふこと
だらうか。あれこれ思ふと、現代の女優で片はづしのカツラの似合ふやうな人は一人もなく、過去の壮大な悲劇に
似合ふ舞台上の女性は、どうしても、男にカツラをかぶせるほかはなくなるのである。ブリジット・バルドー
みたいな顔をした八重垣姫なんか、どう考へてもをかしいではないか。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美―女形は亡びるかどうか」より

227:無名草子さん
11/07/08 11:21:55.71 .net
男が女に化けてゐるといふ芝居のウソの前提を、観客がもつと強く意識するやうになれば、女形の将来は捨てた
ものではなく、また女形自身も、舞台では女、日常生活では男、などといふコセコセした枠を作らず、舞台の上で
女形であること自体に、堂々たる男性的威厳を発揮することに努めれば、世間の目も変つてくることであらう。
重ねていふやうに、日本人の血の澱みの深さは、アメリカ人などとは比べものにならないのである。
女形のやうな、面白い、気味のわるい、エクストラオルディネール(異常)なものを、さうむやみに捨て去ることの
できる日本人ではない。その点はもつと安心して、大悟徹底してゐるべきだと思ふのである。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美―女形は亡びるかどうか」より

228:無名草子さん
11/07/11 15:57:10.06 .net
現代におけるリリシズムがどんな形をとらねばならぬか、といふことが、現代芸術の一番おもしろい課題だと
私は考へてゐる。リリシズムは、現代において、否定された形、ねぢまげられた形、逆説的な形、敗北し流刑に
処された形、鼻つまみの形、……それらさまざまのネガティヴな形をとらざるをえず、そこから逆に清冽な
噴泉を投射する。もし現代において、リリシズムが一見いかにもこれらしい形をとつてゐたら、それは明らかに
ニセモノだと云つてよい。これが、私の「現代の抒情」の鑑定法である。
細江英公氏の作品が私に強く訴へるのは、氏がこのやうに「現代の抒情」を深くひそませた作品を作るからである。
そこには極度に人工的な制作意識と、やさしい傷つきやすい魂とが、いつも相争つてゐる。薔薇は元来薔薇の
置かれるべきでない場所に置かれて、はじめて現代における薔薇の王権を回復する。

三島由紀夫「細江英公氏のリリシズム―撮られた立場より」より

229:無名草子さん
11/07/14 17:56:07.95 .net
映像はいつも映画作家の意志に屈服するとは限らぬことは、言葉がいつも小説家の意志に屈服するとは限らぬと
同じである。映像も言葉も、たえず作家を裏切る。


われわれの古典文学では、紅葉(もみぢ)や桜は、血潮や死のメタフォアである。民族の深層意識に深く
しみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を数百年に亘つてつづけて来たので、歴史の
変遷は、ただこの観念聯合の秤のどちらかに、重みをかけることでバランスを保つてきた。戦争中のやうに
多すぎる血潮や死の時代には、人々の心は紅葉や桜に傾き、伝統的な美的形象で、直接の生理的恐怖を消化した。
今日のやうに泰平の時代には、秤が逆に傾いて、血潮や死自体に、観念的美的形象を与へがちになるのは、
当然なことである。かういふことは近代輸入品のヒューマニズムなどで解決する問題ではない。

三島由紀夫「残酷美について」より

230:無名草子さん
11/07/16 14:12:41.57 .net
能は、いつも劇の終つたところからはじまる、と私はかねて考へてゐた。(中略)
能がはじまるとき、そこに存在するのは、地獄を見たことによつて変質した優雅である。芸術といふものは特に
このやうなものに興味を持つ。芸術家は狐のやうに、この特殊な餌を嗅ぎ当てて接近する。それは芸術の本質的な
悪趣味であり、イロニイなのだ。
(中略)
優雅と、血みどろな人間の実相と、宗教と、この三つのものが、「大原御幸」の劇を成立させてをり、かつ文化の
究極のドラマ形態を形づくつてゐる。この一つが欠ければ、他の二つも無用になるといふ具合に。
ところで、現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の実相は、
時たま起る酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、病院や葬儀屋の手で、手際よく
片附けられる。宗教にいたつては、息もたえだえである。……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、
煙のやうに消えてしまふ。

三島由紀夫「変質した優雅」より

231:無名草子さん
11/07/16 14:13:54.06 .net
かうした芸術の成立の困難は、女院が味はつたやうな困難とはちがふ。女院が、変質した優雅をもてあまして、
表現と体験の板ばさみになつてしまつたやうな事情とはちがふ。むしろ、現代の問題は、芸術の成立の困難には
なくて、そのふしぎな容易さにあることは、周知のとほりである。
それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、人間の死と腐敗の実相は、赤い血のりをふんだんに
使つたインチキの残酷さでごまかされ、さらに宗教の代りに似非論理の未来信仰があり、といふ具合に、三者の
代理の贋物が、対立し激突するどころか、仲好く手をつなぐにいたる状況である。
そこでは、この贋物の三者のうち、少くとも二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、
文学らしきものが生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、悩まされることに
なつたのである。

三島由紀夫38歳「変質した優雅」より

232:無名草子さん
11/07/28 11:11:54.62 .net
別離だから悲しからう、悲しければもたもたするだらう、といふのが浅薄な心理主義と私の呼ぶところのものである。
別離は、劇に於ける超人間的なモメントだといふことが、そこでは完全に忘れ去られてゐる。それは別離を人間の
常態だと説いた哲学からの、なまぬるい離反なのであつた。


そもそも「見られた主体」とは「主張する客体」といふのと同じやうに、不可思議な存在である。戯曲といふ
純粋主体は誰の目にも見えず、俳優といふものの客体的要素が、それを人の目に見せる媒(なかだ)ちをする。
(ラジオ・ドラマでは、肉声が、この客体的要素に当る)。ところで、俳優の客体的要素が高まれば高まるほど、
映画俳優やバレエ・ダンサーのやうに、それはますます、主題を表現する抽象的役割を担ふのである。中では
舞台俳優が、セリフを通じて、もつとも主体的要素を含みつつ、実はその役割は、ますます具体的なものになる。
舞台の上では、裸体ほど抽象的で観念的なものはなく、セリフほど具体的なものはない、といふ逆説が、ここに
明らかになる。

三島由紀夫「芸術断想 舞台のさまざま」より

233:無名草子さん
11/07/28 11:13:10.96 .net
芸術家の値打の分れ目は、死んだあとに書かれる追悼文の面白さで決ると言つてよいが、世間をあげて哀悼の意を
表しても、つまらない追悼文しか書かれない芸術家の死は哀れである。


サルドゥの「トスカ」で、私が主要な俳優たちにしばしば忠告したのは、この種の芝居における登場と退場の
大切さであつた。
役の人物があらはれる一瞬前に、役者が登場しなければならぬ。役の人物が退場した一瞬あとに、役者が
退場しなければならぬ。それがかうしたシアトリカルな芝居の味はひであると私は信じてゐる。
(中略)
つまりかういふ芝居で、観客は、役者と演技との或る一瞬のズレをたのしむのだが、それは必ずしもスタアへの
憧れや、あるひは役者の素顔に対する期待を意味するものではない。まづ存在を見、それから演技を見たいと
望んでゐるのである。それは奇術師の対する期待と似てゐて、一つのおどろくべき能力を見せられる前に、その
能力の容器をじつくり見せてもらひたいのである。

三島由紀夫「芸術断想 猿翁のことども」より

234:無名草子さん
11/08/03 09:58:37.62 .net
能以外の劇は、すべて、運動会のピストルみたいな幼稚な効果にたよつてゐる点で、大きな顔はできない。
「桜の園」の幕切れの有名な効果音も、いくら象徴的な効果を狙つても、この域を出ない。われわれは、劇の
総合的な効果といふものについて、丁度現実の突発的な小事件の連鎖のやうな、因果律の虜になつてゐる。
ピストルを打てば、消音ピストルでなければ、音がしなければ納まらない。しかし遠い花火があのやうに美しいのは、
遅く来る音の前に、あざやかに無言の光りの幻が空中に花咲き、音の来るときはもう終つてゐるからではないだらうか。
光りは言葉であり、音は音楽である。光りを花火と見るときに、音は不要なのだが、あとからゆるゆると来る音は、
もはや花火ではない、花火の追憶といふ別の現実性のイメーヂをわれわれの心に定着しつつ、別の独立な使命を
帯びて、われわれの耳に届くのである。

三島由紀夫「芸術断想 詩情を感じた『蜜の味』」より

235:無名草子さん
11/08/03 09:59:19.06 .net
『真相』なんて、大ていまやかしものに決まつてゐる。いつでもすばらしいのは事件そのもので、それだけなのだ。


「希望は過去にしかない」といふ悲観哲学は、伝統芸能の場合、一種特別な意味合ひを帯び、「昔はよかつた」
といふ言葉にたえず刺戟されないかぎり、芸術的完成はありえないことを、特に若い歌舞伎俳優に銘記して
もらいたいと思ふのである。


低級な剽窃はさておき、小説で模倣の目立つほどの作品は、却つて形式意欲の旺盛な、芸術的な作品に多い。
これから見て、模倣の目立つ絵は、それだけ芸術的に高度な、あるひは高度なものを目ざした絵であるか、
といふと、それはちがふ。絵画では、形式や色彩は、より本質的なものであるから、従つて形式や色彩は画家の
無意識的なものに緊密に結びついてゐるから、その模倣は、一そう低級であつて、第一義を誤まつてゐる。
これに比して、小説の文体その他形式上の模倣は、小説における形式が非本質的かつ知的なものであるから、
その模倣も、多少とも知的なものと考へられて恕される。

三島由紀夫「芸術断想 期待と失望」より

236:無名草子さん
11/08/03 09:59:53.97 .net
私には、「ワグナーの純粋化」といふ観念そのものが、世にもばからしく思はれたのである。
ワグナーとは、あらゆる純粋性に対する反措定なのだ。その点では、ワグナーは、象徴主義にとつてさへ敵である。
その「綜合」の意識、「全体」の観念には、おそろしく冒涜的な力があつて、その力がもつとも崇高なものから
もつとも猥褻なものまでのあらゆる価値を等しなみにし、そこに彼独特の甘美な怖ろしい毒を、甘美な病気を
ひろめたのであつた。「トリスタン」は、ただ単に官能的だから怖ろしいのでもなく、ただ単に形而上学的だから
崇高なのでもない。そこではバスを待つ人の行列のやうにお互ひに無関心に、官能と形而上学とが一小節づつ
平然と隣り合つて並んでゐる。こんなグロテスクな無差別の最高原理である「綜合」や「全体」が、死神にしか
似てゐないのは当然だらう。死神の鎌の無差別が、人間精神の全体性への嗜慾の象徴になる。それだから
「トリスタン」は怖ろしいのである。「トリスタン」の腐敗の力に、なまなかの純粋精神などが歯が立たないのは
このためなのだ。

三島由紀夫「芸術断想 三流の知性」より

237:無名草子さん
11/08/05 11:47:15.38 .net
芝居とはSHOWであり、見せるもの、示すものである。すべてが観客席へ向つて集約されてゆく作業である。
それだといふのに、舞台から向う側に属する人たちのはうが、観客よりもいつも幸福さうに見えるのは何故だらう。
何故観客席のわれわれは、安楽な椅子を宛はれ、薄闇の中で何もせずに坐つてゐればよく、すべての点で最上の
待遇を受けてゐるのにもかかはらず、どうしてこのやうに疲れ果て、つねに幾分不幸なのであらう。
私は妙な理論だが、こんなことを考へる。つまり人生においても、劇場においても、観客席に坐るといふ人間の
在り方には、何かパッシヴな、不自然なものがあるのである。示されるもの、見せられるものを見る、といふ
状況には、何か忌まはしいものがある。われわれの目、われわれの耳は、自己防衛と発見のためについてゐるので、
本来、お膳立てされたものを見且つ聴くやうにはできてゐないかもしれない。

三島由紀夫「芸術断想 劇場の中の『自然』」より

238:無名草子さん
11/08/05 11:48:40.11 .net
芸術の享受者の立場といふものには、何か永遠に屈辱的なものがある。すべての芸術には、晴朗な悪意、幸福感に
充ちた悪意がひそんでをり、屈辱を喜ぶ享受者を相手にすることをたのしむのである。そのもつとも端的な
あらはれが劇場芸術だと言つてよい。(中略)
劇場とは、どんな形であれ「存在」の仮構であるが、劇が進行するあひだ、俳優が存在を代表し、観客が存在を
放棄してゐるやうなあの状態、(いかに観客が舞台に「参加」してゐるといふ仮説が巧みに立てられようとも)、
あの状態からは、何か人間の幸福といふものに関する空しい教理がひびいてくる。もつと厳密に言へば、俳優は
彼自身の存在を放棄し、彼ならぬ別個の人格の「役」の存在証明にすべてを捧げてゐるからこそ幸福なのであり、
一方観客は、彼自身の存在をあいまいに受動的に保ちつつ、彼以外のものになるあらゆる可能性を、俳優によつて
奪はれてゐるからこそ不幸なのであらう。劇場の暗闇へなど入らぬかぎり、われわれはみなそれぞれの社会で
固有の役割を果してをり、決して「観客」などといふ、十把一トからげの、不名誉な呼称で呼ばれないですむのである。

三島由紀夫39歳「芸術断想 劇場の中の『自然』」より

239:無名草子さん
11/08/25 10:55:11.54 .net
映画「憂国」を見た人、いや、それよりも、見ない人が、一様に抱く疑問は、なぜ作者自身が主演したのか、
といふことであるらしい。これが最大の謎のやうに思つてゐる人もあるらしい。そこで考へられるのは、作者の
ナルシシズムだとか、マゾヒズムだとか、ぼろぼろに使ひ古された精神分析用語を持ち出して、もののみごとに
謎を解明したつもりになることである。しかしこれでは何も謎は解明されない。精神分析学の発明以来、
精神分析学を手段として利用しない芸術ジャンルは、ほとんどないと云つても過言ではないのであるから、
上のやうな言ひ方は、単なる芸術の同義反復にすぎない。
(中略)
さて、私は俳優、殊に映画俳優といふもののふしぎに魅せられてゐた。正直に言つて、これは俳優芸術のうちでも、
もつとも自発性の薄い分野である。ある意味では、影の影、幻の幻である。しかし、自発性、意志性が薄くなるに
従つて、存在性が重要性を増してくる。彼が影であることと、彼が確乎とした存在であることは、毫も矛盾しない。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より

240:無名草子さん
11/08/25 10:56:14.01 .net
まづ彼が、目に見えるモノとしての存在感と「それらしさ」に充ちあふれてゐなければ、影の影、幻の幻としての、
自律性を持ちえないのである。演技はその先の問題であつて、映画ではミス・キャストがいかに致命的であるかを
考へれば、思ひ半ばにすぎるものがあらう。
一方、私は小説家であり、劇作家である。小説家や劇作家は、精神、意志、知性、その他の自発性を第一条件とする。
もちろんこれには感受性が二次的に必要であるが、彼の仕事には、何よりもまづ、そこにモノを存在せしめるといふ
意志の自発性が必要である。
しかし、人間といふものは奇妙なもので、自発性、意志性が濃くなるに従つて、単なる存在性は稀薄になつてくる。
もちろん、私が、一般論として、人間の自発性、意志性が濃くなるにつれて、存在性が薄くなると云はうとして
ゐるのではない。たとへば、政治家の場合は、ナポレオンやヒトラーなど、その自発性、意志性の濃度に従つて、
存在性も濃くなつてゐた、といへるであらう。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より

241:無名草子さん
11/08/25 10:57:17.45 .net
が、芸術家の場合には、作品といふものがある。芸術家は、ペリカンが自分の血で子を養ふと云はれるやうに、
自分の血で作品の存在性をあがなふ。彼が作品といふモノを存在せしめるにつれて、彼は実は、自分の存在性を
作品へ委譲してゐるのである。
ここに芸術家の存在性への飢渇がはじまる。私は心魂にしみて、この飢渇を味はつた人間だと思つてゐる。
さういふ私が、存在性だけに、その八十パーセントがかかつてゐる映画俳優といふふしぎなモノに、なり代らうと
する欲求は自然であらう。
いはば私は、不在証明(アリバイ)を作らうとしたのではなく、その逆の、存在証明をしたい、といふ欲求に
かられたのである。だから映画「憂国」は、私の不在証明を証明しようとしたものの如く見えるだらうが、実は、
その逆、私の存在証明をしようとしたものだ。そして、さういふときの「私」とは、世間の既成概念にとぢこめ
られてゐる小説家としての「私」ではなく、もつと原質的な、もつと始源的な「私」であることは、いふまでもない。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より

242:無名草子さん
11/08/25 11:01:04.01 .net
ところで、映画俳優とは、選ばれる存在である。自分で自分を選ぶとはどういふことか? そこには論理的矛盾はないか?
選ぶ者と選ばれる者とを一身に兼ねることは、ボオドレエルではないが、「死刑囚と死刑執行人を一身に兼ねる」
ことに等しい。その成否は一に、画面の「私」が、作中人物としての自明の存在感を持ちうるか否かにかかつてゐる。
それは危険な賭である。自己を客観的に見ようとするときに起りがちな誤算は、誰しも免かれないにしても、
この場合は、それが最小限でなければならない。
画面の「武山信二中尉」の存在に、ほんの少しでも「小説家三島由紀夫」の影が射してゐたら、私の企図はすべて
失敗であり、物語の仮構性は崩れ、作品の世界は、床へ落ちたコップのやうに粉々になつてしまふだらう。
この危険が私に与へた魅惑、スリム、サスペンスは限りがなかつた。私が、影の影、幻の幻としての存在感を
持ちうるか否かは、私にとつての、人生の究極の夢に関はつてゐた。
しかも、この賭において、世間はすべて私の敵へ賭けてゐるのである。
さて、あとは、御覧になつた観客各位が判定を下して下さるのみである。

三島由紀夫41歳「『憂国』の謎」より

243:無名草子さん
11/09/12 23:22:44.61 .net
或る小説がそこに存在するおかげで、どれだけ多くの人々が告白を免かれてゐることであらうか。それと同時に、
小説といふものが存在するおかげで、人々は自分の内の反社会性の領域へ幾分か押し出され、そこへ押し出された以上、
もちろん無記名ではあるが、リスト・アップされる義務を負ふことになる。社会秩序の隠密な再編成に同意する
ことになるのである。
このやうな同意は本来ならば、きびしい倫理的決断である筈だが、小説の読者は、同意によつて何ら倫理的責任を
負はないですむといふ特典を持つてゐる。その点は芝居の観客も同様だが、小説が芝居とちがふ点は、もし単なる
享受が人生における倫理的空白を容認することであれば、いくらでも長篇でありうる小説といふジャンルは、
芝居よりもずつと長時間にわたつて、読者の人生を支配するので、(あらゆる時間芸術のうちで、長篇小説は
いちばん人生経験によく似たものを与へるジャンルである)、人々は次第に、その倫理的空白に不安になつて、
つひに自分の人生に対するのと同じ倫理的関係を、小説に対して結ぶにいたることがないではない。

三島由紀夫「小説とは何か 一」より

244:無名草子さん
11/09/12 23:23:32.91 .net
世間一般では、小説家こそ人生と密着してゐるといふ迷信が、いかにひろく行はれてゐることだらう。何よりも
それを怖れて小説家になつた彼であるのに! 私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、
新聞雑誌の人生相談の欄に招かれることである。それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、
オレンヂの樹の栽培について答へてゐるやうなものだ。
人生に対する好奇心などといふものが、人生を一心不乱に生きてゐる最中にめつたに生れないものであることは、
われわれの経験上の事実であり、しかもこの種の関心は人生との「関係」を暗示すると共に、人生における
「関係」の忌避をも意味するのである。小説家は、自分の内部への関係と、外部への関係とを同一視する人種で
あつて、一方を等閑視することを許さないから、従つて人生に密着することができない。人生を生きるとは、
いづれにしろ、一方に目をつぶることなのである。

三島由紀夫「小説とは何か 二」より

245:無名草子さん
11/09/12 23:24:19.27 .net
一面からいへば、神は怠けものであり、ベッドに身を横たへた駘蕩たる娼婦なのだ。働らかされ、努力させられ、
打ちのめされるのは、いつも人間の役割である。小説はこの怖ろしい白昼の神の怠惰を、そのまま描き出すことは
できない。小説は人間の側の惑乱を扱ふことに宿命づけられたジャンルである。そして神の側からわづかに
描くことができるのは、人間(息子)の愚かさに対する、愛と知的焦燥の入りまじつた微かな絶望の断片のみで
あらう。神は熱帯の泥沼に居すわつた河馬のやうだ。
「お前の母親は泥沼の中でしか落着けないのよ」
人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は「本心からではない」ことをバタイユは冷酷に指摘する。
その「本心」こそ、バタイユのいはゆる「エロティシズム」の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの
遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。

三島由紀夫「小説とは何か 七」より

246:無名草子さん
11/09/12 23:24:50.04 .net
バルザックが病床で自分の作中の医者を呼べと叫んだことはよく知られてゐるが、作家はしばしばこの二種の現実を
混同するものである。しかし決して混同しないことが、私にとつては重要な方法論、人生と芸術に関するもつとも
本質的な方法論であつた。(中略)
私のやうな作家にとつては、書くことは、非現実の霊感にとらはれつづけることではなく、逆に、一瞬一瞬自分の
自由の根拠を確認する行為に他ならない。その自由とはいはゆる作家の自由ではない。私が二種の現実のいづれかを、
いついかなる時点においても、決然と選択しうるといふ自由である。この自由の感覚なしには私は書きつづける
ことができない。選択とは、簡単に言へば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、といふことであり、その際どい
選択の保留においてのみ私は書きつづけてゐるのであり、ある瞬間における自由の確認によつて、はじめて
「保留」が決定され、その保留がすなはち「書くこと」になるのである。この自由抜き選択抜きの保留には、
私は到底耐へられない。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

247:無名草子さん
11/09/12 23:25:22.49 .net
「暁の寺」を脱稿したときの私のいひしれぬ不快は、すべてこの私の心理に基づくものであつた。何を大袈裟なと
言はれるだらうが、人は自分の感覚的真実を否定することはできない。すなはち、「暁の寺」の完成によつて、
それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の
現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私に
とつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、
二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。それは私の自由でもなければ、
私の選択でもない。作品の完成といふものはさういふものである。それがオートマティックに、一方の現実を
「廃棄」させるのであり、それは作品が残るために必須の残酷な手続である。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

248:無名草子さん
11/09/12 23:27:53.27 .net
私はこの第三巻の終結部が嵐のやうに襲つて来たとき、ほとんど信じることができなかつた。それが完結することが
ないかもしれない、といふ現実のはうへ、私は賭けてゐたからである。この完結は、狐につままれたやうな
出来事だつた。「何を大袈裟な」と人々の言ふ声が再びきこえる。作家の精神生活といふものは世界大に大袈裟な
ものである。
(中略)
しかしまだ一巻が残つてゐる。最終巻が残つてゐる。「この小説がすんだら」といふ言葉は、今の私にとつて
最大のタブーだ。この小説が終つたあとの世界を、私は考へることができないからであり、その世界を想像することが
イヤでもあり怖ろしいのである。そこでこそ決定的に、この浮遊する二種の現実が袂を分ち、一方が廃棄され、
一方が作品の中へ閉ぢ込められるとしたら、私の自由はどうなるのであらうか。唯一ののこされた自由は、その
作品の「作者」と呼ばれることなのであらうか。あたかも縁もゆかりもない人からたのまれて、義理でその人の子の
名付け親になるやうに。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

249:無名草子さん
11/09/12 23:28:26.63 .net
(中略)
吉田松陰は、高杉晋作に宛てたその獄中書簡で、
「身亡びて魂存する者あり、心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり」
と書いてゐる。
この説に従へば、この世には二種の人間があるのである。心が死んで肉体の生きてゐる人間と、肉体が死んで
心の生きてゐる人間と。心も肉体も両方生きてゐることは実にむづかしい。生きてゐる作家はさうあるべきだが、
心も肉体も共に生きてゐる作家は沢山はゐない。作家の場合、困つたことに、肉体が死んでも、作品が残る。
心が残らないで、作品だけが残るとは、何と不気味なことであらうか。又、心が死んで、肉体が生きてゐるとして、
なほ心が生きてゐたころの作品と共存して生きてゆかねばならぬとは、何と醜怪なことであらう。作家の人生は、
生きてゐても死んでゐても、吉田松陰のやうに透明な行動家の人生とは比較にならないのである。生きながら
魂の死を、その死の経過を、存分に味はふことが作家の宿命であるとすれば、これほど呪はれた人生もあるまい。
「何を大袈裟な」と笑ふ声が三度きこえる。

三島由紀夫「小説とは何か 十一」より

250:無名草子さん
11/09/13 11:56:27.10 .net
ドストエフスキーの「罪と罰」を引張り出すまでもなく、本来、芸術と犯罪とは甚だ近い類縁にあつた。
「小説と犯罪とは」と言ひ直してもよい。小説は多くの犯罪から深い恩顧を受けてをり、「赤と黒」から
「異邦人」にいたるまで、犯罪者に感情移入をしてゐない名作の数は却つて少ないくらゐである。
それが現実の犯罪にぶつかると、うつかり犯人に同情しては世間の指弾を浴びるのではないか、といふ思惑が
働らくやうでは、もはや小説家の資格はないと云つてよいが、さういふ思惑の上に立ちつつ、世間の金科玉条の
ヒューマニズムの隠れ簑に身を隠してものを言ふのは、さらに一そう卑怯な態度と云はねばならない。そのくらゐなら
警察の権道的発言に同調したはうがまだしもましである。
さて、犯罪は小説の恰好の素材であるばかりでなく、犯罪者的素質は小説家的素質の内に不可分にまざり合つてゐる。
なぜならば、共にその素質は、蓋然性の研究に秀でてゐなければならぬからであり、しかもその蓋然性は法律を
超越したところにのみ求められるからである。

三島由紀夫「小説とは何か 十二」より

251:無名草子さん
11/09/13 11:57:11.57 .net
法律と芸術と犯罪と三者の関係について、私はかつて、人間性といふ地獄の劫火の上の、餅焼きの網の比喩を
用ひたことがあるが、法律はこの網であり、犯罪は網をとび出して落ちて黒焦げになつた餅であり、芸術は適度に
狐いろに焼けた喰べごろの餅である、と説いたことがあつた。いづれにしても、地獄の劫火の焦げ跡なしに、
芸術は成立しない。
(中略)
悪は、抽象的な原罪や、あるひは普遍的な人間性の共有の問題であるにとどまらない。きはめて孤立した、
きはめて論証しにくい、人間性の或る未知の側面に関はつてゐる筈である。私はアメリカで行はれた凶悪暴力犯人の
染色体の研究で、男性因子が普通の男よりも一個多い異型が、これらの中にふつうよりもはるかに多数発見されたと
いふ記事を読んだとき、戦争といふもつとも神秘な問題を照らし出す一つの鍵が発見されたやうな気がした。
それは又裏返せば、男性と文化創造との関係についても、今までにない視点を提供する筈である。

三島由紀夫「小説とは何か 十二」より

252:無名草子さん
11/09/13 11:58:17.03 .net
文学と狂気との関係は、文学と宗教との関係に似たところがある。ヘルダーリンの狂気も、ジェラアル・ド・
ネルヴァルの狂気も、ニイチェの狂気も、ふしぎに昂進するほど、一方では極度に孤立した知性の、澄明な高度の
登攀(とうはん)のありさまを見せた。何か酸素が欠乏して常人なら高山病にかかるに決まつてゐる高度でも、
平気で耐へられるやうな力を、(ほんの短かい期間ではあるが)、狂気は与へるらしいのである。
(中略)
分裂病の進行が、往々あるやうに、殺人や自殺に終つても、それを厳密な意味でクライマックスと呼ぶことは
できないであらう。こちら側から見れば、危険な反社会性の現実化であり、一つの社会事件としてのクライマックスで
あつても、向う側から見れば、さらに進行する経過の上の偶発的事件であるにすぎないからである。
(中略)
しかるに、狂気は、その進行過程において、つひに必然的クライマックスを持たない。必然的クライマックスとは
「物化」「自己物質化」であつて、常人の側からは「死」と同じことである。

三島由紀夫「小説とは何か 十三」より


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