三島由紀夫のおすすめエンタメ&戯曲at BOOKS
三島由紀夫のおすすめエンタメ&戯曲 - 暇つぶし2ch100:無名草子さん
11/03/10 13:37:09.81 .net
「文は人なり」とは、まことに怖ろしい格言です。


五十歳にもなれば、人生は、性欲とお金だけで、「純粋な心の問題」は、それが満たされた
あとでなくては現はれるはずもないのです。


ところどころ、何のことかわからないことを入れるのが、ファン・レターの秘訣です。


本当に「おはやう」といふのにふさはしい唇を持つた若い女性は、人の目をさまさせますよ。


私は結婚しても、あの手紙だけはとつておきたいやうな気がするの。
「おはなはん」ぢやないけれど、三十年たち、四十年たつて、自分の若いころの魅力的な姿を
思ひ出すには、やつぱりどんなよく撮れた写真よりも、他人の言葉のはうがリアリティが
あるにちがひないから。


そもそも、助け合ひなどといふことは貧乏人のすることで、その結果生まれる裏切りや
背信行為も、金持ちの世界とはまるでちがひます。金持ちの裏切りは、助け合ひなどといふ
バカな動機からは決して起りません。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

101:無名草子さん
11/03/10 13:37:29.59 .net
毅然としてゐる。青年らしい。ちつとも女々しいところがない。ちつともメソメソした
ところがない。―これが借金申し込みの大切な要素です。人は他人のジメジメした心持ちに
対してお金を上げるほど寛大ではありません。


女の子から、「ちよつとイカスわね」と言はれれば、うれしいにきまつてゐるが、男は
軽率に自分の男性的魅力を信じるわけにはいきません。
女の子といふものは、妙に、男の非男性的魅力に惹かれがちなものだからです。


女は自分のことばかりにかまけて、男をほめたたへる、といふ最高の技巧を忘れ、あるひは
怠けてゐる。


大ていの女は、年をとり、魅力を失へば失ふほど、相手への思ひやりや賛美を忘れ、しやにむに
自分を売りこまうとして失敗するのです。もうカスになつた自分をね。


あらゆる男は己惚れ屋である。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

102:無名草子さん
11/03/10 13:37:56.15 .net
脅迫状は事務的で、冷たく、簡潔であればあるだけ凄味があります。
第一、感情で脅迫状を書くといふのはプロのやることではありません。卑劣に徹し、
下賤に徹し、冷血に徹し、人間からズリ落ちた人間のやる仕事ですから、こちらの血が
さわいでゐては、脅迫状など書けません。
便せんをすかしてみて、そこに少しでも人間の血の色がすいて見えるやうでは、脅迫状は
落第なのです。


この世に生命を生み出す女つて、何てふしぎなものでせう。世の中でいちばん平凡なことが、
いちばん奇跡的なのだ。


女の人は、肉体的なことしかわからないのではありませんか?


西洋人はすべて社交馴れしてゐますから、社交は、建て前が大切だといふ第一原則を守ります。
招待を断わるには、「のがれがたい先約があつて」といふ理由だけで十分で、その内容を
説明する必要はありません。たとひ、ひと月前、ふた月前の招待であつても、さういふ理由で
かまひません。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

103:無名草子さん
11/03/10 13:38:19.72 .net
男が「結婚してくれ」と言ふときには、彼のはうに、彼女を迎へ入れるに足る精神的物質的
社会的準備が十分整つてゐるのが理想的です。


人生は一つの惰性なのかもしれません。


恋愛にとつて、最強で最後の武器は「若さ」だと昔から決まつてゐます。
ともすると、恋愛といふものは「若さ」と「バカさ」をあはせもつた年齢の特技で、
「若さ」も「バカさ」も失つた時に、恋愛の資格を失ふのかもしれませんわ。


人間はいくつになつても感傷を心の底に秘めてゐるものですが、感傷といふのは
Gパンみたいなもので、十代の子にしか似合はないから、年をとると、はく勇気がなくなる
だけのことです。


本当に死ななくても、愛しあふ恋人同士は毎晩心中してゐるのだと思ひます。


僕は演劇は民衆の心に訴へかけ、民衆の魂に火をつけるのでなくては意味がないと思ひます。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

104:無名草子さん
11/03/10 15:01:06.27 .net
三島由紀夫のどこがいいの?インテリぶった文学馬鹿が称賛してるだけじゃねえの
スレリンク(news板)l50


105:無名草子さん
11/03/10 23:37:22.15 .net
あらゆる投書狂、身の上相談狂は自分の告白し、あるひは主張してゐることについて、
内心は、本当の解決など求めてゐはしませんし、また何かの解決を暗示されても、それを
心から承服したりはしません。


この身の上相談の女性もさうですが、世間の人はだれでも、彼女のことに関心を持つて
くれるのが当たり前だ、といふ錯覚におちいつてゐます。
私たちには、何もそんな関心を持つ義務はないのだし、未知の人が死んでも生きても、
別に興味はないのですが、彼女は、自分に対する熱烈な興味は、他人も彼女に対して
同じやうに持つはずだと信じてゐる。


身の上相談の手紙は一見、内容がどれほど妥当でも、全部がこのまちがつた思ひ込みの上に
築かれたお城なのですから、もし彼女がこの基本的な思ひちがひに気がつけば、ほかの
あらゆる人生問題は片づくかもしれないのに、永遠にそこに気がつかないといふところに、
大悲劇があるのです。
つまり、見知らぬ他人に身の上相談なんかするといふ行動それ自体に、彼女の人生を
悩み多くする根本原因がひそんでゐるといへませう。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

106:無名草子さん
11/03/10 23:37:46.49 .net
ヒステリーの女は絶対に、自分のヒステリーは自分のせゐぢやないと信じてゐるわ。


子供を重荷と感じて、自分たちの自由と快楽をいつまでも追はうとするのは、末期資本主義的
享楽主義に毒された哀れな奴隷的感情だと思ふんだ。


だれでも、自分とまつたく同じ種類の人間を愛することはできませんものね。


罪もない相手を悲境に陥れるといふのは、一見、悪魔的ふるまひとも思へますが、もともと
恋に善悪はない。


自分の感情にそむいては、何ごとも成功するものではありません。

テレビでいちばん美しいのは、やつぱり色彩漫画で、宇宙物なんかの色のすばらしさは、
ディズニー・ランドそつくりですが、ディズニーはなんで死んだのでせう。


こんなことを言つてるとキチガヒみたいだけど、テレビばつかり見てると、どうしても
世界中のことがみんな関係があるやうな気がしてきます。テレビの前で食べてる甘栗は、
中共から輸入されたものだらうし、君の妊娠だつて、思はぬことで、何か世界情勢と
関係があるかもしれません。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

107:無名草子さん
11/03/10 23:38:09.90 .net
大体、頭のいい友だちを求める人たちは、よほど頭がわるい連中なんだわ。心を打ち明け合つて
安心なのは、それによつて相手が、はじめてバランスがとれたと感じるやうな友だちなのだわ。
といふのは、頭のよい友だちはふだんから頭で優越感を持つてゐるところへ、そんな告白を
きかされて、感情でも優越感を持つてしまふでせうに、頭のわるい友だちなら、ふだんの
知的な劣等感を感情の優越感で補はれたと思つて、うれしがるでせう。うれしがつて本当に
心からの親切を尽くすでせう。さういふ友だちが大切なのだわ。


恋は愉しいものではなくて、病気だわ。いやな、暗い発作のたびたびある、陰気な慢性の
病気だわ。恋が生きがひだなんていふ人がゐるけれど、とんでもないまちがひで、悪だくみの
はうが、ずつと生きがひを与へてくれます。恋が愉しいなんて言つてゐる人は、きつと
ひどく鈍感な人なのでせう。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

108:無名草子さん
11/03/10 23:38:35.40 .net
何かほしいときだけ甘つたれてくる猫たちの媚態は、あまりにも無邪気な打算がはつきり
してゐて、かはいらしい。
男は別に人格者の女を求めるわけではなく、人間のもろもろの悪徳が、小さな、かはいらしい
ガラス張りの箱の中に、ちんまりと納まつてゐるのを見るのが、安心であり、うれしくもあり、
かはいらしくもある。そこが男の愛の特徴です。


他人の幸福なんて、絶対にだれにもわかりつこないのです。


私は手紙の第一要件だけを言つておきたい。
それは、あて名をまちがひなく書くことです。これをまちがへたら、ていねいな言葉を
千万言並べても、帳消しになつてしまひます。

姓名を書きまちがへられるほど、神経にさはることはありません。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

109:無名草子さん
11/03/10 23:39:09.48 .net
手紙を書くときには、相手はまつたくこちらに関心がない、といふ前提で書きはじめ
なければいけません。これがいちばん大切なところです。
世の中を知る、といふことは、他人は決して他人に深い関心を持ちえない、もし持ち得ると
すれば自分の利害にからんだ時だけだ、といふニガいニガい哲学を、腹の底からよく
知ることです。


手紙の受け取り人が、受け取つた手紙を重要視する理由は、
一、大金
二、名誉
三、性欲
四、感情
以外には、一つもないと考へてよろしい。このうち、第三までははつきりしてゐるが、
第四は内容がひろい。感情といふからには喜怒哀楽すべて入つてゐる。ユーモアも入つてゐる。
打算でない手紙で、人の心を搏つものは、すべて四に入ります。


世の中の人間は、みんな自分勝手の目的へ向かつて邁進してをり、他人に関心を持つのは
よほど例外的だ、とわかつたときに、はじめてあなたの書く手紙にはいきいきとした力が
そなはり、人の心をゆすぶる手紙が書けるやうになるのです。

三島由紀夫42歳「三島由紀夫のレター教室」より

110:無名草子さん
11/03/14 13:16:46.30 .net
当の娘の父親にとつては、この世に一般論などといふものはあるべきではなかつた。心の奥底で
娘を手離したくないと思つてゐる父親の気持から、オールド・ミスにならぬうちに誰かに
早く呉れてやりたいと思つてゐる父親の気持まで、無数のニュアンスの連鎖があつて、
どこからが一般論で、どこからがさうでないとは云へなかつた。又、見様によつては、
世の父親のすべての心には、右の両極端の二つの気持が、それぞれの程度の差こそあれ、
混在してゐる筈であつた。


怖ろしい巨犬には、正面から向つて行けばいいのである。


あまり完璧に見える幸福に対して、人は恐怖を抱かずにはいられないものなのであらうか?


僕はね、君を百パーセント幸福にして上げたいと思ふと、いろんなことを考へだして、
気むづかしくなつてしまふんだ。一種の完璧主義者なんだな。……人間の心といふ奴は、
とにかく、善意だけではどうにもならん。善意だけでは、……人生を煩はしくするばかりだと
わかつてゐてもね。

三島由紀夫「夜会服」より

111:無名草子さん
11/03/14 13:17:04.16 .net
人間は誰でも、(殊に男は)自然にこれこれの人物になるといふものではない。目標があり、
理想像があればこそ、それに近づかうとするのである。


幸福といふものは、そんなに独創的であつてはいけないものだ。幸福といふ感情はそもそも
排他的ではないのだから、みんなと同じ制服を着ていけないといふ道理はないし、同じ種類の
他人の幸福が、こちらの幸福を映す鏡にもなるのだ。


隔意を抱くといふことは淋しいことである。しかも、愛情のために隔意を抱くといふことは、
まるで愛するために他人行儀になるやうなもので、はじめから矛盾してゐる。


結婚とは、人生の虚偽を教へる学校なのであらうか。


現代では万能の人間なんか、金と余裕の演じるフィクションにすぎないんだ。


人間つて誰でも、自分の持つてゐるものは大切にしないのぢやないかしら。
…誰でも、手に入れたものは大したものだと思はなくなる傾きがあるのぢやないかしら。

三島由紀夫「夜会服」より

112:無名草子さん
11/03/14 13:17:23.95 .net
あなたは女がたつた一人でコーヒーを呑む時の味を知つてゐて?
今に知るやうになるわ。お茶でもない、紅茶でもない、イギリス人はあまり呑まないけれど、
やはりそれはコーヒーでなくてはいけないの。それはね、自分を助けてくれる人はもう
誰もゐない、何とか一人で生きて行かなければ、といふ味なのよ。
黒い、甘い、味はひ、何だかムウーッとする、それでゐて香ばしい味、しつこい、
諦めの悪い味。……それだわ、私が本当にコーヒーの味を知つたのは、俊男が結婚してから
はじめてだつたの。それまではコーヒーの味がわからなかつた。主人が亡くなつたあとでもね。
一人で生きなければ、とたえず背中から圧迫されたり激励されたりしてゐるやうな感じつて
わかつて? 誰かの手がいつも自分の背中を、はげますやうに叩いてゐる。あんまり
うるさいから、背中へ手をのばしてつかまへてやると、それが何と自分の手なんだわ。

三島由紀夫「夜会服」より

113:無名草子さん
11/03/14 13:17:49.23 .net
さびしさ、といふのはね、絢子さん、今日急にここへ顔を出すといふものではないのよ。
ずうーつと、前から用意されてゐる、きつと潜伏期の大そう長い、癌みたいな病気なんだわ。
そして一旦それが顔を出したら、もう手術ぐらゐでは片附かないの。
私、何で自分がさびしいのか、その理由を探さなくては気がちがひさうだつた。あなた方の
結婚が、はつきりその理由を与へてくれたやうに思ひ込んでしまつた。でも、私つてバカなのね。
さびしさの本当の深い根は自分の中にしかないことに気がつかなかつたの。
鳥のゐない鳥籠は、さびしいでせう。でも、それを鳥籠のせゐにするのはばかげてゐるわね。
鳥籠をゴミ箱へ捨ててもムダといふものね。鳥がゐないことには変りがないんですから。

三島由紀夫「夜会服」より

114:無名草子さん
11/03/14 13:18:38.16 .net
でも、何十年も先、あなたもきつと同じさびしさを味はふだらうと思ふと、少しは埋め合せが
つく気がする。それは女といふものの引きずつてゐる影みたいなものなんですよ。女は、
いつかそのさびしさに面と向かはなければならないの。男の人とちがつて、女は人のゐない
野原みたいなものを自分の中に持つてゐる。男は、その野原の上を歩いて、悲壮がつて、
孤独だ孤独だなんて言つてゐるにすぎない、と思ふのよ。
いつか、あなたも、私の言つたことを思ひ出すことがあると思ふわ。たとへば、障害を
跳び越えてほつとしたあと、うれしいと思ふ気持のあひだにも、ずつとさびしさが、
一本の道のやうに、向かうへずつとつづいてゐるのを見ることがあると思ふわ。
はじめ、それは幻みたいに見えるの。でもいづれその幻が現実になるのよ。

三島由紀夫42歳「夜会服」より

115:無名草子さん
11/03/17 11:07:52.88 .net
世界が意味があるものに変れば、死んでも悔いないといふ気持と、世界が無意味だから、
死んでもかまはないといふ気持とは、どこで折れ合ふのだらうか。


死体つて、何だか落ちてこはれたウイスキーの瓶みたいぢやないか。こはれれば、中身が
流れ出すのは当たり前だ。


あの美しい欅の梢が、夕空の仄青い色を、精妙無類に、丁度夕空へ投げかけた投網のやうに
からめ取つてゐるのは、そもそも何故だらう。自然は何でこんなに無用に美しく、人間は
何でこんなに無用に煩はしいのだらう。


これからはもう物事をあんまり複雑に考へるのは止しになさるんですね。人生も政治も案外
単純浅薄なものですよ。もつとも、いつでも死ねる気でなくては、さういふ心境には
なれませんがね。生きたいといふ欲が、すべて物事を複雑怪奇に見せてしまふんです。

三島由紀夫「命売ります」より

116:無名草子さん
11/03/17 11:08:13.88 .net
自殺……。
そこまで考へると、彼は何か知れず、精神的な吐き気を感じた。
一度失敗してゐるだけに、自殺だけは、どう考へても億劫な気がした。折角自堕落な
いい気持になつてゐるときに、つい目と鼻の先にあるタバコをとりに立つ気がどうしてもしない。
十分タバコを喫みたい気はあるのだが、ここから手をのばしても届かないことのわかつて
ゐるタバコをとりに立つことが、何だか故障した自動車の後押しをたのまれるほど、
しんどい仕事に思はれる。それがつまり自殺なのだ。


羽仁男は今の今まで休養するつもりだつたのが、また、をかしなものに巻き込まれ
かかつてゐる自分を感じた。世界は多分雲形定規のやうな形をしてゐるのだらう。地球が
球形だといふのはおそらく嘘なのだ。それは、一つの辺がいつのまにか妙にひねくれて
内側へ曲つてゐたり、かと思ふと、まつすぐな一辺が突然断崖絶壁になつたりするのである。
人生が無意味だ、といふのはたやすいが、無意味を生きるにはずいぶん強力なエネルギーが
要るものだ、と羽仁男はあらためて感心した。

三島由紀夫「命売ります」より

117:無名草子さん
11/03/17 11:08:31.11 .net
多分、羽仁男のやうな男は、一つのことからのがれても、また別の「同類」に会ふやうに
運命づけられてゐるのかもしれない。孤独な人間はお互ひの孤独を、犬のやうにすぐ
嗅ぎわけるのだ。


無意味はヒッピーたちの考へるやうな形で人間を犯して来るのでは決してない。それは絶対に、
新聞の活字がゴキブリの行列になつてしまふ、ああいふ形で来るのだ。


シャム猫の鼻先に、シャベルでミルクをやつて、呑まうとするとシャベルをはね上げて、
猫の顔をミルクだらけにしてしまふこと。
彼の空想裡できはめて重要だと思はれたこの儀式は、日本の政治経済すべてにとつても
重要なのにちがひなかつた。つまり、一国の閣議はさうしてはじまるべきだつたし、
安保条約問題もさうして解決されるべきだつた。一匹の高慢ちきな猫の、思ひもかけぬ
不面目によつて、われわれは、猫を飼つてゐるといふことの意味を、よくよく知ることが
できるのだ。

三島由紀夫「命売ります」より

118:無名草子さん
11/03/17 11:08:54.23 .net
つまり、羽仁男の考へは、すべてを無意味からはじめて、その上で、意味づけの自由に
生きるといふ考へだつた。そのためには、決して決して、意味ある行動からはじめては
ならなかつた。まづ意味ある行動からはじめて、挫折したり、絶望したりして、無意味に
直面するといふ人間は、ただのセンチメンタリストだつた。命の惜しい奴らだつた。
戸棚をあければ、そこにすでに、堆(うづたか)い汚れ物と一緒に、無意味が鎮座して
ゐることが明らかなとき、人はどうして、無意味を探究したり、無意味を生活したりする
必要があるだらう。


人の命を買ふ人間、しかもそれを自分のために使はうといふ人間ほど、不幸な人間はない。


何の組織にも属さないで、しかも命を惜しまない男もゐるといふことを知らなくちやいかん。
それはごく少数だらう。少数でも必ずゐるんだ。


命を売るのは君の勝手だよ。別に刑法で禁じてはゐないからね。犯人になるのは、命を買つて
悪用しようとした人間のはうだ。命を売る奴は、犯人ぢやない。ただの人間の屑だ。
それだけだよ。

三島由紀夫43歳「命売ります」より

119:無名草子さん
11/03/18 13:02:39.52 .net
戦後の頽廃は、すでに戦時中銃後に兆してゐたのだ。戦後のあのもろもろの価値の顛倒は、
卑怯者の平和主義は、尻の穴より臭い民主主義は、祖国の敗北を喜ぶユダヤ人どもの陰謀は、
共産主義者どもの下劣なたくらみは、悉くその日に兆してゐたのだ。ああ、金色の
ヴァルハラの広場に、ヴァルキュリーたちによつて運ばれた、気高い戦場の勇士たちの
亡骸は、ひとたび霊に目ざめるや、祖国ドイツのこの有様をのぞみ見て、いかに万斛の涙を
流したことであらう。楯の格天井、鎧の椅子は、卓上の焔に照り映えて、悲嘆の響きを
鏘然(さうぜん)と高鳴らせたことであらう。


もう貧血症の、屁理屈屋の教授連は一切要らん。銃一つ持てないほど非力だから、我身
可愛さにヒステリックな平和主義の叫びをあげる、きんたまを置き忘れたインテリは一切要らん。
少年に向つて亡国の教へを垂れ、祖国の歴史を否定し歪曲する非国民教師どもは一切要らん。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

120:無名草子さん
11/03/18 13:02:56.98 .net
レーム:…俺は、お前が腐敗と反動の後釜を継ぐのには反対だぞ。折角俺たちの力で一新した
この新らしいドイツを裏切つて、買弁資本家やユンカー一族、保守派の老いぼれ政治家や
老いぼれ将軍、将校クラブで俺を鼻であしらつた貴族出身の無能な士官たち、革命や
民衆のことを一度も考へたことのないあの様子ぶつたプロシア国軍の白手袋たち、朝から
ビールとじやがいものおくびをしてゐる布袋腹のブルジョアども、官僚といふあの
マニキュアをした宦官ども、……あんな連中の上にのつかつて、あんな連中にへいこらしながら、
シーソオ・ゲームに憂身をやつして、お前が大統領になるなら反対だぞ。断乎として反対だぞ。
俺が腕づくででも止めてみせる。
ヒットラー:エルンスト!
レーム:きけ。俺はお前に大統領になつてほしいと思つてゐる。心からさう思つてゐる。
しかし、それには力を協せて、この腐つた土地の上のごみ掃除をやつてのけてからだ。
軍部が何だ。口だけではおどしをきかせるが、軍服の中身はからつぽの、あんな金ぴかの
案山子(かかし)のどこが怖い。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

121:無名草子さん
11/03/18 13:03:20.95 .net
クルップ:雨になつたやうだ。
ヒットラー:大した雨ではない。妙なことだ。私が演説をしたあとではきつと雨になる。
クルップ:君の演説が雲を呼ぶのだらう。
ヒットラー:雨が広場を黒く濡らした途端に、どのベンチからも人影が消えてしまつた。
何といふ無趣味ながらんとした広場だらう。人つ子一人ゐない。ついさつきまでここを
群衆が埋めて、とどろく歓声と拍手で熱してゐたとはとても思へない。演説のあとの
広場といふものは、発作のあとの狂人の空白のまどろみのやうだ。どこまで行つても
人間は人間を傷つける。どんな権力の衣にも縫目があつてそこから虱が入る。クルップさん、
絶対に誰からも傷つけられない、どこにも縫目も綻びもない、白い母衣(ほろ)のやうな
権力はないものですかね。
クルップ:なければ君が誂へたらよい。
ヒットラー:あなたがその仕立屋になつてくれませんか。
クルップ:それには寸法をとらなくてはね。ヒットラー:どうでした?
クルップ:残念ながら、まだちと寸法が足りないやうだ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

122:無名草子さん
11/03/18 13:03:39.78 .net
クルップ:仕立屋といふのは慎重なもんだよ、アドルフ。仕払つてもらふ宛てがなければ、
おいそれと着物も仕立てられない。仕立ててあげたいのは山々だが、寸が足りなくては
芸術的満足が得られない。それに仕立ててあげたものを、快適に着てもらはなくては
つまらない。ゆるやかに、楽々と、まるで着てゐるかゐないか本人にもわからぬやうな、
そんな着方をしてもらはなくては。……私は窮屈なチョッキは上げたくない。狂人に
狭窄衣を着せるのとはちがふんだから。
ヒットラー:もし私が狂人だとしたら……
クルップ:私も何度かさういふ経験を持つてゐる。自分を狂人だと思はなければとても
耐へられぬ、いや、理解すらできない瞬間にぶつかる場合は……
ヒットラー:さういふ場合は?
クルップ:自分ではない他人をみんな狂人だと思へばよいのだ。


ヒットラー:クルップさん、ひとつ私に狂人用の窮屈なチョッキを誂へてくれませんか、
両手を拘束されて人を傷つけることはできないが、又決して人から傷つけられることもないやうな……

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

123:無名草子さん
11/03/19 11:48:23.43 .net
レーム:…生れ落ちてから薬や医者には縁のない、永遠の若い鋼の体、このレーム大尉の
体が病気になるつて?
ヒットラー:だから……
レーム:誰がそんなことを信ずるものか。俺を傷つけることができるのは弾丸だけさ。
といふよりは俺の体の鋼鉄が、いつか俺を裏切つて、同じ仲間の鉄の小さな固まりを、
俺の体内へおびき寄せるとき。さうだ、鉄と鉄とが睦み合ふために、引寄せ合つて
接吻するとき、そのときだけだ、俺が倒れるのは。しかしそのときも、俺が息を引取るのは
ベッドの上ではない。
ヒットラー:さうだな、勇敢なエルンスト、いくら大臣になつても、お前はベッドの上で
死ぬやうな男ではない。しかし、ともあれ、お前は仮病を使つて、声明書と共にその旨を
発表するのだ。一、二ヶ月の療養ののち、再起と共に突撃隊を以前よりも精鋭な軍隊に
叩き上げると約束するのだ。
レーム:しかし誰がそれを信じる。
ヒットラー:信じられないからこそ、隊員みんなは信じるだらう。つまり、こいつは、
よほど已むを得ない事情だといふことを。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

124:無名草子さん
11/03/19 11:48:41.94 .net
レーム:…書類を喰つて生きのびた年寄の山羊どもが、首を長くしてお前の餌を待つてゐる。
お前はサインをのたくつて日々をすごす。剣を揮ふ腕の力は見捨てられたままになつてゐる。
権力とは何だ。力とは何だ。それはただサインをする蒼ざめた指さきの細い細い筋肉の
運動にすぎなくなつたのだ。
ヒットラー:それ以上は言はなくてもわかつてゐる。
レーム:だから、友よ、だから言ふのだ。お前の権力がその指さきの運動にではなく、
遠くからお前の一挙一動を憧れの眼差で見戍つて、素破といふときはためらひなく命を
投げ出す覚悟の若者たちの、逞しい腕の筋肉にあることを忘れるな。どんなに行政機構の
森深く踏み迷つても、最後に枝葉を伐つて活路を見出すには、夜明けの色の静脈と共に
敏感に隆起する力瘤だけがたよりなのだ。どんな時代にならうと、権力のもつとも深い
実質は若者の筋肉だ。それを忘れるな。少なくともそれをお前のためにだけ保存し、
お前のためにだけ使はうとしてゐる一人の友のゐることを忘れるな。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

125:無名草子さん
11/03/19 11:48:59.97 .net
ヒットラー:レームが羊ですつて? あいつがきいたらどんなに怒るか。
クルップ:羊でなくても、レーム君が抱いてゐるのは群の思想さ。さうではないかね。
しかしレーム君と別れたあとの、君の暗い額にひらめいたのは、羊でもなければ牧羊犬でもない。
それこそ嵐そのもの、さう言つては持ち上げすぎなら、暗くはためく嵐の予兆そのもの
だつたのだ。峯々を稲妻の紫に染め、世界を震撼させ、人々の活きた魂を電流をとほして
一瞬のうちに、黒い一握の灰に変へてしまふ、あの嵐の兆そのものだつた。君はおそらく
自分ではさう感じはしなかつたらう。
ヒットラー:あのとき、私は怖れてゐた。迷つてゐた。悲しんでゐた。それだけです。
クルップ:人間の感情を持つてゐることを、いくら総理大臣だつて恥ぢるには及ばない。
ただ、人間の感情の振幅を無限に拡大すれば、それは自然の感情になり、つひには摂理になる。
これは歴史を見ても、ごくごくわづかな数の人間だけにできたことだ。
ヒットラー:人間の歴史ではね。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

126:無名草子さん
11/03/19 11:49:15.21 .net
シュトラッサー:…歌はもうあの鋭い清らかな悲鳴と共通な特質を失つてしまつたのです。
死者の目に映る遠い青空は、変革の幻であつたのに、今、青空は洗濯の盥の水にちりぢりに
砕けてしまつた。あらゆる煙草は、耐へがたい訣別の甘いしみとほるやうな味をなくして
しまつた。
(中略)
どこかで遠い昔に嗅ぎ馴れた腐敗の匂ひ、落葉のなかで、猟犬が置き忘れた獲物の鳥が
腐つてゆくときの、森の縞目の日光をかすかに濁らすやうな独特な匂ひ。いたるところで、
その腐敗の匂ひが、人々の指先の感覚を、癩病やみのやうに鈍麻させてゆく。かつて
闇のなかで道しるべの火のやうに敏感に方角を知らせた指は、今では小切手に署名をするのと、
女の体をこじあけるのにしか使はれなくなつた。脱落、脱落、目に見えない透明な日々の脱落、
この感覚を、レーム君、君だつてつぶさに味はつて来た筈だ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

127:無名草子さん
11/03/19 11:49:32.45 .net
シュトラッサー:もう一度革命をやらなければならぬ、と君が考へてゐることを私は知つてゐる。
ところで、私も、もう一度革命をやらなければならぬ、と考へてゐる。二人で話し合ふ
話題には、事欠かぬ筈ぢやないか。
レーム:しかし、方法がちがふ。目的もちがふ。
シュトラッサー:鏡をのぞいてみるやうに、君の右は私の左だ。しかし私の右は君の左だ。
だから却つて鏡を打ち破れば、われわれはぴつたり合ふかもしれないのだ。


シュトラッサー:君はすでに病気になつたのだらう、さつきも言つてゐたやうに。
信頼といふ病気にかかつたのだ。
レーム:殺されるのか、処刑されるのか。
シュトラッサー:おそらくその両方だらう。君は拷問に耐へる自信があるか?
レーム:誰があんたをそんなひどい目に会はさうといふんだね、心配性の弱虫君。言つて
ごらん、そいつの名を言ふのが怖いのかね。言つただけで呪ひがかかるとでもいふのかね。
シュトラッサー:アドルフ・ヒットラー。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

128:無名草子さん
11/03/19 11:53:10.75 .net
レーム:…友愛、同志愛、戦友愛、それらもろもろの気高い男らしい神々の特質だ。
これなしには現実も崩壊する。従つて政治も崩壊する。アドルフと俺とは、現実を
成立たせるこの根本のところでつながつてゐるんだ。おそらくあんたの卑しい頭では
わかるまい。
われわれの住むこの地表はなるほど固い。森があり、谷があり、岩石に覆はれてゐる。
しかしこの緑なす大地の底へ下りてゆけば、地熱は高まり、地球の核をなす熱い
岩漿(マグマ)が煮え立つてゐる。この岩漿こそ、あらゆる力と精神の源泉であり、この
灼熱した不定形なものこそ、あらゆる形をして形たらしめる、形の内側の焔なのだ。
雪花石膏(アラバスター)のやうに白い美しい人間の肉体も、内側にその焔を分ち持ち、
焔を透かして見せることによつてはじめて美しい。シュトラッサー君、この岩漿こそ、
世界を動かし、戦士たちに勇気を与へ、死を賭した行動へ促し、栄光へのあこがれで
若者の心を充たし、すべて雄々しい戦ふ者の血をたぎらせる力の根源なのだ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

129:無名草子さん
11/03/19 11:53:35.46 .net
ヒットラー:…いつかあなたは言はれましたね。自分自身を嵐と感じることができるか
どうか、つて。それは何故自分が嵐なのかを知ることです。なぜ自分がかくも憤り、なぜ
かくも暗く、なぜかくも雨風を内に含んで猛り、なぜかくも偉大であるかを知ることです。
それだけでは十分ではない。なぜかくも自分が破壊を事とし、朽ちた巨木を倒すと共に
小麦畑を豊饒にし、ユダヤ人どものネオンサインにやつれ果てた若者の顔を、稲妻の閃光で
神のやうに蘇らせ、すべてのドイツ人に悲劇の感情をしたたかに味はせようとするのかを。
……それが私の運命なのです。


ヒットラー:あの銃声が、クルップさん、ドイツ人がドイツ人を射つ最後の銃声です。……
これで万事片附きました。
クルップ:さうだな。今やわれわれは安心して君にすべてを託することができる。
アドルフ、よくやつたよ。君は左を斬り、返す刀で右を斬つたのだ。
ヒットラー:さうです。政治は中道を行かなければなりません。

三島由紀夫43歳「わが友ヒットラー」より

130:無名草子さん
11/03/20 17:04:17.90 .net
この世の絶頂の倖せが来たとき、その幸福の只中でなくては動かぬ思案があるのです。
その思案は波間をかすめる太刀魚の背鰭のやうに、幸福の海へ舟出をしてゐる時でなくては
見えないのです。


一つの建築が一つの夢になり、一つの夢が一つの現実になる。さうやつて巨大な石と
おぼろげな夢とは永遠の循環をくりかへすのだ。


今の王様にとつては、ただこのお寺の完成だけがお望みなのだ。そしてお寺の名も、
共に戦つて死んだ英霊たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様は
あの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう。


この世のもつとも純粋なよろこびは、他人のよろこびを見ることだ。

三島由紀夫「癩王のテラス」より

131:無名草子さん
11/03/20 17:04:44.57 .net
私の前にはただ闇があるだけ。色もない。形もない。死も私にははじめて会つたやうな
気がしないだらう。なぜならそれは、この世と一トつづきの闇に他ならぬからだ。


精神は必ず形にあこがれる。


崩れたもの、形のないもの、盲ひたもの、……それは何だと思ふ。それこそは精神のすだただ。
おまへが癩にかかつたのではない。おまへの存在そのものが癩なのだ。精神よ。おまへは
生れながらの癩者だつたのだ。


何かを企てる。それがおまへの病気だつた。何かを作る。それがおまへの病気だつた。
俺の舳(みよし)のやうな胸は日にかがやき、水は青春の無慈悲な櫂でかきわけられ、
どこへも到達せず、どこをも目ざさず、空中にとまる蜂雀のやうに、五彩の羽根をそよがせて、
現在に羽搏いてゐる。俺を見習はなかつたのが、おまへの病気だつた。


青春こそ不滅、肉体こそ不死なのだ。……俺は勝つた。なぜなら俺こそがバイヨンだからだ。

三島由紀夫44歳「癩王のテラス」より

132:無名草子さん
11/04/08 12:06:49.22 .net
若い世代は、代々、その特有な時代病を看板にして次々と登場して来たのであつた。彼らは一生のうちには必ず
癒つて行つた。(と言つても、カルシウムの摂取で病竃を固めてしまつただけのことだが)しかしここに不治の病を
持つた一世代が登場したとしたら、事態はおそらく今までの繰り返しではすまないだらう。その不治の病の名は
「健康」と言ふのであつた。
(中略)
われわれの世代を「傷ついた世代」と呼ぶことは誤りである。虚無のどす黒い膿をしたたらす傷口が精神の上に
与へられるためには、もうすこし退屈な時代に生きなければならない。退屈がなければ、心の傷痍は存在しない。
戦争は決して私たちに精神の傷を与へはしなかつた。
のみならず私たちの皮膚を強靭にした。面の皮もだが、おしなべて私たちの皮膚だけを強靭にした。傷つかぬ魂が
強靭な皮膚に包まれてゐるのである。不死身に似てゐる。

三島由紀夫「重症者の兇器」より

133:無名草子さん
11/04/08 12:08:11.28 .net
(中略)
「芸術」といふあの気恥かしい言葉を、とりわけ作家・批評家にとつてはタブウであるらしいあの言葉を、
臆面もなくしやあしやあと素面で口にするといふ芸当は、われわれ面の皮の厚い世代が草始することになるだらう。
作家は含羞から、批評家は世故から、芸術だの芸術家だのといふ言葉をたやすく口にしなかつた。彼らは素朴な
観念といふものが人を裸かにすることを怖れるあまり、却つてその裏を掻いて、素朴な観念ほど人間の本然の
裸身を偽るものはないといふ教説を流布させた。
「芸術」とは人類がその具象化された精神活動に、それに用ひられた「手」を記念するために与へた最も素朴な
観念である。しかしこの言葉はタブウになると、それは「生」とか「生活」とか「社会」とか「思想」とかいふ
さまざまな言替の言葉で代置された。これらの言葉で人は裸かになりえたか。なりえない。何故なら彼等は
これらの言葉が、この場合、代置としてのみ意味を持たらしめてゐることに気附いてゐないのだから。それに
気附きつつそれに依つた真の選ばれた個性は、日本ではわづかに二三を数へるのみである。

三島由紀夫「重症者の兇器」より

134:無名草子さん
11/04/08 12:09:35.09 .net
私はそのやうな選ばれた人々のみが歩みうる道に自分がふさはしいとする自信をもたない。だから傷つかない魂と
強靭な皮膚の力を借りて、「芸術」といふこの素朴な観念を信じ、それをいはゆる「生活」よりも一段と高所に置く。
だからまた、芸術とは私にとつて私の自我の他者である。私は人の噂をするやうに芸術の名を呼ぶ。それといふのも、
人が自分を語らうとして嘘の泥沼に踏込んでゆき、人の噂や悪口をいふはづみに却つて赤裸々な自己を露呈する
ことのあるあの精神の逆作用を逆用して、自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。
これは、西洋中世のお伽噺で、魔法使を射殺するには彼自身の姿を狙つては甲斐なく、彼より二三歩離れた林檎の
樹を狙ふとき必ず彼の体に矢を射込むことができるといふ秘伝の模倣でもあるのである。―端的に言へば、
私はかう考へる。(きはめて素朴に考へたい)生活よりも高次なものとして考へられた文学のみが、生活の真の
意味を明かにしてくれるのだ、と。

三島由紀夫23歳「重症者の兇器」より

135:無名草子さん
11/04/08 20:04:47.37 .net
菊五郎が創造したのは一種の近代歌舞伎であり、写実主義歌舞伎であつた。しかしその写実主義は根本的に
伝統的な物真似芸の深化あるひは象徴化であつて、大根(おおね)は近代的でも何でもない。こんなことを言ふと
インテリ歌舞伎俳優から抗議が出さうだが、歌舞伎役者の近代性などタカが知れてゐるのだ。近代趣味の
インテリ集団の文壇からだつて、本当の近代文学など出てゐやしない。安心していい。
おそれるのは若手俳優が企てる歌舞伎の浅墓な近代化だ。菊五郎の近代歌舞伎は、歌舞伎に適しない彼の容姿の
ハンディキャップから生れたといつてもいいのだ。菊五郎が育つて来た時代にはまだ本物の歌舞伎・本物の
錦絵役者が生きてゐた。この対抗手段として聡明な六代目は芸を心理の内面へ向けた。しかし歌舞伎の本質は
様式美を措いてはない。彼は心理の裏附けに物真似芸を広め深めて、様式を今一歩普遍化し内面化したのである。
だから六代目の芸と新劇の演技との間には、量の差ではない、範疇の差があるのである。

三島由紀夫「歌舞伎評 歌舞伎の近代性とは?」より

136:無名草子さん
11/04/08 20:05:20.43 .net
今や若手(といつたつて四十代も何人かゐるのだが)俳優諸君は、抵抗を感じるべき対象をもつてゐない。
錦絵役者は死に絶え、歌舞伎の古色は滅びてしまつた。ここで諸君が六代目の道を行くならそれは坦々たる
アスファルトで目をつぶつてゐてもドライヴができる。菊五郎が切り拓いたやうな抵抗がないのだ。ここに至つて
諸君の道は一層困難だ。
要は諸君がルネッサンス人になることである。諸君自身が歌舞伎のオルソドックスになつて、諸君自身に対立する
ことだ。この対立に血路を見出だして、その上で本当の新らしさを発見することだ。まづ歌舞伎のあらゆる
愚かしさを諸君自身に課することだ。
歌舞伎の近代化といふはたやすい。しかし浅墓な古典の近代的解釈にだまされるやうなお客は却つて近代人ですら
ないのだ。そんなのはもう古い。イヤサ、古いわえ。

三島由紀夫「歌舞伎評 歌舞伎の近代性とは?」より

137:無名草子さん
11/04/08 20:05:47.00 .net
いま歌舞伎役者でいちばんブロマイドの売れるのは海老蔵ださうだ。
或る時ごつたがへしの地下鉄の中で、偶々銀座から乗つて来た海老蔵と顔をつき合はせた。色は浅黒く、中折帽が
よく似合ふ。この変装ではあまり人に気づかれない。ただこの人の暗い沈鬱な目が舞台のままだつた。大きな目で、
白眼(にら)めば映えもする。隈取にも負けない目である。この目の暗さが舞台に翳を与へるのだ。
出てくると舞台がぱつと明るくなるといふ先代羽左衛門の天賦に似たものを、若い海老蔵にも発見されたのは
岡鬼太郎氏である。成程この九月の彼の富樫はたしかに颯爽たるものだつた。しかし目が容姿の明るさを
裏切つてゐる。ニヒリスティックな目だ。
九月の「忠臣蔵」の勘平では、この暗い目が芝居にリアリティーを与へた。張りのない澱んだ目が勘平の絶望感の
端的な表現となつた。悪戯小僧みたいな松緑の目とは丁度正反対だ。

三島由紀夫「歌舞伎評 市川海老蔵論」より

138:無名草子さん
11/04/08 20:06:18.38 .net
仄聞するところによると、海老蔵は家庭生活に恵まれない人のやうである。立入つた見方をすれば、生活の虚ろさが
目に現はれたやうな感じを受ける。匿名子はむしろこの失礼な予測が当ることを欲する。芸の無気力から来る目の
無気力だと思ひたくないのだ。
美は犠牲の上に成立ち、犠牲を踏まへた生活の必死の肯定によつて維持され育くまれる。もちろんこんな理窟は、
極楽蜻蛉的生涯を送ることのできた古い役者たちには適用しない。しかしこれからの歌舞伎役者は、ある意味で
自分たちの生涯が美の犠牲だといふことを強く意識する必要があると思ふ、芸術家たるの自覚を、六代目みたいに
単に対社会的にばかりでなく自覚する必要がある。この自覚が強烈になれば、海老蔵の目も光りを放ち、清澄な
力あるものになるであらう。

三島由紀夫「歌舞伎評 市川海老蔵論」より

139:無名草子さん
11/04/08 20:07:32.77 .net
「合邦」前半の玉手御前や、「御殿」の八汐は、浄瑠璃作者が創造した性格といふよりは、人形の機巧が必要上
生み出したデスペレエトな怪物であるが、それはもちろん義太夫節の怪物的性格にも懸つてゐる。しかし何といふ
情熱的なエネルギッシュな怪物であらう。類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。
儒教道徳やカソリック道徳の支配下においては、悪は今日よりも、もつと類型的でさうして強烈であつた。それは
反道徳的なもの一切の代表者であつて、人間の完全な1/2であつた。戦後の道徳混乱期の芸術が甚だ弱力なのは、
悪のエネルギーも亦分散して、悪人もまた単に個性の限界を出ないからである。歌舞伎や人形芝居は目もあやな
悪を創造した。「暫」の公家悪の美しさ、「妹背山御殿」の入鹿の美しさを見るがいい。この力がある限り、
歌舞伎や文楽は決して滅びない。

三島由紀夫25歳「歌舞伎評 悪のエネルギー」より

140:無名草子さん
11/04/10 12:00:22.20 .net
新しい人間と新しい倫理とは別のものではないのである。倫理とは彼の翼にすぎぬ。倫理とは彼の生きる方法だ。
方法なしに生きる場合に無倫理と云はれる。しかし厳密な意味での無倫理といふものはない。生そのものが内在的に
一つの方法を負うてゐるからだ。生きようとする時、彼の智慧は既に生きる方法を知つてゐるからである。しかし
単なる「生きようとする意志」―これだけはどうにもならぬ。方法喪失症が意志の美名でよばれてゐる。
これこそ無倫理だ。そして生の擬態にすぎぬそれが、今でも生そのものと間違へられてゐる。
      *
新しい人間と倫理の模索は、或る「原型」の模索を意味してゐるらしい。ゲエテにおいては、それは宇宙の内在
といふやうな原型の模索であつた。それは自我を小宇宙(ミクロコスモス)とする欲求だつた。日本の中世に
おいては、彼の芸術のひろがりに直に接する地点として、もつとも星空に近い場所が、隠者の草庵が選ばれた。
作家が企業家を兼業しようと、大学教授を兼ねようと、この事情にはかはりはない。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より

141:無名草子さん
11/04/10 12:00:54.05 .net
作家がとりうる「新しい道」といふものはなく、彼がなりうる「新しい人間」といふものはない。彼が意図するのは
原型だけだ。原型の模索が芸術家にとつての凡てである。原型の能ふかぎり正確な能ふかぎり忠実な再現、
それが彼のもつ倫理の新しさに他ならぬ。
「新しい人間と新しい倫理」は芸術作品の中にしかありえないのである。しかも作品の中にあらはれた新しい
人間像は、きはめて正確な程度にまで到達された作者の原型の模写に他ならず、各人各様のその到達の方法は、
人間の歴史と共に古いのである。
原型とは芸術家のもつとも非芸術的な欲求の象徴と言つてよいかもしれぬ。原型における芸術家は完全な意味での
「被造物」に化身する。そこには、古代の壁面や紙草に書かれた稚拙な絵画が、その芸術的衝動の源泉を、
「死」に見出だしたのと相似た消息が見られるのである。あらゆる創らうとする欲求の根底の力が、創らうと
する欲求と反対の力なのである。いかなる鋳像も鋳型を求めるのだ。それなしには彼の再生と繁殖はありえず、
しかもそれとの合一の瞬間に彼の存在も亦失はれるところのあの鋳型を。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より

142:無名草子さん
11/04/10 12:01:54.31 .net
      *
単に金儲けの目的で文学をはじめようとする青年たちがゐる。これは全く新しい型だ。君たちの動機の純粋を
私は嘉する。「金のため」―ああ何といふ美しい金科玉条、何といふ見事な大義名分だ。私たちの動機は
それほど純粋ではない。もつと気恥かしい、口に出すのも面伏せな欲求がこんがらかつて私たちを文学へ駆り
立てた。だが私たちだけに言へる種類の皮肉もあるのである。
「金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。私たちは原稿の代償として金を受取るとき、
いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく感じなければならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく
撫でられた狂犬のやうにして」
      *
こいつをうまく両手に捌かうといふ人たちがゐる。一方で出版業その他、一方で芸術。―これも一つの新しい
型だ。しかしその時彼の生活の投影する場所がなくなつてしまふ。両方から等分の照明で照らされた板のやうに。
そこで彼の二重性はその架空の(影なき)二重性のなかで(中略)彼にあの「原型」への意慾(非芸術的な
意慾)が失はれる。彼は「芸術愛好家」になる。

三島由紀夫23歳「反時代的な芸術家」より

143:無名草子さん
11/04/14 12:08:10.84 .net
人間は結局、前以て自分を選ぶものだ。(中略)批評といふものが本質的に自己を選択する能力だと考へると、
批評こそ創造だと言ひ出したワイルドは、彼自身の運命を創造した人間のやうに思はれる。
逆説はその場のがれにこそなれ、本当の言ひのがれにはなりえない。逆説家は逆説で自分を追ひつめ、どどの
つまりは自分自身から言ひのがれの権利をのこらず剥奪してしまふのである。逆説家がしばしばいちばん誠実な
人間であるのはこのためだ。逆説家がいちばん神に触れやすいのもこの地点だ。神は人間の最後の言ひのがれであり、
逆説とは、もしかすると神への捷径だ。(中略)
さまざまな論者がワイルドの逆説のいづれかに引つかかつてゐる。ジイドでさへが。
  大作家ではない、併し大生活家だ。
ジイドはワイルドの回想の主題をここに置いたが、その根拠は、ワイルド自身の苦々しい自己弁護にみちた逆説、
「私は自分の天才のすべてを生活に注いだが、作品には自分の才能しか用ひなかつた」といふ逆説に係つてゐる。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

144:無名草子さん
11/04/14 12:08:39.44 .net
天才(ジェニー)。才能(タラン)。誰がそれを分割することができよう。ジイドは勿論そのことをよく知つてゐた。
そこでワイルドが用法の錯誤と言ひくるめるこの二つの薬品を、ジイドは本質の錯誤と考へて分類した。ジイドは
正直にワイルドの作品に才能をしか見なかつた。しかし私は思ふのだが、ワイルドの悲劇は、この逆説のうちなる
逆説の誠実さにあるのではなからうか。分割したとたんにそのいづれでもなくなるやうな精妙な化合物を、
切れ味みごとに分割しようとして果さなかつた悲劇が。
才能とは決して不完全な天才のことではない。才能と天才は別の元素だ。それにもかかはらず、われわれは
ワイルドの作品のいたるところに不完全な天才を見出だすのである。いはば「ドリアン・グレイの画像」は才能の
足跡で踏みくたされた泥濘だ。しかしその足跡のなかの一対が、天使の足跡でないと誰が言へよう。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

145:無名草子さん
11/04/14 12:08:59.06 .net
(中略)
苦痛は一種のドラマである。人がその欲しないものへ赴くためには、丁度子供が歯医者へゆく御褒美に菓子を
せびるやうに、虚栄心をせびらずにはゐられない。虚栄心はこのドラマの舞台であつて、ワイルドにとつては、
彼の道徳の苗床でもあつたやうに思はれる。
つくづく思ふのだが、ワイルドは悲劇役者として上の部でななかつた。生活の信条としての彼の悲劇への志向は、
浪漫主義詩人のボヘミアン・ライフの卵の殻を背負つてゐた。悲劇の節度も礼譲も、悲劇をして壮麗ならしめる
抑制の苦悩もなかつた。をかしなことだ。彼は数ある苦痛のうち、「抑制の苦痛」だけを知らなかつたのである。
牢獄がはじめて外部からそれを彼に教へた。
「彼の耽美主義はなにか痙攣のやうなものであつた」とホフマンスタールが書いてゐる。ホフマンスタールは
ワイルドの悲壮な戦慄を、現実の復讐を挑戦しつづける男の現実からうける脅威と見てゐる。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

146:無名草子さん
11/04/14 12:09:26.44 .net
(中略)
オスカア・ワイルドはまづもつて卑俗(と謂つてもよからう)な成功の毒に中(あた)つた。それが彼をして
半ばは虚栄心、半ばは持ち前の真摯誠実から、(この二つは彼にとつては同じものだ)、すすんで嫌はれ者の
光栄に憧れさせた。社会はある男を葬り去らうとまで激昂する瞬間に、もつともその男を愛してゐるもので、
これは嫉妬ぶかい女と社会とがよく似てゐる点である。軽業師は観客の興味を要求することに飽き、つひには
恐怖を要求することに苦心を重ねて、死とすれすれな場所に身を挺する。彼が死ぬ。それはもはや椿事だ。
綱渡り師の墜死は、芸当から単なる事件への、おそろしい失墜である。イギリス社会にはとりわけイギリス特産の、
醜聞といふ「死」の一つの様式があつたので、綱渡り師がこの危険に誘惑を感じない筈はないのであつた。
ボオドレエルがカソリシズムの苦悩の教義に照らして眺めた「醜の美」を、すでに人々は何らの痛痒を感ぜずに
炉辺で享楽しはじめてゐたために、人々に嫌はれるためには、むしろ身自ら癩病に罹患する必要があつた。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

147:無名草子さん
11/04/14 12:09:47.05 .net
(中略)
生活とは決して独創的でありえない何ものかだ。ホフマンスタールの忠告にもかかはらず、しかし運命のみが
独創的でありうる。キリストが独創的だつたのは、彼の生活のためではなく、磔刑といふ運命のためだ。もうひとつ
立入つた言ひ方をすると、生活に独創的な外見を与へるのは運命といふものの排列の独創性にすぎない。
(中略)
虚栄心を軽蔑してはならない。世の中には壮烈きはまる虚栄心もあるのである。ワイルドの虚栄心は、受難劇の
民衆が、血が流れるまで胸を叩きつづけるあの受苦の虚栄に似てゐたやうに思はれる。何故さうするか。それが
その男にとつての、ともかく最高度と考へられる表現だからである。ワイルドが彼の詩に、彼の戯曲に、彼の
小説に選択する言葉は、かうした最高度の虚栄であつた。人間の心が通じ合ふための唯一の言葉である音楽を、
師ウォルタア・ペイタアにならつて、芸術の形式上の典型と呼んだワイルドは、また芸術の感情上の典型を俳優に
見出だした。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

148:無名草子さん
11/04/14 12:12:54.32 .net
音楽は詐術ではない。しかし俳優は最高の詐術であり、アーティフィシャルなものの最上である。それは人間の
言葉である台詞が無上の信頼の友を見出だす分野である。
文学者の簡明な定義を私は考へるのだが、それは人間の言葉が絶対に通じ合はぬといふ確信をもちながら、
しかも人間の言葉に一生を託する人種である。この脆弱な観念を信じなければならぬ以上、文学者は懐疑主義者に
なりきれない天分をもつてゐる。
(中略)
ワイルドはその逆説によつて近代をとびこえて中世の悲哀に達した。イロニカルな作家はバネをもつてゐる人形の
やうに、あの世紀末の近代から跳躍することができた。彼は十九世紀と二十世紀の二つの扇をつなぐ要の年に
世を去つた。彼は今も異邦人だ。だから今も新しい。ただワイルドの悪ふざけは一向気にならないのに、彼の
生まじめは、もう律儀でなくなつた世界からうるさがられる。誰ももう生まじめなワイルドは相手にすまい。
あんなに自分にこだはりすぎた男の生涯を見物する暇がもう世界にはない。

三島由紀夫25歳「オスカア・ワイルド論」より

149:無名草子さん
11/04/16 11:46:15.23 .net
河、重い雲、星、対岸の大都会、暮色、灯……さういふ詩的な雰囲気が今の東京には全然ないやうです。
マンチェスタアのやうなマニフェクチュア工業の都会の哀愁は「人間の身すぎ世すぎ」「人間のなりはひ」といふ
ものに対する詩的感情から来てゐるのですね。「商業」それも大規模な商業には、人間の集団とその生活が
もたらす深い暮色の香りがたゞよつてゐるやうな気がします。人間が大勢あつまると暮色がたゞよふのです。
(中略)
戦争中、中島飛行場にゐたときも、僕はガウガウ音をたててゐる工場のなかを歩きまはりながら「インダストリーと
いふ雰囲気にはどこかメランコリックなものがあるね」と時代錯誤的な言草で友達を面喰はせたものでした。(中略)
僕はまた、万国博覧会にリボンをつけた硝子罎に入れて陳列されてゐるさまざまな微細な軽工業の商品見本が
好きでした。それは明治時代の国家資本主義の野暮つたい雰囲気と奇妙にマッチしてゐるなつかしさです。
生糸や鉛筆や、さういふ商品からまことに非実用的な蠱惑を僕は受けてゐたのでした。

三島由紀夫「インダストリー―柏原君への手紙」より

150:無名草子さん
11/04/16 11:46:45.71 .net
野暮くさいレッテル、何とかマッチの大箱のレッテル、小学校の教科書のやうな薄暗い画で飾られたレッテルを
僕は愛しました。そのくせ僕はアド・バルーンやネオン・サインはそれほど好きでもなかつたのです。
詩情をよびおこすものは消費面より生産面のはうが多いのではないかといふ僕のドグマティックな想像を裏書する
よい証拠はないものでせうか。それともそれは消費面に育つた都会児のセンチメンタルな憧れにすぎないのでせうか。
僕はビルディングの窓々にともる灯火よりも、工場街の灯火のはうに、深い郷愁をそそるものがあるのを感じます。
それは正にコムミュニズムとは全く無関係な立場でです。昼のサイレンよりも、工場の作業開始のサイレンのはうが、
何故かしら僕のあこがれる世界に近かつたのです。そこでは又しても暗いどよめきの彼方に、汚れた河口や、
並立つ煙突や、曇つた空や、それらの象徴する漠たる人工の苦悩が聳(そび)え立つてくるのでした。

三島由紀夫23歳「インダストリー―柏原君への手紙」より

151:無名草子さん
11/04/20 16:54:37.94 .net
感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に感じるほどのことを、他人は
自分に感じないといふ認識で軽癒する。(中略)
世間の人はわれわれの肉親の死を毫も悲しまない。少なくともわれわれの悲しむやうには悲しまない。われわれの
痛みはそれがどんなに激しくても、われわれの肉体の範囲を出ない。
感じやすさのもつてゐる卑しさは、われわれに対する他人の感情に、物乞ひをする卑しさである。自分と同じ
程度の感じやすさを他人の内に想像し、想像することによつて期待する卑しさである。感じやすさは往々人を
シャルラタンにする。シャルラタニスムは往々感じやすさの企てた復讐である。
私はまづ自分の文体から感じやすい部分を駆逐しようと試みた。感受性に腐蝕された部分を剪除した。ついで
私の生活に感じやすさから加へられてゐるさまざまの剰余物、こつてりとかけられたホワイト・ソースの如きものを
取り去らうと試みた。私の理想とした徳は剛毅であつた。それ以外の徳は私には価値のないもののやうに思はれた。

三島由紀夫「アポロの杯 航海日記」より

152:無名草子さん
11/04/20 16:55:03.28 .net
ここでは表情自体はあらはで、苦痛の歪みは極度に達してゐる。その苦痛の総和が静けさを生み出してゐるのである。
「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。一定量以上の苦痛が
表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、
どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは
限りもしらないものに思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての苦痛の
不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。この領域にむかつて、画面の
あらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の
高みにまで達してゐない。一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を
ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。

三島由紀夫「アポロの杯 北米紀行 ニューヨーク」より

153:無名草子さん
11/04/22 11:04:42.79 .net
或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。美は自分の秘密をさとられ
ないために、力めて凡庸さと親しくする。その結果、われわれは本当の美を凡庸だと眺めたり、たゞの凡庸さを
美しいと思つたりするのである。
(中略)
記憶はすべて等質だから、夢の中の記憶も現実の記憶と等質のものでしかないこと、その記憶の瞬間において、
私の観念はまた何度でもリオを訪れリオに存在するかもしれないが、私の肉体は同時に地上の二点を占めることは
できないこと、もはや死者が私の中に住むやうにしてリオは私の中に住むにすぎまいが、もう一度現実にリオを
訪れても、この最初の瞬間は二度と甦らぬであらうといふこと、その点では時がわれわれの存在のすべてであつて、
空間はわれわれの観念の架空の実質といふやうなものにすぎないこと、そして地上の秩序は空間の秩序にすぎない
こと、……私はこれらのことをつかのまに雑然と考へ、荘子の胡蝶の譬や、謡曲邯鄲の主題をあれこれと思ひうかべた。

三島由紀夫「アポロの杯 南米紀行―ブラジル リオ―転身―幼年時代の再現」より

154:無名草子さん
11/04/22 11:05:04.74 .net
荘子の譬は、転身の可能について語つてゐる。われわれは事実、ある瞬間、胡蝶になるのだ。われわれはさまざまな
ものになる。輪廻は刻々のうちに行はれる。大きな永い輪廻と、小さな刹那々々の輪廻とがある。小さな輪廻と
大きな輪廻とは、お互ひを映してゐる鏡影のやうなものである。ひとりわれわれの意識が、われわれをあらゆる
転身の危険から護り、空間にとぢこめられた肉体の存在を思ひ出させてくれるのである。さもなければわれわれは
二度と人間に立戻らないで、その瞬間から胡蝶になつてしまふことであらう。

三島由紀夫「アポロの杯 南米紀行―ブラジル リオ―転身―幼年時代の再現」より


時々、窓のなかは舞台に似てゐる。多分その思はせぶりな照明のせゐである。

「アポロの杯 南米紀行―ブラジル サン・パウロ」より

155:無名草子さん
11/04/24 10:50:30.19 .net
曲馬はこれを見るごとに、およそ平衡を失はなければ、どんな危険を冒しても安全だと語つてゐるやうに私には
思はれ、また、どんな不可能事の実現と見えるもののなかにも、厳然と平衡が住んでゐることを教へられるのである。
われわれは肉体の危険にもまして、たびたび精神の危険を冒す。そのときわれわれは曲芸師のやうにかくも平衡に
忠実であらうか。曲芸師が綱から落ち、曲芸師の額から皿が落ちるときに、われわれは彼等があやまつて肉体の
平衡を冒したことを如実に見るが、われわれが自ら精神の平衡を失ふさまは、これほど如実に見ることはできない
ので、それだけ危険は多く且つ重大である。
曲芸師は肉体の平衡を極限まで追ひつめて見せる。しかしかれらはそのすれすれの限界を知つてをり、そこで
かれらは引返して来て、微笑を含んで観衆の喝采に答へるのである。かれらは決して人間を踏み越えない。しかし
われわれの精神は、曲芸師同様の危険を冒しながら、それと知らずにやすやすと人間を踏み越えてゐる場合が
あるかもしれない。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 パリ シルク・メドラノ」より

156:無名草子さん
11/04/24 10:50:54.75 .net
思惟が人間を超えうるかどうかは、困難な問題である。超えうるといふ仮定が宗教をつくり、哲学を生んだので
あつたが、宗教家や哲学者は正気の埒内にある限り曲芸師の生活智をわれしらず保つてゐるのかもしれない。
もし平衡が破られたとき実は失墜がすでに起つてをり、精神は曲馬の円い舞台に落ちて、すでに息絶えてゐるかも
しれないが、そののち肉体が永く生きつづけるままに、人々は彼の死を信じないにちがひない。
狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、破局とすれすれの状態で
保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも一そう露はなのだ。たとへばわれわれは歩行の
場合に平衡を意識しないが、綱渡りの場合には意識せざるをえないのと同じである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 パリ シルク・メドラノ」より

157:無名草子さん
11/04/26 10:48:29.83 .net
オリンピアの非均斉の美は、芸術家の意識によつて生れたものではない。
しかし竜安寺の石庭の非均斉は、芸術家の意識の限りを尽したものである。それを意識と呼ぶよりは、執拗な
直感とでも呼んだはうが正確であらう。日本の芸術家はかつて方法に頼らなかつた。かれらの考へた美は普遍的な
ものではなく一回的(einmalig)なものであり、その結果が動かしがたいものである点では西欧の美と変りがないが、
その結果を生み出す努力は、方法的であるよりは行動的である。つまり執拗な直感の鍛錬と、そのたえざる試みとが
すべてである。各々の行動だけがとらへることのできる美は、敷衍されえない。抽象化されえない。日本の美は、
おそらくもつとも具体的な或るものである。
かうした直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。芸術家の抱くイメーヂは、
いつも創造にかかはると同時に、破滅にかかはつてゐるのである。芸術家は創造にだけ携はるのではない。
破壊にも携はるのだ。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より

158:無名草子さん
11/04/26 10:49:00.49 .net
その創造は、しばしば破滅の予感の中に生れ、何か究極の形のなかの美を思ひゑがくときに、ゑがかれた美の
完全性は、破滅に対処した完全さ、破壊に対抗するために破壊の完全さを模したやうな完全さである場合がある。
そこでは創造はほとんど形を失ふ。なぜかといふと、不死の神は死すべき生物を創るときに、その鳥の美しい歌声が、
鳥の肉体の死と共に終ることを以て足れりとしたが、芸術家がもし同じ歌声を創るときは、その歌声が鳥の死の
あとにまで残るために、鳥の死すべき肉体を創らずに、見えざる不死の鳥を創らうと考へたにちがひない。
それが音楽であり、音楽の美は形象の死にはじまつてゐる。
希臘人は美の不死を信じた。かれらは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を信じたかどうか疑問である。
かれらは具体的な美が、肉体のやうに滅びる日を慮つて、いつも死の空寂の形象を真似たのである。石庭の
不均斉の美は、死そのものの不死を暗示してゐるやうに思はれる。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より

159:無名草子さん
11/04/26 10:49:33.19 .net
希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が「精神」を発明するまで、人間は「精神」なんぞを
必要としないで、矜らしく生きてゐたのである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より


私は器楽よりも人間の肉声に、一層深く感動させられ、抽象的な美よりも人体を象つた美に一層強く打たれるといふ、
素朴な感性に固執せざるをえない。私にとつては、それらのもう一つ奥に、自然の美しさに対する感性が根強く
そなはつてをり、彫像や美しい歌声の与へる感動は、いつもこの感性と照応を保つてゐる。私には夢みられ、
象られ、さうすることによつて正確的確に見られ、分析せられ、かくて発見されるにいたつた自然の美だけが、
感動を与へるのである。思ふに、真に人間的な作品とは「見られたる」自然である。
希臘の彫刻の佳いものに接すると、ますますこの感を深められる。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より

160:無名草子さん
11/04/29 15:05:36.68 .net
(中略)
このうら若いアビシニヤ人は、極めて短い生涯のうちに、奴隷から神にまで陞(のぼ)つたのであつたが、それは
智力のためでも才能のためでもなく、ただ儔(たぐ)ひない外面の美しさのためであり、彼はこの移ろひやすい
ものを損なふことなく、自殺とも過失ともつかぬふしぎな動機によつて、ナイルに溺れるにいたるのである。
私はこの死の理由をたづねようとするハドリアーヌス皇帝の執拗な追求に対して、死せるアンティノウスをして、
ただ「わかりません」といふ返事を繰り返させ、われわれの生に理由がないのに、死にどうして理由があらうか、
といふ単純な主題を暗示させよう。
一説には厭世自殺ともいはれてゐるその死を思ふと、私には目前の彫像の、かくも若々しく、かくも完全で、
かくも香ばしく、かくも健やかな肉体のどこかに、云ひがたい暗い思想がひそむにいたつた経路を、医師のやうな
情熱を以て想像せずにはゐられない。ともするとその少年の容貌と肉体が日光のやうに輝かしかつたので、
それだけ濃い影が踵に添うて従つただけのことかもしれない。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より

161:無名草子さん
11/04/29 15:06:00.53 .net
(中略)
アンティノウスの像には、必ず青春の憂鬱がひそんでをり、その眉のあひだには必ず不吉の翳がある。それは
あの物語によつて、われわれがわれわれ自身の感情を移入して、これらを見るためばかりではない。これらの作品が、
よしアンティノウスの生前に作られたものであつたとしても、すぐれた芸術家が、どうして対象の運命を予感し
なかつた筈があらう。
(中略)
希臘人の考へたのは、精神的救済ではなかつた。かれらの彫像が自然の諸力を模したやうに、かれらの救済も
自然の機構を模し、それを「運命」と呼びなした。しかしかうした救済と解放は、基督教がその欠陥を補ふために
のちにその地位にとつて代つたやうに、われわれを生から生へ、生の深い淵から生の明るい外面へ救ふにすぎない。
生は永遠にくりかへされ、死後もわれわれはその生を罷(や)めることができないのである。あの夥しい希臘の
彫刻群が、解放による縛しめ、自由による運命、生の果てしない絆によつて縛しめられてゐるのを、われわれは
見るのである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より

162:無名草子さん
11/04/29 15:07:06.64 .net
彫像が作られたとき、何ものかが終る。さうだ、たしかに何ものかが終るのだ。一刻一刻がわれらの人生の終末の
時刻(とき)であり、死もその単なる一点にすぎぬとすれば、われわれはいつか終るべきものを現前に終らせ、
一旦終つたものをまた別の一点からはじめることができる。希臘彫刻はそれを企てた。そしてこの永遠の「生」の
持続の模倣が、あのやうに優れた作品の数々を生み出した。
生の茫洋たるものが堰き止められるにはあまりに豊富な生に充ちてゐる若者たちが、さうした彫像の素材に
なつたのには、希臘人がモニュメンタールと考へたものの中に潜む、悲劇的理念を暗示する。アンティノウスは、
基督教の洗礼をうけなかつた希臘の最後の花であり、羅馬が頽廃期に向ふ日を予言してゐる希臘的なものの
最後の名残である。私が今日再び美しいアンティノウスを前にして、ニイチェのあの「強さの悲観主義」
「豊饒そのものによる一の苦悩」生の充溢から直ちに来るところの希臘の厭世主義を思ひうかべたとしても
不思議ではあるまい。

三島由紀夫27歳「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より

163:無名草子さん
11/05/04 11:13:13.82 .net
少年時代にほとんど性欲的な知性の目覚めといふものを持たない人は、人生の半面しか知らない人ではないかと
思はれる。


私は徐々に文学の上で知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではないといふことを考へるやうになつた。


私はやはりニイチェ的な考へでギリシャの芸術を見てゐたと思ふのであるが、どこをつついても翳のないやうな
明るさ、完全な冷静さ、ある場合には陽気さ、快活さ、若々しさ、さういふものが見かけだけのものではなくて、
一番深いフシギなものをひそめてゐることに打たれた。そして一番表面的なものが、一番深いものだとさへ
考へるやうになつた。なぜなら私は心理分析にあきてゐたし、そこから人間の問題が全部出てくるとは思へなかつた。
むしろ人間のちよつとした表面の動きとか、太陽の光にさらされた平面を描いたものの中に、人間の存在の
恐ろしさとか、暗さとかが逆に出てくるやうに感じた。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

164:無名草子さん
11/05/04 11:14:10.53 .net
私は建設的な芸術といふものをいつまでたつても信じることができないし、そして芸術の根本にあるものは、
人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、ギョッとさせるといふことにかかつてゐるといふ
考へが失せない。もし芸術家のやることが市民の考へることと全然同じになつてしまつたら、芸術が出てくる動機が
ないのである。そして現在あるところのものを一度破滅させなければよみがへつてこないやうなもの、ちやうど
ギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から生れてくるやうに、芸術といふものは
一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ
点では文学も古代の秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅も
そのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

165:無名草子さん
11/05/04 11:15:47.79 .net
大体私は死や破滅そのものだけをテーマにした芸術にはあまり興味がない。いはゆる狂気の芸術及び狂気の
天才といふものには大して興味がない。やはり私は死や破滅を通していつもよみがへりを夢見てゐるのであるが、
さういふことを夢見ることと、根本的な破滅の衝動とがうまく符節を合したときに、いい芸術ができるのでは
ないかと思ふ。


立派な芸術は積木に似た構造を持ち、積木を積みあげていくやうなバランスをもつて組立てられてゐるけれども、
それを作るときの作者の気持は、最後のひとつの木片を積み重ねるとたんにその積木細工は壊れてしまふ、
さういふところまで組立てていかなければ満足しない。積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな
作者は、私は芸術家ぢやないと思はれる。世の教訓的な作家とかいはゆる健全な作家といはれてゐる連中は積木を
壊すことがイヤなのである。最後の一片を加へることによつてみすみす積木が崩れることがわかつてゐながら、
最後の木片をつけ加へる。そして積木はガラガラと崩れてしまふのであるが、さういふふうな積木細工が芸術の
建築術だと私は思ふ。

三島由紀夫31歳「わが魅せられたるもの」より

166:無名草子さん
11/05/10 10:19:54.22 .net
この地上で自分の意欲を実現する方式に二つはないのではないか? 芸術も政治も、その方式に於ては一つなのでは
ないか? だからこそ、芸術と政治はあんなにも仲が悪いのではないか? ただ、いつも必ず失敗し、いつも
必ず怒つてゐるのは、理想主義者だけなのである。
ワグナーは、加藤道夫氏とちがつて、どうやら、理想の劇場は死んだといふことを、誰よりも鮮明に、腹の中で
知つてゐた男のやうに思はれる。だから彼の「理想の劇場」が建つてしまつたのである。しかしこの壮大な規模の
古代祭典劇の再現を自分で見ながら、やはりワグナーは、その友にして仇敵ニイチェが荘厳な面持で、
「神は死んだ」と言つたやうに、ニヤリと笑ひながら、「理想の劇場は死んだ」と呟いてゐたかもしれない。
私はワグナーといふ男のことを考へると、彼の作品のあのやうな悲愴さにもかかはらず、ワグナー自身は、毫も
悲愴さを持たぬ人間だつたやうな気がしてならない。それは多分彼が「芸術家だから理想主義者ではない」といふ
風土に、育ち且つ生きたからであらう。

三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論 理想の劇場は死んだ」より

167:無名草子さん
11/05/10 10:21:06.70 .net
ラヂウムを扱ふ学者が、多かれ少なかれ、ラヂウムに犯されるやうに、身自ら人間でありながら、人生を扱ふ
芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。
ラヂウムは本来、人間には扱ひかねるものである。その扱ひには常に危険が伴ふ。その結果、人間の肉体が犯される。
人間の心とは、本来人間自身の扱ふべからざるものである。従つてその扱ひには常に危険が伴ひ、その結果、
彼自身の心が、自分の扱ふ人間の心によつて犯される。犯された末には、生きながら亡霊になるのである。そして、
医療や有効な目的のために扱はれるラヂウムが、それを扱ふ人間には有毒に働くやうに、それ自体美しい人生や
人間の心も、それを扱ふ人間には、いつのまにか怖ろしい毒になつてゐる。多少ともかういふ毒素に犯されて
ゐない人間は、芸術家と呼ぶに値ひしない。

三島由紀夫32歳「楽屋で書かれた演劇論 俳優と生の人生」より

168:無名草子さん
11/05/13 17:38:17.23 .net
マヤの死の神はたえず飢ゑてゐて、がつがつと餌を求めてゐる。ここでは人が死ぬといふことは、自然が自然に
喰はれ、生命が生命に喰はれることであり、たとへ自然死であつても、それは何か蝶が蜘蛛に喰はれるのと似てゐる。
かうして半ば文明生活に護られてゐながら、どこかに自分を打ち倒すいやらしい生々しい生命の存在を予感して
ゐるのは、私だけだらうか。
いや、私だけではない。コミュニストたちは革命の名の下に、砂塵をあげて攻め寄せてくるより強大な生命を
描いてみせながら、思ふ存分、今なほ衰へぬかうした伝来的恐怖を利用する。メキシコの左翼画家リヴェラが
描く威嚇するやうな労働者群は、人間的規模を越えて、熱帯のあくどい圧倒的自然に近づいてゐる。
(中略)
熱帯の人々の生き方には、その外圧的なより強力な生の模倣がひそんでゐる。われわれは巨大なてらてらと
光つた植物や、鸚鵡や豹の生命を模倣しようとする。それに参画しようとする。……これが生きるといふことであり、
これが不可能になつたときそれは死であり、模倣の代りに喰べられ同化されてしまふことなのである。

三島由紀夫「旅の絵本 1 禿鷹の影」より

169:無名草子さん
11/05/13 17:41:50.45 .net
チチェン・イッツァのマヤランド・ロッヂ・ホテルの二階の柱廊から、私は鬱蒼と茂つた熱帯樹の葉むらのかげに、
うす紫の寄生蘭が花咲いてゐるのを見た。と、突然、その蘭の花弁をかすめて、数羽のたけだけしい羽音が起り、
黒い影が目の前をかきみだして翔つた。それは禿鷹だつた。
死はこんな白昼に、こんなにも人々の食卓や寝椅子に近く、力強く羽撃いてゐた。その影は午後の酒を置いた
テーブル・クロースの上をも翳らした。それは不吉な黒い姿をしてはゐるが、やはり強大な生命の一種に
他ならないのだ。
他者としての生命、自我にかかはらない生命……、かういふものの考へ方は西欧人をぞつとさせる。それは容易に
生命と死の同一視にみちびくからである。そしてかういふ考へ方は、必ずどこかで太陽崇拝に結びついてゐる。
身を突き刺す嚠喨たる喇叭の音のやうに、たえず鳴りひびいてゐる熱帯の日光。空気は幾条もの亀裂を生じて澱み、
椰子や火焔樹は目くるめく海の背景に象嵌されて身じろぎもしない。

三島由紀夫「旅の絵本 1 禿鷹の影」より

170:無名草子さん
11/05/14 11:47:33.26 .net
廃墟といふものは、ふしぎにそこに住んでゐた人々の肌色に似てゐる。ギリシアの廃墟はあれほど蒼白であつたが、
ここウシュマルでは、湧き立つてゐる密林の緑の只中から、赤銅色の肌をした El Adivino のピラミッドが
そそり立つのだ。その百十八の石階には古い鉄鎖がつたはつてをり、むかしマキシミリアン皇妃がろくろ仕掛の
この鎖のおかげで、大袈裟にひろがつたスカートのまま、ピラミッドの頂きまで登つたのであつた。
そこらの草むらには、はうばうに石に刻んだ雨神の顔が落ちてゐた。この豊饒の神の顔は怒れる眉と爛々たる目と
牙の生えた口とをもち、鼻は長く伸びてその先が巻いて象の鼻に似、しばしば双の耳の傍から男根を突き出してゐる。
(中略)
巨大な中庭をかこむ四つの尼僧院の壮麗さは私をおどろかせたが、そこを出て、(中略)ウシュマルのアポロ神殿
ともいふべき「支配者の宮殿」の前に立つたとき、いくつかのゴシック風のアーチの余白をのぞいて、残る隈なく
神秘的な浮彫に飾られた横長の壮大な建築は、私の心をいきいきとさせ、ついで感動で充たした。

三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より

171:無名草子さん
11/05/14 11:48:37.37 .net
大宮殿はおそらくその下に石階を隠してゐる平たい広大な台地の上にあつた。この正面に相対して、二頭の
ジャグワの像を据ゑた小さい台地があり、さらに宮殿の入口の前には、巨大な男根が斜めにそびえてゐた。
壮麗な建築がわれわれに与へる感動が、廃墟を見る場合に殊に純粋なのは、一つにはそれがすでに実用の目的を離れ、
われわれの美学的鑑賞に素直に委ねられてゐるためでもあるが、一つには廃墟だけが建築の真の目的、そのために
それが建てられた真の熱烈な野心と意図を、純粋に呈示するからでもある。この一見相反する二つの理由の、
どちらが感動を決定するかは一口に云へない。しかし廃墟は、建築と自然とのあひだの人間の介在をすでに
喪つてゐるだけに、それだけに純粋に、人間意志と自然との鮮明な相剋をゑがいてみせるのである。廃墟は現実の
人間の住家や巨大な商業用ビルディングよりもはるかに反自然的であり、先鋭な刃のやうに、自然に対立して
自然に接してゐる。それはつひに自然に帰属することから免れた。それは古代マヤの兵士や神官や女たちの
やうには、灰に帰することから免れた。

三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より

172:無名草子さん
11/05/14 11:49:28.75 .net
と同時に、当時の住民たちが果してゐた自然との媒介の役割も喪はれて、廃墟は素肌で自然に接してゐるのである。
殊に神殿が廃墟のなかで最も美しいのは、通例それが壮麗であるからばかりではなく、祈りや犠牲を通して神に
近づかうとしてゐた人間意志が、結局無効にをはつて挫折して、のび上つた人間意志の形態だけが、そこに
残されてゐるからであらう。かつては祈りや犠牲によつて神に近づき、天に近づいたやうに見えた大神殿は、
廃墟となつた今では、天から拒まれて、自然―ここではすさまじいジャングルの無限の緑―との間に、対等の
緊張をかもし出してゐる。神殿の廃墟にこもる「不在」の感じは、裸の建築そのものの重い石の存在感と対比されて
深まり、存在の証しである筈の大建築は、それだけますます「不在」の記念碑になつたのである。われわれが
神殿の廃墟からうける感動は、おそらくこの厖大か石に呈示された人間意志のあざやかさと、そこに漂ふ厖大な
「不在」の感じとの、云ふに云はれぬ不気味な混淆から来るらしい。

三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より

173:無名草子さん
11/05/15 20:42:09.16 .net
大体アメリカの貧乏は日本の貧乏よりすご味があります。たとへば年金制度が発達して、隠退後の老人は
働かないでいい、といへば結構なやうだが、さういふ老人はどうやつて余生を送るだらう。ある寒い午後、
友人とセントラル・パークへ散歩に行き、小高い丘の上にある六角堂みたいな建物に入つてみると、その中は
暖房がしてあつて、たゞで西洋将棋ができるやうになつてゐる。むうつとするたばこの煙のなかで、行き場のない
老人ばかりが、じつとチェスの卓を囲んでゐる。長考の顔の深い皺。……スチームのそばのベンチは、ただ
放心したやうに腰かけてゐる老人で一ぱいだ。日本の縁台将棋のやうなにぎやかさはなくて、私は一種凄愴の
気を感じて、いそいで立去りました。

三島由紀夫「旅の絵本 ニューヨークの炎」より

174:無名草子さん
11/05/15 20:43:39.73 .net
アメリカ人がハイチをよろこぶのは、ニューヨークから数時間の飛行でアフリカのにほひをかげるためだといふ。
事実ここにはアフリカ的なものが根強く残つてをり、ほんの少数の富裕なインテリの黒人は、さういふ民衆から
隔絶して、ラシイヌやモリエールを論じてゐる。
山の中腹に市がたつてゐて、そこで売つてゐるもののきたならしさにはびつくりした。牛だか、羊だかの腸を
乾燥させたものや、干魚など、それにぎつしりハヘがたかつてゐる。ハヘはまるでなくてはならない薬味のやうに、
金カンに似たカシュウ・ナットにも、小さい青いレモンにも、パンにも、砂糖菓子にもたかつてゐる。黒い豚や
山羊がつながれ、ロバに乗つてくる女もある。
市中でタクシーに乗つてゐたとき、道の途中で手をあげた男が車を止めて勝手に私のとなりへすはり込み、勝手に
行先を命じて、金も払はずに下りてゆくのに私はあきれて、おこる気もしなかつたが、運転手にいはすと、
あれは移民官だから仕方がないといふのであつた。

三島由紀夫33歳「旅の絵本 ポートオ・プランス(ハイチの首都)」より

175:無名草子さん
11/05/20 10:45:01.96 .net
(神輿の)懸声は、単純な拍子木や、原始的な金棒のひびきに導かれて、終始同じリズムでやりとりされてゐる。
もし神輿に懸声が伴はなかつたら、それは神輿の屍体にすぎぬ。なぜなら、(おそらくここに、神輿の懸声が、
他の肉体労働の懸声とちがつてゐる点があるのだが)、このリズムある懸声は、神輿の脈搏なのである。それは
理性の統制を決して意味することなく、われわれの動きを秩序づけようと作用することもない。正しい懸声の
あひだにも、肩にかかる力は目まぐるしく増減してをり、足元は人に踏まれたり踏み返されたりしながら、調子を
とらうとするそばから小刻みに乱される。われわれの気儘な動きのあひだにも、心臓が鼓動を早めながら、なほ
正確な脈搏を忘れぬやうに、そのとき懸声は担ぎ手たちの感じてゐる自由な力を保証するために挙げられてゐる。
あの力の自在な感じは、懸声がなかつたら、忽ち失はれるにちがひない。

三島由紀夫「陶酔について」より

176:無名草子さん
11/05/20 10:46:15.61 .net
そしてリズムある懸声と力の行使と、どちらが意識の近くにゐるかと云へば、ふしぎなことに、それはむしろ
後者のはうである。懸声をあげるわれわれは、力を行使してゐるわれわれより一そう無意識的であり、一そう
盲目である。神輿の逆説はそこにひそんでゐる。担ぎ手たちの声や動きやあらゆる身体的表現のうち、秩序に
近いものほど意識からは遠いのである。
神輿の担ぎ手たちの陶酔はそこにはじまる。彼らは一人一人、変幻する力の行使と懸声のリズムとの間の違和感を
感じてゐる。しかしこの違和感が克服され、結合が成就されなければ、生命は出現しないのである。そして結合は
必ず到来する。われわれは生命の中に溺れる。懸声はわれわれの力の自由を保証し、力の行使はたえずわれわれの
陶酔を保証するのだ。肩の重みこそ、われわれの今味はつてゐるものが陶酔だと、不断に教へてくれるのであるから。

三島由紀夫31歳「陶酔について」より

177:無名草子さん
11/05/21 11:31:27.07 .net
歌右衛門丈については、すでにたびたび書いた。そのたびに同じやうなことを書くことになるのは、丈に
進歩発展がないといふことを意味しない。たとへば一輪のみごとな大輪の菊や、夕闇にうかぶ夕顔の花や、
さういふものについて何度も書いて、そのたびにちがつたことが書けるわけはない。昼夜二部制興行で一日五役や
六役に変貌しても、俳優といふものは役の背後に全く隠れ切つてしまへるわけではない。あらゆる芸術家の中で、
舞台芸術家は、おのれの肉体的条件、おのれの肉体の檻の中にもつとも決定的にとぢこめられてゐる。顔や声や
体つきが個性を暗示するのにもつとも力があるとすれば、顔や声や体つきにもつとも縛られてゐる俳優なるものは、
いちばん個性的芸術家なのである。たとへば個性といふ見地からは、団十郎や菊五郎のはうが、森鴎外や夏目漱石より
個性的なのである。この私の意見はもつと詳述を要するけれど、今はこのくらゐに止めておかう。

三島由紀夫「豪奢な哀愁」より

178:無名草子さん
11/05/21 11:31:51.39 .net
舞台の芸が時間の経過と共に一瞬一瞬に観客の記憶の中へ組み入れられつつ消え失せてゆくことを思ふと、
われわれは俳優といふ存在に一そう熱狂し、それを失ひたくない思ひにかられる。舞台の上に今歌右衛門丈が
踊つてをり、袖がひらめき、美しい流し目が見え裾の金糸がかがよひ、黒い髪が乱れ……さういふとき、われわれ
観客は自分の全存在を歌右衛門に賭けてしまつてゐるのだが、それといふのも丈が世界中にかけがへのない花だと
いふ意識がわれわれにあるからである。
それは一種の幻覚にすぎないかもしれない。丈がかけがへのない存在なら、お客の一人一人だつてかけがへの
ない存在なのであり、地位やお金や才能の高下があつたところで、だれだつて人間は一人一人かけがへのない存在で、
誰しもそれを知つてゐるから、自分の命が何よりも惜しい。それにもかかはらず、舞台の上の俳優の芸の美しい
一瞬一瞬のためにこちらの存在が空つぽになつてしまつたやうに思へること、これはいかなる魔術であらうか。

三島由紀夫「豪奢な哀愁」より

179:無名草子さん
11/05/21 11:32:47.13 .net
丈の舞台はとにかくそれだけのものをもつて来たのである。芸の些末なふしぶしがどうあらうと、とにかく見て
ゐるわれわれには、今舞台の上に、途方もない贅沢千万な生命の浪費が行はれてゐるといふ感じが来る。生命の
大盤振舞、金に糸目をつけぬ豪奢な饗宴がくりひろげられてゐるといふ感じがまづ先に来る。そしてこの途方も
ない浪費は、まさにわれわれのために行はれてゐることに気づくと、たぐひない満足と喜びが感じられるのである。
咲き誇つた花や、庭に突然舞ひ込んでくる大きなきらびやかな蝶を見るとき「今見ておかねばならぬ。そして今
見てゐるものこそ、幻ではなくて、本当の美の瞬間の姿だ」と思ふやうに、丈の舞台を見てゐるとき、私は
ときどき、自分が一生に何度とない善尽し美尽しの饗宴の只中にあるやうな気がし、又、あの歓楽尽きて哀傷生ずと
歌つた詩そのままの、いふにいはれない哀愁を感じることがある。宴のさかりにほのかに吹いてくる冷たい
夕風のやうなものを感じることがある。さういふ感じを与へるところが、丈の身上なのかもしれない。

三島由紀夫33歳「豪奢な哀愁」より

180:無名草子さん
11/06/04 20:29:41.84 .net
ここには、湧き立つやうなリオ・デ・ジャネイロの狂熱のカーニバがある。オルフェのギリシア神話の現代版がある。
そしてヴードゥーに似たブラジル特有の神がかりがある。
第一に、この単純な物語の舞台の背景がすばらしい。リオ市の奇妙な特徴は、ふつうなら上流人士の住処に
なるべき筈の市中の山の頂きが悉く貧民窟になつてゐることで、モーロの聚落は、その不潔さと極度の貧しさで
有名である。市中の一等景色のよい、海の眺めのひろい場所を臭気ふんぷんたる連中が占領してゐるのである。
しかも貧しい黒人たちは、一年中働らいて得たわづかな金を、カーニバルの四日四晩で完全に費消してしまふ。
ブラジルは人種的偏見の少ない国だが、それでも黒人の悲願は白人に生れ変ることであり、かういふ宿命を
抱いた人たちは、当然仮装に熱中する。仮装こそ、「何かになりたい」といふ念願の仮の実現だからである。
だから貧しい黒人たちの仮装は豪華であつて、なけなしの金をはたいて、カーニバルの数日のためだけに、
最上の装ひを凝らすのである。

三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より

181:無名草子さん
11/06/04 20:30:04.87 .net
第二に、ギリシア神話の現代化のために、リオのカーニバルと黒人の生活が選ばれたことが、すばらしい着眼点だと思ふ。
私も一九五二年にこのカーニバルに踊り狂つた一人だが、現代の世界で、これほどディオニュソス的感動に
近いものはないと思つた。(中略)
この映画のラストで、黒いオルフェは、嫉妬に狂つた許嫁ミラに投石されて、崖から落ちて死ぬが、ミラと
その一党は、いふまでもなくオルフェを八つ裂きにしたバッカスの巫女たちの翻案である。しかし、「カーニバルで
狂騒と嫉妬にかられた黒人女」といふ設定は、そのまま「現代のバッカスの巫女」として、何ら無理なく通用する、
「現代のバッカスの巫女」を世界中に求めたら、おそらくここに帰着するだらうと思ふ。
こんなわけで、ギリシア神話が、ここでは、全く自然に、いきいきと蘇つてゐるのである。オルフェの地獄めぐりも、
神がかりのシーンで代置されるが、この神がかりはおそらく、芝居でなくて実写だらうと思ふ。あんまり迫真的
だからである。

三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より

182:無名草子さん
11/06/04 20:31:21.87 .net
(中略)
閑話休題。これらの点で、ギリシア神話の単純素朴と原始的狂熱を現代に移すのに、リオのカーニバルと黒人以上の
ものはないことは自明である。大体白人はすでに、素朴な恋物語や、純真な情熱や、身を滅ぼす狂躁を、演じにくく
なつてゐるのではなからうか。その衰弱を救ふのが黒人であつて、先頃の「カルメン」Carmen Jonesも、ビゼエの
古い歌劇が、黒人のおかげで、完全に現代に蘇つたのである。
(中略)
私は、オルフェとユリディスが、薄暮の裏庭で語らつてから、一夜を共にし、オルフェの絃歌で、カーニバルの
日の出を迎へるまでの、繊細微妙な演出と、黒人俳優たちの悲しみをたたへた表情の美しさに感動した。
オルフェの神話の翻案としては、警察の書類だらけのガランとした事務室から、オルフェの地獄落ちを暗示する
螺旋階段の長いシーンなどに、面白い趣向を感じた。とにかく趣向の面白さを味はつて見るべき映画である。

三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より

183:無名草子さん
11/06/09 12:26:00.21 .net
いま瞼の裏にありありと残つてゐるのは、ポルトガルの首都リスボンの絶妙の美しさだの、カイロのピラミッドの
ふしぎな生々しい存在感だの、香港の阿片窟の暗い夢魔的な雰囲気だの、……さういふ断片的な印象の光彩である。
私はこんどの旅行では、ことさら自分を、一瞬にしてすぎる感覚的享楽だけの受動的な存在に仕立てて歩いた。
たとへばピラミッドの存在感といふものは独特で、実に気味がわるい。私はもとメキシコで、階段式ピラミッドの
無気味な姿を見たが、あれはまだ密林に包まれてゐるから始末がいいので、サバクの中からぬつと突き出し、
近代都市のすぐ近くに接近してゐるギザのピラミッドなどの無気味さとは比較にならない。ゴルフ・クラブの
バルコニーに招かれて、何の気なしにふりむいたところに、ユーカリのこずゑ高く、ピラミッドがのしかかつて
ゐる姿を見たときは、まさにそこにあれが「ゐた」といふ感じだつた。夜中に厠の戸をあけたら、そこにお化けが
「ゐた」といふときの「ゐた」といふ感じはまさにこれだらう。

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より

184:無名草子さん
11/06/09 12:26:48.66 .net
お化けはまだしも人間に似てゐるからいい。しかしピラミッドはいかにも無機的で、しかもギリシャの廃墟のやうな
建築的形態をとどめたすがすがしい石だけの存在ではなくて、何かいやらしい中間的存在である。それは人間と
精神との間に永遠に横たはり、人間と精神との親密な結合を、いつも悪意を以つて妨害してゐる。ヨーロッパの
すべての遺物には、この種の親密な結合があり、それは高い趣味のものから最低の悪趣味のものまで共通してゐる。
しかしエジプトはいやらしい記念碑を建てたものだ。ピラミッドはたしかにある目的のために建てられたのだが、
いま見ると、それはただ「ゐる」ために、存在するために、存在しはじめたやうにしか見えないのである。
死と永遠の時間に対抗するには、エジプト人は、どうやら人間の力だけでは足りないことを自覚して、精神なんかは
押しのけておいて、ひたすら大きな存在の力を借りたやうに思はれる。かくて人間が存在の中へ埋没し、
ピラミッドだけが「ゐる」ことになつたのだ。

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より

185:無名草子さん
11/06/09 12:27:16.74 .net
これも一つの文明の方法にはちがひなく、また一つの宗教の帰結にはちがひないが、それは本当に目くるめくやうな
暗い黒い文明で、ヨーロッパをまはつてここへ来ると、はじめてヨーロッパは小さな一大陸の特殊な文明形態に
すぎぬことがはつきりする。
(中略)そこからアジアにかけて、何か途方も知れない暗い文明、ヨーロッパ的人間がかつて一度もその力を
借りなかつた存在学的文明がはじまるのを見るやうな気がする。
さて、人間を手取り早くただの「存在」に還元する方法、それが麻薬といふものだらう。中国人が建てた万里の
長城などの無気味な姿は、同じ中国人の発明にかかる阿片、すなはち、死と永遠の時間に対抗するために、人間の
生身を存在それ自体に変へてしまふ秘法と、どこかでこつそりつながつてゐるにちがひない。
現にエジプトでも、カイロ南郊の訪れる人の少ない半ばくづれたダシュールのピラミッドの片ほとりに、私は
砂に埋もれかけてゐるハシシュのくさむらを見た。この麻薬の草は、サバクを吹いてくる微風に、とげとげしく
身をゆすつてゐた。

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より

186:無名草子さん
11/06/09 12:27:45.73 .net
香港。私がはじめて見る中国の街。ここへはおびただしい難民と一緒に、中国大陸ですでに禁じられた古い悪徳も
逃げこんできて、わづかに余喘を保つてゐる。
手入れのために十人の警官が踏み込むと、せまい迷路をたどつてその街を出たときには、いつのまにか八人に
なつてゐるといふ九竜城の暗黒街を、私は老練な案内書の懐中電灯のあかりをたよりに歩いた。
深夜の家々は雨戸をとざし、夜業の織物工場の機械音が単調にひびいてゐるあひだを、石段の曲がりくねつた小径が、
臭い溝に沿うて上つたり下つたりする。高い石室のやうな家の二階の小窓が暗い穴を闇の中にうがつてゐる。
ときどき灯明りの洩れるところには、茶店の店先で麻雀をやつてゐる人たちが、我々のはうを鋭い目で見返る。
道ばたで煎つてゐるにくにくの実の嘔吐を催すやうなにほひ。それが通のくと、こんどは人気のない闇の小路に、
血のにほひが漂つてくる。ここらでは豚の密殺も行はれてゐるらしい。

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より

187:無名草子さん
11/06/09 12:28:22.89 .net
とある家の軒下に、闇に半ば身を浸して、黒い中国服の初老の男が、じつと身をもたせかけて立つてゐる。
あらぬ方を見てゐる目は黄いろく澱み、顔の皮膚は弾力のない馬糞紙のやうな色をしてゐる。明らかな阿片患者である。
彼はまさしくそこに「ゐた」。ピラミッドのやうに「ゐた」のである。存在の奥底に落ち込んでゐるその顔は、
我々の社会的な証票ともいふべき顔の機能をすつかり失つて、一つの小さな穴のやうに見える。それは小さいが
実に危険な穴で、ひとたびその中をのぞき込んだら、世界はその中へ身ぐるみ落ち込んでしまふにちがひない。
しかしそれは存在してゐた。人間と精神を連結しようとするあらゆるヨーロッパ的な努力を嘲笑して存在してゐた。
私はかういふ顔がまだ世界のそこかしこにいつぱい存在してゐることを知つてゐる。そしてかういふ顔を忘れて
暮らしてゐるあひだ、同時に我々は、楽天的にも、死や永遠の時間といふものも忘れて暮らしてゐるのである。
何しろ付き合が忙しいから!

三島由紀夫36歳「ピラミッドと麻薬」より

188:無名草子さん
11/06/16 10:52:05.42 .net
この世界には美しくないものは一つもないのである。何らかの見地が、偏見ですら、美を作り、その美が多くの
眷族(けんぞく)を生み、類縁関係を形づくる。しかも、どうやつたら美の陥穽に落ちないですむか、といふ課題は、
多くの芸術家にとつては、かなり平明な課題であつたと思はれる。彼らはただ前へ前へ進めばよいと思つたのだ。
そして一人のこらず、つひにはその陥穽に落ちたのだ。美は鰐のやうに大きな口をあけて、次なる餌物の落ちて
来るのを待つてゐた。そしてその食べ粕を、人々は教養体験といふ名でゆつくりと咀嚼するのである。
どこかの国、どこかの土地で、歴史の深淵から暗い醜い顔が浮び上り、その顔があらゆる美を嘲笑し、どこまでも
精妙に美のメカニズムに逆らつてゐるといふやうな事態はないものだらうか。ひそかにこれを期待しながら、
この前の旅行で、メキシコのマヤのピラミッドを見たときも、ハイチのヴードゥーを見たときも、私の見たものは
美だけであつた。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より

189:無名草子さん
11/06/16 10:52:43.03 .net
(中略)
もはや美の領域で、「ブゥルジョアをおどろかす」やうなものは存在しない。超現実主義は古い神話になり、
抽象主義は自明な様式になつてしまつた。抽象主義はやがて、ゴシックが中世に於て意味したやうなものに
なつてしまふであらうし、それだけのことだ。モデルの体に絵具を塗つて画布の上にころげまはらせても、
悲しいかな、結果は自明であり、美は画布の上に予定されてゐる。われわれはもはや、ウヰリアム・ブレークが
描いた物質主義の代表者「ピラミッドを建てた人」の肖像ほど醜くあることはできず、骨の髄まで美に犯されてゐる。
われわれの住んでゐるのは、拒否も憎悪も闘ひもない美の「民主主義的時代」なのだ。しかも近代の教養主義の
おかげで、歴史上のどんな珍奇な美の様式にも、われわれは寛容な態度で接してしまふ。
香港。―この実に異様な、戦慄的な町の只中で、私はしかし、永らく探しあぐねてゐたものに、やうやく
めぐり会つたやうな感じがする。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より

190:無名草子さん
11/06/16 10:53:22.92 .net
私は今までにこんなものを見たことがない。強ひて記憶を辿れば、幼時に見た招魂社の見世物の絵看板が、
辛うじてこれに匹敵するであらう。その色彩ゆたかな醜さは、おそらく言語に絶するもので、その名を
Tiger Balm Garden といふのである。
(中略)
地獄極楽図はまことにグロテスクの極致であつて、神桃を捧げられた神々や、竜馬にまたがつた神将、天女などの
足下には、雲を隔てて地獄の光景がひろがり、(中略)いまはしい囚人の姿が、新鮮なペンキの血をふんだんに
使つて、陰惨なリアリズムで描かれてゐる一方、この庭の童話的な趣向も忘れられずにをり、陰府刑車と大書した
近代的な自動車が、囚人を満載して近づいてくるのである。
ガーデンの特色の一つは、どんな遊園地にも似ず、一切の動きがないことだ。胡文虎氏は電気仕掛を好まなかつた
らしい。氏の庭はすべて永遠不朽のコンクリートで固化してをり、あらゆる激動の瞬間は、死のやうな不動の裡に
埃を浴び、虎は永遠に吼えつづけ、囚人は永遠に呻きつづけてゐる。このふしぎなモニュメンタルな死の気配に、
胡文虎氏の美学と経済学の結合があるらしい。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より

191:無名草子さん
11/06/16 10:53:58.66 .net
(中略)
この庭には実に嘔吐を催させるやうなものがあるが、それが奇妙に子供らしいファンタジイと残酷なリアリズムの
結合に依ることは、訪れる客が誰しも気がつくことであらう。中国伝来の色彩感覚は実になまぐさく健康で、
一かけらの衰弱もうかがはれず、見るかぎり原色がせみぎ合つてゐる。こんなにあからさまに誇示された色彩と
形態の卑俗さは、実務家の生活のよろこびの極致にあらはれたものだつた。胡氏は不羈奔放を装ひながらも、
この国伝来の悪趣味の集大成を成就したのである。
中国人の永い土俗的な空想と、世にもプラクティカルな精神との結合が、これほど大胆に、美といふ美に泥を
引つかけるやうな庭を実現したのは、想像も及ばない出来事である。いたるところで、コンクリートの造り物は、
細部にいたるまで精妙に美に逆らつてゐる。幻想が素朴なリアリズムの足枷をはめられたままで思ふままに
のさばると、かくも美に背馳したものが生れるといふ好例である。
なぜ踊つてゐる裸婦の首が蜥蜴でなければならないのか。この因果物師的なアイディアは、空想の戯れといふ
やうなものではない。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より

192:無名草子さん
11/06/16 10:54:26.65 .net
いたるところに美に対する精妙な悪意が働いてゐて、この庭のもつとも童話的な部分も、その悪意によつて
どす黒く汚れてゐる。そしてそれはグロテスクが決して抽象へ昇華されることのない世界であり、不合理な
人間存在が決して理性の澄明へ到達することのない世界である。現実は決して超えられることがなく、野獣の咆吼や、
人間の呻きや、猥褻な裸体は、コンクリートの形のなりに固化したまま、現実のなかにぬくぬくと身をひそめてゐる。
しかもここには怖ろしい混沌の勝利はないので、混沌の美は意識的に避けられてゐると云つていい。一つの断片から
一つの断片へ、一つの卑俗さから一つの卑俗さへと、人々は経めぐつて、つひに何らの統一にも、何らの混沌にも
出会はない。おのおののイメージは歴史や伝説からとられたものであるのに、ここにはみぢんも歴史は感じられず、
新鮮なペンキだけがてらてらと光つてゐる。そして人々はこの夢魔的な現実のうちで、只一人の人間らしい顔にも
出会はないのである。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より

193:無名草子さん
11/06/19 10:08:20.95 .net
昭和三十三年二月十七日(月)
さて今日は格別のたのしみがある。ニューヨークのタイムス・スクウェアの土産物屋で、ゴムで出来てゐる
人狼(ウェアウルフ)のお面を買つて来たのだが、それが実によく出来てゐて怖ろしい。(中略)
かへりのタクシーで、福田氏を文学座の前で下ろし、それからじつと黙つてゐて、タクシーが外苑の暗がりへ
入つたところを見計らひ、やをらお面をかぶつて、うしろから運転手の肩をグイと手をかけたら、ふりむいて
アッと叫んだ。
かういふ風に人を脅かして、人のおどろく顔を見るといふたのしみは、たのしみの極致を行くものである。
おどしやタカリの味を覚えた愚連隊のたのしみが想像される。彼らはそのために一生を棒に振り、私は一日を
棒に振つただけであるが、それも自分に裨益するところは少しもなく、ただ他人の反応だけを目的にした行為であつて、
悪といふものは多かれ少なかれ、これほどに献身的なものである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

194:無名草子さん
11/06/19 10:08:59.70 .net
二月二十七日(木)
石橋広次選手はリング上で決して興奮しない人である。ボクシングにおけるほど、観衆の熱狂と選手の冷静が
見事な対照をなすものはない。闘争を見ることの熱狂は人間の本性に根ざしてゐるが、ボクシングはもつとも
よく出来た闘争のフィクションである。スポーツの中でもつとも現実の闘争と似た外観を呈してゐながら、
そのスポーツとしての技術性科学性(私のいふフィクション性)は高度である。私にそれがジャンルとしての
小説を想起させる。映画をのぞいては芸術中もつとも現実と似たジャンルである小説は、それだけに一層高度な
技術を要求されるが、ボクシングの試合を見て現実の喧嘩と混同する観衆の無邪気な熱狂と同じものが、今日
素人小説家の無数の輩出を惹き起してゐる。ボクシングなら叩かれれば痛いから自分の非にすぐ気がつくが、
かういふ連中は痛さを知らないから始末がわるい。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

195:無名草子さん
11/06/19 10:09:37.94 .net
三月十八日(火)
今まで見たところ大江健三郎の小説には、最近作「鳩」にいたるまで、ひんぱんに動物があらはれる。いはゆる
動物文学とは、多かれ少なかれ、動物の擬人化にもとづいたものであるが、大江氏のはそれと反対で、人間の
擬動物化ともいふべきものであり、われわれのうちにひそんでゐる人間の奴隷化や殺戮の欲望が、動物を相手に
充たされてゐる。状況がゆるせばもちろん人間そのものの動物的奴隷化が可能になるので、「飼育」や
「人間の羊」はその好例である。これを私は新しい動物文学と名附けよう。
(中略)
大江氏の小説の特色は、いろんな点で小説の近代的特色を根本的に欠いてゐるところにある。氏は登場人物の
近代的個性といふものを重視しない。氏の作品に登場する人間は、たかだか一般概念以上のものを要求されないのだ。
そしてそこに登場する動物群にも、個性的な擬人化された動物は出て来ないので、一般概念としてとどまつてゐる。
だから大江氏の小説は、比喩でもなく寓喩でもない。アレゴリーの根本条件が欠けてゐるのである。まして
いはんや風刺ではない。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

196:無名草子さん
11/06/19 10:10:23.25 .net
強ひて言へば、メタモルフォーシスの小説といふことができよう。「人間の羊」は羊のやうな人間を描いた
小説ではなく、人間が羊に変貌する物語であり、「飼育」は動物のやうに飼はれる黒人兵を描いたものではなく、
飼はれる動物、強い耐へがたい体臭を放つ家畜に変貌した黒人兵の物語である。
氏の小説のサディスティックな嗜欲は、かくて一般概念としての動物を、一般概念としての人間と対置し、人間が
動物を飼育したり殺したりするのを、汎性的な対等の関係でながめてゐる。鼠のやうな、また羊のやうな人間の
悲惨さと弱さは、比喩としてではなく、容易に、人間そのものの常態として語られる。日本人のお尻をバスの中で
まくつて叩く米兵と、叩かれる日本人とは、かかる関係において対等であり、死体とこれを見る青年(死者の奢り)
との関係も、鳩とこれを殺す少年との関係も、黒人兵とこれを飼育する少年との関係も、同様に対等であつて、
あらゆる政治的寓喩や人間的風刺を峻拒してゐる。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

197:無名草子さん
11/06/19 10:10:50.48 .net
そこには縛られた強者と残酷な弱者、あるひは残酷な強者と殺される弱者があるだけであり、最後に死体と、
殺された鳩の屍とが残される。なぜなら死とエロティックにおいてだけ、人間と動物とは一般概念によつて
同一化されるのであり、個性を持つてゐた筈の人間が一般概念に変貌する際の色情的かつ獣的な美しさを存分に
ゑがいた「飼育」は、殺された小動物の美を暗い背景の前に鏤(ちりば)める「鳩」に達する。(中略)
「鳩」の小動物たちは、それぞれ鼠やモルモットや鳩を呈示するにすぎないが、その宝石のやうに凝つた血によつて、
鼠一般、モルモット一般、鳩一般の荘厳な象徴と化し、色欲的観念の具現となるのである。そこにはサディストの
究極の夢があり、われとわが手で殺した小動物は、動物であるがゆゑに、永遠に一般概念の彼方にとどまり、
精神や個性の片鱗をひらめかすことはない。そこでこの殺戮行為は、黒人を飼育するよりももつと純粋な
エロティックな行為として終るのである。それはアニミズムからもつとも遠い文学である。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

198:無名草子さん
11/06/19 10:18:06.84 .net
四月十八日(金)
どの小説家も抱いてゐる或る感じ、自分の書いた小説のなかで、あるひはその小説を通じて、はじめて自分の
人生に本当に対面したやうな気のするといふ或る感じ、これは彼の実際に日々生きてゐる人生の像を、幾分か
ぼやけた不確かなものにすることは争へない。認識の手間をはぶいて表現することによつて、作家は生の人生を
幾分かのこしておかなければならないが、今日の河野先生の話ではないが、小説家は厳密に言ふと、認識者ではなく
表現者であり、表現を以て認識を代行する者である。作家が小説を書くことにより、表現してゆくことにより、
はじめて認識に達するといふ言ひ方は正確ではない。作家の狡猾な本能は、自分に現前するものに対して、つねに
微妙に認識を避けようとするからである。殺して解剖しようとする代りに、生け擒(ど)りにしようと思つて
ゐるからである。
もちろん生かしておいて認識するといふ手もある。卓抜なエッセイストはさういふ人種であつて、猛獣使ひの
やうなものであらうか。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

199:無名草子さん
11/06/19 10:18:31.54 .net
さて、作家が自分の生に対していつもあいまいな放任の態度を持してゐるとき、彼はいはば、それが認識の素材に
なることを免れさせてゐるのである。トオマス・マンの云ふやうに、「作家の幸福は、感情になり切り得る思想であり、
思想になり切り得る感情」(ヴェニスに死す)だとすると、彼の生は、まだ思想にもなりきらぬのみか、感情にも
なりきらない部分であり、さうなることを無意識に抑制されてゐる。感情の中にも思想の中にも安住できない人間が、
幸福になる方法は、おそらく表現することだけで、このやみくもな行為に耐へるには、明敏なだけでは足りない。
もちろんバカなだけでも足りないが……。そして表現したあげくの、創造の喜びといふやつは、又しても彼を
認識者たることから遠ざける。なぜなら認識にとつて歓喜ほど始末に負へぬ敵はないからである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

200:無名草子さん
11/06/21 12:32:50.07 .net
五月九日(金)
キェルケゴールの有名な「あれかこれか」の一節は永いこと私を魅してゐた。
「結婚したまへ、君はそれを悔いるだらう。結婚しないでゐたまへ、やつぱり君は悔いるだらう」
(中略)
私は又、晩年のフロオベエルが公園を散策しながら、乳母車を押してゆく家族づれを見て、「私もああいふ生涯を
送ることもできたのだ」と述懐したといふ挿話をもよくおぼえてゐた。
人生が一人宛たつた一つしかないといふことは、全く不合理な、意味のない事実である。殊に小説家にとつては、
自分の創造の条件に対する侮辱とさへ思はれる我慢ならない事実である。これに対する解決は何も見当たらないが、
これをなだめすかす慰藉の方法がないわけではない。ディオゲネースのあの定言的な言ひ方を崩すには、たつた
一つの方法しかない。事実が決定的であり、人生が一個であるならば、これをうけとめる人間一般の感情の法則を、
せめて自分だけでも免れようとすればよからう。「結婚したまへ、君はそれを悔いるだらう。結婚しないでゐたまへ、
やつぱり君は悔いるだらう」……それなら、ままよ、後悔しなければいいのである。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

201:無名草子さん
11/06/21 12:33:15.51 .net
(中略)
このやうな悔いは自由意志の幽霊のやうなもので、或る作為あるひは不作為が一個の人生を決定してしまふのを
見た自由意志自身の不安なのである。自由意志は無限の選択をするのではない。選択は百のうちから十、十の
うちから三つ、三つのうちから二つ、二つのうちから一つといふ具合に、徐々に限られて来て、最後に自由意志は、
それをするかしないかといふことだけを選ぶために現れる。しかしここまで追ひつめられた選択と、自由意志の
本質とは必ず矛盾する。自由意志は、選択の機能を本来帯びてゐなかつた自分に気がつくのである。自由意志は
決断のために使はれるべきではなく、作為と不作為との間に常に追ひつめられてゐる人間の、可能性の問題なのだ
といふことに。……自由意志にとつては、本来、人生は一人一個宛ではなかつた筈なのだ。
私がもし悔いないでゐられるなら、それは宿命を是認することになるだらうか。さうではない。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

202:無名草子さん
11/06/21 12:33:47.06 .net
私が悔いないといふことは、自由意志に対する嘲笑ではない。どんな選択も、どんな決断も、どんな行為も
自殺でさへも、最終的に人間の状況を決定することはできない、と私は考へるから、決断に従つたことを悔いも
しないし、おそらく決断に従はなかつたときも悔いはしまい。人間は選ぶことができないのではないが、最終的に
選択の不可能なことを知つてゐるのは自由意志であつて、さればこそ、人生がたつた一つであることをどうしても
肯はない自由意志は、宿命に対抗することができるのである。だから「悔い」といふ形であらはれる不安は、
自由意志にとつて本質的なものではない。宿命はすでに選択してゐるし、自由意志は永遠に選択しない。そして
行為とは、宿命と自由意志との間に生れる鬼子であつて、人は本当のところ、自分の行為が、宿命のそそのかしに
よるものか、自由意志のあやまちによるものか、知ることなど決してできない。結局、海水の上に浮身をするやうな
身の処し方が、自分の生に対する最大の敬意のしるしのやうに思はれる。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より

203:無名草子さん
11/06/23 10:36:36.85 .net
八月八日(金) 悪と政治と
いろんな意味で対蹠的なサルトルの「殉教と反抗」(ジャン・ジュネ論)と界外五郎氏の銀座の一級ヤクザとしての
告白「恐喝」の二冊を、それぞれおもしろく読んでゐるうちに、日本よりさらに暑熱のきびしいイラクでは、
大がかりな「切つた張つた」がはじまつた。(中略)
その上私はナセル大統領の「敵に対しては、われわれは原爆さへもおそれてゐないことを警告する」といふ演説に
接して、「矢でも鉄砲でも持つてこい」といふ超現代的表現はかうもあらうかと思つて感心した。こんなバカげた
啖呵を切れる日本の政治家は一人もあるまいが、政治外交上の嚇し文句はそこまで行かなければ本当ではあるまい。
中近東や東南アジアの民族主義に対するわれわれの同意は、伝来の「弱きを助け強きを挫く」助六精神であるけれど、
弱い筈の民族主義者が、モスクワから帰つてくると、「原爆さへもおそれてゐない」と啖呵を切り出し、一方、
「強きを挫く」だけの助六の腕力がわれわれに欠けてゐる以上、民族主義に対するわれわれの立場は、不透明に
ならざるをえない。

三島由紀夫「裸体と衣裳」より


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