三島由紀夫のおすすめエンタメ&戯曲at BOOKS
三島由紀夫のおすすめエンタメ&戯曲 - 暇つぶし2ch50:無名草子さん
11/02/13 16:01:13 .net
トリックはなるたけ大胆で子供らしくて莫迦げてゐたはうがいいんだわ。大人の小股を
すくふには子供の知恵が必要なんだ。犯罪の天才は、子供の天真爛漫なところをわがものに
してゐなくちやいけない。さうぢやなくて?


私は子供の知恵と子供の残酷さで、どんな大人の裏をかくこともできるのよ。犯罪といふのは
すてきな玩具箱だわ。その中では自動車が逆様になり、人形たちが屍体のやうに目を閉じ、
積木の家はばらばらになり、獣物たちはひつそりと折を窺つてゐる。世間の秩序で
考へようとする人は、決して私の心に立入ることはできないの。……でも、……でも、
あの明智小五郎だけは……

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

51:無名草子さん
11/02/13 16:02:09 .net
黒蜥蜴:あのときのお前は美しかつたよ。おそらくお前の人生のあとにもさきにも、お前が
あんなに美しく見える瞬間はないだらう。真白なスウェータアを着て、あふむき加減の
顔が街灯の光りを受けて、あたりには青葉の香りがむせるやう、お前は絵に描いたやうな
「悩める若者」だつた。つややかな髪も、澄んだまなざしも、内側からの死の影のおかげで、
水彩画みたいなはかなさを持つてゐた。その瞬間、私はこの青年を自分の人形にしようと
思つたんだわ。


黒蜥蜴:…その夜のうちに、お前は私の人形になる筈だつた。……でも、どうでせう。
気がついてからのお前の暴れやう、哀訴懇願、あの涙……
雨宮:それを言はないで……。
黒蜥蜴:お前の美しさは粉みぢんに崩れてしまつた。死ぬつもりでゐたお前は美しかつたのに、
生きたい一心のお前は醜くかつた。……お前の命を助けたのは情に負けたんぢやないわ。
命を助けてくれれば一生奴隷になると言つたお前の誓ひに呆れたからだわ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

52:無名草子さん
11/02/13 23:04:58 .net
今日も何事もなく日が沈む。この大都会、白蟻に蝕まれたやうに数しれない犯罪に
蝕まれたこの大都会に日が沈むんだ。殺人、強盗、誘拐、強姦……、言葉にしてみれば
他愛もないんだが、みんなその一つ一つに人間の知恵と精力と、怒りと嫉妬と、欲望と
情熱がせめぎ合つてゐる。その一つ一つが狂ほしい道に外れた人間の、それでも全身的な
表現なのだ。こいつのどこから手をつけたらいい? 依頼主か。こりやあ自分のことしか
考へない。犯罪の本質にいつも向き合つて、その焔の中の一等純粋なものを身に浴びなければ
ならないのは僕なのだ。僕には犯罪の全体が見える。それはたえず営々孜々とはげんでゐる
世界一の大工場みたいなものだ。ほとんど無数の工員。昼夜兼帯の作業。あの夕映えを
見てゐると、その工場のものすごく巨大な熔鉱炉のあかりみたいな気がする。……今ごろ
黒蜥蜴はどうしてゐるだらうか?

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

53:無名草子さん
11/02/13 23:06:19 .net
今の時代はどんな大事件でも、われわれの隣りの部屋で起るやうな具合に起る。どんな
惨鼻な事件にしろ、一般に犯罪の背丈が低くなつたことはたしかだからね。犯罪の着てゐる
着物がわれわれの着物の寸法と同じになつた。黒蜥蜴にはこれが我慢ならないんだ。
女でさへブルー・ジーンズを穿く世の中に、彼女は犯罪だけはきらびやかな裳裾を
五米(メートル)も引きずつてゐるべきだと信じてゐる。……さういふ考へは、僕にも
分らんことはないよ。


僕の惚れ方は相手の手も握らずに、相手をぎりぎりの破局まで追ひつめることしかない。
これほど清潔でこれほど残酷な恋人はないだらう。僕のやさしさは、相手を破滅させる
やさしさで、……これがつまり、あらゆる恋愛の鑑なのさ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

54:無名草子さん
11/02/14 13:28:14 .net
明智:この部屋にひろがる黒い闇のやうに
黒蜥蜴:あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば、
明智:あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾灯のやうに
黒蜥蜴:あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか
明智:追つてゐるつもりで追はれてゐるのか
黒蜥蜴:そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣たちは、人間の匂ひをよく
知つてゐる。
明智:人間たちも獣の匂ひを知つてゐる。
黒蜥蜴:人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火のあと、あの靴の足跡が私の中に
明智:いつまでも残るのはふしぎなことだ。
黒蜥蜴:法律が私の恋文になり
明智:牢屋が私の贈物になる。
黒蜥蜴&明智:そして最後に勝つのはこつちさ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

55:無名草子さん
11/02/14 13:30:11 .net
この「エヂプトの星」はかうして私の手に渡つて、私の胸にかがやいてゐるのに、
露ほども私に媚を売らうとしない。女王さまの胸につけられてもきつとさうだらう。
宝石は自分の輝きだけで充ち足りてゐる透きとほつた完全な小さな世界。その中へは誰も
入れやしない。……持主の私だつて入れやしない。……人間も同じこと。私がすらすらと
中へ入つてゆけるやうな人間は大きらひ。ダイヤのやうに決して私がその中へ入つて
ゆけない人間。……そんな人間がゐるかしら? もしゐたら私は恋して、その中へ入つて
行かうとする。それを防ぐには殺してしまふほかはないの。……でも、もしむかうが
私の中へ入つて来ようとしたら? ああ、そんなわけはないわ。私の心はダイヤだもの。
……でももしそれでも入つて来ようとしたら? そのときは私自身を殺すほかはないんだわ。
私の体までもダイヤのやうに、決して誰も入つて来られない冷たい小さな世界に変へて
しまふほかは……

三島由紀夫「黒蜥蜴」より

56:無名草子さん
11/02/14 13:31:13 .net
明智:君は……
黒蜥蜴:捕まつたから死ぬのではないわ。
明智:わかつてゐる。
黒蜥蜴:あなたに何もかもきかれたから……
明智:真実を聴くのは一等辛かつた。僕はさういふことに馴れてゐない。
黒蜥蜴:男の中で一等卑劣なあなた、これ以上みごとに女の心を踏みにじることはできないわ。
明智:すまなかつた。……しかし仕方ない。あんたは女賊で、僕は探偵だ。
黒蜥蜴:でも心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だつたわ。あなたはとつくに
盗んでゐた。私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やつと
つかまえてみれば、冷たい石ころのやうなものだとわかつたの。
明智:僕にはわかつたよ。君の心は本物の宝石、本物のダイヤだ、と。
黒蜥蜴:あなたのずるい盗み聴きで、それがわかつたのね。でもそれを知られたら、
私はおしまひだわ。
明智:しかし僕も……
黒蜥蜴:言はないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。……でもうれしいわ。
明智:何が……
黒蜥蜴:うれしいわ。あなたが生きてゐて。

三島由紀夫36歳「黒蜥蜴」より

57:無名草子さん
11/02/17 19:31:48 .net
森:…やつぱりこんなに月の明るい静かな秋の夜だつた。兵隊たちは忍び足で、まつ白な
月かげに剣附鉄砲を光らせて、浜づたひにやつて来たのだ。クウ・デタ。失敗したにしろ、
栄光にみちた言葉だ。とにかく十・一三事件はすばらしい事件だつた。わしはその二年前、
大蔵大臣に任ぜられて、時の内閣に列なつたときよりも、十・一三事件に狙はれたときのはうが、
もつと高い栄光の絶頂に立つてゐたのだ。
豊子:いつもそれを仰言るのね。そのときは慄へていらしたくせに。
森:わしが怖がつたの怖がらなかつたのといふことは問題ぢやない。狙はれたといふことだけが
重要なんだ。暗殺者に、それも一個中隊の叛乱軍に狙はれる。これこそ政治家の光栄の
絶頂だ。よくも狙つてくれたものだ。あの若い兵隊たちの鼻の上には、いつも憎いわしの
銅像が、国賊の銅像、資本家どもの守り神の銅像が、のしかかつて笑つてゐたのだ。
あの一人一人の兵隊の鼻の上に、昼となく、夜となく……。あとでそれを思ふと、わしは
喜びでぞくぞくしたもんだ。

三島由紀夫「十日の菊」より

58:無名草子さん
11/02/17 19:33:27 .net
あのころ上層部の生活のちよつとした動きまでが、下級将校の耳にピリリと伝はつた。
同じ血潮の夢をゑがきながら、あんなにまで老人と若者がお互ひに近づいたことはなかつた。
あいつらは知つてゐた、百梃の機関銃の前には内閣も大銀行もフェルトの帽子のやうに
脆いことを。あいつらは一寸それを頭にのつけて洒落てみたいと思つたのだ。実に
若者らしい夢だつた。そのためには老衰した水つぽい血がほんのすこし流れればよかつたのだ。
……それでもお父さんは殺されはしなかつたぞ! 若者たちの夢を裏切つてやることが、
大人たちのつとめだからだ。いや、そんなに固苦しくいふことはない。わしはやつらの夢を
愛してゐたから、するりと身をよけて遠くのはうから、やつらの夢を嘲笑つてやることも、
同じやうに愛してゐたわけだ。……わかるかね、豊子。……十六年前の今夜、白刃と
ピストルと機関銃とに取り巻かれてゐた輝やかしいわしが、今夜はかうして、不恰好な
トゲだらけのサボテンに囲まれてゐる。……いいかね。これが人生といふものだ。

三島由紀夫「十日の菊」より

59:無名草子さん
11/02/17 19:36:47 .net
怨みは時が積れば忘れもしようが、一旦人に施した恩は忘れようとしたつて忘れられる
ものぢやない。


稲妻のやうにあの事件が、青い光りをここの御家族へ投げ入れます。……あの晩、はつきり
申し上げますわ、私は旦那様の妻でした。誰も否定できませんわね、旦那様。あの晩私は、
この身一つであなたに歓びを与へ、この身一つであなたのお命を助けようとしてゐる
完全無欠な妻でした。


歴史といふ奴はごみための封印さ。たつた一行書き直しても、封印が破けてしまふ。
そしてそこから数しれない怪物が、翼をひろげて飛び出すのだ。


酔つぱらひの介抱役がいつも介抱するめぐり合はせになるやうに、一度人助けをしたら
どこまでも人を助ける羽目になるものかしら? 私はゆうべ今さらながら、しみじみと
感じたの。助けた人間と、助けられた人間とは、決してわかり合ふことなんかない。
それは王様と乞食みたいに、別々の世界にとぢこめられた人間なんだつて。

三島由紀夫「十日の菊」より

60:無名草子さん
11/02/17 19:38:55 .net
重高:菊さん、死んだやつはみんな仕合せだ思はないかね。こんな澄んだ秋の朝空には、
死んだ奴らの霊が喜々として戯れてゐる。空は奴らの霊でひしめいてゐる。満員の
高架鉄道みたいに。しかし肩をすり合はせ、肱をすり合はせてゐても、奴らは厭ぢやない。
個体といふものがなくなつて、透明な全体の中に溶け合つてゐるからだ。……われわれのやうに、
生きてゐるといふことは、つまり何ものかに嘲られてゐるといふことだ。その大きな
嘲笑ひの前には、われわれはちつぽけな虱(しらみ)だよ。
菊:さういふ考へ方もございませうね。しかし生れついての虱だつたら、そんな風に
考へることはございますまい。


豊子:あ、男がコートを草に敷いて、女と並んで座つたわ。女の肩に手をかけた。……
女の肩にはどうしても男の固い重い掌が要るんだわね。恋が女の制服なら、男の重い掌は
そのいかつい肩章なのね。あの掌から女の体に伝はつて来るもの、あれは濃い葡萄酒を
血のなかへ注ぎ込むやうなものだわね。
垣見:さあ、どうでございませうか。ずいぶん感じの鈍い女も沢山をります。

三島由紀夫「十日の菊」より

61:無名草子さん
11/02/17 19:46:20 .net
豊子:…時折風に乗つて、あの若い動物たちの麝香の匂ひがここまで伝はる。若いの。
どれもこれもみな若い。あの若さが潮風みたいに、当つてゐるときは気がつかなくても、
あとでひりひりするいやな痛みをこちらの肌に残すの。若いといふことがどうしてそんなに
偉いんでせう。
垣見:第一腰が痛みません。関節が痛みません。それだけでも大したことでございます。
豊子:若いといふことは非難や中傷とおんなじで、人を陥れる働らきをするんだわ。
若さといふものは陰謀なんだわ。悪辣な陰謀なんだわ。さうでなければ、「私たちは若い」
と語つてゐる男や女の目が、あんなにお互ひに素速い親密な目くばせをすることなんか
できない筈だわ。
垣見:陰謀なんて、そりやあ御思ひすごしでございませうな。強ひて云へば、同盟といふ
やうなものかもしれません。いづれにしましても、あんまりお金には縁のない同盟なんでして。

三島由紀夫「十日の菊」より

62:無名草子さん
11/02/17 19:47:37 .net
菊:醜い裏切りが美しい犠牲に、化けられるとでも仰言るんですか。助けられた人が
助ける人に成り変れるとでもお思ひなんですか。いいえ、決してそんなことが……
重高:今度は俺が君の確信をこはす番だ。一生のうちにたつた一瞬かもしれないが、
人間はその役割を交換することができるんだ。それができなかつたら、人生に一体何の
値打がある。その一瞬が今朝来たんだ。


重高:…今しがたわかつたんだ。津波はあの海から起るのぢやない。津波は或る朝、
俺の中の死んだ海から、来る日も来る日もいくら釣糸を垂れても魚一つかからない死んだ
海の只中から、突然起るんだと。それがわかつたんだ! 菊さん、津波は今起つたんだよ、
疑ひやうもなく。

三島由紀夫「十日の菊」より

63:無名草子さん
11/02/17 19:48:42 .net
森:…ところでわしにも、お前の知らない思ひがあつたのだ。例の事件の只中に、
わしがその抜け穴から逃げ出して、暗い山道を駆けてゐたために、つひに見ることの
できなかつたのが心残りの……。
菊:何をでございます。
森:お前のそのときの輝やくばかりの裸をだよ。
菊:え?
森:ここにお前のその裸が、百年に一度とないほどの歴史の光りに照らしだされたお前の
裸が、倒れた記念碑のやうに横たはつてゐたのだなあ。兵隊たちの吐きかけた唾のおかげで、
ますます誉れを高めたその美しい裸が。……菊、われわれはそのときこそ一心同体だつたんだ。
罵られ、唾を吐きかけられながら、誰も犯すことのできなかつたその神々しいほどの女の裸は、
正に絶頂に達したわしの栄光の具体的なあらはれだつたのだ。お前の裸がわしの栄光であり、
わしの栄光がお前の裸だつたのだ。……しかし残念なことに、わしはそれを見なかつた。
十六年間、このベッドを見るたびに、ここにわしはその夜のお前の寝姿を思ひ描いた。
本当だよ、菊、本当だよ。

三島由紀夫36歳「十日の菊」より

64:無名草子さん
11/02/18 11:15:36 .net
どうして作者が主人公を救つたりする必要があるんです、そのためにたとへ地獄へ落ちようと。
安物の小説家は、安手な救済を用意します。あれは安い麻薬です。小説の中に
「生きるための手引」なんぞを上手に織り込みます。あれは売薬の広告です。……もちろん
小説を書くといふこと、実在のまねをして人をたぶらかすこと、それは罪だと私は知つてゐます。
だからせめて私は、救済のまねごとまでは遠慮したんです。


私がまねようとした実在、その結果世間の人がみんな信じるやうになつた実在、あの
五十四人の女に愛された光といふ人間は、はじめからそこらにある実在とはちがつて
ゐたんです。どうちがつてゐたか? どうしてそれが特別の実在だつたか? それは
月のやうな実在で、いつも太陽の救済の光りに照らされて輝いてゐた。だから女たちは
その輝やきに魅せられて彼を愛した。彼に愛されれば、自分も救はれるやうな気がしたからです。

三島由紀夫「源氏供養」より

65:無名草子さん
11/02/18 11:16:40 .net
いいですか。私のしたことはといへば、この救済の光りだけを存分に利用しておいて、
救済は否定したといふことなの。これが天の妬みを買つたんです。そんじよそこらの実在と
安手な救済との継ぎはぎ細工なら、天は笑つて恕すでせうに、私の場合は恕せませんでした。
何故つて光のやうな人間こそ、天が一等創りたい存在だからです。救済の輝やきだけを
身に浴びて、救済を拒否するやうな人間こそ。……わかりますか。天はそれを創りたくても
創れない。何故なら光の美しさの原因である救済を天は否定することができないからです。
それができるのは芸術家だけなんですよ。芸術家は救済の泉に手をさし入れても、
上澄みの美だけを掬ひ取ることができる。それが天を怒らせるのよ。

三島由紀夫37歳「源氏供養」より

66:無名草子さん
11/02/19 11:43:12 .net
豊:美濃子! 俺の気持がわからないのか。
美濃子の声:いけません。いけません。あなたの気持などを仰言つては。
豊:美しい美濃子! 俺の二十歳の生涯に、君ほど美しい人は見たことがない。
ある日、天から降つた花びらのやうに、君の清らかな姿は、俺の瞼に落ちかかり、
俺の目をふさいでしまつた。それからといふものは、世界は俺にとつては一片の花びらだつた。
世界は君の姿の形、一片の花びらの形になつた。美濃子! 君のおかげで、意味あるものは
意味を失ひ、とるにたらぬものが香りを放つた。むかしは荒野が俺の住家、今はその住家が
いとはしい、君のやさしい顔の小函、それを夜も昼も家に飾つて、眺めあかして暮らすので
なくては、美濃子、俺の住家はもう墓場だ。それがなくては俺は屍、その小函だけで
世界の幸が買へるのだ。美濃子、君が好き、君が好き、君が好きだ。
美濃子の声:私を好いてはいけません。
豊:なぜだ。
美濃子の声:私たちは結ばれない星の下に生れたのです。

三島由紀夫37歳「美濃子」より

67:無名草子さん
11/02/20 20:21:13.34 .net
僕は社会をひつくりかへすために陰険な策謀をめぐらしたり、無辜(むこ)の市民を
傷つけるやうな計画を立てたり、日本の歴史と文化の伝統を破壊しようと企てたり、そのために
友を裏切り、恩人を裏切り、目的のためには手段をえらばぬと云つた、さういふ連中を
憎みます。一市民として憎みます。これが僕の信念です。


全学連の女の子が、われわれに怒鳴つた言葉はこたへたなあ。今でもときどき思ひ出しますよ。
女子学生がですよ。かりにも教養のある女子学生がかう言つたのです。「そんな顔でお嫁が
来ると思ふか。もつと心を入れかへて勉強しろ。バカ。無智。人殺し」つて。われわれの親は
貧乏で、心を入れかへて勉強しようにも、大学へ進めなかつたんですからね。
…まあ、女子学生にそこまで言はせた、大きな国際的陰謀があるわけですよ。

三島由紀夫「喜びの琴」より

68:無名草子さん
11/02/20 20:22:13.85 .net
国際共産主義の陰謀ですよ。あいつらは地下にもぐつて、世界のいたるところで噴火口を
見つけようと窺つてゐるんです。世界中がこの火山脈の上に乗つかつてゐるんです。もし
この恣まな跳梁をゆるしたら、日本はどうなります。日本国民はどうなります。日本の歴史と
伝統と、それから自由な市民生活はどうなります。われわれがガッチリ見張つて、奴らの
破壊活動を芽のうちに摘み取らなければ、いいですか、いつか日本にも中共と同じ血の粛正の
嵐が吹きまくるんです。
地主の両足を二頭の牛に引張らせて股裂きにする。妊娠八ヶ月の女地主の腹を亭主に踏ませて
踏ませて殺す。あるひは一人一人自分の穴を掘らせて、生き埋めにする。いいかげんの
人民裁判の結果、いいですか、中共では十ヶ月で一千万以上の人が虐殺された。一千万といへば、
この東京都の人口だ。それだけの人数が、原爆や水爆のためぢやなくて、一人一人同胞の手で
殺されたのだ。それが共産革命といふものの実態です。それが革命といふものなんです。
こんなことがわれわれの日本に起つていいと思ひますか。

三島由紀夫「喜びの琴」より

69:無名草子さん
11/02/20 20:23:06.25 .net
片桐:……考へてみろよ。二・二六事件の将校は英雄になつたが、彼らに射たれて死んだ警官は
名前も忘れられ、ただガラスのケースの中の英雄になつた。俺たちは永遠の脇役で、権力と
叛逆者の板ばさみになつて、つまらない人間のためにも身を捨てるんだ。そのとき残るのは
何だと思ふ。同じ立場の俺たちの信頼だけだ。…(中略)
瀬戸:…警察官も一つの職業だよ。人を疑ふのが商売で、それに徹すりやいいんだ。
疑つてるうちに、カンも発達してくる。さうすりや、疑はないでいいことと、疑ふべきことの
区別がついてくる。善良な市民に迷惑をかけるおそれもなくなる。実績も上つてくる。
さうなるための第一歩は、まづ何でも疑つてかかることだ。人を見たら泥棒と思へ、さ。
まづそこからはじめるんだ。さうして疑ふ技術を洗煉するんだ。人を信じるだの信頼するだのつて、
耳や目が遠くなつてからでもゆつくりできるぜ。

三島由紀夫「喜びの琴」より

70:無名草子さん
11/02/20 20:24:46.89 .net
野津:この雪の中のあちこちで、毛唐や三国人があひかはらず、悪事をたくらんで動き
まはつてゐる。
堀:しかし管内には麻薬犯罪がなくて助かるよ。
野津:白い悪魔の粉のごとく、麻薬のごとく雪はふる、か。


俺はストライキのことしか知らないが、群衆心理つてのは怖ろしいもんだぜ。一人が
ワッと叫ぶと、みんなその気になつちまふんだ。まあ、いはば、蕁麻疹みたいなもんだ。
それに乗せられるのも一時はいい。一時はいいが、気をつけろよ。手綱を引きしめるのを
忘れるなよ。こんな説教みたいなことは言ひたくないが、君はまだ若いんだし、今日の
午すぎからでも、急にそんな人気者にならないとも限らんし、今のうち言つておくのが
いいと思ふんだ。マスコミちふのは軽薄だからな。ぽんと乗せて、ぽいと捨てる、そりやあ
よつぽど気をつけなくちやいかんぜ。

三島由紀夫「喜びの琴」より

71:無名草子さん
11/02/21 11:32:45.18 .net
はじめから憎んでゐたものが憎らしいのは当り前の話さ。……なあ、片桐、思想といふのは、
いろんな形をとるものさ。あるときはライオンの。あるときは可愛い小鼠の。憎むんだから、
そいつから目を離さず、そいつの千変万化の変身にあざむかれず、この世界のあらゆるものに
そいつの影を見つけ、花にも自転車にも雲にも小さなマッチ箱にも、怠りなくそいつの影を
読みとらなければならないんだ。それには力が要る。綿密な注意が要る。そりやあ物事を
本当に信じるのとほとんど同じくらゐ力の要る仕事だ。


やはりお前は裏切られた怒りを選ぶのか。そんならこの傷は手ひどく祟るぞ。一生痛み
つづけるぞ。それもみんなお前の罪なんだ。思想よりも人間を選んだお前の罪なんだ。
こんなまちがひは若い栗鼠しかやらない。くるみとゴルフのボールをまちがへるやうなことは、
公安のおまはりは決してやつてはならんことだ。

三島由紀夫「喜びの琴」より

72:無名草子さん
11/02/21 11:33:57.74 .net
俺はな、ずうーつと前からよ、ずうーつと前から松村を臭いと思つとつたよ。あいつと
佐渡との関係も臭いと睨んどつたよ。カンだな。永年のカンちふものは怖ろしいよ。
あいつの目つきから、顔つきから、何から何まで気に入らない。何かよくわからないが、
プーンとアカの匂ひがしとつたんだね。垢の匂ひか。まあ、おんなじやうなもんさ。
アカは匂ひを立てよるよ。腐つた魚みたやうな。お前、留置場の匂ひを知つとるだろ。あれだ。
はじめから暗い場所へ入るやうにできてる人間は、さういふ匂ひを立てる。今ごろ松村は、
いちばん自分の匂ひにぴつたりの場所にゐるわけだよ。さうだよ。なあ。

三島由紀夫「喜びの琴」より

73:無名草子さん
11/02/21 11:35:55.92 .net
片桐:あなたきこえるんですね。あの琴が。
川添:きこえるとも。たしかにきこえる。
片桐:実は、僕にもきこえるんです。……どうです。あの澄んだ、静かな、心の休まるやうな
やさしい音楽。
川添:お前もきこえるのか。
片桐:さうです。今きこえはじめたんです。しかし今、僕は一寸ミスをやりました。
川添:ミスつて?
片桐:うつかり同僚に「あれがきこえるか」つて訪ねてしまつたんですよ。どうやら
やつらにはきこえないらしいんです。自分一人にきこえるんだつたら、それを秘密にして
おくべきですね。
川添:わしはみんな喋つちまふ。だから莫迦にされるんだ。


片桐:あ、きこえる。きこえる。みんなにはきこえないんだ。
川添:わしら二人だけだ、この世界に。
片桐:いつかみんなにきこえるやうになりませんかね。
川添:無理だらう。わしはどれだけみんなに宣伝したか。何しろ天からまつすぐに、
澄み切つた琴の音が落ちてくるんだから。

三島由紀夫38歳「喜びの琴」より

74:無名草子さん
11/02/22 11:10:22.03 .net
人間はみんなこの地球の上の居候さ。


……ほら、二階の窓があきます。喪服の老夫人が謡をうたつてゐます。あれは日本の悲しみと
過去の象徴なの。あそこから死と思ひ出の歌がひびいて来ます。それから……ほら、
中二階の茶室の障子があきます。静かな中年の夫婦がお茶のお点前をしてゐます。あれが、
何もかも忙しさの中に見失ふ年ごろの人たちに、静けさの意味を教へるんですわ。ええ、
もちろんお客様はいつでもあの部屋へ行つて、お茶を習ふことができます。……今度は……
ほら、向うの橋から、凛々しい若者がやつて来ました。あれこそ日本の雄々しい若さ、
それもつつしみ深い、礼儀正しい若さの姿ですわ。日本の青年はみんな全学連に入つて
ゐたり、町角で女の子をからかつてゐるわけぢやありません。もしお客様がお望みなら、
あの人はよろこんで弓の手ほどきをするでせう。どう? これが私たちの独特のホテルの
おもてなしなのよ。

三島由紀夫「恋の帆影」より

75:無名草子さん
11/02/22 11:11:12.58 .net
この左手が春の橋、私たちのくぐつてきたあの橋が夏の橋、家のうしろに秋の橋と冬の橋が
あつて、家のまはりがみんなああいふ低い粗末な橋に囲まれて、だからむかしこの邸は、
四つ橋屋敷と呼ばれてゐましたの。(中略)
梅さんの操るこの小さな和船、そして今にも落ちさうな朽ちかけた小さな橋、それだけが
この家と外界をつなぐよすがなんです。舟が沈み、橋が朽ちたら、ここは外界から
ぱつたりと縁を絶たれ、ここにあるすべてが本当の夢になるんです。今いらしたせまい川を、
梅さんの小舟が、まるで体をすりつけて甘える小猫みたいに、あやめのまじる川岸の草に、
船ばたをこすりつけながら来たでせう。あれでなくてはいけないんだわ。両側の岸から
さし交はす枝々が、たえず木影を舟に辷らせ、ときどき真菰(まこも)の草むらから
かはせみが翔つ。それでなくてはいけないんだわ。ここではすべてが何かから護られ、
じつと大人しく日本の美しさの中に閉ぢこもつてゐることができるんです。帆舟なんて、
ざわざわと風にはためく帆舟なんて、決してそんなものが……。

三島由紀夫「恋の帆影」より

76:無名草子さん
11/02/22 11:12:24.77 .net
お客とは何ぞや。それは不幸な、いらいらした、始終幸福を求めてゐる人たちなのです。
ホテルの窓の数ほどに沢山な苦情の種子を見つけ、自分がホテルからどの程度に重んじられて
ゐるかを気にし、水道の出が一寸わるくても、ドアの鍵の具合が一寸わるくても、忽ち
そのホテルを三流ホテルときめつけます。それといふのも、偶然の故障などといふものを
お客はみとめず、それをすべて自分が軽んじられてゐる証拠だと思ひ込むからです。


何故自然をありのままに売物にできないんです。私たちの自然な日本人の生活を、
不自由は百も承知で、そのまま売物にできないんです。


みゆき:私たちは世界に対して閉ざされた宝石になるのですね。日本の美しさと艶やかさを、
氷の中の花にしてしまひ、誰にも手を触れさせないで、誰にも微笑を向けて暮すんですね。
正:それこそ姉さん、あなたにぴつたりのホテルですよ。

三島由紀夫「恋の帆影」より

77:無名草子さん
11/02/22 19:35:44.61 .net
みゆき:…本当の姉弟がこんなことをするかしら? 本当の弟がこんな風に姉さんの胸を
探るかしら? 本当の姉弟がこんな風に? 今、喜死鳥(かはせみ)が立つたわ、青い
羽根をかがやかせて。ああ、私たちは何度もここへ帰つてくる。そこでは世間は嘘の鎧で
しつかりと私たちを護つてくれ、その中で私たちの体は虹のやうに融ける。嘘は私たちの
ことぢやない。嘘はただ世間が私たちにくれた免罪符だわ。それをまちがへちやいけないわ。
正:なぜあなたは自由が欲しくないんだ。なぜ曇つたままの鏡が好きで、それを拭き取らうと
しないんだ。
みゆき:七色の滴に覆はれた鏡のはうが、ずつときれいに映るからだわ。女には正確な
鏡なんか要らないのよ。
正:今なら僕たちはみんなに大事に護られてきた嘘の温室の硝子屋根を打ち割つて、
公然と……
みゆき:公然と、何をするの?
正:結婚することだつてできるんだ。
みゆき:結婚? まあ、いやだ、そんな下品なこと。

三島由紀夫「恋の帆影」より

78:無名草子さん
11/02/22 19:36:57.23 .net
がまがへるの目には、がまがへるが美しいし、俺の目には、こんなおかちめんこが美しいのさ。
地球の目には月が美しく、月の目には地球が美しい。宇宙に鏡があれば地球もその
あばた面の美に目ざめ、ほかのあばた面の星を探しに出かけるだらう。思想家には眼鏡が
美しく、芸術家にはお金が美しい。


あの方を見ると、すべてが救はれ、あの方と話してゐるあひだは、どんな曇りの日にも
青空が見え、雨の夜にも月がかがやくんです。遠くからあの方の紺絣のお姿、弓を手にした
凛々しいお姿を見ただけでも、一日の仕合せが買へるのです。そんな安い私の仕合せなのに、
私の苦しみと不幸はもつと安くて、ほとんど只みたいに無尽蔵に湧いて来ます。同じ水から
生れたものでも、仕合せは虹、不幸は霧、虹はつかのまに消えてしまふのに、霧は全部を
包んでしまふ。……それといふのも、どうしたらあの方に愛されるか、私にはわからない
せゐなんだわ。

三島由紀夫「恋の帆影」より

79:無名草子さん
11/02/22 19:38:24.45 .net
啓夫人:今ごろ、あの子は嵐の荒れ狂ふ湖へ、あてどもなく漕ぎ出してゐるんだわ。
啓:罪のない者は美しく死なせてやれ。罪を重ねた奴には、そんな死に方はできやしない。
どうせ脳溢血か胃癌がオチさ。……それに罪のない者がゐなかつたら、あいつらの純白の
カンヴァスがなかつたら、絵具と絵筆はどうして暮したらいいんだね。私たちはその
カンヴァスをいつも探してゐたんぢやないのかね。そして今夜やつとそれを探し当てたんぢや
ないのかね。


みゆき:私は知つてゐます。私たちのことを告げ口されたら、きつとあの娘は死ぬでせう。
それはあの娘が純なばかりでなく、あなたにははつきり女を死なせるだけの力があるわ。
女の私の言ふことだから、まちがひがない。どう? これで満足が行つたでせう。
正:だから僕は……
みゆき:お待ちなさい! さうやつて立上がるあなたは滑稽だわ、啓様の言ふやうに、
自分の己惚れの、自分の魅力のおそろしい結果をたしかめるために、いそいそと
出かけてゆく滑稽な男だわ。
正:ちがふ!

三島由紀夫「恋の帆影」より

80:無名草子さん
11/02/22 19:40:18.51 .net
みゆき:…死ぬわ、あなたもあの娘も、助けようとする力が殺す力になり、お互ひが
生きようとして沈め合ふわ。ああ! 溺れた人のおそろしい力、何か別の力がのりうつり、
底のはうから手助けでもしてゐるやうな、あの夢の中で胸を押へる夢魔よりも非情な力、
あれに取り縋(すが)られたらもうおしまひだわ。死ぬわ、いいえ、あなた一人だけでも。
嵐の中をさすらひ求め、叫ぶ声も涸れ、漕ぐ腕も萎え、舟はまるで茶碗の底へ銀の匙のやうに
らくらくと沈む。あなたは溺れるわ。溺れるわ。水があなたの内側まで充たさうと、
外側からひしめき合つて雪崩れ込む。わかつてゐるの? 水は人の外側から、人が浮ぶのを
支へてゐるのにすぐ倦きる。湖の水は人の内側にあこがれる。そこにどんなに美しい、
どんなに暖かい、水のねぐらがあるかを知りたいんだわ。水は自分の古い親戚の、
海のやうに塩辛い人間の血に、その暖かいねぐらで直に会ひたいんだわ。だから勢ひ込んで、
軍隊のやうに、水はあなたの中へ攻め寄せる。息を追ひ出し、息よりももつと濃い命で
あなたを充たし、……さうしてあなたを自分のものにするために。

三島由紀夫39歳「恋の帆影」より

81:無名草子さん
11/02/23 15:32:37.44 .net
女の貞淑といふものは、時たま良人のかけてくれるやさしい言葉や行ひへの報いではなくて、
良人の本質に直に結びついたものであるべきだといふことですわ。蝕まれた船は蝕む虫と、
海の本質を頒け合つてゐるのですわ。


女が男にだまされることなんぞ、一度だつて起りはいたしません。


私がずつと前からアルフォンスを知つてゐたといふ気持は、ひつくりかへりはいたしません。
あの人に急に尻尾が生えたり、角が生えたりしたわけではないのですもの。私はともすると
あの人の陽気な額、輝く眼差の下に隠されてゐた、その影を愛してゐたのかもしれませんの。
薔薇を愛することと、薔薇の匂ひを愛することと分けられまして?

三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

82:無名草子さん
11/02/23 15:33:27.98 .net
幸福といふのは、何と云つたらいいでせう。肩の凝る女の手仕事で、刺繍をやるやうな
ものなのよ。ひとりぼつち、退屈、不安、淋しさ、物凄い夜、怖ろしい朝焼け、さういふものを
一目一目、手間暇をかけて織り込んで、平凡な薔薇の花の、小さな一枚の壁掛を作つて
ほつとする。地獄の苦しみでさへ、女の手と女の忍耐のおかげで、一輪の薔薇の花に
変へることができるのよ。


サン・フォン:…奥様、快楽にだんだん薬味が要るやうになると、人は罰せられた子供の
たのしみを思ひ出し、誰も罰してくれないのを不足に思ふやうになります。ですから
見えない主に唾を引つかけ、挑発し、怒りをそそり立てようと躍起になるのでございます。
それでも神聖さは怠けものの犬です。日向に寝そべつて昼寝に耽り、尻尾を掴まうが、
髭を引張らうが、吠えることはおろか、目をひらいてさへくれません。
モントルイユ:あなたは神を怠けものの犬だと仰言るのね。
サン・フォン:ええ、それも老いぼれた。

三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

83:無名草子さん
11/02/23 15:34:09.60 .net
恥ずかしさの底にゐるときには、同情のやさしい心持も残つてはをりません。同情は
上澄みで、心が乱れれば、底の澱が湧き昇つて上澄みを消してしまふ。


想像できないものを蔑む力は、世間一般にはびこつて、その吊床の上で人々はお昼寝を
たのしみます。そしていつしか真鍮の胸、真鍮のお乳房、真鍮のお腹を持つやうになるのです、
磨き立ててぴかぴかに光つた。あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば
気味がわるいと仰言る。あなた方は御存知ないんです。薔薇と蛇が親しい友達で、夜になれば
お互ひに姿を変へ、蛇が頬を赤らめ、薔薇が鱗を光らす世界を。兎を見れば愛らしいと仰言り、
獅子を見れば怖ろしいと仰言る。御存知ないんです。嵐の夜には、かれらがどんなに血を
流して愛し合ふかを。神聖も汚辱もやすやすとお互ひに姿を変へるそのやうな夜を
御存知ないからには、あなた方は真鍮の脳髄で蔑んだ末に、さういふ夜を根絶やしにしようと
お計りになる。でも夜がなくなつたら、あなた方さへ、安らかな眠りを二度と味はふことは
おできになりません。

三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

84:無名草子さん
11/02/23 15:35:00.24 .net
ルネ:私が人間の底の底、深みの深み、いちばん動かない澱みへだけ、顔を向けてきたのは
本当だわ。それが私の運命でした。
アンヌ:だからそれには思ひ出はないわ。あるのは繰り返し、それだけだわ。
ルネ:私の思ひ出は虫入りの琥珀の虫。あなたのやうに、折にふれては水に映る影ではないわ。
さう、あなたはうまいことを言つた。私の思ひ出は、いつも必ず私の邪魔をするの。


この世で一番自分の望まなかつたものにぶつかるとき、それこそ実は自分がわれしらず
一番望んでゐたものなのです。それだけが思ひ出になる資格があり、それだけが琥珀の中へ
閉ぢ込めることができるのよ。それだけが何千回繰り返しても飽きることのない、
思ひ出の果物の核(さね)なのだわ。


あなたは神の釣人の糸にかかつた魚です。何度か鉤(はり)をかけられて遁れながら、
あなたは実のところ、いづれは釣り上げられることを御存知だつた。浮世の水にかがやく
鱗を、神の御目(おんめ)のきびしい夕日のうちに、身もだえして閃めかせながら、
釣り上げられるのを望んでおいでだつた。

三島由紀夫40歳「サド侯爵夫人」より

85:無名草子さん
11/02/23 21:11:34.51 .net
女の部屋は一度ノックすべきである。しかし二度ノックすべきぢやない。さうするくらゐなら、
むしろノックせずに、いきなりドアをあけたはうが上策なのである。
女といふものは、いたはられるのは大好きなくせに、顔色を窺はれるのはきらふものだ。
いつでも、的確に、しかもムンズとばかりにいたはつてほしいのである。


日本の女が全部ぬかみそに手をつつこむことを拒否したら、日本ももうおしまひだ。


ウソの友情より、本当の憎悪のはうが美しい。
『男のはうが女よりずつと御体裁屋だわ』


女同士の喧嘩の場合は、打たれた女より、打つた女のはうが百倍も可哀想な女なのよ。


日本人のくせに髪を赤毛に染めてゐたりする女を見ると、唾を引つかけてやりたくなる。


当事者といふものは、物事の表面にごく見易くあらはれてゐる異常さに、なかなか気が
つかないものである。


思つてることが、しらない間に独り言になつて出るといふことほど、わびしい老いの兆はないな。

三島由紀夫「複雑な彼」より

86:無名草子さん
11/02/23 21:12:36.85 .net
ドライ・マルティニの好きな顔といふのがあるのである。油断ならぬ顔つきの人間にそれが多い。
テキサスあたりの大男で、人のいい顔をした人物が、オールド・ファッションドなんかを
呑むのと対蹠的だ。


父は色が多少浅黒いので、かういふ緑がよく似合ふのである。緑は顔いろをわるく見せるが、
もともとわるい人の顔色はよく見せる。


ちかごろの日本の青年は、情ない奴ばつかりだ。さう思はんかね。金がほしい。できれば
名もほしい。そのためには犬畜生に劣る振舞でも平気でやる。十代の少年を見ても、
非行少年には義理も人情もないし、よく勉強するいはゆる優秀な少年は、自分のことだけ
考へてゐる器の小さい連中ばかりだ。こんなことで、日本の将来を託すべき青少年は
どうなるのだ。


譲二は決してオー・デ・コローニュは使はなかつた。あれは不潔で体臭のつよい外国人が
使ふもので、日本人の清浄な体に使へば、男らしさを滅殺する効果しかないことを知つて
ゐたからである。


とても面白いと思つて見た映画は、二度見てはいけないんです。

三島由紀夫「複雑な彼」より

87:無名草子さん
11/02/23 21:14:16.48 .net
思ひ出といふのは、もう固まつた美術品みたいなものなんです。もう誰も手を加へることの
できない、完成品の美なんです。ミロのヴィーナスと、美しい思ひ出とは同格なんです。
それをみんな思ひちがへてゐるんですよ。ミロのヴィーナスに十年ぶりに会つたつて、
欠けた腕が、いつのまにか生えてゐるといふことはありえないでせう。ところが思ひ出に
十年ぶりで会ふと、心の中でいろんな風に修正してゐて、欠けてゐた腕も生えそろつてゐる
わけだから、現実の思ひ出の腕が欠けてゐるのを見て、『おや、片輪になつた』と錯覚を
起すんです。人間は必ずかういふ錯覚を起すやうにできてゐる。バカな話ぢやありませんか。
だから、僕が思ひ出に対して節度があるといふのは、第一に、その昔の人に対して会はない
やうにすることです。
それから、僕が思ひ出に対して誠実だといふのは、又会つて好きになつたら、全く
新らしい意味で好きになるので、思ひ出とは別個なものだと考へることです。つまりさう
なつたら、思ひ出のはうをさつさと殺してしまふんですよ。それがどんなに美しい思ひ出でも。

三島由紀夫「複雑な彼」より

88:無名草子さん
11/02/23 21:15:06.00 .net
心といふものは地図に似てゐる。
高低がある。山がある。川がある。等高線がある。
山の高みに達すると、のびやかな平野の眺めがひらけ、今までの苦しい登り道を忘れさせる
やうな、愉しい下り坂がはじまる。
そこに又、湖がある。池がある。川がある。あるひは谷間がある。


男と女ははじめから引合ふやうに出来てるんだが、縁といふものはこれは別だよ。
縁は引力よりも偉大かもしれん。これは、もう決められてゐることで、ほとんど引力を
感じないでも、すこぶる深い縁といふものもあるんだから。


僕はアル中の女とボクシング・ファンの女は、心の底から大きらひだ。どつちも
フラストレーションの固まりの、ひどく下品な女なんだ。


ボクシングはすごいスポーツだよ。男がまつしぐらに戦つて血を流すんだ。そこに男の見物は、
自分たちの社会での戦ひの、毎日やつてゐる血みどろの戦ひの、一番端的な代表を見るわけなんだ。
だから僕は、戦つてもゐない女が、生意気に、ひまつぶしにスリルと興奮を求めて、
ボクシングが好きになるといふことはゆるせないんだよ。それは絶対に下品だからな。

三島由紀夫「複雑な彼」より

89:無名草子さん
11/02/23 21:16:42.03 .net
私が恋してゐるのは、お父様が決して認めようとなさらないやうな、《複雑な彼》なのです。


今の日本で一番不足してゐるものは、金でもない、家でもない、人物だよ。


あの方は、近ごろの東南アジアの状勢に深く心を痛めてをられて、今、一人の日本人が
身を挺してこれを救はなければ、アジアは永久に救はれないと考へてをられる。


今の状勢について、日本人全般は、日本人が出る幕ぢやないと思つて、『関係ナイ、
関係ナイ』といふ気持で、レジャーに耽つてゐるばかりだ。一人としてアジアを憂へる青年は
をらない。デモをやつてゐる連中は、左翼にあやつられてゐるだけだし、集団の力を漠然と
たのんでゐるだけだ。
しかし、いつでも歴史を動かすのは個人なんだよ。それも一人の青年の力なんだよ。
『関係ナイ』と思つてゐるのは、自ら、関係を持たうとしないだけのことで、もし一人の
青年が身を挺すれば、アジアを救ふことができるのだ。

三島由紀夫41歳「複雑な彼」より

90:無名草子さん
11/02/27 18:27:35.68 .net
URLリンク(www.youtube.com)

91:無名草子さん
11/03/01 10:29:38.82 .net
自ら奏でる楽の音(ね)が、月影のやうに湖のお顔に注ぐと、きらめく漣のやうなその微笑が
現はれる。すべては音楽の霊妙な作用なんだ。水は音楽だ。だから彼女はそれを支配する。
人間の体は水でできてゐる。だから彼女はそれを支配して、それは音楽に変へてしまふ。
血は水でできてゐる。だからそれを支配して、血は音楽に変つてしまふ。


璃津子:このさき日本はどうなるのでせう。
経広:僕たちは、つてききたいのではない?
璃津子:その二つは同じことだわ。
経広:さうだね。同じことだ。
璃津子:お国の右の腕が痛むと
経広:僕たちの右腕も痛むのだ。そしてあの海のかなたへまで晴れやかにひろげられた
お国の裳裾が引き裂かれると
璃津子:私たちも引き裂かれるのだわ!
経広:その引き裂かれた絹の叫びが
璃津子:かうしてゐても海のむかうからきこえてくるわ。……もしかすると、日本は
負けるのではないかしら。
経広:それは世界が夜になることだ。この世でもつとも美しい優雅なものが土足に
かけられることになるのだよ。そんなことにさせてはいけない。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

92:無名草子さん
11/03/01 10:30:03.01 .net
経広:海が僕を惹き寄せる。何故だか知れない。絶望と栄光とが、押し寄せる海風のなかに
いつぱいに孕まれてゐる。かうして海から来る風に顔をさらしてゐると、絶望と栄光の砂金が
いつぱい詰つた袋で頬桁を張られてゐるやうな気がする。なぜ、又、いつから海が僕を
非難するやうになつたのか。
君にも話したね。中等科のころまでは、僕は新聞の貨物船の広告を見て夢を描くのが
大好きだつた。寄港地の名前はみな宛字の漢字で書いてあつた。新嘉坡(シンガポール)、
波斯湾(ペルシャわん)、亜歴山(アレクサンドリア)、……僕はそのへんな漢字の
どれもが読めるのが得意だつた。貨物船と近東風の月夜と、ペルシャ湾の毛足の長い
絨毯のやうな重い夕凪とが、海への僕の憧れのすべてだつた。それほどやさしい海が、
いつから僕の頬桁を張り、僕を非難するやうになつたのか。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

93:無名草子さん
11/03/01 10:30:22.90 .net
経広:わかつてゐる。海が死と絶望と栄光の金の食器を、敷きつめた青い波のテーブル・
クロースの上に満載して、僕の着席を待つて向うから、用意を整へ、しづしづと近づいて
来てからといふものだ。その食卓には今潮の中から引き揚げられたばかりの珊瑚が山と
積まれ、熱帯の積乱雲が飾り立てられてゐる。御紋章つきの金のコンポートには、
色さまざまな熱帯の果物が盛り上げられてゐる。そして僕がその一つを口に入れれば、
それは死なのだ。これほど飢ゑてゐながら、僕が食卓に就かないのを海は非難してゐる。
僕の飢ゑの烈しさを誰よりもよく知つてゐるのは、海だ、おそらく君よりも。
璃津子:女はみんな知つてゐるわ、どんな女でも、男の方のさういふ飢ゑを鎮めることは
できないのを。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

94:無名草子さん
11/03/01 10:30:45.33 .net
悲しみのあまりだつて? 人はさう言ふ。悲しみは慰められても、悲しみよりもつと遠くへ
行つた人間に、人の慰めなんぞが追ひつくものか。


生きてゐる間は若様でした。私は自分の卑しさのすべてをかけて、あの子を若様と呼びました。
……今はちがひます。あの子は死ぬと同時に、青い空の高みからまつしぐらに落ちてきて、
ここへ、ここへ、この血みどろの胎の中へ、もう一度戻つて来たのですわ。もう一度私の
賎しい温かい血と肉に包まれて、苦しい名誉や光栄に煩はされることのない、安らかな
眠りをたのしみに戻つて来たのですわ。今こそ私はもう一度、ここにあの子のすべてを
感じます。あの子の眼差、あの子の微笑、あの子のしつかりした手足をこの中に。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

95:無名草子さん
11/03/01 17:22:36.53 .net
経隆:経広はおそらく知つてゐたらう、自分の小さな死は無益(むやく)であり、たとへ
その死を何万と積み重ねても狂瀾を既倒に回(めぐ)らす由もないことを。しかし又
知つてゐたらう、このやうな御代に生き御代に死んで、すでに閉じられようとしてゐる
大きな金色の環へ鋳込まれて、永遠に歴史の中を輝やかしく廻転してゆくその環の一つの
粒子になることを。身を以て空にかけた悲しみの虹の、一つの微粒子になることを。
……どんな苦しい戦況であらうと、経広は男として満ち足りて死んだ筈だ。
おれい:まるでその場に居合はせたかのやうに。あの子の肌が割けた痛みの万分の一も
御存知でないあなたが。
経隆:苦しみをこえる矜りといふものがあるのだ。たとへば木は大地につながつてゐる。
それは苦しみだ。痛みだ。しかし梢にかかる白い雲は青空に属してゐる。私たちはその
美しい横雲と樹木とを、いつも一つの絵のなかに見るではないか。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

96:無名草子さん
11/03/01 17:22:58.99 .net
……しかし私が気が狂つてゐたとすると、それはどんな狂気だつたのだらう。果して
私自身の狂気だつたらうか。それともはるかかなたから、思召しによつて享けた狂気だつたか。
たとへ私が狂気だつたにせよ、あの狂気の中心には、光りかがやくあらたかなものがあつた。
狂気の核には水晶のやうな透明な誠があつた。


翼を切られても、鳥であることが私の狂気だつたから、その狂気によつてかるがると私は
飛んだ。……今はどうだ。お前は私が正気になつたといふかもしれない。私にはわからない。
自分が今なほ狂気か正気かといふことが、自分にはわからう筈がない。只一つわかることは、
その正気の中心には誠はなく、みごとに翼は具へてゐても、その正気は決して飛ばない
といふことだ。あたかも醜い駝鳥のやうに。私は知らず、少なくともお前たちみんなは
駝鳥になつたのだよ。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

97:無名草子さん
11/03/02 10:11:28.63 .net
光康:…もう時代は変つて、手袋を裏返しにしたやうに、すべては逆になつたのに。
経隆:写真の陰画が陽画になつただけかもしれない。絵はもともと一つなのだ。


海と雲とは一色(ひといろ)の重い苦患に融け合ひ、沖に泊つてゐる外国の船の白い船腹を、
苦痛にむきだした白い鮮やかな歯のやうに見せてゐる。日本の船はどこにも見えぬ。
日本の船は悉く沈んでしまつた。
経広があこがれたのは決してこんな海ではなかつた。ただあいつの死の刹那に、海が
青かつたことを私は祈る。あいつのためには、海は晴れやかに青く輝き、そこにこそ
誉れの火柱は高くあがり、若者のおびただしい血潮は、透かし見られる朱い珊瑚礁のやうに
亜熱帯の海を染めなした。あの島をめぐる海は、経広の最後の日に、雲の影一つないほど
晴れ渡つてゐたことを私は祈る。あいつは朱雀家の代々が使はなかつた黄金造りの太刀の、
明るい花やかな朱いろの下緒(さげを)のやうな死を選んだと思ひたい。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

98:無名草子さん
11/03/02 10:11:47.16 .net
なぜといへ、それを最後に、日本は敗れ、滅びたからだ。古いもの、優雅なもの、
潔らかなもの、雄々しいものは、悉く滅びたからだ。かつて気高く威光さかんであつた
一帝国は滅びたからだ。もつとも艶やかな経糸(たていと)と、もつとも勇ましい
緯糸(よこいと)とで織られてゐた、このたぐひまれな一枚の美しい織物は、血と火の
苦しみのうちに、涜され、踏みにじられ、つひには灰になつた。歴史の上で誰も二度と
ふたたび、同じ見事な織物を織り成すことはできまい。


すべては去つた。偉大な輝やかしい力も、誉れも、矜りも、人をして人たらしめる大義も
失はれた。この国のもつとも善いものは、焼けた樹々のやうに、黒く枯れ朽ちて、
死んでしまつた。

三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

99:無名草子さん
11/03/02 10:12:19.43 .net
雪がふつて来たな。
この浄らかな冷たさ、雪はすべてを和める力だが、それといふのも、すべての身を一様に
慄(ふる)へさすからだ。雪は女神に似てゐる。冷たく、美しく、矜り高く、残酷な
女神に似てゐる。その女神の冷たい嫉妬のおかげで、夏のかがやかしい日々は消されてしまつた。


璃津子:滅びなさい。滅びなさい! 今すぐこの場で滅びておしまひなさい。
経隆:(ゆつくり顔をあげ、璃津子を注視する。……間。)
どうして私が滅びることができる。夙うのむかしに滅んでゐる私が。

三島由紀夫42歳「朱雀家の滅亡」より

100:無名草子さん
11/03/10 13:37:09.81 .net
「文は人なり」とは、まことに怖ろしい格言です。


五十歳にもなれば、人生は、性欲とお金だけで、「純粋な心の問題」は、それが満たされた
あとでなくては現はれるはずもないのです。


ところどころ、何のことかわからないことを入れるのが、ファン・レターの秘訣です。


本当に「おはやう」といふのにふさはしい唇を持つた若い女性は、人の目をさまさせますよ。


私は結婚しても、あの手紙だけはとつておきたいやうな気がするの。
「おはなはん」ぢやないけれど、三十年たち、四十年たつて、自分の若いころの魅力的な姿を
思ひ出すには、やつぱりどんなよく撮れた写真よりも、他人の言葉のはうがリアリティが
あるにちがひないから。


そもそも、助け合ひなどといふことは貧乏人のすることで、その結果生まれる裏切りや
背信行為も、金持ちの世界とはまるでちがひます。金持ちの裏切りは、助け合ひなどといふ
バカな動機からは決して起りません。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

101:無名草子さん
11/03/10 13:37:29.59 .net
毅然としてゐる。青年らしい。ちつとも女々しいところがない。ちつともメソメソした
ところがない。―これが借金申し込みの大切な要素です。人は他人のジメジメした心持ちに
対してお金を上げるほど寛大ではありません。


女の子から、「ちよつとイカスわね」と言はれれば、うれしいにきまつてゐるが、男は
軽率に自分の男性的魅力を信じるわけにはいきません。
女の子といふものは、妙に、男の非男性的魅力に惹かれがちなものだからです。


女は自分のことばかりにかまけて、男をほめたたへる、といふ最高の技巧を忘れ、あるひは
怠けてゐる。


大ていの女は、年をとり、魅力を失へば失ふほど、相手への思ひやりや賛美を忘れ、しやにむに
自分を売りこまうとして失敗するのです。もうカスになつた自分をね。


あらゆる男は己惚れ屋である。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

102:無名草子さん
11/03/10 13:37:56.15 .net
脅迫状は事務的で、冷たく、簡潔であればあるだけ凄味があります。
第一、感情で脅迫状を書くといふのはプロのやることではありません。卑劣に徹し、
下賤に徹し、冷血に徹し、人間からズリ落ちた人間のやる仕事ですから、こちらの血が
さわいでゐては、脅迫状など書けません。
便せんをすかしてみて、そこに少しでも人間の血の色がすいて見えるやうでは、脅迫状は
落第なのです。


この世に生命を生み出す女つて、何てふしぎなものでせう。世の中でいちばん平凡なことが、
いちばん奇跡的なのだ。


女の人は、肉体的なことしかわからないのではありませんか?


西洋人はすべて社交馴れしてゐますから、社交は、建て前が大切だといふ第一原則を守ります。
招待を断わるには、「のがれがたい先約があつて」といふ理由だけで十分で、その内容を
説明する必要はありません。たとひ、ひと月前、ふた月前の招待であつても、さういふ理由で
かまひません。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

103:無名草子さん
11/03/10 13:38:19.72 .net
男が「結婚してくれ」と言ふときには、彼のはうに、彼女を迎へ入れるに足る精神的物質的
社会的準備が十分整つてゐるのが理想的です。


人生は一つの惰性なのかもしれません。


恋愛にとつて、最強で最後の武器は「若さ」だと昔から決まつてゐます。
ともすると、恋愛といふものは「若さ」と「バカさ」をあはせもつた年齢の特技で、
「若さ」も「バカさ」も失つた時に、恋愛の資格を失ふのかもしれませんわ。


人間はいくつになつても感傷を心の底に秘めてゐるものですが、感傷といふのは
Gパンみたいなもので、十代の子にしか似合はないから、年をとると、はく勇気がなくなる
だけのことです。


本当に死ななくても、愛しあふ恋人同士は毎晩心中してゐるのだと思ひます。


僕は演劇は民衆の心に訴へかけ、民衆の魂に火をつけるのでなくては意味がないと思ひます。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

104:無名草子さん
11/03/10 15:01:06.27 .net
三島由紀夫のどこがいいの?インテリぶった文学馬鹿が称賛してるだけじゃねえの
スレリンク(news板)l50


105:無名草子さん
11/03/10 23:37:22.15 .net
あらゆる投書狂、身の上相談狂は自分の告白し、あるひは主張してゐることについて、
内心は、本当の解決など求めてゐはしませんし、また何かの解決を暗示されても、それを
心から承服したりはしません。


この身の上相談の女性もさうですが、世間の人はだれでも、彼女のことに関心を持つて
くれるのが当たり前だ、といふ錯覚におちいつてゐます。
私たちには、何もそんな関心を持つ義務はないのだし、未知の人が死んでも生きても、
別に興味はないのですが、彼女は、自分に対する熱烈な興味は、他人も彼女に対して
同じやうに持つはずだと信じてゐる。


身の上相談の手紙は一見、内容がどれほど妥当でも、全部がこのまちがつた思ひ込みの上に
築かれたお城なのですから、もし彼女がこの基本的な思ひちがひに気がつけば、ほかの
あらゆる人生問題は片づくかもしれないのに、永遠にそこに気がつかないといふところに、
大悲劇があるのです。
つまり、見知らぬ他人に身の上相談なんかするといふ行動それ自体に、彼女の人生を
悩み多くする根本原因がひそんでゐるといへませう。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

106:無名草子さん
11/03/10 23:37:46.49 .net
ヒステリーの女は絶対に、自分のヒステリーは自分のせゐぢやないと信じてゐるわ。


子供を重荷と感じて、自分たちの自由と快楽をいつまでも追はうとするのは、末期資本主義的
享楽主義に毒された哀れな奴隷的感情だと思ふんだ。


だれでも、自分とまつたく同じ種類の人間を愛することはできませんものね。


罪もない相手を悲境に陥れるといふのは、一見、悪魔的ふるまひとも思へますが、もともと
恋に善悪はない。


自分の感情にそむいては、何ごとも成功するものではありません。

テレビでいちばん美しいのは、やつぱり色彩漫画で、宇宙物なんかの色のすばらしさは、
ディズニー・ランドそつくりですが、ディズニーはなんで死んだのでせう。


こんなことを言つてるとキチガヒみたいだけど、テレビばつかり見てると、どうしても
世界中のことがみんな関係があるやうな気がしてきます。テレビの前で食べてる甘栗は、
中共から輸入されたものだらうし、君の妊娠だつて、思はぬことで、何か世界情勢と
関係があるかもしれません。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

107:無名草子さん
11/03/10 23:38:09.90 .net
大体、頭のいい友だちを求める人たちは、よほど頭がわるい連中なんだわ。心を打ち明け合つて
安心なのは、それによつて相手が、はじめてバランスがとれたと感じるやうな友だちなのだわ。
といふのは、頭のよい友だちはふだんから頭で優越感を持つてゐるところへ、そんな告白を
きかされて、感情でも優越感を持つてしまふでせうに、頭のわるい友だちなら、ふだんの
知的な劣等感を感情の優越感で補はれたと思つて、うれしがるでせう。うれしがつて本当に
心からの親切を尽くすでせう。さういふ友だちが大切なのだわ。


恋は愉しいものではなくて、病気だわ。いやな、暗い発作のたびたびある、陰気な慢性の
病気だわ。恋が生きがひだなんていふ人がゐるけれど、とんでもないまちがひで、悪だくみの
はうが、ずつと生きがひを与へてくれます。恋が愉しいなんて言つてゐる人は、きつと
ひどく鈍感な人なのでせう。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

108:無名草子さん
11/03/10 23:38:35.40 .net
何かほしいときだけ甘つたれてくる猫たちの媚態は、あまりにも無邪気な打算がはつきり
してゐて、かはいらしい。
男は別に人格者の女を求めるわけではなく、人間のもろもろの悪徳が、小さな、かはいらしい
ガラス張りの箱の中に、ちんまりと納まつてゐるのを見るのが、安心であり、うれしくもあり、
かはいらしくもある。そこが男の愛の特徴です。


他人の幸福なんて、絶対にだれにもわかりつこないのです。


私は手紙の第一要件だけを言つておきたい。
それは、あて名をまちがひなく書くことです。これをまちがへたら、ていねいな言葉を
千万言並べても、帳消しになつてしまひます。

姓名を書きまちがへられるほど、神経にさはることはありません。

三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

109:無名草子さん
11/03/10 23:39:09.48 .net
手紙を書くときには、相手はまつたくこちらに関心がない、といふ前提で書きはじめ
なければいけません。これがいちばん大切なところです。
世の中を知る、といふことは、他人は決して他人に深い関心を持ちえない、もし持ち得ると
すれば自分の利害にからんだ時だけだ、といふニガいニガい哲学を、腹の底からよく
知ることです。


手紙の受け取り人が、受け取つた手紙を重要視する理由は、
一、大金
二、名誉
三、性欲
四、感情
以外には、一つもないと考へてよろしい。このうち、第三までははつきりしてゐるが、
第四は内容がひろい。感情といふからには喜怒哀楽すべて入つてゐる。ユーモアも入つてゐる。
打算でない手紙で、人の心を搏つものは、すべて四に入ります。


世の中の人間は、みんな自分勝手の目的へ向かつて邁進してをり、他人に関心を持つのは
よほど例外的だ、とわかつたときに、はじめてあなたの書く手紙にはいきいきとした力が
そなはり、人の心をゆすぶる手紙が書けるやうになるのです。

三島由紀夫42歳「三島由紀夫のレター教室」より

110:無名草子さん
11/03/14 13:16:46.30 .net
当の娘の父親にとつては、この世に一般論などといふものはあるべきではなかつた。心の奥底で
娘を手離したくないと思つてゐる父親の気持から、オールド・ミスにならぬうちに誰かに
早く呉れてやりたいと思つてゐる父親の気持まで、無数のニュアンスの連鎖があつて、
どこからが一般論で、どこからがさうでないとは云へなかつた。又、見様によつては、
世の父親のすべての心には、右の両極端の二つの気持が、それぞれの程度の差こそあれ、
混在してゐる筈であつた。


怖ろしい巨犬には、正面から向つて行けばいいのである。


あまり完璧に見える幸福に対して、人は恐怖を抱かずにはいられないものなのであらうか?


僕はね、君を百パーセント幸福にして上げたいと思ふと、いろんなことを考へだして、
気むづかしくなつてしまふんだ。一種の完璧主義者なんだな。……人間の心といふ奴は、
とにかく、善意だけではどうにもならん。善意だけでは、……人生を煩はしくするばかりだと
わかつてゐてもね。

三島由紀夫「夜会服」より

111:無名草子さん
11/03/14 13:17:04.16 .net
人間は誰でも、(殊に男は)自然にこれこれの人物になるといふものではない。目標があり、
理想像があればこそ、それに近づかうとするのである。


幸福といふものは、そんなに独創的であつてはいけないものだ。幸福といふ感情はそもそも
排他的ではないのだから、みんなと同じ制服を着ていけないといふ道理はないし、同じ種類の
他人の幸福が、こちらの幸福を映す鏡にもなるのだ。


隔意を抱くといふことは淋しいことである。しかも、愛情のために隔意を抱くといふことは、
まるで愛するために他人行儀になるやうなもので、はじめから矛盾してゐる。


結婚とは、人生の虚偽を教へる学校なのであらうか。


現代では万能の人間なんか、金と余裕の演じるフィクションにすぎないんだ。


人間つて誰でも、自分の持つてゐるものは大切にしないのぢやないかしら。
…誰でも、手に入れたものは大したものだと思はなくなる傾きがあるのぢやないかしら。

三島由紀夫「夜会服」より

112:無名草子さん
11/03/14 13:17:23.95 .net
あなたは女がたつた一人でコーヒーを呑む時の味を知つてゐて?
今に知るやうになるわ。お茶でもない、紅茶でもない、イギリス人はあまり呑まないけれど、
やはりそれはコーヒーでなくてはいけないの。それはね、自分を助けてくれる人はもう
誰もゐない、何とか一人で生きて行かなければ、といふ味なのよ。
黒い、甘い、味はひ、何だかムウーッとする、それでゐて香ばしい味、しつこい、
諦めの悪い味。……それだわ、私が本当にコーヒーの味を知つたのは、俊男が結婚してから
はじめてだつたの。それまではコーヒーの味がわからなかつた。主人が亡くなつたあとでもね。
一人で生きなければ、とたえず背中から圧迫されたり激励されたりしてゐるやうな感じつて
わかつて? 誰かの手がいつも自分の背中を、はげますやうに叩いてゐる。あんまり
うるさいから、背中へ手をのばしてつかまへてやると、それが何と自分の手なんだわ。

三島由紀夫「夜会服」より

113:無名草子さん
11/03/14 13:17:49.23 .net
さびしさ、といふのはね、絢子さん、今日急にここへ顔を出すといふものではないのよ。
ずうーつと、前から用意されてゐる、きつと潜伏期の大そう長い、癌みたいな病気なんだわ。
そして一旦それが顔を出したら、もう手術ぐらゐでは片附かないの。
私、何で自分がさびしいのか、その理由を探さなくては気がちがひさうだつた。あなた方の
結婚が、はつきりその理由を与へてくれたやうに思ひ込んでしまつた。でも、私つてバカなのね。
さびしさの本当の深い根は自分の中にしかないことに気がつかなかつたの。
鳥のゐない鳥籠は、さびしいでせう。でも、それを鳥籠のせゐにするのはばかげてゐるわね。
鳥籠をゴミ箱へ捨ててもムダといふものね。鳥がゐないことには変りがないんですから。

三島由紀夫「夜会服」より

114:無名草子さん
11/03/14 13:18:38.16 .net
でも、何十年も先、あなたもきつと同じさびしさを味はふだらうと思ふと、少しは埋め合せが
つく気がする。それは女といふものの引きずつてゐる影みたいなものなんですよ。女は、
いつかそのさびしさに面と向かはなければならないの。男の人とちがつて、女は人のゐない
野原みたいなものを自分の中に持つてゐる。男は、その野原の上を歩いて、悲壮がつて、
孤独だ孤独だなんて言つてゐるにすぎない、と思ふのよ。
いつか、あなたも、私の言つたことを思ひ出すことがあると思ふわ。たとへば、障害を
跳び越えてほつとしたあと、うれしいと思ふ気持のあひだにも、ずつとさびしさが、
一本の道のやうに、向かうへずつとつづいてゐるのを見ることがあると思ふわ。
はじめ、それは幻みたいに見えるの。でもいづれその幻が現実になるのよ。

三島由紀夫42歳「夜会服」より

115:無名草子さん
11/03/17 11:07:52.88 .net
世界が意味があるものに変れば、死んでも悔いないといふ気持と、世界が無意味だから、
死んでもかまはないといふ気持とは、どこで折れ合ふのだらうか。


死体つて、何だか落ちてこはれたウイスキーの瓶みたいぢやないか。こはれれば、中身が
流れ出すのは当たり前だ。


あの美しい欅の梢が、夕空の仄青い色を、精妙無類に、丁度夕空へ投げかけた投網のやうに
からめ取つてゐるのは、そもそも何故だらう。自然は何でこんなに無用に美しく、人間は
何でこんなに無用に煩はしいのだらう。


これからはもう物事をあんまり複雑に考へるのは止しになさるんですね。人生も政治も案外
単純浅薄なものですよ。もつとも、いつでも死ねる気でなくては、さういふ心境には
なれませんがね。生きたいといふ欲が、すべて物事を複雑怪奇に見せてしまふんです。

三島由紀夫「命売ります」より

116:無名草子さん
11/03/17 11:08:13.88 .net
自殺……。
そこまで考へると、彼は何か知れず、精神的な吐き気を感じた。
一度失敗してゐるだけに、自殺だけは、どう考へても億劫な気がした。折角自堕落な
いい気持になつてゐるときに、つい目と鼻の先にあるタバコをとりに立つ気がどうしてもしない。
十分タバコを喫みたい気はあるのだが、ここから手をのばしても届かないことのわかつて
ゐるタバコをとりに立つことが、何だか故障した自動車の後押しをたのまれるほど、
しんどい仕事に思はれる。それがつまり自殺なのだ。


羽仁男は今の今まで休養するつもりだつたのが、また、をかしなものに巻き込まれ
かかつてゐる自分を感じた。世界は多分雲形定規のやうな形をしてゐるのだらう。地球が
球形だといふのはおそらく嘘なのだ。それは、一つの辺がいつのまにか妙にひねくれて
内側へ曲つてゐたり、かと思ふと、まつすぐな一辺が突然断崖絶壁になつたりするのである。
人生が無意味だ、といふのはたやすいが、無意味を生きるにはずいぶん強力なエネルギーが
要るものだ、と羽仁男はあらためて感心した。

三島由紀夫「命売ります」より

117:無名草子さん
11/03/17 11:08:31.11 .net
多分、羽仁男のやうな男は、一つのことからのがれても、また別の「同類」に会ふやうに
運命づけられてゐるのかもしれない。孤独な人間はお互ひの孤独を、犬のやうにすぐ
嗅ぎわけるのだ。


無意味はヒッピーたちの考へるやうな形で人間を犯して来るのでは決してない。それは絶対に、
新聞の活字がゴキブリの行列になつてしまふ、ああいふ形で来るのだ。


シャム猫の鼻先に、シャベルでミルクをやつて、呑まうとするとシャベルをはね上げて、
猫の顔をミルクだらけにしてしまふこと。
彼の空想裡できはめて重要だと思はれたこの儀式は、日本の政治経済すべてにとつても
重要なのにちがひなかつた。つまり、一国の閣議はさうしてはじまるべきだつたし、
安保条約問題もさうして解決されるべきだつた。一匹の高慢ちきな猫の、思ひもかけぬ
不面目によつて、われわれは、猫を飼つてゐるといふことの意味を、よくよく知ることが
できるのだ。

三島由紀夫「命売ります」より

118:無名草子さん
11/03/17 11:08:54.23 .net
つまり、羽仁男の考へは、すべてを無意味からはじめて、その上で、意味づけの自由に
生きるといふ考へだつた。そのためには、決して決して、意味ある行動からはじめては
ならなかつた。まづ意味ある行動からはじめて、挫折したり、絶望したりして、無意味に
直面するといふ人間は、ただのセンチメンタリストだつた。命の惜しい奴らだつた。
戸棚をあければ、そこにすでに、堆(うづたか)い汚れ物と一緒に、無意味が鎮座して
ゐることが明らかなとき、人はどうして、無意味を探究したり、無意味を生活したりする
必要があるだらう。


人の命を買ふ人間、しかもそれを自分のために使はうといふ人間ほど、不幸な人間はない。


何の組織にも属さないで、しかも命を惜しまない男もゐるといふことを知らなくちやいかん。
それはごく少数だらう。少数でも必ずゐるんだ。


命を売るのは君の勝手だよ。別に刑法で禁じてはゐないからね。犯人になるのは、命を買つて
悪用しようとした人間のはうだ。命を売る奴は、犯人ぢやない。ただの人間の屑だ。
それだけだよ。

三島由紀夫43歳「命売ります」より

119:無名草子さん
11/03/18 13:02:39.52 .net
戦後の頽廃は、すでに戦時中銃後に兆してゐたのだ。戦後のあのもろもろの価値の顛倒は、
卑怯者の平和主義は、尻の穴より臭い民主主義は、祖国の敗北を喜ぶユダヤ人どもの陰謀は、
共産主義者どもの下劣なたくらみは、悉くその日に兆してゐたのだ。ああ、金色の
ヴァルハラの広場に、ヴァルキュリーたちによつて運ばれた、気高い戦場の勇士たちの
亡骸は、ひとたび霊に目ざめるや、祖国ドイツのこの有様をのぞみ見て、いかに万斛の涙を
流したことであらう。楯の格天井、鎧の椅子は、卓上の焔に照り映えて、悲嘆の響きを
鏘然(さうぜん)と高鳴らせたことであらう。


もう貧血症の、屁理屈屋の教授連は一切要らん。銃一つ持てないほど非力だから、我身
可愛さにヒステリックな平和主義の叫びをあげる、きんたまを置き忘れたインテリは一切要らん。
少年に向つて亡国の教へを垂れ、祖国の歴史を否定し歪曲する非国民教師どもは一切要らん。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

120:無名草子さん
11/03/18 13:02:56.98 .net
レーム:…俺は、お前が腐敗と反動の後釜を継ぐのには反対だぞ。折角俺たちの力で一新した
この新らしいドイツを裏切つて、買弁資本家やユンカー一族、保守派の老いぼれ政治家や
老いぼれ将軍、将校クラブで俺を鼻であしらつた貴族出身の無能な士官たち、革命や
民衆のことを一度も考へたことのないあの様子ぶつたプロシア国軍の白手袋たち、朝から
ビールとじやがいものおくびをしてゐる布袋腹のブルジョアども、官僚といふあの
マニキュアをした宦官ども、……あんな連中の上にのつかつて、あんな連中にへいこらしながら、
シーソオ・ゲームに憂身をやつして、お前が大統領になるなら反対だぞ。断乎として反対だぞ。
俺が腕づくででも止めてみせる。
ヒットラー:エルンスト!
レーム:きけ。俺はお前に大統領になつてほしいと思つてゐる。心からさう思つてゐる。
しかし、それには力を協せて、この腐つた土地の上のごみ掃除をやつてのけてからだ。
軍部が何だ。口だけではおどしをきかせるが、軍服の中身はからつぽの、あんな金ぴかの
案山子(かかし)のどこが怖い。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

121:無名草子さん
11/03/18 13:03:20.95 .net
クルップ:雨になつたやうだ。
ヒットラー:大した雨ではない。妙なことだ。私が演説をしたあとではきつと雨になる。
クルップ:君の演説が雲を呼ぶのだらう。
ヒットラー:雨が広場を黒く濡らした途端に、どのベンチからも人影が消えてしまつた。
何といふ無趣味ながらんとした広場だらう。人つ子一人ゐない。ついさつきまでここを
群衆が埋めて、とどろく歓声と拍手で熱してゐたとはとても思へない。演説のあとの
広場といふものは、発作のあとの狂人の空白のまどろみのやうだ。どこまで行つても
人間は人間を傷つける。どんな権力の衣にも縫目があつてそこから虱が入る。クルップさん、
絶対に誰からも傷つけられない、どこにも縫目も綻びもない、白い母衣(ほろ)のやうな
権力はないものですかね。
クルップ:なければ君が誂へたらよい。
ヒットラー:あなたがその仕立屋になつてくれませんか。
クルップ:それには寸法をとらなくてはね。ヒットラー:どうでした?
クルップ:残念ながら、まだちと寸法が足りないやうだ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

122:無名草子さん
11/03/18 13:03:39.78 .net
クルップ:仕立屋といふのは慎重なもんだよ、アドルフ。仕払つてもらふ宛てがなければ、
おいそれと着物も仕立てられない。仕立ててあげたいのは山々だが、寸が足りなくては
芸術的満足が得られない。それに仕立ててあげたものを、快適に着てもらはなくては
つまらない。ゆるやかに、楽々と、まるで着てゐるかゐないか本人にもわからぬやうな、
そんな着方をしてもらはなくては。……私は窮屈なチョッキは上げたくない。狂人に
狭窄衣を着せるのとはちがふんだから。
ヒットラー:もし私が狂人だとしたら……
クルップ:私も何度かさういふ経験を持つてゐる。自分を狂人だと思はなければとても
耐へられぬ、いや、理解すらできない瞬間にぶつかる場合は……
ヒットラー:さういふ場合は?
クルップ:自分ではない他人をみんな狂人だと思へばよいのだ。


ヒットラー:クルップさん、ひとつ私に狂人用の窮屈なチョッキを誂へてくれませんか、
両手を拘束されて人を傷つけることはできないが、又決して人から傷つけられることもないやうな……

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

123:無名草子さん
11/03/19 11:48:23.43 .net
レーム:…生れ落ちてから薬や医者には縁のない、永遠の若い鋼の体、このレーム大尉の
体が病気になるつて?
ヒットラー:だから……
レーム:誰がそんなことを信ずるものか。俺を傷つけることができるのは弾丸だけさ。
といふよりは俺の体の鋼鉄が、いつか俺を裏切つて、同じ仲間の鉄の小さな固まりを、
俺の体内へおびき寄せるとき。さうだ、鉄と鉄とが睦み合ふために、引寄せ合つて
接吻するとき、そのときだけだ、俺が倒れるのは。しかしそのときも、俺が息を引取るのは
ベッドの上ではない。
ヒットラー:さうだな、勇敢なエルンスト、いくら大臣になつても、お前はベッドの上で
死ぬやうな男ではない。しかし、ともあれ、お前は仮病を使つて、声明書と共にその旨を
発表するのだ。一、二ヶ月の療養ののち、再起と共に突撃隊を以前よりも精鋭な軍隊に
叩き上げると約束するのだ。
レーム:しかし誰がそれを信じる。
ヒットラー:信じられないからこそ、隊員みんなは信じるだらう。つまり、こいつは、
よほど已むを得ない事情だといふことを。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

124:無名草子さん
11/03/19 11:48:41.94 .net
レーム:…書類を喰つて生きのびた年寄の山羊どもが、首を長くしてお前の餌を待つてゐる。
お前はサインをのたくつて日々をすごす。剣を揮ふ腕の力は見捨てられたままになつてゐる。
権力とは何だ。力とは何だ。それはただサインをする蒼ざめた指さきの細い細い筋肉の
運動にすぎなくなつたのだ。
ヒットラー:それ以上は言はなくてもわかつてゐる。
レーム:だから、友よ、だから言ふのだ。お前の権力がその指さきの運動にではなく、
遠くからお前の一挙一動を憧れの眼差で見戍つて、素破といふときはためらひなく命を
投げ出す覚悟の若者たちの、逞しい腕の筋肉にあることを忘れるな。どんなに行政機構の
森深く踏み迷つても、最後に枝葉を伐つて活路を見出すには、夜明けの色の静脈と共に
敏感に隆起する力瘤だけがたよりなのだ。どんな時代にならうと、権力のもつとも深い
実質は若者の筋肉だ。それを忘れるな。少なくともそれをお前のためにだけ保存し、
お前のためにだけ使はうとしてゐる一人の友のゐることを忘れるな。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

125:無名草子さん
11/03/19 11:48:59.97 .net
ヒットラー:レームが羊ですつて? あいつがきいたらどんなに怒るか。
クルップ:羊でなくても、レーム君が抱いてゐるのは群の思想さ。さうではないかね。
しかしレーム君と別れたあとの、君の暗い額にひらめいたのは、羊でもなければ牧羊犬でもない。
それこそ嵐そのもの、さう言つては持ち上げすぎなら、暗くはためく嵐の予兆そのもの
だつたのだ。峯々を稲妻の紫に染め、世界を震撼させ、人々の活きた魂を電流をとほして
一瞬のうちに、黒い一握の灰に変へてしまふ、あの嵐の兆そのものだつた。君はおそらく
自分ではさう感じはしなかつたらう。
ヒットラー:あのとき、私は怖れてゐた。迷つてゐた。悲しんでゐた。それだけです。
クルップ:人間の感情を持つてゐることを、いくら総理大臣だつて恥ぢるには及ばない。
ただ、人間の感情の振幅を無限に拡大すれば、それは自然の感情になり、つひには摂理になる。
これは歴史を見ても、ごくごくわづかな数の人間だけにできたことだ。
ヒットラー:人間の歴史ではね。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

126:無名草子さん
11/03/19 11:49:15.21 .net
シュトラッサー:…歌はもうあの鋭い清らかな悲鳴と共通な特質を失つてしまつたのです。
死者の目に映る遠い青空は、変革の幻であつたのに、今、青空は洗濯の盥の水にちりぢりに
砕けてしまつた。あらゆる煙草は、耐へがたい訣別の甘いしみとほるやうな味をなくして
しまつた。
(中略)
どこかで遠い昔に嗅ぎ馴れた腐敗の匂ひ、落葉のなかで、猟犬が置き忘れた獲物の鳥が
腐つてゆくときの、森の縞目の日光をかすかに濁らすやうな独特な匂ひ。いたるところで、
その腐敗の匂ひが、人々の指先の感覚を、癩病やみのやうに鈍麻させてゆく。かつて
闇のなかで道しるべの火のやうに敏感に方角を知らせた指は、今では小切手に署名をするのと、
女の体をこじあけるのにしか使はれなくなつた。脱落、脱落、目に見えない透明な日々の脱落、
この感覚を、レーム君、君だつてつぶさに味はつて来た筈だ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

127:無名草子さん
11/03/19 11:49:32.45 .net
シュトラッサー:もう一度革命をやらなければならぬ、と君が考へてゐることを私は知つてゐる。
ところで、私も、もう一度革命をやらなければならぬ、と考へてゐる。二人で話し合ふ
話題には、事欠かぬ筈ぢやないか。
レーム:しかし、方法がちがふ。目的もちがふ。
シュトラッサー:鏡をのぞいてみるやうに、君の右は私の左だ。しかし私の右は君の左だ。
だから却つて鏡を打ち破れば、われわれはぴつたり合ふかもしれないのだ。


シュトラッサー:君はすでに病気になつたのだらう、さつきも言つてゐたやうに。
信頼といふ病気にかかつたのだ。
レーム:殺されるのか、処刑されるのか。
シュトラッサー:おそらくその両方だらう。君は拷問に耐へる自信があるか?
レーム:誰があんたをそんなひどい目に会はさうといふんだね、心配性の弱虫君。言つて
ごらん、そいつの名を言ふのが怖いのかね。言つただけで呪ひがかかるとでもいふのかね。
シュトラッサー:アドルフ・ヒットラー。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

128:無名草子さん
11/03/19 11:53:10.75 .net
レーム:…友愛、同志愛、戦友愛、それらもろもろの気高い男らしい神々の特質だ。
これなしには現実も崩壊する。従つて政治も崩壊する。アドルフと俺とは、現実を
成立たせるこの根本のところでつながつてゐるんだ。おそらくあんたの卑しい頭では
わかるまい。
われわれの住むこの地表はなるほど固い。森があり、谷があり、岩石に覆はれてゐる。
しかしこの緑なす大地の底へ下りてゆけば、地熱は高まり、地球の核をなす熱い
岩漿(マグマ)が煮え立つてゐる。この岩漿こそ、あらゆる力と精神の源泉であり、この
灼熱した不定形なものこそ、あらゆる形をして形たらしめる、形の内側の焔なのだ。
雪花石膏(アラバスター)のやうに白い美しい人間の肉体も、内側にその焔を分ち持ち、
焔を透かして見せることによつてはじめて美しい。シュトラッサー君、この岩漿こそ、
世界を動かし、戦士たちに勇気を与へ、死を賭した行動へ促し、栄光へのあこがれで
若者の心を充たし、すべて雄々しい戦ふ者の血をたぎらせる力の根源なのだ。

三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

129:無名草子さん
11/03/19 11:53:35.46 .net
ヒットラー:…いつかあなたは言はれましたね。自分自身を嵐と感じることができるか
どうか、つて。それは何故自分が嵐なのかを知ることです。なぜ自分がかくも憤り、なぜ
かくも暗く、なぜかくも雨風を内に含んで猛り、なぜかくも偉大であるかを知ることです。
それだけでは十分ではない。なぜかくも自分が破壊を事とし、朽ちた巨木を倒すと共に
小麦畑を豊饒にし、ユダヤ人どものネオンサインにやつれ果てた若者の顔を、稲妻の閃光で
神のやうに蘇らせ、すべてのドイツ人に悲劇の感情をしたたかに味はせようとするのかを。
……それが私の運命なのです。


ヒットラー:あの銃声が、クルップさん、ドイツ人がドイツ人を射つ最後の銃声です。……
これで万事片附きました。
クルップ:さうだな。今やわれわれは安心して君にすべてを託することができる。
アドルフ、よくやつたよ。君は左を斬り、返す刀で右を斬つたのだ。
ヒットラー:さうです。政治は中道を行かなければなりません。

三島由紀夫43歳「わが友ヒットラー」より

130:無名草子さん
11/03/20 17:04:17.90 .net
この世の絶頂の倖せが来たとき、その幸福の只中でなくては動かぬ思案があるのです。
その思案は波間をかすめる太刀魚の背鰭のやうに、幸福の海へ舟出をしてゐる時でなくては
見えないのです。


一つの建築が一つの夢になり、一つの夢が一つの現実になる。さうやつて巨大な石と
おぼろげな夢とは永遠の循環をくりかへすのだ。


今の王様にとつては、ただこのお寺の完成だけがお望みなのだ。そしてお寺の名も、
共に戦つて死んだ英霊たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様は
あの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう。


この世のもつとも純粋なよろこびは、他人のよろこびを見ることだ。

三島由紀夫「癩王のテラス」より

131:無名草子さん
11/03/20 17:04:44.57 .net
私の前にはただ闇があるだけ。色もない。形もない。死も私にははじめて会つたやうな
気がしないだらう。なぜならそれは、この世と一トつづきの闇に他ならぬからだ。


精神は必ず形にあこがれる。


崩れたもの、形のないもの、盲ひたもの、……それは何だと思ふ。それこそは精神のすだただ。
おまへが癩にかかつたのではない。おまへの存在そのものが癩なのだ。精神よ。おまへは
生れながらの癩者だつたのだ。


何かを企てる。それがおまへの病気だつた。何かを作る。それがおまへの病気だつた。
俺の舳(みよし)のやうな胸は日にかがやき、水は青春の無慈悲な櫂でかきわけられ、
どこへも到達せず、どこをも目ざさず、空中にとまる蜂雀のやうに、五彩の羽根をそよがせて、
現在に羽搏いてゐる。俺を見習はなかつたのが、おまへの病気だつた。


青春こそ不滅、肉体こそ不死なのだ。……俺は勝つた。なぜなら俺こそがバイヨンだからだ。

三島由紀夫44歳「癩王のテラス」より

132:無名草子さん
11/04/08 12:06:49.22 .net
若い世代は、代々、その特有な時代病を看板にして次々と登場して来たのであつた。彼らは一生のうちには必ず
癒つて行つた。(と言つても、カルシウムの摂取で病竃を固めてしまつただけのことだが)しかしここに不治の病を
持つた一世代が登場したとしたら、事態はおそらく今までの繰り返しではすまないだらう。その不治の病の名は
「健康」と言ふのであつた。
(中略)
われわれの世代を「傷ついた世代」と呼ぶことは誤りである。虚無のどす黒い膿をしたたらす傷口が精神の上に
与へられるためには、もうすこし退屈な時代に生きなければならない。退屈がなければ、心の傷痍は存在しない。
戦争は決して私たちに精神の傷を与へはしなかつた。
のみならず私たちの皮膚を強靭にした。面の皮もだが、おしなべて私たちの皮膚だけを強靭にした。傷つかぬ魂が
強靭な皮膚に包まれてゐるのである。不死身に似てゐる。

三島由紀夫「重症者の兇器」より

133:無名草子さん
11/04/08 12:08:11.28 .net
(中略)
「芸術」といふあの気恥かしい言葉を、とりわけ作家・批評家にとつてはタブウであるらしいあの言葉を、
臆面もなくしやあしやあと素面で口にするといふ芸当は、われわれ面の皮の厚い世代が草始することになるだらう。
作家は含羞から、批評家は世故から、芸術だの芸術家だのといふ言葉をたやすく口にしなかつた。彼らは素朴な
観念といふものが人を裸かにすることを怖れるあまり、却つてその裏を掻いて、素朴な観念ほど人間の本然の
裸身を偽るものはないといふ教説を流布させた。
「芸術」とは人類がその具象化された精神活動に、それに用ひられた「手」を記念するために与へた最も素朴な
観念である。しかしこの言葉はタブウになると、それは「生」とか「生活」とか「社会」とか「思想」とかいふ
さまざまな言替の言葉で代置された。これらの言葉で人は裸かになりえたか。なりえない。何故なら彼等は
これらの言葉が、この場合、代置としてのみ意味を持たらしめてゐることに気附いてゐないのだから。それに
気附きつつそれに依つた真の選ばれた個性は、日本ではわづかに二三を数へるのみである。

三島由紀夫「重症者の兇器」より

134:無名草子さん
11/04/08 12:09:35.09 .net
私はそのやうな選ばれた人々のみが歩みうる道に自分がふさはしいとする自信をもたない。だから傷つかない魂と
強靭な皮膚の力を借りて、「芸術」といふこの素朴な観念を信じ、それをいはゆる「生活」よりも一段と高所に置く。
だからまた、芸術とは私にとつて私の自我の他者である。私は人の噂をするやうに芸術の名を呼ぶ。それといふのも、
人が自分を語らうとして嘘の泥沼に踏込んでゆき、人の噂や悪口をいふはづみに却つて赤裸々な自己を露呈する
ことのあるあの精神の逆作用を逆用して、自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。
これは、西洋中世のお伽噺で、魔法使を射殺するには彼自身の姿を狙つては甲斐なく、彼より二三歩離れた林檎の
樹を狙ふとき必ず彼の体に矢を射込むことができるといふ秘伝の模倣でもあるのである。―端的に言へば、
私はかう考へる。(きはめて素朴に考へたい)生活よりも高次なものとして考へられた文学のみが、生活の真の
意味を明かにしてくれるのだ、と。

三島由紀夫23歳「重症者の兇器」より

135:無名草子さん
11/04/08 20:04:47.37 .net
菊五郎が創造したのは一種の近代歌舞伎であり、写実主義歌舞伎であつた。しかしその写実主義は根本的に
伝統的な物真似芸の深化あるひは象徴化であつて、大根(おおね)は近代的でも何でもない。こんなことを言ふと
インテリ歌舞伎俳優から抗議が出さうだが、歌舞伎役者の近代性などタカが知れてゐるのだ。近代趣味の
インテリ集団の文壇からだつて、本当の近代文学など出てゐやしない。安心していい。
おそれるのは若手俳優が企てる歌舞伎の浅墓な近代化だ。菊五郎の近代歌舞伎は、歌舞伎に適しない彼の容姿の
ハンディキャップから生れたといつてもいいのだ。菊五郎が育つて来た時代にはまだ本物の歌舞伎・本物の
錦絵役者が生きてゐた。この対抗手段として聡明な六代目は芸を心理の内面へ向けた。しかし歌舞伎の本質は
様式美を措いてはない。彼は心理の裏附けに物真似芸を広め深めて、様式を今一歩普遍化し内面化したのである。
だから六代目の芸と新劇の演技との間には、量の差ではない、範疇の差があるのである。

三島由紀夫「歌舞伎評 歌舞伎の近代性とは?」より

136:無名草子さん
11/04/08 20:05:20.43 .net
今や若手(といつたつて四十代も何人かゐるのだが)俳優諸君は、抵抗を感じるべき対象をもつてゐない。
錦絵役者は死に絶え、歌舞伎の古色は滅びてしまつた。ここで諸君が六代目の道を行くならそれは坦々たる
アスファルトで目をつぶつてゐてもドライヴができる。菊五郎が切り拓いたやうな抵抗がないのだ。ここに至つて
諸君の道は一層困難だ。
要は諸君がルネッサンス人になることである。諸君自身が歌舞伎のオルソドックスになつて、諸君自身に対立する
ことだ。この対立に血路を見出だして、その上で本当の新らしさを発見することだ。まづ歌舞伎のあらゆる
愚かしさを諸君自身に課することだ。
歌舞伎の近代化といふはたやすい。しかし浅墓な古典の近代的解釈にだまされるやうなお客は却つて近代人ですら
ないのだ。そんなのはもう古い。イヤサ、古いわえ。

三島由紀夫「歌舞伎評 歌舞伎の近代性とは?」より

137:無名草子さん
11/04/08 20:05:47.00 .net
いま歌舞伎役者でいちばんブロマイドの売れるのは海老蔵ださうだ。
或る時ごつたがへしの地下鉄の中で、偶々銀座から乗つて来た海老蔵と顔をつき合はせた。色は浅黒く、中折帽が
よく似合ふ。この変装ではあまり人に気づかれない。ただこの人の暗い沈鬱な目が舞台のままだつた。大きな目で、
白眼(にら)めば映えもする。隈取にも負けない目である。この目の暗さが舞台に翳を与へるのだ。
出てくると舞台がぱつと明るくなるといふ先代羽左衛門の天賦に似たものを、若い海老蔵にも発見されたのは
岡鬼太郎氏である。成程この九月の彼の富樫はたしかに颯爽たるものだつた。しかし目が容姿の明るさを
裏切つてゐる。ニヒリスティックな目だ。
九月の「忠臣蔵」の勘平では、この暗い目が芝居にリアリティーを与へた。張りのない澱んだ目が勘平の絶望感の
端的な表現となつた。悪戯小僧みたいな松緑の目とは丁度正反対だ。

三島由紀夫「歌舞伎評 市川海老蔵論」より

138:無名草子さん
11/04/08 20:06:18.38 .net
仄聞するところによると、海老蔵は家庭生活に恵まれない人のやうである。立入つた見方をすれば、生活の虚ろさが
目に現はれたやうな感じを受ける。匿名子はむしろこの失礼な予測が当ることを欲する。芸の無気力から来る目の
無気力だと思ひたくないのだ。
美は犠牲の上に成立ち、犠牲を踏まへた生活の必死の肯定によつて維持され育くまれる。もちろんこんな理窟は、
極楽蜻蛉的生涯を送ることのできた古い役者たちには適用しない。しかしこれからの歌舞伎役者は、ある意味で
自分たちの生涯が美の犠牲だといふことを強く意識する必要があると思ふ、芸術家たるの自覚を、六代目みたいに
単に対社会的にばかりでなく自覚する必要がある。この自覚が強烈になれば、海老蔵の目も光りを放ち、清澄な
力あるものになるであらう。

三島由紀夫「歌舞伎評 市川海老蔵論」より

139:無名草子さん
11/04/08 20:07:32.77 .net
「合邦」前半の玉手御前や、「御殿」の八汐は、浄瑠璃作者が創造した性格といふよりは、人形の機巧が必要上
生み出したデスペレエトな怪物であるが、それはもちろん義太夫節の怪物的性格にも懸つてゐる。しかし何といふ
情熱的なエネルギッシュな怪物であらう。類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。
儒教道徳やカソリック道徳の支配下においては、悪は今日よりも、もつと類型的でさうして強烈であつた。それは
反道徳的なもの一切の代表者であつて、人間の完全な1/2であつた。戦後の道徳混乱期の芸術が甚だ弱力なのは、
悪のエネルギーも亦分散して、悪人もまた単に個性の限界を出ないからである。歌舞伎や人形芝居は目もあやな
悪を創造した。「暫」の公家悪の美しさ、「妹背山御殿」の入鹿の美しさを見るがいい。この力がある限り、
歌舞伎や文楽は決して滅びない。

三島由紀夫25歳「歌舞伎評 悪のエネルギー」より

140:無名草子さん
11/04/10 12:00:22.20 .net
新しい人間と新しい倫理とは別のものではないのである。倫理とは彼の翼にすぎぬ。倫理とは彼の生きる方法だ。
方法なしに生きる場合に無倫理と云はれる。しかし厳密な意味での無倫理といふものはない。生そのものが内在的に
一つの方法を負うてゐるからだ。生きようとする時、彼の智慧は既に生きる方法を知つてゐるからである。しかし
単なる「生きようとする意志」―これだけはどうにもならぬ。方法喪失症が意志の美名でよばれてゐる。
これこそ無倫理だ。そして生の擬態にすぎぬそれが、今でも生そのものと間違へられてゐる。
      *
新しい人間と倫理の模索は、或る「原型」の模索を意味してゐるらしい。ゲエテにおいては、それは宇宙の内在
といふやうな原型の模索であつた。それは自我を小宇宙(ミクロコスモス)とする欲求だつた。日本の中世に
おいては、彼の芸術のひろがりに直に接する地点として、もつとも星空に近い場所が、隠者の草庵が選ばれた。
作家が企業家を兼業しようと、大学教授を兼ねようと、この事情にはかはりはない。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より

141:無名草子さん
11/04/10 12:00:54.05 .net
作家がとりうる「新しい道」といふものはなく、彼がなりうる「新しい人間」といふものはない。彼が意図するのは
原型だけだ。原型の模索が芸術家にとつての凡てである。原型の能ふかぎり正確な能ふかぎり忠実な再現、
それが彼のもつ倫理の新しさに他ならぬ。
「新しい人間と新しい倫理」は芸術作品の中にしかありえないのである。しかも作品の中にあらはれた新しい
人間像は、きはめて正確な程度にまで到達された作者の原型の模写に他ならず、各人各様のその到達の方法は、
人間の歴史と共に古いのである。
原型とは芸術家のもつとも非芸術的な欲求の象徴と言つてよいかもしれぬ。原型における芸術家は完全な意味での
「被造物」に化身する。そこには、古代の壁面や紙草に書かれた稚拙な絵画が、その芸術的衝動の源泉を、
「死」に見出だしたのと相似た消息が見られるのである。あらゆる創らうとする欲求の根底の力が、創らうと
する欲求と反対の力なのである。いかなる鋳像も鋳型を求めるのだ。それなしには彼の再生と繁殖はありえず、
しかもそれとの合一の瞬間に彼の存在も亦失はれるところのあの鋳型を。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より

142:無名草子さん
11/04/10 12:01:54.31 .net
      *
単に金儲けの目的で文学をはじめようとする青年たちがゐる。これは全く新しい型だ。君たちの動機の純粋を
私は嘉する。「金のため」―ああ何といふ美しい金科玉条、何といふ見事な大義名分だ。私たちの動機は
それほど純粋ではない。もつと気恥かしい、口に出すのも面伏せな欲求がこんがらかつて私たちを文学へ駆り
立てた。だが私たちだけに言へる種類の皮肉もあるのである。
「金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。私たちは原稿の代償として金を受取るとき、
いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく感じなければならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく
撫でられた狂犬のやうにして」
      *
こいつをうまく両手に捌かうといふ人たちがゐる。一方で出版業その他、一方で芸術。―これも一つの新しい
型だ。しかしその時彼の生活の投影する場所がなくなつてしまふ。両方から等分の照明で照らされた板のやうに。
そこで彼の二重性はその架空の(影なき)二重性のなかで(中略)彼にあの「原型」への意慾(非芸術的な
意慾)が失はれる。彼は「芸術愛好家」になる。

三島由紀夫23歳「反時代的な芸術家」より

143:無名草子さん
11/04/14 12:08:10.84 .net
人間は結局、前以て自分を選ぶものだ。(中略)批評といふものが本質的に自己を選択する能力だと考へると、
批評こそ創造だと言ひ出したワイルドは、彼自身の運命を創造した人間のやうに思はれる。
逆説はその場のがれにこそなれ、本当の言ひのがれにはなりえない。逆説家は逆説で自分を追ひつめ、どどの
つまりは自分自身から言ひのがれの権利をのこらず剥奪してしまふのである。逆説家がしばしばいちばん誠実な
人間であるのはこのためだ。逆説家がいちばん神に触れやすいのもこの地点だ。神は人間の最後の言ひのがれであり、
逆説とは、もしかすると神への捷径だ。(中略)
さまざまな論者がワイルドの逆説のいづれかに引つかかつてゐる。ジイドでさへが。
  大作家ではない、併し大生活家だ。
ジイドはワイルドの回想の主題をここに置いたが、その根拠は、ワイルド自身の苦々しい自己弁護にみちた逆説、
「私は自分の天才のすべてを生活に注いだが、作品には自分の才能しか用ひなかつた」といふ逆説に係つてゐる。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

144:無名草子さん
11/04/14 12:08:39.44 .net
天才(ジェニー)。才能(タラン)。誰がそれを分割することができよう。ジイドは勿論そのことをよく知つてゐた。
そこでワイルドが用法の錯誤と言ひくるめるこの二つの薬品を、ジイドは本質の錯誤と考へて分類した。ジイドは
正直にワイルドの作品に才能をしか見なかつた。しかし私は思ふのだが、ワイルドの悲劇は、この逆説のうちなる
逆説の誠実さにあるのではなからうか。分割したとたんにそのいづれでもなくなるやうな精妙な化合物を、
切れ味みごとに分割しようとして果さなかつた悲劇が。
才能とは決して不完全な天才のことではない。才能と天才は別の元素だ。それにもかかはらず、われわれは
ワイルドの作品のいたるところに不完全な天才を見出だすのである。いはば「ドリアン・グレイの画像」は才能の
足跡で踏みくたされた泥濘だ。しかしその足跡のなかの一対が、天使の足跡でないと誰が言へよう。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

145:無名草子さん
11/04/14 12:08:59.06 .net
(中略)
苦痛は一種のドラマである。人がその欲しないものへ赴くためには、丁度子供が歯医者へゆく御褒美に菓子を
せびるやうに、虚栄心をせびらずにはゐられない。虚栄心はこのドラマの舞台であつて、ワイルドにとつては、
彼の道徳の苗床でもあつたやうに思はれる。
つくづく思ふのだが、ワイルドは悲劇役者として上の部でななかつた。生活の信条としての彼の悲劇への志向は、
浪漫主義詩人のボヘミアン・ライフの卵の殻を背負つてゐた。悲劇の節度も礼譲も、悲劇をして壮麗ならしめる
抑制の苦悩もなかつた。をかしなことだ。彼は数ある苦痛のうち、「抑制の苦痛」だけを知らなかつたのである。
牢獄がはじめて外部からそれを彼に教へた。
「彼の耽美主義はなにか痙攣のやうなものであつた」とホフマンスタールが書いてゐる。ホフマンスタールは
ワイルドの悲壮な戦慄を、現実の復讐を挑戦しつづける男の現実からうける脅威と見てゐる。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

146:無名草子さん
11/04/14 12:09:26.44 .net
(中略)
オスカア・ワイルドはまづもつて卑俗(と謂つてもよからう)な成功の毒に中(あた)つた。それが彼をして
半ばは虚栄心、半ばは持ち前の真摯誠実から、(この二つは彼にとつては同じものだ)、すすんで嫌はれ者の
光栄に憧れさせた。社会はある男を葬り去らうとまで激昂する瞬間に、もつともその男を愛してゐるもので、
これは嫉妬ぶかい女と社会とがよく似てゐる点である。軽業師は観客の興味を要求することに飽き、つひには
恐怖を要求することに苦心を重ねて、死とすれすれな場所に身を挺する。彼が死ぬ。それはもはや椿事だ。
綱渡り師の墜死は、芸当から単なる事件への、おそろしい失墜である。イギリス社会にはとりわけイギリス特産の、
醜聞といふ「死」の一つの様式があつたので、綱渡り師がこの危険に誘惑を感じない筈はないのであつた。
ボオドレエルがカソリシズムの苦悩の教義に照らして眺めた「醜の美」を、すでに人々は何らの痛痒を感ぜずに
炉辺で享楽しはじめてゐたために、人々に嫌はれるためには、むしろ身自ら癩病に罹患する必要があつた。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

147:無名草子さん
11/04/14 12:09:47.05 .net
(中略)
生活とは決して独創的でありえない何ものかだ。ホフマンスタールの忠告にもかかはらず、しかし運命のみが
独創的でありうる。キリストが独創的だつたのは、彼の生活のためではなく、磔刑といふ運命のためだ。もうひとつ
立入つた言ひ方をすると、生活に独創的な外見を与へるのは運命といふものの排列の独創性にすぎない。
(中略)
虚栄心を軽蔑してはならない。世の中には壮烈きはまる虚栄心もあるのである。ワイルドの虚栄心は、受難劇の
民衆が、血が流れるまで胸を叩きつづけるあの受苦の虚栄に似てゐたやうに思はれる。何故さうするか。それが
その男にとつての、ともかく最高度と考へられる表現だからである。ワイルドが彼の詩に、彼の戯曲に、彼の
小説に選択する言葉は、かうした最高度の虚栄であつた。人間の心が通じ合ふための唯一の言葉である音楽を、
師ウォルタア・ペイタアにならつて、芸術の形式上の典型と呼んだワイルドは、また芸術の感情上の典型を俳優に
見出だした。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

148:無名草子さん
11/04/14 12:12:54.32 .net
音楽は詐術ではない。しかし俳優は最高の詐術であり、アーティフィシャルなものの最上である。それは人間の
言葉である台詞が無上の信頼の友を見出だす分野である。
文学者の簡明な定義を私は考へるのだが、それは人間の言葉が絶対に通じ合はぬといふ確信をもちながら、
しかも人間の言葉に一生を託する人種である。この脆弱な観念を信じなければならぬ以上、文学者は懐疑主義者に
なりきれない天分をもつてゐる。
(中略)
ワイルドはその逆説によつて近代をとびこえて中世の悲哀に達した。イロニカルな作家はバネをもつてゐる人形の
やうに、あの世紀末の近代から跳躍することができた。彼は十九世紀と二十世紀の二つの扇をつなぐ要の年に
世を去つた。彼は今も異邦人だ。だから今も新しい。ただワイルドの悪ふざけは一向気にならないのに、彼の
生まじめは、もう律儀でなくなつた世界からうるさがられる。誰ももう生まじめなワイルドは相手にすまい。
あんなに自分にこだはりすぎた男の生涯を見物する暇がもう世界にはない。

三島由紀夫25歳「オスカア・ワイルド論」より

149:無名草子さん
11/04/16 11:46:15.23 .net
河、重い雲、星、対岸の大都会、暮色、灯……さういふ詩的な雰囲気が今の東京には全然ないやうです。
マンチェスタアのやうなマニフェクチュア工業の都会の哀愁は「人間の身すぎ世すぎ」「人間のなりはひ」といふ
ものに対する詩的感情から来てゐるのですね。「商業」それも大規模な商業には、人間の集団とその生活が
もたらす深い暮色の香りがたゞよつてゐるやうな気がします。人間が大勢あつまると暮色がたゞよふのです。
(中略)
戦争中、中島飛行場にゐたときも、僕はガウガウ音をたててゐる工場のなかを歩きまはりながら「インダストリーと
いふ雰囲気にはどこかメランコリックなものがあるね」と時代錯誤的な言草で友達を面喰はせたものでした。(中略)
僕はまた、万国博覧会にリボンをつけた硝子罎に入れて陳列されてゐるさまざまな微細な軽工業の商品見本が
好きでした。それは明治時代の国家資本主義の野暮つたい雰囲気と奇妙にマッチしてゐるなつかしさです。
生糸や鉛筆や、さういふ商品からまことに非実用的な蠱惑を僕は受けてゐたのでした。

三島由紀夫「インダストリー―柏原君への手紙」より

150:無名草子さん
11/04/16 11:46:45.71 .net
野暮くさいレッテル、何とかマッチの大箱のレッテル、小学校の教科書のやうな薄暗い画で飾られたレッテルを
僕は愛しました。そのくせ僕はアド・バルーンやネオン・サインはそれほど好きでもなかつたのです。
詩情をよびおこすものは消費面より生産面のはうが多いのではないかといふ僕のドグマティックな想像を裏書する
よい証拠はないものでせうか。それともそれは消費面に育つた都会児のセンチメンタルな憧れにすぎないのでせうか。
僕はビルディングの窓々にともる灯火よりも、工場街の灯火のはうに、深い郷愁をそそるものがあるのを感じます。
それは正にコムミュニズムとは全く無関係な立場でです。昼のサイレンよりも、工場の作業開始のサイレンのはうが、
何故かしら僕のあこがれる世界に近かつたのです。そこでは又しても暗いどよめきの彼方に、汚れた河口や、
並立つ煙突や、曇つた空や、それらの象徴する漠たる人工の苦悩が聳(そび)え立つてくるのでした。

三島由紀夫23歳「インダストリー―柏原君への手紙」より

151:無名草子さん
11/04/20 16:54:37.94 .net
感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に感じるほどのことを、他人は
自分に感じないといふ認識で軽癒する。(中略)
世間の人はわれわれの肉親の死を毫も悲しまない。少なくともわれわれの悲しむやうには悲しまない。われわれの
痛みはそれがどんなに激しくても、われわれの肉体の範囲を出ない。
感じやすさのもつてゐる卑しさは、われわれに対する他人の感情に、物乞ひをする卑しさである。自分と同じ
程度の感じやすさを他人の内に想像し、想像することによつて期待する卑しさである。感じやすさは往々人を
シャルラタンにする。シャルラタニスムは往々感じやすさの企てた復讐である。
私はまづ自分の文体から感じやすい部分を駆逐しようと試みた。感受性に腐蝕された部分を剪除した。ついで
私の生活に感じやすさから加へられてゐるさまざまの剰余物、こつてりとかけられたホワイト・ソースの如きものを
取り去らうと試みた。私の理想とした徳は剛毅であつた。それ以外の徳は私には価値のないもののやうに思はれた。

三島由紀夫「アポロの杯 航海日記」より

152:無名草子さん
11/04/20 16:55:03.28 .net
ここでは表情自体はあらはで、苦痛の歪みは極度に達してゐる。その苦痛の総和が静けさを生み出してゐるのである。
「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。一定量以上の苦痛が
表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、
どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは
限りもしらないものに思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての苦痛の
不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。この領域にむかつて、画面の
あらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の
高みにまで達してゐない。一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を
ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。

三島由紀夫「アポロの杯 北米紀行 ニューヨーク」より

153:無名草子さん
11/04/22 11:04:42.79 .net
或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。美は自分の秘密をさとられ
ないために、力めて凡庸さと親しくする。その結果、われわれは本当の美を凡庸だと眺めたり、たゞの凡庸さを
美しいと思つたりするのである。
(中略)
記憶はすべて等質だから、夢の中の記憶も現実の記憶と等質のものでしかないこと、その記憶の瞬間において、
私の観念はまた何度でもリオを訪れリオに存在するかもしれないが、私の肉体は同時に地上の二点を占めることは
できないこと、もはや死者が私の中に住むやうにしてリオは私の中に住むにすぎまいが、もう一度現実にリオを
訪れても、この最初の瞬間は二度と甦らぬであらうといふこと、その点では時がわれわれの存在のすべてであつて、
空間はわれわれの観念の架空の実質といふやうなものにすぎないこと、そして地上の秩序は空間の秩序にすぎない
こと、……私はこれらのことをつかのまに雑然と考へ、荘子の胡蝶の譬や、謡曲邯鄲の主題をあれこれと思ひうかべた。

三島由紀夫「アポロの杯 南米紀行―ブラジル リオ―転身―幼年時代の再現」より

154:無名草子さん
11/04/22 11:05:04.74 .net
荘子の譬は、転身の可能について語つてゐる。われわれは事実、ある瞬間、胡蝶になるのだ。われわれはさまざまな
ものになる。輪廻は刻々のうちに行はれる。大きな永い輪廻と、小さな刹那々々の輪廻とがある。小さな輪廻と
大きな輪廻とは、お互ひを映してゐる鏡影のやうなものである。ひとりわれわれの意識が、われわれをあらゆる
転身の危険から護り、空間にとぢこめられた肉体の存在を思ひ出させてくれるのである。さもなければわれわれは
二度と人間に立戻らないで、その瞬間から胡蝶になつてしまふことであらう。

三島由紀夫「アポロの杯 南米紀行―ブラジル リオ―転身―幼年時代の再現」より


時々、窓のなかは舞台に似てゐる。多分その思はせぶりな照明のせゐである。

「アポロの杯 南米紀行―ブラジル サン・パウロ」より

155:無名草子さん
11/04/24 10:50:30.19 .net
曲馬はこれを見るごとに、およそ平衡を失はなければ、どんな危険を冒しても安全だと語つてゐるやうに私には
思はれ、また、どんな不可能事の実現と見えるもののなかにも、厳然と平衡が住んでゐることを教へられるのである。
われわれは肉体の危険にもまして、たびたび精神の危険を冒す。そのときわれわれは曲芸師のやうにかくも平衡に
忠実であらうか。曲芸師が綱から落ち、曲芸師の額から皿が落ちるときに、われわれは彼等があやまつて肉体の
平衡を冒したことを如実に見るが、われわれが自ら精神の平衡を失ふさまは、これほど如実に見ることはできない
ので、それだけ危険は多く且つ重大である。
曲芸師は肉体の平衡を極限まで追ひつめて見せる。しかしかれらはそのすれすれの限界を知つてをり、そこで
かれらは引返して来て、微笑を含んで観衆の喝采に答へるのである。かれらは決して人間を踏み越えない。しかし
われわれの精神は、曲芸師同様の危険を冒しながら、それと知らずにやすやすと人間を踏み越えてゐる場合が
あるかもしれない。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 パリ シルク・メドラノ」より

156:無名草子さん
11/04/24 10:50:54.75 .net
思惟が人間を超えうるかどうかは、困難な問題である。超えうるといふ仮定が宗教をつくり、哲学を生んだので
あつたが、宗教家や哲学者は正気の埒内にある限り曲芸師の生活智をわれしらず保つてゐるのかもしれない。
もし平衡が破られたとき実は失墜がすでに起つてをり、精神は曲馬の円い舞台に落ちて、すでに息絶えてゐるかも
しれないが、そののち肉体が永く生きつづけるままに、人々は彼の死を信じないにちがひない。
狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、破局とすれすれの状態で
保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも一そう露はなのだ。たとへばわれわれは歩行の
場合に平衡を意識しないが、綱渡りの場合には意識せざるをえないのと同じである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 パリ シルク・メドラノ」より

157:無名草子さん
11/04/26 10:48:29.83 .net
オリンピアの非均斉の美は、芸術家の意識によつて生れたものではない。
しかし竜安寺の石庭の非均斉は、芸術家の意識の限りを尽したものである。それを意識と呼ぶよりは、執拗な
直感とでも呼んだはうが正確であらう。日本の芸術家はかつて方法に頼らなかつた。かれらの考へた美は普遍的な
ものではなく一回的(einmalig)なものであり、その結果が動かしがたいものである点では西欧の美と変りがないが、
その結果を生み出す努力は、方法的であるよりは行動的である。つまり執拗な直感の鍛錬と、そのたえざる試みとが
すべてである。各々の行動だけがとらへることのできる美は、敷衍されえない。抽象化されえない。日本の美は、
おそらくもつとも具体的な或るものである。
かうした直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。芸術家の抱くイメーヂは、
いつも創造にかかはると同時に、破滅にかかはつてゐるのである。芸術家は創造にだけ携はるのではない。
破壊にも携はるのだ。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch