【割腹自殺】●●三島由紀夫3●●【肉体改造】at BOOKS
【割腹自殺】●●三島由紀夫3●●【肉体改造】 - 暇つぶし2ch450:無名草子さん
11/01/11 19:49:48 .net
特に、三島さんがイタリアに取材に行く時と、私がローマのチネチッタ・スタジオのフェリーニとのコンタクトの
時が一致して、私がお供をする形になった時のことである。
私達がフォロ・ロマーノの遺跡に立った時三島さんは冗談めかして、
「もし私がハドリアヌス帝だとしたら、君はアンティノウスになれるか」
と尋ねられたので、私は、
「勿論です!」
と勢い込んで即答した。
あの時の三島さんの嬉しげなお顔は、忘れる事が出来ない。
「三島由紀夫文学」については周知である。しかし、平岡公威、という美しい人間の本性は、深海の如く神秘で、
容易に理解することは出来ないだろう。

増田元臣「美しい人間の本性」より

451:無名草子さん
11/01/13 11:17:28 .net
三島さんの葬儀の日の少し前、実行委員会の打合わせがあった。
(中略)…式の段取り、各委員の仕事の分担、注意事項の検討、弔辞を読む方々の紹介があった。
その時、御父上が突然私を指名された。
思いもかけない発言に私は動転し、そのような大任の資格が私には無いと辞退した。
すると川端先生が例の鋭い目で、「資格のある人間はどこにも居ません。おやりなさい」と宣言された。
当日、私は緊張と悲しみに耐えながら弔辞を読んだ。
「私のこれまでの人生で、最高の喜びは、三島さん、あなたにお会い出来たことであり、最大の悲しみは、
あなたを喪って今ここにこうして立っていることです……」と。
私が三島由紀夫という名を識ったのは、昭和十九年、書店で見つけた「花ざかりの森」で、何故かすがすがしい
感じがした。戦後、雑誌『人間』で「煙草」を読んだ時、私はすぐ「花ざかりの森」を思い出した。

藤井浩明「私の勲章」より

452:無名草子さん
11/01/13 11:17:52 .net
終戦前の昭和二十年一月、私は中島飛行機小泉工場へ勤労動員され、戦闘機を造っていた。私たちの寮の隣りに
東大法学部の学生たちがいた。その中に三島さんがいて、明日をも知れぬ状況の中で、後に発表された小説
「中世」を書き続けていたことを、ずっと後で知って驚いた。二十五歳までに戦争で死ぬものと覚悟していた
私たちが、生きながらえて後に親交を結ぶとは……不思議な運命を感ぜずにいられない。
私が初めて三島さんに対面したのは、昭和三十一年、「永すぎた春」映画化の交渉の時である。
…私は既に大映企画部にいて三島作品の映画化を夢見ていた。
緑ヶ丘の平岡邸で眷恋の人に対面した時、私は自信に満ち溢れた、それでいて折目正しいこの青年作家に圧倒された。
以来、私は三島文学の映画化に挑戦していった。
「金閣寺」(「炎上」)、「お嬢さん」「剣」「獣の戯れ」「憂国」「複雑な彼」「音楽」「鹿鳴館」。
そして、三島さん主演の「からっ風野郎」等。

藤井浩明「私の勲章」より

453:無名草子さん
11/01/13 11:18:16 .net
「炎上」のシナリオ作業が難行している時、三島さんが「創作ノート」を見せて下さった。
絢爛たる文学が構築されてゆくプロセスが明解に読み取れ、目が開ける想いがした。
この映画は三島さんから最大の讃辞を頂き、以来、私は三島さんとの交友を深めていった。
時折、三島邸の書斎で話し込むことがあった。私は天才的文章の錬金術師の仕事場へ忍び込んだような気持で、
よく文学のことを質問した。三島さんは門外漢の私に丁寧に誠実に答えて下さった。
当時のメモを繰ってみると、例えば「憂国」の製作準備をしていた年など、年間七十回も会っていた。
…「からっ風野郎」の後、日仏合作映画のため市川崑監督と私はパリへ飛んだ。
思いもかけず三島さんが空港へ見送りに来られた。
たまたま別便で発つ永田雅一大映社長がいた。社長は私を別室に呼んだ。
「お前のような若造を天下の三島が見送りに来る訳がない。それはお前が大映の社員だからだ。俺に感謝しろ」と。
ワンマン社長は大の三島ファンで、明らかに私に嫉妬しているのだ。三島さんには万人をひきつける魅力があった。

藤井浩明「私の勲章」より

454:無名草子さん
11/01/13 11:18:34 .net
死の四日前、三島さんからいくら晩くても電話が欲しい旨の伝言があった。深夜帰宅した私は電話で話した。
「憂国」がイタリアで上映され大好評だと伝えると、三島さんは大そう喜んで詳しいことを調べて欲しいと言った。
四日後に死を決意していることを知る由もない私は、連休明けに報告しますと約束した。電話を切ってから、
三島さんが「さようなら」と仰言ったことが何故か気に懸った。いつもは快活に話してさっと切る人が……。
〈藤井氏はいついかなる場合にも、この作品に対する完全な愛着と信頼を少しでも失ふことがなかつた。
それがスタッフ全員をどれだけ力づけたかわからない〉
三島さんが「憂国 映画版」に書いて下さった文章は私の勲章である。
三十年祭の遺影の前に佇みながら、三島さんが以前、暇が出来たらポルトガルの鄙びた漁村を舞台に映画を
作ろうと話して下さったことを思い出した。いつの日か私はその海辺で映画を撮影したいと思っている……。

藤井浩明「私の勲章」より

455:無名草子さん
11/01/13 23:59:30 .net
生前の三島さんを語り合える人も数少くなってしまったが、いま劇場でその劇作は絶えることなく上演され、
「サド侯爵夫人」「鹿鳴館」「近代能楽集」等、舞台を通じて三島さんへの追憶にひたる機会にこと欠くことはない。
文学座を脱退した三島さんは劇団NLTを創立、一九六五年五月、「近代能楽集=班女・弱法師」を、私が
支配人をしていたアートシアター新宿文化で上演することになった。(中略)
その公演の初日直前のある日、知人から電話があった。「葛井さん今夜劇場を貸してほしいんだが、映画の試写、
何分極秘裡に願います。素晴らしい人を紹介しますからお楽しみに……」と。
夜九時すぎ、白い細身のスラックスに皮のポロシャツの男性が颯爽と事務所のドアから現われた。
「三島由紀夫です。今夜はよろしく」
あとは例の破顔大笑、その夜上演されたのは、完成したばかりの映画「憂国」であった。

葛井欣士郎「花ざかりの追憶」より

456:無名草子さん
11/01/14 00:00:12 .net
(中略)終了後、私は戦慄と興奮で暫く席を立つことが出来なかった。言葉を失なったまま三島さんに視線を
向けると、満足げに微笑みを湛えて見返した三島さん。これが三島さんと私の出逢いのはじまりであった。
その夜は酒場「どん底」で祝杯を重ね、ツール映画祭への出品が決った。
(中略)
「憂国」はアートシアター創立以来の大入りで二ヶ月余のロングランとなり、連日三島さんと過す日が続いた。
私にとって三島さんは友というには偉大すぎ、私は敬愛こめて「三島先生」と呼んでいた。作家としての深淵は
私には判る筈もないが、ひたすら慣れ親しんで夜の巷で遊び廻るのが常であった。
然しその交流の中で私は多くの教えを受けた。細やかな気遣いと優しさに充ちた雑談の中で、芸術、文学、
人生について貴重な話をきくことが出来た。

葛井欣士郎「花ざかりの追憶」より

457:無名草子さん
11/01/14 00:00:50 .net
ある時はテネシー・ウィリアムズやトルーマン・カポーティに会った印象、ジャン・コクトオ、レナルド・
バーンシュテインの話、外国の舞台、バレエ、オペラ、音楽など直にその場に居合せ、まるでその人々と
対峙しているように、生きた挿話は私を夢中にさせてくれるのであった。(中略)
夏、下田のホテルできかされた連載小説「命売ります」の荒唐無稽な仕掛けの話、焼玉蜀黍(とうもろこし)を
かじりながらの深夜任侠映画、丸山(美輪)明宏さんのリサイタルゲスト出演のためトレーニングの成果を
聞かせるからと「造花に殺された船乗りの歌」の背景にふさわしい場所でと横浜埠頭まで駆り出された夜、
映画「人斬り」では付人として京都まで随行、自衛隊富士学校への面会、森田必勝君にテーブルマナーを教えると
フランス料理店にお供した夜、「椿説弓張月」の舞台稽古と楯の会の国立劇場でのパレード、等々短かい歳月の間に
数えきれない程、多くのエピソードを残して、三島さんはあまりに早急に逝ってしまった。

葛井欣士郎「花ざかりの追憶」より

458:無名草子さん
11/01/14 00:01:52 .net
そして遂にあの日が来た。
七〇年十一月二十五日、ニュースをきいて私は三島邸に駆けつけた。涙があふれ、唇は乾ききって唾液も
飲み込めない。到着して直ぐ何かの用で三階へと向った。そこは左右対称の円形の部屋で、壁龕には嘗て
「これがぼくの総てだよ」と指し示めされたとおり、三島さんのミニチュアブロンズ像、「癩王のテラス」の
舞台模型、外国語訳の自著群が並び、主を失った部屋は静謐に沈んでいた。
視線を移したその時、片隅のテーブルにレコードプレーヤーが置かれ、蓋が開け放たれ、そこにLPの
レコード盤が残されたまゝになっていた。私は茫然と見詰めていたが、何故か触れることをためらった。
若しもあの日の前夜、三島さんが最後に聴いた曲だとしたら……
然し瑤子夫人も亡きいまとなっては、もはや確める術もない。

葛井欣士郎「花ざかりの追憶」より

459:無名草子さん
11/01/17 14:59:24 .net
ある日公威は威一郎を連れてデパートに参りましたが、何か玩具のことで親子喧嘩したと見え、そのとき
「お父様なんか死んでしまえ」と言われたようです。真顔で悲しそうに私に訴えに参りました。そのときの
公威の心境が今日になってよく判ります。

ある日私があるお客様にお目にかかったときのことです。「三島さんという方は不思議と決して他人に御家族のことを
一言もおっしゃいませんでした。それなのに二、三日前用談の途中で唐突に、僕は威一郎が 可愛くて可愛くて
どうにも仕方ない、本当に可愛いんだ、と二、三度同じことをくり返されるのです。こっちはちょっと面喰いましたが、
そのまま用談に戻りました」というお話でした。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

460:無名草子さん
11/01/17 14:59:49 .net
公威は物差しやハタキのような長いものを持ってこれを振り回すのがとても好きでした。無意識にもウップン晴らしの
意味でございましたろうか。これらはやがて危ないというので、母(三島の祖母)に没収されてしまいました。
公威はこんなときでも、決して反抗はいたさず、だまって素直に従ってくれて、かえって可哀想になりました。

公威は五歳のときのお正月に、はじめて自家中毒という病気にかかり、もう駄目だという危篤の状態になりました。
親戚も多数集まりました。私はお棺に入れてやる着物や玩具を持って来てソッと裾のところに取揃えました。
そこへちょうど千葉医大の部長をしておりました私の兄が来てくれまして、しばらく見守っておりましたが
「あっ、小便が出た、助かるかも知らんぜ」と申し、それから間もなくまた大量のお小水が出ましたら、兄は
「もう大丈夫」と大声で言いました。ああこの時のうれしさ、まるで夢のような心地とはこのことを申すので
ございましょう。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

461:無名草子さん
11/01/17 15:00:12 .net
初等科時代、公威は肺門淋巴腺(りんぱせん)にかかりました。この病気は身体がとてもだるくなるものですから、
教室では姿勢も悪く、先生には叱られ通しだったようです。しかも自分のうしろの席には級中きっての悪童が
ひかえていて、その煽動でのべつ幕無しに二人でいたずらをするので、二人とも教壇の前に立たされ、おでこと
おでこを鉢合せさせられるという、そうとう重い体罰をいくどか受けました。


中等科では剣道や乗馬は正課でしたが、公威は両方とも好きで、特に剣道を大変好みました。寒稽古のときは
五時ごろ自分で飛び起きて、嬉々として出かけて参りまして、稽古の後学校が出してくれる味噌汁がうまくて
うまくてたまらない、お母様にも一度飲ませたいと私に何度も報告しておりました。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

462:無名草子さん
11/01/18 10:53:07 .net
公威は幼少のころから日本古来のしきたり、行事というようなものがとても好きで、またこれらを大事にいたしました。
母の躾けのせいもありましたろうが、神社の前などに参りますと、どんな小さな祠でも何びとの指図も受けず、
自らすすんで必ず丁寧に参拝し、お辞儀をしないで通りすぎるというようなことはありませんでした。
これは子供の時代ばかりでなく、ずっと大人になってからも続きました。毎年の豆撒きの時など、先頭に立ち、
孫達はすぐ飽きてしまって逃げ出すのですが、公威は一人になっても物凄い大きな声で、「鬼は外、福は内」と
どなりながら豆を撒き、それから家族中に各自の年より一つ多い数の豆をひろわせて十円玉と一緒に包ませ、
自分みずから近所の四つ角まで持って参り、帰りには掟な従い決して振り返らないという調子で、これには
親の私もついていけなかったものです。この念には念の入った信心振りは死ぬまでやめませんでした。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

463:無名草子さん
11/01/18 10:53:44 .net
二十年三月の大空襲のとき、公威は学徒動員で座間の海軍の工場に泊り込みで参っておりましたが、いそいで
帰宅して来ました。向うから眺めると、東京の空が真赤に染まっており、これでは東京は必ず全滅してしまって
いると思い、ずいぶん無理をして、やっと駆けつけて来たとのことでした。家族一同で無事を喜び合い、公威は
今後の打合わせをしたり何くれと手伝いをしてまた座間に戻って行きました。ただこれだけの話ですが、公威が
防空壕の入口のところで私が頸に巻きつけていたショールをとって巻き直してくれたり、そして何だか忘れましたが、
小さいものの包みを差出して、お母さま、これをあげましょう、と言ってくれたことを覚えています。多分
ビスケットともおせんべいともつかぬ変てこなものだったと思います。空襲が終ると、「みんな頑張ってよ」と
手を振りながらまた戻って行ったのでしたが、そのうしろ姿を、私は、なんでこんなにまで私に親孝行して
くれるのだろうと、ありがたくてありがたくて、涙ながらにしばらくたたずんで見送った記憶があります。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

464:無名草子さん
11/01/18 10:54:02 .net
また工廠には台湾人の少年が大勢働かされていて、自分はその世話をする係だが、例外なしにみんな実に
かわいい子ばかりで、自分にもなついてくれたけど、食べ盛りの彼らのこととてたいてい栄養失調で、ことに
脂肪に飢えていて、僕らだったら腹をこわすようなものでも、油と名のつくようなものならどんなものでも
飛びついて舐め、しかもその後もケロリとしているのには、かわいそうにも思い感心もした、といっておりました。
一方、上官たちの部屋を覗くと、相当の御馳走が十分食卓に並べてあって、上官たちはこれを談笑しながら
食べていたそうです。彼らと台湾少年とを想いくらべると、義憤というか悲憤というか、上官たちの部屋に行き、
「貴様らそれでも人間か」とどなりつけたい衝動に駈られたと、相当興奮した口調で話をしておりました。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

465:無名草子さん
11/01/18 10:54:20 .net
終戦前のことですが、荷物の疎開でズック袋やトランクをいくつも荷造りしましたが、そのときも公威は、
荷造りの手伝いをしたり、それぞれの荷物の中身を克明に手帳に記入してくれたり、自動車で運びにくい品物は
大八車を借りて来て弟妹と三人で運んでくれました。その途中で警報が鳴り、急いで物陰に身をひそめはしたものの、
後で悪路のために思うように車が進まないで、苦心を重ねて真暗になってからやっと弟妹と三人で帰宅して参りました。
また主人と一緒にお薯(いも)や野菜を仕入れに埼玉方面まで参り、帰途はその運送人にさせられたり、公威は
つねに先頭になっていやな仕事を引き受けて、ずいぶんこの弱い私を助けはげまし、一家の心の支柱となって
くれました。

中等科の終りごろから学校の軍事訓練がだんだんさかんになり、富士の裾野を重い背嚢(はいのう)と銃を
かついで一晩中行軍させられ、落伍者も出るくらいでしたが、ふだん弱い弱いと言われていた公威は落伍もせず、
教官に、精神力が強い根性がある、と賞められたと自慢しておりました。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

466:無名草子さん
11/01/19 08:18:51 .net
時の話題やビッグニュースを掲示板の書き込みを読んで一発理解。

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467:無名草子さん
11/01/20 12:33:29 .net
イタリア最大の出版社の一つであるモンドダリは、二年後(投稿時2002年)に、三島由紀夫選集を出すことを
企画している。ローマ大学のマリアテレーサ・オルシ教授を編者とするこの選集の目的は、三島文学の美しさを
あらためてイタリアに紹介することにある。
その目標を達成するため、序文、解題と共に訳文の精確さが大切なポイントとして顧慮され、日本語からではなく
英語などから重訳されている作品も、今度は新しく日本語から直接翻訳される。
その中には…(中略)「鏡子の家」等も含まれる。この最後の作品は私の担当作品なので、少し考察したい。
周知のように、三島がひたすら情熱と才能を傾けて書いた「鏡子の家」は非常に評価が低かった。
予想を裏切る反応に作者は落胆したが、昭和42年にはこの小説を「自分の好きな作品」に数えている。
それにも関わらず、この作品はあまり研究の対象になっていない。評判が良くなかった理由は様々に書かれて
いるが、ここでは反論するよりも、私にとって興味深く、秀逸と思われるところをすこし分析してみたい。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」

468:無名草子さん
11/01/20 12:33:56 .net
「鏡子の家」は構成が見事である。その枠組みの中に、美しく表現力豊かな文章や隠喩がちりばめられている。
冒頭に〈みんな欠伸をしてゐた〉という、短いが意味深長な一文がある。
「みんな」に含められる登場人物たちは、生との関わりに困難をきたし、倦怠感に蝕まれている。
群小人物の光子と民子は倦怠を逃れるため銀座の美容院に行って満足する。
他の主要人物たちは自分の内面世界と外界との関係に支障をきたしている。
俳優志願の収は自分の身体を明確に知覚できず、身体と存在を同一視するに至る。画家の夏雄は突然視界が
消滅する出来事に遭遇して以来、絵が描けなくなるが、内面世界をより狭くすることで再び描けるようになる。
拳闘選手の峻吉は記憶空間のない生活を構築する。鏡子は自分の内面世界についてあまり考えないようにし、
友人たちの経験、思想に満ちている「家」に住んでいる。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

469:無名草子さん
11/01/20 12:34:16 .net
しかし冒頭の「みんな」には、会社員である清一郎が意図的に挿入されていない。清一郎は一番俗世に混じって
生活している人物で、日本だけではなくニューヨークに住んでいる時も問題なく仕事環境に溶け込める。
しかしその能力は世界崩壊を固く信じることから来るものと言うべきである。
「鏡子の家」の完璧な構造では、鏡子が友人たちを追い出して自分の家を“閉める”という経緯が作品の
結びとなる。つまり小説の終わりと“家の終わり”が一致するのである。
そして冒頭と同じく、光子と民子はつまらなそうに「仕方なし」に銀座の美容院に行く。
三島の描写は暗示的で、しかも読者の目前に見えるような印象的なイメージが豊かである。
最も顕著で、優雅なイメージ操作は「鏡」をめぐるものであろう。
タイトルとなる女主人公の名前を始め、すべての人物にそれぞれ自分の「鏡」がある。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

470:無名草子さん
11/01/20 12:34:37 .net
収は本物の鏡に映るとほっとするが、鏡より肉体を強く感じさせる女性と出会った時、その人間的な鏡と
死ぬことを決意する。
夏雄は自分の絵におのれを投影する。それゆえ、絵が描けなくなった時、一旦自分を見失う。
峻吉は力を自分の鏡とする。しかし喧嘩で手を怪我して拳闘ができなくなると、自分の鏡である力を右翼の
青年団に入って使う。
鏡子は自分を皆の鏡であると思いながら、他人を自身の鏡として使う。最後に娘と互いに映しあう鏡遊びで、
どちらが娘かどちらが母か、どちらが女らしい魅力と欲情をよりそなえているかわからなくなる。
ちょうど金閣寺が素晴らしく金色に輝く姿を鏡湖池に映すように、「鏡子の家」の人物たちは自らを
映す物なしでは生きられないのである。ひょっとしたら、作者も小説に自分を映したのかとも思われる。
登場人物に三島自身の投影が認められるかどうかは別として、隠喩やイメージが豊富で、とても面白く読める
作品である。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

471:無名草子さん
11/01/20 12:34:58 .net
個性的であざやかな表現が多いので、翻訳する側はそれをうつし変える困難を何とか切り抜けなければ
ならないが、作者の力量や熱意がページごとに感じられる。
古典文学を翻訳するとき、イタリアの読者に伝えにくい雰囲気、理解しがたい習慣等がある。
しかし「鏡子の家」の場合、そのような難しさはなくて、例えばサルトル、モラヴィアを読んだ者には
感じやすい倦怠感もあり、場面がニューヨークになっているページもあるし、それほど遠い文化が感じられる
ところはないと言える。
ただ、完璧に文体の美しさを伝えることはやはり容易ではない。しかし、それは読者より翻訳者の問題であろう。
原文の美しさに感服しつつ、同レベルの文体の文章を作ろうと格闘中の私には、何故今まで「鏡子の家」が
訳されなかったのか不思議に思われる一方、その任を受けたことを幸いに思い、この作業がたいへん有意義な
経験となることが確信されるのである。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

472:無名草子さん
11/01/23 16:48:34 .net
三島由紀夫が透徹した認識の目を持っていたことは、彼を知る人ならば誰もが認めるだろう。例えば動物に
対する描写を取ってみても、その異様に鋭い認識能力が垣間見れる。(引用略)
言葉を喋らぬ一個の生命に対して、これほどその根源に迫れるほどの認識能力を持っているなら、人間を洞察し、
その自意識を具体的に纏め上げた安永透という人間を作り上げることくらい造作もなかっただろう。(中略)
三島文学ほど明確に人間の個人的精神と結び付けて涅槃を説いている作品は他にないだろう。悟り……、そして
悟りへ至るための道である八正道とはつまり、自意識の塊りである安永透という存在の否定なのだ。
天人五衰や「安永透の手記」には、悟りへの道である八正道に、見事に反する精神状態が描かれているのである。
安永透の自意識こそ、仏教が説く人間の捨て去らねばならない“我”そのものだからだ。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

473:無名草子さん
11/01/23 16:48:57 .net
三島由紀夫の重要性、そして特殊性は、その並外れた認識の能力にある。(中略)
なぜ三島由紀夫にだけ、これほど高度な認識能力があり、一般の人はそうではないのか。それが私には大きな
疑問となり、三島文学への好奇心を駆り立てた。(中略)
どちらかというと私は三島の小説よりも日記やエッセイなどを好んだ。(略)…概念の捉え方が行間からより
鮮明に表れていて、その明晰さに私は驚嘆した。(中略)
三島由紀夫は単なる小説家という存在を超えている人間なのかもしれない、と私はうっすらと理解し始めた。
多くの人は『ミシマ文学』と言っているくらいで、どうも彼の使う表現の卓越さ、認識の正確さのすべてを、
三島由紀夫の文才と考えているようだった。
しかし私にはそうは思えなかった。言葉使いが巧みなだけなのではない。確かに十代までの三島はそうだった。
しかし「仮面の告白」以降は違う。正確に現実を認識しているのだ。あまりに正確すぎるほど正確に……。
つまり、何かをきっかけに三島由紀夫は、その正確無比な認識に覚醒したのだと私は思った。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

474:無名草子さん
11/01/23 16:51:11 .net
…『一目で見抜く認識能力にかけては、幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多の中で自得したものがあった。欲望を
抱かない限り、この目の透徹と燈明はあやまつことがなかった』(天人五衰)(中略)
三島は自分の奇跡待望の不可避とその不可能の自覚を、若いときは自分の文学的素養として芸術の領域で
捉えていて、仏教的な意味での仏性だとか悟性だとかいう風には捉えていない。或いは最後までそのスタンスは
変わらなかったかもしれない。(中略)
三島由紀夫が行っていた無我の認識とは、この阿頼耶識を認識することだ。(中略)
古来から悟りを開いた者は神通力を得ると言われている。(略)阿頼耶識による無我の認識は、原理は単純だが、
或る意味そういった超能力に近いものだ。(略)…三島の表現力を神技に近いと評した評論家もいたようだ。
超能力とまでいかなくても、第一章でも記したように、その認識の正確さは燈明を極めていた。(中略)
無我の認識という正確な認識の方法を理解している三島由紀夫という存在は、私には途轍もなく重要に思えて
きたのだった。三島由紀夫が理解されれば、人間同士の完全な相互理解が可能になるからだ。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

475:無名草子さん
11/01/23 16:51:44 .net
…三島由紀夫について研究していて、ひとつ不思議に思った事があった。なぜ三島が自分への理解を求める
方法として、小説という形を選んだのかということだ。彼はそこいらの哲学者や心理学者よりよほど頭が良く、
人間精神に精通していたから、自分を理解して欲しいなら、自分の認識の体系を分かりやすく論文のような形で
まとめて発表すればよかったのにと思った。なぜそうしなかったのか。実際に三島由紀夫について書いてみて
分かった。それは不可能だからだ。近代自我哲学や精神分析学は三島本人も言っているように、些か暴論で、
妄味を生み出している気がする。精神という性質を詩的幻想と規定することは出来ても、その精神が生み出す
幻想世界を分割したり、現実世界に対する精神の認識構造を解析することは不可能だ。(中略)
唯識的に言うと、欲望を捨てて第七識を超えたところにある阿頼耶識という存在の究極の片鱗を読み取った
ということになるだろうが、では、どのようにして読み取ったのかとなると、それ以上の詳しい説明は出来ない。
それ以上は、もう“ありのまま、ただ見た”としか言いようがない。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

476:無名草子さん
11/01/23 16:52:01 .net
…プラトンのイデア論にしても、ニーチェのパースペクティブ主義にしても、デカルトの良識論にしても、
実念論にしても唯名論にしても、フーコーのエピステーメーにしても、フランシス・ベーコンが「ノーヴム・
オルガヌム」で言うイドラにしても、実存主義にしても、ライプニッツのモナドの概念にしても、そして
唯識さえも、認識に至るまでの経緯の仮定的な説明なのだ。(中略)
過程を明確に示す方法がないから結果から示すしかなかった。小説という物語の形を借りた方法で、自分が
認識した安永透という人間の自意識を正確に記すしか、つまり、感覚的に、自分の認識能力とその認識能力を
持っているということが何を意味しているのかを理解できる人間を探すしかなかったように、私には思える。
無我に至るまでのその過程を説明しなくても、天人五衰を読んだら分かる人間に向けて三島は天人五衰を書いている。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

477:無名草子さん
11/01/23 16:56:51 .net
(中略)
三島由紀夫が天人五衰に書いているような、人間世界を裁定する漁師の目、それは神仏の目だ。無我による
正確な認識は、最終的に神の目に近づく。人間を監督し、その行いに応じて命運を決定する存在との視点の同一化。
それが一種の予言性を帯びてくる究極の認識であり、人間が最終的に至るべき境地なのだろう。そしてそれは、
いわゆる宿命通・天耳通・死生智にあたるのだろう。
『狐はすべて狐の道を歩いていた。漁師はその道の薮かげに身を潜めていれば、難なくつかまえることができた。
狐でありながら漁師の目を得、しかも捕まることが分かっていながら狐の道を歩いているのが、今の自分だと
本多は思った』(天人五衰)(中略)
精神という願望的幻想性を利用したこの現実の都合のいい変容を、人を化かす『狐』に例えているのである。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

478:無名草子さん
11/01/23 16:57:06 .net
(中略)
そもそも彼のあの異常な明晰さは、人間の領域を遥かに超えている。彼は人間でありながら神仏の目を得、
しかも人間として生きたのだ。(略)三島は晩年、生涯を通じてあれほど批判してきた太宰治と自分は同じ
なんだと言ったそうだ。太宰がそうであったように、三島にも人間の世界が理解しがたかったのではないか。
理解できすぎたが故に。
その無意識。その認識の欠如。すべてが彼には奇妙に思えただろう。
三島にとって人間は、運命の自己表現のようなものだった。(中略)
三島は確かに誰よりも正確に物事を認識することができたわけだが、単純にその能力を喜んでいたわけでは
なかったようだ。(中略)
三島由紀夫は確かに稀に見る認識の天才で、完璧に近いほど人間存在、そしてその命運を裏側から管理している
神仏の神秘まで理解していた。しかし、求道者ではなかった。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

479:無名草子さん
11/01/23 16:57:26 .net
三島は悟達に至ろうと思って悟達に至ったわけではない。セキュリティー・システムを打破するはずのハッカーが、
逆にセキュリティー・システムに詳しくなるように、犯罪を犯すはずの犯罪者が、逆に刑法に詳しくなるように、
あまりにも夢想的であったために、逆に真実に目覚めてしまったのだ。
そして三島はその欣求の欠如ゆえ完全なる悟りには至っていなかった。いや、至ろうとしなかった。(中略)
ここに三島由紀夫という人間の独自性がある。彼は悟りの構造を知っていながら詩を求め続け、仏教には帰依せず
天皇に帰依したのだ。奇跡は到来しないと理解してからも、つまり詩が現実ではないとはっきり理解してからも、
生来の気質から詩的椿事を待望し続けることをやめられず、また神仏に帰依する気もなかった三島由紀夫は、
自分の意志の不毛に気付いていた。紙の上の現実と実際の現実、その二種の現実のどちらもいつでも選べるという
自由が三島由紀夫という人間の意志だった。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

480:無名草子さん
11/01/23 16:58:02 .net
(中略)
どんな奇跡への待望であれ、それが絶対に到来しないと分かっているなら、そしてそれでも猶、奇跡を待望し
続けるとするなら、いったい精神はどこへ向うのだろう。三島にとって至福と言うものが、少年時代に感じたように、
願望と現実の一致にあるなら、詩から覚醒した三島の唯一の至福は、自らが絶対的存在と融和することだった。
それが「憂国」であり、天人五衰の末尾において本多繁邦に語らせている『聖性』だった。(中略)
ああいう最期を遂げたことには、批判的な意見の方が多かったようだが、バルコニーに立って演説する三島の
姿を見るたびに、私は何か心を動かされる。別に憲法を改正して自衛隊を国軍にして欲しいわけではないけれど、
命を賭けて訴えるその姿に素晴らしい何かを見るのは確かだ。(中略)
天人五衰における本多の涅槃への到達の仕方は、一見したところ幸福からは遠く、それはまるで神への挑戦のようだ。
恒久平和の不可能を自明のものとして死んでいった彼の存在が、実は精神という幻想を打ち破り、人間の相互
理解を可能にする唯一の鍵だったというのはなんと皮肉だろう。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

481:無名草子さん
11/01/23 17:01:48 .net
(中略)
私には三島由紀夫が、自分がロボットだと気付いてしまったロボットのように思えてしまう時がある。自分の
内部構造、背負わされた宿命、世界の実相……、その仕組みを、それを創造した者と同じくらい完全に理解
できる能力を持っていた三島由紀夫は、結局、自分が何者であるかを知ってしまった。三島由紀夫は自分が
【人間】であることを理解してしまったのだ。
精神の奇跡待望の不可避とその不可能の自覚という性質。告白は不可能であり、真の自己は規定し得ないということ。
人間は自由意志を持ってはいないということ。見えない誰かに何かを強いられて生きているということ。
人間であるということそれ自体がひとつの罠にかかってしまっているということ。そして、自分が誰からも
理解されてはいないということ……。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

482:無名草子さん
11/01/23 17:02:09 .net
世界についても理解した。
それは涅槃の文学である三島文学の最終的な主題「奇跡自体よりもふしぎな不思議」だ。
即ち古代存在論にはじまり、中世スコラ哲学へと続き、デカルトやウィトゲンシュタイン、ライプニッツらも
問うた『神秘的なのは、世界が如何にあるかではなく世界があるということ』という命題。数多くの哲学者が
求めたこの命題に対する三島由紀夫の答えは、「仮面の告白」における素面の不在と同じように、世界存在
そのものの実体の不在だった。
『「海と夕焼け」は、奇跡の到来を信じながらそれがこなかったという不思議、いや、奇跡自体よりもさらに
ふしぎな不思議という主題を凝縮して示そうと思ったものである。この主題はおそらく私の一生を貫く主題に
なるものだ』(花ざかりの森・憂国 あとがき)
…つまり、世界が存在しているということ自体が奇跡よりもふしぎなことなのであって、それは唯識論哲学に
おける存在の実体の無さ、一切諸法がただに『識』に帰すという思想によって表されている。
『本多は夢の生に対する優位を認識した』(天人五衰)

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

483:無名草子さん
11/01/26 10:56:59 .net
三島さん、あなたがこの世を去られてから、ちょうど二十年の歳月が流れました。長いようでもあり、
短いようでもあります。
二十年前、あなたのあの壮烈な死の直後、私はこの「題名のない音楽会」であなたへの弔辞を捧げました。
そのなかで私はこう言いました。
「三島さん、あなたが自らの死によって訴えたかったこと、それはあの檄文の最後にある言葉
『我々の愛する歴史と伝統の、国日本を日本の真の姿に戻そう。生命尊重のみで魂が死んでもいいのか。』
この言葉にあなたの思いは集約されていると私は思います。
最後のバルコニーの演説でも冒頭にあなたはこう言っている。
日本は経済的繁栄に現を抜かして精神的には空っぽになってしまった。君たち、それがわかるか、と。
自衛隊の存在も含めて潔癖なあなたは政治的ごまかしを許すことができなかった。

黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

484:無名草子さん
11/01/26 10:57:19 .net
現在の日本が世界に冠たる経済的繁栄を誇りながら、それに反比例して政治の腐敗とごまかし、精神の不在と荒廃、
人間の疎外と断絶、こういった憂うべき事態を深めつつあることは心ある人々の認めるところでしょう。
明治の文明開化以来、西欧流の物質主義が日本文化を支える精神主義を危殆に瀕せしめている。
あなたが自ら畢生の大作と呼んだ最後の作品「豊饒の海」であなたは唯識論と輪廻転生という東洋の思想を踏まえて、
この風潮に文学的というよりはむしろ哲学的な鉄槌を下している。あの作品の最後の部分で主人公が蝉時雨の
降るような尼寺で、意外な結末に茫然と立ち尽くすあたりはまさに無の境地としか言えません。
文学ならば無で済みます。しかし、現実はそれでは済まない。
あなたは自らの命をわざわざ人が犬死にと評するような一見、愚劣な方法で劇的に絶つことにより、
心ある人々に一大衝撃を与えた。まさに皮肉で逆説好きな、いかにもあなたらしい芸術的なやり方でした。

黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より

485:無名草子さん
11/01/26 10:57:51 .net
あなたがもし、政治家だったとしたら、こんな方法は絶対にとらなかったでしょう。
あなたが意図したことはだから、自衛隊に決起を促すクーデターではなかった。心ある人々の魂にぐさりと
突き刺さる精神のクーデターだったのです。
(間)♪♪♪♪♪
三島さん、二十年前、あなたがあの壮烈な死を遂げられた直後、私は「題名のない音楽会」でいま言ったような
弔辞を捧げました。そして、あなたが自らの死を以て暗示してくれた精神的クーデターは近い将来、必ず
起こるはずだから、どうか、あなたのこよなく愛したこのワグナーを聴きながら、幽明境を異にした天界で
日本の将来を期待とともに見守っていて下さい、このようにお願いをしました。
それから二十年。日本は変わったでしょうか! 残念なことに、本当に残念なことに少しも変わってはいないのです。
あなたが、死を賭して訴えた自衛隊の問題にしても未だに決着はついていません。三島さん、あなたの名前は
今でも一種のタブーです。あなたの数々の作品は芸術的には高く評価され、あなたの才能を疑う人間はいないけれど、
あなたの思想は依然として危険視されています。

黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より

486:無名草子さん
11/01/26 10:58:12 .net
いまの日本は、二十年前、あなたがいみじくも予言した通り
「私はこれからの日本に希望が持てない。このままいったら日本は無くなってしまう。そのかわりに無機的な、
空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るだろう。
それでもいいと思っている人たちと私は口をきく気にもなれない。」
こういったあなたの言葉通りが現実なのです。本当に残念なことです。
三島さん、あなたがいなくなってからの二十年は、あなたが望んでいたような二十年ではありませんでした。
また、これから先の日本が果たしてどうなるのか、誰にも予断はできません。しかし、今までの二十年と同じく
あまり期待のできない将来であることは、おぼろげながら予測できそうです。ともあれ、いま、幽明境を異にした
あなたに私ができることといえば、あなたの好きだったこの曲を捧げることくらいでしょう。
この曲がうたっている死とはかり合えるほどの重さを持った愛の尊さをあなたと一緒にかみしめましょう。…

黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より

487:無名草子さん
11/01/29 10:06:04 .net
たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという
根拠にはなりえない。また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、
三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、
あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、
それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。(中略)
恋愛結婚を人々が夢見ていたとき、結婚の夜に情死をとげる『盗賊』は、なんと悪意にみちた時代への挑戦で
あったろう。また、文学上の誠実主義が“自己確立”の名のもとに謳歌されていたとき、『仮面の告白』は、
なんと反時代的な作品であったろう。あるいは、人々は戦争の危害について語っていたとき、「金閣とともに
滅びうる幸福」を語った『金閣寺』は、なんと不吉な夢に貫かれていたことであろう。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

488:無名草子さん
11/01/29 10:06:35 .net
三島氏が『憂国』あたりを境にして、急速に変貌したという見解を、私はほとんど信じることができない。(略)
三島の宿命は、すでに『仮面の告白』において、ほとんど予定されていたといってもよい。仮面の背後にある
空白が、いわば“太陽神”の欠落であるなら、それがやがて『林房雄論』や『英霊の声』となって蘇生する
ことは、なかば必然といってもいいものであった。“太陽神”が失われたとき、あの東京の廃墟の上に広がって
いた青空には、夥しい日光の氾濫があった。(略)廃墟の太陽への偏執は、やがてギリシャの廃墟の夥しい
陽光の氾濫に接続する。そして氏は、人間性という名の自然を否定するために、“肉体”を“鉄”のように
鍛える道を選んだのである。(略)三島は徹底して明るさに固執した作家であった。その明るさは健康優良児の
明るさとは、まったくの対極をなすものであった。それは“鉄の悪意”を秘めた明るさ、あるいは悪意を証明
するためには、死をも辞さないような、鉄の意志に裏づけられた明るさである。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

489:無名草子さん
11/01/29 10:07:30 .net
(中略)氏にとって天皇とは、存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものかであった。それは氏の
“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョンといってよく、もし氏がそこへ向かって飛翔するならば、
ただちに地上に失墜するであろうことを、氏は『イカロス』という詩に述べているように、どこまでも知り
ぬいていたのである。
三島氏にとって必要なこと、それは「戦後」という時代、あるいはストイシズムを失った現実社会そのものに、
徹底した復讐をすることであったと思われる。イデオロギーはもはや問題ではない。自衛隊も、自民党も、
共産党も、氏の前には等しく卑俗なものに見えたのである。この精神の貴族主義者にとって、いったい不可能
以外の何が心を惹いたであろうか。思えば氏の不可能への夢、あの「青空による地上の否定」は、典雅な
造形力によって、作品のなかに封じこめられた。その危険な思想、不可能への渇きは、優に氏を“危険な思想家”
たらしめるに十分であった。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

490:無名草子さん
11/01/29 10:09:07 .net
(中略)現世には仮構としての生活しかありえず、その「嘘偽の本質」を愛するほかはない。すでに世間的には
スタアであった三島氏は、その「嘘偽の本質」を、あるいは嘘偽のパラドックスを、どれほど深く愛したこと
であろう。その「嘘偽」の背後にある本心、それはあの“太陽神”の生きていた時代にたいする渇きである。
その渇きの基底にあるのは、いうまでもなく『葉隠』につながる日本的なラジカリズムの精神である。それは
いうなれば、有効性の彼岸にあるがゆえに聖なるもの、また聖なるがゆえに地上の汚濁に染まってはならない
ものであった。(略)この『葉隠』にたいする二重の自覚は、いうまでもなく“太陽”と“鉄”との二重性に
通じている。氏の渇きの喚び求めた、あの極限像としての“太陽神”は、つねに“鉄の悪意”に裏づけられた
ものであった。それは「戦後」という時代に向けられた悪意、あらゆる微温的な偸安にたいする悪意である。
(略)そして無効性を承知の上で、不可能性の一端を“死”によって可能に転化したとき、氏の“鉄の悪意”は、
ほとんど完璧な意味において、時代の偽善にたいする批評と化する。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

491:無名草子さん
11/01/29 10:10:04 .net
遺作『天人五衰』の結末部に出てくる鼠の自殺のエピソードは、三島氏がどれほど醒めきっていたかを証して
余りある。(略)その自殺によって、猫や鼠の世界に大きな変動が起こりうるであろうか。猫がその奇妙な
鼠のことを忘れて、なおも偸安をむさぼっていることを、三島氏ははっきり書きそえている。いいかえれば、
氏は自分を愚かな鼠に擬したとき、氏にたいするいっさいの批評の無効性を、氏みずから確立してしまった
のである。この驚くべき自意識の屈折、残忍なまでのダンディズム、あらゆる批判の可能性を封じた鉄の悪意と、
不可能に挑んだこの倨傲。(中略)
“太陽神”の実在していた時代に、どうして不可能への渇きが必要だったであろう。また、戦後精神の
極限としての“鉄の悪意”なくして、どうして現実の戦後文化を軽蔑しつくすことができたであろう。(略)
三島氏には、死ぬというより死んでみせることが必要であった。そのかぎりにおいて、私小説家の追いつめ
られた生活演技とも、明確な一線を画している。政治的・外在的批判は別として、いったいここまで意識化
された死に、どんな批判が可能であろうか。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

492:無名草子さん
11/02/03 23:31:27 .net
われわれ精神科医にとって三島由紀夫ほど魅力的な研究対象は他に例を見ない。
それはまず、三島作品の中には、精神科医が日ごろ臨床で見る精神病理学的な体験が数多く、見事な洞察力を
もって描かれているからである。
精神科医ですら記述が難しいほどの心の綾やメカニズムが、みごとに言葉として造形されている。
例えば、私が三島の最高傑作と考える「金閣寺」には、周知のようにモデルとなった事件・人物が実在するのだが、
鹿苑寺金閣に放火したその学僧・林承賢の精神の病の発症と発展の有り様が、作品には実に緻密に、かつ
正鵠に記述されている。
例えば、林の発病期の、つまり放火決意直前の「妄想気分」などは、荒涼とした日本海の風景に託して、
実に迫真的にイメージ化されている。ここでは、「症状」が、芸術的な「美」に高められているのであり、
作家の腕前には感嘆する他ない。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より

493:無名草子さん
11/02/03 23:31:49 .net
かつて私は、この「金閣寺」の作者・平岡公威氏と、実在した犯人・林承賢と、それから小説の主人公の三者を
比較対照する年表を作り、その異同を研究したことがある。モデル小説であっても、作者の心の真実が必ず
作品の内容に、特にその主人公の心理に投影されていないはずはないと考えたからであり、その「詩と真実」の
嵌め込み細工を分析することが、作者の「詩の技法」を解明することにもつながると思ったからである。
その研究論文にはあからさまには書かなかったが、平岡氏の心理と、精神分裂病を患った林承賢の心理とは
かなり通低するのではないか、と当時の私は直観した。
しかしそれはもちろん、氏が精神分裂病を初期段階でも体験したことがあるという意味ではない。そうではなく、
ポテンシャルとして、体験する可能性があった人ではなかったか、という直観であった。精神分裂病という病気に
まったく無縁の人であれば、患者の心理に対するあれほど深い感情移入は不可能ではないか、と思ったのである。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より

494:無名草子さん
11/02/03 23:32:08 .net
この考えは、次の傑作「鏡子の家」を読み返しても変わらなかった。しかし「鏡子の家」を書いたころは、
「金閣寺」を書いたころに比較すれば、作家の狂気に対するスタンスは大分違っていた。
遠くなっているように思われた。つまり、この作品に描かれている狂気はかなり概念的なものに変化していた。
この程度であれば、精神医学の教科書を読んでいれば、まったくの正気の人でも書けないことはない。
それにしても、三島はなぜ精神医学の教科書や事典にとどまらず、高度に専門的な学術書や論文まで渉猟する
情熱を持っていたのかという疑問は残る。
三島は、精神医学の本ばかりではなく、性科学(特に性倒錯・同性愛・冷感症・窃視症など)、犯罪学(殺人)、
精神分析学の専門書をかなり耽読していた。
いずれにせよ、精神科医の目から見ると、「金閣寺」は作家の精神の軌跡にとって一つの重要な転回点であったろう。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より

495:無名草子さん
11/02/03 23:32:28 .net
「金閣寺」と「鏡子の家」の創造で、内面の力学に関する仕事の一山を越えた作家は、その後しだいに、
内面から外界へ、精神から身体へ、思索から行動へと、その重心を移して行く。
そして、精神分析学的には「行動化」と呼ばれるその傾向の終点に、あの劇的な割腹自殺が待っていたのである。
何人かの精神科医は、作家の衝撃的な事件に弾かれたように、三島由紀夫の病跡学(パトグラフィ)を書き、
精神分裂病とか、パラノイアとかいう診断を試みた。
しかし、それが的外れの誤診であったことは、今ではほとんど明らかである。
また、「仮面の告白」でデビューした三島の精神診断については、必ずといってよいほど言及される
「同性愛」説にしても限界はある。それは村松剛氏のような、強力な同性愛否定論者がいるからではなく、
平岡公威氏の性嗜好は、両性愛的であったばかりではなく、プラトン的であったからである。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より

496:無名草子さん
11/02/03 23:32:45 .net
精神分析学者エリック・エリクソンは、「天才的リーダーとは、彼が出会った若者に大きな影響を与え、
彼らをして、それ以前の人生行路とは違う人生への道を歩ませ、その時代にはまだ類い稀なアイデンティティを
若者に与える人物のことだ」と定義した。この定義に従えば、「楯の会」を組織して、多くの若者に
「対抗的同一性」(カウンター・アイデンティティ)という新しいアイデンティティを与えた三島もまた、
単なる同性愛者ではなく、天才的リーダーだった。
そして、三島由紀夫が孤独な天才作家から天才的リーダーへの道へと方向転換したのは、実に内的な病の
ポテンシャルを、創造を通じて克服した、あの「金閣寺」創作の時期だった、と見るのが妥当であろう。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より

497:無名草子さん
11/02/08 11:20:38 .net
横尾(忠則)番記者として働きはじめた頃に、三島由紀夫とも親しくなった。
平凡パンチ誌で三島の悪口を書くという企画があり、他の編集者は担当したくない様子だったので、自分が
名乗りでた。すぐ三島に電話をし、「今回は三島さんの悪口を書く企画ですが…」と正直に打ち明けて取材を
申し込んだのが、三島の好感をよんだらしい。
三島は人気実力ともにトップの作家でありながら、ハリウッドスターのようなオーラを発していた。
三島はこれまで見たこともないような光り輝く“創造物”という感じであった。パンダとかマダガスカル島の
横っ飛びのベローシファカのようにいつ会っても新鮮な驚異を与えてくれた。

椎根和「オーラな人々」より

498:無名草子さん
11/02/08 11:22:11 .net
…オーラを発する人々ということでは、やはり六〇年代後半の、三島、横尾、寺山、玉三郎、土方たちは
超弩級であった。彼らのそばにいるだけで、異世界に連れていかれそうな気分になった。そのどこかに連れさられる
という不安感が、悦楽味であった。
モノの時代に入ると、そばにいるだけで、異界へつれていってくれそうなスターはいなくなった。
…ぼくは、三島の最後の三年間を剣道の弟子として稽古をつけてもらい、一緒に学生デモ視察へ行き、ボーリングをし、
白亜の三島邸へ何度も行った。
三島は、文学の方では、大ベストセラーを何作も書き、今なら流行語大賞受賞まちがいなしの国民的喝采をあつめた。
そういう文学的才能以外にも、新しい才能を発見する眼力があった。横尾忠則、坂東玉三郎、美輪明宏、澁澤龍彦らは、
三島の紹介によって市民権を得た、といってよい。

椎根和「オーラな人々」より

499:無名草子さん
11/02/14 10:49:04 .net
「そうそうワタシあの人に一度しかられたことあるんですよ。ワタシ、あの人のことを
『三島サンは首から下は北海の荒海の漁師だけれど、首から上は明治美人だ』
と言いました。そしたらあの人ワタシに言いましたネー。
『それはボクの顔が馬ヅラだと言ってるんでしょう(笑)明治美人というのは面長のことをいうんだから』

ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネー。
お若いといっても三島サンももうおトシです。ボデービルもいいんですけど文学に本腰を入れてほしいですネー。
そして、もっともっとよいホンをいっぱい書いてほしいですネー。あの人の持っている赤ちゃん精神。これが
多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネー。」

淀川長治「『平凡パンチ』インタビュー記事」より

500:無名草子さん
11/02/16 18:42:20 .net
散々ガイシュツだろうけど、皇后さまとお見合いしたって
話を皇室番組で見てびっくらしたw

どういう経緯でそうなったんだろ。
日清製粉がらみ~?か

501:無名草子さん
11/02/16 20:36:14 .net
>>500
お見合い相手を、聖心女子大学から何人か推薦してもらって、その中に美智子さんがいたらしいよ。

502:無名草子さん
11/02/16 22:39:03 .net
>>501
アリガト
あーそういうことか・・・

503:無名草子さん
11/02/16 23:35:47 .net
三島さんが美智子さんと結婚してたらどうなってんだろう

504:無名草子さん
11/02/17 10:15:47 .net
三島さんも自殺しなかったかも・・・だし、
現在の皇統の危機もなかったかも・・・

505:無名草子さん
11/02/17 22:10:47 .net
三島と美智子さんの子供(娘)が皇室に嫁いだかもね。

506:無名草子さん
11/02/18 16:49:56 .net
いまの皇統の危機は美智子さんの私怨だから。

507:無名草子さん
11/02/27 18:21:25.28 .net
ホモなのに、、、何で結婚なんてしたのかな?

508:無名草子さん
11/02/27 19:26:12.10 .net
まったく女を受け付けないほどのホモじゃないからでしょ。

509:無名草子さん
11/03/01 22:39:45.44 .net
道徳を信じない道徳家、愛を拒否する愛の詩人、詠歎的であることを恐怖する、しかもロマンティックな歎美家。
―『沈める滝』の背後にある作者の姿を、一口にいえば、そういうことになるのではないか、とぼくは思っている。
既成のものを信じないという立場に立って、その荒廃の上に、あらためて夢なり美なりを、人工的につくり
出そうとするところに成りたってきたのが、一般に三島由紀夫の文学の世界なのである。(中略)
夢が、告白が、ありきたりの男女の物語が、もし信じられないのだとしたら、その信じられないという地点に立って、
ひとはなお、夢や告白や物語の花々を、咲かせることができないものか。人工の花々を。―三島由紀夫の文学は、
その設問から出発するのであって、例はそのほか、あげてゆけば彼の全作品に及ぶことになるだろう。(中略)
彼はたしかに、古い夢の、神々の、死の自覚の上に立って、つねに仕事をしてきた作家であるといえるだろう。
彼は神々を、錬金術師のように、合成することを夢みる。そこに彼の批評精神があり、光栄があり、そしてまた
苦しみがあるばずだ。

村松剛「『沈める滝』解説文」より

510:無名草子さん
11/03/05 10:20:50.62 .net
三島由紀夫が他界してから、彼の死を中心にして実に多くの本が出版された。この現象は今後も続くと思うのだが、
僕が読んで納得がいく三島由紀夫論、三島由紀夫評は、全部に目を通した訳ではないものの、意外に少ないようだ。
僕は、三島由紀夫が死をもって問いかけたのは、手続き民主主義とも呼ばれる今の体制の中で、本当のナショナリズムを
形にすることは可能なのか、という問題だったのではないかと思う。そのように視点を定めてみると、見えて
くることがいくつかある。僕は、ナショナリズムを国粋主義、排外主義と同一視するのは、伝統尊重を保守反動と
同じと見る考えと共に、いわゆる進歩主義の大きな誤りだと思っている。
(中略)戦後のわが国の議会主義が政策を中心としたものではなく、手続きを中心にした民主主義を本質として
いたことが現れているように僕には思われる。

辻井喬「叙情と闘争」より

511:無名草子さん
11/03/05 10:21:46.37 .net
三島由紀夫が自らの生命を賭けて反対した思想の重要な側面は、この、手続きさえ合っていれば、その政策や
行動の内容は問わないという、敗戦後のわが国の文化風土だったのではないか。彼の目に、それは思想的頽廃としか
映らなかったのである。確かに、このような社会構造の中にあっては芸術は死滅するに違いない。
しかし、多くのメディアや芸術家は、彼の行動の華々しさや烈しさに目を奪われて、それを右翼的な暴発としか
見なかった。もしかすると戦後の社会は、1970年の時点ですでに烈しい行動に対して、ただその烈しさを恐れ、
その奥に思想的な純粋性や生命の燃焼の輝きを見る力を失っていたのかもしれない。

辻井喬「叙情と闘争」より

512:無名草子さん
11/03/10 12:16:37.65 .net
「(三島由紀夫の)絶えず真剣に生きることを望み、『にせものの平和、にせものの安息』(「白蟻の巣」)を
軽視する姿勢は、今となってみれば、だらだらと生きるわれわれへの痛烈な批判となっている。現代の日本人の
ありようを予見していた天才だったと思う。」
なかにし礼


「三島さんのあの『行動』を基準点として、そこからの距離をはかりながら考へるのが習ひ性となつてゐます。」
長谷川三千子


「戦後教育で『人の生き方』だけを教わり、『死に方』を教わらなかった。衝撃でした。
身の処し方、諫死の是非、日本人の責任のとり方、等々あれこれ考えさせられました。今は当時以上に、強く
考えます。」
出久根達郎


「七〇年までは、激しいものこそが美しかった。音楽、絵画、文学、演劇、映画、そして人間の生き方も。
三島由紀夫氏の死は過激が美しかった時代の最後の花だったな、と今になって思います。」
佐佐木幸綱

雑誌「諸君!」三島由紀夫特集アンケートより

513:無名草子さん
11/03/10 15:00:57.48 .net
三島由紀夫のどこがいいの?インテリぶった文学馬鹿が称賛してるだけじゃねえの
スレリンク(news板)l50


514:無名草子さん
11/03/10 17:26:15.97 .net
この機会を逃すと永遠に埋もれてしまうので、三島由紀夫という人間の誠実さについて述べておきたいと思います。
三島さんは、自刃のちょうど一ヶ月前の昭和45年(1970)10月25日に、『東文彦作品集』の序文を
書いています。この東文彦氏は学習院時代に親しくしていた文芸部の先輩で、同人誌『赤絵』はこの東氏の
父君である季彦氏の援助で創刊しています。三島由紀夫は、事件の数ヶ月前に講談社の野間社長に自分が序文を
書くので、東氏の作品集をぜひ出版してくれと頼み、承諾を取ったわけです。このことは、自刃するにあたり、
世話になった方への恩返しをし、後顧の憂いなく事を起こすという事だったのではないかと思われます。
三島由紀夫と東文彦氏は学習院時代手紙を数多くやりとりしていました。お互いに信頼しあった文学上の先輩・
後輩関係だったのですが、東氏は昭和18年に23歳で亡くなり、三島由紀夫は告別式で弔辞を読んだそうです。
そこには堀辰雄も列席していたといわれています。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

515:無名草子さん
11/03/10 17:26:39.68 .net
(中略)
じつは、この東文彦氏の父君の東季彦という方は学長職も歴任していた私の大学時代の恩師なのです。(中略)
その東先生から伺ったことですが、三島さんは息子の命日には今も家にお参りに来てくれると言っていました。
(中略)世界的作家になったあとも、命日にはみえていたということです。凄いのはそれにもましてそのことを
三島はだれにも語っていなかったということです。
これは三島由紀夫の年譜などを見ても、そのことについては書かれていません。あれほど自己顕示欲の強かった
三島由紀夫が、お参りに行ったというのを誰にも語らなかったのですね。普通の人だったら、俺は昔世話に
なった人のことはいつまでも忘れない、だから俺はいまもってお参りに行っているんだとすぐ言いそうなものですが、
それをひと言も言わなかった。(中略)ここに私は三島由紀夫の律義さと誠実さを見るのです。この律義さと
誠実さが結局はあの事件の要因の一つになったのかとも考えてしまいます。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

516:殺人鬼川上弘美婆「しるし」またパクり!反論できないストーカー
11/03/14 01:47:15.49 .net
三島程度のインテリもでないから川上モコ弘美が俺から盗作してるんだろうが、
ペドの猿が。
「形式主義」って言葉しってますかぁ?
しらんですねえ。モコ川上弘美は2ちゃん社員
無関係写真を送り投稿禁止にする人殺しのストーカーブス
ミズモリ関係者

517:殺人鬼川上弘美婆「しるし」またパクり!反論できないストーカー
11/03/14 01:51:19.74 .net
三島がいいとか悪いとか批評する程度の学力が日本の作家にはないわけ
盗作七夜ものがたりの程度の低さ
「考えなし」「ひとすじなわでいかないタイプの人」「バラバラ」
「形式主義」 「みどりのボタン 大きくなる」
(緑のボタンで大きくすると言いたいらしい。
大きくするには 緑のボタン)

盗作5000か所
死ねよストーカー朝鮮中国ジャップ警察殺したからさTSUNAMIで

518:殺人鬼川上弘美婆「しるし」またパクり!反論できないストーカー
11/03/14 02:00:37.37 .net
川上弘美婆=2ちゃん社員荒らし要員モコ(マグナ)なんか
小説書いても猿のようにメシウマを模倣し
猿のように雪をふらしているだけ
「母音」からパクって「黒白赤緑、青紫、アルファオメガ」
とハクチのような猿真似をくりかえし、
ハーフの娘になりたがる猿であるだけで、
ただ一か所も単語や言い回しなどの
言葉の定義が正しかった場所が(七夜に)無い
とりあえず
太宰オタクの三島は愛憎する程度の知能はあった
ストーカーの嫌われ者の荒らし川上が
俺をどうこう盗作するあつかましい精神薄弱である
ああいう「モコ川上」レヴェルとは違う

そもそもアジア人は全員精神薄弱の
ペドでミズモリ常連と同じストーカーの
シェイプシフターで見てみふふりしかできない猿


519:無名草子さん
11/03/23 14:09:31.90 .net
(中略)
日本の安全保障について、疑問点を二つほど提起しておきたいと思います。第一の疑問点は、安保条約第五条の
共同防衛条項です。(中略)第五条に共同防衛として日本国の施政下にある領域において、いずれか一方に対する
武力攻撃があった場合に、共通の危険に対処することが明記されています。が、問題なのは、その中に「自国の
憲法の規定及び手続に従って行動する」と謳われているところです。それは、福田先生がフジテレビの番組
「世相を斬る」海外版で、エドワード・ケネディ上院議員と対談した際に台湾を守る米華条約は「台湾に危機が
迫つたとき、アメリカはそれを助けるかどうか、議会で審議する義務があるといふ程度のものだ」とケネディ議員が
明言していたからです。米華相互防衛条約(1979年失効)を調べてみると安保条約のこの条文とほとんど同じ文言に
なっています。ということは日本も台湾と同様の扱いを受けることになるのは間違いないでしょう。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

520:無名草子さん
11/03/23 14:09:52.78 .net
(中略)台湾は「タダ乗り」の日本と違って、アメリカの要求に対してお釣りが来るほど防衛努力を行っていた
国ですが、その台湾に対して、ケネディ上院議員のこの発言です。(中略)このケネディ発言を通してアメリカの
相互防衛条約に対する本音が垣間見えてくるようです。
二つ目の疑問点は、アメリカの「核の傘」の信憑性です。このことについては、キッシンジャーの『核兵器と
外交政策』(1957)を取り上げ考えていくべきかと思います。(中略)キッシンジャーはその中で注目すぺきことを
述べています。(中略)そのキッシンジャーが全面戦争に際し、西ヨーロッパを守るにあたって、合衆国の
大都市を犠牲にすることを躊躇しており、西半球以外のあらゆる地域、当然日本もそれに含まれていますが、
それに対しては、守る価値がないように見えるであろう、と書いているのです。この発言は「核の傘」を考えるに
あたって、見逃すことのできない重要な意味を含んでいると思われます。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

521:無名草子さん
11/03/23 14:10:14.25 .net
要するにアメリカは、ロシアや中国を相手に最終的にはアメリカ本土を犠牲にしてまで、同盟国を守れないと
いう事であり、このことは、茶化すようですが、「己のごとく汝の隣人を愛せ」というクリスト教の愛の思想は
イエスとその弟子たちのみが実践できたに過ぎないので、格別驚くことではないのかもしれません。が、保守派の
知識人で安全保障問題に口出しする人達は、これらの問題について、きちんと論じるべきだと思います。また、
ここ三十年位完全に精彩を欠いている左翼知識人ももう一度勉強し直して、我々国民の「知る権利」に是非応じて
もらいたいものです。要はアメリカが助けに来てくれる保証などどこにもないということを肝に銘じ、同盟を
結びつつも対米依存から抜け出し、自国の防衛はできるだけ自国で当たるという「人類普遍の原理」に一日も早く
立ち還るべきものと思います。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

522:無名草子さん
11/03/23 14:10:35.50 .net
それから、小泉、安倍政権下の改憲論では、憲法第二十条の信教の自由について、全く触れられていません。しかし、
三島由紀夫も晩年主張していたように、占領軍は、自分達が唯一神のクリスト教徒ですから、宗教というのは
排他的な非寛容的なものだという先入観で被占領国の習俗的なものまで宗教として裁いて、神社はだめだとやった
訳です。ですから改憲する場合には必ず第九条だけでなく、天皇条項、第二十条の信教の自由も全部セットで、
行うべきで、一部分だけの改正というのは、本質が解っていないという事と、なにかアメリカとの関係からとしか
思えない。戦後レジームからの脱却だとか言っていたけれども、結局はアメリカからの要請による憲法改正なの
でしょう。だからけっこう罪は重い。一見、戦後体制を脱却するような標語を掲げながら、実際にはアメリカに
一方的にますます組み込まれていくような内容での改正でしかないのですから。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

523:無名草子さん
11/03/23 14:10:58.30 .net
(中略)
もし三島由紀夫がいま生きているとしたら核武装についてどう考えるかというと、これは条件次第だと私は思います。
先ほどの憲法問題ともリンクすることですが、憲法の改正あるいは憲法を廃止するにしても、いまの憲法に対する
明確な基準ができること。これが一つ。もう一つは日米安保条約に対する明確な双務性を盛り込むこと。この二つの
条件がクリアできれば、核武装については少なくともいつでも核を持ちうるように技術開発は進めるべきである、
おそらくそう考えるだろうと思いますね。
いまの北朝鮮の問題を見てもわかる通り、あんな小さな国がアメリカあるいは五ヶ国を相手に五分の外交的
駆け引きをしているのですから、やはり核は外交上のそれなりの力になっていると思います。ですから三島先生が
いま生きていれば、おそらく核武装に対するアプローチをかなり積極的にしていただろう。ただし、そのためには
憲法と安保条約に対する条件を検討した上でのことですけれどもね。
持丸博

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

524: 忍法帖【Lv=6,xxxP】
11/03/27 14:24:07.77 .net
523レスで410KBも消費してるこのスレは一体…

525:無名草子さん
11/04/18 10:21:10.13 .net
三島自身にとって、その行動は、謎でもなんでもなく、思うところを果断に行なった結果にすぎない。それにも
かかわらず、われわれは、いまだに謎を見つづけている。いや、さらに謎を膨らませるのに精を出しているような
気配である。なぜなのか? もしかしたら、謎を見つづけることによって、三島がわれわれに突きつけている問題を
直視するのを避けているのかもしれない。正面切って取り組むよりも、謎の領域へ押しやって置くほうが、
われわれには好都合なのであろう。

松本徹「三島由紀夫の最後」より

526:無名草子さん
11/04/24 17:14:36.47 .net
あかい一本の道のはて
君のなかのふかい歎きが
君のなかのふかい悲しみが
その肉体を一挙に運び去った
けはしく光る雲のした
あかい一本の道のはて
われらはみな愛した
責務と永訣の時を
歴史の不如意に足摺した君よ
装いをあらためて君は
虹の門から過ぎていった
君の英霊は鶴となって
故国の秋の天を翔ける

浅野晃「哭三島由紀夫」より

527:無名草子さん
11/05/11 11:24:40.48 .net
私が初めて三島由紀夫を町で見かけたのは中学三年生の夏。(中略)
友達と三人でアイスクリームを食べながら歩いていたら、前方から絶対に見覚えのある人が歩いてきた。
「あっ、ほらあの人、三島由紀夫だよ!」と友だちが興奮気味に叫んだ。シーっと人差し指を唇に当てたものの、
私の胸はドキドキと高鳴った。私たちが興奮した理由は三島由紀夫の大ファンだったからというわけではなく、
この年の四月に封切られたセンセーショナルな映画『憂国』をすでに観ていたせいだった。(中略)
忘れようにも忘れられない顔の三島由紀夫が、なんとこの下田に突然現れて前方から歩いてくる、なんて。
興奮を抑え切れない私たちに、黒いサングラスの三島氏は唇の片側の端を少し上げるようなスマイルを浮かべながら、
私たちの横を通りすぎた。あのときの胸のときめきを私はずっと覚えている。
当時はマスコミをにぎわす有名な作家として中学生にもよく知られていたので、その姿をまざまざと見た感激も
あったけれど、それとは別の、なにか宇宙人的な、硬い静かなオーラが一瞬放たれて私の中にスッと入ってきた
ような感覚があった。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より

528:無名草子さん
11/05/11 11:25:01.12 .net
私たちは、サインしてくださいと言いそびれたし、それを言うには映画の印象が強烈すぎたのだ。誰かが
「後つけちゃおうか」と言い出した。キュッとしまったお尻、なんとなく親近感をおぼえる小柄な後ろ姿は
後をつけるには最適の口実だった。
あの日の三島さんは、ちょっとメッシュがかった黒いシャツに細身の白のトラウザーと白い靴を履いていた。
強い日差しの中でその白さが目にしみるようだった。(中略)
三島さんは宇宙人的オーラを発散させながら一メートル四方に入れない近づきがたい雰囲気を漂わせていて、
だからこそ私たち中学生に、もっと近づきたい、追っかけてみたいという気にさせたのかもしれない。『憂国』の
主人公を追っかけたいし、何より私たちはヒマをもて余していたのだった。(中略)三島さんは脇見もせずに、
機械的にカツカツとした足どりでまっすぐに背を伸ばして歩いている。
大工町のゆるい坂を上り大浦の切り通しと呼ばれる、江戸期に船を取り調べるお番所があった方角に向かってゆく。
その先は海だ。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より

529:無名草子さん
11/05/11 11:25:22.96 .net
(中略)「そういえば前に見た写真もスゴかったよね。ロープでぐるぐる巻きにされてすごい形相してるやつ」…
(中略)(写真集『薔薇刑』を)私たちは図書館で見ていた。その表情から、痛めつけられながらもどこか
それが好きというオーラを私たち中学生は感じ取ったのだろう。
「よし、三島由紀夫をおそっちゃおう!」という突拍子もないアイディアが生まれてしまった。
(中略)私たちは忍者のように追っていった。でもいったいどこまでゆくのだろう。
鍋田浜手前のトンネルに入ったので少し距離をあけた、見つかったら大変。ドキドキしてきた。私たちがトンネルに
入ったとき、三島さんはちょうど東急ホテルのプールへの上り道を登ろうとしていた。
そのときだった。急に三島さんが私たちの方を振り向いた。そして黒めがねを上に上げてアッカンベーをしたのだ!
キャッと声を上げて私たちは後ずさりした。要するに、ずっとお見通しだったわけだ。中学生は簡単に遊ばれて
しまった。
三島さんの目はやさしく笑っていた。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より

530:無名草子さん
11/05/11 11:32:07.38 .net
(中略)
昭和45年7月7日のサンケイ新聞に掲載された「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」は三島さんの
遺書としてたびたび引用される。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまう
のではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、
ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」
1980年代の経済バブルを見事に三島さんは言い当てた。現在の日本はというと、コロコロと世界に類を
見ない早さで首相がかわる不安定な「自信のない国」になっている。デモもクーデターも若者の反抗もなし、
平和ボケは極まっている。
私は、いまこそ、三島由紀夫の死の意味を考えるべきだと思う。その死は美とエロティシズムに導かれたもので
あったとしても、大局的には、アメリカに支配された「日本という恋人」に向かっての死を懸けたメッセージ
だったのだ。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より

531:無名草子さん
11/05/11 11:32:29.66 .net
切腹はあの日の日本人の意識を変えさせるくらいの衝撃であり、あれくらいの憤怒を示さなければ、私たちは、
本来、日本人のもっている魂に気づかない、と思ったことだろう。実際その効力はジワジワと年月を超えて
私たちの脳内に浸透している。日本を愛する心について真剣に考えたい。
犬死にと笑われてもいい。五十年後の日本人が理解してくれれば……。
私は、市ヶ谷での「檄文」を三島由紀夫の最後の叫びとして素直に評価したい。ヤジと怒号の中で「男一匹が
命を懸けて訴えているんだぞ」とバルコニーから叫んだ言葉を信じる。三島由紀夫の「本気」を信じる。なぜなら、
私がある鑑識の方から見せてもらった事件直後の写真には、「本気」以外の何物も写っていなかったからだ。
凄惨な場面ではあったけれどそこにはなんともいえない清潔感があった。三島さんの顔は少年のように白く
清らかで安らかだった。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より

532:無名草子さん
11/05/11 11:32:54.98 .net
三島さんはやりきった! そう思うと不思議なことに晴れ晴れとした気持ちが湧いてきた。これが「大きな仕事を
するので来年は来られません」という意味だったのだ。
今年も三島由紀夫の来た夏が巡ってきた。
私はいつも思い出す。三島さんの愛した下田の夏のさらっとした風を。どこかやさしげな直射日光を。手を挙げて
「また来ましたよぉ」と呼びかけながらお店に入ってくるまぶしい笑顔を。肉体が発していた不思議なオーラを。
「あなたは、なーんにも心配することはないんですよ。のびのびとおやりなさい」「遊びにいらっしゃいね」
という声のトーンを。
四十年以上も私の中に住みつづける三島さんは、私の父のようであり、兄のようであり、演劇部の先生であり、
とびっきりステキな人であった。でも、いまの私の気持ちを言おう。
長い年月を過ぎて三島さんの姉貴のような年になった私にとって、彼は、私にアッカンベーをするかわいい弟に
なったのだ。永遠に頭の上がらない弟に。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より

533:無名草子さん
11/05/29 11:50:32.66 .net
彼の小説もそんなに読んでいない。僕が三島由紀夫を「あ、こいつすごいな」と認知したのは、ロンドンです。
ロンドンにいたときに、BBCが没後何年かで特集を組んだ。そのときに彼がインタビューアーにきちんと
英語で答えているのを見て、聞いたら、内容的にはしっかりしていた。つまり、日本の文化をあれほどきちっと
しゃべれるやつはいないな、と僕が思ったくらいだった。それはすごく印象的だった。
彼の英語はうまかった。うまいというか、要するに、発音がいいとかではなくて、非常に適確な英語をきちっと
選んで答えていた。日本人のインタビューには、よく画面の下にテロップ、つまり英語の字幕が流れるのだが、
三島由紀夫のインタビューには付いていなかった。それくらいに彼の英語はわかるのだ。まあ、イギリス人は
(植民地を持っていたから)外国人のしゃべる英語を理解するのは得意だけれども。それにしてもテロップが
流れていなかったから、へーっと思ったし、なるほど、そういうことについては、こういう風に言うのだなと
感心した。

遠山稿二郎「日本の大学と基礎科学の危機」より

534:無名草子さん
11/06/10 20:11:17.87 .net
いわゆる現人神(現御神)の思想は、キリスト教などの一神的なGodではない。日本人の神観念は、本居宣長の
「何にまれ 尋常ならずすぐれたる徳ありて、可畏き物を迦微(カミ)とは云なり」という八百万の神々であり、
「唯一神教的命題」とはかけはなれている。日本の神観念は多義的であり、そこでは人間的な要素も入ってくる。
超越者としての「神」とはあきらかにちがう。そもそも昭和二十一年元旦の昭和天皇のいわゆる「人間宣言」も、
〈神〉にして〈人〉であるという伝統観念からすれば、「神から人へ」ということを特別に強調したとはいえない
かもしれない。しかし、占領下において、GHQ指導のもとでこの「詔書」があらわされたのは、人でありながらも
神聖をもって君臨される天皇(スメラミコト)の民族的、精神的支柱としての意味を否定しようとしたもので
あることには変わりはない。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より

535:無名草子さん
11/06/10 20:11:58.59 .net
『英霊の声』の、あの英霊たちの声々は、「陛下はずっと人間であらせられた」ことを百も承知で、だからこそ
「陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、そのお言葉にいつはりのあらう筈はない」と語る。
しかし、その〈人〉であられる陛下は、国家存亡の危機のときに、生命を賭して死んでいった者たちのために、
国破れし後にあってこそ、「現御神」としてあってもらいたかった。それはまた天皇のために立ちあがりながらも
「反乱」軍として処罰された二・二六事件の青年将校たちの、「天皇」の神聖に希望を託した思いとも重なる。
敗戦の時に二十歳であった三島は、この「神の死」を自己の存在の最も深部において体験したのだ。
三島のダリの「磔刑の基督」の評をそのまま借りていうならば、その初期作品(『盗賊』や『岬にての物語』
あるいは十代作品まで含めてもよい)の言葉の地平には、「いつもその地平の果てから、聖性が顕現せずには
おかない予感のやうなものがあつた」といえよう。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より

536:無名草子さん
11/06/22 23:19:10.17 .net
(中略)ジョルジュ・バタイユの『聖なる神』という作品集の鮮烈な読後感を三島は(『小説とは何か』のなかで)
印象深く記している。(中略)所収の『マダム・エドワルダ』『わが母』の二作にふれながら、三島が一貫して
関心を示し注目するのは「神の出現の瞬間」である。
バタイユは「自己を超越する」こと、「わが意に反して自己を超越するなにものか」の「存在」を求める。
近代的な自我意識と、「神の死」という虚無を現実認識とする他はない人間にとっては(例外なく現代の人間に
とってではあるが)、それは「不合理な瞬間」であり、そこには何か異常で過剰なものが介在しなければならない。
(中略)
三島は、この言葉によっては到達不可能な事柄を、作家が言葉によって表現していることに瞠目しつつ、次のような
説明を加えている。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より

537:無名草子さん
11/06/22 23:19:57.25 .net
〈この「不合理な時間」とは、いふまでもなく、おぞましい「神の出現の瞬間」である。
「けだし戦慄と充実と歓喜のそれとが一致するとき、私たちのうちの存在は、もはや過剰の形でしか残らぬからだ。
(中略)過剰のすがた以外に、真理の意味が考えられようか?」
つまり、われわれの存在が、形を伴つた過不足のないものでありつづけるとき(ギリシア的存在)、神は出現せず、
われわれの存在が、現世からはみ出して、現世にはただ、広島の原爆投下のあと石段の上に印された人影の
やうなものとして残るとき、神が出現するといふバタイユの考へ方には、キリスト教の典型的な考へ方がよく
あらはれてをり、ただそれへの到達の方法として「エロティシズムと苦痛」を極度にまで利用したのがバタイユの
独自性なのだ。(『小説とは何か』)〉

(中略)しかし、バタイユのこの「独自性」もまた言語の領域(ぎりぎりの限界への冒険であるとはいえ)に
あったのはいうまでもない。
三島が明晰にそして最終的に自覚していたのは、この言葉の限界性であった。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より

538:無名草子さん
11/06/30 12:32:05.56 .net
(『詩を書くのが趣味の交際相手の男性が女々しく思えて許せない』という相談者に)
 美輪明宏『文学者でも例えば三島由紀夫や中原中也なんかは男らしかった思うけれど…。
貴女ももっと本をお読みになったらどうかしら?』
 相談者『(憤然として)読んでますよ』
 美輪明宏『どんなのを読んでらっしゃるの?』
 相談者『秋元康とか』
 美輪明宏『(一瞬判らず)あきも……?(ピンと来て)オホホホホホwwwww』
 相談者『?』


539:無名草子さん
11/07/10 17:54:22.31 .net
『太陽と鉄』は、自裁のプロセスと心理的構造を余すところなく分析したまことに戦慄的なエッセイであるが、
そのなかで次のように明言しているのだ。

〈私は今さらながら、言葉の真の効用を会得した。言葉が相手にするものこそ、この現在進行形の虚無なのである。
いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終るともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのである。
(中略)言葉は言はれたときが終りであり、書かれたときが終りである。その終りの集積によつて、生の連続性の
一刻一刻の断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する。少くとも、「絶対」の医者の待つ間の待合室の白い
巨大な壁の、圧倒的な恐怖をいくらか軽減する。(『太陽と鉄』)〉

この「絶対」を、「神」といいかえてもいい。いや、ここではあきらかに神の顕現のことがいわれているのであるが、
三島が明瞭に認識していたのは、「言葉」によってその存在を暗示(バタイユ的手法)することは十分に可能で
あっても、それは「現在進行形の虚無」にたいしては一場の役割しか果たしえないということである。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より

540:無名草子さん
11/07/18 23:12:55.98 .net
自裁という行為が決定的な意味を持ちだしたのは、ここにおいてであろう。「神の死」の現実の虚無のなかに
おいては、バタイユのいう通り「過剰のすがた以外」に真理を把握し、神の出現に立ち合うことはできない。
「自決」とは自由のマイナス極限で、自己の存在を破壊することであり、その決定的、一回的な欠損の過剰さの
なかにこそ「絶対」は到来するだろう。そして遺作『豊饒の海』は、仏教的な相対主義に呑み込まれてゆく。
あらゆる歴史と存在を描ききって完結する。
三島の自決が四十年の歳月を経て、今日に至るまで深くおおきな影響を与えつづけているのは、三島が自己の
存在そのものを、戦後日本社会という虚無の時空のうちに磔刑とし吊し、供養としてささげてみせたからである。
そして、われわれは未だにその「死」の深い本質的な宗教性を知らずに(あるいは知ろうともせずに)いるからだ。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より

541:無名草子さん
11/08/04 15:57:49.31 .net
三島の死後七年目、『サド侯爵夫人』のフランス語訳とパリでの上演に関わった作家ピエール・ド・マンディアルグは、
戦後の仏作家のなかでの最もすぐれた才気ある書き手の一人であるが、仏文学者の三浦信孝氏のインタビューに
答えてこう語った。

〈現在では、三島はジョルジュ・バタイユに強く惹かれていたとよく言われますが、私には確信はありません。
(中略)しかし私の見るところでは、三島はバタイユとはだいぶ違います。彼らの類似点は、彼らに共通する
絶対に対する情念であり、生と生の哲学を極限まで、絶対まで追究しようとする情熱ですが、三島は、自分の観念を
真の極限にまで、血と死にまで追いつめる実例をわれわれに残した唯一の存在であって、残念ながらバタイユは
そうした実例を残したとは到底言えません。(『海』一九七七年五月号)〉

三島の文学と行動の総体を一言で射抜くマンディアルグのこの見解は、一神教にたいしてほとんど理解を
拒もうとするこの国では、残念ながら聞くことができなかったものなのである。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より

542:無名草子さん
11/08/17 09:08:06.82 .net
松本徹(司会):三島さんは、どんな印象でしたか。
本野:非常に頭のいい人でした。特に文学に関しては並ぶ者がいない。
六條:それは、誰もが認めてましたね。
(中略)
松本:三島さんは、戦争中でありながら一種の文化言論活動のようなことをやっていますねえ。
本野:それは彼が反抗的気質だったとか、周りの者に動かされてということではなかったと思いますよ、文化とか
言論とかに対して純粋な気持ちがあって、それを学校の中で実現しようとしたら、ストップがかかったという
ことだと思います。(中略)
佐藤秀明(司会):この一連の出来事に関連してだと思いますが、この時期の平岡公威はだいぶ感情が高ぶっていて、
総務部総務幹事を辞めたいと清水先生に手紙でぶちまけています。
六條:そういう手紙が残っているんですか。清水先生とはツーカーでしたからね。僕らには見せない顔を見せて
いたんですかねえ。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より

543:無名草子さん
11/08/17 09:10:22.41 .net
松本:(三島は初恋の園子と)学習院の友人の妹として知り合って、手紙のやりとりをするようになり、彼女の
一家は軽井沢に疎開するんです。(中略)そこへ三島が、主人公がですね、訪ねて行くんです。それで旧軽井沢の
ゴルフ場で接吻をすると書かれています。だけど、この恋愛は実らずに終わってしまって、三島はずいぶん
苦しんだようです。だから戦後は、辛い出発をしなければならなかった。
本野:まあ、あの当時でもそういうことはあったでしょうね。これは僕個人のことなのだけれども、一学年下に
黒田っていうのがいたでしょ、黒田一夫。その妹と僕が恋仲になって、だけど彼女が亡くなってしまったんだ。
それはショックでね。昭和二十年頃だったんだけれども。そのとき平岡に話したのかな、よく覚えていないけれども、
彼からお悔やみの手紙をもらったんですよ。なくしてしまったんだけどね、残念なことに。それがことのほか
よい文章でね。自分のことがあったあとだから、ああいう手紙が書けたのかなっていまちょっと思いましたね。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より

544:無名草子さん
11/08/17 09:13:34.01 .net
佐藤:(三島は)高等科では総務部総務幹事になっていますでしょ。四人の幹事のうちの一人です。集会などで
号令をかけたり、挨拶したり、そういう点では目立っていたのではないですか。
本野:いや、そんな記憶はないですね。目立つということは、彼の場合はほとんどない。
松本:高等科で、さっき話の出たお芝居を書いてますね。それで演出もしている。そういう点では、ある面の
中心的な存在だったのではないですか。
六條:それはね、小説や演劇のこととなれば、彼の右に出る者なんかいないんですよ。その点ではもう別格。
それだけはみんなが一目置いていた。
本野:成績もね、僕らがどんなに勉強しても絶対に一番にはなれなかった。全然違うんですよ、彼の一番は。
記憶力とか理解力とか群を抜いていた。二番を引き離した一番だったんです。ましてや文学に関しては全く
次元が違う。
佐藤:ということは、性格的にリーダーになるとかいうのではなくて、お芝居となれば、身につけたものや才能で
平岡を据えるのが当然だということになっていたと、こういうことなんですね。
六條:ええ。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より

545:無名草子さん
11/08/17 09:16:33.97 .net
本野:彼は優れすぎているというか、異なりすぎているということですよ。それで彼は優越感をもつとか
そういうのでなくて、自然に優れていたということでしょうね。
松本:三島の側から言いますと、外務省なり文部省なり社会に出て仕事をしている人たちがいて、自分はもの書き
という特殊な立場にいて、何というかコンプレックスのようなものをもったのではないか。文学者というのは、
本当の意味での一人前の社会人ではないんじゃないかという意識ですね、そういうものがあったのではないか。
本野:彼とは割と簡単に話もできたし、間に垣根があるという感じでもなかったんですよ。でも、彼は自分の
世界を持っていたんですね。
松本:いや、石原慎太郎との違いということにもなるかもしれませんが、実社会の中で何かをするという意識を
ずっともっていたのではないかと思うんです。(中略)
(そして、その)行動が象徴性のレベルになってしまう。芸術家の行動というのは象徴性というところへ
行かざるをえないんじゃないかな。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より

546:無名草子さん
11/08/17 09:18:58.03 .net
松本:これは僕自身の気持ちが入っているのですけれども、少年のときから文学の世界を目指して、それで
文学の中でやってきたんですが、いまの歳になると一種の空しさみたいなものを感じるんですよ。実業の世界で
生きている人は、何か世の中に痕跡を残していて、小説家がやってきたことと言えば言葉をただ並べただけだと
いう空しさですね。そんなものが三島にはあったのではないか。空しさをあえて突き抜けてみせるという意志が
あったように思います。
本野:空しいという感じは超越していたと思うなあ。(中略)あれが彼にとって自然な姿だったんじゃないだろうか。
昔彼と話をしていても、全く偉ぶった感じがしない。そのまま別の世界にいるという感じだった。あなたもそうでしょ。
六條:うん、そう。平岡は平岡でしたよ。それでいて我々とは全然違うんだ。それがすごいことだとみんな
感じているんだけれども、学校ではね、そういうことは小さなことだったんです。頭がいいとか、文学をよく
知っているとかは。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より

547:無名草子さん
11/08/17 09:24:09.22 .net
松本:この間、演劇で三島と関わった和久田誠男さんの話を聞いたんですが、宇宙人じゃないかと思ったと
言ってました。会っているときはそうは思わないけれども、家に帰って三島さんのことを思うと宇宙人としか
思えないと言うんです。いまのお話は、そういうところと関係しますね。三島さんのそういう面が現れるのは、
高等科からですか。
六條:そうねえ、中学のときはたわいもない子どもでしたよ。むしろ北条浩の方がずっと弁が立ったし、
理屈っぽかった。
佐藤:北条さんというのは、創価学会の会長になった人ですね。
六條:ええ、学習院を終えて海兵に行って。北条はよく平岡に食ってかかって、口論というか口喧嘩をしていましたよ。
松本:三島というのは、やっぱり天才と言うしかない人だったと思うのですが、それがどういうところで
形成されたのか、そこが知りたいですね。
六條:それはね、清水先生の感化ですよ、清水先生にもそういうところがあったんです。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より

548:無名草子さん
11/08/18 12:33:54.61 .net
六條:岩田先生も(三島に)目をかけたでしょうが、岩田先生や佐藤文四郎先生は、清水先生とは違いましたね。
(中略)「輔仁会雑誌」に書いて清水先生に認められ、「文芸文化」に小説を発表することになるのですけれども、
あの清水先生に認められ可愛がられたというのが、大きかったんだと思いますよ。
佐藤:なるほどねえ。三島由紀夫がいたから清水文雄がいたんじゃなくて、清水先生がいたから三島由紀夫が
いたということですね。
六條:「輔仁会雑誌」に平岡の書いたものが載るでしょ。われわれからすれば平岡のが載るのは当たり前だと
思っていましたよ、平岡もそんなふうでしたよ。だけど、僕らには、彼の書くものが分からないんだ、難しくて(笑)。
松本:清水先生を読者だと思って書いていたんでしょうね。
六條:だから、僕らの前ではひょうひょうとしていましたよ。体が弱かったけれども、コンプレックスなんか
もっていなかったみたいですよ。驕らないし見下しもしないし、卑下している様子もなかった。ひょうひょうとして
当たり前の顔をしていました。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より

549:無名草子さん
11/08/18 12:35:07.73 .net
佐藤:中等科から高等科にかけて、四歳年上の東文彦と三島は親しくなります。(中略)(三島は)自分の作品が
くだらないものに思えたとか、そういうことも書いています。だから、自己評価も素直で、また思うように
ならないことにはどんどん愚痴を言うといったタイプだと思っていましたが。
本野:そういう相手もいたんでしょうね。僕らにも愚痴を言ったのかもしれない。でも、愚痴に聞こえなかったんだね。
六條:彼は意志が強かったからねえ。(中略)
本野:それとね、家柄というんでしょうか、彼は普通の家でしょ。やはり華族の子弟との違いというのが
あったように思いますね。彼が優秀な人間だったということを関連づけてみると、そう思います。(中略)
あなた(六條さん)のように京都の古い家柄の華族とはやはり違う。(中略)反面、だけど俺の方ができるぞ
といった気持ちですね、そういうのが三島にもあったんじゃないかと推察します。
松本:それは確かにあっただろうと思います。あったから『春の雪』といった小説が書けたんですね。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より

550:無名草子さん
11/08/20 13:54:08.50 .net
松本(司会):(三島は)最初は着物姿で現れたとか。終戦間もなくのあの時期、若い人で着物着ているひとなんか
いなかったでしょうね。
川島:そうですよ、あの時代、講談社の社屋は焼夷弾でね、黒こげになっているんですよ。(中略)そういう時代に
彼は紺絣に袴をはいて来ました。それはちょっと印象的でしたね。
松本:太宰治に会う時、着物を着て懐に匕首を呑んだような気持ちだったと三島は書いてますけど、講談社へ
行くのにもそういう気持ちだったんじゃないですか。
川島:どうですかね。相当緊張してました。
会ったのは僕だけでした。(中略)今日はこういう新人が来るから、頼むよ、と言われて。
松本:(中略)今後いけそうかどうか、見極めようと。
川島:ええまあ、やっぱり違いましたよ、普通の作家とは。僕たち池袋あたりでカストリ焼酎飲んで、檀一雄を
はじめとして、まあ無頼の連中とばかりつき合ってました。ところが、そういう文壇とは関係がない。なんか
スッとした、まあ貴公子っていう言い方はあんまり正確でないけど、何かスカッとした、よそ者が入ってきた。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より

551:無名草子さん
11/08/20 13:57:06.37 .net
川島:プライベートなことになるけど、三島由紀夫の妹美津子さんっていうのがね、家内の同級生なんですよ。
三輪田高女のね。同級生で親しくしていた。そこでね、三島のお母さんの倭文重さんもまた三輪田出で、遊びに
来るようにって言われてね、何回も遊びに行ったことがある。三島家へですね。三島由紀夫を訪ねるのとは別です。
家内について何回も行ったことがある。
井上(司会):講談社で三島由紀夫の来訪を受けた後ですね。
川島:ええ。そんなことから親近感持つようになった。そして家族ぐるみの付き合いになった。だから僕がね、
馬込の三島家を訪ねると、玄関左手に日本家屋があったんですよ。そこに親爺さんと倭文重さんがいて、僕に
気づくとね、あ、川島、こっちだよって必ず呼ぶの。(中略)今ね、うまい焼酎があるよって。その頃の
焼酎ってのはね、芋焼酎でね(笑)。(中略)
井上:三島が焼酎を飲んだとは聞きませんが。
川島:ええ、息子の方はね、全然ダメ。銀座のエスポワールってとこへ一緒に行ったことあるんです。でもね、
水割り一杯飲んで、真っ赤になってね、大変だった(笑)写真ありますよ、探せば。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より

552:無名草子さん
11/08/20 14:04:11.30 .net
松本:林房雄なんかと、早くから会ってましたね、三島は。
川島:ええ。
松本:川島さんも勿論……。
川島:ええ、会ってます。(中略)林房雄がね、山の中腹に書斎を作ったんですよ。その書斎びらきをするって
いうんでね。三島さんと呼ばれたの。そしたらね、その頃ちょっと忙しかったのかな、途中で帰ってしまった。
そしたらね、三島が帰ったら、花がなくなったよってね、林房雄は酔っぱらって言い出したんだ。じゃああれ呼ぼう、
熊谷久虎という映画監督がいるが、その義理の妹のあれを呼ぼうって。あれは誰だろうと思ってたら、原節子なの(笑)
君ィ迎えにいってこいよっていうからね、地図書いてもらって、(中略)湯上がりの彼女連れて僕は林房雄の
家へ行った。
松本:じゃあ三島は会ってないわけですね、原節子と。
川島:会ってたら、いやあ、どうだったか。
山中(司会):何年頃のことでしたかご記憶ありますか?
川島:何年頃だろうねえ。
松本:『仮面の告白』は出版されていました?
川島:もう出ていた。林房雄は三島をかわいがってますよ。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より

553:無名草子さん
11/08/20 14:08:27.46 .net
山中:川島さんのお仕事では講談社インターナショナルでのものがありますね(英訳版『太陽と鉄』を見せる)。
佐藤(司会):ああ、インターナショナルに移られたんですね。
川島:これはねえ、(社で)反対が多くてね。カバーの裸の写真はやめてくれっていうんだ。
松本:三島さんは是非ともこれでって……。
川島:ええ。アメリカじゃね、裸の写真こういうふうにするとね、ゲイのね、一つのシンボルになるから、
それだけはやめてくれっ言われたんだけどねえ、「いや、是非ここにこれやってくれ」って(笑)。
松本:いい本ですよ。
佐藤:いい本だ。
山中:中は二色刷りで、お金かかってますよね。
川島:かかってんだよこれ。それで、裏に署名。それが効いてるんだ。
(中略)
山中:帯をするとちょうど褌が隠れるようになってるんですね。
川島:そうそう。隠したんだよ(笑)。
山中:英語の題字も三島の筆ですか。
川島:そうですよ。そちらもどっかにあるんだけど。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より

554:無名草子さん
11/08/20 14:10:56.09 .net
川島:ある時ね、三島家を訪ねて、一緒に出たら、「川島さん今日はあいてる」っていわれてね、僕は会議が
あるので社に帰らなくちゃといったら、「それじゃいいや、この次にしよう」って。パレスホテルへ送って行くと、
「出来たらあなたと一緒に行きたいんた」って、楯の会だね。
佐藤:決起の予行演習とか。
川島:いや、一緒に飲むんだって。「川島さんがいると盛り上がるから」って(笑)。僕酒飲みだからね。
彼あまり飲めないから、「代わりに飲んでくれないか」っていうふうに話してたね(笑)。(中略)ああいう時はね、
惜しいんだよな。会社のことなんか別にしてね、三島がそんなこと言うのはあんまりないからね、あの時期にね。
どうして一緒にいかなかったかと悔やまれますけど。まあ人生ってそういうもんだよね(笑)。
松本:最後の別れみたいな、そういうことはありましたか。
川島:いや、別にないですねえ。あれが実はそうだったのかなあ。うん。ただ凄く忙しかったからね、例会とか
なんとかでね。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より

555:無名草子さん
11/08/21 11:14:06.04 .net
山中:映画「トラ・トラ・トラ!」を見にいこうと誘われたというお話ですが、それも晩年ですか。
川島:そうです。
山中:三島が好きだった戦争映画ですね。
川島:「トラ・トラ・トラ!」はね、楯の会の推薦映画だったの。隊員と一緒に何回もみてるらしいよ。志気を
鼓舞するために。まあ、あの事件も真珠湾攻撃みたいなところがあるからね(笑)。でも、今ねえ、三島由紀夫
みたいのいないもんな。もう全部フラットになっちゃってね。人間ね。
松本:数世紀の間に一人出るかどうかの人ですね。
(中略)
松本:川島さんが親爺さんと意気投合したってのは(笑)。
川島:いやあ、あの親爺とはホントによくつき合った(笑)。
佐藤:テレビ局や編集の人なんかが来ると、親爺さん見ているわけですよね。親爺さんと言葉を交わして帰る人は
そんなにいなかった。
(中略)
松本:(中略)お母さんが、あれだけ早熟な才能を育てたと思うんですが。
川島:やっぱり、原因はお袋じゃないかな、あの親爺よりも。「年取ると段々親爺に似てくるからやだよ」とかって
いってたけど(笑)。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より

556:無名草子さん
11/08/21 11:16:32.00 .net
佐藤:ジョン・ネイスンが評伝で、家庭の中のことを結構書いてしまいましたね。あれは、ちょっと平岡家に
とっては、喜ばしくないような……。
川島:喜ばしくない。
ネイスンってのはね、あれ変わった奴だ(笑)。僕は非常に親しくしてて、渋谷の恋文横丁かなにかに連れてったんだ。(中略)
面白い男ですよ。ただ、まあねえ、聞き書きによる取材だから、よく分かってないですよ。
松本:彼は、日本語はよく出来るの?
川島:出来ますよ。僕は会ったときに、落語を一席なんて言うんだあいつ(笑)。その落語がね、なんだかね

「火焔太鼓」じゃなくて、なんか、聞きかじりのやつやって、日本語これだけ出来るんだって誇示してた。
まあよく出来る男ですけどね。でかくて、オートバイ専門で、ホントにアメリカンスタイルね。いい意味でも

悪い意味でも。どうしてんだろうなあ、今。
井上:カリフォルニアのサンタ・バーバラにいるんじゃないですか。
佐藤:一時映画界に入ってたみたいですけどね。
川島:撃たれ役じゃないんですか(笑)。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より

557:無名草子さん
11/09/20 15:27:56.21 .net


558:無名草子さん
11/10/04 12:16:54.44 .net
たしかに三島君には、絶望するだけの根拠も資格もあった。彼は言葉のなかに生きていた。あるいは、言葉を
生きていた。(中略)言葉によって存在するためには、まず対話の真の意味を理解し、その姿勢を身につける
ことから始めるべきなのである。(中略)
それにしても三島君は、まさに対話の名手だった。もちろん対話は相手を選ぶ。すくなくともぼくにとっては、
得がたい対話の相手だった。真の対話には、論破することも、されることもない。論争とは違うのだから、
勝敗は問題にならないのだ。また、社交でもないのだから、譲歩しあう必要もない。なんの妥協もなしに
対立し合い、しかも言葉のゲームにたっぷり堪能するという、いわば対話の極致を体験できたのも、三島君との
出会いのおかげだったと思う。(中略)三島君にはつねに他者に対する深い認識と洞察があった。絶望はいわば
その避けがたい帰結だったのだ。

安部公房「周辺飛行19」より

559:無名草子さん
11/10/26 17:28:05.89 .net
つづきよろ

560:無名草子さん
11/10/27 10:09:43.10 .net
三島由紀夫の噂話・思い出話2
スレリンク(uwasa板)

561:無名草子さん
11/10/29 11:00:57.44 .net
今、生きていたら、

562:無名草子さん
11/10/31 12:45:10.76 .net
今、生きていたら、


563:無名草子さん
11/11/29 10:36:22.85 .net


564:無名草子さん
11/12/07 18:15:15.97 .net
作者名でググると、最初に生首画像の出てくる作家など、
そう多くはないな。

565:無名草子さん
11/12/23 16:23:46.19 .net
死ぬまで美学を貫いた三島は真の武士であり文士でもある。

566:無名草子さん
11/12/24 00:00:46.62 .net
そうそう。

567:無名草子さん
12/01/08 18:03:10.88 .net
>>563
ほんとに努力してんの?
だったらお前のクラスの全員の悪い所それぞれ10個以上言える?
いいか?中学以降の人間関係を幼稚園や小学校の友達付き合いと同じように甘く考えてたら駄目
人付き合いってのはいわば個人と個人の外交戦争なんだよ
外交を有利に進めようと思ったらそれなりの武器を持ってないと
それには相手の弱いところを出来るだけ多く知っておく事
弱いところを攻めるのが戦いの鉄則だからな
人の弱点ってのは、ズバリ過去。過去は変えられないし、逃れられない
例えば田舎者とか、元デブとか、元マジメとか何でもいい。
未来、将来の事なんか言ったってしょうがない。努力でどうにでも逃げられるんだから。
未来志向なんて言ってる奴に碌な人間いないだろ。高校デビューとか大学デビューとか。
過去の他には見た目とか家が金持ちのボンボンとか、とにかく本人の努力で逃げられない所を衝く
どこで生まれてどんな風に育ったか、それが人間にとって一番の財産。
例えばお前は日本人だよな。それがどれほど凄い事か、早く気付いた奴が人生で最終的に勝者になる
10代の内はガリ勉だの筋トレやってる暇があったら、他の奴より早く「気付く」事
競争は既に始まってるんだぞ

568:無名草子さん
12/01/08 18:55:14.86 .net
「仮面の告白」って面白い?
読んでみたいんだけど三島由紀夫って政治家だしあんまり関わりたくないんだよね・・・

569:無名草子さん
12/01/27 19:00:34.55 .net
面白いよ!

570:無名草子さん
12/02/02 01:24:25.65 .net
金閣寺読んだよ。まあまあかな。
仮面の告白面白かった。
けど、この人の作品ってやっぱりなんかどっかキモイ。
お耽美系なキモさとでもいえばいいのかなぁ。

571:無名草子さん
12/02/05 09:46:37.58 .net
誰もが平岡家を語るが、橋家に言及する者はほとんどいない。平岡定太郎と夏子ばかりが論じられて、橋健三と
トミは等閑視されてきた。あたかも三島由紀夫には、定太郎・夏子という父方の祖父母しか存在しなかったかの
ようであり、「一世紀ぐらい時代ずれのした男」と「或る狂ほしい詩的な魂」の女だけが三島文学の形成に
影響を与えたかのような印象を受ける。しかし、それは事実だろうか。三島は、母方の橋家からは大して影響を
受けなかったのだろうか。
健三は、万延2年(1861年)1月2日に金沢に生を享けた。加賀藩士の瀬川朝治とソトの間に次男として生まれ、
武士の血をひく。健三は幼少より漢学者・橋健堂に学んだ。明治6年(12歳)、学才を見込まれて健堂の三女・こうの
婿養子となり、橋健三と名乗る。健三は14、5歳にして、養父の健堂に代わり講義を行うほどの秀才だったという。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家―もう一つのルーツ」より

572:無名草子さん
12/02/05 09:47:02.06 .net
やがて健三は妻子を連れて上京し、小石川に学塾を開く。(中略)明治21年(27歳)、共立学校に招かれて漢文と
倫理を教え、幹事に就任する。妻・こうの死去により、健堂の五女・トミを後妻とした。明治27年(33歳)、
学校の共同設立者に加わる。明治43年(49歳)、第二開成中学校(神奈川県逗子町)の分離独立に際して、
健三は開成中学校の第五代校長に就任した。
開成中学校校長としての健三の事績は『開成学園九十年史』に詳らかで、(中略)顔写真を見ると、健三は白い
長髯を蓄えて、眼光炯々とした異相である。生徒は、「青幹」「漸々」「岩石」と渾名をつけたという。
(中略)
漢文の授業では、教科書として四書五経ではなく、『蒙求』を使用した。(中略)『蒙求』は、清少納言から
漱石に至るわが国の文学者に影響を与えた故事集である。テキストの選択から健三の教育観の一端を窺うことができる。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家―もう一つのルーツ」より

573:無名草子さん
12/02/05 09:47:28.69 .net
(中略)
(開成の)初代校長は、高橋是清。(中略)第四代校長の田辺新之助は、(中略)英学者にして漢詩人として
令名を馳せた。長男が哲学者の田辺元で、三島は学習院時代から『歴史的現実』など元の著書に親しんでいる。
第九代校長の東季彦は、(中略)一人息子が、夭折した東文彦である。三島と文彦との親交は『三島由紀夫
十代書簡集』に詳しく、晩年の三島は『東文彦作品集』の刊行に尽力した。二・二六事件、田辺元、東文彦……、
健三をめぐる歴代校長の人脈と三島との関わりは以外に深い。
(中略)
健三は雇われ校長ではなく、学校経営者であった。学校の移転拡張を図るため、大正4年に組織を財団法人とし、
校主は理事となる。当時の寄付行為第五条には、三校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び
不動産の全部を寄付し之を財団法人の財産とすることが謳われており、「この三校主の勇気決断は、この学校の
出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と学園史に記されている。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家―もう一つのルーツ」より

574:無名草子さん
12/02/05 09:48:00.99 .net
建物は老朽化・狭隘化が著しく、教室の床や廊下は波打ち、机は穴だらけで、生徒は「豚小屋」と呼んだという。
校舎の移転整備が課題であるが、学校側には土地も資金の当てもなかった。そこで健三たちは、窮状を詩文に託して
早大教授の桂湖邨に訴えた。桂はこの話を前田利為侯爵に伝え、大正10年に前田家の所有地を格安で払い下げて
貰うことになった。場所は、現在の新宿文化センター一帯である。詩文で土地を手に入れるとは、三島の祖父に
相応しいエピソードである。漢学者の桂は『王詩臆見』など王陽明に関する論文を著し、『奔馬』の藍本の一つ
『清教徒神風連』の著者・福本日南とも親交があった。(中略)
ところが、この土地に目をつけた東京市長・後藤新平が、電車車庫の整備を計画して、学校側に譲渡を申し入れてきた。
健三は直ちに突っぱねた。是清からも譲渡を勧められるが、硬骨漢の健三は拒絶する。やがて関係者と相談した結果、
市民のために東大久保の土地を譲る。紆余曲折の後、学校は新たに日暮里の現在の高校敷地を入手した。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家―もう一つのルーツ」より

575:無名草子さん
12/02/05 09:48:32.94 .net
(中略)
永年にわたり健三は、赤字と襤褸校舎を抱えた開成中学の校長・理事として奮闘した。校舎の移転用地を確保し、
建設資金を集め、震災を乗り越えて新校舎を竣工させた。また、校長就任時に六百名であった生徒定員を文部省との
粘り強い交渉の結果、千人に拡充している。開成学園の今日の隆盛の礎は、健三が築いたといっても過言ではない。
こうした多年の功績により、大正12年2月、健三は勲六等に叙せられ、瑞宝章を授与された。
(中略)(平岡)夏子が一人息子・梓の嫁に迎えたのが、健三の次女・倭文重(三島の母)であった。健三は、
開成中学校校長を辞職後、昌平中学(夜間)の校長として、勤労青少年の教育に尽瘁した。昭和19年、四男の
行蔵にその職を譲り、故郷の金沢に帰った。同年12月5日、健三は永眠する。享年84歳であった。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家―もう一つのルーツ」より

576:無名草子さん
12/02/08 12:49:15.03 .net
(中略)
トミは、明治7年に金沢で生を享けた。父は橋健堂、祖父は橋一巴で、いずれも加賀藩の漢学者である。トミは
六人姉妹の五番目で、(中略)姉・こうの死去により(中略)明治23年に健三の後妻となる。健三は29歳、
トミは16歳であった。二人の間には、雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子の三男三女が生まれた。(中略)
昭和13年、中等科二年の公威(三島)はトミに連れられて能を観る。初めて目にした能が『三輪』であったことは、
三島の生涯を思うと極めて暗示的である。『三輪』は、世阿弥の作と伝えられる四番目物であり、三輪明神が
顕現する。『奔馬』で本多繁邦と飯沼勲が邂逅する場所は、わが国最古の神社で、謡曲の『三輪』の舞台となった
大神神社である。
昭和20年2月、三島は兵庫県で入隊検査を受け、即日帰郷となる。金沢のトミから三島に宛てた2月17日付けの
書簡には「心の亂れといふものが千々の思ひに幾日かを過ごす」とあって、孫の身を気遣うトミの温かい人柄が
偲ばれる。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家―もう一つのルーツ」より

577:無名草子さん
12/02/08 12:50:38.13 .net
(中略)
兄弟について、倭文重は「私なんか娘のころ、男はやさしいものと思い込んでいました。実家の兄たちを
見なれてましたからね」と証言している。
昭和5年1月、公威は自家中毒に罹り、死の直前までゆく。

〈経帷子や遺愛の玩具がそろへられ一族が集まつた。それから一時期ほどして小水が出た。
母の兄の博士が、「助かるぞ」と言つた。心臓の働らきかけた証拠だといふのである。
ややあつて小水が出た。徐々に、おぼろげな生命の明るみが私の頬によみがへつた。〉
(『仮面の告白』三島由紀夫)

『仮面の告白』に登場する「母の兄の博士」が、健行である。橋健行は、明治17年2月6日に健三・こうの間に
生まれた。生母・こうの死去により、明治23年からトミに育てられる。
健行は、ブリリアントな秀才であった。明治34年に開成中学を卒業し、一高、東大医科に進んで精神病学を
専攻するが、常に首席であったという。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家―もう一つのルーツ」より


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