【割腹自殺】●●三島由紀夫3●●【肉体改造】at BOOKS
【割腹自殺】●●三島由紀夫3●●【肉体改造】 - 暇つぶし2ch400:無名草子さん
10/12/03 22:57:58 .net
戦前の輝かしい日本の昭和3年に生を受けた私は、本土決戦が近い昭和19年に当時最高のエリート集団、
海軍機関学校の厳しい試験を突破。畳が血に染まっている激しい柔道場、プールの底に網を張り、力尽きて
おぼれ沈むまで泳ぐ猛訓練、日本最高の頭脳を有する教授陣による徹底的な座学。入学した東京帝国大学は正門に
菊の御紋を頂き、「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」のため必死に勉強し、身体を鍛えました。
全国民が国のために死ぬ覚悟の戦前の日本、玄関の鍵を開けていても泥棒の入らなかった戦前の日本の高い道徳。
戦後の日本は、玄関に鍵をかけていても泥棒が入る堕落国家。現在の政治は武士によって行われるのではなく、
士農工商の商、つまり、カネと利権により政治が行われています。日本の政治は、「武士道」により行なわれ
なければなりません。「三島精神」で行わねばなりません。

ドクター中松
三島由紀夫没後40年憂国忌へ寄せるメッセージより

401:無名草子さん
10/12/03 22:59:21 .net
「日本の真姿が変わって、生命尊重のみで魂は死んでいる。」と三島先生は言っておられます。今こそ三島先生の
遺志を継いで良き日本に造り変えましょう。
それには、まず東京から日本を変えましょう。私の家系は徳川幕府の直参旗本で、江戸で、300年、政治の
中枢に居りました。私は、来年4月初頭の東京都知事選に立候補し、三島先生の遺志を実現し、東京を創りかえます。
そのため、東京を民主党の菅政権と一線を画し、占領憲法を廃棄し、尖閣や北方領土の護りを固くし、
「世界最高の修身教育」と「強い男子」の育成、「減税」をして元気溌剌で活気ある愉快な東京にします。
ハーバード大学で「グレート・シンカー」(偉大な賢い人)に選ばれたドクター・中松のみが東京を賢く
指導できると自負しております。
11月25日の『憂国忌』には、米国で「ドクター・中松デー」の制定行事があったため、残念ながら参加でき
ませんでしたが、三島由紀夫の行動哲学に共鳴している皆さまと共に、日本の現状を糾弾してまいりたく存じます。

ドクター中松
三島由紀夫没後40年憂国忌へ寄せるメッセージより

402:無名草子さん
10/12/04 19:21:03 .net
森田同志は、四十一年四月、紛争中の早稲田大学に入学し、(中略)日学同の前身母体「早学連」に馳せ参じてきた。
同年晩秋の「日学同結成大会」以後、万人を魅了してやまなかった彼の性格と、明るい統率力でたちまち指導者になり、
草創期の日学同運動を多くの同志たちとともに担った。
(中略)日学同運動のなつかしい先導的試行期の数々の活動を想いかえしてみると、必ず森田同志のあの
人なつっこい笑顔が私たちの胸中に浮かんでくる。
早大国防部が、当時、毎朝行なっていた早朝トレーニングに、徹夜アルバイトからかけつけて眠い眼をこすりながら
一緒に早大付近を走り、牛乳配達のおじさんや、新聞配達の青年、靴みがきのオジさん、食堂のオバさんなどに
大声で「おはよう」といっていた森田同志。
彼は早大商店街でも人気者だった。事件後直ちに早大正門を陣どって、私たちがつくった仮設の焼香台に噂を
聞いて実に多くの付近の人たちが馳けつけて下さった。

「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より

403:無名草子さん
10/12/04 19:22:01 .net
明るかった森田同志。口舌の徒をにくみ、世の不正にいきどおり祖国の正しい発展のためには命を捨てると淡々と
語っていた彼。あの森田同志が、壮烈な割腹自決を遂げて現世にもはやいないとは、まだ私たちには信じられない
ことである。
四十三年、楯の会第一期生として、故郷から骨折していた足をひきずって、富士学校の体験入隊へ加わった
森田同志は、たちまち三島先生に可愛がられるようになった。
四十三年四月、早大国防部二代目の部長となった彼は、自主憲法、自主防衛による日本の真の独立をよびかける
学生運動を全国的に燃えあがらせよう! と各大学へオルグに出掛け「全日本学生国防会議」の結成に尽力した。
森田同志の努力で、四十三年の一年間に、三島由紀夫先生は三回も、私どもの大きな行事に特別講師として
協力してくださった。(中略)このとき三島氏の協力が得られなかったとしたら、今日の民族派学生運動の興隆はありえなかっただろう。

「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より

404:無名草子さん
10/12/04 19:23:38 .net
四十三年八月、森田同志が団長になった北方領土返還運動の日学同現地闘争団は、ノサップ岬へ赴いた。
「貝殻島」へ上陸して、北方領土返還の捨て石となると死を決していた森田同志。計画は挫折したが、それにも
めげず、同年八月下旬のソ連軍のチェコ侵攻に憤激し、ソ連大使館へのデモを組織した彼。
(中略)当時、読売新聞の論壇時評を担当していた大島康正氏が、森田同志の論文に注目し、高い評価を与えた。
四十四年二月、青山学院、東大での日学同運動を最後に、彼は「楯の会」専従となっていった。(中略)
常に戦後の安易な情況をなげき占領憲法下の日本に憤り、そしてまた六月以後、力を失った左右の学生運動に
力を与えるために「改憲」への先覚として散った森田同志の死は、世俗的名声はともあれ、三島由紀夫先生の死と
まったく等価である。(中略)
憂国烈士三島由紀夫先生、森田必勝同志の御霊よ安かれ

「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より

405:無名草子さん
10/12/05 18:04:49 .net
古式に則り見事で、壮凄な割腹を行なった三島さんの最期はたとえようもないほど立派なものだったが、それよりも
驚嘆すべきは森田必勝さんのはかりしれない気力であろう。三島さんの介錯をした上で自分も切腹したという事実は
まことに大変なことである。成程三島さんへの介錯は見事一太刀という訳にはいかなかったようであるが、(中略)
有名な首斬り浅右衛門のプロの腕をもってしても一太刀で快心に斬れたのは十人中、二、三人と聞いているし、
その日は全身の力がなえて何も出来ずウツウツとして酒をあふるばかりであったとのことである。それが目の前で
三島さんの死を見つめた上で、しかも三島さんの手から短刀をもぎとり自分の腹に突き立てたなぞということは
到底信じられないことであり、どんなに落ちついたしっかり者でも出来得ない芸当である。
なんと驚くべき気力であり、何と恐るべき精神力であろうか。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より

406:無名草子さん
10/12/05 18:05:44 .net
実にあの若さで相当の期間、この日あるを胸に秘めておくびにも出さず、いつもの明るさで友に交り、何の
衒気もなく知人に接し、いささかのたかぶりもなく冷静に常の如く空手の稽古に励んでいたことも特筆に価する。(中略)
(空手稽古で森田さんは)元気一杯に動き廻り、小柄で、やや肥満体、温和な顔に似合わない闘志で拳を挙げ、
足を振り廻した。三島さんは約一年の先輩空手マンとして熱心に道場の床に汗を流し、形(カタ)も二つばかり
修得し油ののってきていたところである。(中略)森田さんはいつもその中心となり寒稽古、暑中稽古もいとわず、
キビしい練習に耐え抜いて一回も休んだことはなかった。武道の相性とでもいうのか、稽古時間外でもよく
三島、森田のコンビで約束組手、乱取に満々たる闘志をもやしてぶっつけあった。まるでお互い敵同士のように。
突は三島さんの方が鋭いものをもって居り、蹴は若い森田さんのもので柔軟な足を軽くとばして三島さんの胸部によく極めていた。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より

407:無名草子さん
10/12/05 18:08:12 .net
森田さんの空手は考える、慎重な実技であり、無心に激しく肉体をぶつける荒稽古の三島空手とは対照的で
なかなか面白い。森田さん始め若手の進境目ざましく三島先輩を凌駕せんばかりの勢いに三島隊長を大いに
あわてさせた。
激しくキビしい練習と非常に礼儀正しい、節度ある立派な態度、三島さんと楯の会の若獅子との練習後のむつまじさ、
この楯の会の稽古は私にとっても大変楽しい、思い出の多いものであり、何日までも美しく心の奥底に残るものである。
森田さんはよく紺ガスリの着物に黒の剣道袴、人生劇場に出てくる早大生よろしく稽古に通って来た。私は彼とは
個人的なつき合いはなかったが空手の練習を通じて感じられるのは、天衣無縫の開けっぴろげで底ぬけに明るく、
朴トツで少し野暮天だが、特有の人なつこさでいつも笑顔をたやさず、なかなかの社交家でもあった。ちょっぴり
無口で孤独でさびしがりやであるが、活発で行動的で烈々たる闘志の持ち主であった。また温和な風貌だが
男らしくて意志も強かった。が何より非常に誠実な人柄であり、気力、精神力抜群の誇り高い日本男児であった。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より

408:無名草子さん
10/12/05 18:09:42 .net
(中略)彼を識らないマスコミ、青白い文士連から聞くに堪えない侮辱的な批判、言辞が勝手気儘な推測だけで
弄されている(中略)
この行動に出るためには―このことが楯の会としてふさわしいものであったか否かは別として―三島さんと
討議を重ね、幾多の迂余曲折を経たあとの結論と思われる。また世論、三島さんの文士としての余りにも高名な
ところから、森田さんの死が何か刺身のツマのように片隅に押しやられているのはたとえようもなく残念である。
成程、森田さんは日頃、心から三島さんに私淑していたことは間違いないが、だからといって単に三島さんへの
同情的道連れとか殉死とか判断するのは早計である。男児一度やらなければならないと決断し、若い世代の
代表としてまた楯の会の尖兵として三島さんとともに起ち、吾れのなさんとして決めたことを敢然と行なった
ものだと確信する。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より

409:無名草子さん
10/12/06 11:31:39 .net
彼(川端康成)は、確かにこの受賞に値した。それでも今もって私は、どういうわけでスウェーデン・アカデミーが
三島でなく川端に賞を与えたのか不思議でしようがない。
1970年5月、私はコペンハーゲンの友人の家に夕食に招待された。同席した客の一人は、私が1957年の
国際ペンクラブ大会の時に東京で会った人物だった。日本で数週間を過ごしたお陰で、どうやら彼は日本文学の
権威として名声を得たようだった。ノーベル賞委員会は、選考の際に彼の意見を求めた。その時のことを思い出して、
居合わせた客たちに彼はこう言ったのだった。「私が、川端に賞を取らせたのだ」と。

ドナルド・キーン「私と20世紀のクロニクル」より

410:無名草子さん
10/12/06 11:33:19 .net
この人物は政治的に極めて保守的な見解の持主で、三島は比較的若いため過激派に違いないと判断した。
そこで彼は三島の受賞に強く反対し、川端を強く推した結果、委員会を承服させたというのだ。本当に、
そんなことがあったのだろうか。三島が左翼の過激派と思われたせいで賞を逸したなんて、あまりにも馬鹿げている。
私は、そのことを三島に話さずにはいられなかった。三島は、笑わなかった。

ドナルド・キーン「私と20世紀のクロニクル」より

411:無名草子さん
10/12/06 11:34:22 .net
(中略)
東京に着いたのは1月24日の三島の葬式の直前で、私は弔辞を述べることを引き受けた。
ところが、私の親しい友人三人は葬式に出席してはいけないと言う。私が弔辞を述べることで、三島の右翼思想を
擁護しているように取られてはまずいと言うのだった。最終的に彼らの説得に応じたが、それ以来私は、
自分がもっと勇気を示さなかったことを何度も後悔した。
私は三島夫人を訪問した。三島の写真がある祭壇に、私は彼に捧げた自分の翻訳『仮名手本忠臣蔵』を置いた。
その本には、下田で会った時に三島自身がこの浄瑠璃から選んだ次の一節が題辞として揚げられていた。

国治まつてよき武士の忠も武勇も隠るるに
たとへば星の昼見へず、夜は乱れて顕はるる

ドナルド・キーン「私と20世紀のクロニクル」より

412:無名草子さん
10/12/06 11:37:57 .net
本当の天才とは、簡単には説明することのできない能力の持ち主のことだ。
シェイクスピアは天才だった。モーツァルトも、レオナルド・ダヴィンチも、紫式部も天才だった。
私がこれまでに出会ったすべての人々のなかで、「この人は天才だ」と思った人は二人しかいない。
一人は中国文学および日本文学の偉大な翻訳家であったアーサー・ウェイリーである。(中略)
そして、私の出会ったもう一人の天才が三島由紀夫である。

ドナルド・キーン「二つの祖国に生きて」より

413:無名草子さん
10/12/06 11:39:57 .net
あの時(ノーベル賞を)受賞したのが川端であり、三島由紀夫でなかったのは、何かの行き違いだったかもしれない。
すなわち、国連事務総長だったダグ・ハマーショルドが1961年に亡くなる直前、三島の「金閣寺」を読み、
ノーベル賞委員会のある委員に宛てた手紙で大絶賛したのである。
こういった筋からの推薦は小さくない影響力を持っていた。
また1967年のこと、出版社の国際的な集会がチェニスで開かれ、私はその集いが授与する文学賞、
フォルメントール賞を三島にと試みたが失敗に終わった。この時、スウェーデンから参加した有力出版社ボニエールの
重役が私を慰め、三島はずっと重要な賞をまもなく受けるだろう、と言ったのだ。ノーベル賞以外にはあり得なかった。

ドナルド・キーン「思い出の作家たち」より

414:無名草子さん
10/12/06 11:42:12 .net
三島の天皇崇拝は、彼の存命中ずっと在位していた天皇、裕仁に向けられたものではない。
短編「英霊の声」では、二・二六事件の首謀者と昭和二十年の神風特攻隊員の霊が、自分は神ではないと宣言して
彼らを裏切った天皇を激しく責める。天皇の名の下に死んだ者たちは、天皇が普通の人間と同じ弱さを持った
人間であることを知っていたが、天皇という資格(キャパシティ)にあって、天皇は神であると確信していた。
もし、天皇が二・二六事件に関わった青年将校を支持し、なかんずく、彼らに自裁を命じたのだとしたら、
その行為は、老いて堕落した政治家に囲まれた単なる統治者ではなく、神としてのふるまいだったであろうに。
しかし、神風特攻隊員が天皇を叫びつつ喜びに満たされて死んだ、それからわずか一年も経たずに、自分は
神ではないと宣言した時、天皇は彼らの犠牲を哀れで無意味なものにしたのだ。

ドナルド・キーン「思い出の作家たち」より

415:無名草子さん
10/12/06 11:46:24 .net
三島は、天皇無謬説を唱えたことがある。無論これは天皇の人間としての能力をさした説ではない。
より正確に言えば、天皇は神の資格において、人間の姿をした日本の伝統そのものなのであり、日本民族の
経験が保管された唯一無二の宝庫である。天皇を守ることは、三島にとって、日本そのものを守ることだった。
このような政治観を日本の右翼と同一視するのは誤りであろう。
彼は確信していた。日本の景観を無慈悲に切り刻んで顧みない貪欲と、それが舶来だからというだけで事物や習慣を
表面的に受用する西洋化、この二重の脅威から日本文化の崩壊を救えるのは若者の純粋さ、すなわち信念のためには
死を辞さぬ若者の覚悟だけだと。

ドナルド・キーン「思い出の作家たち」より

416:無名草子さん
10/12/09 11:54:31 .net
亀はしあわせをよぶという。
私の手許に、甲羅に彫りの入った八ミリほどの小さな金の亀のペンダントトップがある。これは私が十代の頃、
三島さんに頂いたもの。
戦後間もなく、現在のように海外渡航が自由でなかった頃、三島さんはいち早く外国に足を運ばれた。
この亀はその時のおみやげである。
…私のアクセサリー箱の中では一番の古株、出番も多く、いわばお守りのような存在だ。
私が三島さんにお目にかかるのは、いつも我が家が「鉢の木会」のお当番の時だった。
…今では、大岡昇平、中村光夫、吉田健一、福田恆存、三島由紀夫の各氏、それに私の父の神西清はみな故人となった。
三島さんは会の中では一番若く、そのせいか口うるさい面々の恰好の揶揄の対象になることもしばしばで、
その場合三島さんの逃げ道は二つ。
まずはあの豪快な笑いで、からみつく蜘蛛の糸を振り払い、次の手はゴロッと横になって高鼾をきめこむ。

神西敦子「三島夫妻と二つの亀」より

417:無名草子さん
10/12/09 11:55:21 .net
元々が個性の強い人たちの集まりである。お酒の飲みっぷりも各人各様で、見飽きることがなかった。
酒宴が進むほどに、笑い声も賑やかになるのだが、三島さんのそれはいつも大きく際立っていた。
一人一人の顔にそれぞれの特徴ある笑い声が重なり、懐かしく往時を思い出す。
連歌を楽しみ、時にはお互いの仕事に対する鋭い批判も交錯し、この上なく濃密な時だった。
父の死後、「鉢の木会」が二階堂の家でひらかれたことがある。
三島さんは新婚間もなくで、座は瑤子夫人のお目出度の話題で盛り上がっていた。襖越しに耳にした
「医者に診てもらえと云ったんだ」という、三島さんのひときわ高い誇らしげな声は忘れることができない。
その時お顔は見なかったが、きっとあの大きな目が特別輝いていたことだろう。

神西敦子「三島夫妻と二つの亀」より

418:無名草子さん
10/12/09 12:04:05 .net
たった一度だけ、三島さんと銀座を歩いたことがあった。
私の大学卒業に際し、「鉢の木会」が腕時計をくださるということで、和光に出向いた。三島さんはいつもどおりの
笑いを振りまき、もとより知られた顔だから、集まる人々の視線が眩しく、とても気恥ずかしかった。
三島さんは、大変几帳面で礼儀正しく、細やかな心遣いをされる方だった。
父の生前は父に、亡くなってからは母に、筆、あるいは万年筆で署名された三島さんの著書が律義に届けられた。
なかには、「神西清様」と記された名刺がはさんであるものも何冊かある。書体は均整がとれていて美しい。
…装幀も凝ったものが多い。
…代表作「金閣寺」の限定版は、年数のたった今も、手にとるとふんだんに使われている金箔が指につくほど豪華で、
本箱のたくさんの三島本の中でも王将格である。奥付には、本書は二百部を限定刊行す、その内二十部は
無番号著者家蔵本、本書はそのNo.、とあってナンバーはついていない。
これをみても三島さんが、いかに父に礼を尽くして下さっていたかがわかる。

神西敦子「三島夫妻と二つの亀」より

419:無名草子さん
10/12/09 12:05:58 .net
季節毎の心遣いも、瑤子夫人が亡くなるまで途切れることなく続いた。稀有なことである。
瑤子夫人死去の報は、ご病気を知らなかったこともあり、私を大そう驚かせた。
夫人の通夜の晩はむし暑く、三島邸前の道路は別れの時を待つ人で埋めつくされ、月も動きをとめ、大気は重く
悲しみに沈んでいた。天空にあった細い月は夫人の魂をいざなうかのように、やがて視界から消えていった。
日ならずして、夫人を偲ぶ品が届けられた。
小箱の中には、甲羅が緑色、足が紫色の石の、美しい大きい亀のブローチ。
偶然とはいえ、この不思議な巡り合わせに私はしばし言葉もなかった。
金の亀と緑の亀。二つめの亀の出現で、三島夫妻は私の中で一つの像となった。

神西敦子「三島夫妻と二つの亀」より

420:無名草子さん
10/12/12 17:40:33 .net
私が松濤二丁目のこの商家に嫁いだのは昭和二十二年の春のことです。当時は、近隣一帯は空襲で一面焼け野原に
なったままでした。
…私は二十三年に長女を産み、その子を連れてよくご近所を散歩したものです。その折、始終三島さんの家
(「平岡」という表札でした)の前を通りました。(略)…洋館のほうの二階の窓によく三島さんをお見かけ
しました。夕方になると電気スタンドが点っていて、その光の中で白いシャツを着た三島さん(白がとても
お好きだったようです)がいつも何か書きものをなさっていました。
人に聞くと「あの人はいまに小説家になる偉い方だ」という話でしたが、当時は私は三島由紀夫という名前は
知りませんでした。
東大に行っている時分に小説を書いて一躍有名になった人ということで、とにかくいつ行ってみても、机に座って
仕事をしておられたのが印象深いのです。

原義穂「渋谷大山町の頃の三島さん」より

421:無名草子さん
10/12/12 17:41:46 .net
私の家はタバコを商っていましたので、お父さまも三島さんもよくタバコを買いに見えました。(中略)
息子さんの三島さんはよく「光」をお求めになりました。
もっともあの頃はまだ銘柄も少なかったうえに極端な品薄で選り好みなどできませんから、「光」がなければ
何でもお買いになりましたが。
どこかにお出かけになる前に立ち寄り、買ってすぐ一本抜き取ってお吸いになるというのが、あの方の習慣でした。
タバコを受け取るその手が細くて華奢だったのをよく覚えています。
それにしても三島さんはおしゃれでした。戦後間もなくの頃ですから、おしゃれをしている人などあまり
見かけることはなかったのですが、三島さんはいつもピシッと決めていて一分の隙もなく、大山町あたりでさえ
すごく目立ちました。

原義穂「渋谷大山町の頃の三島さん」より

422:無名草子さん
10/12/12 17:42:54 .net
夏など、真白の詰襟、真白の半ズボン、真白のハイソックス、真白の靴という、上から下まで白ずくめのいでたち。
たまに帽子をかぶっていることもありました。サファリ帽というのでしょうか、猟の時に使うような帽子で、
外国にでもいらしたことのある方かと思っていました。
服装だけでなく、三島さんはすごく清潔感のある方でした。
手もほんとにきれいでしたし、お顔なんか毎日当たるんでしょうね、頬など青白く見えるくらいでした。
いつもポマードのいい匂いをさせていました。でも、無駄口をたたくようなことはほとんどなく、どちらかといえば
「謹厳実直」という印象を受けました。
(中略)ご一家が住んでおられた借家も今は取り壊されてなくなり、このあたりもずいぶんさま変わりしました。

原義穂「渋谷大山町の頃の三島さん」より

423:無名草子さん
10/12/16 00:30:55 .net
吉田満は、三島由紀夫の「死」を、青春の頂点において「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、
「いかに生きるか」の課題が許されなかった世代―そのような世代のひとつの死としてとらえ直してみせた。
あの自決がさまざまな意味を「異なる解明の糸口」を示していながら、実のところ戦争に散華した仲間と
同じ場所を求めての、死の選択であり、そのような願いによる決断であったという。
これはたんなる世代論だろうか。
三島由紀夫の生と文学を、あまりに単純な世代の「死」として単純化してしまうことになるのだろうか。
私はそうは思わない。

富岡幸一郎「仮面の神学」より

424:無名草子さん
10/12/16 00:32:11 .net
保田與重郎は三島の自刃に際して「三島氏の事件は、近来の大事件といふ以上に、日本の歴史の上で、何百年に
わたる大事件となると思った」と記したが、もし仮にそうだったとしても、それは三島由紀夫という個的な存在の、
その生と死の劇的な問いかけゆえにではなく、その「死」が疑いもなく一つの世代の夥しい「顔」と重なり合い、
その死のなかに埋没することを懇望したものであったからではないか。
あの自決事件は、決して特異なものでも異常なものでもなく、あえていえば平凡な静謐さのなかにある。
そう思うとき、『豊饒の海』第一巻の冒頭で描かれた「セピア色のインキで印刷」された日露戦没の写真―
その風景を想起せずにはいられない。

富岡幸一郎「仮面の神学」より

425:無名草子さん
10/12/16 00:33:45 .net
…池田浩平や吉田満といった同世代の死者のなかにとらえるとき、戦後作家としての彼の仮面―
『仮面の告白』についての作家自身の注釈でいえば「肉づきの仮面」―の背後に隠されていた素顔が浮かびあがる。
戦後作家としての無数の華麗な「仮面」。神学者の大木英夫は、三島由紀夫は、その文学は仮面をかぶることによって、
「神学問題で灼けただれている現実にも耐える」と正確に指摘した。
《そして死を避ける。しかし、彼の文学は、かえってその仮面が割れて、素顔が出て、神学問題に直面する
ところがある。そして死が避けられなくなる。さまざまな奇行と試行の紆余曲折を経て、ついに市ヶ谷への
突貫となるのである》(「三島由紀夫における神の死の神学」)

富岡幸一郎「仮面の神学」より

426:無名草子さん
10/12/16 00:34:52 .net
『仮面の告白』が、『花ざかりの森』と彼の十代の青春の住処がであった「死の領域」への遺書であり、まさに
「死を避ける」ための人工の文学的仮面であったとすれば、最晩年に書かれたエッセイ『太陽と鉄』は、
「その仮面が割れて」いくところを詳細に辿ってみせた自己告白の書であった。
これまで何度も論じてきたように、そこに三島における「神学問題」が、すなわちあの「神の死」の問題が
露われているのはいうまでもない。
おそらく、日本における神学問題を最もラディカルに現実の光のなかに引きずり出したのが三島由紀夫である。
多くの宗教学者が決して見ようとしなかったものを、語りえなかった根底的な「神」の問題を、三島は自らの
生と文学と、そしてあの苛烈な死によって語ってみせた。
いや、「神学問題に直面」したとき、「死が避けられなく」なった。

富岡幸一郎「仮面の神学」より

427:無名草子さん
10/12/17 19:53:38 .net
三島「僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた、
否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。」
武田「いや、それだけは言っちゃいけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう。」
三島「でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった。」
武田「それはやっぱり、強気でいてもらわないと……。」
三島「そうかな。おれはいままでそういうことは言わなかったけれども、よく考えてみるといやだよ。」(略)

私は三島さんを懸命にナダめにナダめる武田氏に、つよい共感で(感傷的にも)涙ぐみたくなる。
しかし同時に、三島さんがもの書きとしての恥部をここまで口にする激しい自己意識に心をうたれずにいられない。
それはまたそっくり三島さんの社会への批判でもある。

田久保英夫「天上の人」より

428:無名草子さん
10/12/20 10:07:04 .net
人間的に中身も何もないような、若いタレントのような人たちが、自衛隊の反応は正しかった、とか社会的な
影響はどうだとか、三島さんを断劾するようなことをしたり顔でテレビやラジオでいっているのを聞くと、ばかげてる。
ほんとに蹴とばしてやりたくなりますよ。

倉橋由美子
週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号のコメントより

429:無名草子さん
10/12/20 10:10:47 .net
左翼人の私も右翼人の三島の「行動」には、かなり衝撃を受けたことも事実なのであって、これを匿す気には
ならないからである。
そして衝撃を受けなかった人はどんな人なのかと思ったりもするのだが、「行動」といい「芸術」といっても、
所詮人間はおなじなのかも知れない。しかも三島と私とはイデオロギーが全くちがっているのに、どこか類似性、
相似性があるような気がして、それが私自身気になるのである。

三島由紀夫こそはあきらかに、永井荷風や谷崎潤一郎やあるいは川端康成の耽美主義の系譜とその路線に沿いながら、
しかし明確な知性をもって、またその美的知性の故に、その路線の最終駅に到着しながら、それをなんらかの形で
社会的行動におきかえようとした努力家であり勇気ある誠実者ではなかったのだろうか。

山岸外史
三島事件についてのコメントより

430:無名草子さん
10/12/21 00:52:26 .net
私と彼とは文体もちがい、政治思想も逆でしたが、私は彼の動機の純粋性を一回も疑ったことはありません。
(中略)最近の彼は、私など好きでなかったかもしれないが、そんなことは一向にかまいません。むしろ、
彼に嫌われるやりかたで、私は、彼を好きのままでいてやりたいと思います。

武田泰淳
週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号のコメントより

431:無名草子さん
10/12/21 00:55:29 .net
息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が
蹴たてていった土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上り、そして舞い下りています。あなたの忍耐と、
あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、私たちのあいだに
ただよい、私たちをおさえつけています。それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが
「不道徳教室講座」を発表したとき、私は「こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないでは
ないか」と直感したものですが、あなたには生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと
信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。あなたを恍惚とさせようとする「美」を押しのけるようにして、
「道徳」はたえずあなたをしばりつけようとしていた。それは、あなたが肉体の効能を意識しはじめた瞬間から、
あなたに猛訓練を求めました。いや、文章をつづりはじめた瞬間から、あなたの文体(つまりは精神)を、
きびしい緊張の城塞とし道場としたのです。

武田泰淳「三島の死ののちに」より

432:無名草子さん
10/12/25 12:02:27 .net
天文台で働く若い観測員よ、暗い天空に新しい彗星を一つ発見するたび、きみが地上で喪失するものは、一体何か?
すべての書物を書きつくしてしまった、一人の詩人が切腹して果てたあとで、その暗い天空が獲得する星は、一体何か?

寺山修司
憂国忌パンフレットに寄稿された追悼の辞より

433:無名草子さん
10/12/25 16:56:49 .net
芥川賞作家の奥泉光がポッポの作品を盗用したと思われても不思議ではない。

ブログの類似箇所指摘を追加(記事の途中に追加分が書かれている)

スレリンク(book板:48番)

作品の類似点だけではなく、
ポッポが奥泉よりもセンスがある事も説明されている。

ちなみに、ポッポを批判しているワナビの文章はアリの穴で見れる。

ブログの記事が更に長くなっている。


434:無名草子さん
10/12/27 20:54:11 .net
大正十四年(一九二五年)一月生れの三島は、終戦の時、満二十歳であった。それより少なくとも二年早く
生れていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて
取り組もうとした課題の基本にあるものが、“戦争に死に遅れた”事実に胚胎していることは、彼自身の言葉からも
明らかである。出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征った
はずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような
悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。
(中略)
しかし終戦からしばらくの期間、つまり彼が文壇に出る前後までの時代は、まだ救いがあった。後年になって彼は、
―当時は何だか居心地が悪かったが、今となっては、あの爆発的な、難解晦渋な文学の隆盛時代がなつかしい。
(略)今日のやうな恐るべき俗化の時代は、まだその頃は少しも予感されなかった。―と述懐している。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

435:無名草子さん
10/12/27 20:55:27 .net
戦後日本の経済復興は軌道に乗り、(中略)三島の文業も、行くとして可ならざるはなき成果を収めることが出来た。
これはその恵まれた資質、類い稀な勤勉さからすれば当然の結果といえるが、時代が彼の最も好まない方向に
傾けば傾くほど、マスコミが歓呼して三島の仕事を讃えたのは、悲劇というほかはない。
死の二ヶ月前に行われたために、多くの示唆に富むことで知られる武田泰淳との対談「文学は空虚か」の中で、
三島はこうまで言い切っている。―僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、
自分は戦後の社会を否定してきた、否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、
もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。―さすがの武田泰淳も、―いや、それだけは言っちゃ
いけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう―と、たしなめるほかない様子だったが、
三島はさらに、―でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった―
と追い打ちをかけている。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

436:無名草子さん
10/12/27 20:56:25 .net
(中略)
われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに
生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。
林尹夫(海軍出陣学徒)の表現によれば、―おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神の
王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとっての過去と未来に一貫せる生き方を
学ばせるものが、そこにあるのだ―と自分を鞭打とうとする愚直な世代である。戦争が終ると、自分を一方的な
戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない
世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

437:無名草子さん
10/12/27 20:57:28 .net
林尹夫は、さらにわれわれ世代の宿命を、高らかに歌いあげる。―いったい恨むといっても、誰を恨むのだ。
世界史を恨みとおすためには、我々は死ぬほかない。そしてわれわれは、恨み得ぬ以上、忍耐して生き、そして
意味をつくりださねばならないではないか。日本は危機にある。それは言うまでもない。それを克服しうるか
どうかは、疑問である。しかしたとえ明日は亡びるにしても、明日の没落の鐘が鳴るまでは、我々は戦わなければ
ならない。―
(中略)
彼(三島)が大蔵省に勤務していた頃、私にむかって、自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ、と言い
切ったことがある。―なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、
燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場で
あるとは到底思えない。(略)―こうして彼は文壇を飛び出し、歩幅をひろげ、死の彼方に手がとどくまで、
その歩みを止めなかったのであろう。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

438:無名草子さん
10/12/27 20:58:41 .net
三島の苦悩は、戦争に死に遅れたという事実から生れた、とはじめに書いた。しかし臼淵や林の若い死を、
どのような意味でも羨むことは許されない。生き残ってこそ、すべてがはじまるのであった。戦死という非命に
たおれた彼らの不幸を、償いうるものはない。三島も、そのことを知り抜いていたにちがいない。そして彼は
みずから死を選ぶことによって、戦争に散華した仲間と同じ場所をあたえられることを願ったのであろう。
(中略)
死にゆく者として彼らが残していった戦後日本への願望は、彼ら自身の手によっても、易々とは実らなかったで
あろう、新生日本とともに歩む彼らの戦後の生活は、けっして平坦なものではなかったであろう、ということである。
一つの時代に殉じた世代が、生き残って別の時代を生きるというのは、そういうことなのであり、三島由紀夫を
死に至らしめた苦悩もまた、そのことと密着しているように思われてならない。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より

439:無名草子さん
11/01/02 14:51:32 .net
その遺書をよんだ時、同志の青年に対する心遣ひの立派さに私は感動した。三島氏の思想行為については、
今のやうな状態でも、私はなほとかくのことをいふことが出来る。並んで自刃した森田必勝氏については、
この青年の心を思ふだけで、ただ泪があふれ出る。むかしからかういふ青年は数量上多数といへないが、無数に
ゐたのである。かういふ見事さがあるといふことだけを示した。何も残さぬものが、永遠と変革と創造を、
流れにかたちづくつてきたのである。(中略)
三島氏は内外の人心の悲惨や荒廃のありさまを、優秀な文学者の直感で、我々の知らない不幸まで了知し、
人道滅亡の危機をひしひし感じてゐたのであらう。彼の近年の思想上の急激な上昇現象には、第一義の高尚な
原因がある。彼の政治論は、今日の時務論の次元でよめば全く無意味である。しかし彼は清醇な本質論を、
汚れたけふの時務論のことばでいひ、卑しい政治論の次元から説き起さうとした。私は身のつまる思ひがする。

保田與重郎「眼裏の太陽」より

440:無名草子さん
11/01/02 14:52:27 .net
三島氏の描いた両界曼荼羅の金剛界は華麗無変の美文学だつたが、胎蔵界の解では、最も低級なものや、
人でなしまでも相手にせねばならぬと自身思ひ定めた。一見この空しい努力は、世俗といふ誤解の中へ投げ
だされてしまふ。しかし彼の思ひをこめたことばと振舞は、最も純粋に醇化された時の人の心の中で、人々の
かなしみをかきたて、さらにおびただしい若者の心に、考へることの無用な光りを、明りをともした。
偽りのもの、汚れたもの、卑怯なもの、利己主義なものは、皮相的な恐怖から、ありきたりのことばの罵倒を
しても、それによつて自己のいつはりと不安をうすめることは出来ない。無視するといふものは、沈黙して
無視しきれぬ卑怯な弱者である。正気の人はこの日民族の歴史をわが一身にくりたたんで、ものに怖れるべきである。
いつはりと卑怯に生きてきたものは、己の不安と恐怖の原因をしかと見つめることが出来ない。憎悪と猜疑しか
知らなかつたものは、明らかに最も怖れてゐる。

保田與重郎「眼裏の太陽」より

441:無名草子さん
11/01/02 14:53:24 .net
三島氏の心は、正実な者の間の戦ひを信じつづけてきたのであらう。しかし詩人のゆゑに英雄の心をやどした
稀有の文学者は、古来、詩人や英雄のうけた宿命の如く、最も低い戦ひにつかれ、いやしい下等な敵に破れた
のである。その死の瞬間に、眼うらに太陽を宿すといつたことばの実現を、私はただちに信じる。私は真の文人の
いのちをこめた言葉を、絶対に信じるのである。実証主義の人々は、死を如何ほどに描いても、死の瞬間は
わかるものではない。甦つた者のことばはその瞬間の証ではない、死んだ者のことばはきくすべがないといふ。
しかし秒で数へられる時間の彼方の未知といふことの方を何故怖れないのか。
三島氏は自衛隊を外から見聞してゐたのでなく、内に入つて見てきたのである。まことに誠実の人である。彼の
旧来の不思議な奇矯の行為も、誠実の抵抗ないし反俗行為として解釈すべきところと私は思ふ。身丈を越える
程の著述を残した人の片言隻句をとり出せば、どんな愚かな低い形にも三島氏の像をつくることが出来る。
それはつくつた者のいやしさの証にすぎない。

保田與重郎「眼裏の太陽」より

442:無名草子さん
11/01/02 14:54:30 .net
最終の振舞ひについての、もつともらしい見解も同じ方法で示せるだらう。さういふ見解は自分自身の低い次元の
卑屈な処世観となつても、森田青年のやうに、先人を越えてゆくものの心とは何のかかはりもない。森田青年の
心は、日本の正気だつたから、無言にして日本の多くの若者の心に今や灯をともした。このことを疑へる程の
無知のものは、卑怯と欺瞞の中にはないだらう。卑怯と欺瞞はインテリを必要とし、世間の無知ではないからである。
森田青年の刃が、自他再度ともためらつたといふ検証は、心の美しさの証である。やさしいと思ふゆゑにさらに
かなしい。私はその人を知らない。そして悲しい。二十五歳がかなしいのではない。このかなしさは、語り解く
すべを知らないが、あたりまへの日本人ならばわかるかなしさである。かなしさにゐる時は、決して顧みて他を
語らないのである。三島氏が、自分よりも、森田氏の振舞ひはさらに高貴なものであつて、彼の心をこそ
恢弘せよと云つてゐるのは、尊いことばである。

保田與重郎「眼裏の太陽」より

443:無名草子さん
11/01/02 14:55:21 .net
恢弘とは神武天皇御紀にあらはれる大切なことばで、今あるものをひろめ明らかにせよといふ意である。
なくなつたものを復興せよといふのではない。時に当つて、細心の用語である。(中略)
彼の文化防衛論の根底にあるものは、所謂右翼的な利己的民族主義ではない、宗派神道的な世界統一の国際
宗教的な思想でもないのである。私はこれらの自覚を新しい世代に望み願ふより他の方法を知らないのである。
森田氏の行為の心は、右翼の心でもない。勿論左翼のどこにも見られない。師に殉ずといつた現象解釈など何の
意味もない。わが国六百年の武士道の歴史に於て、例を知らない純粋行為であつたと私は思ふのもかなしい。(中略)
三島氏は己の死後に、よつてたかつて云ふ人々の悪罵や、さかしらを見せるための批評、低俗そのものの証の
やうな見解といつたもののすべてを知りつくしてゐた。(中略)
マスコミが今度の自衛隊に関して口をとざしたのは、共通する政治性に原因があるのではなく、人性の世渡り
観念に於て、同一の腐泥のありさまゆゑであらう。これは不潔の妥協である。

保田與重郎「眼裏の太陽」より

444:無名草子さん
11/01/06 00:01:55 .net
(ドイツロマン主義の「イロニー」とは)日本でいえば「幽玄」とか「もののあわれ」とかいう用法に似ています。
そういうロマン主義が日本に再登場するために、三島さんは一つの橋渡しにはなる。少々間違うてもかまわん。
一つの部分だけでもとっかかりにして三島という踏み台に跳び乗る人が出てくれば、彼も生きてくる。
雰囲気を持った人やからね、そういう可能性は多分にある。三島さんなら、そういう踏み台になれるかもしれん、
いや、なってほしいと思う。

保田與重郎「三島由紀夫は蘇るか」(朝日ジャーナル1975年11月14日号の特集)」より

445:無名草子さん
11/01/06 00:03:20 .net
南北朝のころの北畠顕家が、あっというまに五万人の若者を集めて戦って、二〇才そこそこで戦死した。あの
五万人は南朝の名誉のためというだけで顕家についていったわけやない。
西南戦争でも、当時としては極右から極左まで、みな別別の思惑で西郷隆盛に従ったんやな。私には戦争末期に
軍部の監視がつき、戦後はアメリカの監視がついたんやが、そのアメリカのスパイみたいな男が、西郷は出陣に
際していったいどんな演説をしたんかとききよった。まあとにかく指導者が問題ということやな。

北一輝と大川周明が違うとったように、右翼の人はみな違ってるが、権力主義と財力主義がいかんことは
はっきりしてるね。三島さんもそんなものは歴史やないと気づいて、インド哲学なんかに興味を持ったり
したような気もするな。

保田與重郎「三島由紀夫は蘇るか」(朝日ジャーナル1975年11月14日号の特集)」より

446:無名草子さん
11/01/06 00:04:20 .net
三島さんは(『文化防衛論』などで)大嘗会ということを書いていますね。私はこれは一番大事やと前から
思ってきた。日本人は天からくだされる新熟のコメに、道徳から何から何まで圧縮してきた。それは天地循環、
天壌無窮の象徴であって、そういう点で天孫降臨ということにつながるんやな。天皇のご即位はその再現であり、
大嘗会は天皇と民族が約束を果たしたことの祝祭やった。私は戦争中にそういうことばかり書いて軍部に
にらまれたりした。三島さんのコメの霊というのはちょっとわかりにくいが、彼が最後に到達したのは、
そういう大嘗会の思想と違いますか。というても、彼は最高に理性的な、本当に学者らしい面のあった人やったから、
『英霊の聲』のようなもんは書きはしたけれど、決して邪教にはいかん、おかしな民俗学にはいかん人です。

保田與重郎「三島由紀夫は蘇るか」(朝日ジャーナル1975年11月14日号の特集)」より

447:無名草子さん
11/01/11 19:48:25 .net
三島由紀夫、本名平岡公威氏は、府中市多摩霊園十区一種十三側三十二番、平岡家の墓碑の元においでになる。
…私が墓参に行くと、かつては真紅であったろうと思われる薔薇がドライフラワー状態になって手向けられてあった。
…「真紅の薔薇」には忘れ得ぬ記憶がある。
昭和四十五年十一月二十五日。
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹された翌日、検死の済んだ御遺体が、詰めかけた人々で騒然としている御自宅に
戻られた。パテオに屹立していたアポロンの立像の脚元に三十本余りの真紅の薔薇が文字どおり放り投げられて
散乱していた。
鎌倉の御自宅から駆けつけて来られた川端康成氏が線香をあげられたあと、その光景を凝っと視ておられ
「薔薇って怖いね」と私の耳許で呟やかれた掠れ声が今も鮮明である。眼に薔薇の炎。耳に巨匠の声。―

増田元臣「美しい人間の本性」より

448:無名草子さん
11/01/11 19:48:56 .net
三島さんの交誼を頂く事になったきっかけは、私が未だ慶應義塾大学の塾生だった時である。私は幼年期から
映画に取り憑かれており、塾生でありながら、増田貴光というペンネームで書いていた「映画の友」という
月刊誌の寄稿文を映画好きの三島さんが読んで下さった事にある。その月の私のコラムは「ヴィスコンティの
美は禁色にあり」と題したもので、その時初めて手紙を頂いた。手紙の御礼に御自宅に赴いた私を、三島さんは
楽しげにもてなして下さった。(中略)
数日後三島さんから二通目の手紙が届いた。差し出し名は平岡公威となっており、その内容はざっと次のような
ものだった。
「今後、君と付き合ってゆくにあたり、先生という敬称はやめて欲しい。君との友情に距離感が生じるようで
寂しいではないか―」そして文通するについての差し出し名は平岡公威にする、と書かれてあった。以来私も
三島さんへの手紙は本名の増田元臣とした。

増田元臣「美しい人間の本性」より

449:無名草子さん
11/01/11 19:49:21 .net
私が映画評論家として米国に滞在していた時、「憂国」の映画が完成したという連絡を頂き、急遽帰国した。
原作、脚本、監督、主演すべて三島さん自身の作品だった。
三島さんは私独りの為に、三島さんと親交の深かった葛井欣士郎氏の劇場で「憂国」を観せて下さった。
試写が了り私が泣き濡れた顔で廊下に出て行くと、葛井氏となにやら談笑していた三島さんが驚かれた様子で、
「ほとんどが割腹シーンで占められているこの映画で、何故そのように悲しむのか」
と訊かれたので、「この映画は三島さんのダイイング・メッセージと解釈致しましたので」と私はお応えした。
その事があって以来、私は三島さんとの数々の思い出で日々を送った。

増田元臣「美しい人間の本性」より

450:無名草子さん
11/01/11 19:49:48 .net
特に、三島さんがイタリアに取材に行く時と、私がローマのチネチッタ・スタジオのフェリーニとのコンタクトの
時が一致して、私がお供をする形になった時のことである。
私達がフォロ・ロマーノの遺跡に立った時三島さんは冗談めかして、
「もし私がハドリアヌス帝だとしたら、君はアンティノウスになれるか」
と尋ねられたので、私は、
「勿論です!」
と勢い込んで即答した。
あの時の三島さんの嬉しげなお顔は、忘れる事が出来ない。
「三島由紀夫文学」については周知である。しかし、平岡公威、という美しい人間の本性は、深海の如く神秘で、
容易に理解することは出来ないだろう。

増田元臣「美しい人間の本性」より

451:無名草子さん
11/01/13 11:17:28 .net
三島さんの葬儀の日の少し前、実行委員会の打合わせがあった。
(中略)…式の段取り、各委員の仕事の分担、注意事項の検討、弔辞を読む方々の紹介があった。
その時、御父上が突然私を指名された。
思いもかけない発言に私は動転し、そのような大任の資格が私には無いと辞退した。
すると川端先生が例の鋭い目で、「資格のある人間はどこにも居ません。おやりなさい」と宣言された。
当日、私は緊張と悲しみに耐えながら弔辞を読んだ。
「私のこれまでの人生で、最高の喜びは、三島さん、あなたにお会い出来たことであり、最大の悲しみは、
あなたを喪って今ここにこうして立っていることです……」と。
私が三島由紀夫という名を識ったのは、昭和十九年、書店で見つけた「花ざかりの森」で、何故かすがすがしい
感じがした。戦後、雑誌『人間』で「煙草」を読んだ時、私はすぐ「花ざかりの森」を思い出した。

藤井浩明「私の勲章」より

452:無名草子さん
11/01/13 11:17:52 .net
終戦前の昭和二十年一月、私は中島飛行機小泉工場へ勤労動員され、戦闘機を造っていた。私たちの寮の隣りに
東大法学部の学生たちがいた。その中に三島さんがいて、明日をも知れぬ状況の中で、後に発表された小説
「中世」を書き続けていたことを、ずっと後で知って驚いた。二十五歳までに戦争で死ぬものと覚悟していた
私たちが、生きながらえて後に親交を結ぶとは……不思議な運命を感ぜずにいられない。
私が初めて三島さんに対面したのは、昭和三十一年、「永すぎた春」映画化の交渉の時である。
…私は既に大映企画部にいて三島作品の映画化を夢見ていた。
緑ヶ丘の平岡邸で眷恋の人に対面した時、私は自信に満ち溢れた、それでいて折目正しいこの青年作家に圧倒された。
以来、私は三島文学の映画化に挑戦していった。
「金閣寺」(「炎上」)、「お嬢さん」「剣」「獣の戯れ」「憂国」「複雑な彼」「音楽」「鹿鳴館」。
そして、三島さん主演の「からっ風野郎」等。

藤井浩明「私の勲章」より

453:無名草子さん
11/01/13 11:18:16 .net
「炎上」のシナリオ作業が難行している時、三島さんが「創作ノート」を見せて下さった。
絢爛たる文学が構築されてゆくプロセスが明解に読み取れ、目が開ける想いがした。
この映画は三島さんから最大の讃辞を頂き、以来、私は三島さんとの交友を深めていった。
時折、三島邸の書斎で話し込むことがあった。私は天才的文章の錬金術師の仕事場へ忍び込んだような気持で、
よく文学のことを質問した。三島さんは門外漢の私に丁寧に誠実に答えて下さった。
当時のメモを繰ってみると、例えば「憂国」の製作準備をしていた年など、年間七十回も会っていた。
…「からっ風野郎」の後、日仏合作映画のため市川崑監督と私はパリへ飛んだ。
思いもかけず三島さんが空港へ見送りに来られた。
たまたま別便で発つ永田雅一大映社長がいた。社長は私を別室に呼んだ。
「お前のような若造を天下の三島が見送りに来る訳がない。それはお前が大映の社員だからだ。俺に感謝しろ」と。
ワンマン社長は大の三島ファンで、明らかに私に嫉妬しているのだ。三島さんには万人をひきつける魅力があった。

藤井浩明「私の勲章」より

454:無名草子さん
11/01/13 11:18:34 .net
死の四日前、三島さんからいくら晩くても電話が欲しい旨の伝言があった。深夜帰宅した私は電話で話した。
「憂国」がイタリアで上映され大好評だと伝えると、三島さんは大そう喜んで詳しいことを調べて欲しいと言った。
四日後に死を決意していることを知る由もない私は、連休明けに報告しますと約束した。電話を切ってから、
三島さんが「さようなら」と仰言ったことが何故か気に懸った。いつもは快活に話してさっと切る人が……。
〈藤井氏はいついかなる場合にも、この作品に対する完全な愛着と信頼を少しでも失ふことがなかつた。
それがスタッフ全員をどれだけ力づけたかわからない〉
三島さんが「憂国 映画版」に書いて下さった文章は私の勲章である。
三十年祭の遺影の前に佇みながら、三島さんが以前、暇が出来たらポルトガルの鄙びた漁村を舞台に映画を
作ろうと話して下さったことを思い出した。いつの日か私はその海辺で映画を撮影したいと思っている……。

藤井浩明「私の勲章」より

455:無名草子さん
11/01/13 23:59:30 .net
生前の三島さんを語り合える人も数少くなってしまったが、いま劇場でその劇作は絶えることなく上演され、
「サド侯爵夫人」「鹿鳴館」「近代能楽集」等、舞台を通じて三島さんへの追憶にひたる機会にこと欠くことはない。
文学座を脱退した三島さんは劇団NLTを創立、一九六五年五月、「近代能楽集=班女・弱法師」を、私が
支配人をしていたアートシアター新宿文化で上演することになった。(中略)
その公演の初日直前のある日、知人から電話があった。「葛井さん今夜劇場を貸してほしいんだが、映画の試写、
何分極秘裡に願います。素晴らしい人を紹介しますからお楽しみに……」と。
夜九時すぎ、白い細身のスラックスに皮のポロシャツの男性が颯爽と事務所のドアから現われた。
「三島由紀夫です。今夜はよろしく」
あとは例の破顔大笑、その夜上演されたのは、完成したばかりの映画「憂国」であった。

葛井欣士郎「花ざかりの追憶」より

456:無名草子さん
11/01/14 00:00:12 .net
(中略)終了後、私は戦慄と興奮で暫く席を立つことが出来なかった。言葉を失なったまま三島さんに視線を
向けると、満足げに微笑みを湛えて見返した三島さん。これが三島さんと私の出逢いのはじまりであった。
その夜は酒場「どん底」で祝杯を重ね、ツール映画祭への出品が決った。
(中略)
「憂国」はアートシアター創立以来の大入りで二ヶ月余のロングランとなり、連日三島さんと過す日が続いた。
私にとって三島さんは友というには偉大すぎ、私は敬愛こめて「三島先生」と呼んでいた。作家としての深淵は
私には判る筈もないが、ひたすら慣れ親しんで夜の巷で遊び廻るのが常であった。
然しその交流の中で私は多くの教えを受けた。細やかな気遣いと優しさに充ちた雑談の中で、芸術、文学、
人生について貴重な話をきくことが出来た。

葛井欣士郎「花ざかりの追憶」より

457:無名草子さん
11/01/14 00:00:50 .net
ある時はテネシー・ウィリアムズやトルーマン・カポーティに会った印象、ジャン・コクトオ、レナルド・
バーンシュテインの話、外国の舞台、バレエ、オペラ、音楽など直にその場に居合せ、まるでその人々と
対峙しているように、生きた挿話は私を夢中にさせてくれるのであった。(中略)
夏、下田のホテルできかされた連載小説「命売ります」の荒唐無稽な仕掛けの話、焼玉蜀黍(とうもろこし)を
かじりながらの深夜任侠映画、丸山(美輪)明宏さんのリサイタルゲスト出演のためトレーニングの成果を
聞かせるからと「造花に殺された船乗りの歌」の背景にふさわしい場所でと横浜埠頭まで駆り出された夜、
映画「人斬り」では付人として京都まで随行、自衛隊富士学校への面会、森田必勝君にテーブルマナーを教えると
フランス料理店にお供した夜、「椿説弓張月」の舞台稽古と楯の会の国立劇場でのパレード、等々短かい歳月の間に
数えきれない程、多くのエピソードを残して、三島さんはあまりに早急に逝ってしまった。

葛井欣士郎「花ざかりの追憶」より

458:無名草子さん
11/01/14 00:01:52 .net
そして遂にあの日が来た。
七〇年十一月二十五日、ニュースをきいて私は三島邸に駆けつけた。涙があふれ、唇は乾ききって唾液も
飲み込めない。到着して直ぐ何かの用で三階へと向った。そこは左右対称の円形の部屋で、壁龕には嘗て
「これがぼくの総てだよ」と指し示めされたとおり、三島さんのミニチュアブロンズ像、「癩王のテラス」の
舞台模型、外国語訳の自著群が並び、主を失った部屋は静謐に沈んでいた。
視線を移したその時、片隅のテーブルにレコードプレーヤーが置かれ、蓋が開け放たれ、そこにLPの
レコード盤が残されたまゝになっていた。私は茫然と見詰めていたが、何故か触れることをためらった。
若しもあの日の前夜、三島さんが最後に聴いた曲だとしたら……
然し瑤子夫人も亡きいまとなっては、もはや確める術もない。

葛井欣士郎「花ざかりの追憶」より

459:無名草子さん
11/01/17 14:59:24 .net
ある日公威は威一郎を連れてデパートに参りましたが、何か玩具のことで親子喧嘩したと見え、そのとき
「お父様なんか死んでしまえ」と言われたようです。真顔で悲しそうに私に訴えに参りました。そのときの
公威の心境が今日になってよく判ります。

ある日私があるお客様にお目にかかったときのことです。「三島さんという方は不思議と決して他人に御家族のことを
一言もおっしゃいませんでした。それなのに二、三日前用談の途中で唐突に、僕は威一郎が 可愛くて可愛くて
どうにも仕方ない、本当に可愛いんだ、と二、三度同じことをくり返されるのです。こっちはちょっと面喰いましたが、
そのまま用談に戻りました」というお話でした。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

460:無名草子さん
11/01/17 14:59:49 .net
公威は物差しやハタキのような長いものを持ってこれを振り回すのがとても好きでした。無意識にもウップン晴らしの
意味でございましたろうか。これらはやがて危ないというので、母(三島の祖母)に没収されてしまいました。
公威はこんなときでも、決して反抗はいたさず、だまって素直に従ってくれて、かえって可哀想になりました。

公威は五歳のときのお正月に、はじめて自家中毒という病気にかかり、もう駄目だという危篤の状態になりました。
親戚も多数集まりました。私はお棺に入れてやる着物や玩具を持って来てソッと裾のところに取揃えました。
そこへちょうど千葉医大の部長をしておりました私の兄が来てくれまして、しばらく見守っておりましたが
「あっ、小便が出た、助かるかも知らんぜ」と申し、それから間もなくまた大量のお小水が出ましたら、兄は
「もう大丈夫」と大声で言いました。ああこの時のうれしさ、まるで夢のような心地とはこのことを申すので
ございましょう。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

461:無名草子さん
11/01/17 15:00:12 .net
初等科時代、公威は肺門淋巴腺(りんぱせん)にかかりました。この病気は身体がとてもだるくなるものですから、
教室では姿勢も悪く、先生には叱られ通しだったようです。しかも自分のうしろの席には級中きっての悪童が
ひかえていて、その煽動でのべつ幕無しに二人でいたずらをするので、二人とも教壇の前に立たされ、おでこと
おでこを鉢合せさせられるという、そうとう重い体罰をいくどか受けました。


中等科では剣道や乗馬は正課でしたが、公威は両方とも好きで、特に剣道を大変好みました。寒稽古のときは
五時ごろ自分で飛び起きて、嬉々として出かけて参りまして、稽古の後学校が出してくれる味噌汁がうまくて
うまくてたまらない、お母様にも一度飲ませたいと私に何度も報告しておりました。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

462:無名草子さん
11/01/18 10:53:07 .net
公威は幼少のころから日本古来のしきたり、行事というようなものがとても好きで、またこれらを大事にいたしました。
母の躾けのせいもありましたろうが、神社の前などに参りますと、どんな小さな祠でも何びとの指図も受けず、
自らすすんで必ず丁寧に参拝し、お辞儀をしないで通りすぎるというようなことはありませんでした。
これは子供の時代ばかりでなく、ずっと大人になってからも続きました。毎年の豆撒きの時など、先頭に立ち、
孫達はすぐ飽きてしまって逃げ出すのですが、公威は一人になっても物凄い大きな声で、「鬼は外、福は内」と
どなりながら豆を撒き、それから家族中に各自の年より一つ多い数の豆をひろわせて十円玉と一緒に包ませ、
自分みずから近所の四つ角まで持って参り、帰りには掟な従い決して振り返らないという調子で、これには
親の私もついていけなかったものです。この念には念の入った信心振りは死ぬまでやめませんでした。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

463:無名草子さん
11/01/18 10:53:44 .net
二十年三月の大空襲のとき、公威は学徒動員で座間の海軍の工場に泊り込みで参っておりましたが、いそいで
帰宅して来ました。向うから眺めると、東京の空が真赤に染まっており、これでは東京は必ず全滅してしまって
いると思い、ずいぶん無理をして、やっと駆けつけて来たとのことでした。家族一同で無事を喜び合い、公威は
今後の打合わせをしたり何くれと手伝いをしてまた座間に戻って行きました。ただこれだけの話ですが、公威が
防空壕の入口のところで私が頸に巻きつけていたショールをとって巻き直してくれたり、そして何だか忘れましたが、
小さいものの包みを差出して、お母さま、これをあげましょう、と言ってくれたことを覚えています。多分
ビスケットともおせんべいともつかぬ変てこなものだったと思います。空襲が終ると、「みんな頑張ってよ」と
手を振りながらまた戻って行ったのでしたが、そのうしろ姿を、私は、なんでこんなにまで私に親孝行して
くれるのだろうと、ありがたくてありがたくて、涙ながらにしばらくたたずんで見送った記憶があります。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

464:無名草子さん
11/01/18 10:54:02 .net
また工廠には台湾人の少年が大勢働かされていて、自分はその世話をする係だが、例外なしにみんな実に
かわいい子ばかりで、自分にもなついてくれたけど、食べ盛りの彼らのこととてたいてい栄養失調で、ことに
脂肪に飢えていて、僕らだったら腹をこわすようなものでも、油と名のつくようなものならどんなものでも
飛びついて舐め、しかもその後もケロリとしているのには、かわいそうにも思い感心もした、といっておりました。
一方、上官たちの部屋を覗くと、相当の御馳走が十分食卓に並べてあって、上官たちはこれを談笑しながら
食べていたそうです。彼らと台湾少年とを想いくらべると、義憤というか悲憤というか、上官たちの部屋に行き、
「貴様らそれでも人間か」とどなりつけたい衝動に駈られたと、相当興奮した口調で話をしておりました。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

465:無名草子さん
11/01/18 10:54:20 .net
終戦前のことですが、荷物の疎開でズック袋やトランクをいくつも荷造りしましたが、そのときも公威は、
荷造りの手伝いをしたり、それぞれの荷物の中身を克明に手帳に記入してくれたり、自動車で運びにくい品物は
大八車を借りて来て弟妹と三人で運んでくれました。その途中で警報が鳴り、急いで物陰に身をひそめはしたものの、
後で悪路のために思うように車が進まないで、苦心を重ねて真暗になってからやっと弟妹と三人で帰宅して参りました。
また主人と一緒にお薯(いも)や野菜を仕入れに埼玉方面まで参り、帰途はその運送人にさせられたり、公威は
つねに先頭になっていやな仕事を引き受けて、ずいぶんこの弱い私を助けはげまし、一家の心の支柱となって
くれました。

中等科の終りごろから学校の軍事訓練がだんだんさかんになり、富士の裾野を重い背嚢(はいのう)と銃を
かついで一晩中行軍させられ、落伍者も出るくらいでしたが、ふだん弱い弱いと言われていた公威は落伍もせず、
教官に、精神力が強い根性がある、と賞められたと自慢しておりました。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

466:無名草子さん
11/01/19 08:18:51 .net
時の話題やビッグニュースを掲示板の書き込みを読んで一発理解。

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467:無名草子さん
11/01/20 12:33:29 .net
イタリア最大の出版社の一つであるモンドダリは、二年後(投稿時2002年)に、三島由紀夫選集を出すことを
企画している。ローマ大学のマリアテレーサ・オルシ教授を編者とするこの選集の目的は、三島文学の美しさを
あらためてイタリアに紹介することにある。
その目標を達成するため、序文、解題と共に訳文の精確さが大切なポイントとして顧慮され、日本語からではなく
英語などから重訳されている作品も、今度は新しく日本語から直接翻訳される。
その中には…(中略)「鏡子の家」等も含まれる。この最後の作品は私の担当作品なので、少し考察したい。
周知のように、三島がひたすら情熱と才能を傾けて書いた「鏡子の家」は非常に評価が低かった。
予想を裏切る反応に作者は落胆したが、昭和42年にはこの小説を「自分の好きな作品」に数えている。
それにも関わらず、この作品はあまり研究の対象になっていない。評判が良くなかった理由は様々に書かれて
いるが、ここでは反論するよりも、私にとって興味深く、秀逸と思われるところをすこし分析してみたい。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」

468:無名草子さん
11/01/20 12:33:56 .net
「鏡子の家」は構成が見事である。その枠組みの中に、美しく表現力豊かな文章や隠喩がちりばめられている。
冒頭に〈みんな欠伸をしてゐた〉という、短いが意味深長な一文がある。
「みんな」に含められる登場人物たちは、生との関わりに困難をきたし、倦怠感に蝕まれている。
群小人物の光子と民子は倦怠を逃れるため銀座の美容院に行って満足する。
他の主要人物たちは自分の内面世界と外界との関係に支障をきたしている。
俳優志願の収は自分の身体を明確に知覚できず、身体と存在を同一視するに至る。画家の夏雄は突然視界が
消滅する出来事に遭遇して以来、絵が描けなくなるが、内面世界をより狭くすることで再び描けるようになる。
拳闘選手の峻吉は記憶空間のない生活を構築する。鏡子は自分の内面世界についてあまり考えないようにし、
友人たちの経験、思想に満ちている「家」に住んでいる。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

469:無名草子さん
11/01/20 12:34:16 .net
しかし冒頭の「みんな」には、会社員である清一郎が意図的に挿入されていない。清一郎は一番俗世に混じって
生活している人物で、日本だけではなくニューヨークに住んでいる時も問題なく仕事環境に溶け込める。
しかしその能力は世界崩壊を固く信じることから来るものと言うべきである。
「鏡子の家」の完璧な構造では、鏡子が友人たちを追い出して自分の家を“閉める”という経緯が作品の
結びとなる。つまり小説の終わりと“家の終わり”が一致するのである。
そして冒頭と同じく、光子と民子はつまらなそうに「仕方なし」に銀座の美容院に行く。
三島の描写は暗示的で、しかも読者の目前に見えるような印象的なイメージが豊かである。
最も顕著で、優雅なイメージ操作は「鏡」をめぐるものであろう。
タイトルとなる女主人公の名前を始め、すべての人物にそれぞれ自分の「鏡」がある。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

470:無名草子さん
11/01/20 12:34:37 .net
収は本物の鏡に映るとほっとするが、鏡より肉体を強く感じさせる女性と出会った時、その人間的な鏡と
死ぬことを決意する。
夏雄は自分の絵におのれを投影する。それゆえ、絵が描けなくなった時、一旦自分を見失う。
峻吉は力を自分の鏡とする。しかし喧嘩で手を怪我して拳闘ができなくなると、自分の鏡である力を右翼の
青年団に入って使う。
鏡子は自分を皆の鏡であると思いながら、他人を自身の鏡として使う。最後に娘と互いに映しあう鏡遊びで、
どちらが娘かどちらが母か、どちらが女らしい魅力と欲情をよりそなえているかわからなくなる。
ちょうど金閣寺が素晴らしく金色に輝く姿を鏡湖池に映すように、「鏡子の家」の人物たちは自らを
映す物なしでは生きられないのである。ひょっとしたら、作者も小説に自分を映したのかとも思われる。
登場人物に三島自身の投影が認められるかどうかは別として、隠喩やイメージが豊富で、とても面白く読める
作品である。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

471:無名草子さん
11/01/20 12:34:58 .net
個性的であざやかな表現が多いので、翻訳する側はそれをうつし変える困難を何とか切り抜けなければ
ならないが、作者の力量や熱意がページごとに感じられる。
古典文学を翻訳するとき、イタリアの読者に伝えにくい雰囲気、理解しがたい習慣等がある。
しかし「鏡子の家」の場合、そのような難しさはなくて、例えばサルトル、モラヴィアを読んだ者には
感じやすい倦怠感もあり、場面がニューヨークになっているページもあるし、それほど遠い文化が感じられる
ところはないと言える。
ただ、完璧に文体の美しさを伝えることはやはり容易ではない。しかし、それは読者より翻訳者の問題であろう。
原文の美しさに感服しつつ、同レベルの文体の文章を作ろうと格闘中の私には、何故今まで「鏡子の家」が
訳されなかったのか不思議に思われる一方、その任を受けたことを幸いに思い、この作業がたいへん有意義な
経験となることが確信されるのである。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

472:無名草子さん
11/01/23 16:48:34 .net
三島由紀夫が透徹した認識の目を持っていたことは、彼を知る人ならば誰もが認めるだろう。例えば動物に
対する描写を取ってみても、その異様に鋭い認識能力が垣間見れる。(引用略)
言葉を喋らぬ一個の生命に対して、これほどその根源に迫れるほどの認識能力を持っているなら、人間を洞察し、
その自意識を具体的に纏め上げた安永透という人間を作り上げることくらい造作もなかっただろう。(中略)
三島文学ほど明確に人間の個人的精神と結び付けて涅槃を説いている作品は他にないだろう。悟り……、そして
悟りへ至るための道である八正道とはつまり、自意識の塊りである安永透という存在の否定なのだ。
天人五衰や「安永透の手記」には、悟りへの道である八正道に、見事に反する精神状態が描かれているのである。
安永透の自意識こそ、仏教が説く人間の捨て去らねばならない“我”そのものだからだ。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

473:無名草子さん
11/01/23 16:48:57 .net
三島由紀夫の重要性、そして特殊性は、その並外れた認識の能力にある。(中略)
なぜ三島由紀夫にだけ、これほど高度な認識能力があり、一般の人はそうではないのか。それが私には大きな
疑問となり、三島文学への好奇心を駆り立てた。(中略)
どちらかというと私は三島の小説よりも日記やエッセイなどを好んだ。(略)…概念の捉え方が行間からより
鮮明に表れていて、その明晰さに私は驚嘆した。(中略)
三島由紀夫は単なる小説家という存在を超えている人間なのかもしれない、と私はうっすらと理解し始めた。
多くの人は『ミシマ文学』と言っているくらいで、どうも彼の使う表現の卓越さ、認識の正確さのすべてを、
三島由紀夫の文才と考えているようだった。
しかし私にはそうは思えなかった。言葉使いが巧みなだけなのではない。確かに十代までの三島はそうだった。
しかし「仮面の告白」以降は違う。正確に現実を認識しているのだ。あまりに正確すぎるほど正確に……。
つまり、何かをきっかけに三島由紀夫は、その正確無比な認識に覚醒したのだと私は思った。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

474:無名草子さん
11/01/23 16:51:11 .net
…『一目で見抜く認識能力にかけては、幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多の中で自得したものがあった。欲望を
抱かない限り、この目の透徹と燈明はあやまつことがなかった』(天人五衰)(中略)
三島は自分の奇跡待望の不可避とその不可能の自覚を、若いときは自分の文学的素養として芸術の領域で
捉えていて、仏教的な意味での仏性だとか悟性だとかいう風には捉えていない。或いは最後までそのスタンスは
変わらなかったかもしれない。(中略)
三島由紀夫が行っていた無我の認識とは、この阿頼耶識を認識することだ。(中略)
古来から悟りを開いた者は神通力を得ると言われている。(略)阿頼耶識による無我の認識は、原理は単純だが、
或る意味そういった超能力に近いものだ。(略)…三島の表現力を神技に近いと評した評論家もいたようだ。
超能力とまでいかなくても、第一章でも記したように、その認識の正確さは燈明を極めていた。(中略)
無我の認識という正確な認識の方法を理解している三島由紀夫という存在は、私には途轍もなく重要に思えて
きたのだった。三島由紀夫が理解されれば、人間同士の完全な相互理解が可能になるからだ。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

475:無名草子さん
11/01/23 16:51:44 .net
…三島由紀夫について研究していて、ひとつ不思議に思った事があった。なぜ三島が自分への理解を求める
方法として、小説という形を選んだのかということだ。彼はそこいらの哲学者や心理学者よりよほど頭が良く、
人間精神に精通していたから、自分を理解して欲しいなら、自分の認識の体系を分かりやすく論文のような形で
まとめて発表すればよかったのにと思った。なぜそうしなかったのか。実際に三島由紀夫について書いてみて
分かった。それは不可能だからだ。近代自我哲学や精神分析学は三島本人も言っているように、些か暴論で、
妄味を生み出している気がする。精神という性質を詩的幻想と規定することは出来ても、その精神が生み出す
幻想世界を分割したり、現実世界に対する精神の認識構造を解析することは不可能だ。(中略)
唯識的に言うと、欲望を捨てて第七識を超えたところにある阿頼耶識という存在の究極の片鱗を読み取った
ということになるだろうが、では、どのようにして読み取ったのかとなると、それ以上の詳しい説明は出来ない。
それ以上は、もう“ありのまま、ただ見た”としか言いようがない。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

476:無名草子さん
11/01/23 16:52:01 .net
…プラトンのイデア論にしても、ニーチェのパースペクティブ主義にしても、デカルトの良識論にしても、
実念論にしても唯名論にしても、フーコーのエピステーメーにしても、フランシス・ベーコンが「ノーヴム・
オルガヌム」で言うイドラにしても、実存主義にしても、ライプニッツのモナドの概念にしても、そして
唯識さえも、認識に至るまでの経緯の仮定的な説明なのだ。(中略)
過程を明確に示す方法がないから結果から示すしかなかった。小説という物語の形を借りた方法で、自分が
認識した安永透という人間の自意識を正確に記すしか、つまり、感覚的に、自分の認識能力とその認識能力を
持っているということが何を意味しているのかを理解できる人間を探すしかなかったように、私には思える。
無我に至るまでのその過程を説明しなくても、天人五衰を読んだら分かる人間に向けて三島は天人五衰を書いている。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

477:無名草子さん
11/01/23 16:56:51 .net
(中略)
三島由紀夫が天人五衰に書いているような、人間世界を裁定する漁師の目、それは神仏の目だ。無我による
正確な認識は、最終的に神の目に近づく。人間を監督し、その行いに応じて命運を決定する存在との視点の同一化。
それが一種の予言性を帯びてくる究極の認識であり、人間が最終的に至るべき境地なのだろう。そしてそれは、
いわゆる宿命通・天耳通・死生智にあたるのだろう。
『狐はすべて狐の道を歩いていた。漁師はその道の薮かげに身を潜めていれば、難なくつかまえることができた。
狐でありながら漁師の目を得、しかも捕まることが分かっていながら狐の道を歩いているのが、今の自分だと
本多は思った』(天人五衰)(中略)
精神という願望的幻想性を利用したこの現実の都合のいい変容を、人を化かす『狐』に例えているのである。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

478:無名草子さん
11/01/23 16:57:06 .net
(中略)
そもそも彼のあの異常な明晰さは、人間の領域を遥かに超えている。彼は人間でありながら神仏の目を得、
しかも人間として生きたのだ。(略)三島は晩年、生涯を通じてあれほど批判してきた太宰治と自分は同じ
なんだと言ったそうだ。太宰がそうであったように、三島にも人間の世界が理解しがたかったのではないか。
理解できすぎたが故に。
その無意識。その認識の欠如。すべてが彼には奇妙に思えただろう。
三島にとって人間は、運命の自己表現のようなものだった。(中略)
三島は確かに誰よりも正確に物事を認識することができたわけだが、単純にその能力を喜んでいたわけでは
なかったようだ。(中略)
三島由紀夫は確かに稀に見る認識の天才で、完璧に近いほど人間存在、そしてその命運を裏側から管理している
神仏の神秘まで理解していた。しかし、求道者ではなかった。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

479:無名草子さん
11/01/23 16:57:26 .net
三島は悟達に至ろうと思って悟達に至ったわけではない。セキュリティー・システムを打破するはずのハッカーが、
逆にセキュリティー・システムに詳しくなるように、犯罪を犯すはずの犯罪者が、逆に刑法に詳しくなるように、
あまりにも夢想的であったために、逆に真実に目覚めてしまったのだ。
そして三島はその欣求の欠如ゆえ完全なる悟りには至っていなかった。いや、至ろうとしなかった。(中略)
ここに三島由紀夫という人間の独自性がある。彼は悟りの構造を知っていながら詩を求め続け、仏教には帰依せず
天皇に帰依したのだ。奇跡は到来しないと理解してからも、つまり詩が現実ではないとはっきり理解してからも、
生来の気質から詩的椿事を待望し続けることをやめられず、また神仏に帰依する気もなかった三島由紀夫は、
自分の意志の不毛に気付いていた。紙の上の現実と実際の現実、その二種の現実のどちらもいつでも選べるという
自由が三島由紀夫という人間の意志だった。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

480:無名草子さん
11/01/23 16:58:02 .net
(中略)
どんな奇跡への待望であれ、それが絶対に到来しないと分かっているなら、そしてそれでも猶、奇跡を待望し
続けるとするなら、いったい精神はどこへ向うのだろう。三島にとって至福と言うものが、少年時代に感じたように、
願望と現実の一致にあるなら、詩から覚醒した三島の唯一の至福は、自らが絶対的存在と融和することだった。
それが「憂国」であり、天人五衰の末尾において本多繁邦に語らせている『聖性』だった。(中略)
ああいう最期を遂げたことには、批判的な意見の方が多かったようだが、バルコニーに立って演説する三島の
姿を見るたびに、私は何か心を動かされる。別に憲法を改正して自衛隊を国軍にして欲しいわけではないけれど、
命を賭けて訴えるその姿に素晴らしい何かを見るのは確かだ。(中略)
天人五衰における本多の涅槃への到達の仕方は、一見したところ幸福からは遠く、それはまるで神への挑戦のようだ。
恒久平和の不可能を自明のものとして死んでいった彼の存在が、実は精神という幻想を打ち破り、人間の相互
理解を可能にする唯一の鍵だったというのはなんと皮肉だろう。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

481:無名草子さん
11/01/23 17:01:48 .net
(中略)
私には三島由紀夫が、自分がロボットだと気付いてしまったロボットのように思えてしまう時がある。自分の
内部構造、背負わされた宿命、世界の実相……、その仕組みを、それを創造した者と同じくらい完全に理解
できる能力を持っていた三島由紀夫は、結局、自分が何者であるかを知ってしまった。三島由紀夫は自分が
【人間】であることを理解してしまったのだ。
精神の奇跡待望の不可避とその不可能の自覚という性質。告白は不可能であり、真の自己は規定し得ないということ。
人間は自由意志を持ってはいないということ。見えない誰かに何かを強いられて生きているということ。
人間であるということそれ自体がひとつの罠にかかってしまっているということ。そして、自分が誰からも
理解されてはいないということ……。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

482:無名草子さん
11/01/23 17:02:09 .net
世界についても理解した。
それは涅槃の文学である三島文学の最終的な主題「奇跡自体よりもふしぎな不思議」だ。
即ち古代存在論にはじまり、中世スコラ哲学へと続き、デカルトやウィトゲンシュタイン、ライプニッツらも
問うた『神秘的なのは、世界が如何にあるかではなく世界があるということ』という命題。数多くの哲学者が
求めたこの命題に対する三島由紀夫の答えは、「仮面の告白」における素面の不在と同じように、世界存在
そのものの実体の不在だった。
『「海と夕焼け」は、奇跡の到来を信じながらそれがこなかったという不思議、いや、奇跡自体よりもさらに
ふしぎな不思議という主題を凝縮して示そうと思ったものである。この主題はおそらく私の一生を貫く主題に
なるものだ』(花ざかりの森・憂国 あとがき)
…つまり、世界が存在しているということ自体が奇跡よりもふしぎなことなのであって、それは唯識論哲学に
おける存在の実体の無さ、一切諸法がただに『識』に帰すという思想によって表されている。
『本多は夢の生に対する優位を認識した』(天人五衰)

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より

483:無名草子さん
11/01/26 10:56:59 .net
三島さん、あなたがこの世を去られてから、ちょうど二十年の歳月が流れました。長いようでもあり、
短いようでもあります。
二十年前、あなたのあの壮烈な死の直後、私はこの「題名のない音楽会」であなたへの弔辞を捧げました。
そのなかで私はこう言いました。
「三島さん、あなたが自らの死によって訴えたかったこと、それはあの檄文の最後にある言葉
『我々の愛する歴史と伝統の、国日本を日本の真の姿に戻そう。生命尊重のみで魂が死んでもいいのか。』
この言葉にあなたの思いは集約されていると私は思います。
最後のバルコニーの演説でも冒頭にあなたはこう言っている。
日本は経済的繁栄に現を抜かして精神的には空っぽになってしまった。君たち、それがわかるか、と。
自衛隊の存在も含めて潔癖なあなたは政治的ごまかしを許すことができなかった。

黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

484:無名草子さん
11/01/26 10:57:19 .net
現在の日本が世界に冠たる経済的繁栄を誇りながら、それに反比例して政治の腐敗とごまかし、精神の不在と荒廃、
人間の疎外と断絶、こういった憂うべき事態を深めつつあることは心ある人々の認めるところでしょう。
明治の文明開化以来、西欧流の物質主義が日本文化を支える精神主義を危殆に瀕せしめている。
あなたが自ら畢生の大作と呼んだ最後の作品「豊饒の海」であなたは唯識論と輪廻転生という東洋の思想を踏まえて、
この風潮に文学的というよりはむしろ哲学的な鉄槌を下している。あの作品の最後の部分で主人公が蝉時雨の
降るような尼寺で、意外な結末に茫然と立ち尽くすあたりはまさに無の境地としか言えません。
文学ならば無で済みます。しかし、現実はそれでは済まない。
あなたは自らの命をわざわざ人が犬死にと評するような一見、愚劣な方法で劇的に絶つことにより、
心ある人々に一大衝撃を与えた。まさに皮肉で逆説好きな、いかにもあなたらしい芸術的なやり方でした。

黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より

485:無名草子さん
11/01/26 10:57:51 .net
あなたがもし、政治家だったとしたら、こんな方法は絶対にとらなかったでしょう。
あなたが意図したことはだから、自衛隊に決起を促すクーデターではなかった。心ある人々の魂にぐさりと
突き刺さる精神のクーデターだったのです。
(間)♪♪♪♪♪
三島さん、二十年前、あなたがあの壮烈な死を遂げられた直後、私は「題名のない音楽会」でいま言ったような
弔辞を捧げました。そして、あなたが自らの死を以て暗示してくれた精神的クーデターは近い将来、必ず
起こるはずだから、どうか、あなたのこよなく愛したこのワグナーを聴きながら、幽明境を異にした天界で
日本の将来を期待とともに見守っていて下さい、このようにお願いをしました。
それから二十年。日本は変わったでしょうか! 残念なことに、本当に残念なことに少しも変わってはいないのです。
あなたが、死を賭して訴えた自衛隊の問題にしても未だに決着はついていません。三島さん、あなたの名前は
今でも一種のタブーです。あなたの数々の作品は芸術的には高く評価され、あなたの才能を疑う人間はいないけれど、
あなたの思想は依然として危険視されています。

黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より

486:無名草子さん
11/01/26 10:58:12 .net
いまの日本は、二十年前、あなたがいみじくも予言した通り
「私はこれからの日本に希望が持てない。このままいったら日本は無くなってしまう。そのかわりに無機的な、
空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るだろう。
それでもいいと思っている人たちと私は口をきく気にもなれない。」
こういったあなたの言葉通りが現実なのです。本当に残念なことです。
三島さん、あなたがいなくなってからの二十年は、あなたが望んでいたような二十年ではありませんでした。
また、これから先の日本が果たしてどうなるのか、誰にも予断はできません。しかし、今までの二十年と同じく
あまり期待のできない将来であることは、おぼろげながら予測できそうです。ともあれ、いま、幽明境を異にした
あなたに私ができることといえば、あなたの好きだったこの曲を捧げることくらいでしょう。
この曲がうたっている死とはかり合えるほどの重さを持った愛の尊さをあなたと一緒にかみしめましょう。…

黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より

487:無名草子さん
11/01/29 10:06:04 .net
たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという
根拠にはなりえない。また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、
三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、
あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、
それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。(中略)
恋愛結婚を人々が夢見ていたとき、結婚の夜に情死をとげる『盗賊』は、なんと悪意にみちた時代への挑戦で
あったろう。また、文学上の誠実主義が“自己確立”の名のもとに謳歌されていたとき、『仮面の告白』は、
なんと反時代的な作品であったろう。あるいは、人々は戦争の危害について語っていたとき、「金閣とともに
滅びうる幸福」を語った『金閣寺』は、なんと不吉な夢に貫かれていたことであろう。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

488:無名草子さん
11/01/29 10:06:35 .net
三島氏が『憂国』あたりを境にして、急速に変貌したという見解を、私はほとんど信じることができない。(略)
三島の宿命は、すでに『仮面の告白』において、ほとんど予定されていたといってもよい。仮面の背後にある
空白が、いわば“太陽神”の欠落であるなら、それがやがて『林房雄論』や『英霊の声』となって蘇生する
ことは、なかば必然といってもいいものであった。“太陽神”が失われたとき、あの東京の廃墟の上に広がって
いた青空には、夥しい日光の氾濫があった。(略)廃墟の太陽への偏執は、やがてギリシャの廃墟の夥しい
陽光の氾濫に接続する。そして氏は、人間性という名の自然を否定するために、“肉体”を“鉄”のように
鍛える道を選んだのである。(略)三島は徹底して明るさに固執した作家であった。その明るさは健康優良児の
明るさとは、まったくの対極をなすものであった。それは“鉄の悪意”を秘めた明るさ、あるいは悪意を証明
するためには、死をも辞さないような、鉄の意志に裏づけられた明るさである。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

489:無名草子さん
11/01/29 10:07:30 .net
(中略)氏にとって天皇とは、存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものかであった。それは氏の
“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョンといってよく、もし氏がそこへ向かって飛翔するならば、
ただちに地上に失墜するであろうことを、氏は『イカロス』という詩に述べているように、どこまでも知り
ぬいていたのである。
三島氏にとって必要なこと、それは「戦後」という時代、あるいはストイシズムを失った現実社会そのものに、
徹底した復讐をすることであったと思われる。イデオロギーはもはや問題ではない。自衛隊も、自民党も、
共産党も、氏の前には等しく卑俗なものに見えたのである。この精神の貴族主義者にとって、いったい不可能
以外の何が心を惹いたであろうか。思えば氏の不可能への夢、あの「青空による地上の否定」は、典雅な
造形力によって、作品のなかに封じこめられた。その危険な思想、不可能への渇きは、優に氏を“危険な思想家”
たらしめるに十分であった。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

490:無名草子さん
11/01/29 10:09:07 .net
(中略)現世には仮構としての生活しかありえず、その「嘘偽の本質」を愛するほかはない。すでに世間的には
スタアであった三島氏は、その「嘘偽の本質」を、あるいは嘘偽のパラドックスを、どれほど深く愛したこと
であろう。その「嘘偽」の背後にある本心、それはあの“太陽神”の生きていた時代にたいする渇きである。
その渇きの基底にあるのは、いうまでもなく『葉隠』につながる日本的なラジカリズムの精神である。それは
いうなれば、有効性の彼岸にあるがゆえに聖なるもの、また聖なるがゆえに地上の汚濁に染まってはならない
ものであった。(略)この『葉隠』にたいする二重の自覚は、いうまでもなく“太陽”と“鉄”との二重性に
通じている。氏の渇きの喚び求めた、あの極限像としての“太陽神”は、つねに“鉄の悪意”に裏づけられた
ものであった。それは「戦後」という時代に向けられた悪意、あらゆる微温的な偸安にたいする悪意である。
(略)そして無効性を承知の上で、不可能性の一端を“死”によって可能に転化したとき、氏の“鉄の悪意”は、
ほとんど完璧な意味において、時代の偽善にたいする批評と化する。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

491:無名草子さん
11/01/29 10:10:04 .net
遺作『天人五衰』の結末部に出てくる鼠の自殺のエピソードは、三島氏がどれほど醒めきっていたかを証して
余りある。(略)その自殺によって、猫や鼠の世界に大きな変動が起こりうるであろうか。猫がその奇妙な
鼠のことを忘れて、なおも偸安をむさぼっていることを、三島氏ははっきり書きそえている。いいかえれば、
氏は自分を愚かな鼠に擬したとき、氏にたいするいっさいの批評の無効性を、氏みずから確立してしまった
のである。この驚くべき自意識の屈折、残忍なまでのダンディズム、あらゆる批判の可能性を封じた鉄の悪意と、
不可能に挑んだこの倨傲。(中略)
“太陽神”の実在していた時代に、どうして不可能への渇きが必要だったであろう。また、戦後精神の
極限としての“鉄の悪意”なくして、どうして現実の戦後文化を軽蔑しつくすことができたであろう。(略)
三島氏には、死ぬというより死んでみせることが必要であった。そのかぎりにおいて、私小説家の追いつめ
られた生活演技とも、明確な一線を画している。政治的・外在的批判は別として、いったいここまで意識化
された死に、どんな批判が可能であろうか。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

492:無名草子さん
11/02/03 23:31:27 .net
われわれ精神科医にとって三島由紀夫ほど魅力的な研究対象は他に例を見ない。
それはまず、三島作品の中には、精神科医が日ごろ臨床で見る精神病理学的な体験が数多く、見事な洞察力を
もって描かれているからである。
精神科医ですら記述が難しいほどの心の綾やメカニズムが、みごとに言葉として造形されている。
例えば、私が三島の最高傑作と考える「金閣寺」には、周知のようにモデルとなった事件・人物が実在するのだが、
鹿苑寺金閣に放火したその学僧・林承賢の精神の病の発症と発展の有り様が、作品には実に緻密に、かつ
正鵠に記述されている。
例えば、林の発病期の、つまり放火決意直前の「妄想気分」などは、荒涼とした日本海の風景に託して、
実に迫真的にイメージ化されている。ここでは、「症状」が、芸術的な「美」に高められているのであり、
作家の腕前には感嘆する他ない。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より

493:無名草子さん
11/02/03 23:31:49 .net
かつて私は、この「金閣寺」の作者・平岡公威氏と、実在した犯人・林承賢と、それから小説の主人公の三者を
比較対照する年表を作り、その異同を研究したことがある。モデル小説であっても、作者の心の真実が必ず
作品の内容に、特にその主人公の心理に投影されていないはずはないと考えたからであり、その「詩と真実」の
嵌め込み細工を分析することが、作者の「詩の技法」を解明することにもつながると思ったからである。
その研究論文にはあからさまには書かなかったが、平岡氏の心理と、精神分裂病を患った林承賢の心理とは
かなり通低するのではないか、と当時の私は直観した。
しかしそれはもちろん、氏が精神分裂病を初期段階でも体験したことがあるという意味ではない。そうではなく、
ポテンシャルとして、体験する可能性があった人ではなかったか、という直観であった。精神分裂病という病気に
まったく無縁の人であれば、患者の心理に対するあれほど深い感情移入は不可能ではないか、と思ったのである。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より

494:無名草子さん
11/02/03 23:32:08 .net
この考えは、次の傑作「鏡子の家」を読み返しても変わらなかった。しかし「鏡子の家」を書いたころは、
「金閣寺」を書いたころに比較すれば、作家の狂気に対するスタンスは大分違っていた。
遠くなっているように思われた。つまり、この作品に描かれている狂気はかなり概念的なものに変化していた。
この程度であれば、精神医学の教科書を読んでいれば、まったくの正気の人でも書けないことはない。
それにしても、三島はなぜ精神医学の教科書や事典にとどまらず、高度に専門的な学術書や論文まで渉猟する
情熱を持っていたのかという疑問は残る。
三島は、精神医学の本ばかりではなく、性科学(特に性倒錯・同性愛・冷感症・窃視症など)、犯罪学(殺人)、
精神分析学の専門書をかなり耽読していた。
いずれにせよ、精神科医の目から見ると、「金閣寺」は作家の精神の軌跡にとって一つの重要な転回点であったろう。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より

495:無名草子さん
11/02/03 23:32:28 .net
「金閣寺」と「鏡子の家」の創造で、内面の力学に関する仕事の一山を越えた作家は、その後しだいに、
内面から外界へ、精神から身体へ、思索から行動へと、その重心を移して行く。
そして、精神分析学的には「行動化」と呼ばれるその傾向の終点に、あの劇的な割腹自殺が待っていたのである。
何人かの精神科医は、作家の衝撃的な事件に弾かれたように、三島由紀夫の病跡学(パトグラフィ)を書き、
精神分裂病とか、パラノイアとかいう診断を試みた。
しかし、それが的外れの誤診であったことは、今ではほとんど明らかである。
また、「仮面の告白」でデビューした三島の精神診断については、必ずといってよいほど言及される
「同性愛」説にしても限界はある。それは村松剛氏のような、強力な同性愛否定論者がいるからではなく、
平岡公威氏の性嗜好は、両性愛的であったばかりではなく、プラトン的であったからである。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より

496:無名草子さん
11/02/03 23:32:45 .net
精神分析学者エリック・エリクソンは、「天才的リーダーとは、彼が出会った若者に大きな影響を与え、
彼らをして、それ以前の人生行路とは違う人生への道を歩ませ、その時代にはまだ類い稀なアイデンティティを
若者に与える人物のことだ」と定義した。この定義に従えば、「楯の会」を組織して、多くの若者に
「対抗的同一性」(カウンター・アイデンティティ)という新しいアイデンティティを与えた三島もまた、
単なる同性愛者ではなく、天才的リーダーだった。
そして、三島由紀夫が孤独な天才作家から天才的リーダーへの道へと方向転換したのは、実に内的な病の
ポテンシャルを、創造を通じて克服した、あの「金閣寺」創作の時期だった、と見るのが妥当であろう。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より

497:無名草子さん
11/02/08 11:20:38 .net
横尾(忠則)番記者として働きはじめた頃に、三島由紀夫とも親しくなった。
平凡パンチ誌で三島の悪口を書くという企画があり、他の編集者は担当したくない様子だったので、自分が
名乗りでた。すぐ三島に電話をし、「今回は三島さんの悪口を書く企画ですが…」と正直に打ち明けて取材を
申し込んだのが、三島の好感をよんだらしい。
三島は人気実力ともにトップの作家でありながら、ハリウッドスターのようなオーラを発していた。
三島はこれまで見たこともないような光り輝く“創造物”という感じであった。パンダとかマダガスカル島の
横っ飛びのベローシファカのようにいつ会っても新鮮な驚異を与えてくれた。

椎根和「オーラな人々」より

498:無名草子さん
11/02/08 11:22:11 .net
…オーラを発する人々ということでは、やはり六〇年代後半の、三島、横尾、寺山、玉三郎、土方たちは
超弩級であった。彼らのそばにいるだけで、異世界に連れていかれそうな気分になった。そのどこかに連れさられる
という不安感が、悦楽味であった。
モノの時代に入ると、そばにいるだけで、異界へつれていってくれそうなスターはいなくなった。
…ぼくは、三島の最後の三年間を剣道の弟子として稽古をつけてもらい、一緒に学生デモ視察へ行き、ボーリングをし、
白亜の三島邸へ何度も行った。
三島は、文学の方では、大ベストセラーを何作も書き、今なら流行語大賞受賞まちがいなしの国民的喝采をあつめた。
そういう文学的才能以外にも、新しい才能を発見する眼力があった。横尾忠則、坂東玉三郎、美輪明宏、澁澤龍彦らは、
三島の紹介によって市民権を得た、といってよい。

椎根和「オーラな人々」より

499:無名草子さん
11/02/14 10:49:04 .net
「そうそうワタシあの人に一度しかられたことあるんですよ。ワタシ、あの人のことを
『三島サンは首から下は北海の荒海の漁師だけれど、首から上は明治美人だ』
と言いました。そしたらあの人ワタシに言いましたネー。
『それはボクの顔が馬ヅラだと言ってるんでしょう(笑)明治美人というのは面長のことをいうんだから』

ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネー。
お若いといっても三島サンももうおトシです。ボデービルもいいんですけど文学に本腰を入れてほしいですネー。
そして、もっともっとよいホンをいっぱい書いてほしいですネー。あの人の持っている赤ちゃん精神。これが
多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネー。」

淀川長治「『平凡パンチ』インタビュー記事」より

500:無名草子さん
11/02/16 18:42:20 .net
散々ガイシュツだろうけど、皇后さまとお見合いしたって
話を皇室番組で見てびっくらしたw

どういう経緯でそうなったんだろ。
日清製粉がらみ~?か

501:無名草子さん
11/02/16 20:36:14 .net
>>500
お見合い相手を、聖心女子大学から何人か推薦してもらって、その中に美智子さんがいたらしいよ。

502:無名草子さん
11/02/16 22:39:03 .net
>>501
アリガト
あーそういうことか・・・

503:無名草子さん
11/02/16 23:35:47 .net
三島さんが美智子さんと結婚してたらどうなってんだろう

504:無名草子さん
11/02/17 10:15:47 .net
三島さんも自殺しなかったかも・・・だし、
現在の皇統の危機もなかったかも・・・

505:無名草子さん
11/02/17 22:10:47 .net
三島と美智子さんの子供(娘)が皇室に嫁いだかもね。

506:無名草子さん
11/02/18 16:49:56 .net
いまの皇統の危機は美智子さんの私怨だから。

507:無名草子さん
11/02/27 18:21:25.28 .net
ホモなのに、、、何で結婚なんてしたのかな?

508:無名草子さん
11/02/27 19:26:12.10 .net
まったく女を受け付けないほどのホモじゃないからでしょ。

509:無名草子さん
11/03/01 22:39:45.44 .net
道徳を信じない道徳家、愛を拒否する愛の詩人、詠歎的であることを恐怖する、しかもロマンティックな歎美家。
―『沈める滝』の背後にある作者の姿を、一口にいえば、そういうことになるのではないか、とぼくは思っている。
既成のものを信じないという立場に立って、その荒廃の上に、あらためて夢なり美なりを、人工的につくり
出そうとするところに成りたってきたのが、一般に三島由紀夫の文学の世界なのである。(中略)
夢が、告白が、ありきたりの男女の物語が、もし信じられないのだとしたら、その信じられないという地点に立って、
ひとはなお、夢や告白や物語の花々を、咲かせることができないものか。人工の花々を。―三島由紀夫の文学は、
その設問から出発するのであって、例はそのほか、あげてゆけば彼の全作品に及ぶことになるだろう。(中略)
彼はたしかに、古い夢の、神々の、死の自覚の上に立って、つねに仕事をしてきた作家であるといえるだろう。
彼は神々を、錬金術師のように、合成することを夢みる。そこに彼の批評精神があり、光栄があり、そしてまた
苦しみがあるばずだ。

村松剛「『沈める滝』解説文」より

510:無名草子さん
11/03/05 10:20:50.62 .net
三島由紀夫が他界してから、彼の死を中心にして実に多くの本が出版された。この現象は今後も続くと思うのだが、
僕が読んで納得がいく三島由紀夫論、三島由紀夫評は、全部に目を通した訳ではないものの、意外に少ないようだ。
僕は、三島由紀夫が死をもって問いかけたのは、手続き民主主義とも呼ばれる今の体制の中で、本当のナショナリズムを
形にすることは可能なのか、という問題だったのではないかと思う。そのように視点を定めてみると、見えて
くることがいくつかある。僕は、ナショナリズムを国粋主義、排外主義と同一視するのは、伝統尊重を保守反動と
同じと見る考えと共に、いわゆる進歩主義の大きな誤りだと思っている。
(中略)戦後のわが国の議会主義が政策を中心としたものではなく、手続きを中心にした民主主義を本質として
いたことが現れているように僕には思われる。

辻井喬「叙情と闘争」より

511:無名草子さん
11/03/05 10:21:46.37 .net
三島由紀夫が自らの生命を賭けて反対した思想の重要な側面は、この、手続きさえ合っていれば、その政策や
行動の内容は問わないという、敗戦後のわが国の文化風土だったのではないか。彼の目に、それは思想的頽廃としか
映らなかったのである。確かに、このような社会構造の中にあっては芸術は死滅するに違いない。
しかし、多くのメディアや芸術家は、彼の行動の華々しさや烈しさに目を奪われて、それを右翼的な暴発としか
見なかった。もしかすると戦後の社会は、1970年の時点ですでに烈しい行動に対して、ただその烈しさを恐れ、
その奥に思想的な純粋性や生命の燃焼の輝きを見る力を失っていたのかもしれない。

辻井喬「叙情と闘争」より

512:無名草子さん
11/03/10 12:16:37.65 .net
「(三島由紀夫の)絶えず真剣に生きることを望み、『にせものの平和、にせものの安息』(「白蟻の巣」)を
軽視する姿勢は、今となってみれば、だらだらと生きるわれわれへの痛烈な批判となっている。現代の日本人の
ありようを予見していた天才だったと思う。」
なかにし礼


「三島さんのあの『行動』を基準点として、そこからの距離をはかりながら考へるのが習ひ性となつてゐます。」
長谷川三千子


「戦後教育で『人の生き方』だけを教わり、『死に方』を教わらなかった。衝撃でした。
身の処し方、諫死の是非、日本人の責任のとり方、等々あれこれ考えさせられました。今は当時以上に、強く
考えます。」
出久根達郎


「七〇年までは、激しいものこそが美しかった。音楽、絵画、文学、演劇、映画、そして人間の生き方も。
三島由紀夫氏の死は過激が美しかった時代の最後の花だったな、と今になって思います。」
佐佐木幸綱

雑誌「諸君!」三島由紀夫特集アンケートより

513:無名草子さん
11/03/10 15:00:57.48 .net
三島由紀夫のどこがいいの?インテリぶった文学馬鹿が称賛してるだけじゃねえの
スレリンク(news板)l50


514:無名草子さん
11/03/10 17:26:15.97 .net
この機会を逃すと永遠に埋もれてしまうので、三島由紀夫という人間の誠実さについて述べておきたいと思います。
三島さんは、自刃のちょうど一ヶ月前の昭和45年(1970)10月25日に、『東文彦作品集』の序文を
書いています。この東文彦氏は学習院時代に親しくしていた文芸部の先輩で、同人誌『赤絵』はこの東氏の
父君である季彦氏の援助で創刊しています。三島由紀夫は、事件の数ヶ月前に講談社の野間社長に自分が序文を
書くので、東氏の作品集をぜひ出版してくれと頼み、承諾を取ったわけです。このことは、自刃するにあたり、
世話になった方への恩返しをし、後顧の憂いなく事を起こすという事だったのではないかと思われます。
三島由紀夫と東文彦氏は学習院時代手紙を数多くやりとりしていました。お互いに信頼しあった文学上の先輩・
後輩関係だったのですが、東氏は昭和18年に23歳で亡くなり、三島由紀夫は告別式で弔辞を読んだそうです。
そこには堀辰雄も列席していたといわれています。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

515:無名草子さん
11/03/10 17:26:39.68 .net
(中略)
じつは、この東文彦氏の父君の東季彦という方は学長職も歴任していた私の大学時代の恩師なのです。(中略)
その東先生から伺ったことですが、三島さんは息子の命日には今も家にお参りに来てくれると言っていました。
(中略)世界的作家になったあとも、命日にはみえていたということです。凄いのはそれにもましてそのことを
三島はだれにも語っていなかったということです。
これは三島由紀夫の年譜などを見ても、そのことについては書かれていません。あれほど自己顕示欲の強かった
三島由紀夫が、お参りに行ったというのを誰にも語らなかったのですね。普通の人だったら、俺は昔世話に
なった人のことはいつまでも忘れない、だから俺はいまもってお参りに行っているんだとすぐ言いそうなものですが、
それをひと言も言わなかった。(中略)ここに私は三島由紀夫の律義さと誠実さを見るのです。この律義さと
誠実さが結局はあの事件の要因の一つになったのかとも考えてしまいます。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

516:殺人鬼川上弘美婆「しるし」またパクり!反論できないストーカー
11/03/14 01:47:15.49 .net
三島程度のインテリもでないから川上モコ弘美が俺から盗作してるんだろうが、
ペドの猿が。
「形式主義」って言葉しってますかぁ?
しらんですねえ。モコ川上弘美は2ちゃん社員
無関係写真を送り投稿禁止にする人殺しのストーカーブス
ミズモリ関係者

517:殺人鬼川上弘美婆「しるし」またパクり!反論できないストーカー
11/03/14 01:51:19.74 .net
三島がいいとか悪いとか批評する程度の学力が日本の作家にはないわけ
盗作七夜ものがたりの程度の低さ
「考えなし」「ひとすじなわでいかないタイプの人」「バラバラ」
「形式主義」 「みどりのボタン 大きくなる」
(緑のボタンで大きくすると言いたいらしい。
大きくするには 緑のボタン)

盗作5000か所
死ねよストーカー朝鮮中国ジャップ警察殺したからさTSUNAMIで

518:殺人鬼川上弘美婆「しるし」またパクり!反論できないストーカー
11/03/14 02:00:37.37 .net
川上弘美婆=2ちゃん社員荒らし要員モコ(マグナ)なんか
小説書いても猿のようにメシウマを模倣し
猿のように雪をふらしているだけ
「母音」からパクって「黒白赤緑、青紫、アルファオメガ」
とハクチのような猿真似をくりかえし、
ハーフの娘になりたがる猿であるだけで、
ただ一か所も単語や言い回しなどの
言葉の定義が正しかった場所が(七夜に)無い
とりあえず
太宰オタクの三島は愛憎する程度の知能はあった
ストーカーの嫌われ者の荒らし川上が
俺をどうこう盗作するあつかましい精神薄弱である
ああいう「モコ川上」レヴェルとは違う

そもそもアジア人は全員精神薄弱の
ペドでミズモリ常連と同じストーカーの
シェイプシフターで見てみふふりしかできない猿


519:無名草子さん
11/03/23 14:09:31.90 .net
(中略)
日本の安全保障について、疑問点を二つほど提起しておきたいと思います。第一の疑問点は、安保条約第五条の
共同防衛条項です。(中略)第五条に共同防衛として日本国の施政下にある領域において、いずれか一方に対する
武力攻撃があった場合に、共通の危険に対処することが明記されています。が、問題なのは、その中に「自国の
憲法の規定及び手続に従って行動する」と謳われているところです。それは、福田先生がフジテレビの番組
「世相を斬る」海外版で、エドワード・ケネディ上院議員と対談した際に台湾を守る米華条約は「台湾に危機が
迫つたとき、アメリカはそれを助けるかどうか、議会で審議する義務があるといふ程度のものだ」とケネディ議員が
明言していたからです。米華相互防衛条約(1979年失効)を調べてみると安保条約のこの条文とほとんど同じ文言に
なっています。ということは日本も台湾と同様の扱いを受けることになるのは間違いないでしょう。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

520:無名草子さん
11/03/23 14:09:52.78 .net
(中略)台湾は「タダ乗り」の日本と違って、アメリカの要求に対してお釣りが来るほど防衛努力を行っていた
国ですが、その台湾に対して、ケネディ上院議員のこの発言です。(中略)このケネディ発言を通してアメリカの
相互防衛条約に対する本音が垣間見えてくるようです。
二つ目の疑問点は、アメリカの「核の傘」の信憑性です。このことについては、キッシンジャーの『核兵器と
外交政策』(1957)を取り上げ考えていくべきかと思います。(中略)キッシンジャーはその中で注目すぺきことを
述べています。(中略)そのキッシンジャーが全面戦争に際し、西ヨーロッパを守るにあたって、合衆国の
大都市を犠牲にすることを躊躇しており、西半球以外のあらゆる地域、当然日本もそれに含まれていますが、
それに対しては、守る価値がないように見えるであろう、と書いているのです。この発言は「核の傘」を考えるに
あたって、見逃すことのできない重要な意味を含んでいると思われます。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

521:無名草子さん
11/03/23 14:10:14.25 .net
要するにアメリカは、ロシアや中国を相手に最終的にはアメリカ本土を犠牲にしてまで、同盟国を守れないと
いう事であり、このことは、茶化すようですが、「己のごとく汝の隣人を愛せ」というクリスト教の愛の思想は
イエスとその弟子たちのみが実践できたに過ぎないので、格別驚くことではないのかもしれません。が、保守派の
知識人で安全保障問題に口出しする人達は、これらの問題について、きちんと論じるべきだと思います。また、
ここ三十年位完全に精彩を欠いている左翼知識人ももう一度勉強し直して、我々国民の「知る権利」に是非応じて
もらいたいものです。要はアメリカが助けに来てくれる保証などどこにもないということを肝に銘じ、同盟を
結びつつも対米依存から抜け出し、自国の防衛はできるだけ自国で当たるという「人類普遍の原理」に一日も早く
立ち還るべきものと思います。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

522:無名草子さん
11/03/23 14:10:35.50 .net
それから、小泉、安倍政権下の改憲論では、憲法第二十条の信教の自由について、全く触れられていません。しかし、
三島由紀夫も晩年主張していたように、占領軍は、自分達が唯一神のクリスト教徒ですから、宗教というのは
排他的な非寛容的なものだという先入観で被占領国の習俗的なものまで宗教として裁いて、神社はだめだとやった
訳です。ですから改憲する場合には必ず第九条だけでなく、天皇条項、第二十条の信教の自由も全部セットで、
行うべきで、一部分だけの改正というのは、本質が解っていないという事と、なにかアメリカとの関係からとしか
思えない。戦後レジームからの脱却だとか言っていたけれども、結局はアメリカからの要請による憲法改正なの
でしょう。だからけっこう罪は重い。一見、戦後体制を脱却するような標語を掲げながら、実際にはアメリカに
一方的にますます組み込まれていくような内容での改正でしかないのですから。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より

523:無名草子さん
11/03/23 14:10:58.30 .net
(中略)
もし三島由紀夫がいま生きているとしたら核武装についてどう考えるかというと、これは条件次第だと私は思います。
先ほどの憲法問題ともリンクすることですが、憲法の改正あるいは憲法を廃止するにしても、いまの憲法に対する
明確な基準ができること。これが一つ。もう一つは日米安保条約に対する明確な双務性を盛り込むこと。この二つの
条件がクリアできれば、核武装については少なくともいつでも核を持ちうるように技術開発は進めるべきである、
おそらくそう考えるだろうと思いますね。
いまの北朝鮮の問題を見てもわかる通り、あんな小さな国がアメリカあるいは五ヶ国を相手に五分の外交的
駆け引きをしているのですから、やはり核は外交上のそれなりの力になっていると思います。ですから三島先生が
いま生きていれば、おそらく核武装に対するアプローチをかなり積極的にしていただろう。ただし、そのためには
憲法と安保条約に対する条件を検討した上でのことですけれどもね。
持丸博

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より


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