【割腹自殺】●●三島由紀夫3●●【肉体改造】at BOOKS
【割腹自殺】●●三島由紀夫3●●【肉体改造】 - 暇つぶし2ch300:無名草子さん
10/11/12 12:18:41 .net
「対話・思想の発生―ヒューマニズムを超えて」(昭42・11番町書房)の中で、三島はぼくに対して、
〈…自分の信じていないもののために死ぬというアイロニーは、とっても魅惑的なアイロニーなんだよ。
…そして、自分が天皇陛下万歳と言って死ねば、そのアイロニーは完結するんだよ。…〉…と語っている。たんなるイリュージョンのために人間は死ねるものではない。
三島は「人がそのために死ぬことができるような絶対者」つまり、「生命以上の価値」がこの世に存在しなければ
ならないというゾルレン(当為)の論理に忠実であった。
…〈人がそのために死ねるもの、ある絶対的価値の存在を証明するためには、そのために
死んでみせる以外に道はない〉
このような不可解な死の哲学が三島由紀夫にとりつき、彼を自決へと直行させたのである。

伊藤勝彦「三島由紀夫の死の哲学」より

301:無名草子さん
10/11/12 12:21:51 .net
(2001年11月25日に)リンカーンセンターでアメリカペングラフ主催の「二十世紀の偉大な作家・
三島由紀夫を顕彰する夕べ」が開かれた。(中略)
私は「薔薇刑」の基本的テーマは「生と死」「エロスとタナトス」であり、それは三島由紀夫を被写体とする
ところの私の主観的ドキュメンタリー作品であることを語り、そこで理解してもらいことは、三島氏は自分を
「被写体」と呼び、最初から最後まで完全に「被写体」に徹してくれたこと、そのことを氏は『薔薇刑』の
序文「細江英公序説」の中ではっきり書いている。(略)だからハリウッドの映画監督がつくった映画
「MISHIMA」の中で私らしい写真家が登場するが、そこで画面上のMISHIMAがカメラをかまえる
写真家に向かってカメラの位置を変えるように手で指示するシーンがでてくるが、あんなことは絶対になかったし、
ありえないことだ。その映画のポール・シュレイダー監督が前もって私にアドバイスを求めてきたら教えて
あげたのに残念だ、と語り、前記の三島さんの序文の一節を読み上げた。

細江英公「誠実なる警告」より

302:無名草子さん
10/11/12 12:23:06 .net
(中略)三島さんは文字通り「誠実の人」であった。その点だけは、身近に彼を知り、そして生き残った自分の
責任として、きちんと後世に伝えておかなければならないことを信ずる。
その三島さんが、あえて選んだ死に様であるのなら、それは真摯に考え抜いた結果であったはずであり、
そこには止むに止まれぬ理由が存在したに違いないのである。であるから、私がまず強調しておきたいのは、
事件直後から多くのメディアによって宣伝されてきたような「スキャンダル」として三島さんの死を扱うような
ことは、実にもって愚劣なことであるということである。
もちろん、一人の人間、ましてあれだけの人物が自ら死を選んだ真の理由を、簡単に特定できるはずもない。
が、あえていうならば、三島さんが言っていた「文武両道」の「武」とは「文」を守るためのものと位置付けて
いたと考えたい。守るべき「文」とは、自身の「文学」だけに止まるものではないだろう。もっと広く、そして
深く「日本の文化」そのものとでも呼ぶべきものであったはずである。

細江英公「誠実なる警告」より

303:無名草子さん
10/11/12 12:24:18 .net
思い起こせば、高度経済成長を達成したあの頃には、我々日本人は、豊かさと引き換えに自分たちの文化を
ないがしろにするということを、なんら恐れなくなっていた。今の日本が抱える混迷も、根本的にはそこに問題が
あったのだということを、私も含め日本人の多くが気づき始めているのではないだろうか。三島さんには、今の
日本の姿が見えていた。だからこそ、政治的な速攻性のないことがわかりきっている、あのような行動をあえて
とることによって、我々に命懸けの「警告」を遺したのではなかったか。そして恐らく三島さんが意図した通り、
彼の行動は長く記憶され続け、その警告の意味は、時間がたつにつれてその重みを増してきているように思えて
ならない。私は、既存の政治勢力が自らの主張のために三島さんの警告を都合よく利用するようなことがあっては
ならないと考える。一方、彼の死後、文壇においては「あれは文学的な死であった」として、その多くが
三島さんの個人的な理由によるものであるとする見方が支配的だったように思われるが、それにも違和感を
感じてきた。なぜなら、三島さんが憂いていたのは、もっと根源的な、日本人の精神的な危機そのものだった
はずなのだから。

細江英公「誠実なる警告」より

304:無名草子さん
10/11/13 12:50:38 .net
事件の翌日から、あらゆるメディアはあなたの行動を醜聞として描くことに情熱を傾けることになりました。
…TVでは「右翼評論家」なる人物が高説を垂れ、政治家たちは狂気の沙汰だとあなたを批判していました。
日本共産党はファシズムに対する警戒を説き、新左翼の学生たちは唖然として言葉を喪失していたように思えます。
わたしにはそうした政治的発言のいっさいが愚劣に思えていました。わたしは書店に行って、そのとき第三巻まで
刊行されていた『豊饒の海』の連作を買い求め、十日間ほどで一気に読み終わりました。しばらくして最終巻の
『天人五衰』が刊行されると、これも勢いに任せて読破しました。(中略)
わたしはここに仕掛けられた巨大なアイロニーに眼が眩む気持ちを抱きました。と同時に、自分の死後に遺された
者たちはすべからくこのアイロニーを生きるべしという、あなたの呪いめいた遺言に、さて、その呪いを
どのように受け取り、自分の文脈のなかで理解してゆくことにしようかと、呆然たる気持ちを抱いていました。

四方田犬彦「時間に楔を打ち込んだ男」より

305:無名草子さん
10/11/13 12:52:27 .net
今から考えてみると、「豊饒の海」が最後に突入していったのは、物事のすべてが「存在の耐えられない軽さ」を生き、
ノスタルジア(懐旧)とパスティッシュ(模倣)の原理のもとに操作されてゆく、ポストモダンの薄明のこと
だったような気がしています。わたしが大学生活を送った一九七〇年代は、十年間を通して、あなたの名前が
忌避され、排除されてきた時代でした。大学院の研究室でも、同級生どうしの会合でも、あなたの死のみならず、
その作品について言及することは場違いであり、できればあなたのような文学者が戦後日本に存在して
いなかったかのように振舞うのが、暗黙の了解であるような日々が続いていました。日本のポストモダン社会は、
三島由紀夫の不在によって、安心して自己実現を達成したのです。七〇年代と八〇年代を代表するイデオローグであった
山口昌男と蓮見重彦を考えてみたとき、それは明らかとなるでしょう。

四方田犬彦「時間に楔を打ち込んだ男」より

306:無名草子さん
10/11/13 12:53:40 .net
山口はあなたが悲劇的なもの、崇高なものに魅惑されていたのとは対照的に、それらから意図的に距離を置き、
喜劇的なもの、道化的なものに焦点を当てました。そしてすべての知識が位階制度を超えて並置される地平を、
ユートピア的に実現しようと企てました。
一方の蓮見は、あなたと同じ学習院に学び、皇族と人脈的な関係をもつことにきわめて野心的な人物でしたが、
一貫してあなたを嫌っていることを公言していました。もっとも事物の表層を好むというニーチェ伝来の哲学を
喧伝するという点で、彼はあなたの屈折した後継者であったといえなくもありません。
あなたの全集が再び編集され、刊行されていなかった日記や書簡が公にされたり、…あなたの行動の全体が
次の世代によって再検討の対象となるようになったのは、二〇〇〇年代に入り、先の二人の知的扇動家の影響が
消え去ったことと、軌を一にしているのは、けっして偶然ではありません。

四方田犬彦「時間に楔を打ち込んだ男」より

307:無名草子さん
10/11/13 12:55:30 .net
(中略)三島さん、裕仁はあなたよりも十八年と二ヶ月ほど生き延びて、一九八九年に身罷りました。彼が
支配していた昭和という時代は、六十四年をもって終了しました。けれどもすでにそれ以前から、誰もがもはや
(公文書ででもないかぎり)昭和という年号などもはや存在していなくなったかのように振る舞っていました。
なるほど昭和も三十年代、四十年代までは、それなりに口にされると実感めいたものが浮かび上がってきました。
けれども昭和五十年代というのは、たとえその表現に過ちがないとしても、もはやいかなるイメージをも人々に
喚起しなくなっていました。ましてや短かった昭和六十年代など、そう書き記してみたところで、どのような
イメージも浮きあがってくるわけではありません。それは一九七〇年代、一九八〇年代という表現がいかにも
人口に膾炙しているのと、好対照です。わたしは、こうした年号の喚起力の衰退の原因のひとつは、三島さん、
あなたの割腹自殺にあったのではないかと睨んでいます。あなたは生命を賭けることで、裕仁の時間支配に
修復しようのない楔を打ち込もうとしたのではないでしょうか。

四方田犬彦「時間に楔を打ち込んだ男」より

308:無名草子さん
10/11/13 12:56:49 .net
わたしには、一九七〇年十一月二十五日にあなたが日本人の一人ひとりに死を送り届けることで、これまで
暗黙のうちに日本を支配していた時間の神学的秩序に、凶悪にして不吉な楔を打ち込んだような気がしてなりません。
思い出してみれば、わたしの世代は機会あるたびに、あなたが割腹をしてもう何年が経過したとか、何十年が
経過したと口にしながら、時間をやり過ごしてきたのです。死の御降臨。死の分節。
あなたによって考案された禍々しい暦が、日本の時間秩序を攪乱し、神聖なる時間の起源を禍々しい紛い物へと
摩り替えてしまうことを可能にしたのだと、わたしは考えています。
(中略)親愛なる三島さん、わたしたちはいまだにあなたの影のもとに生きています。もしあなたが今生きて
いらしたとしたら、このような年少者たちを前に、また高笑いをされるかもしれません。その姿が目に浮かびます。

四方田犬彦「時間に楔を打ち込んだ男」より

309:無名草子さん
10/11/13 12:59:13 .net
岡潔:三島由紀夫は偉い人だと思います。日本の現状が非常に心配だとみたのも当たっているし、天皇制が
大事だと思ったのも正しいし、それに割腹自殺ということは勇気がなければ出来ないことだし、それをやって
みせているし、本当に偉い人だと思います。

Q(編集部):百年逆戻りした思想だと言う人もありますが、それは全然当たっていないと言われるのですか?

岡潔:間違ってるんですね。西洋かぶれして。戦後、とくに間違っている。個人主義、民主主義、それも
間違った個人主義、民主主義なんかを、不滅の真理かのように思いこんでしまっている。
ジャーナリストなんかにそんな人が多いですね。若い人には、割合、感銘を与えているようです。
かなり影響はあったと思います

岡潔「蘆牙」より

310:無名草子さん
10/11/14 10:54:33 .net
作者は作品世界の終わりを自死の日付よりも五年後に延長することで一つの賭けを行っている。(中略)
作者と作品は無限にズレ続ける。喩えていうなら、『天人五衰』は三島由紀夫という物語作者の死のあとに
書かれた“小説”である。そのテクストの中にはすでに三島由紀夫は不在なのだ。
透も本多も、「昭和四十五年十一月二十五日」という作品末尾に書かれた日付すなわち作者の死から、さらに
五年も生き長らえねばならない。これは何を意味するのか。
…透は、見る者として本多と類を同じくするが、しかも「精巧な贋物」であり、「純粋な悪」であり、「能ふ
かぎり本多に似てゐ」るのだ。本多はそれらを養子にする前から知っている。見られる者たる清顕や勲や月光姫と
明らかに類を異にする透を養子にすることは、作者の死後も作品を生き長らえさせるための聖化された儀式である。
作品は異物によって生き長らえるのだ。というより、それまで「物語」を見る認識者にすぎず、見る―見られる
という関係に安住していた本多が、この最後巻においてはじめて、自己にとっての“他者”(であると同時に
贋物の同類)に出会ったのだ、と言えばよいのか。

青海健「三島由紀夫の帰還」より

311:無名草子さん
10/11/14 10:55:47 .net
本多の悪しき模造であり不幸な認識者である透は、「自分がまるごとこの世には属してゐないことを確信してゐ」る。
「日もすがら夜もすがら、海と船と港とに縛しめられ、ただ見ることが、凝視することが、この部屋の純粋な
狂気にまでなつてゐた」という透はほとんど「狂気」の世界を垣間見ることによってしか、この世と繋がっては
いない。透の故郷は、水平線の彼方にある到達不能のものとしての「狂気」である。透は故郷喪失者なのだ。
だからこそ透には醜女の狂女絹江が必要となる。
…「過度の明晰」、つまり理性から超え出てしまうものとしての「狂気」。本多の養子となった透は、その
到達不能の「狂気」に向けて、養父との闘争を開始する。
しかし、転生の秘密を知らない透は認識者としての闘争には敗れるが、逆にその敗北が透を狂気へと近づける。

青海健「三島由紀夫の帰還」より

312:無名草子さん
10/11/14 10:56:41 .net
清顕の夢日記(夢こそ狂気の原郷である)を読んで服毒自殺をはかり失明した透は、醜女の絹江と結婚したいと
望み、妊娠させ、絹江と同じ世界の住人となる。本多にとって透はすでに他者である。
「黒眼鏡」をかけ、絹江以外には「一語も発しない」透は、認識者本多の眼からのがれ出た「狂気」そのものなのだ。
認識の敗北者透は「狂気」の世界への参入を許されることで、アイロニカルにも、本多に勝ったのである。
本多が贋物であるなら、透は“真の”贋物である。
かくて本多は月修寺へとおもむき、自らの存在の消滅を“知る”のである。
近未来小説『天人五衰』は、作者の死のあとの、透という他者についての物語である。いや、むしろ「物語」という
ワクを解体し崩壊させてしまう小説である。透という異物=狂気がそれを崩壊させるのだ。本多が癌で死んでも、
その悪しきドッペルゲンガーたる透はあらゆる場所に出現するだろう。
『天人五衰』の世界はけっして閉じられることなく、三島由紀夫の亡霊はいたるところに現れるにちがいない。
青海健「三島由紀夫の帰還」より

313:無名草子さん
10/11/14 10:59:06 .net
ところで、三島由紀夫の自死を評して、「気が狂ったとしか思えない」と言った某政治家がいたのを想起しよう。
この“良識者”の言説は限りなく陳腐であると同時に、限りなく正しい。
認識者本多繁邦から逃げ出すには理性の網目から逃れ出る狂気の力が必要であり、人間はその狂気と相対する
ことでのみ、自らの存在の限界を踏み超えるのだ。「正しい狂気、といふものがあるのだ」とは『葉隠入門』の
言葉だが、狂気の領域への参入は、「人間」(という概念)を超え出ることである。
フーコーの言葉で言うなら、「人間から真の人間への道程は、狂気の人間を媒介とするのである」(『狂気の歴史』)。
『天人五衰』のエクリチュールは、理性と非理性とのせめぎあいの中で狂気という故郷へ回帰しようともがいている。
そして三島は狂気そのものと化する地点で消滅したのだ。

青海健「三島由紀夫の帰還」より

314:無名草子さん
10/11/14 11:01:23 .net
(中略)
三島由紀夫の「言葉」がフーコーのいう「弓」であるとするなら、その弓から発射された弾丸としての行為=
自死の儀式は、逆にその「発射する反動で」言語表現(デイスクール)という装置を「後退」させ作者の生の
外部へと押し出してしまう。そうして、それの描く軌跡をこそ、私は「狂気」と呼ぼう。
作者の生からはみ出した近未来小説『天人五衰』、三島はここで、非理性によって夢見られる狂気(それはすでに
病理学の対象とはなり得ない)(フーコー『狂気の歴史』)のだとすれば、三島の自裁は、到達不能の狂気への
到達への試みである。(中略)
三島の“最後の小説”は、大江健三郎の言に反して、むしろ「発展させられる」べき多様な問題を孕んでいる。
…三島は、その最後の小説を、パラドクシカルに開かれた作品として遺したのだ。
その多様な問題こそ、今日の問題である。

青海健「三島由紀夫の帰還」より

315:無名草子さん
10/11/15 10:17:30 .net
私達のなかで一番若く、しかも、かなり年齢がはなれている三島由紀夫にとって、私達のなかで、君、僕で
話しあうのが何んとなくぎこちなさそうに見えた。戦後は、すべてのひとびとが対等につきあうのを建前にして
いたので、すべて、君、僕で通用させる風潮は一般化していたのであったが、まだ二十三の最年少であった
三島由紀夫にしてみれば、すべてが年長者である仲間達に、君、僕で呼びあうのは、自身に元気をつけてそれを
敢えてするといった一種の踏み切りの感じが自分自身の内部にあったのだろう。頭の廻転の早い彼とスローテンポの
野間宏の会話はその頃から際だって興味深いものがあったが、三島由紀夫が「野間君」という調子には、
思いきって決然といっているといった趣きがあった。(中略)
そして、酒がまわってきたとき、三島由紀夫は、その後ほかの席でもよくやったらしいが、
「知らざあ言ってきかせやしょう」と辨天小僧のよく知られた口跡を一くさり、ちゃんと見えをきって、
せりふ廻しを見事にやってのけたのである。

埴谷雄高「『序曲』の頃―三島由紀夫の追想」より

316:無名草子さん
10/11/15 10:20:29 .net
(中略)
私達の殆んど全部が酒をのむだけの芸なしであったので、そのときの三島由紀夫の辨天小僧は並はずれた
遊び人であった河出孝雄をひどく喜ばせたのであった。(中略)
(「序曲」創刊号の)座談会で特筆すべきことは、いわゆる「戦後」の気分がそこに活気に充ちて横溢している
ことと、そして現在は温厚篤実な学者文学者になった寺田透が当時は荒れていて、忽ち酔っぱらってくると、
卓上の酒杯を次々とうちおとしたり、自分もその場に勢いよくぶっ倒れたりしたことの二つをあげねばならない。
そのときの寺田透がひとつの鬱屈した大きな暗黒物体だとすると、三島由紀夫は一種不逞な活気に充ちみちた
明るい精神なのであった。(中略)
座談会が終ってから私達は神保町の「ランボオ」へ赴いたが、そこで寺田透は、仕方なく笑顔を浮べている白髪の
森谷均の前で、入口の大きな硝子をはでに割ったのである。
この創刊号には、(中略)三島由紀夫はメディアを換骨した「獅子」をのせている。

埴谷雄高「『序曲』の頃―三島由紀夫の追想」より

317:無名草子さん
10/11/16 11:33:40 .net
三島さんは、少年の様に一途に週二回の自宅でのトレーニングにひたむきな努力を傾け、遅れてきた青春とでも
云うのでしょうか、日一日と発達してゆく自分の肉体の充実感を素直に喜び、嬉々としていました。
ある時、古代ギリシャの神殿や彫刻の写真を私に見せながら「この端正で均整のとれた建築や芸術、彼等はまず
眼に見える形を信じたんだ。しかし形に留まらないで、そこから雄々しく羽ばたいて現代文明の源である
古代ギリシャ世界を創造したのだ」と熱っぽく語られましたが、この時の三島さんの言葉は、私の胸底に深く
蔵されております。

玉利齋「三島由紀夫さんの想い出」より

318:無名草子さん
10/11/16 11:34:51 .net
人間が、現世に生きるのには肉体が不可欠です。しかし、その肉体は有限で衰えやすく不安定な存在です。
であるから一度だけの人生を創造的に生きる為には肉体は健康で活力に満ちている方がよいのは自明の理です。
三島さんは精神的には類い稀な芸術家の感性を天分として有していたと思いますが、如何せん天二物を与えず、
肉体的には頭痛や胃弱や不眠に三十歳近くまで苛まれていたことはまぎれもない事実です。
三島さんのボディビル実践の動機は何と云っても第一に病弱の克服にあります。
肉体と精神は相互に影響し合いながら人格を形成してゆくものですが、三島さんは肉体を確固たるものに
することによって、より自由に精神を飛翔させたかったのではないかと思います。

玉利齋「三島由紀夫さんの想い出」より

319:無名草子さん
10/11/16 11:36:20 .net
三島氏が「奔馬」の取材に熊本にやつてきたのは昭和四十一年八月で、その時の話相手になつたのが私である。
三島氏は数日間、熊本に滞在したが、その間に三島氏の心にふれて、私は少なからず感動した。
それは三島氏が、神風連の調査に熊本にくるにあたつて、すでに神風連関係の著書を東京でほとんど目を通してきた、
といふ熱心と謙虚さを知つたことばかりではない。
神風連について学ぶためには、古神道を知らねばならぬといつて、わざわざ古神道をつたへる大和の大三輪神社に行き、
数日間滝にうたれたり、そこの宮司から古神道の話をきいてゐた、といふやうな真剣さを知つたからである。
さらに私の心をうつたのは、熊本にきて私と対話中、神風連にとつてもつとも重要な遺跡であり、その思想信条の
発源体であつた新開皇大神宮に行くのに、私の案内を辞退して、道順だけをきいてそこまで十キロの径を
一人出かけて行つたといふ態度であつた。

荒木精之「初霜の記・三島由紀夫と神風連」より

320:無名草子さん
10/11/17 00:04:21 .net
三島由紀夫さんの《詩の朗読レコード》「天と海」が発売されたことについて、今では知っている方も少ない。
(中略)このレコードの制作当時、私は大手のPR会社に勤務しており、このレコードに関する企画、制作、
PRなどに深く関与していた。(中略)
三島さんは「キミが勤めている会社のためだったら断るが、キミの個人的な頼みでやるのなら引き受けてもいいよ」と
快く返事をしてくれた。
私が三島さんに知己を得たのは、学生時代にさかのぼる。
当時流行していたボディビルジムでの出会いが契機となり、氏との数奇な縁が始まった。
(中略)詩は朗読する本人にお任せすることになり、三島さんは浅野晃氏の「天と海」という長編を選んだ。
この詩の内容は、詩人で大学教授でもあった浅野氏が、学徒動員で出征し、南方の地に散っていった教え子たちの
英霊に捧げる鎮魂歌であった。

川瀬賢三「『天と海』レコード化のころ」より

321:無名草子さん
10/11/17 00:05:24 .net
この仕事を始めるに当たって三島さんは、
「今回の制作は、私は単なる朗読の演技者であるから、全てキミの指示に従うので注文があれば遠慮なく
言って欲しい」と念を押された。
(中略)このLP盤の制作には半年ほどを要し、サラリーマン時代の私には苛酷な毎日だった。(中略)
深夜のスタジオで、山本(直純)氏が作曲した音楽テープをバックに、独りアナブースの中で、緊張の面持ちで
マイクに向かう三島さんは、まるで尊い命を南方に散らしていった若き英霊の魂が乗り移ったかの如く、
鬼気迫る迫真の演技であった。
三島さんが、精魂込めて朗読したこのレコードは、現在では“幻の名盤”となり、再発売されていない。誠に
残念としか言い様がない。
今は三島さんの全ての好意に感謝し、ひたすらご冥福を祈るのみである。

川瀬賢三「『天と海』レコード化のころ」より

322:無名草子さん
10/11/17 00:12:59 .net
私は一度だけ三島由紀夫さんから葉書を頂戴したことがある。
葉書に十行足らずの簡潔な内容の便りで、私の住所がわからないため、私の著書の出版社経由で届いたのだった。
…葉書の消印は昭和三十六年五月一日。
「抒情の批判―日本的美意識の構造試論」は、当時新たに生まれたばかりだった出版社晶文社から刊行された、
私のごく早い時期の著書で、奥付によると、刊行は昭和三十六年四月二十日となっている。
つまり、三島さんはこの本が書店に並んだのとほとんど同時に、これを購入してくれていたのだった。
のみならず、三島さんは彼が発行同人(?)の一人でもあったらしい雑誌『風景』、さらに『東京新聞』書評欄でも
「抒情の批判」を激賞してくれた。それは何千部かの本がどんどん売れていくという、喜ばしい椿事を生んだ。

大岡信「一度だけの便り」より

323:無名草子さん
10/11/17 00:13:57 .net
『風景』所収のものは三島さんの「日記」中、四月二十七日(木)付の一文である。(中略)
もしこれらを読んだ時私が三島さんにそれに見合うだけの熱烈な礼状を書いていたとしたら、私のその後の人生は
多少とも変った流れになっていたかもしれない。
第一、本が書店に出まわるのとほぼ同時に銀座の本屋さんでこれを買い、〈匆々に帰宅してこれを読んだ〉と
三島さんは書く。そして〈本の副題の「日本的美意識の構造試論」の展開である「保田與重郎ノート」といふ
長文の評論を、身も心も惹き込まれて読み、まだ会ったこともない大岡氏に、オマージュの葉書を書いた〉と
三島さんはいう。
現在このような形で、自分より若い物書き、それも現代詩などというものを作っている人間に対して、
熱烈というしかない〈オマージュ〉を捧げてくれる文筆家などいるだろうか。

大岡信「一度だけの便り」より

324:無名草子さん
10/11/17 00:14:57 .net
三島さんは十代のころから保田与重郎を読み、その〈謎語的文体〉に〈いつも拒絶されるやうな不快と同時に
快感を味はつた〉と書く。それは数歳年少だった私自身が感じていたものと、かなり近かった。
…三島さんが私に示された非常な好意も、戦後社会に対してどうしてもしっくりしないものを感じ続けていた精神が、
〈生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつた〉(「日記」)と、いわば晴れて堂々と
言い切る機会を得た満足感が、伴っていたのかもしれない。
残念だったことは、三島さんに直接お会いして、この時の礼を申しあげ、三島さんの戯曲についての賞賛的感想を
のべる機会を、永久に失ってしまったことである。

大岡信「一度だけの便り」より

325:無名草子さん
10/11/17 09:09:55 .net
何このコピペスレ

お手軽な写経みたいなもんか?

326:無名草子さん
10/11/17 10:28:40 .net
彼は、初代樺太庁長官を祖父として、農林水産局長を父に、開成中学の名校長橋家の令嬢を母に、いわゆる
折紙つきの固い家系の中で生をうけ、おまけに父方の祖母育ちで、小さい時から母のひざの暖かさの充分に
得られぬ淋しさの暮しで、とても我慢強かった。
母は、その時代には当然のことながら、父梓氏につかえきりの忍従の生活で、彼は体力的にも頑健ではなく、
学習院時代、稚児さんと呼ばれたことをとても残念がっていた。
彼の心は傷つきやすく、その傷の痛みを知っているがゆえに、祖母、母、父という大人たちの中でじっと静かに
考える青年に育っていった。大きくなっても、言葉の上でのちょっとした意地悪でも、深く傷つき、悲しんだ。
そんな彼が、昭和二年生まれの妹、美津ちゃんを、とても可愛がっていた。自分と違い、思ったことをハキハキいえ、
きかん坊でイタズラっ子で、平岡家の太陽だった。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

327:無名草子さん
10/11/17 10:29:48 .net
私には下級生に当り、私の妹と同級で仲もよく、あだ名の「ヒラメ」のように、軽やかに海中を泳ぐがごとく、
学校中に明るさをまきちらしながら、楽しげによく遊び、よく学んでいた。頭脳明晰は、まさに平岡家のもので
素晴らしかった。
そんな美津ちゃんが、勤労動員中に飲んだなま水に、多分体調をくずしていたのであろう一人だけ腸チフスになり、
三、四日で呆気なく、しかし意識だけは最後まではっきりしていて、オロオロつきそう三島由紀夫に、はっきりと、
力をこめて、「お兄ちゃま!有難う」と別れを告げて、十七歳ちょっとで避病院で息をひきとった。
三島由紀夫は、生まれて初めて号泣した。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

328:無名草子さん
10/11/17 10:30:56 .net
父梓も、ただ一人の女の子として、溺愛していたため、最期を看取ることさえ出来ぬほどのショックだったそうだ。
この美津ちゃんの最期を語る彼を、私は何度となく見たが、その度に、今の目の前の現実のように、三島由紀夫の
目からは涙がハラハラとこぼれ落ちた。
母倭文重も彼と同じように何十年たっても、語る前、名前を口にしただけで、涙声にかわったのを見て、私は、
美津ちゃんがこの平岡家で、とかく気持がバラつく一族をうまくかしこく結ぶ貴い糸の存在だったのが分かった。
そして、三島由紀夫は、妹を女(異性)として第一番に感じ、それは肉親愛ともちょっと違う初めての
「愛」だったのだと思える。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

329:無名草子さん
10/11/17 10:31:58 .net
これから書く彼の女性との愛は、すべて結婚一年前までのものである。(中略)
本人が並はずれて女性に無免疫だったので、余り上手くない字を、ペン習字で猛練習し、すぐに臣三島由紀夫拝、
などと書いたラブレターを、自分の目にとまり、また、人の目にとめられると、相手かまわずせっせと書き
つづけていた。
私は、げっそりして、「又、臣か」というと、彼は、「うるせえ」
横目でチラチラすると、彼は滅法だらしない、たのしそうな顔をし真赤に上気していた。
この手のラブレターを、大手建設会社の令嬢、ミスM・K、そして代議士令嬢で、母がドイツ人のハーフ、
ミスH・K(在アメリカ)に送り、さらに後には紀平悌子女史にまで名乗りをあげられ、(略)…あの彼の
筆まめさから考えあわせれば、嘘とは思えない。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

330:無名草子さん
10/11/17 10:33:24 .net
(中略)文士として大成して来た三島由紀夫に私はミスM・Kへのあこがれに似た子供っぽい愛も、ミスH・Kの
とてもハーフというだけで失格とする固い平岡家の家風のためにも、彼に自覚をうながし、「美徳のよろめき」の
モデルの夫人との火遊びにもケチをつけたりして、何となく彼の身辺を整理した。彼には内緒だったが彼の父母に
たのまれてやったことである。(中略)
彼が真剣に愛した女性は、M・KでもH・Kでもない華やいだ絹張りの令嬢だった。
彼女が十九歳から二十歳代始めの年頃の付き合いだったので、三島由紀夫の才には充分の尊敬と愛をもちながら、
ストイシズムの彼についてゆくには、何としても幼く、いくら背のびをして勉強しても、相手をするだけで
すっかりくたびれはててしまった。
彼が幼い彼女に求めていたものの実体はそんなものではなく、彼が、心地よく、何の抵抗もうけず、暖かく
見守ってくれるその雰囲気が、彼の創作意欲につながり、名作が出来上がってゆくことだったのだ。その温床を
彼女とともにいるだけで、彼は充分得られていたのだ。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』より

331:無名草子さん
10/11/17 10:35:41 .net
だが考えれば随分と三島由紀夫も作家としては自分勝手だったことはいなめない。
しかし離れてゆく彼女の心に逆行して彼は結婚を真剣に考えていたのだ。それが理解出来なかった彼女は、
昭和三十二年五月、新派「金閣寺」観劇を最後に離れていった。私は彼女と三島由紀夫との4年間を、二人の
影としてずっと過ごして来て、今も彼女との交流は続いている。(中略)
その彼女も、ご主人は別として、私と逢って何について話しても、世の中に三島由紀夫ほど頭がよくて、
やさしい人に巡り逢ったことがないという話にたどりつく。
いくら女友達と割り切っていても、もしかしたら私の中の女の部分が、心の奥底で彼を愛していたのかも知れない。
とすれば私は随分長い間罪深く生きて来たことになってしまう。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

332:無名草子さん
10/11/17 10:37:37 .net
(中略)「絶対これは内緒なんだからな。喋っちゃ駄目だよ。そのかわり彼女のことを全部君だけに教えるよ」
といっていた。冗談じゃない。人の彼女のことなど全く興味のあろうはずもないのに。(略)…実物の彼女は
とても美人で、お人形のような顔立ちで、不思議に亡妹美津ちゃんに似ていた。そして身につけているものは、
すべてリッチでだった。
しかし、彼女を紹介されたほんの瞬間だが、私の心は女として不快だったのは事実である。三島由紀夫自身も
それを十分計算に入れていたと思う。(中略)
三島由紀夫には、彼女との別れがひどくこたえていた。そんな彼を支えていたものは「三島由紀夫」という
プライドだけで、実に寒々としたかわいた心で毎日を送っていた。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

333:無名草子さん
10/11/17 10:38:35 .net
余りにも深く愛してしまった彼女のかわりは、楽しんだ私のサロンも、母倭文重のいつくしみも役に立たなかった。
ただあるのは、物書きのきびしい宿命だけだった。(中略)
ただ一度の愛にしか青春のよろこびを見いだせずにいたなど、あの得意の空笑いと外見の明るさから誰一人
気づいた者などいなかったろう。私は出来る限り無理をして、彼によりそうようにして約一年を過ごしたが、
負けず嫌いの三島由紀夫の口からは、一度も彼女の名を耳にしたことはなく、空虚さの片鱗だに見せはしなかった。
きっかり一年後、彼は結婚した。
私の半生を通じての最高の友「三島由紀夫」は、今、皮肉にも自ら棄てた文学の中で生きつづけている。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

334:無名草子さん
10/11/17 11:24:48 .net
野島伸司って三島に通じるものあるよな

335:無名草子さん
10/11/19 00:22:23 .net
ある映画雑誌から三島さんの希望で、やくざ映画と戦争映画について、対談の申込があった。しかし(中略)私は
時間はとてもなかった。再び断ってしまったのが、心残りとなった。
私は本気に三島さんは来年まで行動は起すまいと思っていた。それまでは休戦のつもりだった。
また仲が悪かったころ、三島さんはいった。「十年たったら、世の中は変っているでしょうね」
その時は、安保条約は破棄すべきであるとかなんとか、呑気なことはいっていられないだろう、それを自分が
「楯の会」を率いて達成してみせる、という意味に私はとった。(中略)
「しかしわれわれは、人を殺したってかまわないという立場なんだからね」といったこともある。(中略)
しかしいずれにしても三島さんはもういない。類い稀な才能、魔法使いの才能が、自らの手で葬り去られたのである。
冥福を祈る、というのが、こういう文章の終りの極り文句だが、三島さんの場合はふさわしくない。
三島さんの魂は護国の鬼となって、永遠に市ヶ谷にとどまるつもりであろう。それもまた一生である。

大岡昇平「生き残ったものへの証言」より

336:無名草子さん
10/11/19 02:43:37 .net
美輪明宏がある時、関西の知人の事が、妙に気になって仕方ないので電話した
ところ、その家の奥さんが泣きながら「主人が今、病院で白血病だと告げられた」
と訴えた。早速仏間で行をやると、「刀のサワリで、その刀に斬られた人の呪い
である。その刀は雲月と雲龍という刀である」という事がわかった。
すぐさま奥さんに確認すると、確かに「雲と雷」の刀がある事が判明。
更に美輪が霊視すると、天草四郎の教育係の磯部山善右衛門が出てきてこう告げた。
このご主人の前世は細川候の家臣で、鍋島候から贈られた名刀の試し切りでキリシ
タン男女18人をこの刀で斬ったのだという。その怨みを現世でかっているのだ。
美輪は急遽大阪に飛び、観音経をあげながら、刀を白い布でまき、札を書いて清めた。
するとご主人は元気になって退院してきた。
別冊太陽75 昭和50年7月12日


337:無名草子さん
10/11/19 23:02:57 .net
私が三島さんに初めてお会いした、というよりは顔を見たのは学生時代、写真家・林忠彦さんの助手をしていた
昭和三十年頃だった。林さんの鞄を持って目黒のお宅に伺った。
純日本風の二階建で、有名作家の家にしてはちょっとボロ屋だなと思ったことを覚えている。
撮影は二階の書斎だったが、そのうち突然三島さんが立上がり、「屋上の狂人」をやりましょうかと、出窓の
向うの玄関の屋根瓦に足を掛けた。
「危いからいいですよ」と林さんと編集の人があわてて止めた。
「青の時代」や「仮面の告白」から受けるイメージとは全然違ってチャメっ気のある人だなあと思った。
折角なのにと残念でもあった。
帰りがけに三島さんは玄関で「歳をとった人って皆いい顔してますね。うらやましいなあ!」と突然言った。
「どういう意味かな。早く歳をとりたいということなのかな」と林さんは首をかしげていた。

齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」より

338:無名草子さん
10/11/19 23:04:14 .net
私は大学四年の時、林さんの助手から秋山庄太郎さんの助手に替った。ある時秋山さんはどこかのお嬢さんの
お見合写真を頼まれた。
…私たちは麻布今井町のスタジオで待機していたが「お嬢さん」は一向に現われず、連絡もつかない。
秋山さんは次の仕事が入ってしまっているので、「齋藤君、あとを頼むよ」と大慌てで出かけてしまった。
私は女性を撮るのは苦手、困ったなあと思っていると、女性が得意の助手仲間のアッチャンがやって来たので、
彼にうまく押しつけて帰ってしまった。ところがこれが逃したスクープ。半年だか一年だか経った頃、
この「お嬢さん」の家からアッチャンに結婚式を撮ってほしいとの依頼。お相手は三島さん。
お見合写真の「お嬢さん」というのは言うまでもなく杉山瑤子さんだったのだ。

齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」より

339:無名草子さん
10/11/19 23:05:35 .net
ある夜、「T社のSだけど、これからすぐ行くから、ちょっと写真を撮ってもらいたいんだが。暗いけれど
ストロボは使えないと思う」という電話。大急ぎで仕度して待っていると、黒塗りの車が到着した。
後部座席に乗っていたのは三島さん。「男の子が生まれたのでね」とひと言。虎の門病院に向う。病室の
ガラス越しに赤ちゃんの顔を見詰める三島さんは、これまでとは違ってやさしいやさしい顔だった。
長時間の撮影中はいろいろとお喋りをする。(中略)「くだらない話ですけれど、先生のセイで、S社を
落とされたことがあるんですよ」と冗談まじりに言うと、三島さんは「なぜ」と問い詰めるように訊かれた。

齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」より

340:無名草子さん
10/11/19 23:06:46 .net
「実はS誌のグラビアのデスクが、うちに来ないかと誘ってくれたんです。ノコノコ面接に出掛けて行くと、
副社長  君、スポーツは?
私  高校の頃、器械体操やっていました。
副社長  三島さんの「仮面の告白」は読んだことある?
私  はい。
副社長  あの作品の中に、器械体操をやる人間はエゴイストだと書いてあるから、君は会社勤めには
向かないんじゃないかな。……
というわけで、あっけなくチョン」
三島さんは黙って聞いていたが、私が話し終ると例の声で豪傑笑い。
「それはよかったね、フリーで自由にできて」
何日間か撮影のために三島さんに密着したことがある。最後日に、その頃はもう後楽園ジムになっていた
旧講道館で空手の稽古を撮影した。
洋服姿の三島さんはボディビルのため上半身は立派だが、下半身は細身のズボンを好むせいもあってか、
どうしても貧弱に見えバランスが良いとはいえない。しかし、稽古着に身を包むと実に格好がいい。

齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」より

341:無名草子さん
10/11/19 23:08:19 .net
薄暗い道場の中で三島さんは十人近い若者の稽古を見守っていた。
「あれが森田で、こっちにあるのが古賀。その隣りが……。皆いい連中です」。
照明のせいか、気のせいか、彼等の表情はなぜか暗く見えた。そんな中で稽古を始めた三島さんの表情は明るく、
掛け声も大きく、一番颯爽としているように見えた。
二時間近い稽古が終り三島さんと一緒に外に出ると晴天だった。水道橋駅に向う歩道の手前で礼を述べると、
「もう終りなの?」と残念な様子。じゃあと手を振って向う側に渡って行った。
それは三島さんが亡くなる六日前のことだったが、後になって思い返すと、楯の会の会員の名前をわざわざ
教えてくれたり、もう終りなのかと名残り惜しがってくれたり、やはり何かの思いがあったのかもしれない。

齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」より

342:無名草子さん
10/11/20 00:21:03 .net
最近よく書店に並んでますなあ三島さん関係の本が

343:無名草子さん
10/11/20 01:07:32 .net
スレリンク(occult板:1-100番)
酷いスレ

344:無名草子さん
10/11/20 11:29:56 .net
美輪「あの人(三島)は、ほんとうに純粋で赤ちゃんみたいにきれいな魂の持ち主だったんですよ

『日本少年』とか『少年倶楽部』で育った時代なんですよね。
少年というのは凛々しくて、潔く清くて、正しくて、優しくて、思いやりがあって、親孝行だという
『少年倶楽部』の世界そのまま律儀に全部、細胞の中までにしみこませて、そのまま死んじゃった人なのね。
普通、中年になったら、世俗的な手垢がついてきて、小ずるくなったり、いろいろするじゃないですか。
それに全然染まらなかった不思議な人でしたよ。」

美輪明宏、瀬戸内聴寂「ぴんぽんぱん ふたり話」より

345:無名草子さん
10/11/20 11:31:35 .net
瀬戸内「三島さんのことを書いた福島次郎という人がいるじゃないですか。私は、ああいうの嫌いなの。…」
美輪「前にも、一人出たんですよ。『週刊読売』で私、対決したことがある。話を聞いてみますと、三島さんが
車で迎えに来てくれたとか言うんですね。でも三島さんは、いつも奥さんに運転してもらってたくらいだから、
自分では運転できなかった。自動車教習所には行くことは行ったんだけど、実技になって、ワンブロック外を走ったら
胃が痛くなって、ひっくり返ったんだって。(略)それで運転するのは、いつも奥さんだったんですよ。だから、
その男の話は根っからの嘘だったの。でも、まあ世間という魔界には根も葉もないことを言うのがいますからね。」
瀬戸内「…あの小説は、三島さんからもらった手紙を売りに行くところから始まりましたよね。ひどいんですよ。
ほんとうにけしからんと思うのね。三島さんのお母さんやお父さんにご飯を御馳走になったり、とっても世話に
なってるでしょ。あの男の小説は卑しい。…もう呆れる。」

美輪明宏、瀬戸内聴寂「ぴんぽんぱん ふたり話」より

346:無名草子さん
10/11/20 11:33:45 .net
美輪「でも、三島さんにも非があるんですよ。だれにでも彼にでも、手紙を出してね。あの人は、まあ呆れるくらいに
手紙魔で、何で、こんな人に手紙を出すんだろというようなゴロツキみたいなのにも、丁寧な手紙を出しているんです。
そのゴロツキが、おれはこれだけ三島に思われてるんだと、私のところに三島さんの手紙を寄稿したことがあるの。
そのことを私が話すと、三島さんの目が泳いだんです。「これは私が始末しておきますからね、よござんすね」
と言ったら、素直な子供みたいに「ありがとう」と。そういうドジをあの人はよくやったの。そういう点は
ほんとにまあ呆れるほど世間知らずでしたね。」
瀬戸内「…人を疑わないのね。おぼっちゃんね。あれだけ小説の中では、人間の悪とか悪意とか、いろいろな
権謀術数を書いて、頭の中ではあそこまで理解していた人なのに…」

美輪明宏、瀬戸内聴寂「ぴんぽんぱん ふたり話」より

347:無名草子さん
10/11/21 00:13:33 .net
昭和四十一年七月九日、三島さんは美輪明宏さんの日経ホールでのチャリティ公演に歌手として出演、美輪作曲で
自作詞の「造花に殺された船乗りの歌」を歌った。その年は「サド侯爵夫人」が芸術祭賞をとり、劇団NLTを
創った私たちは六月から七月にかけて関西公演に行く所だった。私はその打ち合わせに三島邸を訪ねた。
帰り際に三島さんは、いたずらっぽい笑みをたたえ「ちょっと聞かせたいものがあるんだが、今度ねえ、僕が
歌うんだよ。それをテープに入れたから―」と、既に用意してあったテープレコーダーをかけた。
ほとんどのものに手をそめた三島さんだったが、歌は初めてだった。お世辞にもうまいとは言えず、ためらう私に
たたみ込むように「丁度、関西から帰って来る日だろ。切符を用意しておくよ」と、にこりと笑った。

寺崎裕則「私の心の中に生きる三島さん」より

348:無名草子さん
10/11/21 00:14:44 .net
三島さんは、胸の開いた黒のポロシャツに真白なズボンの格好いいマドロス姿で歌った。素晴らしかった。
舞台には歌の巧拙を超越し、そこに一人の詩人がすっくと立っていた。私の不安は雲散霧消。
終って明宏さんを囲んで打ち上げパーティーをした。三島さんは私に感想を求めた。思った通りを話したら
「そうか」と言ったものの、ちょっと不満気だった。
おひらきになると三島さんは「寺崎君、プロの歌手の手前、あれ以上、ほめると明宏さんに悪いと思ったんだろ。
これからはもう遠慮はいらない。ほめ言葉というものは幾らあっても多過ぎることはないんだよ」と、瑤子夫人と
六本木のステーキ屋へ拉致され、朝迄、“歌手三島由紀夫讃”をする破目になった。三島さんはすっかり
満足され、瑤子夫人と夏の、昇る朝日に向かって帰って行かれた。そのうしろ姿に好奇心と、稚気が戯れ合って
美しいオーラ(光輪)を描いていた。

寺崎裕則「私の心の中に生きる三島さん」より

349:無名草子さん
10/11/22 11:40:16 .net
「日本語の堪能な留学生が入ってくる」というので、室の者全員が待機していると、
「平岡です。よろしくお願いします」といって現れたのが、何と三島氏だった。昭和四十二年四月十九日のことだった。
彼は、久留米の陸上自衛隊幹部候補生学校で、その春防衛大や一般大学を卒業して入校したばかりの候補生を
視察した後、我々が教育を受けている富士学校普通科上級課程に「戦術の勉強をしたい」との目的で途中から
加わってきたのだった。
…誰もが三島氏の研修目的を詮索したり、文学や芸術の話を持ち出したりすることもなく、ひとりの友人として
自然に接したせいか、すぐに打ち解け、室の雰囲気は一段と明るくなり、女性談義に花を咲かせたりした。
私はこの室の室長兼班長だったが、これに加え三島氏の対番学生(学友として寝食を共にしてお世話する係)を
命ぜられた。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

350:無名草子さん
10/11/22 11:41:29 .net
教場では平岡学生と私は一番後方の長机に並んで座り、教官から出される問題を一緒に考えた。
…三島氏は問題の意味するところや私が作る案の内容の細部を真剣に聞き、自分でも「連隊長の作戦命令の方針」を
起案して発表したこともあった。彼の案は、自衛隊の専門用語や文書の形式にとらわれていない実に力強い
雅びな表現で、固定観念に固まっている我々には、はっとさせられるものがあり、教室の雰囲気を和らげてくれた。
…夜は室で談笑したり、腹筋運動にエキスパンダーを使用したトレーニングをしたり、ある夜は自演の映画
「憂国」をクラスの全員に見せてくれたり、私といっしょに洗濯をしたりした。当時の洗濯はまだ洗濯板に
固形石鹸の時代だったので、固形石鹸をシャツにつけていた三島氏の子供っぽい仕草が今でも目に見えるようだ。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

351:無名草子さん
10/11/22 11:42:19 .net
入校後一週間ぐらい過ぎた日に、私と話がしたいというので、彼が原稿を書いたり、東京から来る客と応対したり
するために充てられていた個室で、真剣な話を三時間以上も続けた。
「私は日本男子として国防に参加する名誉ある権利を有する。従って貴方たちは私に教える責任がある」
と彼は切り出し、次々と質問してきた。
その主な質問は、「クーデター」「憲法」「治安出勤」「徴兵制度」「シビリアンコントロール」についてだった。
その真剣さに私は、彼の入隊の本当の目的は、七十年安保に向かって騒然としつつある国内情勢に鑑み、特に
防衛大出身の幹部クラスの考え方や心意気、精密度などを肌で確認することにあったのではなかろうかと思った。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

352:無名草子さん
10/11/22 11:44:34 .net
彼はその後、同じ富士学校で教育中の幹部レンジャー課程の学生として自衛隊で最も厳しい訓練を体験し、
爽やかな印象を残して去っていった。
以後、三島氏は「檄」文に表現されたような感激を自衛隊で体験していくことになる。
三島氏は民間防衛を荷う祖国防衛隊を組織する夢を抱き、四十三年春、まず厳選された学生三十名を連れて
富士教導連隊で一ヶ月間の訓練を受けることからはじめた。
自衛隊にとっては三島氏のような知識人に自衛隊を理解してもらうことは歓迎すべきことであり、さらに、将来、
国の広い分野でリーダーとして活躍するであろう大学生の体験入隊は、特に当時の状況から願ってもないことであって、
マスコミによって潰されないように配慮して受け入れたものである。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

353:無名草子さん
10/11/22 11:45:24 .net
しかし、全国組織を目指した祖国防衛隊の構想は、政財界の協力が得られずに挫折し、自分の力で世話のできる
少数精鋭の「縦の会」へと展開していく。そして彼は彼なりの情勢分析により、自衛隊が治安出勤する事態が
来ると信じるようになる。「縦の会」は自衛隊の尖兵としてデモ隊に突入し、あるいは皇居に乱入する暴徒に
体当たりで斬り死にするという考えに変わっていったものと思われる。
だが、四十四年の一〇・二一反戦デーの騒乱で、自衛隊の治安出勤は起こりえないと見てとった時、ほんとうの
挫折を味わい、三島氏は自衛隊にとって象徴的な場所で、自衛官たちに心の叫びで訴え、武士の最期を遂げたのだった。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より

354:無名草子さん
10/11/23 01:19:17 .net
正午だった
役人たちは書類に埋まり
財界人たちは金勘定に忙しく
政治家たちは泥沼であがいていた

正午だった
真昼の光を浴びた一人の男がバルコニーで叫んだ
誰も耳を貸さなかった
戦には負けたがサムライの誇りは捨てるなと叫んだ
集まった男たちは嘲笑した

正午だった
一つの窓は閉じられた
……男は切腹した
若い男が男の首を刎ね
自分も切腹した

355:無名草子さん
10/11/23 01:21:29 .net
正午だった
男の体から溢れた血は世界中の街角へ流れ出した
鮮血は止まらず世界中の薔薇を染めた
世界中の窓は開かれ
世界中の鐘が鳴った

正午だった
日本刀は血に塗(まみ)れていた
腐った魚たちはまだ眠っていた
正午だった
世界はミシマの不在によって
満たされた

正午だった
昭和45年11月25日の正午だった

その日の
午後1時は
永遠に来なかった

藤井巌喜「正午だった」より

356:無名草子さん
10/11/23 11:16:02 .net
一九七〇年の秋、私たち三島の友人は、いつになく彼と頻繁に顔を合わせた。当時、私は、「仮面の告白」と
「潮騒」の翻訳者メレディス・ウェザビーと一緒に住んでいた。そこに、写真家の矢頭保や、時には俳優の
ヨシ笈田が顔を出した。みんな三島とは旧知の間柄だった。
(中略)日本は何処かへ行ってしまった、姿が見えなくなり、消えてしまった、僕はそう思うね、という
三島の言葉を私は覚えている。
まさか、探し回ってみれば、日本はまだまだいろんなところに残っているはずだよ、と私は笑みを浮かべながら応えた。
三島は真顔で首を振った。三島が冗談を言っているのだという思いを捨てきれなかった私は、日本を救う道は
あるのかね、と訊ねてみた。
「ないね。もはや救いようがない」と三島は言った。
その言葉を聞いて、三島が冗談を言っているのではなく、大真面目なのがわかった。

ドナルド・リチー「三島の思い出―最後の真の侍―」より

357:無名草子さん
10/11/23 11:17:00 .net
私は、三島が、合理主義一辺倒で、精神性を蔑ろにし、ぬるま湯に漬かったような現代日本の姿に嫌悪を催す
ようになり、秩序の整っていた往時を懐かしんでいるのを知っていた。
以前、私がからかって、「楯の会」を三島のボーイスカウトだと発言したとき、三島は笑っていたが、
「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つ核となるんだ」と言った。
あなたが社会の秩序を決めることができるというの、と私が訊ねると、三島は厳粛な顔で頷いた。
「あなたは誇大妄想狂だ。あなたは天皇を超えた存在だとでも」と私が冗談まじりに言うと、三島はにこりともせずに、
「そうなんだ」と言った。
私が三島に最後に会ったのは、彼の死の二、三週間まえだった。
晩餐に私たち友人を「クレッセント」に招待してくれ、食事中、何回となく西郷隆盛の話題―隆盛の最後の
日々や自決の前に隆盛を処断した親友について―にもどっていった。

ドナルド・リチー「三島の思い出―最後の真の侍―」より

358:無名草子さん
10/11/23 11:18:02 .net
三島が言うには、西郷は自分では革命に失敗したことを知っていた。
武士道のあるべき姿を確立しているつもりでいたが、親政府は官僚主義に屈していたのである。
次いで、三島は、西郷の行動の美しさ、すべてが失敗に帰し、望みがすべて絶たれたとき、西郷がとった
伝統に則った自決の作法の美しさについて滔々と話し始めた。
「西郷は最後の真の侍だ」と三島が言ったのを記憶している。だが、こう言いながらも、三島本人は自分こそ
最後の侍だということを自覚していた。今にして、私にもそのことは理解できる。
たぶん、三島はしゃべりながら、西郷に憧れて自分が企てたことを私たち友人が悟る瞬間を思い描いていたのだろう。

ドナルド・リチー「三島の思い出―最後の真の侍―」より

359:無名草子さん
10/11/23 11:19:49 .net
そう思うのは、小説家としての三島は、作品の登場人物の人生ばかりか、友人の人生まで操っていたような節が
あるからだ。
…私たちは、三島の人生で演ずる、それぞれの役を振り当てられている。たとえば、ドナルド・キーンは、
三島の人生でもっとも重要な外国の文学上のかけがえのない友人であり、文学や翻訳の問題点について
議論できる相手だった。
私はというと、キーン氏に比べてたいした役割を担ってはいない。私は外国人の傍観者で、三島が噂話をしたり、
考えをぶつけたり、胸の内を打ち明けたりする存在だった。

ドナルド・リチー「三島の思い出―最後の真の侍―」より

360:無名草子さん
10/11/23 11:20:52 .net
さらに、三島の死―彼が亡くなったという事実と自決したということ―に対する私たちの反応においても
私たちが演ずる役が決まっていたのである。
たぶん私の唯一の台詞は―「いや、違う。最後の侍は三島自身なのだ」
それが三島が私のために考えてくれた台詞かそうでないかはわからないが、三島が真の侍だったことは確かだ。
三島は、あるがままの物とそうあらねばならない物とを比較し、世間の無関心にもかかわらず、自分でより良いと
考える基準に従って生きる芯の強さを持っていた。
三島はまた、その基準に従って、侍本来のやり方で、死ぬ強さをも持ち合わせていた。

ドナルド・リチー「三島の思い出―最後の真の侍―」より

361:無名草子さん
10/11/24 10:48:08 .net
「先生は自分が弱かったから、強いものに憧れて、強い人間になりたいということで、鍛え上げたんでしょう」
のちに下士官から将校に昇進するための幹部候補生試験に合格して久留米の幹候生学校で教育を受けているとき、
山内は毎日の授業や実習をおさらいするつもりで、講義の要点をまとめ、その日一日を振り返った反省点などを、
日記を綴るようにノートに書きためていた。
…表紙がすっかり黄ばんだノートの冒頭には、自衛隊の将校になるにあたっての決意がしたためられている。
誰に見せるわけでもなく、自らに言い聞かせるただそれだけのために書いた一文の中で、山内は、三島から
「山内さんはこのような人に見える」と言われて、色紙に『純忠』という言葉を授かったことをしるし、
さらにこうつづけていた。
〈いまも私の宝として、好漢森田必勝君とともに終生先生との思い出を忘れない。忘れることができないであろう。
そして、純忠の言葉通り私も生きたいものだ。〉

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

362:無名草子さん
10/11/24 10:50:05 .net
(中略)山内は、あの日、市ヶ谷のバルコニーで「諸君は武士だろう!」と絶叫の響きをにじませながら
訴える三島の声をかき消すように、嘲笑や罵声を浴びせた隊員たちにむしろ「腹が立ち」、「平岡先生を
悪者にしてはいけないということしか頭に浮かばなかった」という。三島への尊敬の念が強まることはあれ
薄まることはなかったのである。
そんな山内も、終生先生との思い出を忘れない、と書きとめたノートのなかで、〈私は先生に会う以前、
三島由紀夫とはつまらぬ小説家であろうと思っていた〉と明かしている。(中略)
それが「尊敬」へと180度変わったのは、生身の三島に触れて、たとえ弱さがあっても、そんな自分から
決して逃げることはせず、むしろ真正面から立ち向かって、より強くなろうとする三島の真摯な姿を間近で
みつめてからだった。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

363:無名草子さん
10/11/24 10:51:20 .net
ひたむきな三島に心動かされたのは山内ひとりではなかった。体験入隊してきた三島を、時には「平岡ッ」と
本名で呼び捨てにしながら、手加減せず厳しく指導してきた教官や助教も、あるいはともに汗を流し、
隣り合わせのベッドで眠った訓練仲間の学生も、少なくとも私が話を聞いたすべての元兵士たちが口を揃えて、
鍛え上げられた上半身に比べて足腰の弱さが際立つ、三島の中のアンバランスを指摘しながら同時に、三島の
愚直なまでの一途さにすがすがしいものを覚えていた。
要するに彼ら全員が、兵士になろうとして、世界のミシマとは別人のように弱さも含めてすべてをさらけ出した
人間三島に惚れこんだのである。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

364:無名草子さん
10/11/24 10:52:51 .net
学生を引き連れた滝ヶ原での最初の体験入隊で、山内や河面と同じく、助教をつとめた江河弘喜は、三島の
人となりについてこう語っている。
「紳士でした。まじめでした。もう真面目そのものでした」
…そして三島の真面目さは、律義と呼びかえてもよいものであることを、江河は自らの体験で知っている。
というより、三島の律義さを、江河は片時も忘れ得ぬしるしとして受け取っているのである。
体験入隊に臨んでいた三島に、江河は或る「お願い」をしていた。近々産まれてくる自分のはじめての子供に
名前をつけてもらえないかと頼んだのである。三島は二つ返事で快く引き受けてくれた。
(中略)いまも江河が大切に保存している三島からの手紙の日付は土曜日の二十五日になっているから、女児誕生の
報せを受けてすぐに筆をとったことになる。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

365:無名草子さん
10/11/24 10:53:55 .net
〈どうしても可愛がりすぎてしまふ第一子は、女のお児さんがよろしく〉と、やはり第一子に女の子を授かった
自身の経験を引きながら、三島は手紙の中で、〈人生最初に得る我児は、何ものにも代へがたく、一挙手一投足が
驚きでありよろこびであり、……天の啓示の如きものを感じますね〉とその感動を素直に綴っていた。
候補としてあげた三通りの名前については、それぞれについて、…(略)〈一長一短〉があることを断った上で、
三つの中から〈御自由に〉選ぶように書き添え、さらに別便でいかにも愛らしい淡いピンクと水色の産着を
一着ずつ届けて寄越す、こまやかな心の砕きようであった。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

366:無名草子さん
10/11/24 10:58:50 .net
あの日、一九七〇年十一月二十五日、私は十八歳になった。高校三年生である。(中略)
その日の昼下がりも、窓いっぱいにさしこんでくる柔らかな陽の光につつまれて、私はついついまどろみそうに
なりながら、午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴ったのも気づかないほどだった。ほどなくして古文を
受け持っていた教師が教室に入ってきた。微かに東北訛りの残る、穏やかな語り口で、ふだんは授業以外の
余計なことはめったに口にしない人なのだが、この日に限って、教科書をひらく前にこう切り出したのである。
「つい先ほどのことですが、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して割腹自殺を遂げたそうです」
思いもよらないニュースを先生の口から知らされたとたん、教科書やノートをひらきかけていた生徒の動きが
一瞬止まり、次いで教室にどよめきが走った。(中略)
しばらくは教室のあちこちでざわめきが尾を曳いていたが、それも教師が古(いにしえ)びとの歌を朗々と
詠じはじめるうちにしだいに静まっていった。しかし、私はひとり胸の動悸を収めることができずにいた。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

367:無名草子さん
10/11/24 11:00:08 .net
こんなところで平安貴族が詠んだ歌について悠長に解釈をあれこれ考えている場合ではないだろう。ともかく
市ヶ谷に行かなければ……。と言って、駈けつけても、何をしようなどという考えがもとよりあったわけではない。
ただ、じっと教室の椅子に座って、授業を受けていることが、いまこの瞬間の過ごし方としてはひどく間が抜けて
いるように思えてならなかった。居ても立ってもいられなかったのである。私は鞄に教科書など一式をしまいこむと、
腰を屈めたままの姿勢で席を離れ、教師が黒板に向かっている隙に教壇の横をすり抜けて出口に向かった。
(中略)私が通っていた都立日比谷高校から市ヶ谷は距離にして二キロ弱、(略)市ヶ谷の駅へと通じる下り坂を
下りるにつれて、上空を旋回するヘリの爆音が二重三重に輪をかけて大きくなっていく。外濠にかかる橋を渡り、
駐屯地の前に出ると、正面ゲートだけでなく、ヤジ馬が鈴なりになった周囲の歩道にも制服警官や機動隊員が
多数配置され、あたり一帯は異様な空気につつまれていた。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

368:無名草子さん
10/11/24 11:01:09 .net
私はただその場から立ち去りがたいという思いに引きずられて小一時間ほど佇んでいたが、やがて、あの門の向こうで
三島が自決したんだと自らに言い聞かせるようにいま一度眼を見ひらき、駐屯地の奥を見据えて、脳裏にその情景を
しっかりと刻みこんでから、相変わらず上空をヘリが舞い、(略)騒然とした雰囲気の中、歩いて市ヶ谷から
九段の坂を通り、神保町の自宅に帰った。(中略)
自宅の神棚には、鯛のお頭付きと三越の包装紙につつまれたケーキの箱が供えられていた。家族の誕生日の、
それが我が家の習わしであった。私は、その夜のささやかな祝宴の主賓であったにもかかわらず、鯛にもケーキにも
手をつける気には到底なれなかった。
その日からずっと、私の中で、「三島由紀夫」は生きつづけているような気がする。いまになって思えば、
自衛隊に兵士たちを訪ねて歩く取材をはじめたのも、三島由紀夫抜きには考えられないのだった。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

369:無名草子さん
10/11/24 15:56:13 .net
私は生涯にただ一度きり、生身の三島を間近にしている。
…私が三島を眼にしたのは、他でもない自衛隊の観閲式においてであった。学校新聞の取材と称して式典への参加を
願い出た高校一年生、十五歳だった私に、防衛庁は各国の駐在式官が陣取った来賓席を用意してくれていた。
肩から金モールを下げ、礼装の軍服に身をつつんだ式官や華やいだ装いの夫人たちに囲まれて席についていると、
式官の一団が突然、「起立!」と号令をかけられたみたいに夫人ともどもいっせいに立ち上がった。私も、
傍らに座る、観閲式に無理矢理つきあわせた級友のTと一緒に思わず立ち上がっていた。式官たちは全員二時の
方向を向いて、手を制帽の眼庇にかざし挙手の礼をとっている。(略)彼らが敬礼を送っている相手は最初は
見えなかったが、相手の動きとともに、敬礼する式官たちの体の向きも変わってゆき、やがて彼らがほぼ真横を
向いたところで、ならび立つ軍服の間から三島が姿をあらわしたのである。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

370:無名草子さん
10/11/24 15:57:25 .net
細身のスーツを着こなした三島は自らも右手をかざして式官たちの敬礼に応えながら、瑤子夫人を伴って、
私とTが立っている席のすぐ前の席に腰を下ろした。
私の視線は、傍らの駐在式官から挨拶を受け、にこやかに何ごとか語らっている三島に釘付けになっていた。
間近も間近、手を伸ばせば触れるようなすぐそこに、三島由紀夫がいることに私は興奮して、級友のTの肘を
つつきながら、「ミシマだよ、ミシマがいるよ」と熱に浮かされたようにうわごとめいたつぶやきを繰り返していた。
音楽隊が奏でる勇壮なマーチに乗って、陸海空各部隊が一糸乱れず分列行進をしたり、(略)迫力あるシーンは
どれもはじめてじかに眼にするものばかりだったはずなのに、どういうわけか、記憶に灼きついているのは
三島の姿だけなのである。
たった一度だけ三島を眼にした場が自衛隊の式典であり、それから二年あまりのうちに、自分の十八回目の誕生日に
三島が自衛隊で自決を遂げたことは、私の中で不思議な暗号として捉えられた。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

371:無名草子さん
10/11/24 15:58:36 .net
いつしか私は、三島由紀夫と、自衛隊と、自分自身とを何か運命的なもののように重ね合わせて考えるようになっていた。
(中略)三島は、自衛隊に何を見、何を期待し、何に絶望していったのか。(略)答えがみつかるはずもない
その問いかけを、鈴振るように胸に響かせながら、私もまた自衛隊のゲートをくぐったのであった。
当初私は、三島が丸三年半にわたる自衛隊体験の中では、自衛隊を第一線で支える、もの言わぬ隊員たちの素顔に
間近に接して、彼らの心情に分け入るまでには至らなかったのではないかと思っていた。(中略)
しかし、三島が死に場所に選んだ自衛隊をこの眼で見、全身で感じてみたいと思い、はじめた平成の兵士たちを
訪ねる旅の第一歩からほぼ十五年の年月が流れ、その旅をいよいよ終えようといういまになって、私の眼には、
三島の眼差しの先にあったものがかつてとは違ったように見えてきたのである。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

372:無名草子さん
10/11/24 15:59:46 .net
(中略)
〈…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう〉という三島の予言は、その死から四十年近くたったいま、
ますます説得力を帯びた切実な響きで聞こえてくる。そうなってみると、十五年前には迂闊にも気づかなかったことだが、
三島が知っていた自衛隊とは、決して〈武器庫〉や〈階級章〉だけではなかったように思われてきたのである。
死の二ヶ月前、三島は、「楯の会」の会員たちと体験入隊を繰り返し、彼が自衛隊でもっとも長い時間を過ごした
滝ヶ原分屯地の隊内誌『たきがはら』に一文を寄せている。その中で三島は、自分のことを、
〈二六時中自衛隊の運命のみを憂へ、その未来のみに馳せ、その打開のみに心を砕く、自衛隊について
「知りすぎた男」になつてしまつた〉と書いていた。じっさい「知りすぎた」三島は、『檄』にも書きとめた通り、
〈アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊の本質を
見抜いていたがゆえに、自衛隊の今日ある姿を予見することができたのだろう。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

373:無名草子さん
10/11/24 16:00:51 .net
隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、
アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて
政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようが
ないのである。
私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に
満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。
もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。
三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より

374:ニュー速 1970年11月25日
10/11/24 21:12:54 .net
URLリンク(www.youtube.com)

375:無名草子さん
10/11/25 21:22:31 .net
おそらく、三島由紀夫の切腹・自決事件に驚愕し、それぞれ政治的、思想的立場は異なるとしても、また
三島事件なるものの意味と本質が理解できたかどうかとは関係なしに、精神的に深い影響を受けなかった日本人は
いないだろう。むろん、僕も深い影響を受けた者の一人だったが、僕が最も興味を持った反応は、京大パルチザンを
率いていた左翼過激派の京大助手、滝田修(川本信弘)の「三島に先を越された。我々の陣営にも第二、第三の
三島由紀夫を……」という発言だった。僕は、この滝田のことばに、何故だか、意味もよくわからないままに
戦慄し、身震いしたのを覚えている。僕が、三島由紀夫や滝田修の行為や言動から、薄々、感じていたのは、
「思想や政治を語るものは、それに命を賭けよ」ということだったように思われる。僕が、三島由紀夫事件に
接して身震いを覚えたのは、まさに、そこに、つまり「今、此処に…」、思想に命を賭けた日本人がいるという、
そのことだった。滝田の言葉も、そのことを言おうとしたものだったはずだ。

山崎行太郎「三島由紀夫没後40年『憂国忌』について」より

376:無名草子さん
10/11/25 21:23:26 .net
三島事件を転機に、思想状況は一変した。本気か、そうでないかが、つまり、日頃の勇ましい言動とは裏腹に
一目散に市民社会へ逃亡するものと、いよいよ退路を断ち切って思想闘争に命を賭けるものとの「わかれ道」が、
ここで一目瞭然となったからである。特に、その後の左翼過激派の動きは、そのことを証明している。イスラエル・
ロッド空港銃乱射事件を起こした奥平某、安田某等は、滝田修が率いていた京大パルチザンの残党であり、
しかも僕とはほぼ同世代の青年たちであった。彼等もまた、三島由紀夫事件に、つまり「思想に命を賭ける」
という事件に深い影響を受けていたはずである。
さて三島由紀夫事件直後に、「三島追悼の夕べ」を開き、その後、正式に「憂国忌」と名付け、三島由紀夫慰霊祭と
鎮魂祭を、毎年、執り行ってきたのが「三島由紀夫研究会」という組織だったらしいが、その「三島由紀夫研究会」が、
このほど、『憂国忌の四十年』(並木書房)という本を刊行した。

山崎行太郎「三島由紀夫没後40年『憂国忌』について」より

377:無名草子さん
10/11/25 21:24:32 .net
あまり、というより、ほとんど、文壇やマスコミは取り上げようとしないらしいが、僕は、この本に深く感銘を
受けた。思想や政治に命を賭けた者たちの記録として読むことが出来るからだ。
三島由紀夫や三島事件を、「文学」に回収することは、三島由紀夫を「文学」に祭り上げることによって、
何処にでも、掃いて捨てるはどいる小市民的な、毒にも薬にもならない、凡庸な小説家の一人として「祭り捨てる」
ことである。これに対して、『憂国忌の四十年』が描くのは、今なお、生々しい存在として、そして凶々しい
存在として「生き続けている三島由紀夫」であり、三島由紀夫の文学や思想に深く共鳴する「三島信者」たちの
その後の人生である。実は僕も十数年前から、この会に関係し、「憂国忌」の発起人の一人に名を連ねているのだが、
そしてその関係で、毎年、顔を会わせ、それなりによく知っているのだが、この『憂国忌の四十年』という本の
多くを占めているのが、このグループのリーダーであった故「三浦重周」氏のことである。

山崎行太郎「三島由紀夫没後40年『憂国忌』について」より

378:無名草子さん
10/11/25 21:25:36 .net
三浦氏は、先年、憂国忌を責任者として執り行った直後、故郷の、白雪と寒風が吹き荒れる新潟港岸壁で、
三島由紀夫と同じように、切腹・自決している。僕は、そこに至るまでに、三浦氏に、いかなる理由や事情が
あったかを知らないが、三浦氏の自決事件にも、何かを感得した。文壇やマスコミが、この本を無視、黙殺して、
松本健一や平野啓一郎等の、世にもくだらない駄本(『三島由紀夫と司馬遼太郎』)や、一夜漬けの雑学を
披露しただけの座談会を持て囃すのは当然だろう。
『憂国忌の四十年』は、思想や政治に命を賭けた者たちの記録である。すくなくともこの『憂国忌の四十年』
という書物のなかには、三島事件の「事件性」と「危険性」は、失われていない。ここにこそ「文学」があり
「思想」がある。ここにしか「文学」も「思想」もありえない。

山崎行太郎「三島由紀夫没後40年『憂国忌』について」より

379:無名草子さん
10/11/28 11:14:04 .net
多くの人が多くのことを書いたりしゃべったりさせられた。なかには弔辞とは思えない発言も多かったが、当節、
葬式に出かけてまで自分の宣伝をやりかねない人間がいることにあまり驚いてもいられない。たとえば、
「そうですね、彼の死は結局……」などと、終始目尻を下げて薄笑いを浮かべながらテレビでしゃべったりする
人間や、死者に唾を吐くようなことを書く人間がいても、これを抹殺することはできない以上、私たちは
我慢して生きるほかない。(中略)
これは、三島氏の場合のように死にかたが異常であった場合、生き残った人間の側の自己防衛の努力ともみられる。
斬られたのが比喩のうえのことであるにしろ現実のことであるにしろ、とりあえず傷口をふさぐことに専念
しなければならないのである。(中略)恥も外聞も忘れて言葉をそういう自己防衛のために使わなければ
ならない人間も何人かはいて、その人たちが三島氏の行動を非難したり否定したりするのに懸命になっている
正直さは許されなければならない。恐怖が大きすぎて沈黙を守っていられないとき、弱い犬には吠えることしか
できない。

倉橋由美子「英雄の死」より

380:無名草子さん
10/11/28 11:15:27 .net
(中略)言論、表現、思想の自由なども、主としてふまじめに言葉を使う人間にその権利を保障してやるための
ものであるかのように考えられている。そういう人間は、日本国憲法はあなたがどんなことをいおうとそれを
ただいうだけならあなたの生命を保障していますよ、といわれても格別侮辱を感じないのかもしれない。これに
対して三島由紀夫氏は言葉をまじめに使い、思想を組み立ててその頂点に死しかなければ死ねる人間だった。
その死も、自分の言葉に酔ってのことであるとか、自分で築いた言葉の楼閣のうえでの演技にすぎないといった
説明ですませてしまう人間がいて、この連中にはもはや救いがない。この種の人間はつねに、自分にはそれを
する気も能力もないが、という条件法で自分の思想と称するもの、というより叶わぬ願望や愚痴や恨みを語って
いるのであって、ここでこの種の人間に絶対できない「それ」というのが割腹して死ぬということなのである。
三島氏は単純に定言命令だけで自分の思想を組み立てていた。その頂点には汝死すべしという命令があって、
その言葉が行動になった。

倉橋由美子「英雄の死」より

381:無名草子さん
10/11/28 11:17:01 .net
(中略)凡人を超える大きさをもった人間があらわれて凡人にはできぬことをして死んだとき、それが天才で
あったことを認めると同時に自分たちがどの程度の人間であるかを悟ることが、凡人に望みうる唯一の美徳である。
そして情けないことではあるが、ともかく生き残り、長く生きることで夭折した天才を凌ぐことが凡人に許された
唯一の特権でもある。できるかぎり長く生きること、その量の問題が重要だとカミュがいったのはどんな文脈の
なかでだったかおぼえていないが、私たちがいまこの言葉を楯にとって、死ぬことではなく生きることが
問題なのだと三島氏にいってみたところで、自分が欲するように死ぬことのできた天才にとってそれはほとんど
耳を藉すに足らぬ言葉である。まして、三島氏の才能を作家としての仕事の枠内でしか見ることができない
同業の人間たちが、三島氏の死によって物を書く才能がひとつ消滅したことを惜しみ、生きていてさらによい
仕事をしてもらいたかったなどというのをきくと、三島氏が同業者たちとのおつきあいにつくづく嫌気がさして
いた気持もよくわかる気がする。

倉橋由美子「英雄の死」より

382:無名草子さん
10/11/28 11:18:26 .net
三島氏が文学の仕事に行き詰まってあのような行動に走ったという説にいたっては論外である。こういう人たちは
自分が作家であるということを何か人間であることを超えた特別の資格であると考えているのであろうか。
おそらく人間も国家もすべて文学のためにあるということであるらしい。三島由紀夫氏というひとりの天才がいて、
常人を超える生活をして、そのひとつにすぎなかった文学の仕事に関してはもうなすべきことがなくなったと
感じたとき、私たちはこの天才の壮烈な死を黙って見ているほかなくて、またそれが弱くて凡庸な人間の側の
最高の礼節というものである。ひとつの稀有な文才を消滅を惜しむのはよいが、生きていればまだよい作品が
書けたのにといういいかたには、金の卵を生む鶏の死を惜しむのに似たけち臭さがある。
三島氏の作品がもっと多ければそれだけ日本の文化遺産だか何だかの量がふえるのに、というのがそもそも
俗悪な考えかたなので、三島氏がその行動によって示したのが、文化とはどういうものであるかということなのだった。

倉橋由美子「英雄の死」より

383:無名草子さん
10/11/28 11:20:33 .net
英雄や天才が卑小な人間に愛想をつかすのは当然の特権であって、これは病める人間が陥りやすい人間嫌いなど
とは全然別物である。私たちの敬愛は、三島氏が「おまへたちは阿呆ばかりだ」と思っていたことで損われる
性質のものではないので、三島氏は大声でその思っていることをいえばよかった。阿呆は自分以外の人間を
すべて阿呆だと思っている、などと歯切れの悪いことをいった芥川龍之介(鬼才とか秀才といった言葉はむしろ
この人にふさわしい)の場合とは違うのである。とにかく、そういう境地に達していた天才ならば、あとは
阿呆に対しても礼儀正しくふるまい、晴朗な顔をして憤死するだけだった。
昔から日本では三島由紀夫氏のような人があんなふうに憤死すれば神になることになっていた。ここで
神というのは英霊のもうひとつ先を考えているのであって、ユダヤ人が発明した神などとは無論関係ない。
(中略)日本人は昔から三島由紀夫氏のような人間の霊を祀り、それにつながってその先にあるはずのものを
拝んできた。三島氏はみずから死んでそういう神と化す以外になかったのである。

倉橋由美子「英雄の死」より

384:無名草子さん
10/11/29 12:09:01 .net
三島由紀夫が「精神的クーデター」を狙うかのごとく憂国の諫死をとげてから、早や四十年の歳月が流れた。
あの驚天動地の衝撃は日本の思想界、言論界に強烈な影響を与えた。事件直後のテレビニュースにでた林房雄は、
「正気の狂気」と比喩した。藤田東湖の正気の歌を思い出す人も多かった。中曽根防衛長官が「狂ったのか」と
発言したことに対して「はじめから終わりまで正気だった」と林は二重の意味を込めたのだ。正気(せいき)を
正気(しょうき)と呼ぶのは戦後である。
新保祐司の比喩によれば、「美の世界から三島は或る日、『正気』に選択されて『義』に向かった」という。
正気とは領土とか人民の危機レベルではなく、磯部浅一は「正気の危機」だと言った。吉田松陰は大和魂と言ったが、
どれもこれも外国人には分からない。いまの日本は「日本人」の顔をした外国人が多いから吉田松陰も三島も
分からない。西郷さんも乃木将軍もわからない。

宮崎正弘「ミシマのいない平成元禄」より

385:無名草子さん
10/11/29 12:10:21 .net
三島事件直後に江藤淳は小林秀雄と『諸君』での対談で「(三島さんは)単に老衰しただけじゃありませんか」
と言い、小林が「それなら君は堺事件をどうおもうか」と、日本の歴史にはときに訳が分からないことがおきる
のであり、それが歴史だという意味のことを言った。
戦争は悲劇であり、悲惨というレベルだけで戦争を総括するのは錯誤でしかなく、崇高という感覚が
“狂気の正気”となる。石原慎太郎には、これが分からないらしい。なぜか、石原は三島となるとムキになって
矮小化したがるからだ。
戦後の日本は戦争を悲惨とだけ捉え、人間主義、自己実現だけとなって、他者実現、崇高さが失われた。
義と美との距離は前者がユダヤー欧英に強く、後者はギリシア、ローマなど南欧に流れた。デビュー直後は
ギリシャに憧れた三島は明らかに美をもとめていた。そして歳月が流れ、正気が三島を選択した。
正気は50年、100年に一度、突発するのが日本の歴史であり、三島事件は乃木希典の殉死で日本中が
わなわなと震えて感動した事件以来かもしれない。精神においては特攻隊以来であろう。

宮崎正弘「ミシマのいない平成元禄」より

386:無名草子さん
10/11/29 12:11:53 .net
さて筆者自身、学生運動を担っていた時代、三島由紀夫、林房雄、村松剛らの指導を仰いでいた。三島は筆者らが
出していた民族派理論誌「日本学生新聞」の創刊号に祝辞を寄せてくれ「天窓を開く快挙」と期待を表明し、
また全日本学生国防会議(森田必勝が議長)の結成大会に駆けつけて万歳三唱をしてくれた。その後、森田が
楯の会専従となり、あの事件へと突っ走ることになる。直後の追悼会は池袋の豊島公会堂に入りきれず、会場前の
公園に数万のファンが押し寄せた。しかし三島事件以後、日本の精神的堕落、知的頽廃はますます進行するばかりだ。
まさに「芭蕉も近松もいない昭和元禄」と三島が書いたが、その「三島もいない平成元禄」になった。
国益を考えない政治家がままごと政治をおこない、そのリーダーシップの劣化は官界におよび、ちっぽけな汚職が
はびこり、財界には侍が不在となり左翼論壇は滅びたはずなのに失業互助組合のような媒体と支援団体でかろうじて
息をつなぎ、偏向マスコミの売国的言論を維持している。

宮崎正弘「ミシマのいない平成元禄」より

387:無名草子さん
10/11/29 12:13:32 .net
三島由紀夫は「生命より大事なものがある」と精神的クーデターを企て、日本の文化伝統の尊さを日本人に
覚醒させようとした。しかし「自分の行為は五十年後、百年後でしか理解されまい」とも言い残した。
こうした三島由紀夫の憂国の情念、祖国への愛を継承し、ともかく努力をして祖国の復権のためになにがしかの
努力をしようとする同士が集まって四十年前に「三島由紀夫研究会」が結成された。
毎年の三島の命日には追悼会を挙行し、日本に正気が戻るまで継続し、「三島由紀夫と通して日本を考えよう」
という標語で若者に訴えかけたのが「憂国忌」の始まりである。
やはり三島が予言したように日本に正気が回復するには百年(ということは差し引き半世紀前後)を要するのだろうか?

宮崎正弘「ミシマのいない平成元禄」より

388:無名草子さん
10/12/01 11:45:18 .net
「二・二六事件」の時に自殺した青年将校は河野大尉と、陸相官邸でピストル自殺した最先任将校の野中大尉だけである。
私はてっきり(憂国の)作者の三島由紀夫が河野大尉をモデルに作品を書いたのだと思い、三島に問い合わせの
手紙を出した。熱海の病院で、夜、河野大尉らしき若い男(の霊)と会ったことや、当時、怪我をして担ぎ込まれた
河野大尉を担当した看護婦の話も漏らさず付記した。間もなく三島から返事がきた。
「(中略)河野大尉のことは知りませんでしたが、彼の実兄から同じような手紙が来て、河野大尉が熱海で
割腹自害していたことを初めて知りました。あなたがそこの病院で河野大尉らしい人物にお会いになったあたりは
興味津々たるものがあります。いつかゆっくりとお聞かせください。 敬具」

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

389:無名草子さん
10/12/01 11:46:14 .net
(中略)その後、三島と何度か手紙のやり取りをしたが、私が実際に三島本人と会ったのは都内のK警察署の
殺風景な道場であった。(中略)
二人の会話では、河野大尉ら青年将校たちのことがよく話題になった。
河野大尉の実兄とも『憂国』が取り持つ縁で、時々あっているとのことである。
私が河野大尉らしい人物と会ったり、夢で会見したことは誰も本気で聞いてくれなかったが、三島だけは違った。
彼は、私が夢の中で河野大尉と会ったときのことを根掘り葉掘り聞くのである。
「うーむ、やっぱりそうか、そうだったのか」などと一人でうなずいたりした。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

390:無名草子さん
10/12/01 11:48:11 .net
(中略)「彼らが決起に失敗し、自刃を決意して天皇の勅使を賜りたいと願い出たときに、天皇は『死にたければ
勝手に死すべし』と冷たく突き放しているのはご承知の通りです。天皇に最も近く仕えていた侍従武官長の
本庄大将が日記に記していることなので、まず本当だったのでしょう。いかにも血も涙もないご返事で、
日本の将来を憂い、天皇を信じきって決起した青年将校たちの落胆ぶりが目に見えるようです」
日頃から青年将校たちの純粋さに憧れていた三島は本当に残念そうだった。
「しかし三島さん、日本は立憲国家なのです。信頼していた重臣たちを突然殺害された天皇がお怒りになるのは
当たり前でしょう。彼らの自刃に際して天皇が勅使を派遣されたとなると、決起を褒賞したことになります。
立憲国家の君主として当然の行為です」
常識的に別になんの疑問もないところだが、三島の考えはやや違っていた。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

391:無名草子さん
10/12/01 11:49:47 .net
「総理大臣のような普通の人間ならそれでもいいかもしれませんが、日本のすべてを統括する天皇は神のごとき
存在であり、神のごとき立場で、常に冷静沈着な判断をされねばならなかったのです。
それが、『死にたければ勝手に死すべし』では、あまりにも人間の憎悪の感情丸出しで、一般の市民となんら
変わらないではありませんか。以前会った河野大尉の実兄は、そのとき天皇は、陛下の赤子が犯した罪を
死を以て償おうとしていると聞き、『そうか、よくわかってくれた。お前が行ってよく見届けてくれ』と
なぜ侍従長に仰せられなかったのかと嘆いていました。
これはもう、人間の怒り、憎しみで、日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」
三島はそこまで一気に言うと、声を詰まらせた。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

392:無名草子さん
10/12/01 11:51:06 .net
…私は三島の激しい口調に反論する言葉を失い沈黙した。
「それから、ひどいのはその後の軍部のとった処置です。青年将校たちは一旦は揃って自刃を決意しましたが、
裁判で自分たちの主張を世間に発表するために法廷闘争に切り替えます。しかし、青年将校たちが最後の望みを
託したその裁判は、弁護人なし、控訴なし、非公開という日本の裁判史上まれに見る暗黒裁判でした。その挙げ句、
首謀者の青年将校十五人を並べて一斉射撃で銃殺したというんですから、とても近代国家のすることではありません」
三島の悲憤慷慨は留まるところを知らず、事件後の裁判まで話が及んだ。作家らしく感情の起伏が激しく
「二・二六事件」当時の東北農村の貧窮ぶりを語るときなどはうっすらと涙さえ浮かべていた。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

393:無名草子さん
10/12/01 11:54:02 .net
(中略)
平成元年二月二十四日、昭和天皇の大葬の日は、朝から冷たい雨が降ったり止んだりする肌寒い日だった。
この日、自衛隊を定年退官する私は、天皇の御柩を見送るために三宅坂に出かけた。(中略)
天皇のお車が私の前にさしかかったときである。私は不思議な幻影を見た。道路の反対側にカーキ色の服を着た
男たちが並んでいる。よく見ると、なんと、懐かしい河野大尉を含む「二・二六事件」の青年将校たちではないか。
彼らは道路際に行儀よく並び、天皇の車の行列を無表情に見つめていた。(中略)
「二・二六事件」を解く最大のキーは、そのときの天皇のご決断にあると言われている。
…戦後、天皇が外遊した折、外国人の記者に囲まれて、「二・二六事件」に対する所見を聞かされた天皇は、
「遺憾に思います」と答えられている。政府の高官や皇族の人が「遺憾に思う」ということは「間違っていた」
「すまないことをした」という意味とされている。(略)…マスコミではほとんど取り上げられなかった。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

394:無名草子さん
10/12/01 11:55:05 .net
「原さん、青年将校に代わって天皇にお願いしてくれ。このままじゃ、あまりにも彼らが可哀そうだ。
頼むよ、原さん……」どこからか、甲高い三島の声が聞こえてきた。私はたまらず列をかき分けて前へ出ると、
天皇の御柩に向かって叫んだ。
「天皇よ。なぜたった一言、彼らにお声をかけてくださらないのですか。このままでは彼らは永遠に反逆の徒に
なってしまいます。かつて彼らは、あなたを信じて決起したのです。賊徒のまま放っておかれるおつもりですか。
浮かばれぬ彼らの魂は、いったいどこへ行ったらいいのです……」
(略)…私はたちまち屈強な警察官たちに取り押さえられたが、その時、道路際の向こう側に立っていた
河野大尉がニッコリ笑うのが見えた。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

395:無名草子さん
10/12/01 11:56:15 .net
三島は結局、自衛隊市ヶ谷駐屯地を己の死に場所とした。
…多くの自衛隊員の前で演説し、そして腹を切るという壮烈な死の花道として、士官学校、大本営、参謀本部など、
かつて日本陸軍のメッカといわれた市ヶ谷を選んだ。
…三島は隊員に決起を促すため方面総監室を占拠し、総監を人質にするという暴挙に出たが、そのために三島を
恨んだり、非難する声は今でも自衛隊内部では少ない。
事件の当日、会議中に総監室の異状を知った方面総監部三部の防衛班長中村菫正(のぶまさ)二佐は、隊員の通報で
総監室に駆けつけ、幕僚長室から総監室に通じるドアを体当たりで開けて中に飛び込み、振りかざした三島の刀で
右手を二回にわたり斬りつけられる。(中略)
思いもかけなかった刃傷事件の発生に、総監部の各事務室の片隅に警棒が常時置かれるようになったのは、
この事件以降のことである。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

396:無名草子さん
10/12/01 13:29:41 .net
(中略)しかし、こんなとんだ災難にあった中村二佐だが、三島を恨もうとはしていない。
「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、
腕をやられた時は手心を感じました」とあとで語っている。
斬られながらも相手の手加減を感じるなど、剣道を知らない者にはわからないところだが、中村二佐は旧軍の
軍人だから剣道の腕も相当なものがあったのだろう。
自衛隊の良き理解者だった三島について「まったく恨みはありません」と断言した中村二佐はその後、陸幕広報班長、
第三十二連隊長、総監部幕僚副長、幹部候補生学校校長を歴任し、昭和五十六年七月、陸将で定年退官するが、
最後の職場が、かつて三島を教育した久留米の幹部候補生学校だったとは、皮肉な巡り合わせである。

原竜一「熱海の青年将校―三島由紀夫と私―」より

397:無名草子さん
10/12/02 15:43:31 .net
公威は、独特の笑顔を持って生まれてきた赤ん坊であった。
明るく、底の方から湧き出るような笑顔である。笑うつもりもなく自然に顔中の筋肉がほぐれ、こぼれるように
溢れる笑顔こそ、生涯をかけて私を励まし慰めてくれたものだった。
二十歳の健康な母親には豊かな乳房があり、赤ん坊はほとばしる乳をたっぷり呑んで育った。この世から、
もしこの顔が消えることがあったら、私は生きていることは出来ない、とその時から幾年もずっと思い続けて来た。
もしそのような事があったら、誰が何を言おうと一緒にお棺の中に入ってしまおう。家中の者が泣き喚いて
止めても実行しよう、と思い定めていた。
それは、公威が長じて大人になってからも、消えるどころかだんだん強固なものになって来ていたから、
事件の時点で当然実行する筈であった。

平岡倭文重「暴流のごとく」より

398:無名草子さん
10/12/02 15:44:26 .net
ところが、あの時、はっきり拒否する公威の声があった。私は意味を考え、そして分かった。
折角の彼の行為が汚れるからだ。私が何をしたところで、公威の味わった苦しみにはとても近寄れないが、
これから先に立ち現れる障害に耐える力をあの時の公威が私に授けてくれたように思う。
重い重い石の塊りのような得体の知れないものがどっかり腹の中に居据わって、これは一体何なのかと私は
いぶかしく分析してみる。諦めとも違う。怖れとも違う。やはり公威の残してくれた一種の教訓と私は感ずる。
私が泣けば彼も泣く。私が喜べば彼も喜ぶ。私はもう泣かない。泣くものか、と気が狂ったように、止めどなく
私の感情は揺れ動き往きつ戻りつした。
そして残された者の心の在り方として、公威の優しさが一種の安らぎのかたちを取って、今ここにこうして私は在る。

平岡倭文重「暴流のごとく」より

399:無名草子さん
10/12/03 18:17:32 .net
ボディビル(笑)

400:無名草子さん
10/12/03 22:57:58 .net
戦前の輝かしい日本の昭和3年に生を受けた私は、本土決戦が近い昭和19年に当時最高のエリート集団、
海軍機関学校の厳しい試験を突破。畳が血に染まっている激しい柔道場、プールの底に網を張り、力尽きて
おぼれ沈むまで泳ぐ猛訓練、日本最高の頭脳を有する教授陣による徹底的な座学。入学した東京帝国大学は正門に
菊の御紋を頂き、「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」のため必死に勉強し、身体を鍛えました。
全国民が国のために死ぬ覚悟の戦前の日本、玄関の鍵を開けていても泥棒の入らなかった戦前の日本の高い道徳。
戦後の日本は、玄関に鍵をかけていても泥棒が入る堕落国家。現在の政治は武士によって行われるのではなく、
士農工商の商、つまり、カネと利権により政治が行われています。日本の政治は、「武士道」により行なわれ
なければなりません。「三島精神」で行わねばなりません。

ドクター中松
三島由紀夫没後40年憂国忌へ寄せるメッセージより

401:無名草子さん
10/12/03 22:59:21 .net
「日本の真姿が変わって、生命尊重のみで魂は死んでいる。」と三島先生は言っておられます。今こそ三島先生の
遺志を継いで良き日本に造り変えましょう。
それには、まず東京から日本を変えましょう。私の家系は徳川幕府の直参旗本で、江戸で、300年、政治の
中枢に居りました。私は、来年4月初頭の東京都知事選に立候補し、三島先生の遺志を実現し、東京を創りかえます。
そのため、東京を民主党の菅政権と一線を画し、占領憲法を廃棄し、尖閣や北方領土の護りを固くし、
「世界最高の修身教育」と「強い男子」の育成、「減税」をして元気溌剌で活気ある愉快な東京にします。
ハーバード大学で「グレート・シンカー」(偉大な賢い人)に選ばれたドクター・中松のみが東京を賢く
指導できると自負しております。
11月25日の『憂国忌』には、米国で「ドクター・中松デー」の制定行事があったため、残念ながら参加でき
ませんでしたが、三島由紀夫の行動哲学に共鳴している皆さまと共に、日本の現状を糾弾してまいりたく存じます。

ドクター中松
三島由紀夫没後40年憂国忌へ寄せるメッセージより

402:無名草子さん
10/12/04 19:21:03 .net
森田同志は、四十一年四月、紛争中の早稲田大学に入学し、(中略)日学同の前身母体「早学連」に馳せ参じてきた。
同年晩秋の「日学同結成大会」以後、万人を魅了してやまなかった彼の性格と、明るい統率力でたちまち指導者になり、
草創期の日学同運動を多くの同志たちとともに担った。
(中略)日学同運動のなつかしい先導的試行期の数々の活動を想いかえしてみると、必ず森田同志のあの
人なつっこい笑顔が私たちの胸中に浮かんでくる。
早大国防部が、当時、毎朝行なっていた早朝トレーニングに、徹夜アルバイトからかけつけて眠い眼をこすりながら
一緒に早大付近を走り、牛乳配達のおじさんや、新聞配達の青年、靴みがきのオジさん、食堂のオバさんなどに
大声で「おはよう」といっていた森田同志。
彼は早大商店街でも人気者だった。事件後直ちに早大正門を陣どって、私たちがつくった仮設の焼香台に噂を
聞いて実に多くの付近の人たちが馳けつけて下さった。

「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より

403:無名草子さん
10/12/04 19:22:01 .net
明るかった森田同志。口舌の徒をにくみ、世の不正にいきどおり祖国の正しい発展のためには命を捨てると淡々と
語っていた彼。あの森田同志が、壮烈な割腹自決を遂げて現世にもはやいないとは、まだ私たちには信じられない
ことである。
四十三年、楯の会第一期生として、故郷から骨折していた足をひきずって、富士学校の体験入隊へ加わった
森田同志は、たちまち三島先生に可愛がられるようになった。
四十三年四月、早大国防部二代目の部長となった彼は、自主憲法、自主防衛による日本の真の独立をよびかける
学生運動を全国的に燃えあがらせよう! と各大学へオルグに出掛け「全日本学生国防会議」の結成に尽力した。
森田同志の努力で、四十三年の一年間に、三島由紀夫先生は三回も、私どもの大きな行事に特別講師として
協力してくださった。(中略)このとき三島氏の協力が得られなかったとしたら、今日の民族派学生運動の興隆はありえなかっただろう。

「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より

404:無名草子さん
10/12/04 19:23:38 .net
四十三年八月、森田同志が団長になった北方領土返還運動の日学同現地闘争団は、ノサップ岬へ赴いた。
「貝殻島」へ上陸して、北方領土返還の捨て石となると死を決していた森田同志。計画は挫折したが、それにも
めげず、同年八月下旬のソ連軍のチェコ侵攻に憤激し、ソ連大使館へのデモを組織した彼。
(中略)当時、読売新聞の論壇時評を担当していた大島康正氏が、森田同志の論文に注目し、高い評価を与えた。
四十四年二月、青山学院、東大での日学同運動を最後に、彼は「楯の会」専従となっていった。(中略)
常に戦後の安易な情況をなげき占領憲法下の日本に憤り、そしてまた六月以後、力を失った左右の学生運動に
力を与えるために「改憲」への先覚として散った森田同志の死は、世俗的名声はともあれ、三島由紀夫先生の死と
まったく等価である。(中略)
憂国烈士三島由紀夫先生、森田必勝同志の御霊よ安かれ

「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より

405:無名草子さん
10/12/05 18:04:49 .net
古式に則り見事で、壮凄な割腹を行なった三島さんの最期はたとえようもないほど立派なものだったが、それよりも
驚嘆すべきは森田必勝さんのはかりしれない気力であろう。三島さんの介錯をした上で自分も切腹したという事実は
まことに大変なことである。成程三島さんへの介錯は見事一太刀という訳にはいかなかったようであるが、(中略)
有名な首斬り浅右衛門のプロの腕をもってしても一太刀で快心に斬れたのは十人中、二、三人と聞いているし、
その日は全身の力がなえて何も出来ずウツウツとして酒をあふるばかりであったとのことである。それが目の前で
三島さんの死を見つめた上で、しかも三島さんの手から短刀をもぎとり自分の腹に突き立てたなぞということは
到底信じられないことであり、どんなに落ちついたしっかり者でも出来得ない芸当である。
なんと驚くべき気力であり、何と恐るべき精神力であろうか。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より

406:無名草子さん
10/12/05 18:05:44 .net
実にあの若さで相当の期間、この日あるを胸に秘めておくびにも出さず、いつもの明るさで友に交り、何の
衒気もなく知人に接し、いささかのたかぶりもなく冷静に常の如く空手の稽古に励んでいたことも特筆に価する。(中略)
(空手稽古で森田さんは)元気一杯に動き廻り、小柄で、やや肥満体、温和な顔に似合わない闘志で拳を挙げ、
足を振り廻した。三島さんは約一年の先輩空手マンとして熱心に道場の床に汗を流し、形(カタ)も二つばかり
修得し油ののってきていたところである。(中略)森田さんはいつもその中心となり寒稽古、暑中稽古もいとわず、
キビしい練習に耐え抜いて一回も休んだことはなかった。武道の相性とでもいうのか、稽古時間外でもよく
三島、森田のコンビで約束組手、乱取に満々たる闘志をもやしてぶっつけあった。まるでお互い敵同士のように。
突は三島さんの方が鋭いものをもって居り、蹴は若い森田さんのもので柔軟な足を軽くとばして三島さんの胸部によく極めていた。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より

407:無名草子さん
10/12/05 18:08:12 .net
森田さんの空手は考える、慎重な実技であり、無心に激しく肉体をぶつける荒稽古の三島空手とは対照的で
なかなか面白い。森田さん始め若手の進境目ざましく三島先輩を凌駕せんばかりの勢いに三島隊長を大いに
あわてさせた。
激しくキビしい練習と非常に礼儀正しい、節度ある立派な態度、三島さんと楯の会の若獅子との練習後のむつまじさ、
この楯の会の稽古は私にとっても大変楽しい、思い出の多いものであり、何日までも美しく心の奥底に残るものである。
森田さんはよく紺ガスリの着物に黒の剣道袴、人生劇場に出てくる早大生よろしく稽古に通って来た。私は彼とは
個人的なつき合いはなかったが空手の練習を通じて感じられるのは、天衣無縫の開けっぴろげで底ぬけに明るく、
朴トツで少し野暮天だが、特有の人なつこさでいつも笑顔をたやさず、なかなかの社交家でもあった。ちょっぴり
無口で孤独でさびしがりやであるが、活発で行動的で烈々たる闘志の持ち主であった。また温和な風貌だが
男らしくて意志も強かった。が何より非常に誠実な人柄であり、気力、精神力抜群の誇り高い日本男児であった。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より

408:無名草子さん
10/12/05 18:09:42 .net
(中略)彼を識らないマスコミ、青白い文士連から聞くに堪えない侮辱的な批判、言辞が勝手気儘な推測だけで
弄されている(中略)
この行動に出るためには―このことが楯の会としてふさわしいものであったか否かは別として―三島さんと
討議を重ね、幾多の迂余曲折を経たあとの結論と思われる。また世論、三島さんの文士としての余りにも高名な
ところから、森田さんの死が何か刺身のツマのように片隅に押しやられているのはたとえようもなく残念である。
成程、森田さんは日頃、心から三島さんに私淑していたことは間違いないが、だからといって単に三島さんへの
同情的道連れとか殉死とか判断するのは早計である。男児一度やらなければならないと決断し、若い世代の
代表としてまた楯の会の尖兵として三島さんとともに起ち、吾れのなさんとして決めたことを敢然と行なった
ものだと確信する。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より

409:無名草子さん
10/12/06 11:31:39 .net
彼(川端康成)は、確かにこの受賞に値した。それでも今もって私は、どういうわけでスウェーデン・アカデミーが
三島でなく川端に賞を与えたのか不思議でしようがない。
1970年5月、私はコペンハーゲンの友人の家に夕食に招待された。同席した客の一人は、私が1957年の
国際ペンクラブ大会の時に東京で会った人物だった。日本で数週間を過ごしたお陰で、どうやら彼は日本文学の
権威として名声を得たようだった。ノーベル賞委員会は、選考の際に彼の意見を求めた。その時のことを思い出して、
居合わせた客たちに彼はこう言ったのだった。「私が、川端に賞を取らせたのだ」と。

ドナルド・キーン「私と20世紀のクロニクル」より

410:無名草子さん
10/12/06 11:33:19 .net
この人物は政治的に極めて保守的な見解の持主で、三島は比較的若いため過激派に違いないと判断した。
そこで彼は三島の受賞に強く反対し、川端を強く推した結果、委員会を承服させたというのだ。本当に、
そんなことがあったのだろうか。三島が左翼の過激派と思われたせいで賞を逸したなんて、あまりにも馬鹿げている。
私は、そのことを三島に話さずにはいられなかった。三島は、笑わなかった。

ドナルド・キーン「私と20世紀のクロニクル」より

411:無名草子さん
10/12/06 11:34:22 .net
(中略)
東京に着いたのは1月24日の三島の葬式の直前で、私は弔辞を述べることを引き受けた。
ところが、私の親しい友人三人は葬式に出席してはいけないと言う。私が弔辞を述べることで、三島の右翼思想を
擁護しているように取られてはまずいと言うのだった。最終的に彼らの説得に応じたが、それ以来私は、
自分がもっと勇気を示さなかったことを何度も後悔した。
私は三島夫人を訪問した。三島の写真がある祭壇に、私は彼に捧げた自分の翻訳『仮名手本忠臣蔵』を置いた。
その本には、下田で会った時に三島自身がこの浄瑠璃から選んだ次の一節が題辞として揚げられていた。

国治まつてよき武士の忠も武勇も隠るるに
たとへば星の昼見へず、夜は乱れて顕はるる

ドナルド・キーン「私と20世紀のクロニクル」より

412:無名草子さん
10/12/06 11:37:57 .net
本当の天才とは、簡単には説明することのできない能力の持ち主のことだ。
シェイクスピアは天才だった。モーツァルトも、レオナルド・ダヴィンチも、紫式部も天才だった。
私がこれまでに出会ったすべての人々のなかで、「この人は天才だ」と思った人は二人しかいない。
一人は中国文学および日本文学の偉大な翻訳家であったアーサー・ウェイリーである。(中略)
そして、私の出会ったもう一人の天才が三島由紀夫である。

ドナルド・キーン「二つの祖国に生きて」より

413:無名草子さん
10/12/06 11:39:57 .net
あの時(ノーベル賞を)受賞したのが川端であり、三島由紀夫でなかったのは、何かの行き違いだったかもしれない。
すなわち、国連事務総長だったダグ・ハマーショルドが1961年に亡くなる直前、三島の「金閣寺」を読み、
ノーベル賞委員会のある委員に宛てた手紙で大絶賛したのである。
こういった筋からの推薦は小さくない影響力を持っていた。
また1967年のこと、出版社の国際的な集会がチェニスで開かれ、私はその集いが授与する文学賞、
フォルメントール賞を三島にと試みたが失敗に終わった。この時、スウェーデンから参加した有力出版社ボニエールの
重役が私を慰め、三島はずっと重要な賞をまもなく受けるだろう、と言ったのだ。ノーベル賞以外にはあり得なかった。

ドナルド・キーン「思い出の作家たち」より

414:無名草子さん
10/12/06 11:42:12 .net
三島の天皇崇拝は、彼の存命中ずっと在位していた天皇、裕仁に向けられたものではない。
短編「英霊の声」では、二・二六事件の首謀者と昭和二十年の神風特攻隊員の霊が、自分は神ではないと宣言して
彼らを裏切った天皇を激しく責める。天皇の名の下に死んだ者たちは、天皇が普通の人間と同じ弱さを持った
人間であることを知っていたが、天皇という資格(キャパシティ)にあって、天皇は神であると確信していた。
もし、天皇が二・二六事件に関わった青年将校を支持し、なかんずく、彼らに自裁を命じたのだとしたら、
その行為は、老いて堕落した政治家に囲まれた単なる統治者ではなく、神としてのふるまいだったであろうに。
しかし、神風特攻隊員が天皇を叫びつつ喜びに満たされて死んだ、それからわずか一年も経たずに、自分は
神ではないと宣言した時、天皇は彼らの犠牲を哀れで無意味なものにしたのだ。

ドナルド・キーン「思い出の作家たち」より

415:無名草子さん
10/12/06 11:46:24 .net
三島は、天皇無謬説を唱えたことがある。無論これは天皇の人間としての能力をさした説ではない。
より正確に言えば、天皇は神の資格において、人間の姿をした日本の伝統そのものなのであり、日本民族の
経験が保管された唯一無二の宝庫である。天皇を守ることは、三島にとって、日本そのものを守ることだった。
このような政治観を日本の右翼と同一視するのは誤りであろう。
彼は確信していた。日本の景観を無慈悲に切り刻んで顧みない貪欲と、それが舶来だからというだけで事物や習慣を
表面的に受用する西洋化、この二重の脅威から日本文化の崩壊を救えるのは若者の純粋さ、すなわち信念のためには
死を辞さぬ若者の覚悟だけだと。

ドナルド・キーン「思い出の作家たち」より

416:無名草子さん
10/12/09 11:54:31 .net
亀はしあわせをよぶという。
私の手許に、甲羅に彫りの入った八ミリほどの小さな金の亀のペンダントトップがある。これは私が十代の頃、
三島さんに頂いたもの。
戦後間もなく、現在のように海外渡航が自由でなかった頃、三島さんはいち早く外国に足を運ばれた。
この亀はその時のおみやげである。
…私のアクセサリー箱の中では一番の古株、出番も多く、いわばお守りのような存在だ。
私が三島さんにお目にかかるのは、いつも我が家が「鉢の木会」のお当番の時だった。
…今では、大岡昇平、中村光夫、吉田健一、福田恆存、三島由紀夫の各氏、それに私の父の神西清はみな故人となった。
三島さんは会の中では一番若く、そのせいか口うるさい面々の恰好の揶揄の対象になることもしばしばで、
その場合三島さんの逃げ道は二つ。
まずはあの豪快な笑いで、からみつく蜘蛛の糸を振り払い、次の手はゴロッと横になって高鼾をきめこむ。

神西敦子「三島夫妻と二つの亀」より

417:無名草子さん
10/12/09 11:55:21 .net
元々が個性の強い人たちの集まりである。お酒の飲みっぷりも各人各様で、見飽きることがなかった。
酒宴が進むほどに、笑い声も賑やかになるのだが、三島さんのそれはいつも大きく際立っていた。
一人一人の顔にそれぞれの特徴ある笑い声が重なり、懐かしく往時を思い出す。
連歌を楽しみ、時にはお互いの仕事に対する鋭い批判も交錯し、この上なく濃密な時だった。
父の死後、「鉢の木会」が二階堂の家でひらかれたことがある。
三島さんは新婚間もなくで、座は瑤子夫人のお目出度の話題で盛り上がっていた。襖越しに耳にした
「医者に診てもらえと云ったんだ」という、三島さんのひときわ高い誇らしげな声は忘れることができない。
その時お顔は見なかったが、きっとあの大きな目が特別輝いていたことだろう。

神西敦子「三島夫妻と二つの亀」より

418:無名草子さん
10/12/09 12:04:05 .net
たった一度だけ、三島さんと銀座を歩いたことがあった。
私の大学卒業に際し、「鉢の木会」が腕時計をくださるということで、和光に出向いた。三島さんはいつもどおりの
笑いを振りまき、もとより知られた顔だから、集まる人々の視線が眩しく、とても気恥ずかしかった。
三島さんは、大変几帳面で礼儀正しく、細やかな心遣いをされる方だった。
父の生前は父に、亡くなってからは母に、筆、あるいは万年筆で署名された三島さんの著書が律義に届けられた。
なかには、「神西清様」と記された名刺がはさんであるものも何冊かある。書体は均整がとれていて美しい。
…装幀も凝ったものが多い。
…代表作「金閣寺」の限定版は、年数のたった今も、手にとるとふんだんに使われている金箔が指につくほど豪華で、
本箱のたくさんの三島本の中でも王将格である。奥付には、本書は二百部を限定刊行す、その内二十部は
無番号著者家蔵本、本書はそのNo.、とあってナンバーはついていない。
これをみても三島さんが、いかに父に礼を尽くして下さっていたかがわかる。

神西敦子「三島夫妻と二つの亀」より

419:無名草子さん
10/12/09 12:05:58 .net
季節毎の心遣いも、瑤子夫人が亡くなるまで途切れることなく続いた。稀有なことである。
瑤子夫人死去の報は、ご病気を知らなかったこともあり、私を大そう驚かせた。
夫人の通夜の晩はむし暑く、三島邸前の道路は別れの時を待つ人で埋めつくされ、月も動きをとめ、大気は重く
悲しみに沈んでいた。天空にあった細い月は夫人の魂をいざなうかのように、やがて視界から消えていった。
日ならずして、夫人を偲ぶ品が届けられた。
小箱の中には、甲羅が緑色、足が紫色の石の、美しい大きい亀のブローチ。
偶然とはいえ、この不思議な巡り合わせに私はしばし言葉もなかった。
金の亀と緑の亀。二つめの亀の出現で、三島夫妻は私の中で一つの像となった。

神西敦子「三島夫妻と二つの亀」より

420:無名草子さん
10/12/12 17:40:33 .net
私が松濤二丁目のこの商家に嫁いだのは昭和二十二年の春のことです。当時は、近隣一帯は空襲で一面焼け野原に
なったままでした。
…私は二十三年に長女を産み、その子を連れてよくご近所を散歩したものです。その折、始終三島さんの家
(「平岡」という表札でした)の前を通りました。(略)…洋館のほうの二階の窓によく三島さんをお見かけ
しました。夕方になると電気スタンドが点っていて、その光の中で白いシャツを着た三島さん(白がとても
お好きだったようです)がいつも何か書きものをなさっていました。
人に聞くと「あの人はいまに小説家になる偉い方だ」という話でしたが、当時は私は三島由紀夫という名前は
知りませんでした。
東大に行っている時分に小説を書いて一躍有名になった人ということで、とにかくいつ行ってみても、机に座って
仕事をしておられたのが印象深いのです。

原義穂「渋谷大山町の頃の三島さん」より

421:無名草子さん
10/12/12 17:41:46 .net
私の家はタバコを商っていましたので、お父さまも三島さんもよくタバコを買いに見えました。(中略)
息子さんの三島さんはよく「光」をお求めになりました。
もっともあの頃はまだ銘柄も少なかったうえに極端な品薄で選り好みなどできませんから、「光」がなければ
何でもお買いになりましたが。
どこかにお出かけになる前に立ち寄り、買ってすぐ一本抜き取ってお吸いになるというのが、あの方の習慣でした。
タバコを受け取るその手が細くて華奢だったのをよく覚えています。
それにしても三島さんはおしゃれでした。戦後間もなくの頃ですから、おしゃれをしている人などあまり
見かけることはなかったのですが、三島さんはいつもピシッと決めていて一分の隙もなく、大山町あたりでさえ
すごく目立ちました。

原義穂「渋谷大山町の頃の三島さん」より


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