【割腹自殺】●●三島由紀夫3●●【肉体改造】at BOOKS
【割腹自殺】●●三島由紀夫3●●【肉体改造】 - 暇つぶし2ch2:無名草子さん
10/09/22 10:23:05 .net
 平野啓一郎氏が三島を語る
  学習院大学公開講座、10月9日(土曜)
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 没後四十年、作家の平野啓一郎氏が三島を語る催しがある。
 これは活字文化講座の公開講座。
 平野氏の演題は「ニヒリズムと否定性」
 ひきつづき学習院大学文学部の中条省平教授と平野氏とが「三島と学習院」に関して語り合う。参加無料。

 とき     10月9日(土曜) 午後一時半 ~ 三時半
 ところ    学習院大学 目白キャンパス
 応募方法は(あ)葉書、か(い)ファックス(3217)4309
 (1)学習院公開講座係(2)郵便番号(3)住所(4)氏名、年齢(5)職業(6)電話番号を明記して送る
  葉書の場合は
 100-8055 千代田区大手町 読売新聞 活字文化推進会議事務局
  メールの場合は
  katsuji@yomiuri.com
  で上記と同じものを記載する。
  締め切り 9月24日(金曜)必着
  定員 300名(多数の場合は抽選)。
以上

3:無名草子さん
10/09/22 10:24:39 .net
松本徹先生『三島由紀夫を読み解く』がNHKテキストに
  ラジオ第二放送で7月から9月放送のテキストです
****************************************

 NHKカルチャーラジオ『文学の世界』は、七月から九月が松本徹(文藝評論家、三島文学館館長、憂国忌発起人)が語りおろす「三島由紀夫を読み解く」である。
 放送日は七月から九月
 木曜日 午後八時半から九時
 再放送は
 金曜日 午前1015-1045

 なお写真十数葉を配した、松本先生執筆のテキストはNHKから出版されており、書店で買い求めることができる。
 NHKカルチャーラジオ 松本徹 『三島由紀夫を読み解く』(857円)

4:無名草子さん
10/09/22 23:41:11 .net
三島由紀夫こそは、戦後最高の批評家である。なんについてであれ、その本質を、たったのひとことで
ズバリと言ってのけることのできる天性の批評家は、一世紀のスパンで見ても、そうそう現れるものではない。
今でも、なにか、素晴らしい文学作品に出会うたびに、三島由紀夫なら、これをなんと言っただろうと
思うことしきりである。

鹿島茂「『三島由紀夫のフランス文学講座』あとがき」より

5:無名草子さん
10/09/22 23:46:02 .net
わたしの考えでは、一九六六年に書かれた「英霊の声」は、日本の戦後にとってたぶんもっとも重要な作品の
一つである。
この作品には、作者の分身と目される語り手「私」とやはり作者の分身である霊媒の盲目の美少年が登場し、
帰神(かむがかり)の会で後者の語る死者の声を前者が聞くが、霊媒者となり、二・二六事件と特攻隊の死者の声を
口寄せする青年は、降霊が終わると落命する。見るとその顔はすっかり面変わりしている。
後に明らかにされる三島自身の証言では、青年は死んで昭和天皇の顔になるのである。この作品で三島が言うのは、
自分のために死んでくれと臣下を戦場に送っておきながら、その後、自分は神ではないというのは、(逆説的ながら)
「人間として」倫理にもとることで、昭和天皇は、断じて糾弾されるべきだということ、しかし、その糾弾の主体は、
もはやどこにもいないということである。
戦争の死者を裏切ったまま、戦前とは宗旨替えした世界に身を置き、
そこで生活を営んでいる点、彼も同罪である。糾弾者自身の死とひきかえにしかその糾弾はなされない。
そういう直感が、この作品の終わりをこのようなものにしてゐる。

加藤典洋「その世界普遍性」より

6:無名草子さん
10/09/22 23:47:10 .net
ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間がいてくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。
わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の
戦後の意味は、大違いである。
その考え方には、誰もが、もしどのような先入観からも自由なら、こう考えるだろうというような普遍的な
みちすじが示されている。
三島は、日本の戦後のローカルな論理、いわばその「内面」に染まらず、普遍的な人間の考え方を示すことで、
はじめて日本の戦後の言語空間がいかに背理にみちたものであるかを、告知している。
これは、旧ドイツにおけるアンセルム・キーファーなどとほぼ比較可能なあり方であり、もし三島がいなければ、
日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった。

加藤典洋「その世界普遍性」より

7:無名草子さん
10/09/22 23:48:05 .net
たしかに彼の作品は、化粧タイルのような人工的な文体を駆使して書かれている。…でも、そのことが、
三島の小説を世界の文脈で見た場合の、「世界の戦後」性にたえる制作物にしている。(中略)
三島は戦前、レイモン・ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」に夢中になる。でもそのラディゲの作がすでに
第一次世界大戦の戦後文学だった。そのもっとも深い理解者は、あのジャン・コクトーである。
その心理小説に心理がなく心理の剥製があること、しかしそのことこそがその第一次世界大戦の戦後文学で
めざされていること、そしてそのようなものとして、それが三島の戦前と戦後の指標たり続けること。
つまり、人工性はここでは、世界性、現代性の明らかな指標なのである。
「世界の戦後」とは第一次世界大戦の戦後のことであり、「日本の戦後」とは第二次世界大戦の戦後のことである。
この二つは同じではない。簡単に言うなら、前者の戦後で、人と世界は壊れ、後者の戦後で、人と世界は
自分を修復している。

加藤典洋「その世界普遍性」より

8:無名草子さん
10/09/22 23:49:29 .net
サルトルの「嘔吐」は第一次世界大戦の戦後文学であって、そこで彼は人が壊れたこと、そこからの回復には
アヴァンチュール(芸術と犯罪)による特権的瞬間しかないことを述べている。
しかしその彼が、第二次世界大戦の戦後になると、アンガジュマンによる人間の回復を唱える。
三島は、戦前のサルトルに似ている。わたし達は、ここでは、そこに二つの戦後の重層(ズレ)があることに
自覚的であるべき、「遅れてきた青年」なのである。
〈ラディゲから影響を受けてゐた時代はほとんど終戦後まで続いてゐた。さうして戦争がすんで、日本にも
ラディゲの味はつたやうな無秩序が来たといふ思ひは、私をますますラディゲの熱狂的な崇拝者にさせた。
事実、今になつて考へると、日本の今次大戦後の無秩序状態は、ヨーロッパにおける第二次大戦後の無秩序状態
よりも第一次大戦後の無秩序状態に似てゐたと思はれる。(「わが魅せられたるもの」一九五六年)〉
こういう洞察がなぜ当時、三島にだけ可能だったか。
そういうことをわたしとしてはいま、改めて、考えてみたいと思っている。

加藤典洋「その世界普遍性」より

9:無名草子さん
10/09/23 10:21:01 .net
「BL作品の氾濫は少子化の原因。児童ポルノとは別枠で小説も含めた厳しい規制が必要」
「ゲーム脳」の提唱者・森昭雄日大教授の新著「ボーイズラブ亡国論」(産経新聞社刊)
スレリンク(news2板)

10:無名草子さん
10/09/23 23:42:12 .net
「三島由紀夫」をきわめて高く評価している。
その理由は拙著『戦後的思考』(1999年)に記した通りで、規定の枚数ではちょっと書けない。
できれば読んでいただきたいが、彼こそが、昭和天皇と戦争の死者の間の「約束違反」と、またそれと自分の関係に
目を向けた、そしてモラルということの初原の感覚を失わなかった、例外的な戦後日本人だったからである。
三島は、戦後の小説家のうち、もっとも「戦後的」な作家だったといってよい。
戦後の天皇制から、一個人として、もっとも外に出ていた。
三島一人がいたお陰で、日本の戦後は道義的に、大いなる茶番の時代となることからかろうじて免れた、
といえるのではないかと思っている。

加藤典洋「アンケート 三島由紀夫と私」より

11:無名草子さん
10/09/23 23:42:34 .net
三島戯曲の中にはすごい作品がある。とくに『サド侯爵夫人』は、その完璧なまでに空虚な構造、噴飯物寸前の
みごとな台詞修辞法によって、二十世紀の世界劇文学を代表するに足る一作である。

井上ひさし「アンケート 三島由紀夫と私」より


三島由紀夫を小説の天才とすれば、批評・評論は超天才ですね。
「現代小説は古典たり得るか」でも「小説家の休暇」でもいいのですが、眠気が去り、頭がすっきりするほど面白い。
新潮社の一冊本の「評論全集」は、かつて愛読したものです。

…ぼくは「鍵のかかる部屋」という中篇を(仮りですが)ベストワンにしておきます。(略)…就職活動しながら
愛読しました。当時は、気味の悪い、いやな小説だと思いましたが、今読みかえすと、傑作ですね。

小林信彦「アンケート 三島由紀夫と私」より

12:無名草子さん
10/09/23 23:42:52 .net
好きです。僕を見て「君はピーターパンみたいだね」と言ってくれたから。
鮨屋で「何でも好きなものをお食べ」と、ずいぶんご馳走になりました。亡くなる四日前のことでした…。

…『仮面の告白』。タイトルの素晴らしさに惹かれて手にとった本でした。
小説の中に自分自身を見つけたように何度も読み返したのを覚えています。

金子國義「アンケート 三島由紀夫と私」より


今後二十一世紀にかけて、三島由紀夫という作家や作品の世界も、あの市ヶ谷の事件も忘れられることはないだろう。
さまざまな擬態とさえ見える行動と表現のなかに、逆説的に実相を照らし出している。

人間天皇への否定的な思想には同感できないが、以後今日まで、それに代る Idealな源泉の喪失が、日本社会の
物の氾濫と技術革新の陰で、深い内的荒廃をもたらしていることは確かだろう。
それは三島由紀夫が予感した様相といえる。

田久保英夫「アンケート 三島由紀夫と私」より

13:無名草子さん
10/09/23 23:43:10 .net
はっきりと嫌いだと感じられるほどの強い個性、直線的なうつくしさや、共感するしないは別に、明快な志を
抱いていること自体に逆に惹かれるところもあって、ときどき読みたくなります。

鈴木清剛「アンケート 三島由紀夫と私」より


ひたすら明治百年の日本、そして日本語が解体していく三十年間だった、そして現在はその最終段階にある、と思う。
遠からず三島文芸は古典という名の異文化として読まれるだろう。いや、すでに読まれているか。

(三島作品のベストワンは)『豊饒の海』とくに最終巻「天人五衰」。
もしそれを破綻というなら、明治百年の日本の破綻を先取りし、予告している、と考えるべきだろう。

高橋睦郎「アンケート 三島由紀夫と私」より

14:無名草子さん
10/09/23 23:43:35 .net
好き嫌いの次元ではありません。無視することのできない存在です。
人はこの人の作品によって、リトマス試験紙のように試されるのだと思います。素直になるべきでしょう。

Q:三島作品のベストワンは?

…「仲間」です。モーツァルトはグレゴリウス聖歌たった一曲と自分の全集を交換してもよい、と断言しました。
三島由紀夫の全生涯の文業と、このわずか十数枚足らずの短編についても同じことが言えると考えます。
三島が嫌悪した太宰治に「駆込み訴へ」、氏が愛した坂口安吾に「桜の森の満開の下」があるように、
「仲間」は白鳥の歌です。ワイルドの「幸福な王子」に匹敵する傑作です。

森内俊雄「アンケート 三島由紀夫と私」より

15:無名草子さん
10/09/25 11:24:01 .net
三島由紀夫は好きだ。私は三島作品で最高傑作は「憂国」だと思っている。
改めて読み直して、美への強い憧憬に圧倒された。「憂国」は二・二六事件で新婚のため親友達から蹶起に
誘われなかった青年将校が、自分の美を守るために妻と心中といってよい自決をする話である。
今また読み、かつては気にならなかったところに、改めて目がとまった。
「この世はすべて厳粛な神威に守られ、しかもすみずみまで身も慄えるような快楽に溢れていた。」
新婚生活をこのように書くところに、三島由紀夫という作家の才能を感じる。
「厳粛な神威」と「身も慄えるような快楽」がはからずも三島由紀夫の才能をあらわしているのだが、彼の自死の
後の三十年はこの二つを社会から失ってきた歳月ではなかったろうか。もちろん彼が作家生活をしていた時期も
美の喪失過程はつづいていったのであり、喪失の流れを受容できなかったための自決であったのだ。

立松和平「アンケート 三島由紀夫と私」より

16:無名草子さん
10/09/25 11:24:17 .net
「憂国」を読むかぎり「厳粛な神威」とは国家神道にもとづく天皇制のことだが、視点をそこで止めてしまったのでは、
三島由紀夫はとうてい理解できないのである。それは山川草木に宿る歴史性のことで、生き生きとした
森羅万象のなかに「身も慄えるような快楽」が宿るのだ。皇軍の将校が妻をも巻き込んで自決する一夜の物語を
何度も読み、今でも戦慄を覚えるのは、国家の中心にある美やエロスや生命といったものが描かれているからだ。
そして、そのことこそが、三島由紀夫自決後三十年で急速に失ってきたものなのである。(中略)
美、エロス、生命の対極にあるのが、経済という物資活動であろう。美やエロスを捨て、生命を圧殺してきたからこそ、
日本は経済活動で成功したのだ。結局、三島由紀夫は時期を機敏にとらえてこの時代から去っていったのだ。

立松和平「アンケート 三島由紀夫と私」より

17:無名草子さん
10/09/27 12:19:54 .net
私にとって(文学と人生双方にとって)大事なのは「文」「武」もさることながら、「作」と「商」だった。
「作」と「商」なしには、人間は生きて行けない。
ことに古来日本の「商」の中心としてあって来た大阪生まれ、育ちの私にとって重要なのは「商」だ。
私と三島との次元のちがいは、ここにおいても明瞭だろう。
しかし、今、「商」はわが日本においてあまりにはびこりすぎている。
かつて、「文」「武」において大いに三島と共感したかつての若き過激派の学生たちも今やそのはびこりの中心にいて、
したい放題のことをしているように見える。
「文」においても、今や「商」あっての「文」。私は三島の「文」「武」に賭けた純情をなつかしく思う。

小田実「アンケート 三島由紀夫と私」より

18:無名草子さん
10/09/27 12:20:11 .net
私は作家として三島由紀夫とは何んの接点もなかった。そう言っていいにちがいない。彼がすぐれた文学者で
あったことは私にも判っている。なみなみならぬ、ケンランたる才能の持ち主であったことも心得ている。
たとえば、「自決」前年の「蘭陵王」―ああいう作品はなかなか書けるものではない。しかし、人間には
好みというものがある。文学の好みにおいて、私は彼と接点がなかった、そう言えばいいだろう。(中略)
とにかく好みというものがある。私には読んでいるとお尻の下がむずがゆくなって読み通せない作家がある。
いい作家かも知れないが、それを重々判っていても、駄目だ。三島由紀夫にはそんなことはなかった。けっこう読めた。

小田実「三島由紀夫との接点」より

19:無名草子さん
10/09/27 12:20:27 .net
思想家としての接点はどうか。
(中略)考えてみると、彼はあのころ大学の時計塔にたてこもった「過激派」の学生にいたく共感し、学生は学生で、
彼が「自決」したとき、われわれは負けたと言ったものだ。
…そこでも私が彼と接点がなかったことは、彼の「自決」後、ある雑誌のインタビューで、私は彼の死について
しゃべった―そのインタビュー記事の題名は、「私は畳の上で死にたい」。それがすべてを言いあらわしている。

小田実「三島由紀夫との接点」より

20:無名草子さん
10/09/27 12:20:41 .net
しかし、接点がひとつあった。確実にあったと思う。私はそのころベトナム反戦運動に精を出していた。(中略)
私はこの「ただの市民」の運動を自分で考えてやり出し、自分でそれなりに力も時間も金も出してやった。
そして、小説もとにかく書いていた。
三島も「楯の会」で同じことをしていた。彼は「楯の会」を自分で考えてやり出し、力と時間と金も出し、
小説も書きながらやっていた。それが二人の接点だった。そのころも私はそう思っていたし、今も思っている。
ついでにもうひとつ言っておけば、そうした意味での接点を私が感じとったのは、あとにも先にも、彼ひとりだ。

小田実「三島由紀夫との接点」より

21:無名草子さん
10/09/27 22:11:44 .net
三島師は現在の日本国をどういう思いで見てるんだろうな…

22:無名草子さん
10/09/27 23:39:48 .net
政治家が素人すぎてビックリするかもね。

23:無名草子さん
10/09/28 12:23:59 .net
あーあ、今回の独立宣言を作るという話は、どうも企画倒れに終わりそうだな。そう思いながら、新潮学芸賞を
受賞した徳岡孝夫さんの「五衰の人―三島由紀夫私記」を読んでいたら、なんと、びったりの文章が出てきた。
四半世紀も前、三島由紀夫が自決したときの「檄」の一部にこういうところがある。
「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして
末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、
自己の保身、権力欲、偽善にのみささがられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただ
ごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを歯噛みしながら見てゐなければならなかつた。」
まさに、今の日本そのものじゃないか。まずこの一文を、日本の独立宣言文の冒頭に掲げるところから
始めようかと思ったよ。

ビートたけし「憲法爆破」より

24:無名草子さん
10/09/28 23:53:01 .net
三島由紀夫の仏教理解が、いかに徹底したものか。
三島は決して、そこらへんの日本人がやりたがるように、『般若心経』の解説なんぞはしない。宗教音痴の
日本人に仏教の神髄を理解せしむるために、『ミリンダ王の問い』を(「暁の寺」で)引用し解説する。
これのみにて三島の仏教理解の深さ、はるかに日本人を超えていると評せずんばなるまい。(中略)
阿頼耶識も、実体として存在するのではなく、つねに変化のなかにある。刹那に生じ刹那に滅する。
実体として存在するものは何もない。「万物流転」である。
このありさまを、(略)…三島由紀夫は、(「天人五衰」で)海の波で表現している。
…仏教における因縁のダイナミズムを、これほど見事に表現した文章をほかに知らない。
唯識論の視点から見るならば、阿頼耶識は水、その他の識を波、縁を風だとすればよいであろう。

小室直樹「三島由紀夫と天皇」より

25:無名草子さん
10/09/28 23:53:20 .net
唯識論入門として、(「暁の寺」は)これほど簡にして要を得たものを知らない。
難解なことで有名な仏教哲学の最高峰が、われわれの足下に横たわっているのだ。
仏教を研究しようとする学徒のあいだでは、よく、倶舎三年、唯識八年、といわれる。『倶舎論』を理解するのには
三年かかり、唯識論を理解するのには八年はたっぷりかかるというのだ。それが僅か三島由紀夫の作品では
十二頁にまとめられている。エッセンスはここにつきている。くりかえし精読する価値は十分にある。

小室直樹「三島由紀夫と天皇」より

26:無名草子さん
10/09/28 23:53:37 .net
「五十になったら、定家を書こうと思います」三島由紀夫は、友人の坊城俊民氏にそう言った。
「…定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから神になったのです」
神になった定家。それは三島由紀夫にほかならない。(中略)
三島由紀夫は「定家はみずから神になったのです」と話している。
これは何を暗示しているのだろうか。
仮面劇の能だが、仮面をつけるのがシテ(主役)である。シテは、神もしくは亡霊である。
亡霊をシテにして、いわば恋を回想させる夢幻能は、能の理想だといわれる。死から、生をみるのである。
時間や空間を超えたものだ。
三島由紀夫が、定家を書こうと考えたとき、やはり能の「定家」が頭にあったに違いない。

小室直樹「三島由紀夫と天皇」より

27:無名草子さん
10/09/28 23:53:52 .net
現代では、生の世界と死の世界は、隔絶したものにとらえられている。だが、かつて(中世)は、死者は
生の世界にも立ち入っていた。
定家は神になって、生の世界に立ち入ろうとした。そう考えた三島由紀夫ではないだろうか。
生の世界にあっては成就できない事柄を、死の世界に往くことによって可能たらしめようとしたのが、三島由紀夫だった。
…死の世界で「生きる」三島なのだ。
(中略)あえて死の世界へ往き、守ろうとした存在があったのだ。

小室直樹「三島由紀夫と天皇」より

28:無名草子さん
10/09/28 23:54:09 .net
(中略)近代西欧文明がもたらした物質万能への傾倒が、いまや極点に達していることは言うまでもない。
人間としての存在が、どうあらねばならないのか。それを問う時はきている。
三島由紀夫は、究極のところ、そのことを人々に問いかけたのだ。
作品によって問いつづけ、さらには自決によって問うた。いや、問うたというよりも、死の世界に生きることを選び、
この世への「見返し」を選んだ。
五年後、十年後、いや百年後のことかもしれない。だか、そのとき三島由紀夫は、復活などというアイマイな
ものでなく、さらに確実な形……存在として、この世に生きるであろう。

小室直樹「三島由紀夫と天皇」より

29:無名草子さん
10/09/30 00:24:34 .net
三島さんのこと少し判ってきたことがある。
(中略)イランとか、近東イスラム教の国家っていうのは、祭政一致でしょ。
あの振舞いは西欧からは不可解なはずなんです。でも、ぼくは戦争中の天皇というものを見ていると非常によく判る。
あれで類推すれば、もの凄くよく判る面があります。アジア的な部分で、ラマ教とか、イスラムとか、
生き神さまを作っといて、それを置いとくわけですね。
(中略)三島さんは、多分、ぼくの考えですけれども、インドへ行って、インドにおけるイスラム教の
あり方みたいなものを見て、仏教も混こうしているわけでしょう。そこの所で、天皇というものを国際的観点から
再評価したと思います。
それがぼくは三島さんの自殺当時判らなかったのです。
(中略)三島さんが国際的な視野を持ってきて、インドとか近東とかそういう所の祭政一致的考え方、それだと
思うんです。それ以外に日本なんて意味ないよと考えたとぼくは思うんです。

吉本隆明
小川徹との対談、雑誌「映画芸術」より

30:無名草子さん
10/09/30 00:25:07 .net
猪瀬直樹「三島由紀夫は、七十年に自衛隊のバルコニーに立って演説するわけです。
あの演説のとき、自衛隊員に罵倒されたでしょう。あれ、吉本さん、どうご覧になってました?」

吉本隆明「なんてやろうだ!と思ってました。死ぬ気でいる人間の言葉を、自衛隊に入隊して
一緒に訓練した人間の言うことを、黙って聞いてやることぐらいしたらいいじゃないか。
これじゃ、三島さんが気の毒だ…、というのがホンネでしたね。」

1994年12月2日号「週刊ポスト」より

31:無名草子さん
10/09/30 00:27:30 .net
三島は死ぬこと、さらに言えば意志的に死ぬことを欲した。
そのために彼の自己意識は何世紀もの意識を映し出すよう努め、彼の特異性は、もはや存在しないというあの
純粋な決断と一体となることで、より広い時間のなかに解体しようとした。
一つの生が完了をとげ、それと同時に、その生を結実させた一つの歴史を終了させた。
あの落日の短かく血まみれの光輝のなかに、自死の日本的伝統が要約され消滅したのだ。

モーリス・パンゲ「自死の日本史」より

32:無名草子さん
10/09/30 18:24:42 .net
生きていて欲しかった。冷たくも熱い目で老いを見つめて欲しかった。

33:無名草子さん
10/09/30 23:11:40 .net
三島事件の直後、新聞記者たちの質問は、三島の行動が日本の軍国主義復活と関係あるか、ということだったが、
私の反応は、ほとんど直感的に「ノー」と答えることだった。
たぶん、いつの日か、国が平和とか、国民総生産とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい
国家意識の守護神と目されるだろう。
いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、
それを成し遂げたことを知ることができる。

エドワード・サイデンステッカー「時事評論」より

34:無名草子さん
10/09/30 23:12:02 .net
三島は高度の知性に恵まれていた。
その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか。
…かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレキサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、
イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。
人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきた…(略)大衆を丸太みたいにあちこちへ
転がしたり、将棋の駒みたいに動かしたり、鞭を当てて激しく興奮させたり、簡単に(特に正義の名を持ち出せば)
殺戮に駆りたてることはできる。しかし、彼らを目ざめさせることはできない。

ヘンリー・ミラー
週刊ポストへの特別寄稿より

35:無名草子さん
10/09/30 23:14:34 .net
あの市ヶ谷での事件は、政治的なニヒリズムにもとづくパフォーマンスでも、非現実的なクーデタでもない。
三島は大塩平八郎と同様に、それが必ず失敗する事は識っていただろう。にもかかわらずそれを試みることは、
自滅ではなく、そのような大義を信じるものが日本に一人はいるということを示すための言挙げであり、
その言葉が、必ず、たとえば後世に対してであっても、聞く耳を持った者に伝わるという確信の表明だ。
故にそれはニヒリズムに似ており、ニヒリズムに発しているのだが、その大いなる否定なのである。

福田和也「保田與重郎と昭和の御代」より

36:きたろう
10/10/01 09:34:03 .net
三島が編集した『東文彦作品集』は大学生の間で静かなブーム
三島の愛がこもった序も素敵で
いろんなブログで取り上げられてますよ


37:mun
10/10/01 09:45:43 .net
ああ、品切れのやつね
読んでみます。

38:無名草子さん
10/10/01 20:04:06 .net
>>36
それはいいニュースです。十代書簡集の文庫も復活してほしいね。

39:無名草子さん
10/10/01 20:11:03 .net
今日では、「豊饒の海」は彼の数多い作品の中で最高の地位に置かれている。
近代日本を一種のパノラマのように見せる点で、翻訳された他のどんな作品より優れているからである。
「春の雪」に明治末から大正にかけての日本を描き、「奔馬」の勲に激動の昭和初期を映し、「天人五衰」中に
復興した日本社会の醜さをあばく…
西洋人があまり知らない国・日本が、そこではみごとに語られている。

ヘンリー・スコット・ストークス「三島由紀夫 死と真実」より

40:無名草子さん
10/10/01 20:12:09 .net
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」などの映画でも知られる歌手のビョークが来日した際に、「ミシマの作品
くらいは読まなくてはね」と述べたと伝えられていた。アイスランド出身のビョークが作品を何語で読んだのか
わからないが、アイスランド語では1974年に「午後の曳航」が出版されている。「午後の曳航」は「金閣寺」
「近代能楽集」「潮騒」などと並んで翻訳数の多い作品であるが、(略)アイスランドの人々が読む「午後の曳航」が
どのようなものか、想像してみるのも楽しい。
(中略)現時点(2003年)で把握しているところでは、小説・戯曲・評論等を含めると、110点以上の
作品が30種類の言語に翻訳され、二回以上訳されているものを含めると、翻訳作品の総数は延べ700点を
超えている。(中略)
三島は近代の日本の作家の中でも芥川龍之介、川端康成、谷崎潤一郎、安部公房などと並んで翻訳作品の数が
多く、海外で知られているとはよく指摘されるところである。ただ海外における日本の作家の受容の状況は、
国によってそれぞれ異なっている。(中略)

久保田裕子「三島由紀夫の海外における翻訳作品」より

41:無名草子さん
10/10/01 20:12:52 .net
三島の作品の翻訳はアメリカにおいて1950年代から始まったが、英語の翻訳がされた後に、フランス、
ドイツなどのヨーロッパの言語に広がっていくという経過をたどることが多かった。
近年の翻訳状況としては、2000年にオランダやルーマニアで「金閣寺」が、2002年にノルウェイで
「春の雪」が再版されるなど、いくつか挙げただけでも根強い読者層の存在をうかがわせる。また2001年に
ポルトガルで「禁色」が刊行され、長編小説を中心に翻訳される言語にも広がりを見せている。ヘブライ語、
ラトヴィア語やセルビア語の「金閣寺」、バスク語の「午後の曳航」も登場するなど、三島作品が受容される
言語圏は拡大しつつある。(中略)
以上のことはあくまで日本にあって知ることができる出版状況の一端であり、実際にはそれぞれの国で作品が
どのように読まれ、読者に受容されているかを知ることは難しい。

久保田裕子「三島由紀夫の海外における翻訳作品」より

42:無名草子さん
10/10/01 20:13:47 .net
ただ先に挙げたビョークの話は、「ミシマ」が今なお世界において一種の文化的なイコンであり、日本の文化や
文学を象徴するような存在であることをうかがわせる。
ところで三島自身は1965年4月6日付のドナルド・キーン氏宛の書簡において、〈むりに日本語からの
直接訳をするより、結果として、重訳のはうがいいのではないか〉と述べていて、重訳であっても作品が海外で
広く翻訳されることを望んでいたことがわかる。(中略)
実際のところ三島の翻訳作品の中には未だに英訳からの重訳も多く、日本語という表現を通して世界で認められる
ことの困難を示唆している。そのことに最も自覚的であったのはおそらく三島自身であろう。日本語による
表現を世界的な普遍性へとつなげようとする試みは、彼のライフワークの一つであった。亡くなる前に彼は
〈世界のどこかから、きつと小生といふものをわかつてくれる読者が現はれると信じます〉(1970年11月付)
とキーン氏に書き送っていた。この遺言通り、今でも翻訳を通して三島の言葉は世界のさまざまな場所に波紋を
広げ続けている。

久保田裕子「三島由紀夫の海外における翻訳作品」より

43:無名草子さん
10/10/02 00:24:15 .net
一九六七年(昭和四十二年)春、四十二歳の三島氏は一人で四十五日間、自衛隊に体験入隊し、国防の必要性を感じ、
祖国防衛隊的な組織を作ろうと政治家や財界人に働きかけたのですが成功しませんでした。
三島氏は自ら学生を集め、自衛隊に体験入隊させて祖国防衛隊を作り、のちに「楯の会」という名前を付けました。
三島氏は熱心に働きかけたのに本気にならなかった多くの財界人を見て、「財界人は一見、天皇主義者だけで、
利益のために簡単に変節する連中だ」と絶望していました。

井上豊夫「果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの」より

44:無名草子さん
10/10/02 00:24:34 .net
三島氏は政治活動で最も大切なのは「金銭の出どころ」だと言っていました。約百名とはいえ、「楯の会」運動を
続けるための費用はすべて三島氏個人が負担しており、外部に寄付を依頼することはありませんでした。
三島氏の事件から六年後の一九七六年(昭和五十一年)に明るみに出た「ロッキード事件」では、「自称愛国者」
児玉誉士夫氏は米国ロッキード社と田中角栄首相のパイプ役として働き、アメリカ側から巨額の謝礼を受けて
いたことが判明し、愛国者の仮面を剥がされました。
三島氏は大卒の初任給が五万円以下の時代に、年間八百万円もの私財を「楯の会」のために使い、外部に
資金援助を一切依頼せず、運動の純粋性を守り通したのでした。
三島氏が自ら自衛隊に体験入隊したあと、「祖国防衛隊構想」を財界人に説いて回ったそうですが、資本家たちは
一見「天皇主義者」のように見えても、自己の経済的利益のためなら簡単に裏切る人々だと実感したそうで、
以後、財界の資金援助を受けようとはしませんでした。

井上豊夫「果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの」より

45:無名草子さん
10/10/02 00:24:52 .net
「楯の会」はたった百名の小さな組織でしたが権力に媚びることなく、既成右翼との接触もなく終わったのは
資金の出どころが明確だったおかげだと思います。
三島氏の金銭に対する考え方は清潔で、納税することは国民として当たり前で、「自分の払った税金が自衛隊の
戦闘機のタイヤ一本分くらいになっていると思うと嬉しく思うし、税金は安いくらいだと思う」と言っていました。
以前に瑶子夫人からお聞きしたところによると、インドへ旅行した折に大理石の美しいテーブルを見つけ、
名前を入れてもらう約束で注文したらしいのですが、奥さんが半額だけ現地で払い、残りは商品が着いてから
払えばと勧めたのに、「僕はそんなのは嫌だ」と言って全額を現地で払ったそうです。
注文後、一年ほど商品が着かず、奥さんは心配したそうですが、無事到着し、今も南馬込の三島邸の庭先に
置かれていると思います。

井上豊夫「果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの」より

46:無名草子さん
10/10/02 00:27:37 .net
アメリカの大神殿というべきWTCに旅客機が突っこみ、赤い炎に包まれながら超高層ビルが崩れ落ちていった日、
あの9・11を忘れる人はどこにもいないだろう。もう一つ、同じような分岐点がある。
作家・三島由紀夫が割腹自殺したとき、自分がどこで何をしていたか、たちどころに思いだせるはずだ。
…一九七〇年、長距離バスでイランの砂漠をよぎっていたときのことだ。
まわりの乗客たちはモスリムの人々ばかりだった。(中略)
モスリムは一日に五回の礼拝を欠かさない。その時間がやってくると、屋根を踏みならす音が響いてくる。
…運転手がしぶしぶエンジンを止めると、乗客たちは屋根や窓から飛びだし、いっせいに砂漠へ走っていく。
そして四つん這いになり、焼けついた砂に額を押しつけながらアッラーの神に祈る。車内に残っているのは、
運転手と、ぼくと、イギリス人だけだった。礼拝が延々とつづいているとき、
「ユキオ・ミシマのハラキリについてどう思うか?」唐突に、若いイギリス人が語りかけてきた。

宮内勝典「混成化する世界へ」より

47:無名草子さん
10/10/02 00:27:56 .net
ぼくはしばらく考えてから答えた。
「ああ、映画の話だろう」
「いや、ほんとうにハラキリしたんだよ」と読みかけのNewsweekを差しだしてきた。(中略)
窓の外ではモスリムの人々が真昼の砂漠にひれ伏しながらアッラーの神に祈っている。
そして、ふるさとの日本では「天皇陛下万歳!」と叫びつつ、三島由紀夫が切腹したのだという。茫然となった。
(中略)アフガニスタン、パキスタンを過ぎてインドに入り、カルカッタの日本領事館の新聞でついに
確かめることができた。切断された首が床に据えられていた。
金とセックスと食い物しかない日本で、一つの精神がらんらんと燃える虎のような眼でこちらを見すえていた。

宮内勝典「混成化する世界へ」より

48:無名草子さん
10/10/02 00:28:14 .net
それから二十数年が過ぎて、かれが切腹した市ヶ谷駐屯地の総監室を訪ねることができた。(中略)
三島由紀夫が日本刀をふりおろしたときの刀傷が、飴色のドアの上に残っていた。
…モスリムの人々が礼拝する砂漠で三島由紀夫の自決を知ったのだが、偶然とはいえ、イスラム原理主義者たちと、
かれの思想には、通低するものがあると思われてならない。
…アッラーの神のような超越性のない日本で、かれは天皇に固執した。文化を防衛しようとした。
むろん肯定できないが、三島由紀夫の文学そのものをぼくは畏敬している。恥ずかしいがあえて洩らせば、
十代の頃、かれの文章をノートに筆写していた。
…紙数が尽きたから結語を述べよう。ぼくもまた西欧近代に追随したくはない。
だがそれを拒むナショナリストにもなりたくない。ぼくは混成化していく世界を生きたいと思う。

宮内勝典「混成化する世界へ」より

49:無名草子さん
10/10/02 16:20:52 .net
三島の真意や遺志を伝える仕事に取り組んでみると、彼がいかにこの国の将来を憂え、真剣にかつ周到に、
国家防衛をあるべき姿に戻す計画を練っていたかということに驚かされる。また、物事のすべてから国家の危機を
敏感に感じ取っていた彼が、状況の変化の中で計画の可能性を狭められ、追いつめられ、最後の選択をし、身を
処するに至る過程の悲痛さ、雄々しさは改めて私の胸を締め付けたものだ。ある作家が導き出した結論のように、
三島は単純な狂気に駆られていたわけではない。(中略)
われわれが祖国防衛のために苦労して築いてきた、自衛隊にとってなくてはならぬ機能、部門は無思慮にも
捨て去られてしまったのである。私が胸に秘めていたその情報はもう秘匿する必要がなくなった。むしろ
自衛隊のためにこそ、三島の真実を明らかにしなければならない。(略)三島との出会いがなかったら、
私の人生は砂漠であった。三島と語り合い、訓練をともにした日々は私に、もう一度、祖国防衛の実現に
取り組もうとする意欲と希望を与えてくれた。…私は三島を復活させたいと望んでいる。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

50:無名草子さん
10/10/02 16:21:13 .net
自衛隊の中でもある特殊な教育・訓練を行う立場にあって、やがて私は三島の教官となった。もちろん彼は
平凡な生徒ではなかった。私は何度か彼の深い洞察力に触れて舌を巻いたものだし、鋭く切り込んでくる質問に
たじたじになったこともあった。私にとっても実に得るところの多い共同作業であった。
われわれがそうした特殊な訓練と研究を行っていたことについては、多少の説明が必要だろう。たとえ戦争を
放棄したと宣言しても、万が一外からの攻撃にさらされれば、われわれは座して祖国を蹂躙されるに任せている
わけにはいかない。そのとき、自衛隊は祖国を守らなければならない。戦争にはつねに表に見えている部分と
陰で動いている部分があり、表の部分だけでは勝つことはできない。わかりやすい例で言えば、国際政治の
世界では日本の政治力、交渉力、情報力はかなり弱いと言われており、現実に外交交渉などではいつもして
やられている感がある。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

51:無名草子さん
10/10/02 16:21:33 .net
陰で動いているというと、何か姑息な卑怯なことのように感じられるかもしれないが、こちらから戦争を
仕掛けることがないわが国としては、むしろ水面下での動き、ネットワーク、情報力などは、不幸な状況を招く
危機を未然に防ぐ有力な方法として欠くべからざるものなのである。
三島由紀夫はそのことに気づいていた。彼の行動が一般の人々にわかりにくかったとすれば、その大きな原因の
一つは、彼の考えと行動がこうした陰の部分に踏み込んでいたことだろう。
私たち二人は志を同じくする者として、訓練をともにし、真剣に祖国防衛を語り合った。しかし私たちは、
最後まで行動をともにすることはなかった。私は、三島の決起を正確に予測することができなかった。
そして悲劇は起こった。(略)私たちがなぜともに最後まで志を遂げることができなかったのか。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

52:無名草子さん
10/10/02 16:21:49 .net
(中略)
情報勤務全般の概念を理解してもらうため、日本で現実に起こったスパイ事件を例に、講義した。
取り上げたのは、昭和38年4月1日朝、秋田県能代市の浜浅内に、二人の男の漂流死体が打ち上げられたこと
から発覚した「能代事件」である。(中略)
むろん、外国人登録証はなく、装備から見てかなり大物の北朝鮮工作員と推測された。そして地図などから、
目的地は秋田ではなく、東京、大阪でのスパイ活動が目的と思われた。しかしこの事件は、何らかの陰の力が
働いたのか、結局憶測の域を出ないまま、うやむやのうちに迷宮入りとなってしまったのである。(中略)
講義の中で、二人の溺死体の写真を示したとき、三島は写真を手にしたまま五分間ほども見入っていた。
そして、この事件が単なる密入国事件として処理され、スパイ事件としては迷宮入りになってしまったことに
私が言及すると、三島は激昂した調子で言った。「どうしてこんな重大なことが、問題にされずに放置されるんだ!」

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

53:無名草子さん
10/10/02 16:22:08 .net
(中略)
三島の「祖国防衛隊」構想は、きわめてスケールの大きい国家的防衛試案である。民間からの志願によって
構成することになる防衛組織の実現のためには、国民の広い層からの支持を得なければならない。そして、
それに先行して、膨大な経費のかかるこの企てには資金的裏付けが必要だった。(略)
『祖国防衛隊はなぜ必要か』には、「…純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他なく」と記されている。
『J・N・G(ジャパン・ナショナル・ガード=祖国防衛隊)仮案』の中で、三島は、企業体経営者の賛同を
得て、J・N・Gの横の組織を創り出したいと念ずるものだと述べ、次のような構想を提示している。(略)
資金的裏付けを産業界に求めるのは自然であり、現実に三島が、産業界に大きな期待を寄せていたことは、
この仮案からも明らかである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

54:無名草子さん
10/10/02 16:25:12 .net
三島は緻密な情勢判断に立って、己の半生を賭して祖国の真の防衛に身を捧げようとしていた。(略)
最終的には国家の制度までしていくためには、私的な同志の集まりでは間に合わない。民間防衛軍として十分に
機能するためにも、ある程度の規模が必要である。そこで彼は計画への援助を財界に求めたのである。それが
J・N・Gの「横の組織」を創り出すことの意味でもあった。(中略)
ある晩、三島が前触れもなく拙宅を訪れた。(略)やがて話は、三島が藤原(元陸上自衛隊第一師団長)の
案内で、日経連会長の桜田武のところへ相談に行った時のことに移っていった。三島の声の調子が変わっていた。
一瞬空気が張り付くような緊張が走り、三島は吐き捨てるように言った。「彼は私に三百万円の援助を切り出し、
『君、私兵なぞつくってはいかんよ』と言ったんです!」(中略)
この構想を明確にしていくうえで必要なことは金銭面にとどまらず、産業界に広く働きかけてもらうこと
だった。日経連会長である桜田武との会談の意味はきわめて大きかったのである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

55:無名草子さん
10/10/02 16:25:46 .net
(略)問題は、桜田が拒否以上の、悪意に満ちた応えをもって報いたことにあったと言わねばならない。桜田が
三島の考えを理解しなかったといっても、何ら責めるには当たらないだろう。だが彼は、三島の提案を頭から
否定する以上のこと、つまり馬鹿にすること、揶揄することによって三島を否定し、侮辱したのであった。
桜田は三島の構想に理解を示さなかったばかりでなく、わずかな金を投げ与え、皮肉でしかない忠告を添えた
のであった。当然三島は、その投げ銭を拒否した。そして、それ以降、財界への接触をいっさい断つことになった。
(略)この事件は三島に、重大な路線変更を決意させることになったのである。
「祖国防衛隊」から「楯の会」への名称変更の真の意味を私が知ったのは、三島の自刃後であった。遺された
資料をもう一度徹底的に洗い直した私は、三島が、『J・N・G仮案』で一般公募による隊員グループを
「横の組織」と位置づけていることに気づいた。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

56:無名草子さん
10/10/02 16:26:15 .net
(略)三島の文脈からすれば、「志操堅固な者」のみによる中核体要員養成については、すべて三島に委ね
られる形で行われるが、それは一般公募に至る準備段階として位置づけられ、財界からの資金援助の枠内に入る。
そして、中核体の結成が完了し、これを核として公募組織が結成される段階から、徐々に三島の手を離して
いって、すべてを組織の執行機関に委せることにする、というのが彼の構想のあらましだったのではないかと思う。
(中略)
桜田は、事実上この上ない拒否によって、「祖国防衛隊」を国民的な横への広がりをもった民間防衛組織にする、
という三島の構想を粉々に砕いた。三島は、独自の準備段階へ独力で突入することを決意せざるを得なかった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

57:無名草子さん
10/10/02 16:28:05 .net
(中略)
私は、決して明かしてはならない最後の部分に触れずとも、そのぎりぎりのところに踏みとどまることによって、
三島に対する誤解を解き、その真意を伝え、名誉回復を図ることは可能であり、また日本の国家防衛のあり方に
ついての論議に一石を投じることもできるだろうと考えていた。だが、本稿を書き進めるうち、三島の真実を
明らかにするためには、その最後の部分に触れずにすますわけにはいかないという思いが募ってきた。
そのことを語らなくては三島にすまない。その霊を鎮めることはできないと思い始めたのである。(略)
クーデターは行われるはずだった。
前章で少し触れたが、かつて私は戦後唯一のクーデター未遂事件と言われる「三無事件」の内部調査を命じられた。
その際、計画が直前に発覚し、首謀者たちが一網打尽になる前夜、神楽坂でH陸将らがこの首謀者たちと密会し、
酒を酌み交わしていたことを部下の報告で知った。さらに調査を命じたSも一味とは旧知の仲であった。
私はジェネラルたちが、自衛隊によるクーデターの機会をもとめ、事件の陰で暗躍したことを知った。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

58:無名草子さん
10/10/02 16:28:27 .net
こうした中、三島由紀夫が自衛隊で訓練を受け、自衛隊と連携した行動をとるようになった。その道を開いたのは
調査学校校長であった藤原岩市である。(略)自衛隊幹部が三島の要請を受け入れ、異例の関係をもつように
なった背景には、自衛隊誕生とともにその実権を握ることになった旧陸軍将官、将校たちの悲願が隠されていた。
(中略)この(三無事件の)痛恨の失敗は新たなクーデターの機会を求める彼らの思いを強くしていた。
それから六年後、彼らの前に現れた三島由紀夫は、彼らの悲願を実行に移す機会を開く絶好の人物であった。
(中略)国内における全国的な新左翼運動の高まりと、世界各地で多発した新たな都市闘争のうねりは、
これまでにない革命的状況の到来を予感させた。それは一方で、わが自衛隊が本来あるべき姿で認められる
チャンスであり、われわれ情報勤務の人間が、真に求められる存在となる絶好のチャンスでもあった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

59:無名草子さん
10/10/02 16:32:55 .net
(略)三島は、藤原らとの接触で知った治安出勤に関する情報と、私との交流で得たものから一つの構想を
描いたに違いない。すなわち、10月21日(昭和44年)、新宿でデモ隊が騒乱状態を起こし、治安出勤が
必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私の同志が率いる東部方面の
特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出勤し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。万一、
デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、
断固阻止する。このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。
「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。
三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを
成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

60:無名草子さん
10/10/02 16:33:12 .net
そこでは当然、私も切腹をしなければならないし、出勤の責任者としてのHと藤原も同様であろう。三島も
それを求めていたはずである。(中略)
Hらはこの三島の構想について米側とも話し合ったに違いないと思っている。
もう一度言う。クーデターは行われるはずだった。(中略)
三島は絶えず私にともに決起するよう促した。しかし私は拒否し続け、そうしたクーデター計画に突き進まない
よう、その話題を避け、もっと長期的展望に立った民間防衛構想に立ち帰るよう、新たなプランを提案した。
(略)武士道、自己犠牲、潔い死という、彼の美学に結びついた理念、概念に正面切って立ち向かうことが、
私にはできなかった。たしかに私は死が恐ろしかった。(略)そして私の死だけではない。何よりも私が
認めがたく思ったのは、三島を失うということだった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

61:無名草子さん
10/10/02 16:33:29 .net
H陸将は、まだ私が三島に会っていなかった頃、このようなことを漏らしたことがある。
「おい、カモがネギをしょってきたぞ」
文学界の頂点に立つ人気作家三島由紀夫の存在は、自衛隊にとって願ってもない知的な広告塔であり、
利用価値は十分あった。その彼が広告塔どころか、自らを犠牲にして、自衛隊の自立という永年の悲願を
成就しようとしている。ジェネラルたちは、三島の提案した計画に実現の可能性を見たのだ。
三島が単なる文人などではなく、しっかりとした理念と現実認識に基づく理論の持ち主であり、戦略家、
将校としての資質と実行能力をもったりっぱな同志であることを知り、その人間的魅力に触れた私は、
陸将たちの不遜な見方に反発を感じるようになった。彼らにとって三島は、自分たちの目的を遂げるための
手駒に過ぎなかった。そして、彼らにとっては私もいつでも捨てられる手駒の一つであった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

62:無名草子さん
10/10/02 16:33:44 .net
しかし三島は、彼らの言いなりになる手駒ではなかった。藤原らジェネラルたちは、「三島が自衛隊の地位を
引き上げるために、何も言わずにおとなしく死んでくれる」というだけではすまなくなりそうだということに
気づき始めた。三島のクーデター計画が結局闇に葬られることになったのは、初夏に入った頃だった。私はその
経緯を詳しくは知らない。藤原らは場合によっては自分たちも、死に誘い込まれる危険を察知したのかもしれない。
藤原は三島の構想に耳を傾けながら、参議院議員選挙立候補の準備を進めていた。(略)仮にクーデター計画が
実行されたとしても、その責を免れる立場に逃げ込んだとも言えるのではないか。いずれにせよ二人の
ジェネラルは、自らの立場を危うくされることを恐れ、一度は認めた構想を握りつぶしてしまったのであろう。
三島はむろんひどく落胆したが、自衛隊との関わりで行われていた訓練を禁止されるには至らなかったため、
決起の機会がまったく失われたものとは考えていなかった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

63:無名草子さん
10/10/02 16:34:15 .net
むしろその頃から、三島の私に対する働きかけはより切迫したものになっていた。訓練に参加し、三島の考えに
共鳴する自衛官も増えている。逆境に立ちながら三島は、同志との結束を固め、クーデター実行の可能性を
つねに探っていた。(略)私が逃げるはずはない、三島はそう信じていた。(中略)
それは三ヶ条からなる新たなクーデター計画であった。その一ヶ条は、「楯の会」が皇居に突撃して、そこを
死守するというものだった。(略)五名の将校は三島の計画に深くうなずいた。(略)私は真っ向から反対した。
(略)「臆病者!」「あなたはわれわれを裏切るのか!」いきり立つ将校たちを、三島は手を振って制した。
(中略)この日切り出した問いの背後には、私がこれまでの態度を少しでも変えて、目標に転じる可能性が
あるかどうかを確かめようとする気持ちがあったに違いない。(略)彼は私を見限らなければならなくなった。
(略)しかし、三島は私を斬り捨てることができなかった。(略)私がいなければ不正規軍の戦いに勝つことが
できないとわかっていたからだ。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

64:無名草子さん
10/10/02 16:39:10 .net
(中略)
10月21日に向けて、新左翼各派はそれぞれにキャンペーンを繰り広げていた。学生だけでなく、反戦派と
呼ばれる労働者集団も戦闘的な街頭デモを展開して、革命前夜の状況を作り出すべく、10月から11月に
かけての闘争に全力を傾けよ、と呼びかけていた。(中略)
三島はその日をどういう気持ちで迎えただろうか。彼の構想を一度は受け入れたジェネラルたちは、その実行を
うやむやにする形で自分たちの身の安全を図ったが、断固とした態度で全面否定したわけではないらしかった。
三島は逃げ腰の彼らとの話し合いを続けるなかで、それでも状況次第では、自衛隊の治安出勤もあり得ると
考えていたらしい。(中略)
警視庁の当該部署に確かな情報源をもっていた三島は、当日の警備状況とともに、その日の街頭闘争が
どのような展開になり得るか、詳細な情報分析を事前に知っていた。(中略)
直前までマスコミによって盛んに報じられていた自衛隊治安出勤の可能性は、完全に断たれたのである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

65:無名草子さん
10/10/02 16:39:26 .net
(中略)彼は、どのような形であれ、米軍占領による国の歪みを正し、民族の志を復活するためのクーデター
計画を実行することを決意していた。計画実行の当日になって、実現の可能性はほとんど残されていなかったが、
それが完全にゼロとなるまであきらめなかった。それは、最後まで力を尽くす誠でもあったが、あきらめの色を
見せて、部下たる「楯の会」会員の士気を損なうことの愚を知っていたからであろう。彼は真の武士であった。
(略)彼がその可能性を求め続けた「クーデター計画」を阻んだ者がいる。(略)一人は私である。(略)
第二に挙げられるのは、H陸将と藤原岩市である。(略)二階へ上げておいて梯子を外したといわれても
仕方ないと思う。(略)
さらに国際情勢も三島に味方しなかった。(略)キッシンジャーが密かに訪中の準備を始めていた。もともと
アメリカと関係の深かった陸将たちだけが、いち早くこの変化に気づいたのかもしれない。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

66:無名草子さん
10/10/02 16:40:11 .net
もっとも、自衛隊の部隊と私たち情報勤務者が一体となって、心底からクーデター計画実行に取り組んだとする
なら、三島の期待は実現したであろう。三島はその辺のところをはっきりと理解していた。彼が、私抜きでの
決起を想定した演習を独自に進めながら、絶えず私を計画に引き込もうとしていた理由の大半はここにある。
(略)根本的には同じ理想を抱く同志であった。いつも控えめに示す彼の情のほとばしりに、私は最後まで
温かい好意のようなものを感じなかったことがない。
(中略)自衛隊を本来あるべき姿、国軍として憲法上の認知を得させ、情報技術とシステム確立の下に、
不正規軍としての民間防衛軍を結成して機能させること。それは理想であり、これを長期的戦略を立て、広く
国民に浸透させることによって実現するという理想論が、現実にきわめて困難であることを、私は長い体験の
中で実感していた。(略)その意味では、10・21は、多少の無理はあっても、三島が主張したように、
二度と訪れないかもしれない千載一遇のチャンスだったかもしれない。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

67:無名草子さん
10/10/02 16:40:35 .net
―永遠に訪れてこない望ましい機会を待つよりは、不十分でも限られた機会に力を集中させ、知力をふり
しぼって、実現に力を尽くすべきではないか。あるいは悲劇的な、あるいは無様な結末を迎えることになったと
しても、座して様子をうかがうだけで、何事もなし得ないまま一生を終えるよりどんなにかましであるか。
三島の死に接したとき、私は過去に何十回、何百回となく自問してきたこの問いを、改めて自分に問いかけた。
(中略)―三島の真の決起は昭和44年10月21日に、果たせないまま終わっていた。(中略)
私は三島の行動の行く末と三島の身を案じる一方で、私自身の身の危険を感じていた。それを恐れていたことで、
私は三島に詫びたいと思う。三島は個人的なうらみで行動するような人間ではなかった。(中略)
最後の決起は、この国の行く末を案じるがための、捨て石としての死であった。自己の保身をのみ考えて
立とうとしない将官たちと、自らの運命に鈍感なすべての自衛隊員に対して糾弾し、反省を促したのである。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

68:無名草子さん
10/10/02 16:40:56 .net
昭和46年秋、三島の一周忌が近づいてきていた。せめて思い出につながる部下たちを集め、われわれだけでも
密かに三島を供養したいと思った。
11月24日、陽が落ち人の顔の判別がつかなくなる頃を待って、私は三島家の門前に独りで立った。(略)
私は、ただ合掌して唇を噛んだ。
翌25日夜、仮の祭壇を設け、私の手許に残った三島の遺品を供えた。部下の持ち寄りの供物をそなえ、
懐かしい三島からの手紙を朗読して読経に代えた。部下たちからすすり泣く声が洩れ、私も泣いた。
それが、私にできる本当に精一杯の供養であった。
そして、私の誕生日が来た。(中略)
私はその日、自衛隊調査学校の校庭の壇上に立って、学生や部下たちに別離の挨拶をしようとしていた。
「晩秋の巨雷とともに、私の夢も消えた」私は挨拶をこのように結んだ。
10代半ばの陸軍士官学校入学で始まった私の軍隊人生は、この日を以って終わった。(略)
三島由紀夫はもっとも雄々しく、優れた「魂」 であった。

山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」より

69:無名草子さん
10/10/02 23:23:20 .net
森田必勝は私より一、二歳年長の同じ大学の学生であった。面識はなかったが、彼を見知っている友人もいて、
自分と同時代の人間の起こした事件という思いはある。(中略)
その日の昼ごろ、電話が鳴った。受話器からは友人の少し緊張し少し興奮した声が聞こえてきた。
「三島由紀夫が自衛隊に立て籠ったぞ」。友人はニュースで知った事件のあらましを語った。私が当時は昼ごろ
まで寝ており、テレビも全く見ないことを知っていたから、電話で教えてくれたのである。(中略)
私は大学に行った。大学では学生たちは既に事件を知っており、みんなこれを話題にしていた。(略)
三島由紀夫は森田必勝とともにその日の昼すぎには割腹自殺を遂げていた。夜には事件の全容がほぼ明らかになり、
翌日からはマスコミがさまざまな人の意見を取り上げた。左翼側は、当然、事件に否定的、批判的であった。
中には三島を嘲弄する口調のものもあった。しかし、これには私は同感し得なかった。

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

70:無名草子さん
10/10/02 23:23:47 .net
当時の学生たちの中の少しアタマのよい連中は、旧来の左翼理論が行きづまりかけていると皆思っていた。
しかし、それに代わりうるものを創出するだけの知性も覚悟もなかった。人のことはいえない。私もただ惰性で
落第をくり返していた学生だったのだから。そういった学生たちを誘引したのは、ハッタリとヒネリだけの
突飛な言辞を弄する奇矯知識人だった。十数年の後に、私はこれらを「珍左翼」と名付けることになるのだが、
当時はそう断ずるだけの自信はなかった。
そんな奇矯知識人、奇矯青年に人気があったのが八切止夫という歴史家だった。歴史学の通説を打ち破る珍説を
次々に発表する在野の学者だという。判断力がないくせに新奇なものには跳びつきたがる学生がいかにも喜び
そうな評価である。私も一、二冊読んでみたが、どれも三ページ以上は読めなかった。あまりにも奇怪な文章と
構成で、私がそれまで知る日本語とはちがうものが記されていたからである。その八切止夫が、どこかの新聞か
雑誌に切腹不可能説を書いているのを読んだことがあった。(中略)

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

71:無名草子さん
10/10/02 23:24:09 .net
しかし、三島由紀夫は見事に切腹した。しかも、介錯は一太刀ではすまなかった。恐らく、弟子である森田必勝には
師の首に刀を振り下ろすことに何かためらいでもあったのだろう。三島の首には幾筋もの刀傷がついていた。
それは逆に、三島が通常の切腹に倍する苦痛に克ったことを意味する。罪人の斬首の場合、どんな豪胆な
連中でも恐怖のあまり首をすくめるので、刀を首に打ち込むことはきわめて困難であると、山田朝右衛門
(首切朝右衛門)は語っている。しかし、三島は介錯の刀を二度三度受け止めたのである。このことは、
三島由紀夫の思想が「本気」であることを何よりも雄弁に語っていた。楯の会が小説家の道楽ではないことの
確実な証拠であった。だからこそ、「本気」ではなかった左翼的雰囲気知識人は、自らの怯えを隠すように
嘲笑的な態度を取ったのである。八切止夫が切腹不可能説を撤回したという話も聞かなかった。

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

72:無名草子さん
10/10/02 23:24:40 .net
しかし、「本気」とは何か。「本気」に一体どれだけの価値があるのだろうか。三島由紀夫は「本気」の価値を
証明しようとしたのではなく、「本気」の時代が終りつつあることを証明しようとしたのではないか。
「本気」の時代の弔鐘を鳴らし、「本気」の時代に殉じようとしたのではないか。(中略)
三島由紀夫は私財を擲(なげう)って楯の会を作った。共産主義革命を防ぎ、ソ連や支那や北鮮の侵略には
先頭に立って闘う民兵組織である。(略)三島はこの行動について「本気」だった。小説家の気まぐれな
道楽ではなかった。しかし、現実に治安出勤や国防行動を最も効果的にするのは、税金で維持運営される
行政機関である自衛隊なのである。自衛隊員は、法に定められた義務のみを果たし、法に定められた権利を
認められる。まるでお役所である。いや、事実、お役所なのである。(略)
「本気」の武士より、権利義務の関係の中でのみ仕事をする公務員の方が尊ばれ、価値がある時代が始まり
かけていた。換言すれば、これは「実務」の時代の始まりであった。

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

73:無名草子さん
10/10/02 23:25:01 .net
私は実務の時代の価値を否定しない。(略)英雄が待ち望まれる時代は不幸な時代である。思想や哲学や
純文学が尊敬を集める時代も不幸な時代である。一九七〇年以降、日本は不幸な時代に別れを告げた。
英雄はいうまでもなく、思想や哲学や純文学、総じて真面目な「本気」は「実務」の前に膝を屈し、幸福な
時代が到来した。(略)
だが、時代はそうなりきることはなかった。一九九五年、歪んだ醜怪な「本気」が出現した。オウム事件である。
(略)本当に不気味で醜悪な恐怖の事件は、三島が「本気」に殉じた後の時代に出現したのであった。

呉智英「『本気』の時代の終焉」より

74:無名草子さん
10/10/03 19:31:25 .net
最後の試験も済み、学生生活が実質的になにもかも終わった夏休みのある晩であった。
…何かの拍子に三島は「アメリカって癪だなあ、君本当に憎らしいね」と心の底から繰り返しいった。
そしてかのレースのカーテンを指さし「もしあそこにアメリカ兵が隠れていたら、竹槍で突き殺してやる」
と銃剣術の動作をして真剣にいった。
当時の彼は学術優秀であり、品行も方正であったが、教練武術の方はまるで駄目であった。
…そういう彼が竹槍で云々といった時、彼には悪いが、突くといっても逆にやられるだろうがとひそかに思った。
けれども、彼のその気迫の烈しさには本当に胸を突かれた。
彼は当時、日本の、ことに雅やかな王朝文化に心酔していた(当時といわず、或は生涯そうであったかもしれぬ)。
そしてその意味で敬虔な尊皇家であった。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

75:無名草子さん
10/10/03 19:31:46 .net
今、卒業式の時の彼を思い出す。
戦前の学習院の卒業式には、何年かに一度陛下が御臨幸になった。我々の卒業式の時もそうであった。
全員息づまる様に緊張し静まる中で式は進み、やがて教官が「文科総代 平岡公威」と彼の名を呼びあげた。
彼は我等卒業式一同と共にスッと起立し、落ち着いた足どりで恭々しく陛下の御前に出て行った。
彼が小柄なことなど微塵も感じさせなかった。瞳涼しく進み出て、拝し、退く。その動きは真に堂堂としていた。
心ひきしまり、すがすがしい動作であった。あの時は彼の人生の一つの頂点であったろう。
そういう彼ゆえ、古来の日本の心を壊そうとするものを心の底から許さなかった。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

76:無名草子さん
10/10/03 19:32:03 .net
彼の感性は非凡なだけでなく時に大変ユニークで、常人の追随しかねる点があったけれども、人間としての
器量は大きかった。思えば、不良少年の親分を夢みるだけのことはあった。
…初等科六年の時のことである。元気一杯で悪戯ばかりしている仲間が、三島に
「おいアオジロ―彼の綽名―お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。
三島はサッとズボンの前ボタンをあけて一物を取り出し、
「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。
また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかった。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

77:無名草子さん
10/10/03 19:32:20 .net
初等科一年の時、休み時間になると、半ズボン姿の我々は、籠から放たれた小鳥の様に夢中で騒ぎ回った。
…そういう餓鬼どもの中で、三島は「フクロウ、貴方は森の女王です」という作文を書いた。
彼は意識が始まった時から、すでに恐ろしい孤独の中に否応なしに閉じこもり、覚めていた。
…彼は幼時、友達に、自分の生まれた日のことを覚えていると語った。彼はそのことを確信していた。そして
おそらく、外にもその記憶をもつ人が何人かあると素直に考えていたのであろう。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

78:無名草子さん
10/10/03 19:32:39 .net
初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が
「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは
知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。
あの時も、すでに彼はそれなりに成熟していたのであろう。彼と周囲との断絶、これは象徴的であり、悲劇的である。
三島は生涯の始めから、終始悲劇的に完成した孤独の日々を送ったと思う。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

79:無名草子さん
10/10/03 19:35:51 .net
高等科上級生の時のことである。
戦争中で銃剣術の時間のことだった。体格の大きい銃剣術が強い友人と、彼とが試合をさせられた。教官が
どうしてそういうアンバランスな試合をさせたのか解らない。しかし平岡に対する意地悪からでは無いと思う。
さて華奢で軟体動物のようにクネクネした動作の平岡は、当然ジタバタと苦戦していたが、そのうちにヒョイと
勝ってしまった。相手の心臓のところを確かに突いたのである。皆は驚き笑いながら、見物の輪をといた。
彼はその時までに何度か壁にぶつかり、それを切り開いてきた人らしく、困惑しつつも、冷静であったので
勝ったのだろう。


中等科か高等科の英語の授業の時、老教師が「日本には叙事詩は無かった」といった。
平岡は、「平家物語などがあるじゃありませんか」といった。
これは日本の古典に通じぬ英語教師の弱味を突いたらしく、彼は感情的になって平岡を、おさえつけた。
休み時間になり、平岡は憤慨していた。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

80:無名草子さん
10/10/03 19:36:34 .net
天皇が人間宣言をなさり、背広姿の御写真が新聞に掲載された時、彼は非常な不満、むしろ忿懣を抱いていた。
なぜ衣冠束帯の御写真にしないのかというのである。
又、焼跡だらけのハチ公前の広場を一緒に歩いていた時、彼は天皇制攻撃のジャーナリズムを心底から怒り、
“ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い”と断言した。
そういう彼の言葉には理屈抜きの烈しさがあった。だから、彼は自分が敗戦後、日本の伝統から離れて楽しむうちに、
混乱の方が、いつか多数派になったのに驚いたのではないか。
美酒の瓶が倒れたように、日本の美質がどんどん流失しているのに気付き慄然としたのではないか。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

81:無名草子さん
10/10/03 19:36:52 .net
彼は、敗戦で束縛から解放された時まっしぐらに芸術の世界へ突進した。
…しかしその世界から出てみると、日本はすでに大きく伝統から離れていた。
彼にとり、日本の伝統は荒涼としたものになりかけていた。
彼が自分の好きな国々を思いきり歩いて故郷に戻って来た時、心の拠り処の日本の古典は滅びかけていた。
…彼が戦争直後、学習院を訪ねて校庭を歩いていたら、某教官に呼びとめられ、
「これからは共産主義の勉強をするのも面白かろう」といわれたといって、しきりに憤慨していた。
「何で今頃するのか、戦争中にやるのなら解るが」というのである。この先取りの心、少数派に身をおく
積極さ、これが晩年彼の日本についての心痛を一層深くし、嘆きを重くしたのであろう。
又、この予感、この嘆きこそ芸術家のものであろう。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

82:無名草子さん
10/10/03 19:37:13 .net
彼は一時の思いつきで死んだのではない。
おそらく三十年、あるいはそれ以上、死を自分のすぐ背後に感じ続けて生きたと思う。死を背負い続けたと思う。
…彼が死なねばならぬとはっきり考え始めたのはいつか。東大紛争時における日本の文化的指導者(体制側だけ
でなく、学生騒動に便乗して売名を図った人々まで含めて)の醜さを痛感したからではないか。
…勿論ずっと以前から、日本の崩れてゆくのを、彼はじっと忍耐しながら見ていたのであろうが、殊にあの
事件の時に絶望的な暗黒をつくづく見たのではないか。


鋭敏な彼は、日本、否日本人の心の荒廃をまざまざと観たのであろう。
この闇に一瞬なりとも光を放ち得るものがあるとすれば、それは自分の命の提供しか無いと観たのであろう。
彼はそれだけ自分の才能が稀有なものであり、又自分がそれを十分に開花させたのを知っていたのであろう。
だから、自分の死の持つ力を考えたのであろう。当面は罵詈雑言が自分の自殺を覆うであろう、しかしなお、
自分の名声と才能を死なすことによる衝撃に、多少の自信はあったろう。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

83:無名草子さん
10/10/03 19:37:32 .net
彼は無限の敵、即ち日本文化、いや日本を腐敗させつつあるものへ、自分の命、絶対の価値ある自分の命を投げつけた。
彼は敵に向い最後迄断然逃げなかった。
…彼は自分の愛するもの(これには自分の家族も入る)に、自分の最上のものを捧げたかった。
それは自分の命、これである。
…世人は彼の死を嘲笑した。これは彼の敵の正体を、世人が未だ理解していない時に死んだからか?
多くの人、中には名声にあっては一流人が、まるで見当違いのことをいって、彼の死を手軽に料理している。
しかしいつでも彼の死は早すぎるのだろう。“死”は誰でも逃げたいものだから。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

84:無名草子さん
10/10/03 19:39:24 .net
彼は稀なる作家、思想家、そして文化人であった。
自分の思想のために、生涯の頂点で、世人の軽蔑は覚悟の上で死ねる者が何人居るか。
彼と思想を異にするのは全く自由であるが、嘲笑するには先ず自分の考えに殉じて死ねる者でなければなるまい。
なぜなら、彼の死は冷静な死であったから。
…彼は少年時代に戻って死んだ。少年時代、彼は日本文化に殉ずる心で生きて居た。その心で死んだ。
純粋という点では、学習院高等科学生の頃の姿で死んだ。
所詮作家からはみ出した男、言葉で適当に金を儲けることを、出来るがやらぬ男であった。

三谷信「級友 三島由紀夫」より

85:無名草子さん
10/10/04 16:05:57 .net
西郷隆盛と蓮田善明と三島由紀夫と、この三者をつなぐものこそ、蓮田の歌碑にきざまれた三十一文字の
調べなのではないか。西郷の挙兵も、蓮田や三島の自裁も、みないくばくかは、「ふるさとの駅」の
「かの薄紅葉」のためだったのではないだろうか。
滅亡を知るものの調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。
それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。
なぜならそういう調べだけが、滅亡を知りつつ亡びて行くものたちのこころを歌いうるからだ。

江藤淳「南州残影」より

86:無名草子さん
10/10/05 00:37:34 .net
その視覚的、聴覚的に表現するということを考えた場合、三島由紀夫の戯曲は天才的な言葉で溢れている。
三島由紀夫の溢れる、迸る様な豊かな言葉というのはいうならばモーツァルトの音楽を連想させる。
モーツァルトのピアノソナタは初心者から円熟期に入った大ピアニストまで誰でも魅せられ虜にするが、
三島由紀夫の戯曲も思わず音読したくなる様な人を酔わせる様な豊かな言葉に溢れ、これは自分で演出したい、
これは自分で演じてみたいと人を駆り立てる様なものを持っている。

遠藤浩一「三島由紀夫と福田恆存―演劇をめぐって」より

87:無名草子さん
10/10/05 18:52:49 .net
みんな、いろいろ言うけど自決が45か46歳でしょ。
知識面、人生経験、世間、体力面でも余力がある時期。
仮に三島が60、70過ぎまで生きてたら言動がかなり変化していただろう。

逆に生きてて変節しないのは困難。死んじゃえばその時点での思想が永遠になる。

88:無名草子さん
10/10/05 20:38:40 .net
彼と知り合いになったのが、彼の十七、八歳の頃で、それからの数年、昭和二十四年七月、文壇的処女作とも
云っていい「仮面の告白」を書き出し、出版する頃までは、お互いに、文学に志し、文学で身を立てようと
励まし合い、刺激し合い、くどくつき合ったものであった。尤も、私は彼より十歳近くも年長であったが。
富士正晴氏は次のように「思い出」を語っている。
「三島と知り合ったきっかけは、伊東静雄の紹介によってやな。(略)伊東が『三島の本を出してくれへんか』
というので、七丈書院に三島を呼び出して会った。来たのは、えらい頭のデカイ目玉がギョロギョロした、
ゲジゲジ眉毛の長い色の青い少年やったけど、語る言葉は上流コトバ。(略)その足で林富士馬のところへ
連れて行ったんやが、林が『ビールでも飲もうか』といったら『私は外では飲みません』というのを、甚だ
きれいなコトバで云ったんやが、それで林はゾッコン参っちゃったんや」富士氏の回想に間違いがないなら、
私は三島君と知り合いになった当初から、三島君の拒絶にあっているわけだ。生涯、私はその三島君の拒絶に
心惹かれていたのかも知れない。

三島由紀夫「死首の咲顔」より

89:無名草子さん
10/10/05 20:39:40 .net
併し、その日常生活のなかで、知り合いになったばかりの三島君は、大変素直な、律義で、礼儀正しい、幾分
世間知らずの大人びたところもある少年であった。ひととはなしをする時、凝っとまともに正視した。
その当時の他の私達の仲間の、どこか、くずれたようなところ、だらしないところは微塵もなかったのが、
ひどく印象に残っている。当時、既に私は妻子持ちであったが、部屋によちよちと歩いて入って来る子供を、
三島少年は熱心にあやしたのを、そのいじらしい少年の姿を、不思議な思いで眺めていた。(中略)
私は他の私の年少の仲間を紹介し、毎日のようによく遭い、それでも手紙を書いた。私達はやがて、誰でもが
お召しを受け、血腥い戦場に遠征することは解っていたので、明日のない一日一日を、如何に文学だけを信じ、
それに縋って、一日一日を生きるか、ということに肝胆を練っていた。(略)仲間の一人、一人、戦場に
出掛けて行ったが、私達は謄写版で、五十部くらいの部数の同人雑誌を編みつづけた。それが私達の
レジスタンス運動であった。

林富士馬「死首の咲顔」より

90:無名草子さん
10/10/05 20:40:55 .net
(中略)
テレビの画面にあなたが七生報国と書いた白い鉢巻をしめ、「楯の会」の隊長の正装で、バルコニーから、
演説をしているのが見えた。それは演説というより、手を挙げて叫んでいる姿が見えた。声は聞こえない。
(略)三島君の身体は、傾くようにして動く。唇がはっきり見える。からからに乾いた舌が見えたように思った。
(略)併し、そういう画面だけが映し出されて、声はすこしも聞こえないのが却って、印象に鮮やかである。
三島君が、何を必死に訴えようとしているのか、勿論、こっちには、さっぱり判らないが、(略)コップ半分の
水でも、手渡すことが出来たら、自分自身が、どんなに楽になるだろう、(略)そんな思いがちらちらして、
数日間は安眠出来なかった。(略)
可哀そうな三島君、強情っぱりの三島君よ。(略)私が水を差し出しても、あなたはまた拒否しただろうか。
あなたのような憂国の士ではないが、私もつくづく、世の中が、近頃の人の心と云うものが味気ない。

林富士馬「死首の咲顔」より

91:無名草子さん
10/10/05 20:41:46 .net
(中略)
三島君の人生も作品も、あんまりひと筋で、そこに余裕がなかったので、私はむしろ、それを三島君の擬装とし、
遊びとして受けとろうとしていたようだ。そこで遠慮なく揶揄し、あなたの文学は新官僚派の文学ではないかと
悪口を云った。あなたは少しも弁護しなかった。弁護などすることが、男らしくないと思っていたのだろう。
腹の底では、腹を立て、ほんとうに理解する人のいないことを、くやしがっていたのだ。
併し、いまになってみると、あの人は、どんな作品に於いても、エッセイ、評論、日記、又、どんな座談会の
尻っ尾ででも、素直に、右顧左眄することなく、手を振り、声を高くして、おのれを語り、決意を云っていたのだ。
擬装などと、どうして私は受けとっていたのだろう。
いまになって、「仮面の告白」という文壇に登場して来た時の作品のほんとうの意味が判ったような気がする。

林富士馬「死首の咲顔」より

92:無名草子さん
10/10/05 20:43:13 .net
あの仮面は、「素顔」に対しての「仮面」ではなかった。告白するために「仮面」を使用したのではなかった。
「失われた世代」の一人として、私が在来の文学現実で考えていた「素顔」などを、既に喪失した人間として、
持ってはいなかった。その悲しみを、いっしんに訴えていたわけである。ほんとうの意味の新しい世代、
戦後派文学のほんとうの意味が、あそこにあったのだ。あの人は、仮面しかない悲しみを、一生懸命、文学の
世界に定着させようとしていた。(中略)
人間はいつでも、告白をするとき、うそをついて願望を織り込んでしまう。それを潔癖に嫌悪した。文学という
ものは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じ、作品における告白は、実は告白自体が
フィクションになっていた。(中略)
三島君の文学を一口に云うと、明治、大正、昭和の三代の近代日本文学にあって、はじめての意識された世界的
作家であったことではないか。

林富士馬「死首の咲顔」より

93:無名草子さん
10/10/05 20:46:55 .net
(略)その世界的作家としての気宇について云えば、その処女短編集「花ざかりの森」の後記に、少年らしい
気負いで、「そして、戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ
時代がくることを、それらを私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい」と、既に決意している。
又、それを獲得するために、どんなに刻苦勉励の一生であったか、その忍耐と憎悪と愛情とを思うと、胸が痛い。
彼は決して、器用な人でも、器用な作家でもなかった。人の知らぬ屈辱のなかで、男らしく愚痴を云わずに、
ひとり、たたかっていたのである。(中略)
三島君の突然の死が白日夢の如く報ぜられる数日前、私は東武デパートで行われている三島由紀夫展に行った。
(略)いろんなものが、小学校時代の通信簿や図画や習字などまでが陳列してあった。(略)「文芸文化」
という戦時中の雑誌、そこに三島君の処女作とも云える「花ざかりの森」が発表された雑誌の終刊号が、
ガラス・ケースのなかに、見ひらきにして飾ってある。

林富士馬「死首の咲顔」より

94:無名草子さん
10/10/05 20:47:59 .net
その見ひらきの左の方は、三島君の「夜の車」という作品の書き出しになっているが、右の方の一頁は、私の
「終焉」という詩になっているのだ。(略)
   終焉
(略)道義の退廃と、忍従に姿が似てゐる無気力とに、詩人が身を以て弾劾と警告を発することをしないで、
誰れがこの危機の時代の、この任務につくひとがありませうか?

いまはなにを歎く?
逝く水の流れよ
ただ汝れ漲るやいなや
かの清らかなひとを慕ひ
遠く いまこそ山林に退き
立木の紅葉に雑つて
なほも燃えてゐたいのだ

以上のことがあってから数日して、私は青天の霹靂の如くに、あなたの激烈な死に出逢ったのだった。

林富士馬「死首の咲顔」より

95:無名草子さん
10/10/07 11:19:15 .net
介錯に使われた刀は、ご存知のように「関の孫六」でした。書店の御主人の舩坂弘さんから寄贈されたものです。
そのため、舩坂さんは警察に呼ばれたわけですが、そのときもう一度実物を見せてもらったところ、奇妙なことに
柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて、二度と抜けないようになっていたそうです。これはいったい、
何のためなのか警察でも見当がつかなかったようです。
ところが、その後の調べで、伜の周到な処置であることが判りました。

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

96:無名草子さん
10/10/07 11:20:28 .net
というのは、こういうことです。伜は死ぬのは自分一人で足りる、決して道づれは許されない、ましてや
森田必勝君には意中の人がいるのを察し、彼の死の申し出を頑強に拒否し続けて来た。しかし、森田君は
どうしても承知せず、結局、あんなお気の毒な結果になってしまったのです。そして、森田君の希望により
伜の介錯は彼にたのむ手筈になったものの、かねてから介錯のやり方を研究していた倅の眼から見ると、
森田君の剣道の技倆はおぼつかないと見てとったのでしょう。かんじんのとき、万一にも柄が抜けることのないよう、
ああした処置をして彼に手渡したのだそうです。まことに用意周到をきわめたものです。自分自身が割腹に
使用したのは、かねて用意の鎧通しでした。

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

97:無名草子さん
10/10/07 11:22:05 .net
ある晩、事件の年の春頃でしたか、伜は茶の間で、
「日本は変なことになりますよ。ある日突然米国は日本の頭越しに中国に接触しますよ、
日本はその谷間の底から上を見上げてわずかに話し合いを盗み聞きできるにとどまるでしょう。
わが友台湾はもはやたのむにたらずと、どこかに行ってしまうでしょう」と申しました。
これを後で伜のある先輩に話しますと自分もあなたよりずーっと早い四十三年の春に、銀座で食事中にまったく
同じ予言を聞かされたものです、と驚いておりました。

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

98:無名草子さん
10/10/07 11:23:19 .net
伜が時間の約束に実にやかましかったのは定評がありましたが、万事、きわめて潔癖、几帳面でした。だから
僕等が茶の間で話し合ってる最中でも、その間に僕がちょっとあの本を読みたいから何時でもいいから貸してくれと
申しますと、もうそれが気になって話し中でもすぐわざわざ三階まで飛んで行って僕に持って来て、それから
また話を続けるのです。
銀座方面に出かけるとき、海外旅行に出かけるとき、ちょっとたのむとかならずなんでも買ってきます。
(略)…忘れたら忘れたでよいと申しましたが、数軒さがしてやっとあったと注文しないパイプも買って来て
くれました。
いかなる些細なことでも、たのめばかならず履行してくれます。

平岡梓「伜・三島由紀夫」より

99:無名草子さん
10/10/07 21:43:59 .net
バカばっかりだなこのスレ

100:無名草子さん
10/10/07 23:58:34 .net
インチキな平和的・民主的秩序なるものの面皮をひっぱがそうとしたのではないか。ムダ死にだったことにより、
逆に象徴的行為としては完全に成功した。


おたがい、つくりごとをもって生業としている文士の仲間として、つくりごとだからけしからんとか、
つくりごとだから品が下るとかいうこと自体が、そもそもありえない。
つくりごとの結果、つくりごとでない、かけがえのない人生の重大事が実現された、ということにもしなるならば、
文学的原理からいって、これほど格式の高いことはないではないか。
この人(松本清張)の文体批評は、皮肉にも、三島氏の最後の文学的演技に対する最高の讃辞を、自らの意に
反して内包している、ということにもなります。アピール自殺として、三島事件はほとんど完璧に近い。

いいだもも
三島事件についてのコメントより

101:無名草子さん
10/10/07 23:59:28 .net
(辞世の句は)いかにも紋切型です。
三島文学最後の文章としては、近代的文学鑑賞にとうてい堪えないことは、いうまでもないところでしょう。
しかし、それでいいのです。三島氏にとっても、辞世の句というものは、そういうものです。
およそ、儀式というものは紋切型にきまっており、紋切型でなければならないので、それ以外の、あるいは
それ以上のなにかを望むのは、一種の近代病にすぎないのです。

いいだもも
三島事件についてのコメントより

102:無名草子さん
10/10/08 00:00:14 .net
まさにわれわれ左翼の思想的敗退です。あそこまで体を張れる人間をわれわれは一人も持っていなかった。
動転したね。新左翼の側にも何人もの「三島」を作らねばならん。体制側の動きがそういう人間を作ってくれる。

滝田修(京大パルチザン軍団)
三島事件についてのコメントより

103:無名草子さん
10/10/08 00:01:33 .net
日本は、外国から一人前の国家として扱われていない。国家も、人間も、その威が行われていることで、
はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬ある
扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。そんな国の下で平和を歎び、春夏秋冬口に入る果物、
野菜を讃へ、牛肉、鶏、(それらはすべて、体の中に蓄積されれば死の危険のある物質を含んでいる)を、
巴里の料理人を雇って来て料理させているレストランで会食して、得々としている、滑稽な日本人の状態を、
悲憤する人間と、そんな状態を、鈍い神経で受けとめ、長閑な笑いを浮べている人間と、どっちが狂気か?
このごろの日本の状態に平然としていられる神経を、普通の人間の神経であるとは、私には考えられない。
議会の討論を聴いても、新聞を読んでも、私には日本の政府が暗愚だ、というよりも、狂気しているとしか
思われない。
私が三島由紀夫の怒りを見て、子供以上の純粋に感動したのは当然である。

森茉莉「気ちがいはどっち?」より

104:無名草子さん
10/10/09 00:44:05 .net
私はこの三年にわたって折にふれ三島とあってきたが、私がいつも感じたのは、彼は現存の日本人のうちでは
最も重要な人物だったということだ。当然のことながら、私には彼がその生涯の終わりにどのようなコースを
たどるかについては想像もつかなかったが、たとえその範囲は限られたものであるにせよ、彼はその
ダイナミズムと懐疑主義と好奇心によって日本の歴史に永久にその名をとどめる地位を占めるにちがいないと
確信していた。(中略)
三島の行動は、今日の日本の右翼の大物たち―その名前をあげる必要はあるまい―を、道化役者のように
見えるようにした。私と議論した一部の人々は、三島はその行動によって、笑止千万なピエロの役割を演ずる
ことになったと主張した。これに対し私は三島はピエロどころか、逆に他の人々をピエロとして浮かびあがらせた
―つまり、彼等をつまらない行動によって、金をもらいたがったりするようなピエロに仕立てあげたのだといいたい。

ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より

105:無名草子さん
10/10/09 00:45:17 .net
三島を高く評価したい私の次の理由は、私の見るところでは、彼は日本の政治論争にこれまで見られなかった
深みをつけ加えた点である。(略)…三島を「右翼の国家主義者」といった言葉で片づけることはできない。
三島は「右翼」とか「国家主義者」とかいったレッテルを貼った箱に、絶対におさめることのできない人物である。
彼の思想の広さといい深さといい、そうした単純な分類に入れることを許さない。
三島が何をいわんとしていたか、それを一言にして説明するには、何か新しい言葉を見つけださなければなるまい。
三島について注目すべき理由はほかにもある。彼は今日の政治論争のすべてを公開の席に持ちだした―(略)
…これらの問題については、自民党の幹部たちは私的な場所でのみしばしばその意見を表明してきたのである。
しかるに三島は敢然として、政治家たちがこれまでおっかなびっくりで、私的な場所だけで取りあげてきた
政策論争を、公けの席に持ちだした。職業政治家になぜこれができなかったのであろうか。

ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より

106:無名草子さん
10/10/09 00:47:25 .net
…三島を西洋に「説明」できるだけの資格を持つ西洋の学者は、ほんの一にぎりしかいない。しかもこれらの
学者たちでさえ、今までのところでは、三島をもっぱら文学者としてだけ扱い、彼の政治活動は重視していない
ようだ。私はそれはあやまっていると考えるし、三島自身がなくなる二週間前に、これらの学者について
語った言葉から推察すると、こうしたあやまりは彼自身予想していたようだ。彼は英語でこう言っていた。
「あの人たちは日本の文化の中のやさしいもの、美しいものばかりを取りあげる」したがって外国の批評家に
限っていえば、三島が全く誤解されてしまう可能性はきわめて大きい。この国の政情の非現実性―国防の
問題をトランプ遊びかポーカーの勝負をやっているかのように議論する国である―を、認識できる人は
ほとんどあるまい。(略)外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい
世論調査と言論の自由があるという事実こそが、日本に民主主義のあることを物語っていると頭から
信じこんでいる。三島は日本における基本的な政治論争に現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義原則の
特殊性について、注意を喚起したのである。

ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より


107:無名草子さん
10/10/13 00:45:25 .net
天賦のもの、その質量ともに、作家としてこゝ何十年来、無類の人だつた。
その才能を人工する努力と、その多彩さに於ても、想像を絶した人だつた。
しかも絢爛とした人工造形に、天恵の感情がつねに匂つてゐる、かういふ評語を、殆ど第一級点で当てることが
出来るやうな文士だつた。
その上に、わが使命観を自ら律したその今生の風懐は、エヴエレスト山の頂を超えた。それは不思議なことか、
当然のことか、彼は、学ぶ以前に、知つてゐた。わが平安盛期の文脈の情意の如きも、それを学んだと思へない先に、
少年の彼は、驚くべき濃密度で知つてゐたことだつた。
彼を初めて知つたころから、東京帝国大学の学生だつた時代にかけての印象である。
私が彼を知つたのは、その中学校時代の終り方だつた。

保田與重郎「たゞ一人」より

108:無名草子さん
10/10/13 00:45:46 .net
日本の民と国との歴史の上で、天地にわたる正大なる気を考へる時、偉大なる生の本願を、文人の信実として
表現した人は、戦後世代の中で、日本の文学の歴史は、三島由紀夫たゞ一人を記録する。
過渡期を超越したこの人である。
…三島氏は、日本人について、「繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐい稀な結合」と云つた。
そして「これだけ精妙繊細な文化伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ衰亡してしまふ」と云ふ。
この史観と実践倫理を、彼の一代の生き方の上に重ねた時、わが身心は、たゞおののく感じである。

保田與重郎「たゞ一人」より

109:無名草子さん
10/10/14 00:18:56 .net
三島由紀夫氏の最後の四巻本の小説は、小説の歴史あつてこの方、何人もしなかつたことを、小説の歴史に
立脚した上でなしあげようとしたのであらう。さういふ思ひが、十分に理解されるやうな大作品である。

三島氏も、人のせぬおそるべきことを考へ、ほとほとなしとげた。
そこには人間の歴史あつてこの方の小説の歴史を、大網一つにつつみ込むやうな振る舞ひが見える。

人を、心に於て、最後に解剖してゆくやうな努力は、私に怖ろしいものと思はれた。
三島氏ほどの天才が思つてゐた最後の一念は、皮相の文学論や思想論に慢心してゐる世俗者よりも、さういふものとは
無縁無垢の人に共感されるもののやうにも思はれる。
その共感を言葉でいひ、文字で書けば、うそになつて死んでしまふやうな生の感情である。

保田與重郎「日本の文学史」より

110:無名草子さん
10/10/14 00:19:43 .net
新聞や週刊誌の中には、しごく単純に三島を異常性格者ときめつけ、最初から彼が自分の文学の主要テーマとして
選び貫いた同性愛をも風俗の眼で眺めたあげく、ホモだオカマだと立ち騒ぐ向きまであるのには一驚した。
死んだのは流行歌手でも映画スターでもない、戦後にもっとも豊かな、香り高い果実をもたらした作家である。
彼の内部に眼玉ばかり大きい腺病質の少年が棲み、あとからその従者として筋肉逞しい兵士が寄り添ったとしても、
それをただ劣等感の裏返しぐらいのことで片づけてしまえる粗雑な神経と浅薄な思考が、こうも幅を利かす時代なのか。
異常というなら、わけ知りの、ありきたりの、手垢まみれな説の援用でなしに、その淵に息をつめて身を潜め、
自身の眼でその深みの神秘をさぐろうとはしないものか。この一九七〇年代に、異常というレッテルを小抽出しに
張って、もうそっぽを向いていられる“正常人”がこれほど多いというなら、それこそが異常の証しであろう。

中井英夫「ケンタウロスの嘆き」より

111:無名草子さん
10/10/14 00:20:02 .net
(中略)
ただ、あれほど感性すぐれた彼に、いま一言、突っこんで話をしたかったと思うのは、ぷよぷよとした肉体、
指で押すとちょっとの間はへこむが、またすぐ元に戻って知らん顔をする、さながら腐肉そのままの感触を、
何よりも徹底して憎悪していたのではないか。なぜそれを最後まで、ありのまま憎みとおさなかったかという
点である。「世の中すべて気に入らぬことばかり」にしろ、われわれを包んでいる情況の本質がそこにあり、
一番の敵がそれであることは三島も当然知りぬいていたので、この気持もまた、彼の死後にも変わらない。(中略)
芥川や太宰が、なぜ志賀直哉と長生き競争をしなかったのか、私には不思議でならない、というより、無理にも
そう思いたいのだ。三島にも、また。

中井英夫「ケンタウロスの嘆き」より

112:無名草子さん
10/10/14 11:03:15 .net
床に転がる三島由紀夫の首は雄弁だった。言葉そのものであるような首だった。殆ど理解不能な、意味を
こじつけることもできない言葉を耳に痛いほど首は喋り続けていた。(中略)
その限りなく音楽的な言葉はオルゴールの音のように美しく、彼が生きた時代に投げかける呪いとなっていた。
呪いにかけられた坊やはここにいる。
(中略)
僕は、ジャポン語のより深い理解力を身につけた時のために三島由紀夫の切腹と文学に関する新聞記事を
切り抜いて、富士山山頂の石やうさぎの毛皮でつくった拳大のコアラのぬいぐるみやベトナムのコインなどと
一緒にクッキーの空缶にしまっておいた。それは火事が起きたら何が何でも持って逃げるつもりの宝物だった。

島田雅彦「僕は模造人間」より

113:無名草子さん
10/10/14 11:03:35 .net
自己の作品化をするのが、私小説作家だとすれば、三島由紀夫は逆に作品に、自己を転位させようとしたのかも
しれない。
むろんそんなことは不可能だ。作者と作品とは、もともとポジとネガの関係にあり、両方を完全に一致させて
しまえば、相互に打ち消しあって、無がのこるだけである。そんなことを三島由紀夫が知らないわけがない。
知っていながらあえてその不可能に挑戦したのだろう。なんという傲慢な、そして逆説的な挑戦であることか。
ぼくに、羨望に近い共感を感じさせたのも、恐らくその不敵な野望のせいだったに違いない。
いずれにしても、単なる作品評などでは片付けてしまえない、大きな問題をはらんでいる。作家の姿勢として、
ともかくぼくは脱帽を惜しまない。

安部公房「憂国」より

114:無名草子さん
10/10/15 11:36:04 .net
応援席の中から、中等科一年生を見分けることはたやすかった。学帽や徽章は、「貫禄」をつけるためわざと
よごされていても、襟章の金の桜のま新しさは残っていた。それになにより、カン高い声、彼らは小鳥のように
たえず動いていた。一年生は、付属戦の応援を休むことはできない。彼らにとって、上級生は教師よりこわかった。
…その一年生の中にいるはずの平岡公威、のちの三島由紀夫を探しに行った。私は高等科三年だった。
私は一年生の集団に近づき、うしろに立っている一人の肩をたたいた。彼はふりかえると、直立不動の姿勢をとった。
「平岡公威(こうい)という人はいないか?」「は。おります」
彼の視線は、最前列のベンチで、帽子をとり合ってはしゃいでいる一群に走り、そこでとまった。
「あれです。あの白い奴です」「すまないが、呼んで来てくれ」
人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。
目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

115:無名草子さん
10/10/15 11:36:26 .net
「平岡公威(きみたけ)です」
高からず、低からず、その声が私の気に入った。
「文芸部の坊城だ」
彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。
「きみが投稿した詩、『秋二篇』だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」
私は学習院で使われている二人称「貴様」は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。
…「これは、文芸部の雑誌『雪線』だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」
三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。
三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は
少年のやさしい魂を垣間見たと思った。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

116:無名草子さん
10/10/15 11:36:49 .net
そのまま私はたち去ったが、同級生の質問責めにあっている少年を背後に感じた。
あの人の稚児ではないか、といったからかい半分、やっかみ半分の質問をかいくぐって、最前列のベンチへもどる
まっ白な少年が、目に見えるような気がした。
そのころの学習院では、稚児遊びが盛んだった。私も中等科一、二年のころ、上級生から、厚い封筒を
おくられたことがある。(中略)
しかしこうした稚児遊びは、男色と呼ばれるようなどぎついものではなかった。むしろ、初恋よりも淡々しい、
思春期の、一種なまめかしい情緒だった。
そうして三島と私との場合、私を三島に結びつけたものは、肉親にめぐり逢うたようななつかしさ、とでもいおうか、
昭和十二年秋、三島十二歳、私は二十歳、たとえば上記のようにして、私たちは邂逅した。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

117:無名草子さん
10/10/15 11:37:25 .net
三島にわたした文芸部の雑誌『雪線』第三号には、私の小説『鼻と一族』が掲載されており、それは二・二六事件に
関した作品であった。この二・二六事件が、後年の三島に大きな影響をもたらしたことは周知の通りであるが、
事件の起こった昭和十一年二月には、三島はまだ初等科五年、私は高等科一年であった。(中略)
(三島の)感じやすい魂は、事件の背後にあるものを、本能的に読みとったのではあるまいか。それは、三十年後の
『天人五衰』に、本多の考えとして書かれている「日本の深い根から生ひ立つたものの暗さ」である。
われわれのはるかなるふるさとの、暗いともし火である。それは『春の雪』に結実した「優雅」であるとともに、
『奔馬』における「暗い熱血」でもあった。
…しかしふたつながら、「近代」の前に消え失せようとしている、すでに不在の残像かもしれない。
その火影を、三島は十二、三歳の歳、みずからも手の届かない心のおくがに、見てしまったのではなかったろうか。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

118:無名草子さん
10/10/15 11:38:27 .net
昭和十五年夏、私は信州追分の泉洞寺の離れに一室を借りて、国文科の卒業論文を書いていた。(中略)
落下傘のやうに 開かぬこともあるのかしら 咲き遅れた月見草よ
七月、私はこんな詩を、東や三島に書き送った。三島は、「落下傘のやうに」という比喩を褒めてくれた。
「時代の不安」が、そこはかとなくあらわれている、といって。
(中略)短い一行のなかに、三島が「時代の不安」をよみとってくれたことはうれしかった。
その年の九月、三島に送った詩はつぎのとおりである。

新たな眠りに半身の侵される儘に 
額に額をおしあてたままに 
見るとなくあなたを眺めるとき
近過ぎて朧げな唇は 青い空気に湿つた
不機嫌に目覚めた山肌から 
立ち昇る香の漂ひに 
幽かにしののめが響いてきた
頬にもつれる髪の潤ひ 
髪にもつれる息の静けさ
冷え冷えと 
冷え冷えと 
光ほのかに白らむ窓

…そのころの作品を読みかえしてみると、このように、至るところに、少年三島が投影していることに気づくのである。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

119:無名草子さん
10/10/15 11:43:05 .net
『詩を書く少年』の先輩Rは、私である。Rは少年に自分の恋愛を告白する。(中略)
私はこの恋愛を『舞』と題する小説に書いた。昭和十六年から十七年にかけてのことである。
三島は『舞』が、事実にもとづいて書かれたものであることを百も知っているのに、まったくの虚構としてあつかい、
たとえば、「こんな会話はあり得ません」とか、「こんな情景はあり得ません」といった言い方をした。
今になって考えると、三島の言葉には省略があった。「われわれ(貴下と私)の文学の世界においては、
こんな会話はあり得ません」という意味であった。三島は『文章読本』で、「格調と気品」を守るためには、
多少の現実性は犠牲にしても、会話における倒置法などは用いない、と記している。ところがそのころの私は、
実際の会話をそのまま写して、得意になっていた。だから三島は、「こんな会話はあり得ません」といったのである。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

120:無名草子さん
10/10/15 11:43:34 .net
(中略)三島は度し難いと思ったのであろう。手をかえて、この女主人公は下品だとか、野卑だとか言い出した。
あるいは、この地の文は、新聞記事のようで個性がない、とか。
私はその時気づかなかった。十六歳の三島は、すでに脱皮していたということに。三島はもう『詩を書く少年』
ではなかった。清水文雄氏はじめ、『文芸文化』の同人にみとめられ、『小説を書く少年』になっていたのである。
Rの中に滑稽なナルシスムを発見した少年は、みずからのナルシスムにも気づいたのである。(中略)
こうして、私の恋愛は、ひそかに私が期待していたのとは反対に、三島からも、そうして東からも、何の尊敬も
同情も得られなかったばかりか、むしろそのために、私は彼らから見棄られた恰好になった。
彼等は、私のかわりに徳川義恭を仲間に入れ、『赤絵』を創刊した。それは私に対する叛旗であり、私の恋愛に
対する、彼らの復讐のような気がしたのである。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

121:無名草子さん
10/10/15 11:43:51 .net
(中略)私から完全に消え去るためには、三島はあまりに高名であった。私はいやでも神輿をかついでいる
彼の写真や、ボディ・ビルできたえた肉体のそれを見なければならなかった。
…私にはそんな三島が、いたずらに、鬼面人を驚かす貝殻に、つぎからつぎと宿ってみせる、宿かりのように
見えたのだった。勿論、三島の真意は、そのような趣味の問題ではなかった。最も不慣れな、不器用な面で、
彼は生きようと欲したのである。この血のにじむ「生」のなかにしか、彼の求める「創造」はあり得なかった。
ある時、末弟俊周がこんなことを言った。「三島さんに会ったらね、俊民さん、お元気、って聞いていたぜ。
三島はこのごろ、変な映画を作ってるといって、俊民さん笑っていなさるだろうな、って」
三島の共通の知人に出会うと、これに似た三島の言葉が、何回か伝えられた。しかし、所詮は戻ることのできない
彗星の小さき影として、三島は私のはるかな空に、またたいているにすぎなかった。
…かくして二十年の時はながれた。


坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

122:無名草子さん
10/10/15 11:44:08 .net
昭和四十五年正月のある日だった。偶然手にした月遅れの婦人雑誌の新刊書紹介の欄に、『春の雪』の梗概が出ていた。
「やった。とうとうやった」と私は思った。私は早速『春の雪』を購入、ひと息に読んだ。『春の雪』の世界は、
三島の世界というよりも、私の世界に近かった。登場人物のすべては、あるいは私の肉親であり、親戚であり、あるいは
その召使であるような気がした。広大な松枝邸も、鎌倉の別業も、かつてそこに遊んだ記憶があるように思われた。
三島が十四、五歳のころ、私は『夜宴』という散文詩を書いた。
「今度はぼくに書かせてください」三島は言った。「坊城伯の夜宴を」
三十年前のこの約束が、今、目の前に果たされたのを、私は見た。三島と私との、二十年に及ぶ空白は、一瞬にして
消滅している。三島は少年の日のように、ふたたび私のかたわらにある。奇蹟は、まさに起こったのである。


坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

123:無名草子さん
10/10/15 11:44:33 .net
そうして、読後のこころよい興奮のうちに、『源氏物語』をはじめて読んだ日々のことが、二重写しになって、
おもむろに浮かんできた。
…今になって『源氏』が読みたくなった…(中略)
『夕顔』にいたるや、小躍りして私は思った。これこそ『源氏』だ、と。ふたつのイメージが重なったばかりでなく、
重なると同時に、忽然、ひかりを発し、匂いを発し、小天地はおのずから展開してゆく。私は静かな熱狂を覚えた。
そのしずかな熱狂が、『春の雪』読後、私によみがえった。
それは、この国の暗い地下水、「優雅」に対する讃嘆であった。


坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

124:無名草子さん
10/10/15 11:47:41 .net
(中略)優雅とは、洗練された、優美繊細なものと一般に言われているが、その根底には、いつも野性を秘めて
いなければならない。(中略)
優雅とは、地上のあらゆる権勢富貴を、つねに見おろす魂の高貴さにあり、言い替えれば、すべての物質に
対する精神の優位を示すものである。(中略)
まことの「優雅」は、現代人のいわゆる「優雅な生活」を棄てた人たちの手によって、受け継がれて来たのである。
(中略)私は『春の雪』が、三島のすべてではないことを知っている。しかしそこには、作者三島のふるさとがある。
三島ばかりでなく、日本文学が、否定しようとしても否定できないもの、脱皮しようとしても脱皮できないもの、
ひとたびは回帰すべき、この国の「深い根」が描かれている。「優雅」が描かれている。だから私は『春の雪』を、
『豊饒の海』の第一巻としてばかりでなく、三島の全作中の、最も高い位置に置きたいのである。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

125:無名草子さん
10/10/15 11:48:02 .net
(中略)「坊城さん、ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います」
「そう。俊成が死ぬとき、定家は何とか口実を設けて、俊成のところへ泊らないようにするだろう?あそこは面白かった」
「あそこも面白いですが、定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから
神になったのです」三島の眼は輝いた。(中略)
今になって思うのだが、三島は少なくともそのころ、四十五年正月ごろは、進むべきふたつの道を想定して
いたのではなかったろうか。ひとつは、世人が皆知っている、自決への道である。これを三島の表街道とすれば、
裏街道は、定家を書く道であった。裏街道をたどらざるを得ないことが起こったとすれば、それは三島にとって
不本意にはちがいなかろうけれども、私は後者をとってほしかった。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

126:無名草子さん
10/10/15 11:48:19 .net
(中略)きみは自決の六日前、最後の手紙を書いてくれた。
「十四、五歳のころが、小生の黄金時代であったと思ひます。実際あのころ、家へかへるとすぐ、『坊城さんの
お手紙は来なかつた?』ときき、樺いろと杏子いろの中間のやうな色の封筒をひらいたときほどの文学的甘露には、
その後いきあひません。」(中略)
フロベエルの、なつかしい『トロワ・コント』モオパッサンの『メエゾン・テリエ』こうした題名を目にしただけで、
あのころの学習院が、きみとはじめて会ったころの、昭和十年代の学習院が、瞼に浮かんでくる。きみは中等科一年、
ぼくは高等科三年だった。きみが『春の雪』に克明に描いている、天覧台の芝生、お榊壇、血洗の池……。
そうして、誰がいつ掃除したのかもわからない、古い寮の一室、すなわち、雑然たる文芸部の部室。(中略)
…ラディゲもまた、反近代の戦士のひとりに数えられるだろう。伝統の美神の帰依者だった。これら文学の
大先輩達を、われわれはいかに讃美したか。あのころ、きみは十四、五歳。ぼくは二十二、三歳であった。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

127:無名草子さん
10/10/15 11:48:37 .net
(中略)三島由紀夫の最期は、私にとって、みずからが生きるみちの困難さを、思い知らされるものがあった。
(中略)現代とは、アメリカの一作家によれば、「社会が、熟練した、facelessな人間を求めている時代」である。
即ち、人間は、その故郷の灯を見失おうとしている。忘れるということならば、思い出すこともあろう。
けれども、忘却ではなくて、喪失の時が来てしまったような気がする。(中略)
絵文字のやうに
楔形文字のやうに
我等の詞華は滅びるであらう
しかし 誰か人あつて我等の廃墟を訪ひ
たれか人あつて我等の文字を目にする時……
三島由紀夫とめぐり逢うた二十歳のころ、私はこんな詩句を彼に示した。
…この気持は少しも変わっていないので、ここに揚げて結びの言葉にかえたい。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

128:無名草子さん
10/10/15 20:38:27 .net
鈴木邦男『遺魂=三島由紀夫と野村秋介の軌跡=』 発売記念トーク

11月1日(月)午後7時より 阿佐ヶ谷ロフト

129:無名草子さん
10/10/15 20:40:12 .net
「三島由紀夫と蕗谷虹児=うたと講演のつどい」

11月6日(土)午後6時半より
新潟県新発田市 生涯学習センター

 第1部 ソプラノ歌手の柳本幸子さんによる「三島由紀夫と蕗谷虹児の世界を歌う」
 第2部 講演「三島由紀夫と蕗谷虹児=一枚の挿し絵にこめた想いとは」

130:無名草子さん
10/10/16 11:15:10 .net
「花ざかりの森」の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。
それが最もいいと信ずるからである。
若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。
日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の
文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。
この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。
我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。
此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。
併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである。

蓮田善明
昭和16年「文芸文化 編集後記」より

131:無名草子さん
10/10/16 11:15:54 .net
交遊に乏しい私も、一年に二人か一人くらいづつ、このやうに国文学の前にたゝづみ、立ちつくしてゐる少年を
見出でる。
「文芸文化」に〈花ざかりの森〉〈世々に残さん〉を書いてゐる二十歳にならぬ少年も亦その一人であるが、
悉皆国文学の中から語りゐでられた霊のやうな人である…。

蓮田善明
昭和18年「文学 編集後記」より


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