【割腹自殺】●●三島由紀夫3●●【肉体改造】at BOOKS
【割腹自殺】●●三島由紀夫3●●【肉体改造】 - 暇つぶし2ch150:無名草子さん
10/10/19 00:25:15 .net
「英霊の声」の作品評を改めてしようとは思わない。その主題と構成についてもすでによく知られているものとして
話をすすめたい。問題はこれがある巨大な怨念の書であるということである。ある至高の浄福から追放された
ものたちの憤怒と怨念がそこにはすさまじいまでにみちあふれている。幽顕の境界を哀切な姿でよろめくものたちのの
叫喚が、おびやかすような低音として、生者としての私たちの耳に迫ってくる。
三島はここでは、それら悪鬼羅刹と化したものたちの魂が憑依するシャーマンの役割をしている。
昔から能楽のもつ妖気の展開様式に熟練している三島は、ここでも巧みにその形式を利用している。

橋川文三「中間者の眼」より

151:無名草子さん
10/10/19 00:27:20 .net
私は、今でも深夜「二・二六事件」(河野司篇)をひもどくとき、そのとあるページを直視するにたえないが、
この作品の鬼気にはそれに通じるものがある。彼らの方が生きており、お前たちの方がそうではないのだぞと、
そのとあるページのデスマスクは不気味な言葉で語りかけてくる。そういう迫力において、この作品は、
あれらの人々の心情をみごとに再現している。
しかし、こうした印象批評に私が関心があるのではない。三島はやはりここで、日本人にとっての天皇とは何か、
その神威の下で行われた戦争と、その中での死者とは何であったか、そして、なかんずく、神としての天皇の死の後、
現に生存し、繁栄している日本人とは何かを究極にまで問いつめようとしている。
これが一個の憤怒の作品であるということは、それが現代日本文明の批判であるということにほかならない。

橋川文三「中間者の眼」より

152:無名草子さん
10/10/20 12:02:19 .net
「……それにしても、『天皇陛下万歳』と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。もう二度と
来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、
何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感は
いったい何だったんだろうか……」(『対話・日本人論』)
これは、三島の読者にはすでによく知られているあの浄福感の回想である。それは戦争という「死の共同体」の下で
いだかれた幸福感ばかりでなく、さらに古代そのままの部族神(=現人神)の庇護下にあるという浄福感とを
渾然と統合した感覚であった。
この不滅の幸福感は、天皇の人間宣言と、戦後の開始とによって亡びねばならなかった。しかし、それは不滅の
本性をもっていたから、決して死滅することはできなかった。三島はいわゆる「仮面」のもとにその仮死の幸福感を
包み、かえって残酷な「平和」時代を二十幾年も生きつづけて来た。

橋川文三「中間者の眼」より

153:無名草子さん
10/10/20 12:02:35 .net
しかし、それほども永い間、いわば肉体を欠如したまま仮死状態におかれていた幸福は、ある時期、本当に
死滅するかもしれないという微妙な予感におびえ始めたのかもしれない。不死の存在は、あまりにもながく
その仲間たち―かつてのあの戦士共同体―からの通信は絶たれていた。日常の中に瀰漫して眼に見えぬ媒介を
行うものたちがしだいに消失して行くのに気づいて、三島の中の隠された幸福感は、事態の緊急性にいらだち
始めたのかもしれない。三島自体についていえば、戦後を生きるために計算されつくしたはずの計画が、
思いがけない破綻に直面していることを知ったということになるのであろうか。
…解決は、ノスタルジアの果に来る狂か、死か、または政治というもう一つの芸術か、であろう。

橋川文三「中間者の眼」より

154:無名草子さん
10/10/20 12:02:58 .net
『金閣寺』は、鴎外風の冷徹な文体を用いて、不朽の美と人生との不条理な関係という、混沌としたテーマを
追及した観念小説というべきものである。
…金閣寺は、この作品において美の象徴であり、しかも戦火によっていつ焼亡するかもしれないという時期、
凄まじいまでの美をあらわしている存在である。主人公は、その終末の予感に陶酔しつつ、金閣寺=美との
共生にいいがたい浄福を感じている。これは、すでに伝記において見たとおり、孤独な美的趣味に熱中する
三島の精神風景と同じものである。
しかし、その反面において、美に憑かれた人間にふさわしい現世的不具性もまた、主人公の運命である。人生を
象徴する女性との性行為の瞬間、金閣の幻影はたえず現出して主人公を不能におとし入れる。三島がその作品で
しばしば描くそのような挫折の瞬間は、金閣寺と京都の歴史がよびおこすある人工的なイメージに助けられて、
この作品においてもっとも成功しているといえよう。

橋川文三「主要作品解説 金閣寺」より

155:無名草子さん
10/10/20 12:03:12 .net
敗戦の日、金閣寺と主人公の共生は断たれる。金閣寺は、あの失われた恩寵の時間を凝縮して、永遠の
呪詛のような美に化生する。主人公は美の此岸にとりのこされ、もはや何ごととも共生することができない。
―この辺りには、戦中から戦後へかけての青年の絶望と孤独の姿が、比類ない正確さで描き出されており、
金閣=美を戦中の耽美的ナルシシズムにおきかえるならば、戦後もなお主人公を支配する金閣の幻影が、
青年にとって何であったかを類推するに困難ではないであろう。そこから、金閣寺を焼かねばならないという
決意の誕生もまた、戦後の三島の精神史にあらわれた「裏がえしの自殺」の決意にほかならないことも明らかに
なるであろう。こうして、この作品は、実際の事件に仮託しながら、三島の美に対する壮大な観念的告白を
集大成したような観を呈しており、美の亡びと芸術家の誕生とを、厳密な内的法則性の支配する作品の中に、
みごとに定着している。『仮面の告白』に遙かに呼応する記念碑的な作品である。

橋川文三「主要作品解説 金閣寺」より

156:無名草子さん
10/10/20 12:05:18 .net
ここ(『鏡子の家』)に描かれている四人の青年たちと鏡子とは、ある秘められた存在の秩序に属する倒錯的な
疎外者の結社を構成している。かれらのいつき祭るもの、それはあの「廃墟」のイメージである。三島がどこかで
「兇暴な抒情的一時期」とよんだあの季節のことである。
…じっさいあの「廃墟」の季節は、われわれ日本人にとって初めて与えられた稀有の時間であった。ぼくらが
いかなる歴史像をいだくにせよ、その中にあの一時期を上手にはめこむことは思いもよらないような、不思議に
超歴史的で、永遠的な要素がそこにはあった。そこだけがあらゆる歴史の意味を喪っており、いつでも、随時に
現在の中へよびおこすことができるようなほとんど呪術的な意味をさえおびた一時期であった。ぼくらは、その
一時期をよびおこすことによって、たとえば現在の堂々たる高層建築や高級車を、みるみるうちに一片の瓦礫に
変えてしまうこともできるように思ったのである。それはあのあいまいな歴史過程の一区分ではなかった。
それはほとんど一種の神話過程ともいいうる一時期であった。

橋川文三「若い世代と戦後精神」より

157:無名草子さん
10/10/20 12:05:34 .net
(中略)三島がどこかの座談会で語っていたように、戦争も、その「廃墟」も消失し、不在化したこの平和の
時期には、どこか「異常」でうろんなところがあるという感覚は、ぼくには痛切な共感をさそうのである。
…つまり、そこでは「神話」と「秘蹟」の時代はおわり、時代へのメタヒストリックな共感は断たれ、あいまいで
心を許せない日常性というあの反動過程が始まるのであり、三島のように「廃墟」のイメージを礼拝したものたちは
「異端」として「孤立と禁欲」の境涯に追いやられるのである。「鏡子の家」の繁栄と没落の過程は、まさに
戦後の終えん過程にかさなっており、その終えんのための鎮魂歌のような意味を、この作品は含んでいる。
元来、ぼくは、三島の作品の中に、文学を読むという関心はあまりなかった。この日本ロマン派の直系だか
傍系だかの作家の作品のなかに、ぼくはつねにあの血なまぐさい「戦争」のイメージと、その変質過程に生じる
さまざまな精神的発光現象のごときものを感じとり、それを戦中=戦後精神史のドキュメントとして記録することに
関心をいだいてきた。
橋川文三「若い世代と戦後精神」

158:無名草子さん
10/10/20 12:05:51 .net
私は、研究室で突然三島の死を聞いたとき、どういうわけかすぐに連想したのは、高山彦九郎であり、神風連であり、
横山安武であり、相沢三郎などであった。
これらの人々の行動はいずれも常識を越えた「狂」の次元に属するものとされている。この「狂」の伝統が
どのようにして、日本に伝えられているのか、それはまだだれもわからないのではないだろうか。ただ、すべての
「異常」な行動を「良識」によって片づけることは、これまでの日本人の心をよくとらえ切っていない。日本人は、
否、人間は、自分の内部の「狂」をもっと直視すべきではないだろうか。
三島は私の知るところでは非常に「愚直」な人物である。私のいう意味は、幕末の志士たちのいう「頑鈍」の
精神であり、私としてはほめ言葉である。(中略)
私は三島をノーベル賞候補作家というよりも、その意味では、むしろ無名のテロリスト朝日平吾あるいは
中岡良一などと同じように考えたい。

橋川文三「狂い死の思想」より

159:無名草子さん
10/10/20 17:50:03 .net
(三島事件のあと)あるポーランド人の団体から招待されたときのことが想いだされてくる。
きっかけをつくったのはソルボンヌにおける私の学友、ポニアトスキー(仮名)だった。(略)長身で赤ら顔の
ポーランド人で、つねに微笑をもって語り、その人柄は善意にあふれていた。いつも詰襟に丸首のカラーをしていた。
カトリック神父だったのである。
(中略)事件後ちょうど一ヶ月、クリスマス・イヴのことだった。その数日前まえに思いがけず、この友から
電話があった。
「きみのテレビ放送を見たよ。われわれの仲間は、みんな、ミシマのことを知りたがっている。ぜひ来て、
話してくれないか……」
「仲間」とは、誰だろう? その夜、パリ某所の指定された建物に出向いてみると、そこはむしろ、ささやかな
宗教的共同体といった感じの場だった。自分は出版社で働いているとかねがねポニアトスキーは言っていたが、
じっさいは、その家は、出版社兼宗教結社だったのである。(中略)

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

160:無名草子さん
10/10/20 17:50:26 .net
晩餐の部屋に降り立つと、すでに十数人の人々がテーブルについて待ちうけていた。思いがけなく、私が主賓だった。
(略)…うすぼんやりとした光のせいで、地下の窖にも似たその部屋の光景は、どこか抑圧された秘密の影を秘め、
カタコンベの一部といった感じさえした。この印象があながち間違っていなかったことを程なく私は知らされ
ようとしていた。ひととおりの会話のあと―その席上で私は先に国営テレビの文芸討論会で発言したことを
敷衍してしゃべったのであったが―長老格の人物が立って、こう述べたからである。
「国の従属の縄目(いましめ)を断ち切って立たんとした人の死が、いや、日本独自の、あの儀式的意志的死が、
イエスの十字架の思想より見たとき《受肉の完成》としての意義を顕わにするであろう、とのご高説には、
われわれ一同ふかく心を打たれております。(中略)貴国の偉大な作家ミシマの驚嘆すべき行為は、まさしく
この微行性(アノニマ)につうずるものであったと、いまや私どもには信じられるのです。……」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

161:無名草子さん
10/10/20 17:50:44 .net
と、白髯を垂らしたその老神父は、左手で、黒のスータンの胸にかけた金色の十字架にそっと触れながら、
いったん句切りを置いた。
「……イエスにとって《受肉の完成》とは、十字架とともに復活をもって成しとげられるものでした。
ミシマにとっては……なんと言いましょうか……彼の復活の思想はなかったのですか?」
「彼の、ではなく、日本人の、とと申しあげましょうか……」と私は答えた。
「われわれが《七生報国》と呼ぶ思想こそはそれに当たるのです……」
じっとわれわれの会話に耳を傾けていた周囲のポーランド人たちから、「ほほう!」といった嘆声が洩れた。
枝付燭台の向こうで、長老の頬は紅潮していた。(中略)ポニアトスキーは大きな手をさしのべながら私に
こう言った。
「私どもの祖国の政治的状況は、きみも知つてのとおりだ。同胞の読みたがっている本も、そこでは自由に
出版することができない。こうして、パリ経由でわれわれがやっているわけなんだよ……」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

162:無名草子さん
10/10/20 17:51:04 .net
いまや私には彼の言葉の意味するところは明瞭だった。私を招きいれた人々は、要するにポーランド独立の
地下抵抗運動の同志たちだったのだ。カトリックという精神領域を武器としての。
そしてこれらポーランド人たちにとって、世界の果ての国日本の一作家の信じがたき決起と死は、あの
第二次大戦末期、(中略)…いまにいたるソ連支配の屈従の運命に抗する勇気をあたえてくれるものだったのだ。
日本で、われわれのヒーローが「右翼」とレッテルを貼られ、「グロテスク」、「時代錯誤」と譏(そし)られ、
「恥さらし」―対外的に……―と罵られている、まさにそのときに。あるいは、現代日本のタイラント、
偏向したマスコミ中心の世論を怖れて、大半の知識人が、いっそ沈黙することを選びつつあるそのときに。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

163:無名草子さん
10/10/20 17:51:22 .net
(中略)
他者への殺害ではなく自害によって決着するその行為が、いかに深く西欧のもっとも高貴なる魂を振起し、
その魂の屈折をとおしていかに深く日本の名誉を購わんとしたものであるか、その夜、このうえなくはっきりと、
私はその名証を見たのだった。(中略)
しかも、氏の自刃が西欧人の心に掘りおこした感情は、ひとりキリスト教にとどまるものではなかった。
キリスト教と対立する古代精神の領域にまで広がるものであることを、やがて私は知らされようとしていたのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

164:無名草子さん
10/10/21 23:26:10 .net
明けて一九七一年となった。その年の六月にパリで開かれた《憂国忌》について、ここで語らなければなるまい。(中略)
この企画(映画「憂国」特別鑑賞会)が伝わるや、見たいという有志がぞくぞくと名乗りでてきた。
スポンサーは、詩人エマニュエル・ローテンがひきうけてくれた。惜しくもすでに故人となったが、小背で
容貌怪異、みずから好んで「フランドルの土百姓の出で……」と冗談をいうのがつねであった。(中略)
エマニュエル・ローテンと私とのあいだで初めて三島由紀夫が話題になったのは、氏の邸内においてであった。
事件後まもなくだったと記憶する。それというのも、そのときローテンは、例の「文芸フィガロ」誌の三島特集号を
手にして私のまえに現れるなり、朱の色をバックに抜刀したヒーローの大写しの表紙をこつこつと拳で叩きながら、
野獣の咆哮のごとく、こう言ったからである―「私は、あらゆる暴力に反対だよ!」と。
しかし、まもなく、この詩人の意見は一変してしまうのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

165:無名草子さん
10/10/21 23:27:06 .net
一つの偶然が、私のもくろんだ集いを大いに盛りあげることを助けてくれた。作曲家、黛敏郎氏の参加を得た
ことである。黛氏は三島由紀夫の『金閣寺』のオペラ化の打合わせでベルリンに見えていたが、パリにはいって
私と会い、企画を聞くや、言下に参加を快諾してくれた。われわれはそれが初対面の間柄であったけれども。(中略)
(参加者に)ガブリエル・マズネフ氏がいたことを、真先に挙げたいと思う。(中略)
ガブリエル・マズネフが当夜われわれあいだにいたということの意義は小さなものではあるまい。彼は
『挑戦』の一冊を手に会場に駆けつけてくれたが、あとで私はその扉につぎのような献辞を見いだした。
「タケオ・タケモトに、この私の処女作をささぐ。本日、貴君のはからいで見たミシマの忘れがたきフィルムが
まさにその開花であるところの、美と死とのこの出会い、自殺のストイックなる理想を、本書のうちにまさに
貴君が再見されるであろうがゆえに。 ガブリエル・マズネフ」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

166:無名草子さん
10/10/21 23:28:17 .net
(中略)ほかに、《パリ憂国忌》出席者についていちいち詳述するいとまをもたない。ただ、全体に、右の
ガブリエル・マズネフ、ミシェル・ランドム(作家、映画監督)、バマット(ユネスコ文化局長)の三氏がその
代表例であるように、集まった碧眼の知識人たちはきわめて精神的傾向が強く、一様に「日本のミシマ」の
果断の行為に心を奪われ、現代において―つまり日本においてのみならず―それがいかなる意味をもちうるか
ということを真剣に問う人々であった事実を記せば足りるであろう。(中略)
黛敏郎氏は次のように回顧している。
〈…映写が終り、客席が明るくなってからも、暫くのあいだ誰も声を発する者はいなかった。隣席のローテン氏は、
ポロポロと涙を流しながら、私の手を強く握りしめたままだった……〉
そうだ、エマニュエル・ローテンの、この変化こそは、観客全体の感銘を代表して余りあるものだったのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

167:無名草子さん
10/10/21 23:29:29 .net
黛氏はつづいて書いている。
〈ややあって、立ち上ったローテン氏は、声涙ともに下る短い演説をした。「いま皆さんが、スクリーンで
観られた三島氏は、この映画さながらの古式に則った武士道の作法通りに切腹して果てた。このような天才的な
芸術家が、何故、このような行為に出たのだろうか?」〉
あとはもう言葉ならなかった。
私は、胸を打たれて、いかつい顔のこの人物が頬鬚を涙でぐしょぐしょに濡らしながら嗚咽を抑えるさまを、
ただまじまじと視つめるのみだった。「私はあらゆる暴力に反対だ!」と、最初、事件を知って叫んだローテンの
意見をかくも急旋回せしめた力は、いったいなんであったか?
ここでわれわれは、事件の本質に関する甚だ重要な一点に立つのである。
観客のすべてが別室に引きあげてからも、ローテンだけは、場内にただひとり佇んでいた。そして私の姿を
見かけると、なおも涕泣しつつこういうのだった―「《愛と死の儀式》―私がここに見たものは、まさしく
神ということなのです……」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

168:無名草子さん
10/10/21 23:31:40 .net
エマニュエル・ローテンといっしょに私が映写室を出ると、小さなサロンに一同は頬を紅潮させて集まっていた。
一言でいえば、それは、打ちのめされた光景だった。(中略)黛敏郎氏はこう書いている。
〈当然、私は質問攻めにあうことになった。私は、私に考えられる限りの、三島氏の自刃に対する見解を述べた。
要するに三島氏は、大東亜戦争敗戦後の虚脱状態から一転して今日の経済的繁栄を手にした現代の日本人たちが、
芸術的にも、精神的にも、日本古来の伝統を軽視し、それが天皇ご自身をも含めた日本人一般の風潮となって、
日本がその文化のすべてのよりどころとしてきた天皇制の危機を、誰よりも強く感じ始めたこと。(中略)あの
事件が世の中に与えるショックの性質と限界とは、氏にとっては計算済みのことであって、氏の目指したのは、
「精神的クーデター」の火をつけることであり、それは見事に成功して、あのショック以来、日本の知識人の多くは、
深刻に自己を見つめ始めたこと。以上のような説明が、私の口からなされると、讃同の意を表わしてくれる
フランス人たちが多かった。(中略)〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

169:無名草子さん
10/10/21 23:37:14 .net
「《ユウコク(憂国)》とはどういう意味ですか?」と真先に私に尋ねてきたフランス人があった。批評家
クリスチャン・シャバニ氏である。(中略)
「それは、国の運命を憂うる、ということです」と私は答えた。
そう聞くと相手は、「ああ、なんという美しいイデー(思い)だろう!」と叫んだ。
「つまり、単なる《愛国(パトリオチズム)》とは異なるんですね。…(略)そこには、深く民族の帰趨を案じ、
精神的にこれを指導する予言者の役を果たし、時いたらば人柱となって死するをも辞さじという、苦悩と殉教の
精神が、より脈々とあふれでている……ヒーローよりも、予言者の心情というべきではなかろうか。バビロンの流れ、
ケバル河のほとりで、幽囚の民族の運命を嘆いた旧約の《レ・グラン・プロフェット(大予言者たち)》のように」
どんなにか私は彼の手を握りしめたかったことであろう! この打てば響くような素早い理解、深い共感性……。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

170:無名草子さん
10/10/21 23:38:09 .net
地球の反対側で、ほかならぬ同胞のあいだで、犯罪者・精神錯乱者・エグジビショニスト、等々、ありとあらゆる
罵声が浴びせられつつあるあいだに、ここではその「元凶」は、「予言者」の名をもって語られつつあったのだ。
「ぼくは、はっきりとローマ派の人間だが……」と、ここでガブリエル・マズネフが口ゆ切った。…「つまり、
高徳のストイシャンだった古代ローマ人の生きざまを全幅に肯定する人間だが、しかし、このぼくにしてからが、
このフィルムを観て、まったく『シャッポー(脱帽)!』と叫ばざるをえなかったよ」(中略)
「…ローマの偉人たちはストア派の哲学に勇気の糧をもとめたのだ。もっとも、なかには、その勇猛をもって
鳴る武将、小カトーのように、プラトンの『パイドン』を読んだあとで自殺したという変わり種もあるけれどもね。
…(略)ところで、この小カトーの自殺が割腹によるものだったことは、ごぞんじでしょう?」マズネフの
問いは私に向けられていた。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

171:無名草子さん
10/10/21 23:38:38 .net
「ええ『ブルタルコ英雄伝』の、ぼくは熟読者ですからね」
「ぼくも同様……要するに、剣は、ローマ共和国の武人たる以上、もっとも尋常の自殺の具だったんですよ。(略)」
「ちょっと待ちたまえ……」と、ここで初めてアフガニスタン人の剣豪バマットが口を開いた。…さながら
「面!」の掛け声を掛けるかのごとく繰りかえしていう―「待ちたまえ! しかし、それら顕然たるローマの
歴史的武将たちは、自決するときに、なんらかの儀式(リット)にもとづいてそうしたかね? …(略)
日本のサムライの死は、勇気のあらわれというだけのものではないよ。プラスなにかが、そこにはある。
それゆえの切腹の儀というべきではなかろうか?」
「そうだとも!」
と、バマットのうしろから、そのソファの背にもたれて話に聞きいっていたエマニュエル・ローテンが叫んだ。
「それこそはミシマの言いたかったことのはずだよ」と。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

172:無名草子さん
10/10/21 23:42:26 .net
同時に、「セ・ジェスト(そのとおり)!」「ヴォアラ(しかり)!」「アプソリューマン(まったくそうだ)!」
という声々が、あちこちから興った。(中略)
しかし、間髪を置かず、一座の声々に呼応して、マズネフもこう言っいた。
「だから…だから…ぼくも、さっき、こう言いかけていたんだよ。『シャッポー』とね!」(中略)
バマットがまたも切りこみをかける「つまり、ローマ的自殺には、なんというか、《フォルム》がない。
フォルム―カタ(型)ですね……」と私のほうを向いて刀の柄を両手で握りしめるそぶりを見せる。
「つまり、文明全体のありかたにかかわるかどうかということだと思うな……」とミシェル・ランドムが静かに
言葉を挟んだ。「いいかね、すこし告白をしていいかね……」細い銀縁眼鏡の奥で、不適な彼の顔の表情と
不釣合な優しい目が、一、二度、しばたたいた。この人物もまた、疑いもなく、私がヨーロッパで知った第一級
知識人の一人である。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

173:無名草子さん
10/10/21 23:46:39 .net
「日本で武士道といわれるものが、もし単に勇気と武技の結合したものであるだけなら、ローマと日本のあいだに
なんの差異もないことになるだろう……
こういうことをぼくに教えてくれたのは、弓道のハンザワ(半沢)先生だった。ハンザワ先生といえば、
『弓と禅』を書いたあのドイツのオイデン・ヘリーゲルの師範―有名な東北の阿波研造名人の弟子にあたる
人だけれどもね。…このハンザワ先生の全人格から放射してくるもの、これは、断じてヨーロッパには
見当たらないなにかだった。つまり、そこに浸っているかぎりは死は存在しないといった……ハンザワ先生の
弓を見ていて、ぼくはそれが単なる武技ではないと悟った。先生は、射るとき、目をつぶっておられたのだから…」
私は、その光景を知っていた。ランドム氏のフィルム、『武道』のなかで、それはもっとも美しいシーンであったから。
また私は、半沢師範の訃報に接して彼が子供のように泣いたということも聞かされていた。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

174:無名草子さん
10/10/22 18:05:33 .net
(中略)会話は、こうして、いつのまにやら日本とローマの自決比較論のようになってしまった。
「問題は、しかし、二千年まえのそうした超越的死が、その後も脈々とわれわれの文明の頂点の一形式として
伝えられてきたかどうかということだよ……」声の主は、ふたたびミシェル・ランドムだった。
「日本にはそれがある。それがル・ブシドー(武士道)というものだ……」ぴしりと決まった一言だった。
日本人自身がその持てる最上の伝統を擲ってかえりみないときに、西洋人の側からこうした信念の吐露が
なされるということも、考えてみれば奇妙なことではあった。(中略)
たった一つ、その夕べ、会合者のあいだから洩れた「政治的」発言はミシェル・ランドムが発したつぎの質問だった。
「さきほどのムッシュウ・マユズミの言葉によると、ミシマは、天皇ご自身までが日本の伝統的精神の否定者で
あったと見ておられたとのことだが、それはどういうことなのですか?」と。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

175:無名草子さん
10/10/22 18:05:58 .net
(中略)日本的神聖の持続の問題は彼にとって重大関心事だったのだ。「日本はまさにカミ(神)の国だよ…」
ぽつりと彼の口を洩れたこの言葉の意味を、その後しばしば私は想いだしたものである……
「天皇は飽くまで神であらせられるべきだった、というのが三島の考えだったのです」と、そこで私は
『英霊の声』を想起しながらランドムの問いに答えた。「しかし、それにもかかわらず、自衛隊バルコニーで、
『天皇陛下萬歳!』を三唱して三島は死んでいったわけですが……」
「それはじつに重要なことだ! それはじつに重要なことだ!」ランドムは、驚いたようにこちらをじっと見て、
そう繰りかえし叫んだ。頃あいやよしと見て、エマニュエル・ローテンが、立ちあがって声をかける。
「メッシュー(みなさん)、今宵は、われわれの精神の通夜です。談論風発のつづきは、このあと、ぜひ拙宅で
やってください。亡き日本の天才をしのんで、心ゆくまで語りあおうではありませんか!」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

176:無名草子さん
10/10/22 18:06:14 .net
(中略)ここでまた何人かの新規の参加者があり、そのなかに美術批評家ミシェル・タピエ氏の姿もあった。(中略)
「私は、ここに、なによりもシントー(神道)を感ずるよ……」
これが、サロンに足を入れるや、ミシェル・タピエがわれわれに放った第一声であった。「ここに」とは、
問題の自刃の行為をさして言ったものであることは、いうまでもない。
「ヨーロッパでは、《混沌(カオス)》といえば、それまでだ。しかし日本のそれは、コントロール(制御)
された混沌なのだよ……」警句めいた一言である。(中略)
ふたたび黛敏郎氏の記録にゆずろう。
〈…最後に、みんなの希望で、たまたまローテン氏が愛蔵していた拙作で、三島氏も生前好きだといってくれた
『涅槃交響曲』のレコードをかけながら、思い思いの瞑想にふけり、三島氏の魂を慰めようということになった。
『涅槃交響曲』のコーラスの響きが長く尾を引いて静まったとき、ローテン氏は静かに立ち上り、目に涙を
一杯たたえながら即興の詩を朗誦した……〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

177:無名草子さん
10/10/22 18:06:45 .net
世にも気高い《愛の物語》…… 
愛、おお かくばかりの愛! 
かくばかりの高貴な生! 
絶大の荘厳、《意志》の頌歌…… 
服喪の空は その暑いしずくを哭き 
ゆるやかな血流は落日を崇高ならしめる。

九腸よりほとばしる斑点の飛沫! 
一体となった双生の命 
一心となった二つの手の古代壺(アンス) 
そして求める《彼岸》への絶対の供物。

入念に死を決意して三島は 
意志の典礼を一点にむすぶ―
すなわち森厳の盛儀、切腹の行為を 
超越的《放棄》の聖なる戦慄へと。

エマニュエル・ローテン「愛と死の儀式(憂国)―三島にささげる詩」

178:無名草子さん
10/10/22 18:07:13 .net
千古脈々たる誇らかな儀式(リット)、
この久遠の神話(ミット)よ、
愛まったくして 死かくも辛く潔し。
剣はこのししむらを刺し、鞭打した。
恐るべき死の創傷を深めよと…… 
だが深められるのは夜ではなく《生の彼岸》なのだ。
介錯がこの供献を成就する。
だが成就されるのは自殺ではなく 
この讃歌なのだ。

融化した存在、密かなる聖体拝受(コミュニオン)よ! 
淋漓たる鮮血にこそ美の高潔があり、
淋漓たる《至誠》の書にこそ 
精神の解脱の場がある。

かくてこそ絶対の恩沢へと 
いま 精神は飛翔する、
大死一番の狂える寛容もて 
かの無限へと―
《Kami(神)》の一語もて 
名づけられた無限へと……

エマニュエル・ローテン「愛と死の儀式(憂国)―三島にささげる詩」

179:無名草子さん
10/10/23 00:19:56 .net
偉大な芸術作品はすべてある意味で作者の遺書である、とマルローが三島をめぐって言った言葉が想いだされてくる。
その意味で、たしかに『憂国』ほどぴったりと「遺書」と呼ばるべき作品も稀であろう。
(中略)かつて―一九五八年―ド・ゴール大統領のもとにフランス第五共和国が成立したとき、フランスは
アンドレ・マルローを特使として日本に派遣し、国交を樹立したことがあった。そのとき、偉大なる使者は、
満堂の聴衆を集めた講演席上において次のように提唱した。「西欧全体にたいして
フランスは日本の精髄の《受託者》たらんとするものであります」と。(中略)
日本の精髄の受託者……この精髄のいかなるかについて、そのときマルローはなんと言ったか? 
日本民族によって永遠に記憶され感謝されてしかるべきその言葉を、ここで石碑に文字を刻むがごとく
繰りかえしておくことは無意味ではあるまい。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

180:無名草子さん
10/10/23 00:20:33 .net
マルローはこう言ったのだ。
〈この日本の精髄について全世界が甚だしい無知のなかにいるということを、どうか、しっかりと肝に銘じて
いただきたい。全世界にとって日本とは、依然としてエキゾチズムか絵葉書風景の国、目もあやな、あの版画に
描かれたかぎりの国にすぎないのであります。さればフランスは、なによりさきに、こう表明しなければ
なりません―
日本は中国の一遺産ではない、なぜなら日本は、愛の感情、勇気の感情、死の感情において中国とは切りはなされて
いるから。騎士道の民であるわれわれフランス人は、この武士道の民のなかに、多くの似かよった点を認めるように
つとむべきであろう。かつ、真の日本とは、世界最高の列のなかにあるこの国の十二世紀の偉大な画家たちであり、
隆信(藤原)であり、この国の音楽であって、断じてその版画に属する世界ではない、と。〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

181:無名草子さん
10/10/23 00:21:13 .net
〈そして冀(ねが)わくば、日本とフランスとの接近が、フランスをして、その言葉に耳を傾けようとする人々
すべてにたいし、かく言わしめんことを。すなわち―
諸君が、かくも長いあいだ、目もあやなピトレスクの国民であると思いこんできた人々は、じつは英雄の民だったのだ。
もしこの民族の魂を知らんと欲すれば、彼らの絵画のなかではなく、むしろ音楽のなかにそれを求めよ。
鉄の琴に合わせて歌われたその歌は、死者の歌、英雄の歌、深淵なるアジアのもっとも深淵なる象徴の一つに
ほかならない! と。〉
(中略)マルローの講演を聞いて、時の宰相以下の日本の貴顕の士の全代表は、これに熱烈な感動の拍手を送った。
武士道の礼讃―たしかにこれは言うべくして美しい。つまり、遠来の賓客の讃辞としては。だが、その後、
いったい、誰が、教授なりジャーナリストなり批評家なりの誰が、投げられたこのテーマの発展をはかっただろうか?

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

182:無名草子さん
10/10/23 00:22:53 .net
とんでもない。大半の人々の耳に、フランス文化大臣のあの言葉は、いわば過去の甲冑に対する礼讃として
響いたにすぎないのだ。「武士道と騎士道の対話」ということをマルローが暗示したとき、本気で彼がそれを
われわれの文明の死活の問題として呈したのだということに気づいた人士は、まずほとんど皆無だったのである。
そして、おそらく天皇ご自身でさえも……(中略)
われわれにとって「武士道」とは、葬りさられたもの、断罪されたものにすぎなかったからだ。(中略)
いっぽう、フランスの側から見れば、そんな日本は軽蔑と無視の種でしかなかった。ド・ゴール大統領と
「対話」した日本の政治家にしても皆無である。…池田勇人首相にしても、むなしく相手から「トランジスター
商人」との寸評を得たにすぎない。彼我の観点の相違は、じつに歴然たるものがあったと言わなければならない。
われわれにとって「平和憲法」の名で正当化されるものは、フランスの目にとって隷属の条件にほかならなかった
からである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

183:無名草子さん
10/10/23 11:53:58 .net
現代の予言者とは、なによりも、「収容所列島」の現実を知り、これにたいして精神と歴史の両面にわたって
絶対的「ノン」のアクションを取りうる人々である。(中略)
それはまた、「文武両道」と彼が呼んだものの、現代的発露の方向でもあった。自己の身命を擲(なげう)っても
自由を守ろうとする文化の原理と、自由を擲っても生命以上のものを守らんとする武士道との統合は、がんらい
至高の矛盾の統合であって、およそ「文民統制(シヴィリアン・コントロール)」などという考えをもって
量りきれるレベルの問題ではない。(中略)
なぜなら、ここにいう「文武両道」とは、(略)…自衛隊バルコニーから絶叫した次の瞬間には古式に則って
自分の腹を掻きさばいていたという超越的抗議形式によって、ヨーロッパ知識人の目に、「人間の条件」と
「日本の条件」を同時に乗りこえる意志を示した壮絶無比の行為として映ったところのものにほかならないからである。
彼らの目に、この場合、文学的死、政治的死の区別はなかった。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

184:無名草子さん
10/10/23 11:54:22 .net
(中略)日本は、他の諸文明が宗教によって「人間の条件」をこえる超越軸を求めてきたときに、ただひとり、
武士道によってそれを求めてきた点において、たしかにユニークだったのである。ここのあたりの実相を
もっとも適格に見据えていた人ありとすれば、それが、日本においては三島由紀夫その人であったと言わなければ
ならない。(中略)
「一つの墓をも寺をも建てえなかったわれわれの文明……」という、マルローの議会演説中の言葉が、さながら
応答のように、静かに、同時にここでわが胸によみがえらずにはいない。「日本人の死の衝動」と言ったとき、
期せずして三島は、日本のみならず、《彼岸》なき現代文明の運命そのものについて語っていたからである。
「ル・カ・ミシマ」をヨーロッパが、政治に始まり人間に終る、ないし日本に始まり西欧に終る文明の問題として
受けとった理由はここにあるといえるであろう。無理もあるまい。文明の没落の意識において、彼らはわれわれに
半世紀余も先んじた地点に立っているのだ。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

185:無名草子さん
10/10/24 20:33:47 .net
そのようなヨーロッパ的反応の興味ぶかい一例を示そう。巣鴨教誨師として東条英機以下「A級戦犯」七士の
処刑に立ち会った花山信勝師に、そのかけがえのない体験を記録した『平和の発見』なる名著がある。同書の
見事なフランス語版ならびにイタリア語版の翻訳者であるピエール・パスカル氏なる人物が、われわれにとって
まことに胸打つばかりの反応を示しているのである。パスカル氏は、一九四九年、『平和の発見』が日本で
刊行された年に、いちはやくこれを入手し、かつ翻訳していたという。しかし、その後二十年間というもの、
訳稿を筐底に秘めておかざるをえなかった。〈過去百年にもわたる進歩主義者たちの放埒のただなかにあっては〉
これほどの本を出版したところで、ただ無理解をうけるのみ、と判断したからである。ところが、三島事件を
聞いてパスカル氏は愕然として目覚めた。そして、時こそ至れと、感嘆すべき克明な注解と研究を付して堂々の
訳書刊行にいたったのであった。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

186:無名草子さん
10/10/24 20:34:06 .net
およそ日本では考え得ざるほどの、自由かつ雄弁なる訳書の体裁であって、じつに内容は、東京裁判に始まって
三島礼讃に終っているのであった! 本文そのものは「東京裁判」にちがいないが、付録の一つになんと
「ユキオ・ミシマの壮絶無比の選択」なる一文が添えられ、さらに巻末には訳者による手向けの歌まで加えられて
いるのである。「一九七〇年十一月二十六日、日本の宮中のお歌所の伝統にならいて詠める」と詞書きして、
フランス語による「俳句十二句ならびに短歌三首」が披露されているのだ。題して「ミシマ・ユキオの墓」という。
その情熱、炯眼、大胆に、ほとほと私は感ぜずにはいられなかった。なにより驚いたことは、東京裁判から
三島決起にいたる因縁の糸を見事に読みとき、これを手繰りよせたことであった。日本人が行なってしかるべき
ことを、この未知のフランス人がやってのけたのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

187:無名草子さん
10/10/24 20:34:28 .net
(中略)これだけの炯眼ぶりを氏が発揮したことの裏には、「東京裁判」そのものにたいするその仮借なき
批評眼があった。いかにしてここから三島礼讃の挙にまで行きついたかを知るために、その主張するところを
瞥見してみよう。
〈…「東京裁判」は、実際には、何人かの被告を見せしめに裁き、全員、愛国心のゆえに有罪なりと宣言したに
すぎない。(中略)民主主義思想の愚鈍ぶりは、東条英機をして「ファッシスト的」独裁者たらしめた。これは
歴史的真実に反するのみならず、当時の君主制日本の神制政治上の概念にも相反するものである。諸政党解党に
つぐ大政翼賛会の唯一党結成は近衛公の意志によるものであって、東条英機将軍は、公に代って帝国政府の
総帥となるに及び、連合国にたいする政府の決断躊躇をすべて引きつぐ結果となったのである。連合国側こそ、
「経済制裁」に名をかりて、宣戦布告もなく日本を窒息死せしめんとしていた事実を忘れてはならない……〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

188:無名草子さん
10/10/24 20:34:49 .net
〈…捕虜収容所の日本人指揮官のなかには、無数の捕虜にたいする扱いが穏当でなかった者も、それは多々
あったであろう。しかし、「捕虜虐待」で絞首刑にされた人々の運命たるや、シベリアへの「死の行進」や
カティンの大虐殺をやってのけた連中、またケニヤ・エジプト・北アフリカ・インドなどの収容所の警護者どもの
思いもおよばないようなものだったのだ。
…リチャード・ストリーがその著『近代日本史』のなかで記しているごとく、日露戦争時において、ロシア兵の
捕虜ならびに支那の民間人にたいする日本軍のふるまいは「世界中の尊敬と感嘆を勝ちえた」事実を思うがよい。
でなくして、旅順開城ののち、露軍司令官ステッセルは、なぜ乃木将軍にその白馬を献じようと欲したであろうか?〉
(中略)一冊の極東軍事裁判記録も刊行されなかったフランス、いやヨーロッパにあって、このような発言は
貴重と言わねばならない。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

189:無名草子さん
10/10/25 13:33:21 .net
(中略)パスカル氏はいうのだ。
〈正義の審判の名のもとに《不正義》によって刑死せしめられた人々の想い出が、いまや、裁いた者たちの
想い出よりも日一日と荘厳となっていく。裁いた者たちのほうが、早くも使い捨てという忘却の闇へと沈んで
ゆくのだ…(中略)
キリスト再臨を待つまでもなく、正義はすでになされたのだ。…あの日、一九七〇年十一月二十五日、…
《夷狄の君臨》にたいして相変らず不感症のまま日本が、黙々として世界第三位の産業大国となりつつあったとき、
ユキオ・ミシマは、その儀式的死によって、みずからの祖国と世界とにたいして喚起したのである。この世には
まだ精神の一種族が存し、生者と死者のあいだの千古脈々たる契りが、いまなお不朽不敗を誇りうるということを。
おのれの存在を擲ち、祖国に殉ずることによって、もって護国の鬼 le remords de cette patrie と化さんと、
生の易きに就くよりも、かかる魂に帰一することのほうを、ミシマは望んだのであった。…〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

190:無名草子さん
10/10/25 13:33:50 .net
〈個人的絶望によってではなく超越的《愛他主義(アルトルイズム)》によって、かつ、愛のかなたの愛によって
決行されたユキオ・ミシマの聖なる自殺は、《共和国擁護》を叫ぶ古蛙どもの、いつ果てるとも知れぬ金切声の
大合唱を西欧世界に喚起するにいたった……畢竟、それらは、遠い昔にとっくに地に堕ちた名誉なるものに
たいする、一種の畏怖心にすぎない。…まるで、もうちょっとで、あちこちに、《反ファッシズム監視委員会》の
どさ廻り小屋でも造られかねない勢いだった。〉
(中略)一息入れてパスカル氏は、またも筆を取りなおす。〈このユキオ・ミシマが自己犠牲をあえてした場所が、
「愛国心の囚人」にたいして米軍があえて有罪宣告を下した旧日本帝国大本営の跡地、市ヶ谷台上であったのだ。〉と。
(中略)ミシマに触れたヨーロッパならびに海外の無数の記事のなかで、ずばぬけて出色の出来であったとして
同氏は、一九七〇年十二月一日付のローマ紙「イル・テンポ」に掲載された「東京のハラキリ」なる一文を挙げている。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

191:無名草子さん
10/10/25 13:34:27 .net
尊敬すべき洞察力をもって、その執筆者マギナルド・バヴィエラ氏は書いているのだ。しかも、三島自刃の
直接目的―改憲と防衛の問題にまで突っ込んで。…まず、アメリカの対日政策の変化が語られる。
〈…アメリカ人は、自分たちが精を出した毒草除去の作業が完全すぎたという結果を、恐怖心をもって視つめてきた。
(略)…(ドイツ、日本、イタリア)の野心をあまりにも徹底して摘みとりすぎたために、これら蛇蝎のごとき
三国が歴史のつんぼ桟敷に追いやられて商人国家へと変貌していくさまを、「アンクル・トム」はただ呆然と
見守るほかはなかった……われわれヨーロッパ人が、自国侵略の危険をはらんだロシア赤軍用のトラックを
競争さわぎで製造しつつあるあいだに、もはやどこからも侵略の恐れなしと信じきった日本は、アジアの警備役は
アメリカにまかせっぱなしで―日本株式会社は二度と軍事大国になるつもりはないと公言しつづけてきたのである。〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

192:無名草子さん
10/10/25 13:38:49 .net
〈なんとかして日本人にもういちど尚武の気概と世界政治の巨視観を持ってもらいたいと、アメリカ人の側で
躍起になってきたのも、むべなるかなというべきである。(略)…全アジアの骨組がひっくりかえってしまったいま、
太平洋の防人の役は徐々に日本に肩代りしてもらいたいというのが、彼らの本音にほかならないからである。
(略)…(日本の)首相は、にんまりと、憲法第九条があるじゃありませんかと応じたものだった。(略)…
恒久武装放棄を声高に誓わされた、あの屈辱の憲法である。(略)…「残酷な戦争をもって日本を敗北せしめたあと、
その憲法をわれわれに押しつけたのは、あなたがたのほうではありませんか。こんどは、こっちのほうでそれを
大事にする番ですよ…」かくて日本は、豪華けんらんとしてかつ陰鬱なるヴァカンスを享受しつづける安楽へと
兎跳びに跳びあがり、富裕にして怡悦なき一億の日本人は、熱狂の空虚を、国家的目標と集団的希望の欠如を、
時とともにはっきりと認識するにいたった。〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

193:無名草子さん
10/10/26 00:21:54 .net
〈日本―だが、誰がその真実の姿を知ろう? (中略)
再度日本を訪れたおりに、私自身、ここにはきっと秘密の国が隠れているにちがいないとの直感を持った。
それは、たまたま私が、防衛庁の位置する市ヶ谷の丘を昇っているときのことだった。(中略)訪う人なきこの丘、
いまなお一軍が身を隠しつづける丘から、だが、一つの叫びが、いま、われわれの耳に届いたのだ。沈黙は破られた。
ヴェールは、一瞬、かなぐり捨てられた。ユキオ・ミシマ―この世界的名声の作家が、万人の面前で短刀を
自分の腹に突き立てたのだ。いまはなき特権階級(カスト)、サムライの儀式的自殺である。(中略)
祖国はもはや自分が夢みた国ならずというのでスペインのファランへ党員が自分の心臓に弾丸をぶちこむ。
盟主ロシアが共産党員としての自分の夢を打ち砕いたといってプラハの学生が火だるま自殺する。祖国日本が
非武装に甘んじ、もはや歴史舞台への回帰を放念したという理由で、一人の作家が東京で自刃して果てる。…〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

194:無名草子さん
10/10/26 00:22:50 .net
〈これら自殺者たちは何を信じ、何を得ようと望んだのか? 世界中の良識の徒は、一様にただ、せせら笑いを
浮かべるのみである。
しかし私としては、この問題を考えるとき、あまたの自殺のイメージをとおして古代ローマがわれわれの心に
なお生きつづけているという真実を思わずにはいられないのだ。生を厭うがゆえにではなく愛するがゆえに、
古代ローマ人は自ら生命を断った。これは、この方面の研究の第一人者、ガブリエル・マズネフも書いたとおりである。
たしかに、そこからして彼らは解放者ジュピターを自殺の守護神として選びさえもしたのだった。ジュピターとは、
愛する者のため自己犠牲という至高の自由を選ぶ寸前に彼らが熱祷をささげたところの、最高神だったからに
ほかならない。
その後、ミシマに負けじと、事もあろうにゼンガクレンの、しかしミシマを崇拝してやまない一学生が、
「われはよりよき世界に生きたし」という言葉を遺して自殺している。いったい、なにがどうなっているのであろうか?〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

195:無名草子さん
10/10/26 00:23:55 .net
〈(中略)ともあれ、私は、ここに告白する。これらの恐るべき秘密をもってわれわれ諸外国の人間のみならず
自分たち自身をもいまなお驚嘆せしめる能力を持った一民族にたいして、そぞろ自分は羨望の念を禁じえない、と。…〉

(中略)三島をめぐる論争は、パリからローマへと飛び火した。「高度経済成長」の奇蹟として世界中の人々を
驚かせてきた日本―は、じつは「政治的には両手を断ち切られた国」(アンドレ・マルロー)であったと、
白刃によって切裂かれたヴェールごしに人々はその実像を初めて直視したのである。(中略)これはわれわれの
問題であるとともに現代史の問題そのものであることを、「イル・テンポ」紙の記事は喚起している。(中略)
現代の日本人がいかに眉をひそめようと、現実に彼らがユキオ・ミシマにおけるこの《日本的流儀》によって
魂を震撼せしめられたという事実だけは、いかんとも覆いがたいのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

196:無名草子さん
10/10/26 00:24:57 .net
ピエール・パスカル氏も、その無数の紅毛人のなかの一人であった。だれから頼まれるでもなく、この人物は、
前述のごとく『永遠の道』一巻の最後に自作のフランス語「ハイク」と「タンカ」を添えて日本の英雄の霊を
弔っている。(略)…全ヨーロッパに向かって敗者日本の声なき慟哭を伝え、その魂魄いまだ死せずと叫んだ、
花も実もあるこの人物の義挙―どうして義挙でないことがあろうか?―を深く徳とし、その二、三首を
拙訳をもって、ここに日本人の感謝のあらわれとしたい。士道の華―それは見事にヨーロッパで咲いたのだ。

 ユキオ・ミシマの墓   ピエール・パスカル

いましわれいのち消ゆとも火箭(ひや)となり神の扉に刺さりてぞあらむ

獣(けだもの)の栄ゆるときは汝(な)が首を斬りてぞ擲げよ友らつづかむ

この血もて龍よ目覚めよその魂魄(たま)は吠えやつづけむわが名朽つとも

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より

197:無名草子さん
10/10/26 23:33:44 .net
Q―日本は異常な死によって先に三島由紀夫を失い、いままた川端康成を失いました。
(中略)このような死はどう映りますか?

アンドレ・マルロー:現在までに、たしかに相当数の日本人作家が自決してきています(se sont tues)。
西欧では、これらの人々をさして自殺した(se sont suicides)と言っているがね。しかし、彼らは、ぜったいに
自殺したなどというものではない。自殺ではなしに自害した、すなわち武士道たけなわなりしころの死とおなじく、
意志の力によって、一死よく生をまっとうしたと見るべきだと思うのです。

アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより

198:無名草子さん
10/10/26 23:35:56 .net
三島については、これは、あまりにも偉大な現実的証というほかはありません。そこには偉大な伝統が息づき、
儀式(リット)がものをいっている。気合もろとも…(左から右へぎりぎりと腹を掻き切る身振りをして)
この行為の意義は甚大と言わなければならない!(中略)
日本的自決ということには、はかり知れない大問題が秘められている。いかなる文明も、死なるものをエリートの
与件として問題化したことは他にないからです。ある流儀によってこれを問題化したものこそは、日本の
武士道であった。しかし、武士道と私はいうのであって、日本そのものとは言いません。それにしても、
なにゆえ、ある流儀と、あえていうのか?

アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより

199:無名草子さん
10/10/26 23:38:00 .net
ああ、もし人が、《死》なるものがまったく存在しないような一文明と遭遇したとしても、なんとそれは
当然の(自然的な)ことだろう! だれもが、そこでは、子供のころから、自分の自害すべき瞬間を選ばねば
ならないと知っているような文明と遭遇することは……。
こういって正しいのか間違っているのか、私自身にもはっきりとは言いがたいのだが……私はね、ガス管で
自殺するよりは三島のやりかたで死ぬほうが、ずっと自分自身にふさわしい気がするんだよ。いま、「自殺」
という言葉を使ったが、これがけっきょく西欧流の自殺と同じでないことは、さっきも言ったとおりだがね……
そう言ったからといって、しかし、どっちの立場を私が擁護するわけでもないが……私には、ただ、川端の死より
三島の死のほうが身近に感じられるというだけのことです。

アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより

200:無名草子さん
10/10/26 23:41:41 .net
そんなことを言ったって、おまえたちの国ではハラキリなどしないではないか、という人もあるかもしれないが、
しかし、われわれにだって拳銃というものがあるからね。そして私の場合だったら、(ガス管やストリキニーネ
よりも)やはり拳銃のほうがぴったりする。(中略)
東西の自殺の違いの問題にもどると、このような死の意味を西欧の人間―ということは、つまりヨーロッパと
アメリカの両方をひっくるめた人々―が説明しようとすると、かならずキリスト教的観念から割りだしてくるので、
そうなるといっさいが自殺という言葉で処理されてしまうことになって、結局のところ、なにもわからなくなって
しまうのが落ちなのです。それは、ちょうど、ヨーロッパの騎士道―これもなかなかに立派なものだったが―
について、騎士たちは自殺したというのと同じことで、的はずれと言わざるをえません。

アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより

201:無名草子さん
10/10/28 13:25:33 .net
神風特攻隊のメンバーは、ほとんど例外なくその先祖が武士だったのだよ。


ミシマの本はすべて必読だ。


切腹とは、死ぬことではない。死を行なうことである。

アンドレ・マルロー
竹本忠雄との談話より

私は、どんな日本に関心があるかといえば、それはけっして政治的日本といったものではありません。それは、
永遠の日本(le Japon eternel)なのです。
…この日本は、死の意味においても愛の意味においても音階(ガム)においても、中国とはまったく異なっている。
…日本という国は「日本それ自体」の国であって、そっくりそれを受け入れるか拒否するか以外にありえません。
私自身はこの日本をどう見るかといえば、日本が意味するものはじつに測り知れないものがあると思っています。

アンドレ・マルロー
1969年11月25日、マルロー邸でのインタビューより

202:無名草子さん
10/10/28 13:28:15 .net
覚えておいてくださいよ。切腹は自殺にあらずということを。
切腹とは、祖廟をまえにした犠牲(いけにえ)であるということを。
この庭園も、これまた一個の祖廟ならずしてなんであるか。

アンドレ・マルロー「日本の挑戦」より

203:無名草子さん
10/10/28 13:30:03 .net
一条の滝をまえにしてこのような感銘をうけたのは、私にはまさに空前絶後の経験だった……私は思った―
これはアマテラスだ、と。日本の女神にして、水と、杉の列柱と、日輪との神霊。そしてそこから天帝が降臨してくる。
この垂直の水は、二百メートルの高さから落下しつつ、しかも不動なのだ。
(伊勢・熊野、那智滝を見て)
アンドレ・マルロー「非時間の世界」より


そそりたつ列柱、そそりたつ飛瀑、光に溶けいる白刃。日本

アンドレ・マルロー「反回想録」より


日本の歴史には《聖なるもの》が洞窟より顕れでる瞬間というものがある。
見よ、日本の夜明けは来る。きっとやってくる。

アンドレ・マルロー
1974年、来日時の在日外人記者団との会見より

204:無名草子さん
10/10/28 23:29:13 .net
それにしても私は、三島について、いつも心にこう思っているんですよ。なぜ彼は、結局のところ消えさらねば
ならなかったのか、と……。あのとき以来、私が自分の胸に問うていることは、こうなのです―あれは、
はたしてなにものかの、つまりほんとうに偉大で価値あるものの始まりだったのか、それともそうしたすべての
終りだったのか、と……。私自身の考えはどうかといえば、それは、なにものかの終りだったのだと思う。
しかし、それがなければ始まりが不可能であるような、そうした終りだったと思うのだよ。さまざまな偉大な
文化の歴史を例にとれば、じつにしばしばその最後はかくのごとしといった例があるものなのだ。
この点について、ロジェ・カイヨウが面白い意見をもっていてね。カイヨウによれば、日本における三島の
ケースは、ヨーロッパにおけるピカソのケースと同じだというんだ。カイヨウはピカソを、ヨーロッパ絵画の
《決算者》le Liquidateur と考えていたからね。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

205:無名草子さん
10/10/28 23:30:45 .net
この決算者とは、大文字でLを書く意味のそれだけれども。つまり、カイヨウは、ピカソの作品を一種の
自殺として考えていたということで、そのようにいえば、きみも、同様にしていかに三島を解釈しうるか、
わかるというものだろう。三島は必要ななにものかだった。そのことは、はっきりしている。
では、いまやそれがいかなる色合いをおびるかということになると、つぎのようにいうのがおそらく賢明であろう。
それは、日本そのものがいかなる色合いをおびるかということいかんにかかっている、と。今後、日本が、その
精神力のある種の化身に、しかもまったく思いがけない化身に行きつくということは、大いにありうることなのだ。
しかし、これについて私の考えるところはこうだ―いまから百年後に日本的精神性の与件は、現在われわれが
持っている与件のすべてをひっくるめたものとまったく似ても似つかないものとなるであろう。すなわちそれは、
まったく別の与件となることだろう、と。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

206:無名草子さん
10/10/28 23:32:19 .net
「なんぴとかが別の生のもとに生まれかわったとしても、その人間は、自分の過去世においてどういうことが
起こったかということにもはや気づかないであろう」(『豊饒の海』)
……しかし、にもかかわらず、過去世は存する。《業》によってそれが存するゆえに。いや、業と言ったのでは
日本固有の考えではないから、たとえば《ヒロイズム》と言おう。このヒロイズムこそは、別の生における
あなたがた日本人のありかたというものを一変せしめたものなのだ。諸聖人の《通功(コミユニオン)》のように。
このようなヒロイズムこそは人類をある程度一変せしめたものであって、幾千年もの他の事象とともに
《輪廻転生》les reincarnations と呼ぶにふさわしいものだ。なぜなら、彼らはすべて、こう考えているからだ
―すなわち、いわゆる法燈伝なるものは、〈覚者(ブッダ)〉の群れを外にしてはこれ迷信にすぎない、と。
一個の人物が別の一人物に転生するにあらず、ただ普遍的輪廻転生があるのみ、と……。この点『マスの法典』の
意味は了然 formel といわねばならない。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

207:無名草子さん
10/10/28 23:33:32 .net
いいかね、英雄的日本は、いまに、かならずや(不可避的に inevitablement)現われてくるであろう。
一個の国なるものはその魂の上に横たわっているのだから。
ところで、現在の日本は、かつて遭遇したことのない最悪の状況下に置かれている。それというのも、第二次
世界大戦の結果、貴国は、どうみてもアブノーマルとしか見えない諸々の生活条件のなかで世界最強の国の一つと
なってきたからだ……。このような状態のままで、なにもかもがつづいていいというはずがない! 
……アメリカ人は、話し相手は中国だと信じこんでいるが、そんな話合いは書割(デコール)にしかすぎない。
太平洋の問題とは日本なのだから。
いつの日か、いまわれわれがここで話しあっている事柄は、きっとドラマチックな形をとって現れることとなろう。
そしてそうなれば日本は、フランスがド・ゴール将軍のもとに再統合されたように、あるべき日本の真の姿の
もとに再統合されることとなるだろう。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

208:無名草子さん
10/10/28 23:34:28 .net
一個の国民は、みずからのもっとも深い魂がはたしてこれでいいのかとなったあかつきには、いやおうもなく
この魂の上に自己を再発見することを迫られていくものだと、私は信じている。しかるに、現在の日本が
置かれた条件が、繰りかえしていうが、根本から非道 deraisonnable なものであるというのに、どうして
この日本がこのままでいいというはずがあろうか、いや、とうていそんなはずはありえないと私は思うのだ! 
いや、私ばかりではない、私が会ったアメリカの大統領たちをはじめ国家要人は、すべて、私とおなじ目で
問題を見ていることに変りはない。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより

209:無名草子さん
10/10/28 23:38:09 .net
日本は、中国が原爆を持っていなかったあいだは、ずっとアメリカと友好関係を保つことができた。しかし、
中国が原爆を持ってからというものは、あなたがたは、いままでの現実を敷き写しにして生きていくわけには
いかなくなっている。そこで、どうしてもつぎのいずれかの解決を必要とする段階に立ちいたるであろう。
すなわち、この原子爆弾をアメリカからもらうか、またはその自力製造権をどこからか獲得するか、あるいはまた
ソ連から原爆を入手するか、そのいずれかを必要とする岐路に立たされるだろう。
日本のような国柄の国家が、人口八億もの人間を擁し、しかも原爆によってあたながたを破壊する能力を有する
中共をまえにして、手をこまねいていることははたして可能か……。
中共が原爆を持った以上、日本もそれを持たずにはいられなくなる。持つべきか否かと自問した結果、持たない
ということが不可能になってくる……。
いずれにせよ、なにがどうなろうとも、日本という国は『このままでけっこう』というような国ではあるまいと
私は見ています。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビュー

210:無名草子さん
10/10/28 23:48:00 .net
平成22年今現在、三島由紀夫が存命であれば御年85歳
85歳の三島由紀夫にありそうな事

・小林よしのりと親交を持つも、すぐに仲がこじれる
 ゴーマニズム宣言に、ものすごく醜悪に描かれた三島翁の似顔絵が載る
・筒井康隆が奇行に走らず、常識人のまま
 「三島先生にも困ったものだ(笑)」と、三島翁の奇行を止めるツッコミ役になる
・「涼宮ハルヒの憂鬱」をアニメ視聴から知り、小説の単行本を全部読破する
 後日谷川を呼びつけて「ところで俺の腹筋を見てくれこいつをどう(ry」をやらかし、本気で嫌がられる

……今より楽しそうだ
やはり日本にとって惜しい方を亡くしたものだと思う

211:無名草子さん
10/11/02 00:02:00 .net
「黒い大佐」と呼ばれるヴィクトル・アルクスニスという軍人がいた。ソ連邦維持、反共、反欧米を主張する
滅茶苦茶だが高潔な保守派の人物だ。ペレストロイカは世界革命のためだとわかっていた。領土問題については、
日本の北方領土に対する要求は絶対に認めない「愛国」、「憂国」の士だ。父はラトビア人、母はロシア人。
祖父は建国の大立者で、ナチスの陰謀だったといわれる「トハチェフスキー事件」ではトハチェフスキーを
ヒトラーのスパイとして死刑にした一人で後に銃殺された。父はカザフスフタンの炭坑に送られ一家で辛酸を
なめるが第20回党大会で祖父の名誉回復がなされた。
ラトビアに帰国したアルクスニスは航空学校に入るが目が悪く、ミグの整備兵になる。(中略)
アルクスニスはペレストロイカのもと、保守派に押されて国会議員になり、「反共ソ連邦維持連盟」を結成し、
改革派を西欧とつながった売国奴と非難してシュワルナゼ外相を辞任に追い込んだ。

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

212:無名草子さん
10/11/02 00:02:53 .net
1991年8月19日から21日にかけて保守派によるクーデタが起こったが失敗する。
私は枝村大使の了解を得て、24日の朝アルクスニスに電話し国会で演説する前に昼飯の約束をした。
日本人は情報が入らないと離れる、力のある者にだけすり寄りよると思われることを危惧したからだ。
中華レストランに誘い、自分の母が14歳で沖縄戦に巻き込まれた苦難を、人民の敵として辛酸をなめた
アルクスニスに語り、以下のやり取りをした。
アルクスニス「これから国会でソ連邦維持の演説をする」
佐藤「やれ、信念を通せ!」
アル「日本はカミカゼの国だろう」
佐藤「実は(熱心な社会党支持者の)母はこっそり靖国神社に通っている。姉が祀られているからだ」
アル「スターリングラードでソ連兵はドイツ戦車に特攻した。このことはタブーとして歴史から隠ぺいされている」
佐藤「カミカゼの精神とスターリングラードの精神は同じだ!」
アル「北方領土は日本からスターリンが盗んだ土地だ。おれはそれを知っている。日本は還せと言い続けるべきだ」

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

213:無名草子さん
10/11/02 00:03:53 .net
アルクスニスは三島由紀夫の愛読者で、1989年ロシア語で出版された『憂国』が一番いいと言い次のように
評価した。 
・2.26事件の世直しとソユーズ(連邦維持を唱える院内会派)とは似ている。
・これは友情の小説だ。 
・主人公が決行部隊から外されたのは結婚したばかりというのはウソだ、決行の中心人物でなかったからだろう。 
・しかし主人公は夫人との愛、同志との友情の中にいる。

アルクスニスは私にボリス・プーゴのことを覚えているかと訊き、次のように語った。
「クーデタ派は破れソ連国家は崩壊した。 セルゲイ・アフロメーエフ参謀長はこめかみを打ち抜いた。
ラトビア人のプーゴ内務大臣はKGBが自宅に逮捕に来たが、役人を外で待たせ2発の銃声を発し、夫人と
一緒に死んだ。ラトビア人には血の掟がある。 名誉を守るために自決を選んだのだ。
ラトビア人は奥さんを先にし、『憂国』では奥さんが後だ。日本人は奥さんへの信頼が篤いからだろう」

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

214:無名草子さん
10/11/02 00:04:47 .net
無駄だ。

215:無名草子さん
10/11/02 00:04:51 .net
日本人もキリスト教的で死後のよみがえり、死後の復活を前提にしているといえる。
私はキリスト教(プロテスタントのカルバン派)だが、日本の神話にある世界観と聖書の世界観は同じだと思う。
天照大神とキリストは同じだ。仏教は壮大精緻な世界観を持つが、日本の神話では、聖書同様混沌の中から
世界がうまれる。いざなぎ、いざなみの営みからだ。これは平田篤胤に継承されている。
近代国家は欧米思潮の流れにあるが、その源流はギリシアにあり、ギリシア世界はドイツ語にある。日本の
知的退廃はこのドイツ語を学ばなくなっているせいだ。(中略)
新渡戸稲造や内村鑑三などの神学者が日本の「国体論」を一番わかっている。各国のキリスト教は別々に
つくられ、存在している。臣民の道、靖国を位置付けられなければ、日本のキリスト教とはいえない。(中略)
靖国に行くなというキリスト教徒はダメだ。霊性、リインカネーションを感じる力が衰えているのだ。

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

216:無名草子さん
10/11/02 00:05:45 .net
旧ソ連国家保安委員会(KGB)の後身であるロシア連邦保安庁(FSB)ではカリキュラムの中で日本語の
三島の作品を読ませている。物欲のないこういった日本人にしてはならないと警戒しているのだ。
ロシアは新自由主義経済の流れの中でサブプライム問題に引っ掛からなかった日本の国力を恐れている。
ただぼんやりしていただけだが。
「ファシスト・サムライ」というロシア語には日本人への尊敬と畏敬の気持ちがある。
本当の日本人は「ファシスト・サムライ」でヘナヘナしているのはウソである、と思っている。
大いなる誤解だが誤解のままにしておけばいい。

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

217:無名草子さん
10/11/02 00:13:47 .net
(中略)
私は大学の2回生のときに小説を読まないことにした。哲学と神学書を読み、そのためにヘブライ語、ラテン語、
ギリシア語を勉強する時間を確保するためだ。ただし役に立つ小説は読む。
モスクワでは30冊くらい『憂国』をロシア人に渡した。三島にはテクストだけではない生き方がある。
三島は個別の命を超えた大義に生きた。
言っていることとやったことがかい離していない三島はロシア人の心を打つ。
キリスト教は自殺を禁止しているというが、国家に忠義を尽くすことをヤン・パラフというチェコの青年は
「プラハの春」の1968年ヴァーツラフ広場で焼身自殺して示した。
15世紀宗教改革に命をかけたヤン・フスの末裔の殉教者と見られて、今でも広場に献花が絶えない。

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

218:無名草子さん
10/11/02 09:57:14 .net
野島伸司って三島に通じるものあるよな

219:無名草子さん
10/11/02 10:30:04 .net


220:無名草子さん
10/11/02 14:26:45 .net
>>218
ちょこっと似てるかも。

221:無名草子さん
10/11/03 19:44:51 .net
私が三島由紀夫氏を初めて知つたのは、彼が学習院中等部の上級生の時だつた。
…そのあと高等部の学生の頃にも、東京帝国大学の学生となつてからも、何回か訪ねてきた。
ある秋の日、南うけの畳廊下で話してゐると、彼の呼吸が目に顕つたので、不思議なことに思つた。
吐く息の見えるわけはなく、又寒さに白く氷つてゐるのでもない。
長い間不思議に思つてゐたが、やはりあの事件のあとで拙宅へきた雑誌社の人で、三島氏を知つてゐる者が、
彼は喘息だつたからではないかと云つた。
私はこの齢稚い天才児を、もつと不思議の観念で見てゐたので、この話をきいたあとも、一応そうかと思ひ、
やはり別の印象を残してゐる。

保田與重郎「天の時雨」より

222:無名草子さん
10/11/03 19:47:08 .net
彼がそのわかい晩年で考へた、天皇は文化だといふ系譜の発想の実体は、日本の土着生活に於いて、生活であり、
道徳であり、従つて節度とか態度、あるひは美観、文芸などの、おしなべての根拠になつてゐる。
三島氏が最後に見てゐた道は、陽明学よりはるかにゆたかな自然の道である。
武士道や陽明学にくらべ、三島氏の道は、ものに至る自然なる随神(かんながら)の道だつた。
そのことを、私はふかく察知し、粛然として断言できるのが、無上の感動である。

保田與重郎「天の時雨」より

223:無名草子さん
10/11/03 19:48:53 .net
三島氏らは、ただ一死を以て事に当たらんとしたのである。
そのことの何たるかを云々することは私の畏怖して自省究明し、その時の来り悟る日を待つのみである。
私は故人に対し謙虚でありたいからである。
三島氏の文学の帰結とか、美学の終局点などといふ巷説は、まことににがにがしい。
その振る舞ひは創作の場の延長ではなく、まだわかつてゐないいのちの生まれる混沌の場の現出であつた。
国中の人心が幾日もかなしみにみだれたことはこの混沌の証である。

保田與重郎「天の時雨」より

224:無名草子さん
10/11/03 19:50:01 .net
私は日本民族の永遠を信じる。
今や三島氏は、彼がこの世の業に小説をかき、武道を学び、演劇をし、楯の会の分列行進を見ていた、数々の
この世の日々よりも、多くの国民にとつてはるかに近いところにゐる。
今日以後も無数の国民の心に生きるやうになつたのだ。
さういふ人々とは、三島由紀夫といふ高名な文学を一つも知らない人々の無数をも交えてゐる。

保田與重郎「天の時雨」より

225:無名草子さん
10/11/03 19:51:40 .net
総監室前バルコニーで太刀に見入つてゐる三島氏の姿は、この国を守りつたへてきたわれらの祖先と神々の、
最もかなしい、かつ美しい姿の現にあらはれたものだつた。
しかしこの図の印象は、この世の泪といふ泪がすべてかれつくしても、なほつきぬほどのかなしさである。
豊麗多彩の作家は最後に天皇陛下万歳の声をのこして、この世の人の目から消えたのである。
日本の文学史上の大作家の現身は滅んだ。

保田與重郎「天の時雨」より

226:無名草子さん
10/11/03 20:21:57 .net
ここを見ると「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」ってのは嘘だということがよくわかる

227:無名草子さん
10/11/04 23:58:06 .net
『仮面の告白』を黒い傑作、『金閣寺』を赤い傑作とすれば、その後に書かれた透明な傑作『潮騒』は、一般に
作家がその生涯に一度しか書けないような、あの幸福な書物の一つである。それはまた、その直接の成功が
あまりに華々しいので、気むずかしい読者の目にはかえって胡散くさく見えるような作品の一つである。
その完璧な明澄さそのものが一つの罠なのだ。古典期ギリシアの彫刻家が人体の上に光と影の段落を描き出す、
あまりに際立った凹凸をつくることを避けて、限りなくデリケートな肉づきを目や手により生々しく感知させようと
したように、『潮騒』は批評家に解釈のための手がかりをあたえない書物なのである。(中略)
若者の恋というテーマだけを取ってみれば、「潮騒」はまず、「ダフニスとクロエ」の無数の二番煎じの
一つのように見える。けれどもここで古代と、さらにずっと後代の変則的な古代とを、あらゆる偏見を棄てて
比較してみると、二つのうちでは「潮騒」の旋律の示す音高線のほうがはるかに純粋だ。

マルグリット・ユルスナール「三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン」より

228:無名草子さん
10/11/04 23:59:27 .net
『奔馬』には、一八七六年に叛乱を起した武士たちの集団自殺が描かれており、彼らの行動は勲を感奮興起させた
ものであった。正規軍に敗北すると、八十名の生存者はあるいは路上で、あるいは神社の祀られている山頂で、
いずれも礼法通りに腹を切った。(中略)
この血と臓腑の信ずべからざる大氾濫は私たちを恐怖させるとともに、あらゆる勇敢なスペクタクルのように
興奮させもする。この男たちが闘うことを決意する前に行った、あの神道の儀式の簡素な純粋性のようなものが、
この目を覆わしむ流血の光景の上にもまだ漂っていて、叛乱の武士たちを追跡する官軍の兵隊たちも、できるだけ
ゆっくりした足どりで山にのぼって、彼らを静かに死なせてやろうと思うほどなのである。

マルグリット・ユルスナール「三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン」より

229:無名草子さん
10/11/05 00:00:18 .net
勲はといえば、彼はその自殺に幾分か失敗する。(中略)
しかし三島は、それ自体うかがい知りえぬ肉体的苦痛の領域に天才的な直感をはたらかせて、この叛逆の若者に、
彼にとってはあまりに遅く来るであろう昇る日輪の等価物をあたえてやったのだ。腹に突き立てられた小刀の
電撃的な苦痛こそ、火の球の等価物である。それは彼の内部で赤い日輪のような輝きを放射するのである。

マルグリット・ユルスナール「三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン」より

230:無名草子さん
10/11/05 10:50:25 .net
「まさか、死ぬとは! すごいショックだ。
自分もずっと演説を聞いていたが、若い隊員の野次でほとんど聞き取れなかった。―死を賭けた言葉なら
静かに聞いてやればよかった。」
陸上幕僚T三佐
三島自決直後の談話


「三島の自決を知ったあとの隊員たちの反応はガラリと変った。
だれもが、ことばを濁し、複雑な表情でおし黙ったまま、放心したようであった。
まさか自決するとは思っていなかったのだろう。その衝撃は、大きいようだ。」
自衛隊の最高幹部
三島自決の日の談話

福島鑄郎「資料・三島由紀夫」より

231:無名草子さん
10/11/05 10:51:48 .net
バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした。
ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に
理解した。野次がだんだん増して行った。舌打ちをして振り返った。
…やるせなかった。無性にせつなくなってきた。
現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の
存在について、大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに―。
…部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ、暴徒によるものであっても、いったん命令で集合を
かけた以上正規の手順をふむべきだ。
こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った。
三島がんばれ!…心の中でそう叫んだ。

K陸曹
三島演説を振り返って

福島鑄郎「資料・三島由紀夫」より

232:無名草子さん
10/11/05 10:55:10 .net
被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった。
(中略)
国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。
憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う。

自衛隊市ヶ谷駐屯地、益田総監
三島裁判での証言より

233:無名草子さん
10/11/05 15:26:10 .net
糞もたっぷり投げつければいくらかへばり付く

234:無名草子さん
10/11/05 19:43:00 .net
三島は殺傷の目的でやったとは思わぬ。これは覚悟の事件でおそらく自分の考えていることを完結させる必要上、
三島から言わせれば義挙の正当防衛として妨害を排除したのであろうと私は想像する。彼は非常な愛国者であって、
日本文学の声価を国際的にも高めているし、ともかく非常に天才的な作家であるということを考えて、三島君のものは
出来るだけ読むようにしている。私が三回会ったときの印象では文武両道の達人だという印象をもったが、特に
愛情の厚い人だということを非常に感じた。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

235:無名草子さん
10/11/05 19:44:33 .net
実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言も
しなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず
自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。
誤解のため鳴りつづけの電話その他で、随分ひどい目に会った。
三島君が死を賭してもやらなければならんという問題については、私自身もかなり政治家としてショックを受け、
率直に申してその晩は実は一睡もしなかった状態であった。(中略)
もし実際に運動を起して蠢動するような部隊が出てきたら大変なことになると思い、断固としてあえて強い
語調の言明をしたというのが私の心境だ。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

236:無名草子さん
10/11/05 19:46:48 .net
訴えんとするところは理解できるが、その行動は容認できない。三島君らの死の行為の重みに対しては、我々が
言葉でとやかくいってもとても相対しうるものではないと私は思う。やはり死ということは非常に深刻厳粛なる
ことと思う。これに対し口舌を尽すことは好まない。しかし他面死を以て行なった行為に対して、彼はなにかを
我々に言わせようと思って死んだのかもしれない。それを黙っているということは、死という重い行為に相対するに
適当なりやという煩悶も実はあるわけで、あれこれ私は熟慮の末、この法廷に出てきたのだ。
死は精神の最終証明である。たましいの最終証明は死である。精神というものは死ぬまで叫びつづけて
いなければならない。たとえ少数であろうとも。むなしいことかも知れないが、すぐはききめがないにしても、
歴史の過程において聞いてくれる人は出るだろう―そういう期待でやったのではないかと私は把握した。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

237:無名草子さん
10/11/05 19:48:09 .net
三島事件とは美学的な事件、芸術上の事件ではなく、一個の思想上の事件であって、日本の思想史の上からみても
あとをひく問題になる。我々はやはり正直にそれを受けとめて、おのおのこの問題を自分で精神的に解決して
いかなければならない問題である。やった人間個人をにくむ気持はない。三青年(楯の会の)も別に情状酌量や
刑期の短縮を考えている人間ではないだろうと思う。私も情状酌量してくれとかなんとかいうことは申しません。
ただ彼らがなんでやったかということだけは十分に調べて正確に判断し、後世に示していただきたい。
檄の内容については、彼自身の祖国愛、一種の理想主義というか不易な精神、歴史的理想主義をここで鮮明にして
世を覚醒しようとした気持はわかる。我々も、これを十分にかみしめ消化すべきで、我々はこのことを回避したり
ごまかしたりしてはいけない。三島君は吉田松陰の
『かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂』、そういう気持でやったのだと思う。
私は彼と考えは違うけれどもその行動自体を憎む気持よりも、むしろいたわりたい気持だ。

中曽根康弘
三島裁判の証言より

238:無名草子さん
10/11/06 16:53:42 .net
おかま魂

239:無名草子さん
10/11/06 17:12:34 .net
戦後二回だけ復活した高等文官試験の二回目が昭和二十二年に実施された。大蔵省の面接試験はその年の十二月に
麻布二の橋の大蔵省公邸(…旧渋沢邸)で行われた。
面接の順番待ちの時、ふと隣を見ると“例の男”がいるではないか。“例の男”とは私が当時住んでいた
渋谷松濤に近い旧大向小学校前の通りでよく行き会ったことがある男だ。黒髪豊かで白皙、頬の髯の剃り跡蒼々とし、
面長で額広く眉が濃くて目がぎょろりと大きな、一度会ったら忘れられないあの男である。如何にも育ちが
よさそうで眉目秀麗な貴公子風の顔でありながら、妙に人なつっこい魅力も漂わせていた。
彼は平岡と名乗り、「実はおやじが農林省の役人だったので、どうしてもお前も役人になれ、できれば俺が
予算でいじめられた大蔵省に入れと強く迫るので、本当は他にしたい仕事もあるのだが、父親孝行のために
大蔵省に志望してここに来ているのだ」という説明をした。

和田謙三「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より

240:無名草子さん
10/11/06 17:13:29 .net
私たちは昭和二十二年十二月付で採用ときまったが、平岡さんはすでに大学を卒業していたので即事務官として
採用され(二十二年後期組)、私の方は未だ在学中だったので、卒業予定の翌年三月まで「無給嘱託」という
辞令を渡された(二十三年前期組)。
これは二十二年後期組の人から聞いた話だが、このクラスの初顔合せで各自が自己紹介した時、彼は
「こんなのっぺりした野郎でござんすが何分よろしく」と挨拶したそうである。
平岡さんは最初、銀行局国民貯蓄課に配属された(給与は一八〇〇円ベースの時で、初任給は基本給一三五〇円)。
当時の国民貯蓄課はM課長の下にH課長補佐がおり、平岡さんはH課長補佐の部下として貯蓄奨励などに関する
大臣の挨拶原稿の下書きを命ぜられていた。

和田謙三「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より

241:無名草子さん
10/11/06 17:17:01 .net
大臣の挨拶文は当然ひとつの定型があり、H補佐は前例の挨拶文を平岡さんに示して、それにならって草案を
まとめるように指導したのだろう。
ところが平岡さんの作る草案は普通の官庁文書に使われたことかない美辞や修辞句に溢れた破天荒なものであった。
M課長やH補佐としては何とか折角の文才を生かしながらこれを定型的な官庁文書の鋳型にはめこむための添削、
推敲に苦労したらしい。
他方、平岡さんの方からすれば、今まで人から手を入れられたことがない自分の文章が完膚なきまでに直され、
無機質、無味乾燥な官庁文書に変形してゆくことで著しくプライドを傷つけられる面もあったようだ。ともかく
文豪三島由紀夫の文章に手を入れたのは後にも先にもこのM課長とH補佐だけということは、旧大蔵省時代から
長く語り伝えられた伝説である。

和田謙三「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より

242:無名草子さん
10/11/06 17:18:05 .net
当時の大蔵省は、霞ヶ関の庁舎がGHQに接収されていたため国電四ッ谷駅のすぐ西側の四谷第三小学校の
校舎に仮住まい中であった。渋谷に住んでいた平岡さんは私と同様、渋谷駅から代々木まで山手線に乗り、
代々木で総武線に乗り換えて四ッ谷駅下車というルートで通勤していた。
比較的早い時刻での役所からの帰途、よく一緒に空襲で未だ焼け跡だらけの渋谷の町を歩いた。そんな時、
「昨夜は殆んど徹夜だったので今日は目がかすみ、頭が朦朧として、課長から作成を指示された資料の数字を
何ヵ所も間違えて大分油をしぼられたよ」とこぼしていた。まだ文壇に本格的にデビューする前であり、彼の
作家活動を余り認識していなかった私は、「この人、徹夜までして一体何をしているのかな」と一時は思ったりした。
私が入省して半年くらい経った昭和二十三年九月、偶々前述のM課長が私の上司となっていた時、平岡さんが
役所を辞めるのでM課長のところに挨拶にきた。その折私の席にも立ち寄って次のような話をしてくれた。

和田謙三「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より

243:無名草子さん
10/11/06 17:19:55 .net
「和田君、君には入省面接の際、おやじ孝行でこの役所を志望したといったが、実はもっと重要な理由があったのだ。
それは生活のために書く小説はとかくいじけたものになりがちなので、森鴎外(軍医)のように生活の支えは
作家とは別の職業に求めたいという考えがあったわけだ。そしてできることなら役人生活を続けながら作家活動を
続けてゆきたいと願っていたが、役所の仕事を忠実にやると自分の精力と時間の相当部分を費さなければ
ならないので、役所というところは仕事と文筆稼業を両立させがたい職場であることがよくわかった。偶々最近
僕にもやっと大きな出版社から声がかかるようになったので自分の“ヰタ・セクスアリス”のようなものを
書いてみようと思っている。僅か八~九ヶ月の御奉公で去ることは折角採用してもらった大蔵省には申し訳ないが、
これを機会に役所を辞めることにしたよ」と云って彼特有の大口をあけて哄笑して去っていった。
因みに(略)短編「訃音」で彼は役所での体験を基にして主人公の財務省金融局長をカリカチュア風に描いてみせ、
また同じ頃、「大臣」という短編で彼の在職時のK蔵相を風刺している。

和田謙三「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より

244:無名草子さん
10/11/07 00:08:09 .net
私は、ミシママニアです。(中略)
今となっては何歳の頃に読み始めたのか判然としないのですが、私が三島由紀夫に激しく惹かれるようになった
きっかけがその比喩表現にあるということは、はっきり記憶しています。比喩を一つ読む度に、私はほとんど
肉体的快感に近いような興奮を覚え、その快感を味わいたいがために、あれもこれもと読むようになっていった。
三島由紀夫の比喩表現は、なぜ快感をもたらすのか。……と考えてみると、「まるで○○のような××」という
表現において、比喩である○○が私の心の中で描く曲線と、比される実体である××が描く曲線とが、完璧に
シンクロしているから、なのです。フィギュアスケートのアイスダンスやマスゲームといった「よく揃ったもの」を
見ると無性に心の萌えを覚える性質の私が、彼の比喩に陶然とするのは、自明のことなのでしょう。
「よく揃ったもの」が好きな私は、制服というものを好みます。そして三島由紀夫も、この方面については
かなりのいけるクチだったに違いないと、勝手に信じている。

酒井順子「究極の制服好き」より

245:無名草子さん
10/11/07 00:09:40 .net
三島由紀夫は、高等科までを学習院で過ごしています。学習院の蛇腹の制服は、日本における軍服および学生服
デザインの基礎となったもの。日本においてはこれ以上望めないほど純粋な制服環境の中で、彼は幼少期と
青春期を過ごしたのです。
四十歳を過ぎてから、三島由紀夫は陸上自衛隊富士学校において、幹部候補生達と一緒に訓練を受けています。
「三島由紀夫と自衛隊」(杉原裕介・剛介著、平9・11並木書房)という本によると、訓練課程を終えた記念の
昼食会の席に、三島由紀夫は一等陸尉の階級章のついた制服を着て現われ、仲間の自衛官達を驚かせたとのこと。
「皆さんと同じ幹部自衛官の制服を着たかった」
ということで、富士学校内の売店で見本として飾られていたものを買い取ったのだそうです。この行為とこの発言、
制服好きのものでなくて何でありましょうや。
とどめは、楯の会の制服です。三島由紀夫が自害した時に私は四歳で、楯の会の制服を写真以外で目にした
ことがないのですが、あれが確かに「制服好きが作った制服」であることは、はっきり理解できます。

酒井順子「究極の制服好き」より

246:無名草子さん
10/11/07 00:11:29 .net
肩幅を広く見せるための、絞られたウエスト。たくさん並ぶ、金ボタン。それは、制服の美を熟知し、また
自らの姿を制服の中で生かしたいと熱望する人でしか作り得ないものなのです。
楯の会の制服は、フランスのドゴール大統領の軍服に感心した三島由紀夫が、その軍服を縫う手伝いをした、
日本を代表するテーラー・五十嵐九十九氏に依頼をして作ったものだそうです。その折、三島由紀夫は自分で
デッサンを描き、各部分の素材まで指定したというではありませんか。“ああ、やはり……”と、私は思う。
三島由紀夫は、「型」というものに特別な思いを抱く人なのでしょう。制服好き(と断定させていただく)
という性質にしても然り。また彼が愛した歌舞伎にしても、それは型の連続によって、出来上がっていく芝居。
しかし三島由紀夫は、既に存在する型からちょっと逸脱して新しく見えるものをつくるのではなく、新しい型
そのものをつくり出してしまう人です。新作歌舞伎を書き、自分の軍隊の制服を作るという行為は、型の中に
浸るのが好きなだけの人には、決してできないことなのではないか。

酒井順子「究極の制服好き」より

247:無名草子さん
10/11/07 00:12:31 .net
何かとシンクロしようてしながら、いつの間にかその何かよりも遠くに行ってしまうように見える、三島由紀夫。
そんな彼を私は、同じ制服好きの下っ端として、目の中でお星様をキラキラさせながら、仰ぎ見るのです。
三島由紀夫と同時代に生きることができなかったことが残念でたまらない私が今、考えてしまうことが、もう一つ。
それは、「三島由紀夫は、自身の転生を望んではいなかったのだろうか?」ということ。
これは、あまりにも子供っぽい想像ではあるのです。が、三島由紀夫が死ぬ前、
〈又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で〉
などということを誰かに言わなかったのだろうか、いや言っていてほしい……と、マニアとしては妄想を
たぎらせてしまう。
もしも三島由紀夫の生まれかわりが出現するのなら、それは私が生きているうちであってほしい。本多繁邦が
その一生のあいだにあれだけの転生に立ち合ったのであれば、それは不可能なことではないのか……と私は密かに、
けれど結構真剣に、祈っているのですが。

酒井順子「究極の制服好き」より

248:無名草子さん
10/11/07 16:26:27 .net
おためごかし

249:無名草子さん
10/11/07 17:09:46 .net
三島さんに初めて逢ったのは、一九五一年の夏だったと思う。
小さい頃から行っていた群馬県の高原の村に、吉田健一さんの山小屋もあった。
三島さんはその頃、吉田さんや大岡昇平、福田恆存、中村光夫さん達の「鉢の木会」というグループに入る事に
なっていて、夏の一日、吉田さんの家で例会があり、父(岸田国士)の所に十人位で遊びにみえたのだ。
姉とわたしはお茶を運んだりしながら、ユーモア溢れる会話に聴き耳を立てていた。
何といってもイジメの対象は、他の人より一廻りは若い三島さんで、三島さんも又、からかわれるのが嬉しいように、
あの独特の笑い声を挙げていた。
皆、その夜は村のクラブに泊まって翌日帰京なさる中で、三島さんだけは二、三日帰るのを延ばすことになった。
「仕事は夜するから」といって、昼間はわたしたち、夏の遊び仲間やその友人と、目一杯遊んだ。
年長の作家たちとのお付き合いでは満たされないものを、少し年下の大学生や芸術家の卵たちと、体を使って
取り返そうとでもするように。乗馬、ボート、ダンス。

岸田今日子「わたしの中の三島さん」より

250:無名草子さん
10/11/07 17:11:27 .net
…この村が気に入ったという三島さんは、翌年の夏も一週間ぐらい滞在した。帰りはわたしも一緒だった。
旧軽井沢のパーティーに寄ってそのお家で泊まることになっていた。ちょっと危ないメンバーだったみたいで、
一晩中、わたしの枕元で仕事をしていた三島さんを忘れない。
…その年の秋、わたしは文学座の研究生になった。
文芸部に所属していた三島さんは、一年おき位に作品を提供していて、わたしは文学座にいた十年の間に、
外部出演も含めて三島作品七本、潤色と演出それぞれ一本ずつに出演した。
三島さんは稽古場にもよく顔を見せた。
舞台の出来も気になっただろうけれど、その後で若い俳優たちと遊ぶのが楽しみだったように見えたのは、
わたしの勝手な思い込みだろうか。
皆、作品については十分敬意を払っていた。でも運動神経やファッションセンスに関しては、言いたい放題だった。
自虐的な所のある三島さんが、それを喜ぶことを知っていて、一種のおもねりだったと言えるかもしれない。

岸田今日子「わたしの中の三島さん」より

251:無名草子さん
10/11/07 17:14:16 .net
ボディビルやボクシングを始めた時も、遊びのふりをしていたような気がする。
何回戦だかの試合に出た時は皆で見に行った。かなり痛々しかったけれど、いつものように後でさんざん
悪口を言ってあげた。三島さんは嬉しそうに、大きな声で笑った。
舞台の初日には女優の楽屋の化粧前にカトレアの花が届けられ、客席と楽屋を往ったり来たりするのも嬉しそうだった。
本公演ではたった一本の演出作品「サロメ」の時は、見違えるように真剣だった。
様式的な舞台を創ろうとして、俳優たちに一せいに左右へと首を廻すように指示した時、わざと反対の方を
向く人が一人いて、あんなに怒った三島さんを見たことがない。いつも血の気のない顔が、死人のように蒼白だった。

岸田今日子「わたしの中の三島さん」より

252:無名草子さん
10/11/07 17:15:20 .net
映画「からっ風野郎」出演の時、ちょうど仕事で同じ撮影所にいたので、三島さんのセットを覗きに行った。
ビールを抜いてたくさんのコップに注ぐ所で、三島さんは何度もNGを出していた。
増村保造監督の「もう一度」の声に、三島さんはますます緊張してリズムが崩れ、ビールが足りなくなって
小道具さんが酒屋に走った。
完成すると三島さんは自宅で試写会を開いた。
さんざん悪口を言われて、やっといつもの自分に戻ったようだった。セットを覗いた話はしなかった。
芥川比呂志さんはじめ、これから一緒にやって行こうと思う若手の俳優たちが、レパートリーに不満を持って、
文学座脱退のことを福田恆存さんに相談しているのは知っていた。福田さんに誘われたわたしは
「三島さんが一緒なら」と言った。
「もちろん僕から誘います。三島君に言うと直ぐ洩れるから話さないように」と念を押された。
お家に招ばれながら黙っているのは辛かったけれど、お二人は「鉢の木会」以来の親友だからと、自分に言い聞かせた。

岸田今日子「わたしの中の三島さん」より

253:無名草子さん
10/11/07 17:16:31 .net
京都に撮影で行っていた或る朝、新聞に脱退の記事が出た。三島さんの名前はない。
帰京してすぐ三島さんのお家へ行くと、「新聞に出る前の晩に聞かされて、動けると思う?」と言われた。
福田さんにだまされたと思ったけれど、どうしようもなかった。
「『双頭の鷲』は生きられないんだよ」。福田さんと三島さんのことだ。慰めだったろうか。
「そのうち、又、一緒に何かする機会もあるから」と言われて、帝国劇場で『癩王のテラス』を上演する時、
六年ぶりに呼ばれた。王の病気が感染して、焼身自殺する妃の役だった。
御自身も文学座を脱退し、楯の会を作った三島さんは遠い人のようで、あまり話もしなかった。
初日には、やっぱりカトレアが置いてあった。
「精神が滅んでも肉体は滅びない」という逆説に満ちたこの芝居が、三島さんの最後の戯曲になった。

岸田今日子「わたしの中の三島さん」より

254:無名草子さん
10/11/07 23:24:36 .net
吉田松陰が七世紀の壬申の乱のことを『講孟剳記』で語っています。そこで、たとえば弘文天皇が天武天皇に
三種の神器を奪われてしまったとき、レガリアがないとはたしてレジティマシーが天皇としてあるのかという
議論を、前期水戸学が問題にしている。これについて、吉田松陰はそんなことはどうでもいいと言うんです。
三種の神器を天武天皇から弘文天皇の臣下が奪い返せばいいんだと言うんです。つまり認識や理屈よりも行動だと。
実践的な行動が大事だと言っているんです。(中略)
(私は)日本人を非常に信頼しています。特に一般大衆と言いますか、庶民を昔から信頼しています。たとえば
徳富蘇峰が『近世日本国民史』で元禄時代の忠臣蔵、赤穂義士の事件のことについて触れています。

杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

255:無名草子さん
10/11/07 23:25:51 .net
あれはいつどういうときに勃発しているかと言いますと、元禄時代ですので、およそ享楽と歓楽の世です。
元禄の世の中は黄金万能主義で拝金万能主義の世の中だと。太平楽で一切戦争から離れて、元禄のデタラメかつ
狂乱の文化を謳歌していた時代に、突如として江戸に腹を斬らなければならない人たちが四十何人も出た
驚くべき事件が出来したと言っている。蘇峰はこれを大正時代の今日に東京丸の内へ虎が飛び出すよりも
驚くべき事件だと言っている。
つまり日本国民に潜在している尚武の気性は、歴史的にいよいよ危機になってくると必ず実践として噴出する
というわけです。山路愛山も福本日南も、歴代の近代ヒストリアンは皆同じです。
まさにその伝で三島由紀夫さんが身を捨てて、戦後の昭和元禄みたいな世の中に警鐘を鳴らしてくれたわけです。

杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

256:無名草子さん
10/11/07 23:27:07 .net
確かに表面上はどんどん悪くなっていると思います。たとえば北朝鮮の拉致問題とか、憲法改正問題を含め
何一つ手を付けられない。その背後には日本国民の国家意識の問題がありますね。
たとえば有事法制を作った。北朝鮮で不審船の侵入事件がありましたが、あのときに自衛隊法八十二条で
海上警備行動を発動しようとしましたが、最初は巡視船でやっていて自衛隊はなかなか出ない。私が教えを受けた
坂本多加雄先生に言わせると内閣がもたもたしていたからだと言う。ではなんでもたもたするのかと言うと、
一般国民のなかにそういう構えができていないからです。しかし日本国民は健全だから必ず目覚めると常に
一貫しておっしゃっていました。私もそう信じています。三島さんのような人が、まさに昭和元禄の頃に
突如としてああいう行動を噴出させたようにです。

杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

257:無名草子さん
10/11/07 23:28:26 .net
私はどんどん駄目になって遂に破滅に至る、日本が溶解するとは思っていません。近代以前もそうですけれども、
歴史を勉強しているうちに、そんなに捨てたものではないだろうと思うようになりました。
むしろこれから真の三島のような人がまた出てくるであろう。本当の危機のときに必ず日本人は英雄を生み出すと
山路愛山も徳富蘇峰も言っています。そちらのほうに私は賭けたいと思っています。
そもそも日本を溶解に導いているのは、むしろ政治家や知識人といったエリート層です。戦前も戦後も
そのパターンで、大衆国家日本の庶民の常識こそ信じたいのです。そしてそこから英雄が出現するだろうと。

杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

258:無名草子さん
10/11/08 00:43:21 .net
throw enough mud at the wall and some of it will stick.

259:無名草子さん
10/11/08 11:00:48 .net
戦後の日本人に大きな魂を残したのは、三島由紀夫と神風特攻です。これも実はフランス人がそう言っているんです。
ベルナール・ミローが『神風』という本を書いていまして、「特攻の精神は、千年のときを貫いて人間の
高貴さを示している」と1970年代に書いています。戦後の日本人に対して特攻隊と三島の死が非常に大きな
力と言いますか、日本精神の原点は何かということを教えてくれた気がします。
憲法の問題ですが、アメリカが作って翻訳された「たかが成文憲法」です。しかしこのたかが成文憲法を戦後
60年近く押し戴いている日本は一体なんなんだというのが私の今の正直な感想です。自民党がこうなったのも
当然だと思います。

富岡幸一郎「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

260:無名草子さん
10/11/08 11:02:13 .net
三島が45年の11月25日に、自民党政権はもはや火中の栗を拾わない、すなわち憲法改正をしなくても
政権は維持できる。このことにどうして自衛隊の諸君は気がついてくれなかったんだと言っています。
そういう意味で、政治論ですけれども、たかが成文憲法を変えられない我々の問題も感じます。
あと二年のうちにということがどういう意味かと考えると、三島没後の72年にあれほど対立していた米中が
手を結びました。つまりあの瞬間に日本の憲法改正も、自衛隊が国軍になる日もなくなった。あるいはその
チャンスが失われかけた大きな危機だったのではないか。今はそれと同じ状況だと思います。スケールは違いますが、
同じ事態が出来している。アメリカと中国が経済同盟を結んで日本をスルーしていく。民主党政権の外交は全く
機能しておりません。

富岡幸一郎「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

261:無名草子さん
10/11/08 11:03:42 .net
何年も前から檄文のなかにあった二年後というのが気になっていて、一体なんなんだろうとずっと考えていました。
あるとき気づいたんですが、一つは米中接近がありますね。もう一つは沖縄返還です。昭和47年に沖縄返還が
行われることは決まっていて、そのときにどういうかたちで返還されるのか。それによって日本という国家が
相変わらず独立できないまま半独立国家として、アメリカの永久占領が限りなく続いていくことを三島は見抜いていた。
彼が45年の生涯で書いたものの全てが、今の21世紀の私たちに突き刺さってくる問題ばかりを書いている。
それが天才の所以なんでしょうけれども、認識と行動の問題もつくづく考えさせられます。二元論に自分を
追い込んでいって、ラディカリズムがニヒリズムを克服するという方法論をとったのではないかと私は解釈しています。

西村幸祐「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

262:無名草子さん
10/11/08 11:05:07 .net
(中略)
三島は現実的な問題も、十分捉えていたわけです。二年後に自衛隊はアメリカの傭兵になってしまうと
1970年の時点で言い切っていたのは、米中接近と沖縄返還のことを、すでに視野に入れていたということです。
(中略)
最近よく話題になる核のシェアリングの問題がありますけれども、そういったことも三島さんは考えていた。
それは日本の核戦略はどういうものになるのかと、40年前の時点で考えられ得る現実的なこともちゃんと
提起していた。国土を守るほうの自衛隊を、国軍として成立させることで、日米安保体制下のなかでの日本の
自主防衛をどうしていくかを、40年前のあの制約のなかで考えていたことは素晴らしい慧眼だと思います。

西村幸祐「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

263:無名草子さん
10/11/09 00:11:54 .net
三島さんの檄文を読んでみますと、説明は少ないんですけれども、「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を
守ることを喜ばないのは自明である」という文章があります。最後の部分で「今こそわれわれは生命尊重以上の
価値の所在を諸君の目に見せてやる」という有名な科白ですね。「それは自由でも民主主義でもない」と書いている。
これは普遍化のし過ぎかもしれませんけれども、先ほど富岡さんが言った特攻隊問題とも関係ありますが、
あえて分かりやすく言えば、三島さんは特攻世代です。帰されましたけれども、三島さんの頭のなかに、はっきりと
日本の特攻はアメリカ軍と闘ったんだという、当たり前のことが当然のこととして残っている。別に反米とか
なんかではないんです。三島さんの文学その他で、ほとんどアメリカのことなんて歯牙にもかけられていない。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

264:無名草子さん
10/11/09 00:13:37 .net
逆読みをすると、アメリカなんかは、とてもではないけれども、文学者なり文学者の感性、美意識その他から言って、
自分たちがまともにそれを受け入れるべき存在ではないということが、三島さんにとってはおそらく自明のことだった。
したがって、アメリカが日本の自主独立を喜ぶわけがない。もっと言うとアメリカの自由民主主義は、まともに
受け取る必要のない価値観だと。僕自身が別の径路で誠にそのように思っているんです。
アメリカは元々文明の本質論として左翼国家だとしか思われない。左翼の定義はフランス革命に見られたように、
分かりやすく言えば、自由平等、博愛=友愛等々の、言わば理想主義的な綺麗事で、歴史に対して大破壊を
起こしていくことによって、そこから進歩がもたらされるんだと考える者が、十八世紀の末に左側に座ったと
いうだけの理由で左翼と言われていた。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

265:無名草子さん
10/11/09 00:15:20 .net
アメリカは元々歴史感覚が、ないとは申しませんが、乏しい国です。アメリカの場合は言ってみれば個人主義的な
方向において近代主義を実現しようという巨大な実験国家だくらいにしか思われない。歴史に巨大な実験を
仕掛けているという意味において左翼国家だと考えるのが、文明論の本道だと思う。冷戦構造の他方の雄である
ソ連その他はなんであったかと言うと、近代主義的なものの考え方を、集団主義的、社会主義的に実現しようとした。
(中略)そう考えたら日本列島の戦後は、アメリカ的なものを保守と見なし、ソ連的なものを革新と見なす
などという馬鹿げた思想の分類軸で、自分を位置づけたり他人を評したりすることが半世紀以上にわたって
行われれば、元は立派な国民、民族でも大概頭も痺れるし背骨も溶けるだろうとどうしても推測してしまう。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

266:無名草子さん
10/11/09 00:17:00 .net
(中略)
平成に入って少しでも日本がよくなったかと言うと、構造改革論は簡単に言うとアメリカ的なやり方で日本社会を
抜本的に構造的に改革した。典型的人物で言えば小泉純一郎をクライマックスとして現れた構造改革論です。
それがぐちゃぐちゃになったら、今度は鳩山なる人物が出てきて、社会保障だ、弱者救済だとやる。
ソ連がないからアメリカしか残っていないのですが、アメリカのなかにある主流と反主流のシーソーゲームを
日本列島に映し直しているだけです。(中略)
アメリカ文明は歴史が乏しいが故に、結局個人民主主義と社会民主主義の間のシーソーゲームを繰り返すしか
ないのがアメリカ左翼国家の宿命です。もちろんアメリカを馬鹿にしているわけではないんです。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

267:無名草子さん
10/11/09 00:18:18 .net
(中略)
日本人全体が仮に頭のてっぺんでアメリカ様、進歩主義と言っていたとしても、歴史の慣性がありますので、
戦前戦中を経験した世代はその進歩主義のやり方、自由民主主義のやり方のなかに否応もなく日本の国柄を半ば
無意識に引きずっていた。したがって戦後日本の自由民主党が作り出した平等福祉国家は、たとえば日本的経営を
見ればよく分かるように、日本的なやり方をなんとか組み込むことによって、アメリカに近い国を作ってきた。
ところが昭和が終わる頃から世代交代が起こった。お年寄りの大半はどんどん死んでいく。まだ生存中でも
年寄りよりも若い者のほうがいいという理由で世代交代が叫ばれ、政治だけではなく学界だろうが財界だろうが
全部戦後世代です。
こう見えて僕は昭和14年生まれです。小沢一郎は僕よりも年下です。大概自分を見れば
あいつらろくでなしだろうなということは分かります。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

268:無名草子さん
10/11/09 00:22:08 .net
戦後に生まれたからろくでなしと言っているのではないんです。戦後は次々と歴史を蒸発させてきた。
昭和世代がとうとう第一線から退くにつれて、ほとんど歴史が蒸発してしまうのが昭和64年までだったと
分かれば、平成の御代は所詮戦後体制の確立であり、憲法体制の一層の実現である。ある種段階的な変化が
ありまして、それこそ日本の国柄を無意識にも引きずるという、昭和の時代の常識の、最後のかけらまでもが
砂漠に没してしまった。歴史なき、国民意識として言えば砂漠のようなところに、結局アメリカで行われてきた
自由民主主義と社会民主主義の間の極めて人工的なシーソーゲームを、この平成の21年間たっぷりやったし、
これからもやり続けるのであろう。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

269:無名草子さん
10/11/09 00:23:43 .net
こんなことをやっていれば、結局のところわが民族は、アメリカの半ば無自覚の猿真似のうちにギッコンバッタンで
脳震盪を起こして、そのうちにぶっ倒れるのが落ちである。
三島礼賛をする気はないけれども、心持ちから言えば、三島さんの猿真似でもやって、いつ何時でも死ぬに
やぶさかではないぞというくらいの感じでいるべきです。三島さんが最後どうして自死できたかと言いますと、
本当に絶望していたのではないか。何に絶望していたかと言うと、馬鹿な文学者たちは、三島さんのことを
自分の文学の能力の限界に絶望したなんてアホなことを言っていますが、そうではなくて、日本人に絶望して
いたのではないか。あれからもう39年です。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

270:無名草子さん
10/11/09 00:24:49 .net
全く希望がないとは言わないけれども、39年という凄まじい時間の持続を経て、我々がどれほど深々と砂漠の
なかに足を突っ込んでいるかを考えたら、そこで尚かつものを言うとしたら、日本人にはほとんど一切希望を
持つことができない。要するにこの社会はいずれどうしようもなく大脳震盪を起こして、周章狼狽、茫然自失に
陥るであろう。皆さんを励ます意味で言うと、何かある程度の覚悟と認識を持って、ある程度責任ある行動を
とろうとしたら、ほぼ負けを覚悟しないといけない。頑張ればいいことが起こるだろうなんていう生易しい
状況のなかにあるのではないと思います。逆に言うと、負けを覚悟しないとものを言う気がしません。
勝つだろうなんていう希望はどこを見渡したってないのに、「頑張れば勝ちますよ」と言うのは、最も人間を
疲れさせる励ましの言葉であって、高らかになんの希望もないのであるとにこやかに言うべきだし、本当に
そこまできていると思っています。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

271:無名草子さん
10/11/09 10:51:09 .net
ある政治家が「狂気の沙汰」と呼び、これに迎合するかのようにある作家が「精神分裂症」と診断した。
病理学的な狂気は三島由紀夫君にはなかった。
狂気とかたづけてしまえば、その時点で政治家も作家も、一切の思考を停止し、責任を回避することができる。
ソ連のような国では、多くの健康な作家が精神病院に入れられている。独裁者と怠惰な思考喪失者にとっては、
人を狂人あつかいにすることほど簡易軽便な処理法はない。
「賊と呼び狂と呼ばんも、他評に任ぜん」という句は、維新志士たちの辞世の漢詩にときどき出てくる。
出典はシナにあるかもしれぬが、これが古今に通じる志士の心である。
三島君自身も狂人呼ばわりの「他評」はもとより覚悟していた。

林房雄「悲しみの琴」より

272:無名草子さん
10/11/09 10:52:23 .net
だいぶ以前のことだが、三島君は私の家に遊びに来た時、デパートの売子たちの無知と無礼粗暴な態度を怒り罵倒し、
「こういうのが現代の若者だというなら、僕はできるだけ長生きして彼らが復讐を受けるのを自分の目で見てやりたい。
それ以外に対抗策はありませんね」と真顔で言って私を笑わせてたことがある。
彼にもこのような意味の長生きを考えていた一時期があった。
いわゆる「夭折の美学」を捨て、図太く生きて戦後の風潮と戦ってやろうと決意したのだ。

彼が週刊誌に荒っぽい雑文めいたものを書きはじめ、グラビアにも登場しはじめたとき、「いったいどうしたのだ」
とたずねたら、「戦後という世相と戦うためには、こんな戦術も必要でしょう」と笑って答えた。
だが、この「長生き戦術」または「毒をもって毒を制する戦略」はやがて捨てられた。
怒れる戦士は迂回作戦を軽蔑しはじめ、単刀直入を決意した。
『英霊の声』はこの視角から読まねばならぬ作品である。

林房雄「悲しみの琴」より


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch