2ch厨房が新書等のベスト 5冊目at BOOKS
2ch厨房が新書等のベスト 5冊目 - 暇つぶし2ch700:つづき
13/11/04 00:16:53.28 .net
冒頭で記したように、一次資料の引用が主体となっており、詩歌や俗謡などの引用が多くを占め、
事故の記録や禁止の法令以外には散文的なわかりやすい記録というのは19世紀まではあまり出てこない。
また蹴球の様子を描いた絵画なども非常に少ない。これらは自分の感覚ではかなり不思議なのだが、なぜそうなのかという説明はされていない。
やはり下層の民衆による粗野な娯楽だったので、言説を支配する上流では無視されていたのだろうか?
「社会史」と銘打たれている割には社会の分析はあまりされていない。
また、ほぼイギリスの事情だけしか述べておらず、その他の国の事情はほとんどわからない。
啓蒙書の体裁を取っていないので、新書として出したのは失敗ではなかろうか。
こうした研究書を底本として翻訳者が世界のサッカー史をまとめたほうが良かったかもしれない。
フットボールといういかにも面白そうな題材だが、あまり気楽に読める本ではなかった。星3つ★★★

701:無名草子さん
13/11/04 00:22:29.83 .net
長島伸一『大英帝国』(講談社現代新書)。副題は「最盛期イギリスの社会史」。
産業革命をなしとげた19世紀のイギリス、ヴィクトリア女王の治世の社会史を、同時代に生きたナイチンゲールの証言などを元に描き出している。
この時代は1820年代~60年代の自由主義の時代と、それ以降から第一次大戦までの帝国主義の時代に大きく分けられるが、
著者はさらに自由主義の時代を、産業革命完成期の前半期と、成熟の時代である後半期に分けている。
産業革命による機械性大工業化は、都市化をもたらした。そして、公害・失業・貧困を生み出していく。
鉄道網の整備によって物と人の移動も頻繁になり、教育制度やジャーナリズムも発達して、大衆化も進んでいく。
しかし1873年の世界恐慌から始まる長期停滞から、衰退への道をたどっていく。とはいえ不況期に至っても大衆化と生活向上は進んでいった。
だが失業と窮乏も目立つようになり、当時行われた社会調査によって貧困の実態に明らかになるにつれ、イギリスはやがて福祉国家への道を選んでいく。

702:つづき
13/11/04 00:24:04.85 .net
2章ではこの時代のイギリスの階級社会を概観する。
3章では、当時の国際情勢を概観しつつ、イギリスにおける奴隷制廃止の運動および奴隷貿易廃止への動きを追う。
奴隷貿易廃止後は、植民地経営を、植民地の自治をある程度認める方向に転換し、英・印・中の新たな三角貿易が定着する。
中国から紅茶を大量に輸入していたイギリスは、対価の銀の流出に悩まされ、綿をインドへ、インドから阿片を中国へ輸出することにした。
こうしてアヘン戦争が起こる。
4章では「ジャックと豆の木」の民話が、イギリスの植民地政策を寓意しているという説が唱えられる。この物語には英国の侵略を正当化する心理が描かれているという。
5章では、レッセフェールの伝統を出発点としつつ、初等教育の大衆化や、統計的な社会調査が行われる中で貧困対策の必要が認識されるようになり、
国民にナショナル・ミニマムを保証する福祉国家の思想が生まれてくる過程を描く。
6章では、大衆化と消費社会の進展を描く。鉄道やガス灯によって、交通や照明も進歩し、大衆の食事も改善し、サービスの商品化も進む。
ロンドン万博が開催され、旅行が大衆化され、海水浴などのレジャーも行われるようになる。但し、その質は階級によって異なった。

703:つづき
13/11/04 00:25:43.54 .net
7章では、さらに大衆社会の諸相をいくつか取り上げている。「リスペクタブル」と呼ばれる、労働者の中でも中流に近づいた上層労働者も現れる。
女性の解放はなかなか進まなかったが、19世紀後半には中流階級女性の就業機会は開かれてくる。
サッカレーが『虚栄の市』で語ったように、大衆社会における都市は、見たり見られたりすること楽しむ舞台装置である。
コーヒー・ハウス、パブ、コンサート会場、オペラ劇場、安芝居小屋などが、庶民の娯楽として栄える。処刑見物も大衆の粗野な楽しみとしてお祭り騒ぎとなっていた。
また、庶民の健全な娯楽としては、ピクニックがあり、イギリスに亡命中で貧窮生活を送っていたマルクスもこれを楽しんでいたというエピソードが語られる。
スポーツも盛んになり、フットボール、クリケット、クローケー、ローン・テニス、サイクリング、アーチェリー、ローラースケート、アーチェリーなどが行われるようになる。
見るスポーツとしては、ボクシングなどがあった。最後に国民的娯楽の殿堂として「ミュージックホール」が紹介される。
ここでは、歌・踊り・道化芝居などのバラエティーショーが演じられ、「スター」という言葉もここから生まれた。
本書は、時代はイギリスの19世紀に限られているが、雑多な話題が詰め込まれていて、焦点が絞りこまれていないという印象。
大英帝国の植民地政策にしろ、奴隷制廃止の経緯にしろ、民話の分析にしろ、貧困対策と福祉国家への道筋にしろ、階級にしろ、大衆消費社会の描写にしろ、
それぞれ本1冊費やして論じることができる話題だと思うが、欲張ったせいで、どれも掘り下げ不足という感じになってしまった感じ。
ただ上の『フットボールの社会史』よりはるかに読みやすい。この時代のだいたいの全体像を見たい人には合っていると思う。★★★★

704:無名草子さん
13/11/04 00:46:11.31 .net
読みなおしてみたら「感じになってしまった感じ。」とか書いてるのを発見w

705:無名草子さん
13/11/04 12:17:51.63 .net
きんも

706:無名草子さん
13/11/04 12:54:59.35 .net
自己満オナニースレほっといたれや

707:無名草子さん
13/11/07 23:40:08.42 .net
新書のオススメ教えてくれ

URLリンク(lifehack2ch.livedoor.biz)

708:無名草子さん
14/01/06 04:23:59.58 .net
このスレはレベルが高い
「新書」から引っ越してこよう

709:無名草子さん
14/01/06 18:22:58.75 .net
でもそろそろ落ちるだろこの過疎スレ

710:無名草子さん
14/01/07 01:01:43.57 .net
橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)
大澤が生徒役、橋爪が先生役になり、大澤が橋爪に対して、キリスト教に関する素朴な疑問を投げかけ、橋爪がそれに答えるという構成になっている。
第1部は、ユダヤ教ないし旧約の教義と歴史、第2部は、イエスキリストの登場とキリスト教の歴史、第3部は、プロテスタントの出現と西洋近代の形成について。
冒頭から橋爪が全知の教師然として自信満々で語る態度に違和感を覚える。宗教社会学の先生とのことではあるが、
どう見てもキリスト教の専門家ではないのに、なぜ権威を持っているかのように語れるのか。ちょっと池上彰を連想した。
概ねウェーバー(本書では「ヴェーバー」と表記)の宗教社会学をベースにして論じられているようだが、個々の説について、出典をはっきり示していない場合が多く、
また、過去にどのような神学的議論がされてきたのかを一切無視して、いきなり橋爪自身の見解や解釈を述べるところも多い。
橋爪の説にしても、神学的根拠があるのか、単なる独自の思いつきなのかはっきりしない。
ただ、自分は宗教や歴史に関して無知なので、怪しいなと思いつつも、割と楽しく読んでしまった。
最初に「キリスト教文明の中からいかにして西洋近代が形作られてきたのか」あるいは「西洋近代の母体となったキリスト教の宗教としての特殊性とは何か」
というようなウェーバー的なテーマがあり、そうした社会学的な興味からキリスト教そのものを分析するということになったのだろう。

711:無名草子さん
14/01/07 01:02:56.98 .net
「予定説」から資本主義的な勤勉が生じたのはなぜか、という問題に対する橋爪の回答は、ウェーバーに即したものなのか、独自の説なのか、これも曖昧なのだが、
いずれにしてもアクロバティックな論理で、よくわからない。これについては自分もいろいろ考えることができて、それなりに楽しかった。
なお、この本については出版直後から宗教学や神学関係者から猛烈な批判が浴びせられており、ネット上でも批判がまとめられている※。
これによると、宗教学・神学のみならず史実のレベルで間違いだらけとのこと。中には高校世界史レベルのミスもあるようだ。
問題はこうした批判に著者らがどう対応したかだが、以下のような著者のコメントを知って愕然とした。
曰く「この本に事実が書いてあると思うのが間違いです。」事実が書いてないのなら内容を要約しても仕方がないので、要約は放棄しました。
橋爪大三郎という人については好きでも嫌いでもなかったが、これによって印象は悪化した。
この居直り方に既視感があったのだが、内田樹『日本辺境論』の序文で似たような責任回避をやっていたのを思い出した。
批判を受ける前に先手を打って開き直るところは内田先生の方が一枚上手である(さすが武道家)。
大澤真幸先生は、この本では生徒役なので、ミスの責任はあまり問われないわけで、意外と立ち回りが上手いと思った。★★

※→URLリンク(www32.atwiki.jp)

712:無名草子さん
14/01/07 01:22:35.36 .net
八木雄二『中世哲学への招待』(平凡社新書)
タイトルでは中世哲学全般の入門書のようだが、内容はほとんど、13世紀のスコラ哲学・神学者であるヨハネス・ドゥンス・スコトゥスについてのもの。
彼の思想は難解をもって知られ、精妙博士と呼ばれた。「はじめに」で、日本人のキリスト教に対する無関心と、近代思想の通念である中世暗黒史観を批判した後、
「その一」では中世哲学の歴史を簡単に区分し、ヨハネスの生涯を素描する。
「そのニ」では「神の存在証明」についてのキリスト教思想の歴史。また、神の存在に関連して、「なぜ悪が存在するのか」という神学的問題にも触れる。
ここではこうした神学的思考の中に、既に科学的思考の芽が含まれているということを強調している。
「その三」では、普遍と個別化の問題について、中世哲学の議論を概観しつつヨハネスの見解を中心に論じる。
大雑把に言って、普遍こそが真に存在するという考えはプラトンに由来し、実在するのは個別者だという考えはアリストテレス的なものである。
ヨハネスの思想はイデア論か唯名論かという二者択一の単純なものではなく、普遍の実体性を認めつつ個別者の実体性に重点を移した。

713:つづき
14/01/07 01:23:41.48 .net
「その四」では、三位一体論についての議論から、その「父と子と精霊」の3つのペルソナが人間精神の3つの働き「記憶」「理知(知識)」「意志(愛)」に照応するという思想が生まれてきたことを論じる。
「記憶」はプラトンの「イデア想起説」と関連し、ヨハネスは、習い覚えたものではなく、最初から無意識に持っているものを「記憶」としている。この生得的な記憶が理解を可能にする。
三番目の「意志」と「愛」が同一視されているが、これは「記憶」と「理知」の問題が「認識論」であるのに対して、「愛」の問題は「実践論」であることによる。
ここでの「愛」は盲目的な愛ではなく理知的な愛であり、世界の理解に基づいて目的と手段を選択し愛を実践するのが「意志」である。また「神の愛」は人間の意志の力を超える。
「その五」では前章を引き継いで、愛と自由意志について論じる。まず、自由・意志と理性の関係についての西欧の伝統的な考え方を説明する。
西欧哲学の伝統では、自由であるために、目的の善と、その手段に関わる理性的判断の正しさは不可欠とされた。
自由・意志と理性は不可分であったのを、ヨハネスはこれを分離し、意志を理性からある程度独立させた。これは哲学・倫理的にいろいろと興味深い帰結をもたらす。
現代の可能世界論に繋がる面もあり、近代科学の前提となった思考でもある。この辺りの議論は面白いが長くなるので省略。
「その六」では、時間と宇宙についてのヨハネスの思想を紹介。ヨハネスは時間を空間的に理解することを拒み、「一瞬」の中に存在を捉えた。
この思想はニュートン・ライプニッツの微積分の考え方を準備したとも言える。

714:つづき
14/01/07 01:24:50.91 .net
冒頭で記したように、著者は中世暗黒史観に対して怒っており、中世哲学と近代思想や現代科学との連続性を強調している。
ただ現代の話が引き合いに出されるところや、欧州キリスト教文化と日本文化を対置させているところには少し怪しい部分もある。
たとえば欧米では、見知らぬ客を無条件で歓迎するキリスト教的な歓待の習慣があり、日本は外からの客に冷たいなどと言っているが、
日本でもマレビトを歓待する習俗は古来からあるし、欧米でもよそ者に冷たい閉鎖的な村はいくらでもあるだろう。
著者は環境保全のボランティアにも関わっているが、このボランティアの精神もキリスト教に基づく欧米と日本では違うと言う。
日本でのボランティアは滅私奉公のイメージがあるが、欧米では本人の自由意志が最重要である。これについては、なるほどと思うけれど、
本当にそうなのかはよくわからない。欧米と日本の対比にこだわりすぎじゃないかとも感じた。
自分はタイトルから、中世神学やスコラ哲学全般を初心者向けに概説したものを期待していて、こんなマニアックな思想家についての本だとは思わなかった。
トマス・アクィナスのようなもっとメジャーな人について先に知りたかったとも思うが、初心者が読んで理解不能ということもなかった。
近代哲学を理解するためには、このあたりのことを知っておくのが有用だろう★★★★(ググってみたらどうやら絶版らしい)

715:無名草子さん
14/01/07 01:43:34.78 .net
エルヴェ・ルソー『キリスト教思想』(文庫クセジュ)
先に読んだ八木雄二『中世哲学への正体』は、ほぼドゥンス・スコトゥス中心の入門書だったが、こちらは西欧キリスト教思想に関する通史になっている。
神学のみの歴史というわけではなく、神学と哲学が相互に影響を与えあいながら発展していく過程を描いている。特に「啓示」と「理性」の関係を軸に据えて記述されている。
著者自身も神学と哲学の中間に身を置いていて、信仰に対しては、神学ほどには接近せず、哲学ほどには離れずといったスタンス。
第一章では、ユダヤ教の中からキリスト教が誕生してから、15世紀くらいまでの全般的な流れをたどる。
ヘレニズム文化・ギリシア思想との関係、布教におけるギリシア語やラテン語の問題、グノーシス主義との対決、啓示とロゴスの問題、
神の本性の問題(神は感覚や感情を持たないのか)、三位一体論争、肯定神学と否定神学、などの話題が雑然と提出される。

716:つづき
14/01/07 01:45:11.51 .net
第二章では、改めて西方における初期キリスト教思想から中世神学・スコラ哲学までを代表的な神学者とともに解説する。
初期にはテルトゥリアヌス、アウグスティヌス、アンセルムスなど。
13世紀にはアリストテレス哲学が流入し、アルベルトゥス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス、ロジャー・ベーコン等が登場。
14世紀にはオッカムやビュリダンといった人たちの思想の中に科学的思考の萌芽が見られる。一方でエックハルトのような神秘主義者も出てくる。
他にも自分は名前を見たこともない多くの神学者・思想家が紹介されている。そして結びでは八木雄二『中世哲学の正体』と同様に「中世とは暗黒の時代ではない」ことが強調されている。
第三章は「近代の葛藤の誕生」と題して、ルネサンスと人文主義(ユマニスム)、宗教改革(ルター、ツヴィングリ、カルヴァン)、
近代科学の誕生(クザーヌス、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートン)と続く。
さらに近代哲学の、デカルト、ライプニッツ、パスカル、スピノザといった人たちのキリスト教思想を検討する。
これらの近代哲学者にしろニュートンのような科学者にしろ皆キリスト教徒であった。
18世紀にはヴォルテールらの啓蒙思想の登場でキリスト教思想は縮小し、また、ロックらによって理神論あるいは自然宗教に引き戻されていった。
カントに関しては、キリスト教の合理主義化の到達点だと著者は評している。またルソーは市民的宗教の思想を抱き、市民革命を予見した。

717:つづき
14/01/07 01:46:35.74 .net
第四章は、19世紀の状況だが、著者はこの時代はキリスト教思想の崩壊の時代と見ている。
フランス革命を重大な契機として、カトリック教会は保守反動化し、勃興する近代科学にも対応できず無力化していく。
哲学では、ヘーゲル、ニーチェなどの思想を検討する。ヘーゲルは哲学と神学を統合しようとして、キリスト教思想の完成者であり破壊者であるという両義的な存在となった。
ニーチェはプロテスタンティズムを激しく批判し、相対的にカトリックの優位を唱えた。キルケゴールはヘーゲルに抗して実存的信仰の立場をとった。
神学者としては、信仰を近代人に適応させようとして非宗教的なところまで行ってしまったシュトラウスや、
近代科学と矛盾する教義を排し、自我意識を基盤とした信仰を唱えたシュラエルマッハーが紹介されている。
近代科学に関しては、特に進化論への対応について論じられている。結論としては進化論と信仰との両立は不可能ではないとのこと。
さらに実証的歴史学と聖書注解学との関係や、カトリック思想の復興についても詳しく論じられている。

718:つづき
14/01/07 01:48:28.14 .net
第五章では、現代のキリスト教思想の状況をざっと見渡している。
プロテスタント神学者カール・バルトは、神の超越性・絶対的他者性と啓示の外部性を強調し、信仰と宗教の対立という問題を提出している。
哲学ではハイデガーの影響が無視できない。カール・バルトやキルケゴールの影響を受けた急進的神学として、ヴァハニアンの「神の死の神学」というものも紹介されている。
最後に現代言語学や言語哲学が神学にもたらしている問題と、現代フランスにおける神学・哲学者(ポール・リクールなど)に触れて終わる。
キリスト教誕生から中世までについて記した第一章と第二章は、内容が凝縮しすぎていてややわかりにくい。
近代以降は知っている名前が多く出てくるせいか、割と把握しやすかった。
入門書とは言っても、キリスト教に無縁な日本人にむけて書かれた本ではないので、とっつきにくいのは仕方のないところ。
どちらかと言うと、宗教より哲学に興味のある人向けか。★★★★。
著者の経歴を見てちょっと驚いたのだが、この人はエコノミストでもあるらしく、経済関係の著作もあるとのこと。

719:無名草子さん
14/01/07 02:26:18.38 .net
ありがとう、こっちへも顔を出した意味があった
エルヴェ・ルソー『キリスト教思想』(文庫クセジュ)
買って、読んでみることにした

720:無名草子さん
14/01/11 01:14:44.87 .net
恐縮です
>>715『中世哲学への正体』
>>716『中世哲学の正体』は誤りで『中世哲学への招待』に訂正します

721:無名草子さん
14/01/12 11:52:40.07 .net
>>720
いえ、わかるから大丈夫です

722:無名草子さん
14/01/12 13:47:02.72 .net
素晴らしいスレですね。あげ

723:無名草子さん
14/01/13 18:09:34.38 .net
堤未果『(株)貧困大国アメリカ』岩波新書

これは、ⅠとⅡにもまして衝撃的だった
たとえば、知的財産権を設定した遺伝子組み換え種子と
強烈な除草剤とを組み合わせて販売して
他の作物を一切栽培できないようにして
一国の農業を丸ごと支配できるアメリカのアグリビジネス
はじめは「援助」の美名の元に行われるから、それに気づくことは難しいと

これは、日本の近未来農業を考えるために読んでおいてよかった

TPP交渉は二国間協議ではないからまだ安全という
最近行われる議論もなるほどと思わせる

724:無名草子さん
14/01/27 00:22:58.38 .net
山竹伸二『「認められたい」の正体』(講談社現代新書)。
近年、社会評論などでよく取り上げられる「承認欲求」や「承認不安」について、現象学や精神分析に依拠して論じたもの。
第1章では、黒沢清の映画や、近年の無差別殺傷事件などを参照して、現代は承認への不安に満ちた時代であり、「空虚な承認ゲーム」が蔓延っていると言う。
第2章では、まずミルグラムのアイヒマン実験を参照して、伝統的な価値観がゆらぐ不安の中で権力に服従する人々の心理と承認欲望について論じる。
他に、マズロー、カール・ロジャーズ、フロイト、アドラーらの心理学における欲望論を概観。さらにこれらの源流にあるヘーゲルの承認論に触れる。
次に著者の立場として現象学を用いて、承認の欲望の本質を考えていく。まず承認を与える「他者」を「親和的他者」「集団的他者」「一般的他者」に分け、
それぞれの他者による承認を考える。第3章では発達心理学と精神分析を参照しながら、子供が、親や友人や世間の承認を求めながら成長していく過程を考える。
子供は成長していくにつれ「一般的他者」による承認を求めるようになり、普遍的価値を内面化して自己承認ができるるようになりつつ大人になっていく。
ここでは、ベイトソンのダブルバインドとか、共依存といった「歪んだ承認関係」にも触れる。
この章では現代の発達心理学を参照すると言っている割りには、古い精神分析の援用が大半を占めている。

725:つづき
14/01/27 00:24:39.60 .net
第4章では、近代において伝統的価値が崩壊したために、自由と承認の葛藤が生じていることを論じる。この葛藤から「本当の自分」が社会に抑圧されているという世界像も生み出された。
第5章ではこうした承認不安と空虚な承認ゲームからの脱出の処方箋を考察。それには自由と承認の両立が必要である。
そして人が自由を実感するためには「自己決定による納得」が必要である。自己決定をするためには自己の欲望と当為(~すべし)についての自己了解が必要となる。
このとき「一般的他者」からの視点で内省することが重要だ。こうした自己了解によって自由と承認の両立が可能となる。
では現代において「一般的他者の視点」を可能にするような普遍的価値はあるのだろうか、という問いに対して、著者は「道徳的価値」の普遍性をあげる。
そしてアダム・スミスの「中立的な観察者」やルソーの「一般意志」なども引用し、「一般的他者の視点」を成熟させていくべきことを説く。
読んでいる途中で気づいたが、この人は、現象学による近代的相対主義の乗り越えを企図している竹田青嗣の一派に属している。

726:つづき
14/01/27 00:25:53.69 .net
自分なりに一生懸命に内容を要約してきたが、正直苦痛であった。
実は第1章冒頭で「現代は承認の不安に満ちた時代である」と何の実証的論拠もなく断言している時点で、かなり読む気をなくしてしまった。
せいぜい「そういうことを問題にするのが論壇で流行っている」ということが言えるだけではないのか。この人は精神科医でも臨床心理士でもないので、具体的な経験談すらない。
そもそも人間は社会に承認されなければ生きていけない動物であり、承認欲求があるのは当たり前であって、そこにはなんら謎を感じない。
人間の子供は親に承認されなければやはり生きるのは困難だし、異性に承認されなければ子孫も残せない。
確かに「承認欲求」「承認不安」という言葉を使うと、人間のいろんな行動を説明できる。
例えば自分がチラシの裏に書いとくべき読書感想文をこうして2chでわざわざ公開するのも承認欲求の賜物であるし、
ブログなどで堂々と書かずに過疎スレにコソコソ書いているのは承認不安があるからだ。しかしこんな分析に何か意味があるだろうか。
つまらないと思いつつも一応「承認」「欲望」に関する思想の系譜をヘーゲルから精神分析や社会学まで知ることができればいいか、と思って読み進めたわけだが、
そうした思想史的な整理はあまりなく、竹田青嗣流「現象学」と精神分析による著者の図式的な自論が語られているだけであった。星2個★★

727:無名草子さん
14/01/27 00:35:15.85 .net
佐々木孝次『甦るフロイト思想』(講談社現代新書)。上の本を読んで「精神分析って何?」という疑問を持ったので読んでみた。
著者は、あの難解で名高い『エクリ』(自分は以前に一巻だけ読んでギブアップ)の翻訳者の一人。
したがって、ラカンの理論を解説した入門書かと思ったが、ラカンについての説明はあまり多くない。かと言って、フロイトについての初心者向けの説明もほとんどない。
「みかけ」といった著者独自の用語や、森田正馬や森有正の思想を参照しつつ、日本人特有の欲望に関する議論を展開している。
充分な説明のないまま精神分析的な思考法でどんどん話が進むので、精神分析に慣れていない読者は置き去り気味になると思う。
一見難しい言葉は用いていないが、普通の言葉でも精神分析の思考文脈で理解しなくてはならないので、概念として簡単とはいえない。
著者はできる限り分かりやすく書いているつもりのようだが、これでどうして一般読者に通じると思えるのかが不思議。
1章では漱石の小説『道草』を題材に、夫と妻が互いに相手の「形式主義」に不満を覚えるという関係性を分析する。
ここでは既に、鏡像へのナルシシズム的な段階(想像界)から、「他者」の介在による欲動と欲望の分離(象徴界)といった、フロイト・ラカン的な論理が展開されているのだが、
教科書的な叙述がされていないので、あらかじめ多少なりとも精神分析の知識がないと何を言っているのかわからないと思われる。
2章では改めてフロイト理論に沿って欲動と欲望の違いを説明。と言ってもわかりやすくはない。
単純化して言えば、欲動は生物学的なもので欲望は社会的なものだ、と考えればいいのだと思うが、晩年のフロイトの欲動論では「死の欲動」というのも現れてくるのでややこしい。
ただ、ここでは「死の欲動」には深入りしていない。

728:つづき
14/01/27 00:37:31.52 .net
3章では日本人に多いと言われる対人恐怖症をとりあげ、森田正馬の療法を批判的に参照しつつ、日本社会の「形式主義」に原因を求める。
4章では、森有正の「二項関係」という概念を使って人間関係を分析。「二項関係」とは、「相手」と「相手の相手としての自分」との関係、すなわち「汝-汝」の関係と言われる。
ここでは、森有正の理論と、フロイト・ラカンの理論をすり合わせるようなことをやっている。そして、日本の文化に何かが決定的に欠けていると指摘する。
要するに、二項関係の外の視点、つまり「意味」としての第三者が欠けている、と言いたいようだ。
5章では、さらに日本人の人間関係における「ふり」の果たしている役割を考え、精神分析がこれに対応できるのか、ということを論じている。
「ふり」とは「~のふりをする」の「ふり」で役割演技みたいなことだろう。
6章では、ラカンに影響を与えたヘーゲル研究者のコジェーブが、日本の文化を評した言葉「スノビスム」を検討。
ここで言うスノビスムとは、ヘーゲル的な歴史の終わりを実現した日本文化を指している。これはバブル時代の文化を思い浮かべればわかりやすいのではなかろうか。
飢えも葛藤もない平和で豊かな世界だがどこか退廃的で虚しいわけだ。
7章では「叫び」という概念を提出する。形式主義とスノビスムの文化から「意味」が抜け落ちているので、苦しみを訴える言葉は意味を構成せず「叫び」となる。

729:つづき
14/01/27 00:45:14.79 .net
8章では再び森有正の思想とラカン理論をすり合わせるようにして「一人称-三人称関係」というものを考える。
社会とは「一人称-三人称」関係で構成されるものだが、日本では「汝-汝」の二項関係が強く支配して、一人称を弱体化させるとのこと。
これもやたら難解な話になっているが、ごく簡単にいえば個人が自立していないということだろう。ラカン用語を使うと、日本では想像界の力が強くて象徴界の成立を妨げるという感じか。
9章ではラカンの用語としての「他者」を問題とする。ラカンの言う(大文字の)「他者」とは、第三者、父、神、言語秩序、などを含むわけだが、これだけでは何のことだかわからないだろう。
これも簡単にいえば、母と子の密着や、鏡像的なナルシシズムに介入して、社会の一員としての個人を作り出すものなのだろうが、
著者はラカンの理論を詳しく説明する気もないらしく説明不足。(ファルスとか去勢といったラカン用語も出てこない)。
またここには欲望の問題が関わり、「他者の欲望を欲望する」とか「欠如としての欲望」といった論点が出てくる。
いずれもいかにも難解で謎めいているが、日常的な経験に照らしてみれば理解できなくもない。
動物的な食欲性欲のような欲動ではなく、人間的な欲望を持つ限り、それは既に言語や他者に媒介されている(「金持ちになりたい」「キレイになりたい」「出世したい」「権力がほしい」)。
そして欲望の対象とは既に失われているものである(既に手に入ったものは魅力がない、常に今ここにないものが欲しい、隠されているものが見たい)
言葉によって生まれる欲望は、いつも別のもの(言葉)に対する欲望であるから、言葉は、実はその言葉とは別の意識されていない言葉に対する欲望を告げている。
よって言葉は無意識と密接な関係をもつ。そして言葉をこのような人間の世界の言葉にするのは「他者」の働きである。日本的な形式主義やスノビスムに抗するためにも「他者」という契機は重要だ。

730:つづき
14/01/27 00:52:35.35 .net
「汝-汝の関係」というと堅苦しいが、下世話に言えば電車の中とかで人目も憚らずイチャついているカップルみたいなもんだろう。社会も第三者の目も存在しない二人だけの世界。
10章ではこれまでの論旨をまとめており、「汝の鏡像を殺せ」というラカンの言葉を引用している。
これも身も蓋もない単純化をすれば、鏡の世界=想像界から出てオトナになれ、というような意味だろう。
本書は、精神分析について初心者向けの説明をせずに、精神分析を知らない一般人に向けて、精神分析の論理で語った代物で、意図不明と言うしかない。
著者が言いたいことは、要するに「三人称」とか「他者」の機能の弱い日本では精神分析は困難だ、ということでしかないようだ。
これは結局、精神分析が役立たずである理由を、日本人のあり方に押し付けただけとも言える。
「日本が一神教ではない」とか「空虚な形式としての天皇制」ということも大いに関係すると思うが、この本では宗教への言及はほとんどない。
精神分析、特にラカン派の奇怪な思考法に触れてみたい人は読んでみてもいいもしれない。★★★。(何しろ内容が難しいのでレビューも長くなってしまいました…)

731:蛇足
14/01/27 00:54:17.28 .net
※ラカンの理論というのは、わかりやすく説明しようとすれば不可能ではないと思うのだが、自分はわかりやすい入門書を見たことがない。
ベストに入っている新宮一成『ラカンの精神分析』もほとんど意味不明だったし、福原泰平『ラカン』(講談社)というのも読んだが、文章がひどくて読めたものではなかった。
斎藤環『生き延びるためのラカン』(ちくま文庫)はわかりやすそうだったので読み始めたが、序章を読んだらアホらしくなって中断。
ラカン入門書としては他にジジェクの本が出ているが、自分は未読。
佐々木中の『野戦と永遠』上(河出文庫)は、一応読める日本語で明晰に書かれているので、ラカン入門としては意外にいいのではないかと思う。
もっとも、ラカンの「難解さ」自体に意味があるとも言えるので、わかりやすさを求めるのは間違いかもしれない。
つまり、難解さの誘惑によって頭のいい人の「欲望」をかきたてて「釣」り、ラカンとその学習者との間に非対称的な関係を作り出す。
この関係性がラカン理論自体と相似形ともなっている。それと、わざとわからないように書くことによって「人間の心なんて簡単に理解できると思うなよ」ということを言いたいのかもしれない。

732:無名草子さん
14/01/27 01:01:59.56 .net
ありがとうございました

「汝-汝」関係はマルティン・ブーバーですよね

ラカンは、コレージュド・フランスの講義の前夜には鏡の前で話す顔の角度まで考えて
わざとわかりにくく語ったという「伝説」があるくらいですから
わかりにくいのは仕方がないような気がします

たしかにわかりやすいラカン入門書はありませんが
大橋洋一『新文学入門』(岩波書店)のラカンの解説が意外にわかりやすいですよ

733:無名草子さん
14/01/27 19:12:01.34 .net
>>732
ありがとうございます

大橋洋一『新文学入門』(岩波書店)読んでみます
URLリンク(www.amazon.co.jp)

734:無名草子さん
14/01/29 21:51:26.86 .net
小林千草『女ことばはどこへ消えたか』(光文社新書)。著者は1946年生まれの国語学(日本語学)教授で、小説家でもある。
女ことばの来し方行く末を論じている。著者は、ある日ファミレスで「ヤンママ」が子供に向かって「ちげーよ(違うよ)」という言葉を使っているのを見てショックを受ける。
男女の言葉の差がどんどんなくなってきている現状のひとつの例としている。一方で「おひや」「おかか」という室町時代の「女房詞」が現代でも使われていることを指摘している。
第一章では、100年前の女ことばを検討するために、夏目漱石の小説(主に『三四郎』)で使われている女ことばを拾っていく。
女性の笑い声「ほほほ」、文末の「~わ」「~よ」「~てよ」「~て」「~ね」「~の」「~こと」「~もの」など。これらの女ことばを、
小説を丁寧に読み解くことによって、その微妙な心理の彩やニュアンスを掬いあげている。
第二章では200年前に遡り、式亭三馬『浮世風呂』に書かれた、当時の庶民の女たちの生き生きした会話を見ていく。
ここでは、世代や階層・教養や出身地域の違いなどによって、女ことばの違いが書き分けられている。特に下層の少女達の、落語に通じるような乱暴で勢いのある江戸弁が面白い。
また、この時代の女ことばと、その100年後の『三四郎』や二葉亭四迷『浮雲』での女ことばとを比較している。

735:つづき
14/01/29 21:52:38.97 .net
第三章は、「おことば」「もじことば」のルーツを遡る。「おことば」とは名詞に「お」をつけて尊敬や丁寧を表すことば。『三四郎』からは「おあにいさん」が参照されている。
『浮世風呂』からは「おかちん(餅)」「おむし(味噌)」が参照されているが、これは「かちん」「むし」だけでも室町時代の女房詞に由来する婉曲語である。
章の後半ではこれらの様々な女房詞を紹介する。「もじことば」はこの女房詞における造語法のひとつで、鯉→こもじ、鮒→ふもじ、ツグミ→つもじ、などとして元の言葉をぼかす。
他にも、そうめん→ほそもの、葱→うつほ、塩→しろもの、豆腐→かべ、といった言い換えがある。現在でも使われている女房詞として「おかず」「お冷」「お手元」などがある。
第四章では、現代女子学生の言語実態を調査した結果を検討している。
若者語と思われる「~じゃん」「やっぱ」「きもい」「きれいかった」「きもちかった」「ちがくて」「私って~な人」「ちげーよ」
を日常的に使っているかどうかを女子短大生にアンケートで尋ねている。また女子学生はこれらの言葉使いに関して反省のコメントなどを述べている。
第五章では、女優の田中絹代の言葉遣いや太宰治『斜陽』のお嬢様言葉に触れつつ、現在形骸化したお嬢様言葉を無理に使うことに対しては批判している。
また現在もっとも女らしい言葉を残している人々としてニューハーフに言及。最後の「付録」では『源氏物語』・『平家物語』・狂言・能などの女ことばに触れている。

736:つづき
14/01/29 21:55:15.59 .net
全体を通して感じたのは、女ことばの由来については多くの知識が得られるが、なぜ日本語に女ことばが生まれたのかという点については、掘り下げられていないということ。
そうした点を考察するには、ジェンダー・フェミニズム的な分析が必要になると思うが、ここでは視野の外に置かれている。
また、第一章では夏目漱石の小説のみが参照され、かなり細かい文学的な分析がされているが、漱石だけで大丈夫か?とも思った。小説と現実の差も気になる。
小説を参照するにしても女流作家の方が女ことばのニュアンスはよくわかっているのではないかとも思うのだが、100年前だと女流の数も少なかったから仕方ないのかもしれない。
四章の若者言葉の調査に関しては、言葉の選定が微妙な感じもするし、それらの言葉が使われる具体的な状況についての考察が不十分な気もする。
「きれいかった」などは、調査でもある程度明らかになっているように、西日本のいずれかの方言由来ではなかろうか。
「私って~な人」は一時期流行った自己呈示の話法だが、もともと使う場面は多くない言葉だ。
また「ちげーよ」は若者同士であっても、ごく親しい間でしか使わないはずである。強い否定の言葉だから、気心がしれた間柄でないと喧嘩になるかもしれない。
言い換えると「ちげーよ」を普通に言い合うことによって仲間意識の確認になっているのだと思う。
こうした由来や機能の異なる言葉を若者言葉として一緒くたにまとめてもあまり意味がないかなという気がする。
個人的にはもっと、現代小説やラノベ、映画やTVドラマ、漫画やアニメ、歌謡曲・J.ポップの歌詞、などにおける女ことばの変遷、及び現実とのズレなどが知りたいところ。
たぶん研究している人はどこかにいるとは思うが。★★★

737:無名草子さん
14/01/29 21:56:18.77 .net
中村桃子『女ことばと日本語』(岩波新書)。先に読んだ、小林千草『女ことばはどこへ消えたか』で自分が感じた疑問に対して、ジェンダー論の立場から解答されている。
「女ことばの伝統」とは、「言説」によって歴史的に作られた伝統であり、イデオロギーであるという主張であり、小林千草らの言語観とは根本的に対立する。
「言説」という用語を使っていることからわかるように、M.フーコーの系譜学の方法を採用している。
第1部では「規範としての女ことば」として、鎌倉時代から江戸・明治までの、女性の言葉遣いに対する規範の言説をたどっていく。
女のおしゃべりを諌め、慎みを説く規範は中世から現代まで連綿と継承されていく。
女房詞は、元々は高い身分の者が使う言葉と認識され、性差の意識は薄かったが、規範の言説によって次第に女が使うべき言葉とされるようになった。
小林千草の本で書かれているような、女房詞という起源から現代の女ことばへと自然に発展していったのではなく、そこには意図的な力が加わっているのだ。

738:つづき
14/01/29 21:57:34.66 .net
第2部は、“「国語」の登場”と題して、近代国民国家を統合するための国語の制定に伴って、女ことばの規範が成立していく過程を論じる。
明治の知識人は、標準語を「教養ある東京人の話す言葉」とすることを提案し、方言や女性の話す言葉を排除した。
ここには「ひとつの国語」の思想と「男女の言葉の違い」という矛盾があるが、それは「“国語”とは男が話す言葉だ」という前提が潜在しているということである。
次に、「女学生」という(作られた)カテゴリーと「女学生ことば」の成立過程を分析している。
明治初期の女子学生の中には「僕は~」「~したまえ」などの書生言葉を使う者もいたが、これがまずメディアから批判される。
その後「てよだわ言葉」が使われ始める。これは当時の女子学生が、良妻賢母思想へのささやかな抵抗として使い出したと思われる言葉だが、
下賎な起源を持つ下品な言葉として批判される。ただし当時の女子学生が「てよだわ言葉」だけを使っていたわけではなく、書生言葉や外来語・漢語など多様な言葉を使っていた。
ではなぜ、「てよだわ言葉」が「女学生」の典型的な言葉として固定観念化したかというと、まず坪内逍遥らが翻訳小説で西洋女性の話し言葉として採用し、小説を通じて広く普及したからである。
「てよだわ言葉」は最初は軽薄さを示すものとして見られ、後にはエロ小説に使われセクシュアリティを表象する。現代風にわかりやすく言えば、萌えキャラ立てに使われたというようなことだろう。
ここまでの段階では女ことばは、「国語」から排除されることによって否定項として国語統合の役割を果たした。

739:つづき
14/01/29 21:58:44.86 .net
第3部では“女ことばが日本語の「伝統」である”という通念が言説によって捏造されていく過程を分析する。
国語から排除され貶められていた女ことばが、日本語の美しき伝統とされるようになるのは戦中である。
まず女房詞と敬語が女ことばの起源であるとする言説が国語学者から出された。また女房詞が宮中から出たことから天皇家との連続性を強調する言説も現れた。
さらに、他国にない女ことばが存在する日本語の優位性も主張される。日本語の優位性を証することは植民地政策上も必要だった。
「ナショナリズムの時間的矛盾(国家は過去と未来に向かわなくてはならない)」解消のために、女性性を過去(すなわち伝統)に、男性性を未来に結びつける必要があったのだ、と著者は分析している。
戦中期には、文法書や国語教科書にも女ことばが組み入れられ、言葉の性差を強調した。女ことばが国語になったと言ってもあくまでも周縁に位置づけられた。
このことは戦時総動員体制の下で女性を国民に組み入れ銃後の守りに当たらせたこととパラレルである。
戦後は男女平等の理念の下、進歩的知識人によって女ことばが批判されるようになった。
しかし、「女性の先天的な女らしさに基づく自然な女ことば」を擁護する言説が現れる。女ことばは天皇制から切り離されつつも国語の中に残されていった。
なぜ女ことばが存続させられたかについては、敗戦・占領によって自信や誇りを失った日本人が、天皇制・家父長制・儒教的家族制度の存続の欲求があったためとのこと。
冒頭で述べたとおり、小林千草の本では解決されなかった「なぜ日本語には女ことばがあるのか」という疑問に対してかなりすっきりした解答が与えられている。
また、ご覧のとおりフェミニズム及び社会構築主義どっぷりでもある。マニュアル化・単純化されたフーコー的方法を使うことについての、カルスタやポスコロに対するのと似た不満はあるし、
現在の平等の理念から過去を断罪する態度も散見されて正直辛い部分もあるが、そこら辺にはあえて目をつぶって星4つ★★★★

740:無名草子さん
14/02/01 02:25:04.34 .net
思想のない小林千草と思想だらけの中村桃子の対比は興味深いですね
これは人文系の学問では、京大系と東大系にほぼきれいに分かれますよね

741:つづき
14/04/19 19:38:22.59 .net
第5章では、現代の公共政策における功利主義的思考を論じる。災害医療における「トリアージ」などについて説明し、
ロールズによる批判なども参照しながら、19世紀前半のイギリスにおける公衆衛生政策と功利主義の関係を論じる。
功利主義による公衆衛生の改善を目指した思想家として、チャドウィックとJ.S.ミルが挙げられる。前者はパターナリスティックであり、後者は自由主義的であった。
喫煙規制の問題などにも触れつつ、自由との兼ね合いにおいて功利性実現のための介入はどこまで許されるのかという問題を考察し、リバタリアン・パターナリズムという思想も紹介。
第6章では「幸福」とは何かについて考察。まず、ベンタムやミルの「幸福=快楽、不幸=苦痛」説や、それに対する批判を検討する。
また経済学などで採用されている「選好」「欲求」といった概念を説明し、これに対する批判としてアマルティア・センによる「適応的選好」の問題(奴隷の幸福)や「愚かな選好」(麻薬など)の問題を指摘する。
第7章では「道徳心理学と功利主義」と題して、統計に基づく理性的な判断と共感に基づく心情的判断の間のギャップなどの心理的バイアスについて考える。
功利主義は理性を重視するが、最新の脳科学や心理学の知見によって、倫理に対する感情の役割が無視できなくなる。
そこで倫理的動機を生み出す方法として「直感的思考の強化戦略」「共感能力の特性利用戦略」「理性的思考の義務付け戦略」の3戦略を提案している。
長々とまとめてきたが、ぶっちゃけて言うと個人的にはあまり面白くなかった。自分が倫理については善悪の彼岸から考える癖がついているからだろうか。
どちらかというと最初にちょっと紹介されている「メタ倫理学」の方に興味を惹かれる。あと「有用性」やプラグマティズムとの関係もできれば知りたかった。
5章の公衆衛生の問題に関しては、喫煙規制問題などはさほど難問とは思えず、それより予防接種の問題※の方が特に日本においては深刻ではなかろうか。★★★

※社会全体のリスクはもちろん、個人のリスクから言っても予防接種はある程度強制すべきだが、周知の通り予防接種には小さな確率にしろ副作用の可能性がある。
万一、子供が予防接種の副作用で死んだ場合、「予防接種はするべきではなかった」とその親が考えるのは自然だろう。では予防接種をどこまで強制できるのか?

742:無名草子さん
14/04/19 19:40:25.83 .net
内藤淳『進化倫理学入門』(光文社新書)。著者は法哲学者で、法や人権に対して自然主義的基礎付けを行っている。
サブタイトルは「“利己的”なのが結局、正しい」とあり、内容はこれに尽きる。
ここで真っ先に気になるのは、いわゆる「自然主義的誤謬」論に対して、いかに反論・対処もしくは問題回避しているのかという点であるが、
驚くべきことに、そもそも問題として認識していない模様。ドーキンスの「利己的遺伝子」論や、スティーヴン・ピンカーなどを参照して、
利他性も利己性に還元できることを説明し、そこから一足飛びに「利己性=正しい」を導き出している。ある意味清々しいほどの素朴な「自然主義」。
利己性を公理とするのはかまわないのだが、利己的遺伝子にとっての「利」と、人間個体にとっての「利」ですら既に異なるし、
時には対立する事をどう考えているのか不明(後者が前者から生じたものだとしても、前者=後者ではない)。
せめて、利己的遺伝子から生物個体レベルでの利己性と利他性、そして人間の社会性・利他性・倫理・自由・意志などが、
どのように進化してきたのか、ゲーム理論などを援用して説得力あるシナリオを描いて欲しかった。
例えば、一般に道徳・倫理は利己性を否認するが、これは道徳・倫理の本質的な属性と考えるべきだろう。
それはなぜか、という事も利己性を出発点として進化論的・ゲーム理論的に説明できるはずである※。
ドーキンスや佐倉統を絶賛している割には、進化論やゲーム理論をちゃんと理解しているのかどうか怪しい感じもする。
経済学や功利主義の知見も取り入れるべきかと思うが、あまり参照されている様子はない。
本来、酷評するのであれば、内容を詳細に検討して公正に批評するべきなのはわかっているのだが、
そういう気力すら失わせる脱力物件。己れの自然な感情に従って星1個進呈★。
(言うまでもなく、倫理学とか法の自然主義的基礎付けなるものに関して自分は何も知らないので、根本的に勘違いしている可能性はあるのでご了承ください)

743:つづき
14/04/19 19:42:41.06 .net
※まず人間は未来を予測し高度な目的を立てることが可能なように進化してきているので、
目先の利益と未来の利益を比べて後者が大きければそちらを選択することができる(未来へのコミットメント)。
この点でも目先の利によってしか選択できない進化及び利己的遺伝子の利とは違うのではないか。
また人間は他者との協力による利益を得るために、約束を守りそれを信頼する(他者へのコミットメント)。
特に囚人のジレンマ状況の際に、双方が利己的に振る舞うと双方が利益を失うので、双方が利己心を捨てる事が必要になる。
つまり利益を得るためには利益を忘れることが必要になる。道徳はこの矛盾した選択を可能にするための仕掛けであると考えられる。
(しかし相手がお人好し戦略を取るとわかっていれば依然として裏切り戦略が有利なので、「裏切り者を罰する」(いわゆるしっぺ返し戦略)という道徳のもう一つの面も進化したのだろう。)

・更に蛇足

そもそも利己性を否定するのが道徳の原則だと思うが、一方、日本には「情けは人のためならず」ということわざもある。
これは利他性=利己性ということをぶっちゃけているようにも見えるが、やはり半分は嘘であり、嘘であることに意味があると思う。
つまり、他人への「情け」が自分にとって損になる可能性・裏切られる可能性を隠しており、隠すことで道徳的標語として機能しているのだ。

744:無名草子さん
14/04/19 19:53:09.80 .net
石川幹人『人間とはどういう生物か』(ちくま新書)。著者は認知情報学・人工知能の専門家。
「意味」や心の謎について考察。著者は人工知能開発の困難に直面し、コンピュータは「意味」を持てないと結論している。
フレーム問題などを指摘し、「意味の全体論」を唱えている。このあたりの考察には特に目新しさはないが、
自動翻訳機開発の難しさなど、技術者としての実感から論じているのは貴重かもしれない。
将棋ソフトやクイズに答えるコンピュータについての技術的な話は面白い。
「コンピュータは意味を解さない」という説の論拠として「中国語の部屋」の思考実験を考えた哲学者サールの立場に近いようだが、サールへの言及はない。

745:つづき
14/04/19 19:54:18.87 .net
後半では、マイケル・ポランニーの暗黙知理論などが持ちだされる。また人間の高度な認知能力が進化の力だけで発達したという説に対する疑念が提出される。
遺伝アルゴリズムは目的に達するまでの効率が悪く、大きな進化を説明できないという。
そして、キリンの首の進化のためには、高い位置の頭に血を送るための強い心臓や、全身の重心など、様々な要素が同時に進化しなくてはならず、
それは確率が低すぎて進化するには時間が足りないはずだ云々。ここまで来て、正直「?」という感じ。
普通はキリンの首の進化などは初心者向け入門書でも「前適応」の概念を使って説明されているはず。
「前適応」では説明できないという論拠があるのかもしれないが、納得できる説明はないし、しかもどうやら進化を目的論的に考えているフシがある。
この著者は>>552でも紹介したように進化心理学の入門書も書き、自ら遺伝アルゴリズム研究に携わり、
デネットの『ダーウィンの危険な思想』の翻訳者でもあるのだが、そんな人が進化の原理を根本的に誤解しているなどということがありうるのだろうか?
自分は本当に>>552と同じ著者かと疑ってググってしまったくらいである。>>552では進化の力を過大視しているような感じだったが、転向したのだろうか?
というか、もともと進化について根本的に誤解していたために、以前は過大視し今回は過小視しているのだと見るべきかもしれない。
最後に著者は、意味の進化に量子論的過程が加わっているという仮説を唱えているが、自分はもはや真面目に読む気を失っていたので読み飛ばした。
どう評価していいかよくわからない困惑物件。★★

746:無名草子さん
14/04/19 20:04:06.58 .net
戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書)。かなり話題になった自然主義の哲学入門書であり、既に優れたレビューがネット上にもいくつかあるようだ。
ちなみに>>742>>744の2 冊は、これの前フリのつもり。これの内容を要約すると考えただけでも気が重くなり、読後しばらくは感想文は書けず放置。今やっと書けた。
『哲学入門』という直球のタイトルは一見普通だが実は挑発的。文体は>>576のようなお行儀のいいものではなく、やや攻撃的な翻訳調で、山形浩生氏がクルーグマンなどを翻訳する時の文体に近い。
著者の立場は科学的自然主義的唯物論で、デカルト的二元論はまず最初に切り捨てている。
意味・機能・情報・表象・目的・自由・道徳といった「ありそうでなさそうでやっぱりあるもの」=「存在もどき」を自然の中に書き込むというプロジェクトが自然主義の哲学である。
「ありそうで」というのは日常的な感覚としてありそうということで、「なさそうで」というのは科学的・客観的にはないんじゃね?ってことで、
「やっぱりある」というのは、やり方次第で客観的な世界に科学的に位置づけられますよってことだろうか。
そして「客観的にはないけど主観的にはある」というような二元論的答えを拒否しているわけである。
また単純な還元主義や、解釈主義・遠近法主義も退け、「存在もどき」は自然の中に涌いて出た(進化論的・発生論的)と考える。
「意味」に関しては、サールの「中国語の部屋」の議論を批判し、ミリカンの目的論的意味論を採用。これには「本来の機能」の自然化が必要で、それは進化の歴史によって説明される。
ここで著者は分析哲学が概念分析ばかりやってきたことを批判し、哲学は「概念を作る」仕事をするべきだと言う。

747:つづき
14/04/19 20:06:23.19 .net
「情報」については、シャノンの情報理論を採用したドレツキの哲学を紹介。
確率を基にして定義された情報理論では、、情報は出来事から出来事へ流れ、解読者は必要なく、情報は自然の中にある。
この情報概念から情報内容・情報の意味論が構築され、「知識」も情報の側から定義される。
「表象」は「志向性」を持つとされ、情報もまた不完全ながら志向性もどきを持つ。情報の志向性もどきから志向的表象がどう進化したかをたどる。
ここではドレツキの情報概念をミリカンが批判して、生物にとっての志向的記号はどのように得られるかを論じる。
局地的で反復する自然記号が、「消費者」としての生物側の需要によって志向表象となるのがミソ。
次は「目的」の進化。人間の高度な「目的手段推論能力」も、原始的な「オシツオサレツ表象」から徐々に進化した。
「オシツオサレツ表象」とは事実を知らせる(記述面)と同時に行動を指示(指示面)する表象のこと。一種の「アフォーダンス」である。
ここから記述面と指示面がだんだん分離してくるための諸条件を検討し、試行錯誤・学習、さらには人間のように心の中でシミュレーションできる生物が進化してくるシナリオを描いている。
さらに目的手段推論能力が他の能力の進化の副産物か否かという論点では、著者は副産物ではないだろうと結論している。
以上で「自由」と「道徳」を自然の中に書き込む準備が整う。

748:つづき
14/04/19 20:18:16.84 .net
自由意志に関しては、決定論と自由は両立するというデネットの説を取り上げる。
デネットは自由の概念について、行為を始動する不動の第一者がいるという「行為者因果説」(※1)を退ける。著者も行為者因果説は自由概念のインフレだと言う。
そして「自己コントロールとしての自由」という自由概念のデフレ化を提唱。この自由概念なら決定論と両立可能であり「持つに値する自由」だと言う。
(ここで量子力学の確率論的非決定論は自由を保証するものではないという論点が出される。自由のためにはむしろ決定論が必要。)
そして最後に「道徳」について。これも「責任」を介して自由意志と関連がある(自由意志がないとされるものには責任は課せない)。
これもまずデネットの見解を紹介。デネットは、言語を介した反省的思考により、責任主体としての「自己」を自分で構築する自由が得られる、とする。
この「自己」とは実体ではなく「知覚・理由・行為を統合する組織化のされ方」であり、身体の外まで拡張された自己(「延長された表現型」byドーキンス)として進化してきたものであり、
言語によって構築された「物語的自己」である。そして自由があるから責任があるのではなく、責任があるから自由があるとする。
もうこのあたりは、進化論を除外すればカントなどとあまり変わらないし、物語云々などは著者も指摘するようにポストモダン系に近い。
著者はこのデネットの説に対しては不満を表明し、自由意志を完全に捨ててしまう、ダーク・ベレブームの哲学も紹介する。
こちらは、犯罪者の責任というものも存在しない(※2)ので、罪人は伝染病患者のごとく隔離されるだけである。
これはこれで、非常にすっきりするし、意外に大きな問題は起きないのではないかと著者は言う。
最後に、自由意志の存在が疑われる決定論的世界における「人生の意味」について、哲学者トマス・ネーゲルの思想に共感しつつ、著者の見解を述べて終わる。

749:つづき
14/04/19 20:21:12.64 .net
やはり要約は無謀だったか。自分で読み返しても何がなんだかわからん…
自分はミリカンは知らなかったが、デネットの『自由は進化する』『解明される意識』とか著者の『知識の哲学』などは読んでいるので、後半の議論はある程度馴染みがあった。
自分の関心は「自然主義」の妥当性自体の方にあるが、ド素人なりにいろんな疑問が湧いてくる。
まず素朴な疑問として、デカルトのコギトとかカントなどの超越論とか永井均の独在性などを本当に抹消できるのかという点。
「主観」なんて錯覚かもしれないが、これを残しておくメリットが何かあるからこそ、この錯覚が温存されているのだとすると、これを無理に抹消すると何か不都合が起こるのではないか。
あるいは、主観の中身を科学の力で客観の側に全部移したとしても、空っぽの主観は残るのではないかとか、残しておいたらなんでいけないの?…など。
もうひとつは科学にとって本当に二元論より自然主義の方が有用なのだろうかという疑問。主観と客観を分けて相互不可侵にすると、
主観の錯覚は温存されるが、客観の側が錯覚に汚染されることはないのだから、二元論の方が科学にとっては有用かもしれない。
自然主義はむしろ自然の中に亡霊を解き放つことになるのではなかろうか。
細かい論点では「本来の機能」などについてはやはり引っかかるが、他には、「情報」を自然の中に書き込むことに成功したとしても、では情報の基礎になる「確率」はどうなのかという疑問が出てくる。
著者は、量子力学から、確率は「無知の尺度」ではなく自然の中にあるものと認められるようになったと考えているようだ。
しかしもし量子力学の多世界解釈が有力だとすると、まだ「無知の尺度」という解釈も生きているのではないか。
とすると、確率の前に「知識」が来ることになり、確率→情報→知識というシナリオは崩れる。
こんな素人の思いつき程度の事は専門家がとっくに議論し尽くしているのだろうが、俗世を忘れてこんな思弁にふけるのが一番楽しい気がするということで5つ星進呈★★★★★

750:つづき
14/04/19 20:28:06.83 .net
※1「行為者因果説」を奉じる人は「リバタリアン」と言うそうだが、政治思想のリバタリアンと紛らわしいですね…
政治思想的リバタリアンより、サルトル的な実存主義に近いなぁと思ったら、著者自身があとがきでそのように書いていた。
あとこれをインフレと言うのは違和感がある。原理主義的と言うならわかるが。「自由意志」の概念分析を徹底して追求していけば、そうした不可能な一点に至るのは必然だし、
それが不可能な概念だからこそ自由は幻想だ、とする方がしっくりくる(本書ではそうした説も紹介されている)。自由の概念をデフレ化するのは自分にはごまかしに見えてしまう。
また、SF作家グレッグ・イーガンの短編「決断者」(ハヤカワ文庫『ひとりっ子』所収)はまさにこの件をネタにしていた。
イーガンはデネットなどの影響を受けつつも、デカルト的な直観を捨て切ってはいないのが面白いところ。
 
※2 このあたりを読んでいると、自分は18世紀のド変態文学者サド侯爵を連想する。サドはスピノザの自然主義的哲学を文字通り悪用して悪の哲学を作った。
サドの小説の登場人物は「悪は自然の本質だから自分はそれに従うだけだもんね」とか嘯いて悪逆非道の限りを尽くす。
ところが時に、悪人は「悪をなすべし」というカント的当為にコミットすることがある。すると自由意志が生じて、自然主義から逸脱する。
サドの悪の哲学は、このスピノザ的自然主義とカント的定言命法の世界の間を揺れ動く。

751:無名草子さん
14/06/05 20:52:59.85 .net
四方田犬彦『「かわいい」論』(ちくま新書)。2006年に出た本。
この著者は昔から「かわいい文化」に対して批判的だった事を、自分はなんとなく知っていて、
近頃のオタク文化に対する見解は如何にと思って読み始めたもの。
第1章を読むと、一応、中立的に書き始められてはいるものの、やはり批判的スタンスは変わっていないのがわかる。
まず、海外に日本のオタク文化・かわいい文化が輸出され、人気を博していることを指摘。
「セーラームーン」「サンリオ」「ポケモン」など。2006年の本だから、少し情報は古いし、
もともと著者はリアルタイムでオタク文化を追いかけている人ではないから、一般的なおっさんの印象に留まる。

752:つづき
14/06/05 20:54:02.26 .net
2章では、日本文化における「かわいい」の淵源と語源をたどっている。「かはゆし」の起源は今昔物語である。
さらに遡ると、枕草子の「うつくし」に至る。
橋本治という人も、つとに、枕草子の「うつくし」の感覚は女子高生の「かわいい」と同じだと指摘しているのだが、
著者は橋本には言及していない。もっとも、枕草子を読めば、多くの人は現代の「かわいい」の感覚と同じだと感じるだろう。
また、「かはゆい」にはもともと、「痛ましい」「気の毒」という意味があったのだが、
中世末期になると、そうした否定的な意味が脱落していったという。
ここでちょっと引っかかるのは「かわいそう」という現在でもある言葉との関係なのだが、それについての言及はない。
「かわいそう」は漢字では「可哀想」と書くし、「かわいい」とは全く別の系譜なのだろうか?
「痛ましい」という意味の「かわいい」が「かわいそう」に受け継がれたとも考えられると思うのだが、
これを明確に反証するような記述もされていない。
調べればわかるかもしれないが、めんどくさい。
3章では、大学生に「かわいい」に関するアンケートをとって、現代人の「かわいい」感覚について考察。

753:つづき
14/06/05 20:55:04.33 .net
4章では「きもかわ」という感覚に焦点を当て、「かわいい」は「グロテスク」と隣合わせであることに本質があると論じる。
典型例としては「ET」。同情や保護欲を喚起する弱さとは、グロいものでもあり、かわいいものでもあるということ。
5章では、李御寧『「縮み志向」の日本人』や、スーザン・スチュワート『憧憬論』などを参照しつつ、
ミニアチュール、プリクラなど、小さい可愛らしいものに価値を見出す日本文化の特質を論じる。
6章では、子供時代への郷愁、ノスタルジアに焦点を当てる。これは過去を美化するゆえに歴史と敵対する。また成熟を拒絶する。
ここではヘンリー・ダーガーが参照される。
7章では「Cawaii!」「CUTiE」「JJ」「ゆうゆう」といった女性誌を比較分析。消費社会が「かわいい」神話をいかに醸成し利用しているかを論じる。
8章では、「萌え」の聖地、アキバを探索。男女のジェンダーによる萌え感覚の違いや、ゲイの感覚との比較も試みている。
例えば、腐女子の感覚と、リアルなゲイの感覚は「全く異なる」と断じている。
だが、この辺は、違うといえば確かに違う(実際、腐女子を敵視しているゲイも多いだろう)が、全く断絶してるかといえばそうでもないのではないか。
このあたり、外から、オタク文化やゲイ文化にちょっと触れただけで安易に断定している感がある。
9章では、日本の「かわいい」文化の海外進出と、グローバリズムについて述べる。
エピローグでは、「かわいい」と紙一重のところにある、禍々しさやグロテスクについて指摘し、特に結論もなく終わる。

754:つづき
14/06/05 20:56:10.90 .net
自分としては、結論のなさや掘り下げ不足については、別に不満はない。この程度で充分じゃないかと思う。
「かわいさ」の文化における、「歴史の隠蔽」「成熟拒否」「弱者支配の政治性」といった事に対する警戒感も、
御説ごもっともという感じで、別に言うことはない。
9章で、著者は、「かわいい」の美学は、日本に特殊なものか、人類普遍なものか、と問うているが、
これは、「自然主義」的に考えて、生物学的な普遍性があるのは当然と思われる。
「かわいさ」とは、第一義的には保護欲をそそることであり、おとなの保護欲をそそるというのは、無力な子供にとって重要な生存戦略だろう。
親の側から言えば、自分の遺伝子を持つ実子か親族の子供以外を「かわいい」と感じる利己的遺伝子的メリットはないわけだが、
おおむね一般的に子供が「かわいい」ということは、子供の生存戦略が成功しているということだろう。
哺乳類の子供がおおむね「かわいい」のも生物学的必然だと思う。
もうひとつは、女性が男性の保護を求めるための「かわいさ」もあるだろう。男性も女性を保護することが繁殖戦略に適うのだろう。
この2つの「かわいさ」が混同されてしまうと、ロリとかショタになるのかもしれない。
実際は、文化のレベルの話を、生物学的レベルにこじつけるのは危険なので、一応分けて考えた方がいいわけだが※
、一応生物学的レベルも視野に入れておいて欲しい気もする。★★★

※「文化的遺伝子(ミーム)」とかを想定して論じることもできるのだろうが、これも実証が難しいわけで、
いずれにせよ「お話」の域は出ないだろう。とするなら、やはり文化は文化で分けて論じた方が無難だと思う。

755:無名草子さん
14/06/07 07:06:47.30 .net
オナニー

756:無名草子さん
14/06/10 13:02:00.87 .net
ってきんもちいい

757:無名草子さん
14/06/12 12:02:27.18 .net
kimo

758:無名草子さん
14/07/06 09:46:10.27 .net
保守

759:無名草子さん
14/09/01 10:44:27.60 .net
『講談社現代新書 50周年 1964~』

URLリンク(gendai-shinsho.jp)

760:無名草子さん
14/12/05 09:15:19.55 .net
ほしゅ

761:無名草子さん
14/12/28 10:56:22.95 .net
廃墟スレがなかなか落ちずにずっと残ってるってのも辛いもんがあるな…

762:無名草子さん
15/01/01 18:43:47.76 .net
愛着あるスレゆえ、荒らされる前に安楽死してほしいスレ

763:無名草子さん
15/01/02 23:36:00.93 .net
落ちないで

764:無名草子さん
15/02/05 02:10:51.60 .net
なんか、レビュー主体になって、スレの方向がわけわかんなくなったよな。
簡単な紹介とか、質問とかで、まったり進んでたのに。

765:無名草子さん
15/02/17 23:33:27.16 .net
このスレが大好きです

766:無名草子さん
15/03/09 00:32:17.07 .net
アウトロー関連の新書を三冊読んだ

夏原武『反社会的勢力』(洋泉社新書y)
著者は、暴力団・裏世界・犯罪・詐欺・知能犯罪に関する著書が多い
ジャーナリストであり、漫画「クロサギ」の原作でも有名。
この著書では、2011年「暴力団排除条例」が東京都と沖縄県でも施行され、
すべての自治体で実施されるようになったことを受けて、それに伴う問題点や、
「反社会勢力」と一般市民の関係がどう変わっていくかを論じている。

第一章では、反社会的勢力とは何かを説明しており、
暴力団・共生者(フロント企業(企業舎弟)・総会屋・企業ゴロ・
社会運動標榜ゴロ・特殊知能暴力団)、グレーゾーン(関東連合など)について紹介。

767:つづき
15/03/09 00:34:15.40 .net
第二章では、暴排条例によって、
社会と暴力団の切り離しが図られるようになったことについて検討されている。
これによって、暴力団と持ちつ持たれつでやってきた一般社会の側も
態度の変更が迫られている。
寺社への参拝や、幼馴染などの個人的な付き合い、
小売店の暴力団への掛け売りなども条例に引っ掛かってくる。
テキ屋も規制・解体され、祭りの衰退に繫がっていることを著者は批判している。
また現場の警官にも「やりにくくなった」という声がある。
著者はおおむね「切れすぎる刀」としての暴排条例には批判的である。

第三章では種々の「ブローキング」を紹介。
ブローキングの対象として「戸籍」「偽造カード」「産廃」「中古船舶」
「不法入国」「宗教法人」などがある。
産廃の実態や、宗教法人そのものが売買される話は参考になる。
第四章では、大相撲八百長や紳助引退の事件と、暴排条例との関係や、
その背後の警察や裏社会の動きについての裏話を暴露している。
自分のような世間知らずには、実に勉強になる。
裏の社会がどのように動いているのかわかって面白い。★★★

768:無名草子さん
15/03/09 00:41:41.10 .net
溝口敦『暴力団』(新潮新書)2011年発行。
このジャンルでは大御所の有名ジャーナリストによる、
暴力団に関する基礎知識を解説した入門書。
第一章では、まず、暴力団対策法による暴力団の定義から解説。
指定暴力団22団体を列挙。
そして、山口組を例にとって、組織の構成、役職などを説明している。
準構成員・暴走族・愚連隊・共生者・企業舎弟などについても簡単に説明。
第二章ではシノギの手口について解説。覚醒剤・恐喝。賭博・解体屋・産廃など。
第三章では、ヤクザの人間関係や人間性について論じている。
第四章は、海外マフィアについて。イタリアやアメリカのマフィア、
香港の三合会、台湾や中国の流氓、コロンビアのカルテルなど。
三合会幹部のインタビューが採録されている。
また台湾の流氓の凶暴な生態が紹介されている。
第五章では、暴力団と警察との関係について。
暴対法や暴力団排除条例によって、暴力団が追い詰められている現状など。
また芸能人との関係についても述べられており、島田紳助の事件にも触れている。

769:つづき
15/03/09 00:43:35.25 .net
第六章では、関東連合などの半グレ集団について解説。
暴力団の動きが規制されていく反面、こうした半グレ集団が勢力を伸ばしてきた。
第七章では、一般人が暴力団に出会ったらどうしたらよいか、というノウハウを伝授。
最後に、暴力団はジリ貧になりつつあることを重ねて指摘している。
著者は意外なほど暴力団に対して厳しい眼で見ているが、
ヤクザに脅され刺されたこともあるのでそれも当然か。
暴力団を潰したらマフィア化してかえってやっかいなのではないか、
という意見に対しては、マフィア化しても急に凶暴化することはないし、
そうした意見で暴力団を擁護するのはよくないということで、
「退場してもらってよいのではないでしょうか」と書いている。
裏社会の話題にうとい善良な市民向けの初歩的入門書だが、
ところどころに深く切り込んだ話題も折り込まれている。★★★
続編も出ているが自分は未読。

770:無名草子さん
15/03/09 00:46:56.40 .net
鈴木智彦『潜入ルポ・ヤクザの修羅場』(文春新書)
著者はヤクザ専門のジャーナリスト。
ヤクザ専門雑誌『実話時代』の編集部に入社し
『実話時代BULL』編集長を務めた後フリー。
著者の体験に基づき、暴力団と暴力団ジャーナリズムの歴史と現状を語る。

序章では、警察が山口組に矛先を定め、強硬姿勢を示している現状を見る。
第一章では、著者が歌舞伎町の「ヤクザマンション」に居を定めていた頃の、
様々なエピソードが語られる。マンションのバルコニーからヤクザが転落して、
鉄柵の鉄棒に串刺しになっている現場を目撃した話など。
第二章では、暴力団専門ライターとしての著者の経歴と、
暴力団ジャーナリズムの歴史を語る。

771:つづき
15/03/09 00:50:37.95 .net
第三章では、加納貢という愚連隊の帝王と言われた男の伝説と真の姿、
その惨めな晩年についての物語。
著者は、この加納をネタに記事を書くために、最期まで面倒を見ていた。
加納は金持ちのボンボンであり、自由の理想を追い求め、財産を食いつぶし、
ヤクザと違って舎弟を食わせる甲斐性もなく、
結局は、社会不適合の生活無能力者として死んでいった。

第四章は、著者が、大阪西成に居を移してからのエピソード。
博奕の話や、飛田新地の実情などが詳細に語られている。
終章では、ヤクザそのものが斜陽産業であり、食えない稼業となってきており、
ヤクザ専門ジャーナリストという職業も行き詰まっている現状が語られる。
最後に「もうヤクザの時代じゃない…」と言って拳銃自殺したヤクザの末路が語られて終わる。

772:つづき
15/03/09 00:51:34.34 .net
ヤクザや愚連隊の元トップなどと親密な関係を築き上げながら、
地を這うような泥臭い取材を続けてきた著者の体験が、
ほろ苦い調子で語られている。
様々なエピソードが、あまり整理されずに詰め込まれており、
時系列などもちょっとわかりにくいが、
裏社会のカオスな実情が体感できるように書かれていて、
読み物としては、以上三冊の中で一番面白い。★★★★

773:無名草子さん
15/04/09 20:44:01.33 .net
佐藤勝彦『宇宙は無数にあるのか』(集英社新書)
現代宇宙論における、マルチバースや人間原理、著者のインフレーション宇宙理論などを平易に解説。
第一章は、宇宙探索の歴史と現状、地球外生命の可能性、ビッグバンや宇宙背景放射など、宇宙論の初歩的解説。
第二章では、暗黒物質や暗黒エネルギーといった、宇宙の最新の謎や、インフレーション理論、
真空の相転移といった概念を説明し、人間原理について触れる。
第三章は「人間に都合よくデザインされた宇宙」として、英の天文学者マーティン・リースが提唱した、
「宇宙を支配する6つの定数」について説明する。それは、N(クーロン力と重力の比)、ε(核融合率)、
Ω(臨界密度と現実の宇宙の物質密度の比)、λ(真空のエネルギー)、
Q(重力結合エネルギーと星や銀河の静止質量エネルギーの比)、D(次元)の6つである。
これらの数字がわずかでも違うと、生命ないし人間はこの世に生じて来られず、
あたかも人間のためにこれらの数が「ファインチューニング」されているかのようだという話。
ただし、複数の条件を同時に変えるとチューニングの幅は広がる。

774:つづき
15/04/09 20:45:41.26 .net
第四章では、インフレーション理論について、少し詳しく説明しながら、
素粒子物理学と宇宙論の接点について解説。
第五章では、人間原理とマルチバースの理論について説明。
スティーヴン・ワインバーグは、マルチバースを前提に人間原理を主張した。
次に、インフレーション理論からも、マルチバースが生じることを説明。
次に、超弦理論・ブレーン宇宙の理論では、「カラビ=ヤオ空間」に多数の膜宇宙がくっついているとする。
次は量子力学における多世界解釈によるパラレルワールド。
また、マックス・テグマークは、事象の地平線の彼方に別の宇宙があると考える。
第六章では、地球外生命の探索などについて触れながら、人間原理についての著者の考えを述べる。
学者の中でも人間原理に対する態度はいろいろあり、
例えばホーキングは人間原理を重視する考えを述べており、デビッド・グロスは強く批判している。
著者は基本的に後者に共感しており、人間原理の濫用をいさめている。
最新宇宙論の話題について、わずか200ページで、初心者向けに平易に書かれている。
さすがに、このページ数で素人に多くを理解させるというのは困難で、
やや説明不足気味のところもあるが、それでも思ったより情報量が多い。★★★★

775:無名草子さん
15/04/09 20:49:52.76 .net
青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』(講談社現代新書)副題は「人間原理と宇宙論」
著者は女性の理論物理学者で、サイモン・シンの一連の科学啓蒙書などを多く翻訳紹介している人でもある。
本書は、宇宙論における「人間原理」の考え方を、科学史・科学思想史を紐解きながら科学的に位置づけている。
「まえがき」によると、著者が初めて人間原理の考え方に接した時、
「無内容で非生産的な、宗教的な願望にまみれたトートロジー」だとして、拒否反応を示したとのこと。
「人間が現に存在しているこの宇宙が、人間が存在できるような宇宙だからといって、だからどうだというのだろう?」
と思ったという。しかし、英の天文学者マーティン・リース『わたしたちの宇宙環境』を翻訳していく過程で、
「人間原理、要検討派」に鞍替えしたという。しかし、信仰に目覚めたり、人間中心主義者になったわけではない。

776:つづき
15/04/09 20:51:09.60 .net
第1章では、古代の天文学・占星術・哲学における、宇宙観の変遷をたどっていく。
古代ギリシアの数学者エウドクソスからアポロニオスを経て、プトレマイオスに至る、
精緻を極めた天動説が完成していく過程を、わりと詳しく追っている。
また、地動説によって「人間中心主義を転換させた」と一般に誤解されている、
コペルニクスの思想を、正確に捉え直している。
コペルニクスは、別に太陽を宇宙の中心に置くことを狙ったわけではなく、
「等速円運動の原理」の回復を目指した結果として
「偉大な球(地球を運ぶ天球)」の中心を、宇宙の中心としたのだ。
コペルニクス自身は人間中心的な考え方を崩しておらず、
そもそも当時は宇宙の中心が良い場所とは考えられてなかった。
コペルニクスが人間中心主義を否定したという誤解の基づく「コペルニクスの原理」は、後の啓蒙主義者が広めた。

777:つづき
15/04/09 20:53:32.87 .net
第2章では、まず、古代地中海世界に生まれた、「原子論者の“無限宇宙”」「プラトン・アリストテレスの“有限宇宙”」
「ストア派の“有限宇宙+無限空間”」という3つの宇宙観を解説。
次にニュートンの自らの重力理論に基づく宇宙観を解説。
さらにアインシュタインの、有限だが果てのない閉じた宇宙、ビッグバン・モデルの登場と定常宇宙論との相克、と続いていく。
ビッグバン・モデルは、宗教的な天地創造論を思わせるとして、当初は科学者の反発も強かった。
ハッブルによって宇宙の膨張が観測された後も、ビッグバン・モデルには観測データと合わない不都合があり、
なかなか受け入れられなかった。

778:つづき
15/04/09 20:54:36.91 .net
第3章では、「あれこれの物理定数は、なぜ今のような値になっているのだろうか」という問いを発し、
まず、さまざまな数字の「コインシデンス(偶然の一致)」を検討する。
ハーマン・ポンディは、電子の電荷(e)・電子の質量(m)・陽子の質量(mp)・重力定数(γ)・
光の速度(c)・宇宙の物質の平均密度(ρ0)・ハッブル定数の逆数(T)の7つの定数から、
4つの無次元量を作り、そこに現れる10の40乗という数字の一致に注目した。
ディラックやガモフもこの問題を考察した。
こうした中で、1974年にブランドン・カーターという物理学者が
「大きな数のコインシデンスと宇宙論における人間原理」という論文を発表した。
この頃にはビッグバン・モデルが最有力となっていた(65年に背景放射が観測されたため)。
カーターの人間原理は、「目的論」的に解釈される限り科学的には受け入れられないものだが、
「弱い人間原理」については「観測選択効果」として考えられる。
ここでの「観測選択効果」とは、観測者がいる時間と場所によって観測結果が異なる、といういわば当たり前の原理である。
変化していく宇宙の歴史の中で、人間が観測できるのは、人間が生存できる時期の宇宙だけである。
人間が観測できる宇宙が、人間の生存に都合よくできているのは当たり前なのである。
しかしまだ「強い人間原理」の謎が残っている。

779:つづき
15/04/09 20:55:46.30 .net
第4章では「多宇宙(マルチバース)」の宇宙論によって、
「強い人間原理」も「観測選択効果」の一種と考えられることが指摘される。
この宇宙が人間の生存につごうよく「ファインチューニング」されているように見えるのは、
無数の宇宙の中で人間が存在できる宇宙に人間が存在しているというだけのことである。
この章では、エヴェレットの多世界解釈に少し触れ、
また、アラン・グースと佐藤勝彦のインフレーション・モデルをやや詳しく説明している。
第5章では、まず素粒子物理学の歴史を簡単にたどる。
次に真空のエネルギーに関して。アインシュタインの宇宙項(λ)の話題や、
スティーヴン・ワインバーグの人間原理を使った真空エネルギーの値の予測などについて説明。
最後に、ひも理論から導き出される多宇宙論があり、それによると宇宙の青写真は10の500乗通りもある。
そして現代の宇宙論では、多宇宙ヴィジョンはデフォであるとのこと。

780:つづき
15/04/09 20:56:39.66 .net
終章では「グレーの階調の中の科学」と題して、多宇宙ヴィジョンや人間原理に対する著者の考えが述べられた後、
「宗教的真理と異なり、科学的知識は永遠に白黒確定することはないのかもしれない。
むしろ永遠にグレーの階調にあるからこそ、科学的知識は強まり、広がるのではないだろうか」
と著者の科学観がまとめられている。
科学史上の風説・俗説・誤解を正しながら、科学思想の変遷を丁寧に追っていき、
人間原理について科学的に納得できる解釈を提出している。
久々に突っ込みどころの見つからない完璧な科学啓蒙書を読ませていただいた。文句なしの星5つ★★★★★

781:無名草子さん
15/07/28 14:23:38.01 .net
岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』(新潮新書)2013年発行

著者は臨床教育学者で、刑務所受刑者に対する更生支援を行っている。
論旨はタイトルに尽きるが、若干誤解を招きそうである。
実際には、反省を否定しているわけではなく、むしろ囚人が主体的に真の反省に至ることを目標にしている。
正確には「反省を強制すると」と書くべきだろうし、その方が常識的にも理解しやすいはずだが、
インパクトを重視して、逆説性を強調したのだろう。
要するに、不満や抑圧を抱えたままの犯罪者に対して反省を強要すると、
犯罪者は自己の内面に向き合うことのないまま、表面的な反省のポーズだけが上達していくとのことである。
著者の更生支援の方法としては、囚人に社会や親に対する不満などの本音を吐き出させ、
心を開かせ、他人を受け入れる心理に導いていく。
そして自分の心の痛みに気付いて初めて他人の痛みにも気付くことができるとのこと。
例として酒井法子の謝罪会見を参照し、反省することの問題点を指摘している。
いじめ問題では、尾木ママを批判し、いきなり被害者の立場を思いやることを強制するのではなく、
加害者の視点から始めて、まずは、いじめる側の本音を語らせることを推奨している。
最後に、我慢することや、他人に迷惑をかけないこと、男らしく生きること、などを中心とした教育を批判。
他人に頼ったり甘えたりすることが苦手な者が犯罪者になりやすいとしている。

782:つづき
15/07/28 14:25:14.75 .net
著者の理論としては、親による抑圧とか幼児期のトラウマを強調しており、
やや古くさい精神分析風のモデルに依拠しているようだ。
「反省させてはならない」というのは一見逆説的だが、よく考えれば納得できる話である。
犯罪者は社会に対して漠然とした恨みつらみや憎悪を抱いているわけで、
そうした不満を心の底に押し込めたまま形ばかりの反省をしても、
真の反省にはならないであろうことは容易に想像できる。そういう意味では著者の指摘と実践は重要である。
ただ、親による抑圧を重視しすぎる著者の理論は疑問であり明らかに間違いだと思う。
なんでもかんでも親の抑圧に還元するのは、過去の捏造という精神分析にありがちな暴力になりかねない。
理論としては「心のバランスシート」モデルで理解した方が妥当だろう。
つまり、犯罪者は、親を含めた社会から様々なものを奪われたり被害を被ってきたと深層意識で感じており、
社会に対して巨額の「貸し」があると感じている。
支援者がそうした犯罪者の不満を聞いてやり受け入れてやれば、犯罪者は「貸し」が解消されたと感じる。
そうすると始めて自分の被害者に対する「借り」が真に実感できるようになる、ということではないか。

783:つづき
15/07/28 14:26:35.60 .net
また、イジメに関して「まず加害者の視点から」というのは考え方としては正しいと思うのだが、
これをホームルーム等で話し合うのは明らかにまずい。
いじめっ子の本音を自由に発言させたら、それ自体がいじめられっ子に対する集団リンチになりかねない。
やるなら個別面接か、いじめっ子だけを集めて話しを聞くべきだろう。
だいたい実際にイジメの真っ最中だったら、まず被害者の保護が最優先であり、
「加害者の視点から話し合って」などという悠長なことは言ってられないはずである。
正直、著者の教育観や人間観には、視野狭窄な思い込みが多く、一見柔軟なようでいて硬直している部分もあり、
支持できないところも多いのだが、非常に重要な洞察※を含んでいるということで、
あえて高く評価しておきたい。星4つ★★★★

※ 重要な洞察というのは「素朴な道徳感情に基づく行いや制度が非常にまずい結果を生むことがある」ということである。
「悪いことをしたのだから反省しろ」というのは、一般人のごく自然な道徳感情であり、これを否定するのは非常に難しい。
著者の主張や実践も、厳しい道徳観を持っている人々には理解されにくいだろう。
そういう人が犯罪者の「本音」を聞けば、即座に「自己中」「エゴイスト」「甘え」と言いたくなるはずであり、
著者のメソッドが広く受け入れられることはないだろう。
自然で素朴な道徳感情が災厄をもたらしている例は、経済問題でもよく見られる。
最近ではユーロ圏のギリシャ問題などは典型だろう。

784:無名草子さん
15/12/04 02:41:31.68 .net
ブログでやるといいと思う
そんだけ毎回丁寧な論評書いてればアフィ貼っても踏んでくれるぞ

785:無名草子さん
15/12/05 01:45:40.62 .net
確かにブログでやってほしい。上から目線で恐縮だが、ここまで詳しく書いてくれてたらこのスレじゃなくても読みたいと思う人はいると思われ。

786:無名草子さん
15/12/05 18:26:47.51 .net
リクエストしてええか?
「新しい労働社会」(岩波新書)やってほしい

787:無名草子さん
16/01/31 14:51:45.26 .net
>>663
すげ━亀だけど
URLリンク(d.hatena.ne.jp)

広井ってこんな下らない事しか言ってないのか
勝手に信奉者連れて田舎でコミュ━ンでも作ってろって感じだな

788:無名草子さん
16/07/21 06:24:29.39
支援
よく落ちないな

789:無名草子さん
17/05/05 19:16:51.23 .net
深川図書館特殊部落

790:無名草子さん
17/06/24 09:50:07.57 .net
深川図書館特殊部落

同和加配

奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
ガキどもが走り回る 見て見ぬふり
公務員による恣意行為
etc

なんのための施設か? →特殊な関係用

791:無名草子さん
17/12/21 00:31:48.07 .net
江東区立深川図書館特殊
銅和加配
奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
被害者が警察を呼んでくれと何度も言っているのに公務員は無視し続けてた
幼児が歓声上げて走り回る       見ぬふり
小学生が歓声上げて走り回る     見ぬふり
中学生が大声で談笑して走り回る   見ぬふり
高校生が閲覧机で談笑雑談      見ぬふり
公務員による恣意行為
etc
なんのための施設か? →特殊な関係用
翌日、被害者を公務員が脅していた

792:無名草子さん
18/01/12 10:22:28.75 .net
一般書籍よりもおすすめてきにネットで得する情報とか
グーグル検索⇒『稲本のメツイオウレフフレゼ
BDUAE

793:無名草子さん
18/02/24 10:20:39.49 .net
江東区立深川図書館特殊
銅和加配
在特
奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
被害者が警察を呼んでくれと何度も言っているのに公務員は無視し続けてた
幼児が歓声上げて走り回る       見ぬふり
小学生が歓声上げて走り回る     見ぬふり
中学生が大声で談笑して走り回る   見ぬふり
高校生が閲覧机で談笑雑談      見ぬふり
公務員による恣意行為
etc
なんのための施設か? →特殊な関係用
翌日、被害者を公務員が脅していた

794:無名草子さん
18/05/29 19:15:18.56 .net
RE68I

795:無名草子さん
18/10/06 10:22:50.14 .net
URLリンク(www.yasukuni.or.jp)
基地外衛士に注意

796:無名草子さん
19/07/09 07:11:25.09 .net
つまらん


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