□■□評論家・三島由紀夫■□■at BOOKS
□■□評論家・三島由紀夫■□■ - 暇つぶし2ch300:無名草子さん
10/10/31 19:14:17 .net
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、
根底的にデラシネ(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方では
その無用性に自立の根拠を置きながら、一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。


日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はない。


知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらいは弁えてゐなくてはならぬ。


命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しない。

三島由紀夫「新知識人論」より

301:無名草子さん
10/10/31 19:15:29 .net
知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的な「大義」が
何かを問ひつめてゐればよいのである。
…権力も反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐれば
よいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を見詰めてゐればよいのである。断固として
動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐればよいのである。
私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。

三島由紀夫「新知識人論」より


ゲエテがかつて「東洋に憧れるとはいかに西欧的なことであらう」と申しましたが、
これを逆に申しますと「西欧に憧れるとはいかに東洋的なことであらう」ともいへるのです。


他への関心、他の文化、他の芸術への関心を含めて、他者への関心ほど人間を永久に
若々しくさせるものはありません。

三島由紀夫「日本文壇の現状と西洋文学との関係―ミシガン大学における講演」より

302:無名草子さん
10/11/02 16:23:52 .net
無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。無気力も、徹底すれば
徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。近ごろはやりの反小説も、小説の裏返しにすぎぬ。


たとへば情熱、たとへば理想、たとへば知性、……何でもかまはないが、人間によつて
価値づけられたもののかういふ体系を、誰も抜け出すことができない。逆を行けば
裏返しになるだけのことだ。

三島由紀夫「川端康成再説」より


現実といふものは、いろんな面を持つてゐる。火口を眺め下ろした富士の像は、現実暴露
かもしれないが、麓から仰いだ秀麗な富士の姿も、あくまで現実の一面であり一部である。
夢や理想や美や楽天主義も、やはり現実の一面であり一部であるのだ。


古代ギリシャ人は、小さな国に住み、バランスある思考を持ち、真の現実主義をわがものに
してゐた。われわれは厖大な大国よりも、発狂しやすくない素質を持つてゐることを、
感謝しなければならない。世界の静かな中心であれ。

三島由紀夫「世界の静かな中心であれ」より

303:無名草子さん
10/11/02 16:29:46 .net
サドの文学はヒューマニズムで擁護される性質のものではない。また、芸術的見地から
弁護される性質のものではない。サドはこの世のあらゆる芸術の極北に位し、芸術による
芸術の克服であり、その筆はとつくに文学の領域を踏み越えてしまつてゐた。時代を経て
徐々にその毒素を失ふのが、あらゆる芸術作品の通例だが、サドほど、何百年を経ても
その毒素を失はない作家はなからう。それはあらゆる政治形態にとつての敵であり、
サドを容認する政府は、人間性を全的に容認する政府であつて、そんなものは政府の
埒外に在るから、政府は一日も存続しまい。つまりサドは芸術のみならず、政治に対しても、
政治による政治の克服、政治が政治を踏み越えることを要求せずにゐないのだ。

三島由紀夫「受難のサド」より


胃痛のときにはじめて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いて
ゐれば、存在を意識されるはずのものではなく、まして食卓の話題なんかになるべき
ものではない。政治家がちやんと政治をしてゐれば、カヂ屋はちやんとカヂ屋の仕事に
専念してゐられるのである。

三島由紀夫「一つの政治的意見」より

304:無名草子さん
10/11/02 16:43:14 .net
三島とかいうバカの着眼点はことごとく人間の本質からはずれてるな

305:無名草子さん
10/11/02 17:03:07 .net
主知主義の能力の限界は、人間が生の非連続性に耐へ得る能力の限界である。この限界を
究めようとする実験は、主知主義の側から、しばしば、且つ大規模に試みられたが、
ゆきつくところは、個人的な倫理の確立といふところに落ちつかざるをえない。

三島由紀夫「『エロチシズム』―ジョルジュ・バタイユ著 室淳介訳」より


実業人と文士のちがふところは、実業人は現実に徹しなければならないのだが、小説家は
この世の現実のほかのもう一つの現実を信じなければならぬといふことにあるのだらう。
そのもう一つの現実をどうやつて作り出すかといふと、その原料になるものは、やはり
少年時代の甘美な「文学へのあこがれ」しかない。その原料自体は、お粗末で無力な
ものであるが、それを精錬し、鍛へ、徐々に厚く鞏固に織り成して、はじめはフハフハした
靄にすぎぬものから、鉄も及ばぬ強靭な織物を作り出さねばならない。「人生は夢で
織られてゐる」とシェークスピアも言ふ。
その夢の原料は、やはり少年時代に、
つまりはあの汚ない、埃だらけの文芸部室にあつたと思ふのである。

三島由紀夫「夢の原料」より

306:無名草子さん
10/11/04 19:48:53 .net
作家の思想は哲学者の思想とちがつて、皮膚の下、肉の裡、血液の流れの中に流れなければ
ならない。


あるとき野球部に入つてゐる友だちが、肺浸潤の診断をうけて学校を休みだす直前、
かへりの電車の中で、突然私にかうきいた。
「君は sterben(死)する覚悟はあるかい?」
私は目の前が暗くなるやうな気がし、人生がひとつもはじまつてゐないのに、今死ぬのは
たまらない、といふ感じが痛切にした。
それから半年ほどのちその友だちは死んだ。(中略)
「君は sterben する覚悟はあるかい?」
といふ死んだ友人の言葉が又ひびいて来る。さうまともにきかれると、覚悟はないと
答へる他はないが、死の観念はやはり私の仕事のもつとも甘美な母である。

三島由紀夫「十八歳と三十四歳の肖像画」より

307:無名草子さん
10/11/04 19:50:19 .net
簡素、単純、素朴の領域なら、西洋が逆立ちしたつて、東洋にかなふわけはないのである。

三島由紀夫「オウナーの弁―三島由紀夫邸のもめごと」より


私は球戯一般を好まない。直接に打つたりたたいたり、ぢかな手ごたへのあるものでないと
興がわかない。見るスポーツもさうである。芸術にしろスポーツにしろ、社会の一般的に
許容しないところのものが、芸術でありスポーツであるが故に許される、といふのが
私の興味の焦点だ。

三島由紀夫「余暇善用―楽しみとしての精神主義」より


犬が人間にかみつくのではニュースにならない。人間が犬にかみつけばニュースになる。
ぼくら小説家は、いつも犬が人間にかみつくことに、かみついてゐるわけだ。


映画俳優は極度にオブジェである。


映画の匂ひをかいだり、少しでもその世界に足をふみ入れた人間には、なにか毒がある。

三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい」より


舞台の夜空に描きこまれたキラキラする金絵具の星のやうな、安つぽいロマンスこそ
女の心を永久に惹きつけるものだ。

三島由紀夫「『からっ風野郎』の情婦論」より

308:無名草子さん
10/11/04 19:51:17 .net
作家あるひは詩人は、現代的状況について、それを分析するよりも、一つの象徴的構図の下に
理解することが多い。それは多少夢の体験にも似てゐる。ところで犯罪者もこれに似て、
かれらも作家に似た象徴的構図を心に抱き、あるひはそのオブセッションに悩まされてゐる。
ただ作家とちがふところは、かれらは、ある日突然、自分の中の象徴的構図を、何らの
媒体なしに、現実の裡に実現してしまふのである。自分でもその意味を知ることなしに。

三島由紀夫「魔―現代的状況の象徴的構図」より


決して人に欺されないことを信条にする自尊心は、十重二十重の垣を身のまはりにめぐらす。


目がいつもよく利きすぎて物事に醒めてゐる人の座興や諧謔といふものは、ふつうでは
厭味なものだ。

三島由紀夫「友情と考証」より


作家にとつて、栄光といふものは、奇妙な疥癬(かいせん)みたいなもので、その痒みは
一種の快感であり、それをかくことは一種の快楽にほかならないが、それは仕方なしに
くつついて来たものにすぎない。

三島由紀夫「川端康成氏と文化勲章」より

309:無名草子さん
10/11/04 19:52:13 .net
人間は、自分のこととなれば、自分が実在するかどうかは大問題であつて、もし実在しない
といふ結論が出れば大変なことになるが、他人のこととなると、他人の実在如何は大して
気にかけないといふ性質がある。


われわれはめつたに会つたことのない遠い親戚なんかよりも、好きな小説の主人公のはうに
はるかに実在感を持つてゐる。

三島由紀夫「映画『潮騒』の想ひ出」より


青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。

三島由紀夫「堀江青年について」より


日本の芸能界では、憎まれたら最後、せつかくもつてゐる能力も発揮できなくなるおそれがある。

三島由紀夫「現代女優論―越路吹雪」より


一度自分の味はつた陶酔を人に伝へようとする努力は、奇妙に生理に逆行する。意気沮喪
するやうな努力である。

三島由紀夫「『花影』と『恋人たちの森』」より

310:無名草子さん
10/11/05 11:11:10 .net
三島作品は僕に文芸進化の行き止まりのようなものを連想させた。
遺伝子的後退。
間違えた方向に進んだまま後戻りできなくなった奇形生物。
進化のベクトルが消滅して、歴史の薄明りの中にあてもなく立ちすくんでいる孤児的生物。
時の溺れ谷。
それは誰のせいでもない。
誰が悪いと言うわけでもないし、誰にそれが救えると言うものでもない。
まずだいいちに三島は未成熟な思念を文章にするべきではなかったのだ。
過ちはまずそこから始まっていた。第一歩から、全てが間違っていた。
最初のボタンがかけ違えられ、それにあわせてすべてが致命的に混乱していた。
混乱を正そうとする試みはあらたな細かい混乱を生み出した。
そしてその結果、何もかもが少しずつ歪んで見えた。
そこにある何かをじっと見ようとすると、自然に首が何度か傾いてしまうのだ。
そのような歪み。
ずっとそこにいれば馴れてしまうのかも知れない歪み。
それに馴れてしまったら、今度はまともな世界を見るときに首を傾けることになる。

311:無名草子さん
10/11/05 11:29:49 .net
>>310
進歩だ、なんだかんだ言ってる大江健三郎みたいなのに奇形の子供が生まれてますよ。
ブサヨの自己紹介にしか見えませんが。

312:無名草子さん
10/11/06 19:47:02 .net
処女作とは、文学と人生の両方にいちばん深く足をつつこんでゐる。だから、それを
書いたあとの感想は、人生的感想によく似て来るのです。

三島由紀夫「『未青年』出版記念会祝辞」より


どんな芸術でも、根本には危機の意識があることは疑ひを容れまい。原始芸術にはこの危機が、
自然に対する畏怖の形でなまなましく現はれてゐたり、あるひはその反対に、自然を
呪伏するための極端な様式化になつて現はれてゐたりする。

三島由紀夫「危機の舞踊」より


青春が誤解の時期であるならば、自分の天性に反した文学的観念にあざむかれるほど、
典型的な青春はあるまい。またその荒廃の過程ほど典型的な荒廃はあるまい。しかも
そのあざむかれた自分を、一つの個性として全的に是認すること。……これは佐藤氏より
小さな規模で、今日われわれの周囲にくりかへされてゐる。

三島由紀夫「青春の荒廃―中村光夫『佐藤春夫論』」より


近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか。

三島由紀夫「一S・Fファンのわがままな希望」より

313:無名草子さん
10/11/06 19:48:18 .net
嘘八百の裏側にきらめく真実もある。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』について」より


二流のはうが官能的魅力にすぐれてゐる。

三島由紀夫「ギュスターヴ・モロオの『雅歌』―わが愛する女性像」より


人がやつてくれないなら、自分がやらねばならぬ。

三島由紀夫「ジャン・コクトオの遺言劇―映画『オルフェの遺言』」より


お客を怒らすことは必要だがナメることは禁物だ、といふのが、すべてのショウ・ビジネス
(古典から前衛にいたる)の鉄則だらう。

三島由紀夫「Four Rooms」より


顔と肉体は、俳優の宿命である。いつも思ふことだが、俳優といふものは、宿命を外側に
持つてゐる。一般人もある程度さうだが、文士などの場合は、その程度は殊に薄くて、
彼ははつきり宿命を内側に持つてゐる。これは職業の差などといふよりは、人間の
在り方の差で、宿命を外側に持つ人間と、内側に持つ人間との、両極端の代表的存在が、
俳優と文士といふものだらうと思はれる。


本当の芸の境地は、競争や戦ひの向うにある。

三島由紀夫「若尾文子讃」より

314:無名草子さん
10/11/06 19:49:20 .net
男らしさとは、対女性的観念ではなく、あくまで自律的な観念であつて、ここで
考へられてゐる男とは、何か青空へ向つて直立した孤独な男根のごときものである。
男らしさを企図する人間には、必ずファリック・ナルシシズムがある。


「男らしさ」といふことの価値には、一種の露出症的なものがあり、他人の賞賛が
必要なのである。


真に独創的な英雄といふものは存在しない。


あと何百万年たつても、女が男にかなはないものが二つある。それは筋肉と知性である。

三島由紀夫「私の中の“男らしさ”の告白」より


私の文学の母胎は、偉さうな西欧近代文学なんぞではなくて、もしかすると幼時に耽溺した
童話集なのかもしれない。目下SFに凝つてゐるのも、推理小説などとちがつて、それは
大人の童話だからだ。

三島由紀夫「こども部屋の三島由紀夫―ジャックと豆の木の壁画の下で」より

315:無名草子さん
10/11/06 19:50:34 .net
文学の勉強といふのは、とにかく古典を読むことに尽きるので、自国の古典に親しんだのち、
この世界文学の古典に親しめば、鬼に金棒である。


古典の面白さを一度味はつたら、現代文学なんかをかしくて読みなくなる危険がある。

三島由紀夫「小説家志望の少年に(『世界古典文学全集』推薦文)」


古典文学に親しむ機会の少なかつたことが、大正以後の日本文学にとつて、どれだけ
マイナスになつてゐるか。又、大正以後の知識人の思考の浅薄をどれだけ助長したかは、
今日、日ましに明らかになりつつある事実である。

三島由紀夫「時宜を得た大事業(『日本古典文学大系 第二期』推薦文)」より


文学だらうと、何だらうと、簡明が美徳でないやうな世界など、犬に食はれてしまふがいい。


文学が人の心を動かす度合は、享受者の些末な窄い関心事をのりこえて、文学独特の世界へ
引きずりこむだけの力を備へてゐるかどうかによつて測られる。

三島由紀夫「胸のすく林房雄氏の文芸時評」より

316:無名草子さん
10/11/07 17:31:21 .net
旅では、誰も知るやうに、思ひがけない喜びといふものは、思ひがけない蹉跌に比べると、
ほぼ百分の一、千分の一ぐらゐの比率でしか、存在しないものである。


私はいつも人間よりも風景に感動する。小説家としては困つたことかもしれないが、
人間は抽象化される要素を持つてゐるものとして私の目に映り、主としてその問題性によつて
私を惹きつけるのに、風景には何か黙つた肉体のやうなものがあつて、頑固に抽象化を
拒否してゐるやうに思はれる。自然描写は実に退屈で、かなり時代おくれの技法であるが、
私の小説ではいつも重要な部分を占めてゐる。


小説の制作の過程では、細部が、それまで眠つてゐた或る大きなものを目ざめさせ、
それ以後の構成の変更を迫ることが往々にして起る。したがつて、構成を最初に立てることは、
一種の気休めにすぎない。

三島由紀夫「わが創作方法」より

317:無名草子さん
10/11/07 17:32:29 .net
人のよい読者は、作家によつて書かれた小説作法といふものを、小説書き初心者のための
親切な入門書と思つて読むだらうが、それは概して、たいへんなまちがひである。
作家は他の現代作家の方法意識の欠如、甘つちよろさ、無知、増上慢、などに対する
限りない軽蔑から、自分の小説作法を書くであらう。

三島由紀夫「爽快な知的腕力―大岡昇平『現代小説作法』」より


自分に関するおしやべりが人を男らしくするといふことは、至難の業である。

三島由紀夫「アメリカ版大私小説―N・メイラー作 山西英一訳『ぼく自身のための広告』」より


いささかの誤解も生まないやうな芸術は、はじめから二流品である。


われわれは美の縁(へり)のところで賢明に立ちどまること以外に、美を保ち、それから
受ける快楽を保つ方法を知らないのである。

三島由紀夫「川端康成読本序説」より

318:無名草子さん
10/11/09 10:59:48 .net
大体、時代といふものは、自分のすぐ前の時代には敵意を抱き、もう一つ前の時代には
親しみを抱く傾きがある。

三島由紀夫「明治と官僚」より


日本人は、改革の情熱よりも、復興の情熱に適してゐるところがある。

三島由紀夫「幸せな革命」より


小さくても完全なものには、巨大なものには、求められない逸楽があり、必ずしも
偉大でなくても、小さく澄んだ崇高さがありうる。

三島由紀夫「宝石づくめの小密室」より


日本には妙な悪習慣がある。「何を青二才が」といふ青年蔑視と、もう一つは「若さが
最高無上の価値だ」といふ、そのアンチテーゼとである。私はそのどちらにも与しない。
小沢征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。

三島由紀夫「小沢征爾の音楽会をきいて」(昭和38年)より

319:無名草子さん
10/11/09 11:01:16 .net
猫は何を見ても猫的見地から見るでせうし、床屋さんは映画を見てもテレビを見ても、
人の頭ばかり気になるさうです。世の中に、絶対公平な、客観的な見地などといふものが
あるわけはありません。われわれはみんな色眼鏡をかけてゐます。そのおかげで、
われわれは生きてゐられるともいへるので、興味の選択ははじめから決つてをり、
一つ一つの些事に当つて選択を迫られる苦労もなく、それだけ世界はきれいに整備され、
生きるたのしみがそこに生じます。
しかし人生がそこで終ればめでたしですが、まだ先があります。同じ色眼鏡が、
ほかの人の見えない地獄や深淵をそこに発見させるやうになります。猫は猫にしか見えない
猫の地獄を見出し、床屋さんは床屋さんにしか見えない深淵を見つけ出します。

三島由紀夫「序(久富志子著『食いしんぼうママ』)」より

320:無名草子さん
10/11/09 11:02:48 .net
ボクシングのいい試合を見てゐると、私はくわうくわうたるライトに照らされたリングの
四角の空間に、一つの集約された世界を見る。行動する人間にとつては、世界はいつも
こんなふうに単純きはまる四角い空間に他ならない。世界を、こんがらかつた複雑怪奇な
場所のやうに想像してゐる人間は、行動してゐないからだ。そこへ二人の行動家が登場する。
そしてもつとも単純化された、いはば、もつとも具体的で同時にもつとも抽象的な、
疑ひやうのない一つの純粋な戦ひが戦はれる。さういふときのボクサーには、完全な
人間とは本来かういふものではないか、と思はせるだけの輝きがある。

三島由紀夫「ウソのない世界―ひきつける野生の魅力」より


狂言の「釣狐」ではないけれど、狐はある場合は、敢然と罠に飛び込むことで、彼自身が
狐であることを実証する。それは狐の宿命、プロ・ボクサーの宿命のごときものであらう。

三島由紀夫「狐の宿命(関・ラモス戦観戦記)」より

321:無名草子さん
10/11/09 11:06:08 .net
日劇のストリップ・ショウの特別席は、大てい外人の観光客で占められてゐるが、鬼をも
とりひしぐ顔つきの老婆と居並んで、ぽかんと口をあけてストリップを見てゐる老紳士ほど、
哀れな感じのするものはない。ああいふのを見ると、私はいつも、西洋人の夫婦を
支配してゐる或る「性の苛烈さ」を感じてしまふのである。尤も御当人の身にしてみれば、
鬼のごとき老妻に首根つこをつかまへられながらストリップを見るといふ、一種の
醍醐味があるのかもしれない。

三島由紀夫「西洋人の夫婦」より


現代の人間が、自分の良心の力だけで自己の魂にベルトを締めることができるかどうか。
人間は、目で見えるもの、なにか形のあるものに直面することによつて魂をゆすぶられるんです。
だからカトリックの荘厳な儀式、祭服、音楽、彫刻といつたものは大切です。ヒンズーも
同様だが、生きてゐる宗教とはそんなものなんですよ。


日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんな
あすこにあります。

三島由紀夫「インドの印象」より

322:無名草子さん
10/11/10 23:51:58 .net
一体、赤紙の召集ぢやあるまいし、芝居の大事なお客さまを「動員」するなどといふのは、
失礼な話だ。


芝居のお客は、窓口で、個々人の判断で、切符を買つてくれる人が、あくまで本体である。
われわれ小説家の著書を、団体で売りさばくといふ話はきいたことがない。部数の大小に
かかはらず、われわれの本は、われわれの仕事に興味を持つてくれる人の手へ、直接に
流れてゆくのであつて、さういふ読者の支持によつて、はじめてわれわれの仕事も実を
結ぶのである。


芝居といふものは絵空事で、絵空事のうちに真実を描くのだ。

三島由紀夫「私がハッスルする時―『喜びの琴』上演に感じる責任」より


芝居はとにかく芝居なのであつて、それ以下のものでも、それ以上のものでもない。
芝居を「しばや」と発音するほどの年齢の人にも、楽しんでもらへるのが芝居といふものだ。

三島由紀夫「三島さんと『喜びの琴』」より

323:無名草子さん
10/11/10 23:53:05 .net
旅は古い名どころや歌枕を抜きにしては考へられない。


旅には、実景そのものの美しさに加へるに、古典の夢や伝統の幻や生活の思ひ出などの、
観念的な準備が要るのであつて、それらの観念のヴェールをとほして見たときに、
はじめて風景は完全になる。


ストリップこそわが古典芸能の源であり、女性美の根本である。


苦行の果てにはかならずすばらしい景色が待つてゐる。


観光地といへば、パチンコ屋とバーと土産物屋が蠅のやうにたかつて来てそこを真黒に
してしまふ大都市の周辺は、私に黒人共和国ハイチの不潔な市場を思ひ出させる。
いやに真黒なものばかり売つてゐるな、と思つて近づくと、それがみな食料品に隙間なく
たかつた蠅なのだ。しかしバーや土産物屋などの蠅よりも、一等始末のわるいのは、
音を出す拡声器といふ蠅である。

三島由紀夫「熊野路―新日本名所案内」より

324:無名草子さん
10/11/11 23:36:31 .net
「いやな感じ」といふのは、裏返せば「いい感じ」といふことである。


人間と世界に対する嫌悪の中には必ず陶酔がひそむことは、哲学者の生活体験からだけ
生れるわけではない。行為者も亦、そのやうにして世界と結びつく瞬間があるのだ。

三島由紀夫「いやな、いやな、いい感じ(高見順著『いやな感じ』)」より


異国趣味と夢幻の趣味とは、文学から力を失はせると共に、一種疲れた色香を添へるもので、
世界文学の中にも、二流の作品と目されるものの中に、かういふ逸品の数々があり、
さういふ文学は普遍的な名声を得ることはできないが、一部の人たちの渝(かは)らぬ
愛着をつなぎ、匂ひやかな忘れがたい魅力を心に残す。


学生に人気のある、甘い賑やかな感激家の先生には、却つて貧寒な、現実的な魂しか
備はつてゐないことが多い。


正確な無味乾燥な方法的知識のみが、夢へみちびく捷径(せふけい)である。

三島由紀夫「夢と人生」より

325:無名草子さん
10/11/11 23:38:25 .net
相手を自分より無限に高いものとして憧れる気持は、半ばこちらの独り合点である場合が多い。
それがわかつて幻滅を感じても、自分の中の、高いもの美しいもの、美しいものへ憧れた
気持は残る。

三島由紀夫「愛(エロス)のすがた―愛を語る」より


憧れるとは、対象と自分との同一化を企てることである。従つて、異性に向つて憧れる、
といふのは、言葉の矛盾のやうに思はれる。

三島由紀夫「わが青春の書―ラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏会』」より


フランス人のドイツ恐怖はむしろ民衆の感性であつて、歴史上からも、フランス人は
ドイツに対する愛好心を貴族の趣味として伝へてきた。外交官でもあり、社交界に
精通したジロオドウの中には、このやうな貴族趣味が生き永らへてゐて、彼の親独主義は、
別に現実政治と見合つたものではない。いがみ合ひは民衆のやることであつて、
ドイツだらうが、フランスだらうが、貴族はみんな親戚なのだ。

三島由紀夫「ジークフリート管見―ジロオドウの世界」より

326:無名草子さん
10/11/11 23:39:48 .net
万物は落ち、あらゆる人間的な企図は人間の手から辷り落ちる。しかし落ちることのこの
スピードと快さと自然さに、人間の本質的な存在形態があることに詩人が気づくとき、
詩人はもはや天使の目ではなく、人間の目で人間を見てゐるのである。

三島由紀夫「跋(高橋睦郎著『眠りと犯しと落下と』)」より


時は移り、青春は移る。あるひは、文学は不変で、そこに描かれた青春も不変である。

三島由紀夫「(『われらの文学』推薦文)」より


本当に危険な作品は、感覚的な作品だ。どんな危険思想であつても、論理自体は社会的
タブーを犯さぬのであつて、サドのやうな非感覚的な作家の安全性はこの点にある。


これ(言語による言語からの脱出といふ自己撞着)を突破したのはアルチュール・
ランボオ唯一人だが、われわれが言語を一つの影像として定着するときに、われわれは
すでに自ら一つの脱出口を閉鎖したのである。

三島由紀夫「現代文学の三方向」より

327:無名草子さん
10/11/12 20:03:38 .net
ものごとの表面ほど、多く語るものはない。

不安自体はすこしも病気ではないが、「不安をおそれる」といふ状態は病的である。

三島由紀夫「床の間には富士山を―私がいまおそれてゐるもの」より


すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。

三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典―閉会式」より


美容整形も、因果物師も、紙一重のやうな気もする。因果物師とは、むかし見世物に出す
不具者ばかりを扱つた卑賎な仕事で、それだけならいいが、むかしの支那では、
子供のときから畸形をつくるために、人間を四角い箱に押しこめて、首と手足だけ出させて
育てたなどといふ奇怪な話が伝はつてゐる。美と醜とは両極端だが、実はそれほど
遠いものではない。

三島由紀夫「『美容整形』この神を怖れぬもの」より

328:無名草子さん
10/11/13 13:14:35 .net
蕗谷虹児氏の作品は幼ないころから親しんで来たものであるが、今度私の二十歳のときの作品「岬にての物語」を
出版するに当り、氏の画風ほど、この小説にふさはしいものはないと思はれたので、お願ひをして快諾を得た。
殊に口絵の百合の花束の少女像は、今や老境にをられるこの画家が、心の中深く秘めた美の幻を具現して
あますところがない。その少女のもつはかない美しさ、憂愁、時代遅れの気品、うつろひやすい清純、そして
どこかに漂ふかすかな「この世への拒絶」、「人間への拒絶」ほど、「岬にての物語」の女性像としてふさはしい
ものはないばかりでなく、おそらく蕗谷氏の遠い少年の日の原体験に基づいてゐるにちがひないこの美の
わがままな映像が、あたかも一人の画家が生涯忘れることのなかつた清らかさの記念として、私に深い感動を
与へたのである。

三島由紀夫「蕗谷虹児氏の少女像」より

329:無名草子さん
10/11/17 20:02:48 .net
小説を書くというのは、ことばの世界で自分の信ずる「あすのない世界」を書くことですね。そして、あすの
ない世界というのは、この現実にはありえない。戦争中はありえたかもしれないけれども、今はありえない。
今、われわれは、来週の水曜日に帝国ホテルで会いましょうという約束をするでしょう。戦争中は、来週の
水曜日に帝国ホテルで会いましょうといったって、会えるか会えないか、空襲でもあればそれまでなんで、
その日になってみなきゃ、わからない。それが、つまりぼくの文学の原質なのですけれども、今は、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えること、ほぼ確実ですよね。そして文学は、ぼくのなかでは依然として、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えるかどうかわからないという一点に、基準がある。それがぼくの、小説を書く根本原理です。
ぼくは文学では、そういう世界を、どうでも保っていくつもりです。それはぼくの悲劇理念なのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

330:無名草子さん
10/11/17 20:07:02 .net
悲劇というのは、必然性と不可避性をもって破滅へ進んでゆく以外、何もない。人間が自分の負ったもの、
自分に負わされたもの、そういうもの全部しょって、不可避性と必然性に向かって進んでゆく。ところが現実生活は、
必然性と不可避性をほとんど避けた形で進行している。偶然性と可避性といいますか、そうして今の柔構造の
社会では、とくにそういうような、ハプニングと、それから、可避性といいますか、こうしなくてもいいんだ
ということ、そういうことで全部、実生活が規制されてしまう。
そうするとわれわれも、ある程度、その法則に則って生活しなくては生きられないわけですから。それで来週の
水曜日、帝国ホテルで会うということについても、ある程度、迂回作戦をとりながら、その現実に到達するために
努力する。ところが、芸術では、そんなことする必要はまったくないのですから、来週の水曜日、会えないところへ
しぼればいいわけですよね。ぼくにとっては、そういう世界が絶対、必要なのです。それがなければぼくは、
生きられない。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

331:無名草子さん
10/11/17 20:09:34 .net
(中略)
ぼくの小説があまりに演劇的だ、と批評する人もありますけれども、必然性の意図と不可避性の意図が、
ギリギリにしぼられていなければ、文学世界というもの、ぼくは築く気がしない。それはぼくの構想力の問題であり、
文体の問題でもあるんですが、あるいは、法律を勉強したのが多少、役にたっているかもしれません。犯罪が
起これば、これは刑事事件ですから、そこで刑事訴訟のプロセスが進行するわけでしょ。これは完全に、
必然性と不可避性の意図のなかに人間をとじこめてしまいますからね。そういうものがぼくにとっては、
ロマンティックな構想の原動力になるので、私の場合「小説」というものはみんな、演劇的なのです。わき目も
ふらず破滅に向かって突進するんですよね。そういう人間だけが美しくて、わき目をするやつはみんな、愚物か、
醜悪なんです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

332:無名草子さん
10/11/17 20:12:59 .net
ヴァレリーもいってるように、作家というのは、作品の原因でなくて、作品の結果ですからね。自己に不可避性を
課したり、必然性を課したりするのは、なかば、作品の結果です。ですけれども、そういう結果は、ぼくはむしろ、
自分の“運命”として甘受したほうがいいと思います。それを避けたりなんかするよりも、むしろ、自分の
望んだことなんですから……。生活が芸術の原理によって規制されれば、芸術家として、こんな本望はない。
ぼくの生き方がいかに無為にみえようと、ばかばかしくみえようと、気違いじみてみえようと、それはけっきょく、
自分の作品が累積されたことからくる必然的な結果でしょう。ところがそれは、太宰治のような意味とは、
違うわけです。ぼくは芸術と生活の法則を、完全に分けて、出発したんだ。しかし、その芸術の結果が、生活に
ある必然を命ずれば、それは実は芸術の結果ではなくて、運命なのだ。というふうに考える。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

333:無名草子さん
10/11/17 20:15:28 .net
それはあたかも、戦争中、ぼくが運命というものを切実に感じたのと同じように、感ずる。つまり、運命を
清算するといいましょうか。そういうふうにしなければ、生きられない。運命を感じてない人間なんて、
ナメクジかナマコみたいに、気味が悪い。
…「新潮」の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の二元論というものを、私が
どういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて書いている。日本でいちばん理解しにくい考えは、
それなんですよね。それで、作品と生活との相関関係ということが、私小説の根本理念ですから、その相関関係を
断ち切ることは、絶対できない。私の場合は、作品における告白ももちろん重要ですけれども、実は告白自体が
フィクションになる。作品の世界は、さっきも申し上げたように、かくあるべき人生の姿ですからね。もし、
自分が作品に影響されてかくあるべき人生を実現できれば、こんないいことはないわけですけれども、逆に
そうなれないというのが、人生でしょ。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

334:無名草子さん
10/11/17 20:20:06 .net
そうなれないことが人生で、それでは、そうなれない人生をもっと問題にして、どうにもならんことを小説に
書けばいいではないか、という考え方も出てくると思う。しかし、ぼくは、それは絶対やりたくないですね。
死んでも、やりたくない。そういうことを書く作家というのが、きらいなのです。小島信夫の「抱擁家族」などと
いうのは、そうならない人生を一生懸命書いているわけです。そうなれない怨念を書くのが文学だとは、ぼくは
決して信じたくない。
文学というのは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じている。告白といいますけれども、
告白も、かくあるべきだ、こうなりたいんだ、けれども、こうならなかったという、それを語るのが、告白であって、
告白と願望との関係は、ひと筋なわではゆかないと思いますよ。人はいつでも、告白するとき、うそをついて、
願望を織り込んでしまうと思うのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

335:無名草子さん
10/11/17 20:22:45 .net
(中略)
文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから文学から、いつも
逃げてなければいけない。アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように……。それでも追っかけてくるのが、
ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、にせものの文学ですね。ぼくは作家というのは、
生活のなかでにせものの文学に、ばかな女にとり囲まれるように、とり囲まれていることが多いと思うのです。
だって、ふり払ったことがないから。自分が“もてる”と思ってますからね。
ところが、それをふり払って、砂漠の彼方に駈けだしたときに、そのあとをデートリッヒみたいに、はだしで
追いかけてくる女は、ほんとうの女ですよ。ぼくはそれが、ほんとの文学だと思います。ぼくの場合は、
できるだけ文学から逃げている。するとはだしで追っかけてきてくれる女がいる。それが、ぼくの文学です。
その女に、やさしくしますよ。そのときに、小説を書くわけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

336:無名草子さん
10/11/18 12:37:18 .net
(中略)
ぼくはいつも、あとから自分の素質を発見するのですけれども、―ぼく、剣道なんて、けっしてうまく
ありませんけれども、剣道やる人間になるなんていうことは、昔は想像もしなかった。おなじことで、論理的能力を
発見するなんて、昔は想像もしなかった。だから、人間って、あきらめないでじっくりやっていれば、何か出て
くるんだと思うのです。自慢じゃないですが、英語の会話ができるようになったのは三十越してからですからね。
それまで英語でしゃべれなかった。アメリカへ行っても、ほんとに語学で不自由いたしました。三十ごろになって、
アメリカに半年くらいいてから、まあまあしゃべれるようになった。人間の能力なんていうものは、ほんとに、
早く決めてしまうことないと思いますね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

337:無名草子さん
10/11/18 12:40:39 .net
(中略)
ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。それが源泉ですね。
その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。ですから自由意志には、無限定な自由は
ないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤をくりかえしますけれども、自由意志が源泉を発見した時に初めて、
自由意志が、自由になるのだ、と思います。それまでは自由意志は、なにものかにとらわれていて、もっと
自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それが、ぼくは源泉だと思う。ヘルダーリンの
「帰郷(ハイムクンフト)」のいう、一種の恐ろしさですね。最もなつかしいもので、最も恐ろしいものです。
現代社会は、そういう、源泉に帰ることを妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉からたえず
遠ざかって、前へ、前へ、上すべりしてゆくように、社会構造ができている。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

338:無名草子さん
10/11/18 12:45:42 .net
たとえば、テレビ、初め映りの悪いテレビ、それがまた、映りのいいテレビ、カラー・テレビになる。現代社会は、
その機械と同じことで、次々と、改良されたものは与えられますけれども、改良された果てに何があるか、
それはなにも与えないで、ぼくらを、先へ、先へ、進めるでしょ。
でもぼくらは、テレビより、もっと遠くみえるものがあるはずです、いちばん前に。ぼくはほんとに、それが
自分の夢でないと思ったのは、インドへ行ってからですよ。…インドへ行って、人間の、
ほんとの能力というのはあったんだ、という感じを強くもった。テレビより、もっと遠くがみえるはずです。
それから、人の心も、もっとよくみえるはずですし、つまり、みたいと思うものは、百万里先だろうが、
みなければならない。みえなくしてしまったのは、“文明”ですよね。ぼくはそう思います。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

339:無名草子さん
10/11/18 12:51:20 .net
(中略)
目ですね。
ぼくは、源泉にはそれがあったはずだと思うのです、ぼくにだって。失っただけですね。
剣道なんかやってますと、(そんなこというほどの資格はぼくにありませんが)“観世音の目”ということ、
いいますね。全体をみなければいけない。相手の目を見たら、負けてしまう。まして、相手の剣尖を見たら
負けてしまう。そうではなくて、“観世音の目”は相手を上から下まで、完全に見てしまう目です。そういう目を
鍛錬し、養成することが、剣道の極意だといわれているのですが、ぼくはそれ、源泉に帰ることだと思います。
それから、ネコ。ネコが寝たあと、クッションならクッションの跡みますと、ネコの寝た形が、ちゃんとできている。
あれが、寝るということ、休むということの本当の形なのですね。人間の寝た跡はそんな形になっていませんよ。
しゃっちょこばってますわね。寝てもまだ、からだがこわばっている。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

340:無名草子さん
10/11/18 12:55:20 .net
ネコは寝れば、完全に、ぐにゃあっと、液体のようになってしまう。あれが源泉なのですね。それから、
運動でもそうです。運動で、巧緻性とか、迅速性、いろいろ申しますけれども、運動能力というのは本来、
人間にはすべてあるはずなのが、なくなってしまった。そして、からだをこうやって曲げても、手の指先が足に
つかないようになってしまう。これはもう、源泉から遠ざかってしまっているわけですね。
…ぼくは、自由なものは美だと思うし、自由は源泉のなかにしかないと思うのです。プラトンと同じで、
動くものが、美しい。ぼくは静止したものはきらいですから、美術品なんて、あまり好きではないですね。
動くものが、美しい。“動くもの”というのは、自由ですし、自由は、それは未来にはなくて、源泉のなかに
あるのだ、という感じがする。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

341:無名草子さん
10/11/18 20:43:05 .net
25 :本当にあった怖い名無し:2010/11/18(木) 14:25:34 ID:jP1T7beKP
三島由紀夫は美輪を「金閣寺のように美しい」と形容したに違いない


26 :本当にあった怖い名無し:2010/11/18(木) 14:27:38 ID:FwzfGi7YO
美輪さん、信念があるから美しい。



342:無名草子さん
10/11/19 16:33:12 .net
男が女に化ける日本演劇の伝統様式を丸山はみごとに受けついでゐる。その伝統が時代に密着して花開いたのが
“丸山ブーム”の原因と考へる。
女形は、わづかにかぶきのジャンルにみられるだけで、新派でも早晩衰徴していくだらう。そのなかで
現代女形―丸山明宏の誕生は心づよい。西洋では“フィーメン・イン・パーソナリティー”といふ完全な
道化役者はゐるが、日本のやうな女形は、シェークスピア時代からさびれた。だから女形は日本のほこりで、
女形がなくなったらかぶきは消えてしまふとさへ断言できる。中村歌右衛門でもさうだが、丸山には女形特有の
我の強さ、意思の強さを猛烈に持つてゐる。よくいへば根性があるといふのか……。それだから彼の可能性は、
まだまだ発掘されるにちがひない。

三島由紀夫「可能性はまだまだ―現代の女形―丸山明宏」より

343:無名草子さん
10/11/19 16:40:27 .net
さてこの主人公の女賊黒蜥蜴は、十九世紀風フランス大女優の役どころで、どこから見ても、tres tres grande dame
でなければならない。現存の女優では、エドウィージュ・フィエールなんかがこれに当るだらう。初演のときには、
水谷八重子さんがみごとな成果をあげた。水谷さんのもつ堂々たる風格と、「無関心の色気」ともいふべきものと、
その古風なハイカラ味とは、余人の追随すべからざる成果を示した。
さて、これを他の女優に求めようとしても、この日本の中にちよつと求められない。新配役による再演が永いこと
実現しなかつたのはこのためもあるが、先ごろ「毛皮のマリー」を見て、丸山明宏君の演技に私は瞠目した。
君とは旧知の仲だが、歌は天才的であつても、長いセリフをこれほど堂々とこなせるとは、正直に言つて、
想像もしてゐなかつたのである。容姿から言つたら、「黒蜥蜴」にピタリのことはわかつてゐたが、セリフで
作者を唸らせてくれるかどうか未知数だつたのである。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』」より

344:無名草子さん
10/11/19 16:43:05 .net
「毛皮のマリー」で、丸山君は、長いセリフをみごとに構成し、一句一句を情感でふるはせながら、しかも強い
ハガネの裏打ちを施し、セリフが最後の頂点にいたると、噴出する悲劇的感情で観客の心をわしづかみにするといふ、
一種壮麗な技法を示した。おどろいたのは私ばかりではなかつた。演出の松浦竹夫氏も驚嘆し、二人で相談して、
実現をはかることになつた。そこへ今度松竹の重役になつた永山雅啓氏が、折よく手をさしのべてくれたのである。
もう一人の問題は、相手役の明智小五郎だつた。このダンディ、この理智の人、この永遠の恋人を演ずるには、
風貌、年恰好、技術で、とてもチンピラ人気役者では追ひつかない。種々勘考の末、天知茂君を得たのは大きな
喜びである。映画「四谷怪談」の、近代味を漂はせたみごとな伊右衛門で、夙に私は君のファンになつて
ゐたのであつた。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』」より

345:無名草子さん
10/11/25 19:36:49 .net
命日アゲ

346:無名草子さん
10/11/28 15:23:54 .net
最近東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。日本のあらゆる新聞が
この青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。(中略)
私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。ただあらゆる新聞が無名の一青年をこれほど
口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな反応を示したといふことに興味を持つたのである。
左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。
かういふヒステリー症状は、ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。この怒り、この罵倒の下に、
かれらは何を隠さうとしたのであらうか。
日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度も
ボロが出た。最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の列に入つて、
もうボロを出す心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ日本文化であると
宣伝してゐればよかつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

347:無名草子さん
10/11/28 15:25:12 .net
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。浅沼氏は右翼の十七歳の
少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。このとき丁度パリのムーラン・ルージュでは
Revue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。
在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。
誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。私がいつも思ひ出すのは、
今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな非合理な事件として
インテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

348:無名草子さん
10/11/28 15:26:21 .net
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、
明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。(中略)あらゆる西欧化に反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、
武士の魂である刀をとりあげるに及び、すでにその地方に配置された西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、
百名が日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の小銃で撃ち倒され、敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。正にその通りで、
一つの例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を作つたが、その際
起つたもつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。他の叛乱は、もつと政治的色彩が
濃厚であり、このやうに純思想的文化的叛乱ではない。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

349:無名草子さん
10/11/28 15:27:23 .net
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。それについて
探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を固執するはうを
選ぶだらう。しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついて
ゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の
歩みと共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。
そして日本の近代ほど、光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

350:無名草子さん
10/11/28 15:28:21 .net
私の四十年の歴史の中でも、前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、
戦後の二十年は、平和主義の下で、あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。
そして、失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が
起るのであつた。
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、
あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、
気づかれない。反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した
事例であつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

351:無名草子さん
10/11/28 15:30:09 .net
それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、ヴィエトナムが
どこにあるかさへ知らなかつたのである。
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題であることに
気づかない。九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、
そのやうな無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐた
のである。これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、
最初の過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした
予感の中にあつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

352:無名草子さん
10/12/01 18:00:47 .net
僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。僕らの肯定は諦観ではない。
僕らの肯定には残酷さがある。―僕らの数へ切れない喪失が正当を主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦
正当である筈だ。なぜなら歴史に於ける蓋然性の正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは達するといふのか。
僕らは止められてゐる。僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。時空の凡ゆる制約が、僕らの目には
可能性の仮装としかみえない。僕らの形成の全条件、僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、―
そこに僕らはたえず僕らを無窮の星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。決定されてゐるが故に
僕らの可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は永遠である。

平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

353:無名草子さん
10/12/01 18:03:42 .net
(中略)
新らしさが「発見」であるとするならば、発見ほど既存を強く意識させるものはない筈だ。発見は「既存」の
革命であるが、それは既存そのものの本質的な変化ではなく、既存の現象的相対的変化に他ならない。既存の
革命といふよりも、既存の意味の革命といふべきだ。(中略)
読者は僕らがなぜ革命を云はうとするのか訝(いぶ)かるかもしれない。しかし手始めに僕らは、革命といふ
概念の古さを修正しようとかかつてゐるのだ。十八世紀以来使ひ古されたこの陳腐な概念そのものに、革命を
与へることからはじまるのだ。(中略)
僕らは永遠への思慕を忘れかねて革命を欲求する。衝動のはげしさは革命の概念によつて盲目にされはしない。
熱情の血との併有。信仰と懐疑との美はしい共在。僕らは革命のスツルム・ウント・ドランクを通じて、無風帯を
留保しておくだらう。(中略)
熱情に対して、より低い次元の侵入を警戒せねばならない。あらゆる批判と警戒の冷水も、真の陶冶されたる熱情を
昂(たか)めこそすれ、決してもみ消してしまふものではない。むしろあらゆる冷血にも耐へうる熱情の強さに
僕らは誇りを感じるべきだ。(中略)

平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

354:無名草子さん
10/12/01 18:09:28 .net
たえず高きを憧れる存在が同じくその存在にとつて本質的な他のものによつて掣肘される時醸し出される緊張は、
その存在から矛盾と衝突が取除かれ融和と協同のみが得られる所謂「完成」と之を比べる時、何れ劣らぬものを
もつてゐるのではあるまいか。形成とは本質的なるものの分裂とその対立緊張による刻々の決闘である。
結果たる勝敗を本質的なものとして固定的に考へるならそれは変様と過渡とにすぎぬが、併し真の普遍性と
永遠性は後者のなかに見出だされるかもしれないのだ。独創性は真の普遍性の海のなかでしか発見されぬ真珠である。
不変なるものは変様のうちにひそんでゐるかもしれない。僕らの若さはなるほど本質的なるものが分裂し互に
制約する点にもともと悲劇的なものであるといへるし、若さそれ自身が不吉であるとさへ感ぜられる。しかし
傍目には退屈なこの形成の過程は、それから生れ出る結果を俟(ま)つまでもなく、それがそのまま抽象されて
評価に耐へうる筈だ。未完的完結の形に於てその刹那刹那に終止する否定しがたい意味が見られる筈だ。

平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

355:無名草子さん
10/12/01 18:12:25 .net
その外見上の未熟と不完全とにも不拘(かかはらず)、(壮年老年の文学が表現によつて定型化されるなら)、
若年の文学は表現を掣肘せんとする凡ゆる時間的空間的因子によつて定型化されるであらう。いはゞそれは
ネガティヴな、これまた貴重な表現型式であるといはねばならない。若年の文学的作品はその言語的表現以前の
評価の基準となりうべき、或るかけがへのない不吉な「確かさ」に満ちてゐるものだ。
かくて僕らは若年の権利を提言する。「たゞ若年に可能性をのみ発掘しようとする努力に終るな。なぜなら我々の
最も陥りやすい信仰の誤謬は、存在そのものを信仰してゐるつもりでその存在の可能性のみを信仰してゐることに
存するのだから」かくの如く僕らは主張し警告することを憚るまい。(中略)
新らしい時代を築かうとする若年には夭折の運命がある。神の国を後にした古事記の王子(みこ)たちは、
凡て若くして刃に血ぬられた。彼等と共に矜り高くその道を歩むことを、恐らく僕らの運命も辞すまい。

平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

356:無名草子さん
10/12/07 10:08:16 .net
私が法廷で述べたことは、この映画の醜悪さは議論の余地がないこと、この映画の主題は(たとへば私の
映画「憂国」が、一定の政治状況下において、性が異常に美しく昂揚するのを描いたのとちやうど反対に)
一定の政治状況下において、性が極度に歪められ圧殺されるのを描いてゐること、性行為はそのやうな醜悪な
形でのみ描かれ、唯一の純情な恋人同士の間には性交が存在しないこと、能の居グセその他の様式を大胆に用ひ、
また長回しの技巧によつて、一時的な性的印象を政治的寓喩へ移行させる様式をはつきり意図してゐることであつた。
今も私のこのやうな考へに変はりはない。
すばらしく穢(きたな)らしい映画であるが、問題の米軍基地のそばを裸女が駆ける場面だけは、ふしぎに
美しい印象になつて残つてゐる。あそこには、何か壮烈なものがあつた。何もしひて、裸女を日本の象徴と
見立てなくても。

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より

357:無名草子さん
10/12/07 10:10:15 .net
(中略)私は事文化に関しては、あらゆる清掃、衛生といふ考へがきらひである。蠅のゐないところで、
おいしい料理が生まれるわけがない。アメリカ文化を貧しくさせたものは、清教徒主義と婦人団体であつて、
日本精神はもつともつと性に関して寛容なのである。日本文化の伝統は、性的な事柄に関する日本的寛容の下に
発展してきたものである。教育ママ的清潔主義(ミュゾフォビー)は、外来文化の皮相な影響であるから、
武智氏のいはゆる「民族主義」作品が、教育ママに死刑を宣告されることは、いかにもありさうな事態であつた。
そして、政治的にも、保守と革新が、仲よく手を握る分野は、かかる教育ママ的清潔衛生思想の分野であつて、
現下日本で、イデオロギーを越えたもつとも甘い超党派理念は「偽善」である。「黒い雪」に目クジラを立てた
婦人層の何割かは「清潔」な美濃部都知事には安心して投票したにちがひない。(中略)

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より

358:無名草子さん
10/12/07 10:12:45 .net
いくら「黒い雪」が穢らしくても、偽善よりはよほどマシである。映画も芸術の一種として、芸術のよいところは、
そこに呈示されてゐるものがすべてだといふことだ。芸術は、よかれあしかれ、露骨な顔をさらけ出してゐる。
それをつかまへて「お前は露骨だ」といふのはいけない。要するに、国家権力が人間の顔のよしあしを判断することは
遠慮すべきであるやうに、やはり芸術を判断するには遠慮がちであるべきである、といふのが私の考へである。
それが良識といふものであり、今度の判決はその良識を守つた。
この一線が守られないと、芸術に清潔なウットリするやうな美しさしか認めることのできない女性的暴力によつて、
いつかわが国の芸術は蹂躙されるにいたるであらう。われわれは、二度と西鶴や南北を生むことができなくなるであらう。

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より

359:無名草子さん
10/12/17 23:21:09 .net
伝播の速い世の中では、今日の独断も、明日の通念になる。あなたがロマンチストと言つて下さつた以上、明日から
私はロマンチストでとほりさうです。いづれにせよ、人がかぶれといふ帽子を、私は喜んでかぶるつもりです。
たとへそれが、あのルイ王がかぶらされたといふ三角帽子であつても。
ただ私の何とも度しがたい欠陥は、自分に関する最高の通念も、最低の通念も、同じやうに面白がることなのです。
これはほとんど私の病気です。おしまひにはいつもかう言ひたくなる。「何を言つてやがる。俺は実は俺ぢや
ないんだぞ」これが私の自負の根元であり、創作活動の根源です。そしてこれが、あらゆる通念を喜んで
受け入れる私の態度の原因なのです。

三島由紀夫「オレは実はオレぢやない(村松剛氏の直言に答へる)」より

360:無名草子さん
10/12/17 23:22:16 .net
私は不断の遁走曲であり、しかも、いつも逃げ遅れてゐる者です。子供のころ、学校で集団でイタヅラをすると、
いつも逃げ遅れるのが、私ともう一人Kといふ生徒でした。そこで私とKはつかまつて、先生から、鉢合せの罰を
うけるのでした。こんな痛い刑罰はない。しかしKのオデコにはコブができないのに、私のオデコにだけは
コブができた。これが爾後、私の宿命となつたやうに思はれます。

三島由紀夫「オレは実はオレぢやない(村松剛氏の直言に答へる)」より

361:無名草子さん
10/12/21 22:57:46 .net
聞くところによると、例の「風流夢譚」掲載のいきさつについて、中央公論の嶋中社長がその掲載を反対したにも
かかはらず、あたかもぼくが圧力かけて掲載させたやうに伝はつてゐるらしいんです。
これはとんでもない誤解で、推薦した事実さへない。第一、新人の原稿ならいざ知らず、深沢さんといへば
一本立ちの作家ですからね、だれそれの推薦なんてあり得ないぢやないですか。世間ではよく、ある出版社の
背後にはこれこれといふ作家がゐて、その作家の言ふことならきく、といふやうな考へを持つ人がゐるらしいが、
それは“編集権”の存在を知らない者の言ふことで、編集権を侵害しないといふモラルは、ぼく自身いつも
守つてきたはずだ。ただ例外があるとすれば、“文学賞”の審査員になつたときくらゐのものだらう。そのときだつて、
技術顧問的な役割で、作品の芸術的な判断以外の社会的な影響にまでは、タッチしないものだ。

三島由紀夫「『風流夢譚』の推薦者ではない―三島由紀夫氏の声明」より

362:無名草子さん
10/12/21 22:59:33 .net
かういふ事情を知つてゐれば、ぼくが「風流夢譚」を掲載するやうに圧力をかけたなんていふことがナンセンスだと
いふことがよくわかるはず。しかし、それにもかかはらずぼくの名が使はれたとすれば、それは一部の者が
苦しまぎれの逃げ口上に使つたのではないか。さう思へば使つた者にも同情の余地があるのだが、迷惑うけるのは
こちらだからね。ともかくふりかかつた火の粉ははらひ落としたいといふのが本音だ。この際、次第に
大きくなる風説―新聞雑誌でもそんな書き方をされてゐるんで―の誤解をときたい……。
(談)

三島由紀夫「『風流夢譚』の推薦者ではない―三島由紀夫氏の声明」より

363:無名草子さん
10/12/28 01:14:32 .net
福田 浅田彰が言うように、あまり日本、日本と言わなくてもみんなそうなんだか
らというのもあるじゃない。倫理不在のだらしのない日本人のあり方、みたいな。
「あなたがたがおっしゃるように国が大事だと言うのはわかるけれど、日本人は
みんな弱虫ばかりなんだから、みんな最後に国家、国が助けろと言うに決まって
いる。そんな連中相手に国と言ってもしようがないですよ」と言うような、ね。
宮崎 それはあまりに正確無比過ぎて、かえってつまらない観測(笑)。
福田 正しい。でも、そんな弱虫じゃ嫌じゃん。まあ大体そうだけど。ちょっと批判
すると、すぐピーピー騒ぐし。
宮崎 何でこいつ生きてるんだろうとかって思いたくなるよね(笑)。
福田 でも浅田氏の言うとおりなんだよ。弱者のナショナリズム、こうしたルサンチ
マンによる無意識な弱者の糾合。これが僕は一番嫌なんだ。国家的なナショナリ
ズムの問題だってね、自虐史観と言われている史観にしても、そのカウンターパー
トである自由主義史観トカナントカにしても、結局どっちも被害者史観でしょう。国家
にイジメられたか、あるいは国際社会にイジメられたか、これまでの定説では日本
はおとしめられていたとか、位相の違いがあるにしろ、イジメられっ子の話でしょう。
イジメられっ子はキライでね、私は。
(『愛と幻想の日本主義』pp.17-18)

364:無名草子さん
11/01/02 20:17:28 .net
少しでも自動車をころがしてみた人なら、白バイの存在を意識しなかつたといふ人はあるまい。それは、
ゐませんやうにと神に祈るほどの存在であり、しかも、どこかにゐてくれなくては物足らない存在である。だから
ますますそれは、小イキな服装と小イキな白いオートバイと共に、神秘化される。悪人の目から見たところの
鞍馬天狗のやうな存在、善良な市民にちよつぴり悪人の気持を味はせてくれる存在である。その威厳、その美しさ、
その神速、その権力、一つとして羨望の的ならざるはない。白バイを怖がつたことのある人なら、必ず一度は、
白バイになつてみたいと思ふだらう。

三島由紀夫「私はこれになりたかつた―それは白バイの警官です」より

365:無名草子さん
11/01/08 15:05:36 .net
「葉隠」の恋愛は忍恋(しのぶこひ)の一語に尽き、打ちあけた恋はすでに恋のたけが低く、
もしほんたうの恋であるならば、一生打ちあけない恋が、もつともたけの高い恋であると
断言してゐる。
アメリカふうな恋愛技術では、恋は打ちあけ、要求し、獲得するものである。恋愛の
エネルギーはけつして内にたわめられることがなく、外へ外へと向かつて発散する。
しかし、恋愛のボルテージは、発散したとたんに滅殺されるといふ逆説的な構造をもつてゐる。
現代の若い人たちは、恋愛の機会も、性愛の機会も、かつての時代とは比べものにならぬほど
豊富に恵まれてゐる。しかし、同時に現代の若い人たちの心の中にひそむのは恋愛といふものの
死である。もし、心の中に生まれた恋愛が一直線に進み、獲得され、その瞬間に死ぬといふ
経過を何度もくり返してゐると、現代独特の恋愛不感症と情熱の死が起こることは
目にみえてゐる。若い人たちがいちばん恋愛の問題について矛盾に苦しんでゐるのは、
この点であるといつていい。

三島由紀夫「葉隠入門」より

366:無名草子さん
11/01/08 15:08:46 .net
かつて、戦前の青年たちは器用に恋愛と肉欲を分けて暮らしてゐた。大学にはいると先輩が
女郎屋へ連れて行つて肉欲の満足を教へ、一方では自分の愛する女性には、手さへ
ふれることをはばかつた。
そのやうな形で近代日本の恋愛は、一方では売淫行為の犠牲のうへに成り立ちながら、
一方では古いピューリタニカルな恋愛伝統を保持してゐたのである。しかし、いつたん
恋愛の見地に立つと、男性にとつては別の場所に肉欲の満足の犠牲の対象がなければならない。
それなしには真の恋愛はつくり出せないといふのが、男の悲劇的な生理構造である。
「葉隠」が考へてゐる恋愛は、そのやうななかば近代化された、使ひ分けのきく、要領のいい、
融通のきく恋愛の保全策ではなかつた。そこにはいつも死が裏づけとなつてゐた。
恋のためには死ななければならず、死が恋の緊張と純粋度を高めるといふ考へが「葉隠」の
説いてゐる理想的な恋愛である。

三島由紀夫「葉隠入門」より

367:無名草子さん
11/01/12 11:36:52 .net
おそるべき人生知にあふれたこの著者(山本常朝)は、人間が生だけによつて生きるものではないことを知つてゐた。
彼は、人間にとつて自由といふものが、いかに逆説的なものであるかも知つてゐた。そして人間が自由を
与へられるとたんに自由に飽き、生を与へられるとたんに生に耐へがたくなることも知つてゐた。
現代は、生き延びることにすべての前提がかかつてゐる時代である。平均寿命は史上かつてないほどに延び、
われわれの前には単調な人生のプランが描かれてゐる。青年がいはゆるマイホーム主義によつて、自分の小さな巣を
見つけることに努力してゐるうちはまだしも、いつたん巣が見つかると、その先には何もない。あるのはそろばんで
はじかれた退職金の金額と、労働ができなくなつたときの、静かな退職後の、老後の生活だけである。(中略)
戦後一定の理想的水準に達したイギリスでは、労働意欲が失はれ、それがさらには産業の荒廃にまで結びついてゐる。

三島由紀夫「葉隠入門」より

368:無名草子さん
11/01/12 11:38:48 .net
しかし、現代社会の方向には、社会主義国家の理想か、福祉国家の理想か、二つに一つしかないのである。
自由のはてには福祉国家の倦怠があり、社会主義国家のはてには自由の抑圧があることはいふまでもない。
人間は大きな社会的なヴィジョンを一方の心で持ちながら、そして、その理想へ向かつて歩一歩を進めながら、
同時に理想が達せられさうになると、とたんに退屈してしまふ。他方では、一人一人が潜在意識の中に、深い
盲目的な衝動をかくしてゐる。それは未来にかかはる社会的理想とは本質的にかかはりのない、現在の一瞬一瞬の
生の矛盾にみちたダイナミックな発現である。青年においては、とくにこれが端的な、先鋭な形であらはれる。
また、その盲目的な衝動が劇的に対立し、相争ふ形であらはれる。青年期は反抗の衝動と服従の衝動とを同じやうに
持つてゐる。これは自由への衝動と死への衝動といひかへてもよい。その衝動のあらはれが、いかに政治的な形を
とつても、その実それは、人間存在の基本的な矛盾の電位差によつて起こる電流のごときものと考へてよい。

三島由紀夫「葉隠入門」より

369:無名草子さん
11/01/12 11:41:04 .net
戦時中には、死への衝動は100パーセント解放されるが、反抗の衝動と自由の衝動と生の衝動は、完全に
抑圧されてゐる。それとちやうど反対の現象が起きてゐるのが戦後で、反抗の衝動と自由の衝動と生の衝動は、
100パーセント満足されながら、服従の衝動と死の衝動は、何ら満たされることがない。十年ほど前に、
わたしはある保守系の政治家と話したときに、日本の戦後政治は経済的繁栄によつて、すくなくとも青年の
生の衝動を満足させたかもしれないが、死の衝動についてはつひにふれることなく終はつた。しかし、青年の中に
抑圧された死の衝動は、何かの形で暴発する危険にいつもさらされてゐると語つたことがある。
(中略)
トインビーが言つてゐることであるが、キリスト教がローマで急に勢ひを得たについては、ある目標のために
死ぬといふ衝動が、渇望されてゐたからであつた。パックス・ロマーナの時代に、全ヨーロッパ、アジアにまで
及んだローマの版図は、永遠の太平を享楽してゐた。

三島由紀夫「葉隠入門」より

370:無名草子さん
11/01/12 11:43:41 .net
現代社会では、死はどういふ意味を持つてゐるかは、いつも忘れられてゐる。いや、忘れられてゐるのではなく、
直面することを避けられてゐる。ライナ・マリア・リルケは、人間の死が小さくなつたといふことを言つた。
人間の死は、たかだか病室の堅いベッドの上の個々の、すぐ処分されるべき小さな死にすぎなくなつてしまつた。
そしてわれわれの周辺には、日清戦争の死者をうはまはるといはれる交通戦争がたえず起こつてをり、人間の
生命のはかないことは、いまも昔も少しも変はりはない。ただ、われわれは死を考へることがいやなのである。
死から何か有効な成分を引き出して、それを自分に役立てようとすることがいやなのである。われわれは、
明るい目標、前向きの目標、生の目標に対して、いつも目を向けてゐようとする。そして、死がわれわれの生活を
じよじよにむしばんでいく力に対しては、なるたけふれないでゐたいと思つてゐる。

三島由紀夫「葉隠入門」より

371:無名草子さん
11/01/12 11:45:19 .net
このことは、合理主義的人文主義的思想が、ひたすら明るい自由と進歩へ人間の目を向けさせるといふ機能を
営みながら、かへつて人間の死の問題を意識の表面から拭ひ去り、ますます深く潜在意識の闇へ押し込めて、
それによる抑圧から、死の衝動をいよいよ危険な、いよいよ爆発力を内攻させたものに化してゆく過程を示してゐる。
死を意識の表へ連れ出すといふことこそ、精神衛生の大切な要素だといふことが閑却されてゐるのである。
しかし、死だけは、「葉隠」の時代も現代も少しも変はりなく存在し、われわれを規制してゐるのである。
その観点に立つてみれば、「葉隠」の言つてゐる死は、何も特別なものではない。毎日死を心に当てることは、
毎日生を心に当てることと、いはば同じことだといふことを「葉隠」は主張してゐる。われわれはけふ死ぬと
思つて仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない。

三島由紀夫「葉隠入門」より

372:無名草子さん
11/01/12 11:50:09 .net
西欧ではギリシャ時代にすでにエロース(愛)とアガペー(神の愛)が分けられ、エロースは肉欲的観念から発して、
じよじよに肉欲を脱してイデアの世界に参入するところの、プラトンの哲学に完成を見いだした。一方アガペーは、
まつたく肉欲と断絶したところの精神的な愛であつて、これは後にキリスト教の愛として採用されたものである。
(中略)
日本人本来の精神構造の中においては、エロースとアガペーは一直線につながつてゐる。もし女あるひは若衆に
対する愛が、純一無垢なものになるときは、それは主君に対する忠と何ら変はりない。このやうなエロースと
アガペーを峻別しないところの恋愛観念は、幕末には「恋闕の情」といふ名で呼ばれて、天皇崇拝の感情的基盤を
なした。いまや、戦前的天皇制は崩壊したが、日本人の精神構造の中にある恋愛観念は、かならずしも崩壊して
ゐるとはいへない。それは、もつとも官能的な誠実さから発したものが、自分の命を捨ててもつくすべき理想に
一直線につながるといふ確信である。

三島由紀夫「葉隠入門」より

373:無名草子さん
11/01/12 12:33:22 .net
一方では、死ぬか生きるかのときに、すぐ死ぬはうを選ぶべきだといふ決断をすすめながら、一方ではいつも
十五年先を考へなくてはならない。十五年過ぎてやつとご用に立つのであつて、十五年などは夢の間だといふことが書かれてゐる。
これも一見矛盾するやうであるが、常朝の頭の中には、時といふものへの蔑視があつたのであらう。時は人間を変へ、
人間を変節させ、堕落させ、あるひは向上させる。しかし、この人生がいつも死に直面し、一瞬一瞬にしか
真実がないとすれば、時の経過といふものは、重んずるに足りないのである。重んずるに足りないからこそ、
その夢のやうな十五年間を毎日毎日これが最後と思つて生きていくうちには、何ものかが蓄積されて、一瞬一瞬、
一日一日の過去の蓄積が、もののご用に立つときがくるのである。これが「葉隠」の説いてゐる生の哲学の
根本理念である。

三島由紀夫「葉隠入門」より

374:無名草子さん
11/01/12 12:35:58 .net
「葉隠」は、一面謙譲の美徳をほめそやしながら、一面人間のエネルギーが、エネルギー自体の原理に従つて、
大きな行動を成就するところに着目した。(中略)
もし、謙譲の美徳のみをもつて日常をしばれば、その日々の修行のうちから、その修行をのり越えるやうな
激しい行動の理念は出てこない。それが大高慢にてなければならぬといひ、わが身一身で家を背負はねばならぬと
いふことの裏づけである。彼はギリシャ人のやうにヒュブリス(傲慢)といふものの、魅惑と光輝とその
おそろしさをよく知つてゐた。


男の世界は思ひやりの世界である。男の社会的な能力とは思ひやりの能力である。武士道の世界は、一見
荒々しい世界のやうに見えながら、現代よりももつと緻密な人間同士の思ひやりのうへに、精密に運営されてゐた。


忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかはりに、無料の忠告なら湯水のごとくそそいで
惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめつたになく、人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、
恨みをかふことに終はるのが十中八、九である。

三島由紀夫「葉隠入門」より

375:無名草子さん
11/01/12 13:18:07 .net
思想は覚悟である。覚悟は長年にわたつて日々確かめられなければならない。


長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、時期はかならずしも選ぶことが
できない。それは向かうからふりかかり、おそつてくるのである。そして生きるといふことは向かうから、あるひは
運命から、自分が選ばれてある瞬間のために準備することではあるまいか。


戦士は敵の目から恥づかしく思はれないか、敵の目から卑しく思はれないかといふところに、自分の対面と
モラルのすべてをかけるほかはない。自己の良心は敵の中にこそあるのである。


いつたん行動原理としてエネルギーの正当性を認めれば、エネルギーの原理に従ふほかはない。獅子は荒野の
かたなにまで突つ走つていくほかはない。それのみが獅子が獅子であることを証明するのである。

三島由紀夫「葉隠入門」より

376:無名草子さん
11/01/12 13:21:08 .net
合理的に考へれば死は損であり、生は得であるから、だれも喜んで死へおもむくものはゐない。合理主義的な
観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによつて、あたかも普遍性を
獲得したやうな錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまふ。常朝がたえず非難して
ゐるのは、主体と思想との間の乖離である。

「強み」とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである。


いまの恋愛はピグミーの恋になつてしまつた。恋はみな背が低くなり、忍ぶことが少なければ少ないほど恋愛は
イメージの広がりを失ひ、障害を乗り越える勇気を失ひ、社会の道徳を変革する革命的情熱を失ひ、その内包する
象徴的意味を失ひ、また同時に獲得の喜びを失ひ、獲得できぬことの悲しみを失ひ、人間の感情の広い振幅を失ひ、
対象の美化を失ひ、対象をも無限に低めてしまつた。恋は相対的なものであるから、相手の背丈が低まれば、
こちらの背丈も低まる。かくて東京の町の隅々には、ピグミーたちの恋愛が氾濫してゐる。

三島由紀夫「葉隠入門」より

377:無名草子さん
11/01/12 17:42:11 .net
エゴティズムはエゴイズムとは違ふ。自尊の心が内にあつて、もしみづから持すること高ければ、人の言行などは
もはや問題ではない。人の悪口をいふにも及ばず、またとりたてて人をほめて歩くこともない。そんな始末に
おへぬ人間の姿は、同時に「葉隠」の理想とする姿であつた。


いまの時代は“男はあいけう、女はどきよう”といふ時代である。われわれの周辺にはあいけうのいい男に
こと欠かない。そして時代は、ものやはらかな、だれにでも愛される、けつして角だたない、協調精神の旺盛な、
そして心の底は冷たい利己主義に満たされた、さういふ人間のステレオタイプを輩出してゐる。「葉隠」は
これを女風といふのである。「葉隠」のいふ美は愛されるための美ではない。体面のための、恥づかしめられぬ
ための強い美である。愛される美を求めるときに、そこに女風が始まる。それは精神の化粧である。「葉隠」は、
このやうな精神の化粧をはなはだにくんだ。現代は苦い薬も甘い糖衣に包み、すべてのものが口当たりよく、
歯ごたへのないものがもつとも人に受け入れられるものになつてゐる。

三島由紀夫「葉隠入門」より

378:無名草子さん
11/01/12 17:45:18 .net
常朝は、この人生を夢の間の人生と観じながら、同時に人間がいやおうなしに成熟していくことも知つてゐた。
時間は自然に人々に浸み入つて、そこに何ものかを培つていく。もし人がけふ死ぬ時に際会しなければ、そして
けふ死の結果を得なければ、容赦なくあしたへ生き延びていくのである。
(中略)一面から見れば、二十歳で死ぬも、六十歳で死ぬも同じかげろふの世であるが、また一面から見れば
二十歳で死んだ人間の知らない冷徹な人生知を、人々に与へずにはおかぬ時間の恵みであつた。それを彼は
「御用」と呼んでゐる。(中略)
彼にとつて身養生とは、いつでも死ねる覚悟を心に秘めながら、いつでも最上の状態で戦へるやうに健康を大切にし、
生きる力をみなぎり、100パーセントのエネルギーを保有することであつた。
ここにいたつて彼の死の哲学は、生の哲学に転化しながら、同時になほ深いニヒリズムを露呈していくのである。

三島由紀夫「葉隠入門」より

379:無名草子さん
11/01/12 17:47:01 .net
「葉隠」の死は、何か雲間の青空のやうなふしぎな、すみやかな明るさを持つてゐる。それは現代化された形では、
戦争中のもつとも悲惨な攻撃方法と呼ばれた、あの神風特攻隊のイメージと、ふしぎにも結合するものである。
神風特攻隊は、もつとも非人間的な攻撃方法といはれ、戦後、それによつて死んだ青年たちは、長らく犬死の汚名を
かうむつてゐた。しかし、国のために確実な死へ向かつて身を投げかけたその青年たちの精神は、それぞれの
心の中に分け入れば、いろいろな悩みや苦しみがあつたに相違ないが、日本の一つながりの伝統の中に置くときに、
「葉隠」の明快な行動と死の理想に、もつとも完全に近づいてゐる。人はあへていふだらう。特攻隊は、いかなる
美名におほはれてゐるとはいへ、強ひられた死であつた。(中略)志願とはいひながら、ほとんど強制と同様な
方法で、確実な死のきまつてゐる攻撃へかりたてられて行つたのだと……。それはたしかにさうである。
では、「葉隠」が暗示してゐるやうな死は、それとはまつたく違つた、選ばれた死であらうか。わたしには
さうは思はれない。

三島由紀夫「葉隠入門」より

380:無名草子さん
11/01/12 17:49:35 .net
「葉隠」は一応、選びうる行為としての死へ向かつて、われわれの決断を促してゐるのであるが、同時に、
その裏には、殉死を禁じられて生きのびた一人の男の、死から見放された深いニヒリズムの水たまりが横たはつてゐる。
人間は死を完全に選ぶこともできなければ、また死を完全に強ひられることもできない。たとへ、強ひられた死として
極端な死刑の場合でも、精神をもつてそれに抵抗しようとするときには、それは単なる強ひられた死ではなくなる
のである。また、原子爆弾の死でさへも、あのやうな圧倒的な強ひられた死も、一個人一個人にとつては
運命としての死であつた。われわれは、運命と自分の選択との間に、ぎりぎりに追ひつめられた形でしか、
死に直面することができないのである。そして死の形態には、その人間的選択と超人間的運命との暗々裏の相剋が、
永久にまつはりついてゐる。ある場合には完全に自分の選んだ死とも見えるであらう。自殺がさうである。
ある場合には完全に強ひられた死とも見えるであらう。たとへば空襲の爆死がさうである。

三島由紀夫「葉隠入門」より

381:無名草子さん
11/01/12 17:53:48 .net
しかし、自由意思の極致のあらはれと見られる自殺にも、その死へいたる不可避性には、つひに自分で選んで
選び得なかつた宿命の因子が働いてゐる。また、たんなる自然死のやうに見える病死ですら、そこの病死に
運んでいく経過には、自殺に似た、みづから選んだ死であるかのやうに思はれる場合が、けつして少なくない。
「葉隠」の暗示する死の決断は、いつもわれわれに明快な形で与へられてゐるわけではない。(中略)
「葉隠」にしろ、特攻隊にしろ、一方が選んだ死であり、一方が強ひられた死だと、厳密にいふ権利はだれにも
ないわけなのである。問題は一個人が死に直面するといふときの冷厳な事実であり、死にいかに対処するかといふ
人間の精神の最高の緊張の姿は、どうあるべきかといふ問題である。
そこで、われわれは死についての、もつともむづかしい問題にぶつからざるをえない。われわれにとつて、
もつとも正しい死、われわれにとつてみづから選びうる、正しい目的にそうた死といふものは、はたしてあるので
あらうか。

三島由紀夫「葉隠入門」より

382:無名草子さん
11/01/12 17:57:57 .net
人間が国家の中で生を営む以上、そのやうな正しい目的だけに向かつて自分を限定することができるであらうか。
またよし国家を前提にしなくても、まつたく国家を超越した個人として生きるときに、自分一人の力で人類の
完全に正しい目的のための死といふものが、選び取れる機会があるであらうか。そこでは死といふ絶対の観念と、
正義といふ地上の現実の観念との齟齬が、いつも生ぜざるをえない。そして死を規定するその目的の正しさは、
また歴史によつて十年後、数十年後、あるひは百年後、二百年後には、逆転し訂正されるかもしれないのである。
「葉隠」は、このやうな煩瑣な、そしてさかしらな人間の判断を、死とは別々に置いていくといふことを考へてゐる。
なぜなら、われわれは死を最終的に選ぶことはできないからである。だからこそ「葉隠」は、生きるか死ぬかと
いふときに、死ぬことをすすめてゐるのである。それはけつして死を選ぶことだとは言つてゐない。なぜならば、
われわれにはその死を選ぶ基準がないからである。

三島由紀夫「葉隠入門」より

383:無名草子さん
11/01/12 18:08:05 .net
われわれが生きてゐるといふことは、すでに何ものかに選ばれてゐたことかもしれないし、生がみづから
選んだものでない以上、死もみづから最終的に選ぶことができないのかもしれない。
では、生きてゐるものが死と直面するとは何であらうか。「葉隠」はこの場合に、ただ行動の純粋性を提示して、
情熱の高さとその力を肯定して、それによつて生じた死はすべて肯定している。それを「犬死などといふ事は、
上方風の打ち上りたる武道」だと呼んでゐる。死について「葉隠」のもつとも重要な一節である。「武士道といふは、
死ぬ事と見付けたり」といふ文句は、このやうな生と死のふしぎな敵対関係、永久に解けない矛盾の結び目を、
一刀をもつて切断したものである。「図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。
二つ二つの場にて、図に当ることのわかることは、及ばざることなり」
図に当たるとは、現代のことばでいへば、正しい目的のために正しく死ぬといふことである。その正しい
目的といふことは、死ぬ場合にはけつしてわからないといふことを「葉隠」は言つてゐる。

三島由紀夫「葉隠入門」より

384:無名草子さん
11/01/12 18:08:48 .net
「我人、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし」、生きてゐる人間にいつも理屈がつくのである。
そして生きてゐる人間は、自分が生きてゐるといふことのために、何らかの理論を発明しなければならないのである。
したがつて「葉隠」は、図にはづれて生きて腰ぬけになるよりも、図にはづれて死んだはうがまだいいといふ、
相対的な考へ方をしか示してゐない。「葉隠」は、けつして死ぬことがかならず図にはづれないとは言つてゐない
のである。ここに「葉隠」のニヒリズムがあり、また、そのニヒリズムから生まれたぎりぎりの理想主義がある。
われわれは、一つの思想や理論のために死ねるといふ錯覚に、いつも陥りたがる。しかし「葉隠」が示してゐるのは、
もつと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さへも、人間の死としての尊厳を持つてゐるといふことを
主張してゐるのである。もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじない
わけにいくだらうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。

三島由紀夫「葉隠入門」より

385:無名草子さん
11/01/26 23:06:47 .net
桜田門外の変は、徳川幕府の権威失墜の一大転機であつた。十八列士のうち、ただ一人の薩摩藩士としてこれに
加はり、自ら井伊大老の首級をあげ、重傷を負うて自刃した有村次左衛門は、そのとき二十三歳だつた。(中略)
維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、
国家変革の情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。
そこへ行くと、国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。
かれらの言葉づかひは、全然大和言葉ではない。又、あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、
コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである。あんなものをカッコイイと思つてゐる青年は、
すでに日本人らしい美意識を失つてゐる。いはゆる「解放区」の中は、紙屑だらけで、不潔をきはめ、
神州清潔の民はとてもあんな解放区に住めたものではないから、きつと外国人を住まはせるための地域を
解放区といふのであらう。

三島由紀夫「維新の若者」より

386:無名草子さん
11/01/30 10:56:28 .net
鉄の性質はまことにふしぎで、少しづつその重量を増すごとに、あたかも秤のやうに、その一方の秤皿の上に
置かれた私の筋肉の量を少しづつ増してくれるのだつた。まるで鉄には、私の筋肉との間に、厳密な平衡を保つ
義務があるかのやうだつた。そして少しづつ私の筋肉の諸性質は、鉄との類似を強めて行つた。この徐々たる経過は、
次第に難しくなる知的生産物を脳髄に与へることによつて、脳を知的に改造してゆくあの「教養」の過程に
すこぶる似てゐた。そして外的な、範例的な、肉体の古典的理想形がいつも夢みられてをり、教養の終局の目的が
そこに存する点で、それは古典主義的な教養形成によく似てゐたのである。
しかし、本当は、どちらがどちらに似てゐたのであらうか? 私はすでに言葉を以て、肉体の古典的形姿を模さうと
試みてゐたではないか。私にとつては、美はいつも後退りをする。かつて在つた、あるひはかつて在るべきで
あつた姿しか、私にとつては重要でない。鉄塊は、その微妙な変化に富んだ操作によつて、肉体のうちに失はれ
かかつてゐた古典的均衡を蘇らせ、肉体をあるべきであつた姿に押し戻す働らきをした。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

387:無名草子さん
11/01/30 10:56:54 .net
私は鉄を介して、筋肉に関するさまざまなことを学んだ。それはもつとも新鮮な知識であり、書物も世故も決して
与へてくれることのない知識であつた。筋肉は、一つの形態であると共に力であり、筋肉組織のおのおのは、
その力の方向性を微妙に分担し、あたかも肉で造り成された光りのやうだつた。
力を内包した形態といふ観念ほど、かねて私が心に描いてゐた芸術作品の定義として、ふさはしいものはなかつた。
そしてそれが光り輝やいた「有機的な」作品でなければならぬ、といふこと。
さうして作られた筋肉は、存在であることと作品であることを兼ね、逆説的にも、一種の抽象性をすら帯びてゐた。


言語芸術の栄光ほど異様なものはない。それは一見普遍化を目ざしながら、実は、言葉の持つもつとも本源的な機能を、
すなはちその普遍妥当性を、いかに精妙に裏切るか、といふところにかかつてゐる。文学における文体の勝利とは、
そのやうなものを意味してゐるのである。古代の叙事詩の如き綜合的な作品は別として、かりにも作者の名の
冠せられた文学作品は、一つの美しい「言語の変質」なのであつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

388:無名草子さん
11/01/31 12:53:47 .net
みんなの見る青空、神輿の担ぎ手たちが一様に見るあの神秘な青空については、そもそも言語表現が可能なので
あらうか?
私のもつとも深い疑問がそこにあつたことは前にも述べたとほりであり、鉄を介して、私が筋肉の上に見出したものは、
このやうな一般性の栄光、「私は皆と同じだ」といふ栄光の萌芽である。鉄の苛酷な圧力によつて、筋肉は徐々に、
その特殊性や個性(それはいづれも衰退から生じたものだ)を失つてゆき、発達すればするほど、一般性と普遍性の
相貌を帯びはじめ、つひには同一の雛型に到達し、お互ひに見分けのつかない相似形に達する筈なのである。
その普遍性はひそかに蝕まれてもゐず、裏切られてもゐない。これこそ私にとつてもつとも喜ばしい特性と言へる
ものだつた。
そこに、これほど目にも見え、手にも触れられる筋肉といふものの、独自の抽象性がはじまるのである。(中略)
筋肉はわれわれが通例好加減に信じてゐる存在の感覚を噛み砕き、それを一つの透明な力の感覚に変へてしまつてゐた。
これこそ私が、その抽象性と呼ぶところのものである。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

389:無名草子さん
11/01/31 12:54:04 .net
私の筋肉が徐々に鉄との相似を増すやうに、われわれは世界によつて造られてゆくのであるが、鉄も世界も
それ自身存在感覚を持つてゐる筈もないのに、愚かな類推から、しらずしらず鉄や世界も存在感覚を持つてゐるやうに
われわれは錯覚してしまふ。(中略)かくてわれわれの存在感覚は対象を追ひ求め、いつはりの相対的世界にしか
住むことができないのである。


筋肉は鉄を離れたとき絶対の孤独に陥り、その隆々たる形態は、ただ鉄の歯車と噛み合ふやうに作られた歯車の形に
すぎぬと感じられた。涼風の一過、汗の蒸発、……それと共に消える筋肉の存在。……しかし、筋肉はこのとき
もつとも本質的な働らきをし、人々の信じてゐるあいまいな相対的な存在感覚の世界を、その見えない逞しい歯列で
噛み砕き、何ら対象の要らない、一つの透明無比な力の純粋感覚に変へるのである。もはやそこには筋肉すら
存在せず、私は透明な光りのやうな、力の感覚の只中にゐた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

390:無名草子さん
11/02/01 11:53:42 .net
想像力といふ言葉によつて、いかに多くの怠け者の真実が容認されてきたことであらうか。肉体をそのままにして、
魂が無限に真実に近づかうと逸脱する不健全な傾向を、想像力といふ言葉が、いかに美化してきたことであらうか。
他人の肉体の痛みをわが痛みの如く感ずるといふ、想像力の感傷的側面のおかげで、人はいかに自分の肉体の痛みを
避けてきたことであらうか。又、精神的な苦悩などといふ、価値の高低のはなはだ測りにくいものを、想像力が
いかに等しなみに崇高化してきたことであらうか。そして、このやうな想像力の越権が、芸術家の表現行為と
共犯関係を結ぶときに、そこに作品といふ一つの「物」の擬制が存在せしめられ、かうした多数の「物」の介在が、
今度は逆に現実を歪め修正してきたのである。その結果は、人々はただ影にしか接触しないやうになり、自分の
肉体の痛みと敢て親しまないやうになるであらう。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

391:無名草子さん
11/02/01 11:54:10 .net
拳の一閃、竹刀の一打の彼方にひそんでゐるものが、言語表現と対極にあることは、それこそは何かきはめて
具体的なもののエッセンス、実在の精髄と感じられることからもわかつた。それはいかなる意味でも影ではなかつた。
拳の彼方、竹刀の剣尖の彼方には、絶対に抽象化を拒否するところの、(ましてや抽象化による具象表現を全的に
拒否するところの)、あらたかな実在がぬつと頭をもたげてゐた。
そこにこそ行動の精髄、力の精髄がひそんでゐると思はれたが、それといふのも、その実在はごく簡単に「敵」と
呼ばれてゐたからである。


拳の一閃、竹刀の一打のさきの、何もない空間にひそんで、じつとこちらを見返すところの、敵こそは「物」の
本質なのであつた。イデアは決して見返すことがなく、物は見返す。言語表現の彼方には、獲得された擬制の
物(作品)を透かしてイデアが揺曳し、行動の彼方には、獲得された擬制の空間(敵)を透かして物が揺曳する筈だ。
そしてその物とは、行動家にとつて、想像力の媒介なしに接近を迫られるところの死の姿であり、いはば闘牛士に
とつての黒い牡牛なのだ。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

392:無名草子さん
11/02/01 11:55:03 .net
あらゆる英雄主義を滑稽なものとみなすシニシズムには、必ず肉体的劣等感の影がある。英雄に対する嘲笑は、
肉体的に自分が英雄たるにふさはしくないと考へる男の口から出るに決まつてゐる。(中略)私はかつて、彼自身も
英雄と呼ばれてをかしくない肉体的資格を持つた男の口から、英雄主義に対する嘲笑がひびくのをきいたことがない。
シニシズムは必ず、薄弱な筋肉か過剰な脂肪に関係があり、英雄主義と強大なニヒリズムは、鍛へられた筋肉と
関係があるのだ。なぜなら英雄主義とは、畢竟するに、肉体の原理であり、又、肉体の強壮と死の破壊との
コントラストに帰するからであつた。


肉体を用ひて究極感覚を追求しようとするときに勝利の瞬間はつねに感覚的に浅薄なものでしかなかつた。
敵とは、「見返す実在」とは、究極的には死に他ならない。誰も死に打ち克つことができないとすれば、勝利の
栄光とは、純現世的な栄光の極致にすぎない。そのやうな純現世的な栄光ならば、われわれは言語芸術の力を
以てしても、多少類似のものを獲得できないわけではない。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

393:無名草子さん
11/02/01 11:55:19 .net
私は言葉とどのやうにして附合つてきたであらうか。
すでに私は私の文体を私の筋肉にふさはしいものにしてゐたが、それによつて文体は撓(しな)やかに自在になり、
脂肪に類する装飾は剥ぎ取られ、筋肉的な装飾、すなはち現代文明の裡では無用であつても、威信と美観のためには
依然として必要な、さういふ装飾は丹念に維持されてゐた。私は単に機能的な文体といふものを、単に感覚的な
文体と同様に愛さなかつた。(中略)
もちろんそれは日に日に時代の好尚から背いて行つた。私の文体は対句に富み、古風な堂々たる重味を備へ、
気品にも欠けてゐなかつたが、どこまで行つても式典風な壮重な歩行を保ち、他人の寝室をもその同じ歩調で
通り抜けた。私の文体はつねに軍人のやうに胸を張つてゐた。そして、背をかがめたり、身を斜めにしたり、
膝を曲げたり、甚だしいのは腰を振つたりしてゐる他人の文体を軽蔑した。
姿勢を崩さなければ見えない真実がこの世にはあることを、私とて知らぬではない。しかしそれは他人に委せて
おけばすむことだつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

394:無名草子さん
11/02/01 15:04:10 .net
軽々しく予言はしてはならない。予言した本人が窮地に立たされる

395:無名草子さん
11/02/01 17:27:20 .net
私は何より敗北を嫌つた。自分が侵蝕され、感受性の胃液によつて内側から焼けただれ、つひには輪郭を失ひ、融け、
液化してしまふこと、又自分をめぐる時代と社会とがさうなつてしまふこと、それに文体を合せてゆくほどの敗北が
あるだらうか。
芸術作品といふものは、皮肉なことに、そのやうな敗北と、精神の死の只中から、傑作を成就することがあるのは
よく知られてゐる。一歩しりぞいて、この種の傑作を芸術の勝利とみとめるにしても、それは戦ひなき勝利であり、
芸術独特の不戦勝なのであつた。私が求めるのは、勝つにせよ、負けるにせよ、戦ひそのものであり、戦はずして
敗れることも、ましてや、戦はずして勝つことも、私の意中にはなかつた。一方では、私は、あらゆる戦ひと
いふものの、芸術における虚偽の性質を知悉してゐた。もしどうしても私が戦ひを欲するなら、芸術においては
砦を防衛し、芸術外において攻撃に出なければならぬ。芸術においてはよき守備兵であり、芸術外においては
よき戦士でなければならぬ。私の生活の目標は、戦士としてのくさぐさの資格を取得することに向けられた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

396:無名草子さん
11/02/01 17:33:53 .net
死に対する燃えるやうな希求が、決して厭世や無気力と結びつかずに、却つて充溢した力や生の絶頂の花々しさや
戦ひの意志と結びつくところに「武」の原理があるとすれば、これほど文学の原理に反するものは又とあるまい。
「文」の原理とは、死は抑圧されつつ私(ひそ)かに動力として利用され、力はひたすら虚妄の構築に捧げられ、
生はつねに保留され、ストックされ、死と適度にまぜ合はされ、防腐剤を施され、不気味な永生を保つ芸術作品の
制作に費やされることであつた。むしろかう言つたらよからう。「武」とは花と散ることであり、「文」とは
不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の花とはすなはち造花である。
かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求、および
その欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであつた。そこで何が起るか? 一方が実体であれば他方は
虚妄であらざるをえぬこの二つのもの、その双方の本質に通暁し、その源泉を知悉し、その秘密に与るとは、
一方の他方に対する究極的な夢をひそかに破壊することなのだ。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

397:無名草子さん
11/02/01 17:34:23 .net
生きてゐるあひだは、しかしわれわれは、どのやうな認識とも戯れることができる。それはスポーツにおける
刻々の死と、それからのよみがへりの爽やかさが証明してゐる。たえず破滅に瀕しつつ得られる均衡こそが、
認識上の勝利なのだ。
私の認識はいつも欠伸をしてゐたから、よほど困難な、ほとんど不可能な命題に対してしか、興味を示さぬやうに
なつてゐた。といふよりもむしろ、認識が認識自体を危ふくするやうな危険なゲームにしか惹かれなくなつたのである。
そしてそのあとの爽快なシャワーにしか。
かつて私は、胸囲一メートル以上の男は、彼を取り巻く外界について、どういふ感じ方をするものかといふことに、
一つの認識の標的を宛ててゐた。それは認識にとつて明らかに手にあまる課題であつた。(中略)
―しかし、突然、あらゆる幻想は消えた。退屈してゐる認識は不可解なもののみを追ひ求め、のちに、突然、
その不可解は瓦解し、……胸囲一メートル以上の男は私だつたのである。
かつて向う岸にゐたと思はれた人々は、もはや私と同じ岸にゐるやうになつた。すでに謎はなく、謎は死だけにあつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

398:無名草子さん
11/02/03 11:19:49 .net
永遠に想像力に属する唯一のものこそ、すなはち死であつた。
しかし、どうちがふのか? 夜襲を仕掛けてくる病的な想像力、あの官能的な、放恣な感覚的惑溺をもたらす想像力の
淵源が、すべて死にあるとすれば、栄光ある死とその死とはどうちがふのか? 浪漫的な死と、頽廃的な死とは
どうちがふのか? 文武両道の苛酷な無救済は、それらが畢竟同じものだと教へるであらう。そして、文学上の倫理も、
行動の倫理も、死と忘却に抗ふためのはかない努力にすぎぬと教へるであらう。


男とは、ふだんは自己の客体化を絶対に容認しないものであつて、最高の行動を通してのみ客体化され得るが、
それはおそらく死の瞬間であり、実際に見られなくても「見られる」擬制が許され、客体としての美が許されるのは、
この瞬間だけなのである。特攻隊の美とはかくの如きものであり、それは精神的にのみならず、男性一般から、
超エロティックに美と認められる。しかもこの場合の媒体をなすものは、常人の企て及ばぬ壮烈な英雄的行動なので
あり、従つてそこには無媒介の客体化は成り立たない。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

399:無名草子さん
11/02/03 11:20:09 .net
私にとつて、時が回収可能だといふことは、直ちに、かつて遂げられなかつた美しい死が可能になつたといふことを
意味してゐた。あまつさへ私はこの十年間に、力を学び、受苦を学び、戦ひを学び、克己を学び、それらすべてを
喜びを以て受け入れる勇気を学んでゐた。
私は戦士としての能力を夢みはじめてゐたのである。


……私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、人が危機と呼ぶところのものと同じ地点にあるのかもしれない。
言葉を介さずに私が融合し、そのことによつて私が幸福を感じる世界とは、とりもなほさず、悲劇的世界であつた
からである。もちろんその瞬間にはまだ悲劇は成就されず、あらゆる悲劇的因子を孕み、破滅を内包し、確実に
「未来」を欠いた世界。そこに住む資格を完全に取得したといふ喜びが、明らかに私の幸福の根拠だつた。
そのパスポートを言葉によつてではなく、ただひたすら肉体的教養によつて得たと感じることが、私の矜りの
根拠だつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

400:無名草子さん
11/02/03 11:34:17 .net
そこでだけ私がのびやかに呼吸をすることのできる世界、完全に日常性を欠き、完全に未来を欠いた世界、
それこそあの戦争がをはつた時以来、たえず私が灼きつくやうな焦燥を以て追ひ求めてゐたものであつたが、
言葉は決して私にこれを与へなかつたのみか、むしろそこから遠ざかるやうに遠ざかるやうにと私を鞭打つた。
なぜなら、どんな破滅的な言語表現も、芸術家の「日々の仕事(ターゲヴェルク)」に属してゐたからである。
何といふ皮肉であらう。そもそもそのやうな、明日といふもののない、大破局の熱い牛乳の皮がなみなみと
湛へられた茶碗の縁を覆うてゐたあの時代には、私はその牛乳を呑み干す資格を与へられてゐず、その後の永い
練磨によつて、私が完全に資格を取得して還つて来たときには、すでに牛乳は誰かに呑み干されたあとであり、
冷えた茶碗は底をあらはし、私はすでに四十歳を超えてゐたのだつた。そして困つたことに、私の渇を癒やすことの
できるものは、誰かがすでに呑んでしまつたその熱い牛乳だけなのだ。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

401:無名草子さん
11/02/03 11:34:33 .net
「来(きた)るべき戦争」といふ厖大な仮構へすべてが捧げられ、訓練計画は周到に編まれ、兵士たちは精励し、
そして何事も起らぬ空無は日々進行し、きのふ最上の状態にあつた肉体は、今日かすかに衰退し、老いはつぎつぎと
整理され、若さは小止みなく補給されてゐた。
私は今さらながら、言葉の真の効用を会得した。言葉が相手にするものこそ、この現在進行形の虚無なのである。
いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終るともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのである。(中略)
言葉は言はれたときが終りであり、書かれたときが終りである。その終りの集積によつて、生の連続性の一刻一刻の
断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する。(中略)
終らせる、といふ力が、よしそれも亦仮構にもせよ、言葉には明らかに備はつてゐた。死刑囚の書く長たらしい手記は、
およそ人間の耐へることの限界を越えた永い待機の期間を、刻々、言葉の力で終らせようとする咒術なのだ。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

402:無名草子さん
11/02/04 11:23:03 .net
われわれは「絶対」を待つ間の、つねに現在進行の虚無に直面するときに、何を試みるかの選択の自由だけが
残されてゐる。いづれにせよ、われわれは準備せねばならぬ。この準備が向上と呼ばれるのは、多かれ少なかれ、
人間の中には、やがて来るべき未見の「絶対」の絵姿に、少しでも自分が似つかはしくなりたいといふ哀切な望みが
ひそんでゐるからであらう。もつとも自然で公明な欲望は、自分の肉体も精神も、ひさしくその絶対の似姿に
近づきたいとのぞむことであらう。
しかし、この企図は、必ず、全的に失敗するのだ。なぜなら、どんな劇烈な訓練を重ねても、肉体は必ず徐々に
衰退へ向ひ、どんなに言葉による営為を積み重ねても、精神は「終り」を認識しないからである。言葉がなしくづしに
終わらせるので、すでに言葉によつて生の連続感を失つてゐる精神には、真の終りの見分けがつかないのである。
この企図の挫折と失敗を司るものこそ「時」であるが、ごく稀に「時」は恩寵を垂れて、この企図を、挫折と失敗から
救出することがある。それが夭折といふものの神秘的な意味であり、ギリシア人はそれを神々に愛された者と呼んで
羨んだのであつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

403:無名草子さん
11/02/04 11:25:19 .net
あのころの、十七歳の私を無知と呼ばうか? いや、決してそんなことはない。私はすべてを知つてゐたのだ。
十七歳の私が知つてゐたことに、その後四半世紀の人生経験は何一つ加へはしなかつた。ただ一つのちがひは、
十七歳の私がリアリズムを所有しなかつたといふことだけだ。
もしもう一度あの夏の水浴のやうに私を快く涵してゐた全知へ還ることができたらどんなによからう。


七生報国や必敵撃滅や死生一如や悠久の大義のやうに、言葉すくなに誌された簡潔な遺書は、明らかに幾多の
既成概念のうちからもつとも壮大もつとも高貴なものを選び取り、心理に類するものはすべて抹殺して、ひたすら
自分をその壮麗な言葉に同一化させようとする矜りと決心をあらはしてゐた。
もちろんかうして書かれた四字の成句は、あらゆる意味で「言葉」であつた。しかし既成の言葉とはいへ、それは
並大抵の行為では達しえない高みに、日頃から飾られてゐる格別の言葉だつた。今は失つたけれども、かつて
われわれはそのやうな言葉を持つてゐたのである。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

404:無名草子さん
11/02/04 11:49:22 .net
肉体が未来の衰退へ向つて歩むとき、そのはうへついて行かずに、肉体に比べればはるかに盲目で頑固な精神に
黙つてついて行き、果てはそれにたぶらかされる人々と同じ道を、私は歩きたいとは思はなかつた。
何とか私の精神に再び「終り」を認識させねばならぬ。そこからすべてがはじまるのだ。そこにしか私の真の
自由の根拠がありえぬことは明らかだつた。言葉の誤用によつてことさら全知を避けてゐた少年時代の、あの夏の
さはやかな水浴を思ひ出させる全知の水にふたたび涵つて、今度は水ごと表現してみせなくてはならぬ。
復帰が不可能だといふことは、人に言はれるまでもなく、わかりきつてゐる。しかしその不可能は私の認識の退屈を
刺戟し、もはや不可能にしかよびさまされぬ認識の活力は、自由に向つて夢みてゐたのである。
文学による自由、言葉による自由といふものの究極の形態を、すでに私は肉体の演ずる逆説の中に見てゐたのだつた。
とまれ、私の逸したのは死ではなかつた。私のかつて逸したのは悲劇だつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

405:無名草子さん
11/02/04 11:50:31 .net
さて、私の幼時の直感、集団といふものは肉体の原理にちがひないといふ直感は正しかつた。今にいたるまで、
この直感を革める必要を私は感じたことがない。後年、私が「肉体のあけぼの」と呼んでゐるところの、肉体の
激しい行使と死なんばかりの疲労の果てに訪れるあの淡紅色の眩暈を知るにいたつてから、はじめて私は集団の意味を
覚るやうになつたからである。(中略)
力の行使、その疲労、その汗、その涙、その血が、神輿担ぎの等しく仰ぐ、動揺常なき神聖な青空を私の目に見せ、
「私は皆と同じだ」といふ栄光の源をなすことに気づいたとき、すでに私は、言葉があのやうに私を押し込めて
ゐた個性の閾を踏み越えて、集団の意味に目ざめる日の来ることを、はるかに予見してゐたのかもしれない。
(中略)紙に書かれようと、叫ばれようと、集団の言葉は終局的に肉体的表現にその帰結を見出す。それは密室の
孤独から、遠い別の密室の孤独への、秘められた伝播のための言葉ではなかつた。集団こそは、言葉といふ媒体を
終局的に拒否するところの、いふにいはれぬ「同苦」の概念にちがひなかつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

406:無名草子さん
11/02/04 11:52:15 .net
肉体は集団により、その同苦によつて、はじめて個人によつては達しえない或る肉の高い水位に達する筈であつた。
そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の液化が必要だつた。のみならず、たえず安逸と放埒と
怠惰へ沈みがちな集団を引き上げて、ますます募る同苦と、苦痛の極限の死へみちびくところの、集団の悲劇性が
必要だつた。集団は死へ向つて拓かれてゐなければならなかつた。私がここで戦士共同体を意味してゐることは
云ふまでもあるまい。
早春の朝まだき、集団の一人になつて、額には日の丸を染めなした鉢巻を締め、身も凍る半裸の姿で、駈けつづけて
ゐた私は、その同苦、その同じ懸声、その同じ歩調、その合唱を貫ぬいて、自分の肌に次第ににじんで来る汗のやうに、
同一性の確認に他ならぬあの「悲劇的なもの」が君臨してくるのをひしひしと感じた。それは凛烈な朝風の底から
かすかに芽生えてくる肉の炎であり、さう云つてよければ、崇高さのかすかな萌芽だつた。「身を挺してゐる」と
いふ感覚は、筋肉を躍らせてゐた。われわれは等しく栄光と死を望んでゐた。望んでゐるのは私一人ではなかつた。

三島由紀夫「太陽と鉄」より

407:無名草子さん
11/02/05 00:00:47 .net
私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが尾を嚥(の)みつづける
ことによつて鎮める蛇。すべての相反性に対する嘲笑をひびかせてゐる最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。
相反するものはその極致において似通ひ、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、ますます遠ざかることによつて
相近づく。蛇の環はこの秘義を説いてゐた。肉体と精神、感覚的なものと知的なもの、外側と内側とは、どこかで、
この地球からやや離れ、白い雲の蛇の環が地球をめぐつてつながる、それよりもさらに高方においてつながるだらう。
私は肉体の縁(へり)と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を寄せてきた人間だ。深淵には
興味がなかつた。深淵は他人に委せよう。なぜなら深淵は浅薄だからだ。深淵は凡庸だからだ。
縁の縁、そこには何があるのか。虚無へ向つて垂れた縁飾りがあるだけなのか。

三島由紀夫「太陽と鉄 エピロオグ―F104」より

408:無名草子さん
11/02/05 00:02:23 .net
人は地上で重い重力に押しひしがれ、重い筋肉に身を鎧つて、汗を流し、走り、撃ち、辛うじて跳ぶ。それでも
時として、目もくらむ疲労の暗黒のなかから、果然、私が「肉体のあけぼの」と呼んでゐるものが色めいて
くるのを見た。
人は地上で、あたかも無限に飛翔するかのやうな知的冒険に憂身をやつし、じつと机に向つて、精神の縁へ、
もつと縁へ、もつと縁へと、虚無への落下の危険を冒しながら、にじり寄らうとする。その時、(ごく稀にだが)、
精神も亦、それ自身の黎明を垣間見るのだ。
しかしこの二つが、決して相和することはない。お互ひに似通つてしまふことはなかつた。
(中略)
どこかでそれらはつながる筈だ。どこで?
運動の極みが静止であり、静止の極みが運動であるやうな領域が、どこかに必ずなくてはならぬ。
もし私が大ぶりに腕を動かす。そのとたんに私は知的な血液の幾分かを失ふのだ。もし私が打撃の寸前に少しでも
考へる。そのとたんに私の一打は失敗に終るのだ。
どこかでより高い原理があつて、この統括と調整を企ててゐなければならぬ筈だつた。
私はその原理を死だと考へた。

三島由紀夫「太陽と鉄 エピロオグ―F104」より

409:無名草子さん
11/02/05 00:04:32 .net
しかし私は死を神秘的に考へすぎてゐた。死の簡明な物理的な側面を忘れてゐた。
地球は死に包まれてゐる。空気のない上空には、はるか地上に、物理的条件に縛められて歩き回る人間を眺め
下ろしながら、他ならぬその物理的条件によつてここまでは気楽に昇れず、したがつて物理的に人を死なすこと
きはめて稀な、純潔な死がひしめいてゐる。人が素面で宇宙に接すればそれは死だ。宇宙に接してなほ生きるためには、
仮面をかぶらねばならない。酸素マスクといふあの仮面を。
精神や知性がすでに通ひ馴れてゐるあの息苦しい高空へ、肉体を率いて行けば、そこで会ふのは死かもしれない。
精神や知性だけが昇つて行つても、死ははつきりした顔をあらはさない。そこで精神はいつも満ち足りぬ思ひで、
しぶしぶと、地上の肉体の棲家へ舞ひ戻つて来る。彼だけが昇つて行つたのでは、つひに統一原理は顔をあらはさない。
二人揃つて来なくては受け容れられぬ。
私はまだあの巨大な蛇に会つてゐなかつた。

三島由紀夫「太陽と鉄 エピロオグ―F104」より


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