□■□評論家・三島由紀夫■□■at BOOKS
□■□評論家・三島由紀夫■□■ - 暇つぶし2ch250:無名草子さん
10/10/14 20:44:23 .net
芸術家が自分の美徳に殉ずることは、悪徳に殉ずることと同じくらいに、云ひやすくして
行ひ難いことだ。

三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」より


「ぜいたくを言ふもんぢやない」 などと芸術家に向つて言つてはならない。ぜいたくと
無い物ねだりは芸術家の特性であつて、それだけが芸術(革命)を生むと信じられてゐる。

三島由紀夫「不満と自己満足―『もつとよこせ』運動もわが国の繁栄に一役」より


文人の倖は、凡百の批評家の讃辞を浴びることよりも、一人の友情に充ちた伝記作者を
死後に持つことである。しかもその伝記作者が詩人であれば、倖はここに極まる。

三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より

251:無名草子さん
10/10/14 20:44:39 .net
人間が為し得る発見は、あらゆる場合、宇宙のどこかにすでに完成されてゐるもの―
すでに完全な形に用意されてゐるものの模写にすぎない。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より


日本の詩文とは、句読も漢字もつかはれないべた一面の仮名文字のなかに何ら別して
意識することなく神に近い一行がはさまれてゐること、古典のいのちはかういふところに
はげしく煌めいてゐること、さうして真の詩人だけが秘されたる神の一行を書き得ること、
かういふことだけを述べておけばよい。

平岡公威(三島由紀夫)17歳「伊勢物語のこと」より

252:無名草子さん
10/10/14 20:45:08 .net
この地上で自分の意欲を実現する方式に二つはないのではないか? 芸術も政治も、
その方式に於ては一つなのではないか? だからこそ、芸術と政治はあんなにも仲が
悪いのではないか?


ラヂウムを扱ふ学者が、多かれ少なかれ、ラヂウムに犯されるやうに、身自ら人間で
ありながら、人生を扱ふ芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。
…人間の心とは、本来人間自身の扱ふべからざるものである。従つてその扱ひには常に
危険が伴ひ、その結果、彼自身の心が、自分の扱ふ人間の心によつて犯される。犯された末には、
生きながら亡霊になるのである。そして、医療や有効な目的のために扱はれるラヂウムが、
それを扱ふ人間には有毒に働くやうに、それ自体美しい人生や人間の心も、それを扱ふ人間には、
いつのまにか怖ろしい毒になつてゐる。多少ともかういふ毒素に犯されてゐない人間は、
芸術家と呼ぶに値ひしない。

三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論」より

253:無名草子さん
10/10/15 06:11:00 .net
これは動いている小説である。動いて、動いて、時々おどろくほど鮮明な映像があらわれながら、却って現実の謎は深まってゆく。
たえざるサスペンス、そして卓抜な会話が社会の投影図法を描き、
犯罪の匂いと、尾行と襲撃と、……その結果、イリュージョンがついに現実に打ち克ち、
そこから見た現実自体の構造が、突然すみずみまで明晰になる。
ラストのモノロオグが、この小説の怖ろしい解決篇であり、作品全体の再構築であるところに一篇の主題がこもっている。
失踪者の前にのみ、未来が姿をあらわすのだ。
安倍氏がその小説の中に、会話の天才をみごとに活かし、
「砂の女」よりも「他人の顔」よりも、はるかに迅速に疾走してみせた小説である。

三島由紀夫「安部公房『燃えつきた地図』について」より


254:無名草子さん
10/10/16 23:50:46 .net
一旦身に受けた醜聞はなかなか払ひ落とせるものではない。たとへ醜聞が事実とちがつて
ゐても、醜聞といふものは、いかにも世間がその人間について抱いてゐるイメージと
よく符合するやうにできてゐる。ましてその醜聞が、大して致命的なものではなく、
人々の好奇心をそそつたり、人々に愛される原因になつたりしてゐるときには尚更である。
かくて醜聞はそのまま神話に変身する。


微笑は、ノー・コメントであり、「判断停止」「分析停止」の要請である。こんなことは
社会生活では当たり前のことで、日本のやうに個人主義の発達しない社会では、微笑が
個人の自由を守つてきたのである。しかもそれは礼儀正しさの要請にも叶つてゐる。

三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より

255:無名草子さん
10/10/16 23:51:09 .net
日本の伝統は大てい木と紙で出来てゐて、火をつければ燃えてしまふし、放置(はふ)つて
おけば腐つてしまふ。伊勢の大神宮が二十年毎に造り替へられる制度は、すでに千年以上の
歴史を持ち、この間五十九回の遷宮が行はれたが、これが日本人の伝統といふものの考へ方を
よくあらはしてゐる。西洋ではオリジナルとコピイとの間には決定的な差があるが、
木造建築の日本では、正確なコピイはオリジナルと同価値を生じ、つまり次のオリジナルに
なるのである。京都の有名な大寺院も大てい何度か火災に会つて再建されたものである。
かくて伝統とは季節の交代みたいなもので、今年の春は去年の春とおなじであり、去年の
秋は今年の秋とおなじである。

三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より

256:無名草子さん
10/10/16 23:51:38 .net
どの国も自分の国のことだけで一杯で、日本みたいに好奇心のさかんな国はどこにもない。
…なかんづく好奇心の皆無におどろかされるのはフランスで、あの唯我独尊の文化的優越感は
支那に似てゐる。


「古橋はすばらしいですね、僕たちとても古橋を尊敬しているんです」
私は源氏物語の日本を尊敬してゐるなんぞとどこかの国のインテリに云はれるより、
他ならぬギリシアの子供にかう云はれたことのはうをよほど嬉しく感じた。競技の優勝者を
尊敬した古代ギリシアの風習が、子供たちの心に残つてをり、しかもわが日本が、
(古代ギリシアには、水泳競技はなかつたと思はれるが)、古代ギリシアの競技会に
参加して、優勝者を出したやうな気がしたのである。かういふ端的なスポーツの勝利が、
いかに世界をおほつて、世界の子供たちの心を動かすかに、私は併せて羨望を禁じえなかつた。
事実、われわれの精神の仕事も、もし人より一センチ高く飛ぶとか、一秒速く走るか
とかいふ問題をバカにすれば、殆んどその存在理由を失ふであらう。

三島由紀夫「日本の株価―通じる日本語」より

257:無名草子さん
10/10/18 11:02:13 .net
同じアメリカぎらひでも、フランスのそれと日本のそれとの間には、大きな相違がある。
フランスのアメリカぎらひは、自分の下手な似顔を描いた絵描きに対する憎悪のやうなものである。


ニュースの功罪について、僕はいろいろと考へざるをえなかつた。どこの国でも知識階級は
疑り深くて、新聞に書いてあることを一から十まで信じはしない。信じるのは民衆である。
しかし或る非常の事態にいたると、知識階級の観念性よりも、民衆の直感のはうが、
ニュースを超えて、事態の真実を見抜いてしまふ。かれらは自分の生活の場に立つて、
蟻が洪水を予感するやうに、しづかに触角をうごめかして現実を測つてゐる。真実な
デマゴオグ(煽動者)といふものが、かうして起る。敗戦間近い日本に起つたやうな
あの民衆の本能的不信は、古代にもたびたび起つた。民衆のあひだにいつのまにか
歌はれはじめる童謡が、何らかの政治的変革の前兆と考へられたのには、理由がある。

三島由紀夫「遠視眼の旅人」より

258:無名草子さん
10/10/18 11:02:34 .net
映像はいつも映画作家の意志に屈服するとは限らぬことは、言葉がいつも小説家の意志に
屈服するとは限らぬと同じである。映像も言葉も、たえず作家を裏切る。


われわれの古典文学では、紅葉(もみぢ)や桜は、血潮や死のメタフォアである。
民族の深層意識に深くしみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を
数百年に亘つてつづけて来たので、歴史の変遷は、ただこの観念聯合の秤のどちらかに、
重みをかけることでバランスを保つてきた。戦争中のやうに多すぎる血潮や死の時代には、
人々の心は紅葉や桜に傾き、伝統的な美的形象で、直接の生理的恐怖を消化した。
今日のやうに泰平の時代には、秤が逆に傾いて、血潮や死自体に、観念的美的形象を
与へがちになるのは、当然なことである。かういふことは近代輸入品のヒューマニズムなどで
解決する問題ではない。

三島由紀夫「残酷美について」より

259:無名草子さん
10/10/18 11:02:58 .net
歌には残酷な抒情がひそんでゐることを、久しく人々は忘れてゐた。古典の桜や紅葉が、
血の比喩として使はれてゐることを忘れてゐた。月や雁や白雲や八重霞や、さういふものが
明白な肉感的世界の象徴であり、なまなましい肉の感動の代置であることを忘れてゐた。
ところで、言葉は、象徴の機能を通じて、互(かた)みに観念を交換し、互みに呼び合ふ
ものである。それならば血や肉感に属する残酷な言葉の使用は、失はれた抒情を、
やさしい桜や紅葉の抒情を逆に呼び戻す筈である。春日井氏の歌には、さういふ象徴言語の
復活がふんだんに見られるが、われわれはともあれ、少年の純潔な抒情が、かうした手続を
とつてしか現はれない時代に生きてゐる。

三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より


性と解放と牢獄との三つのパラドックスを総合するには芸術しかない。

三島由紀夫「恐ろしいほど明晰な伝記―澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』」より

260:無名草子さん
10/10/18 11:03:16 .net
肉といふものは、私には知性のはぢらひあるひは謙抑の表現のやうに思はれる。鋭い知性は、
鋭ければ鋭いほど、肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的な
ものである。精神の羞恥心が肉を身にまとはせる。それこそ完全な美しい芸術の定義である。
羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
ロダンの彫刻「考へる人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致してゐる。

三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より

261:無名草子さん
10/10/18 11:03:43 .net
生物は、いらいらの中で育ち、成長期に死に一等親近してゐるやうに感じ、さて、幸福感を
感じるときには、もう衰退の中にゐるのだ。


春といふ言葉は何と美しく、その実体は何とまとまりがなく不安定であらう。さうして
青春は思ひ出の中でのみ美しいとよく云ふけれど、少し記憶力のたしかな人間なら、
思ひ出の中の青春は大抵醜悪である。多分、春がこんなに人をいらいらさせるのは、
この季節があまりに真摯誠実で、アイロニイを欠いてゐるからであらう。あの春先の
まつ黄いろな突風に会ふたびに、私は、うるさい、まともすぎる誠実さから顔をそむけるやうに、
顔をそむけずにはゐられない。

三島由紀夫「春先の突風」より

262:無名草子さん
10/10/19 00:46:07 .net
青春といふものは明るいと思へば暗く、暗いと思へば明るく、自分がその渦中に在るあひだは
五里霧中でありながら、時経てかへりみると、村の教会の尖塔のやうにくつきりと日を受けて
輝やいてゐる。意味があると思へばあり、ないと思へばなく、生の激湍(げきたん)と
死の深淵とにふたつながら接し、野心と絶望を併せ蔵してゐる。ティボーデが、小説に
青年を書いて成功したものの少ないことを指摘してゐるのは、青春のかういふ特質に
よるのであらう。いはば深海魚が大気の中に引揚げられると変形されてしまふやうに、
青春の姿は、さういふ変形された形でしかとらへられぬものかもしれない。しかし青春も亦、
病気のやうに、一人一人がその中を生きるもので、いづれは治る病気ではあるけれど、
療法をあやまると、とりかへしのつかないことになる。

三島由紀夫「あとがき『青春をどう生きるか』」より

263:無名草子さん
10/10/19 00:46:36 .net
飛行機が美しく、自動車が美しいやうに、人体は美しい。女が美しければ、男も美しい。
しかしその美しさの性質がちがふのは、ひとへに機能がちがふからである。(中略)
機能に反したものが美しからう筈もなく、そこに残される手段は装飾美だけであるが、
文明社会では、男でも女でも、この機能美と装飾美の価値が巓倒してゐる。男の裸が
グロテスクなどといふ石原慎太郎の意見は、いかにも文明に毒された低級な俗見である。

三島由紀夫「機能と美」より


エロティシズムが本来、上はもつとも神聖なもの、下はもつとも卑賎なものまで、
自由につながつた生命の本質であることは、「古事記」を読めばよくわかることだが、
後世の儒教道徳が、その神聖なエロティシズムを忘れさせて、ただ卑賎なエロティシズムだけを、
日本人の心に与へつづけて来たのであつた。

三島由紀夫「バレエ『憂国』について」より

264:無名草子さん
10/10/19 00:47:08 .net
わが国中世の隠者文学や、西洋のアベラアルとエロイーズの精神愛などは肉体から精神への
いたましい堕落と思はれる。精神が肉体の純粋を模倣しようとしてゐる。宗教に於ては
「基督のまねび」それは愛においても肉体のまねびであつた。近代以後さらにその精神の
純粋すら失はれて今日見るやうな世界の悲劇のかずかずが眼前にある。

三島由紀夫「精神の不純」より


われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。


古代には運命が、中世には信仰が、近代には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。
ところが今では、政治以前には何ものも存在せず、政治は自然力の代弁者であり、
したがつて人間は、食あたりで床について下痢ばかりしてゐる無力な患者のやうに、
しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失してゐる。

三島由紀夫「天の接近―八月十五日に寄す」より

265:無名草子さん
10/10/19 00:47:32 .net
それがたとへどのやうな黄金時代であつても、その時代に住む人間は一様に、自分の
生きてゐる時代を「悪時代」と呼ぶ権利をもつてゐると私には考へられる。


あらゆる改革者には深い絶望がつきまとふ。しかし、改革者は絶望を言はないのである。
絶望は彼らの理想主義的情熱の根源的な力であるにもかかはらず、彼らの理想はその力の
根絶に向けられてゐるからである。


「絶望する者」のみが現代を全的に生きてゐる。絶望は彼らにとつて時代を全的に
生きようとする欲求であり、しかもこの絶望は生れながらに当然の前提として賦与へられた
ものではなく、偶発的なものである。なればこそかれらは「絶望」を口叫びつづける。
しかもこのやうな何ら必然性をもたない絶望が、彼らを在るが如く必然的に生きさせるのである。

三島由紀夫「美しき時代」より

266:無名草子さん
10/10/19 00:48:12 .net
人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は
選択後の問題にすぎません。道徳とはいつの場合も行為なんです。


自意識が強いから愛せないなんて子供じみた世迷ひ言で、愛さないから自意識がだぶついて
くるだけのことです。

三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より


すぐれた芸術作品はすべて自然の一部をなし、新らしく創られた自然に他ならない。


地球上の人類は、全く未知の人同志が同じ瞬間に必ず息を引き取つてゐるといふ当然すぎるほど
当然な現象を、見て見ぬふりをしてをります。


運命的な愛こそは、人々の社会や国家や民族相互の愛の母胎をなし象徴をなすものである。

三島由紀夫「情死について―やゝ矯激な議論―」より

267:無名草子さん
10/10/19 00:51:09 .net
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。


長い間続く親友同志の間には、必ず、外貌あるひは精神の、両性的対象がある。

三島由紀夫「女の友情について」より


文学に対する情熱は大抵春機発動期に生れてくるはしかのやうなものである。


われわれは人生を自分のものにしてしまふと、好奇心も恐怖もおどろきも喜びも忘れてしまふ。
思春期に於ては人生は夢みられる。われわれ生きることと夢みることと両方を同時に
やることができないのであるが、かういふ人間の不器用に思春期はまだ気づいてゐない。


思春期にある潔癖感は、多く自分を不潔だと考へることから生れてくる。かう考へることは
少年たちを安心させるが、それは自分がまだ人生から拒まれ排斥されてゐるといふ逆説的な
怠惰な安堵なのである。


思春期を殺してしまつた詩人といふものは考へられない。

三島由紀夫「文学に於ける春のめざめ」より

268:無名草子さん
10/10/20 12:40:45 .net
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、
選択である。


文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)
芸術作品になつてしまふ。


小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと
勝手であるが、技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ
無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。


理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、
愛は断じて理解ではない。


芸術家の才能には、理解力を滅殺する或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。

三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より

269:無名草子さん
10/10/20 12:41:12 .net
人間は自分一人でゐるときでさへ、自分に対して気取りを忘れない。


男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。


個性を超克するところにのみ生れる本当の美の領域では、虚栄心はほとんど用をなさない。
そこではただ献身だけが必要で、この美徳は芸術家と母性との共通点だ。

三島由紀夫「虚栄について」より


作家は末期の瞬間に自己自身になりきつた沈黙を味はふがために一生を語りつづけ喋りつづける。


安易に自己自身になりきれるかのやうな無数のわなからのがれるために、純粋な作家は
遠まはりを余儀なくされる。それも誰よりも遠い、一番遠い遠まはりを。―従つて
純粋な作家の方法論は、不純のかたまりでなければならぬ。さうでなければ、その純粋さは
贋ものである。一つの純粋さのために千の純粋さが犠牲にされねばならぬ。

三島由紀夫「極く短かい小説の効用」より

270:無名草子さん
10/10/20 12:41:29 .net
あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪と
なるのである。 犯罪、殊に殺人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが
見られ、犯人は人間の登場すべからざる「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて
罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて健康なものがある。

三島由紀夫「画家の犯罪―Pen, Pencil and Poison の再現」より


ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは
ナイーヴでなければ意味をなさない。


日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが
完全に払拭されないと芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふが
よいのである。演劇とはスキャンダルだ。

三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より

271:無名草子さん
10/10/20 12:44:04 .net
真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。


歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、
その醜さには悪魔的な蠱惑がなければならない。

三島由紀夫「中村芝翫論」より


歌舞伎の近代化といふはたやすい。しかし浅墓な古典の近代的解釈にだまされるやうなお客は
却つて近代人ですらないのだ。そんなのはもう古い。イヤサ、古いわえ。


美は犠牲の上に成立ち、犠牲を踏まへた生活の必死の肯定によつて維持され育まれる。


類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。

三島由紀夫「歌舞伎評」より

272:無名草子さん
10/10/22 00:03:49 .net
「後悔せぬこと」―これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが
抱きうる決心である。

三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より


「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえない。


大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の
「子供らしくない部分」は決して大人には真似られない部分である。

三島由紀夫「師弟」より


大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより
数倍わるくて汚ならしい。

三島由紀夫「野生を持て―新聞に望む」より

273:無名草子さん
10/10/22 00:04:08 .net
「商業」それも大規模な商業には、人間の集団とその生活がもたらす深い暮色の香りが
たゞよつてゐるやうな気がします。人間が大勢あつまると暮色がたゞよふのです。


インダストリーといふ雰囲気にはどこかメランコリックなものがあるね。


詩情をよびおこすものは消費面より生産面のはうが多いのではないか。


僕はビルディングの窓々にともる灯火よりも、工場街の灯火のはうに、深い郷愁を
そそるものがあるのを感じます。…昼のサイレンよりも、工場の作業開始のサイレンのはうが、
何故かしら僕のあこがれる世界に近かつたのです。そこでは又しても暗いどよめきの彼方に、
汚れた河口や、並立つ煙突や、曇つた空や、それらの象徴する漠たる人工の苦悩が
聳(そび)え立つてくるのでした。

三島由紀夫「インダストリー―柏原君への手紙」より

274:無名草子さん
10/10/22 00:04:32 .net
偽悪者たることは易しく、反抗者たり否定者たることはむしろたやすいが、あらゆる
外面的内面的要求に飜弄されず、自身のもつとも蔑視するものに万全を尽くすことは、
人間として無意味なことではない。「最高の偽善者」とはさういふことであり、物事が
決して簡単につまらなくなつたりしてしまはない人のことである。


人間は自由を与へられれば与へられるほど幸福になるとは限らない。

三島由紀夫「最高の偽善者として―皇太子殿下への手紙」より


理想は狂熱に、合理主義は打算に、食慾はお腹下しに、真面目は頑迷に、遊び好きは自堕落に、
意地悪はヒステリーに紙一重の美徳でありますから、その紙一重を破らぬためには、
やはり清潔な秩序の精神が、まばゆいほど真白なエプロンが、いつもあなたがたの生活の
シンボルであつてほしいと思ひます。

三島由紀夫「女学生よ白いエプロンの如くあれ」より

275:無名草子さん
10/10/22 00:05:14 .net
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。

三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より


理想主義者はきまつてはにかみやだ。

三島由紀夫「武田泰淳の近作」より


小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。

三島由紀夫「世界のどこかの隅に―私の描きたい女性」より


これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。

三島由紀夫「作家の日記」より


私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。

三島由紀夫「伏字」より


小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、
それは悪でも背徳でもなく、何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。

三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より

276:無名草子さん
10/10/22 23:59:47 .net
簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに
忘れない平静な日常が、散文の簡潔さであらう。

三島由紀夫「『元帥』について」より


伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、
もともとその個人は説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。

三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より


物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと
確実な生の原型になるのである。

三島由紀夫「源氏物語紀行―『舟橋源氏』のことなど」より


趣味はある場合は必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。
私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。

三島由紀夫「趣味的の酒」より


衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。

三島由紀夫「戦後観客的随想―『ああ荒野』について」より

277:無名草子さん
10/10/23 00:00:18 .net
われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも
一人だといふ前提は、宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。
ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提をもたないのである。誕生と死の間に
はさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。

三島由紀夫「『異邦人』―カミュ作」より


君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは
野合といふものである。われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて
似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の類似性によつて似るのではない。
われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義及至は理想でもない。

三島由紀夫「新古典派」より

278:無名草子さん
10/10/23 00:00:54 .net
左翼の人は「ファッシスト」と呼ぶことを最大の悪口だと思つてゐるから、これは
世間一般の言葉に飜訳すれば「大馬鹿野郎」とか「へうろく玉」程度の意味であらう。


ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と
切り離せぬ関係を持つてゐる。そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもない
ニヒリストであつた。日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど程遠いものはない。


暴力と残酷さは人間に普遍的である。それは正に、人間の直下に棲息してゐる。今日店頭で
売られてゐる雑誌に、縄で縛られて苦しむ女の写真が氾濫してゐるのを見れば、いかに
いたるところにサーディストが充満し、そしらぬ顔でコーヒーを呑んだり、パチンコに
興じたりしてゐるかがわかるだらう。

三島由紀夫「新ファッシズム論」より

279:無名草子さん
10/10/24 11:07:39 .net
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、
透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。


実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、
土性骨のすわらぬ男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしき
フランスが、女に選挙権を与へるのをいつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の
何たるかを知つてゐたからである。


道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在に
しばりつけるやうな道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで
惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義はいつも女性的なものである。男性固有の
道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと曲げられた。
そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

280:無名草子さん
10/10/24 11:07:57 .net
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。
人間的立場から固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、
男はローマ人の廉潔を失つて、ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを
女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を包んでゐる。それは道徳的目標を、
ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いてゐるからである。
これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふ
ことであつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を
理解し、その構築に手を貸し、その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性から
かういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を男性をして自ら捨てしめ、
道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

281:無名草子さん
10/10/24 11:08:18 .net
(「危険な関係」の)ヴァルモンは、女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、
女の心をとろかす甘言を総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く
捨ててかへりみない。
…女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに
目くじら立てる女は、そのへんがおぼこなのである。


人間の文化はこの悲しみ(omne animal post coitum triste《なべての動物は性交のあとに
悲し》)、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて
芸術に限らず、文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源は
そこにあるので、余計者たるに悩むことは、人間たるに悩むことと同然である。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

282:無名草子さん
10/10/24 11:08:47 .net
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。
この孤独が生産的な文化の母胎であつた。したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を
味はふことができぬのである。


私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが
理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと首をひねらざるをえない。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

283:無名草子さん
10/10/24 11:11:44 .net
文学とは、青年らしくない卑怯な仕業だ、といふ意識が、いつも私の心の片隅にあつた。
本当の青年だつたら、矛盾と不正に誠実に激昂して、殺されるか、自殺するか、すべきなのだ。


青年だけがおのれの個性の劇を誠実に演じることができる。


芸術家にとつて本当に重要な時期は、少年期、それよりもさらに、幼年期であらう。


肉体の若さと精神の若さとが、或る種の植物の花と葉のやうに、決して同時にあらはれない
ものだと考へる私は、青年における精神を、形成過程に在るものとして以外は、高く
評価しないのである。肉体が衰へなくては、本当の青年は生れて来ないのだ。私はもつぱら
「知的青春」なるものにうつつを抜かしてゐる青年に抱く嫌悪はここから生じる。

三島由紀夫「空白の役割」より

284:無名草子さん
10/10/24 11:12:10 .net
今日の時代では、青年の役割はすでに死に絶え、青年の世界は廃滅し、しかも古代希臘のやうに、
老年の智恵に青年が静かに耳傾けるやうな時代も、再びやつて来ない。孤独が今日の青年の
置かれた状況であつて、青年の役割はそこにしかない。それに誠実に直面して、そこから
何ものかを掘り出して来ること以外にはない。


青年のためにだけ在り、青年に本当にふさはしい世界は、行動の世界しかない。

三島由紀夫「空白の役割」


若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、昔の長唄や
お茶の稽古事のやうな稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、
それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。
そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。

三島由紀夫「芸術ばやり―風俗時評」より

285:無名草子さん
10/10/24 11:12:34 .net
文士などといふ人種ほど、我慢ならぬものはない。ああいふ虫ケラどもが、愚にもつかぬ
ヨタ話を書きちらし、一方では軟派が安逸奢侈の生活を勤め、一方では左翼文士が斜視的
社会観を養つて、日本再建をマイナスすることばかり狂奔してゐる。


若造の純文学文士がしきりに呼号する「時代の不安」だの、「実存」(こんな日本語が
あるものか)だの、「カソリシズムかコミュニズムか」だの、青年を迷はすバカバカしい
お題目は、私にいはせれば悉く文士の不健康な生活の生んだ妄想だと思はれるのである。

三島由紀夫「蔵相就任の思ひ出―ボクは大蔵大臣」より


中年や老人の奇癖は滑稽で時には風趣もあるが、未熟な青年の奇癖といふものは、醜く、
わざとらしくなりがちだ。

三島由紀夫「あとがき(『若人よ蘇れ』)」より

286:無名草子さん
10/10/26 10:38:19 .net
この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。


良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、
人の心を苛むものがどこかにあるのだ。

三島由紀夫「道徳と孤独」より


文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態を
とるにいたらしめる、さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、
ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。
それは野獣をも生むのである。

三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より


その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。

三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より

287:無名草子さん
10/10/26 10:40:28 .net
私は自分の顔をさう好きではない。しかし大きらひだと云つては嘘になる。自分の顔を
大きらひだといふ奴は、よほど己惚れのつよい奴だ。自分の顔と折合いをつけながら、
だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。
六千か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう。

三島由紀夫「私の顔」


恥多き思ひ出は、またたのしい思ひ出でもある。

三島由紀夫「『恥』」より


映画には青少年に与へる悪影響も数々あらうが、映画は映画なりのカタルシスの作用を
持つてゐる。それが無害なものであるためには、できるだけ空想的であることがのぞましく、
大人の中にもあり子供の中にもある冒険慾が、何の遠慮もなく充たされるやうな荒唐無稽な
環境がなければならない。


私のいちばん嫌ひな映画といへば、それはいふまでもなく、あのホーム・ドラマといふ代物である。

三島由紀夫「荒唐無稽」より

288:無名草子さん
10/10/26 10:42:45 .net
われわれが、お互ひにどんなに共感し共鳴しようと、相手の顔はわれわれの精神の外側に
あり、われわれ自身の顔はといふと、共感した精神のなかに没してしまつて、あたかも
存在しないかのやうであり、そこでこれに反して相手の顔は、いかにも存在を堂々と
主張してゐる不公平なものに思はれる。相手の顔に対する、われわれの要請は果てしれない。
だが、要するに、私は顔といふものを信じる。明晰さを愛する人間は、顔を、肉体を、
目に見えるままの素面を信じることに落ちつくものだ。といふのも、最後の謎、最後の
神秘は、そこにしかないからだ。

三島由紀夫「福田恆存氏の顔」より

289:無名草子さん
10/10/26 10:44:02 .net
知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではない。


芸術の根本にあるものは、人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、
ギョッとさせるといふことにかかつてゐる。


ちやうどギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から
生れてくるやうに、芸術といふものは一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を
把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ点では文学も古代の
秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅も
そのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

290:無名草子さん
10/10/26 10:45:23 .net
立派な芸術は積木に似た構造を持ち、積木を積みあげていくやうなバランスをもつて
組立てられてゐるけれども、それを作るときの作者の気持は、最後のひとつの木片を
積み重ねるとたんにその積木細工は壊れてしまふ、さういふところまで組立てていかなければ
満足しない。積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作者は、私は
芸術家ぢやないと思はれる。


最後の一片を加へることによつてみすみす積木が崩れることがわかつてゐながら、最後の
木片をつけ加へる。そして積木はガラガラと崩れてしまふのであるが、さういふふうな
積木細工が芸術の建築術だと私は思ふ。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

291:無名草子さん
10/10/26 10:48:21 .net
この世界には美しくないものは一つもないのである。何らかの見地が、偏見ですら、
美を作り、その美が多くの眷族(けんぞく)を生み、類縁関係を形づくる。


幻想が素朴なリアリズムの足枷をはめられたままで思ふままにのさばると、かくも美に
背致したものが生れる。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より


男性の色情が、いつも何らかの節片淫乱症(フェティシズム)にとらはれてゐるとすれば、
色情はつねに部分にかかはり、女体の「全体」の美を逸する。つまり、いかなる意味でも
「全体」を表現してゐるものは、色情を浄化して、その所有慾を放棄させ、公共的な美に
近づけるのである。


動物的であるとはまじめであることだ。笑ひを知らないことだ。一つのきはめて人工的な
環境に置かれて、女たちははじめて、自分たちの肉体が、ある不動のポーズを強ひられれば
強ひられるほど、生まじめな動物の美を開顕することを知らされる。それから突然、
彼女たちの肉体に、ある優雅が備はりはじめる。

三島由紀夫「篠山紀信論」より

292:無名草子さん
10/10/28 12:17:55 .net
日本ではいまだに啓蒙的なインテリゲンチアが、古い日本は悪であり、アジア的なものは
後退的であると思ひ込んでゐるのは、実に簡単な理由、日本人に植民地の経験がないからである。
又、進歩主義者の民族主義が、目前の政治的事象への反撥以外に、民衆に深い共感を
与へないのも、日本人に植民地の経験がないからである。この民族主義は東南アジアでは
怖るべき力になる。


資本主義国、社会主義国いづれを問はず、結局めざましい成功を収めた経済現象の背後には、
必ず政策の成功があり、政策の基礎には民族的エネルギーに富んだ「国民的生産力」が存在する。

三島由紀夫「亀は兎に追ひつくか?―いはゆる後退国の諸問題」より


今日、伝統といふ言葉は、ほとんど一種のスキャンダルに化した。


どんな時代が来ようと、己れを高く持するといふことは、気持のよいことである。

三島由紀夫「藤島泰輔『孤独の人』序」より

293:無名草子さん
10/10/28 12:19:29 .net
風俗といふやつは、仮名遣ひなどと同様、むやみに改めぬがよろしい。

三島由紀夫「きのふけふ 羽田広場」より


母親に母の日を忘れさすこと、これ親孝行の最たるものといへようか。

三島由紀夫「きのふけふ 母の日」より


現実はいつも矛盾してゐるのだし、となりのラジオがやかましいと非難しながら、やはり
家にだつてラジオの一台は必要だといふことはありうる。

三島由紀夫「きのふける 両岸主義」より


日本はここでアジア後進国にならつて、もう少し威厳とものわかりのわるさを発揮
できないものであらうか。ものわかりのよすぎる日本人はもう沢山。

三島由紀夫「きのふけふ 威厳」より


大衆に迎合して、大衆のコムプレックスに触れぬやうにビクビクして作られた喜劇などは、
喜劇の部類に入らぬ。

三島由紀夫「八月十五夜の茶屋」より


怖くて固苦しい先生ほど、後年になつて懐かしく、いやに甘くて学生におもねるやうな先生ほど、
早く印象が薄れるのは、教育といふものの奇妙な逆説であらう。

三島由紀夫「ドイツ語の思ひ出」より

294:無名草子さん
10/10/28 12:20:40 .net
作家にとつての文体は、作家のザインを現はすものではなく、常にゾルレンを現はすものだ。


一つの作品において、作家が採用してゐる文体が、ただ彼のザインの表示であるならば、
それは彼の感性と肉体を表現するだけであつて、いかに個性的に見えようともそれは
文体とはいへない。

三島由紀夫「自己改造の試み―重い文体と鴎外への傾倒」より


はじめからをはりまで主人公が喜び通しの長編小説などといふものは、気違ひでなければ書けない。

三島由紀夫「文字通り“欣快”」より


画家と同様、作家にも純然たる模写時代模倣時代、があつてよいので、どうせ模倣するなら
外国の一流の作家の模倣と一ト目でわかるやうな、無邪気な、エネルギッシュな失敗作が
ズラリと並んでゐてほしい。


運動の基本や練習の要領については、先輩の忠告が何より実になる筈だが、文学だつて、
少なくとも初歩的な段階では、スポーツと同じ激しい日々の訓練を経なければものに
ならないのである。

三島由紀夫「学習院大学の文学」より

295:無名草子さん
10/10/28 12:21:54 .net
芸術とは物言はぬものをして物言はしめる腹話術に他ならぬ。この意味でまた、芸術とは
比喩であるのである。物言はんとして物言ひうるものは物言はしておけばよい。


作品を読むことによつてその内容が読者の内的経験に加はるやうに、一人の女の肉体を
知ることはまた一瞬の裡にその女の生涯を夢みその女の運命を生きることでもある。

三島由紀夫「川端康成論の一方法―『作品』」より


神を持つ人種と、神を持たぬ人種との間に横たはる深淵は、芸術を以てしては越えられぬ。
それを越えうるものは信仰だけである。

三島由紀夫「小説的色彩論―遠藤周作『白い人・黄色い人』」より


芸術家が芸術と生活をキチンと仕分けることは、想像以上の難事である。芸術家は、
その生活までも芸術に引つぱりこまれる危険にいつも直面してゐる。

三島由紀夫「谷桃子さんのこと」より


人間は好奇心だけで、人間を見に行くことだつてある。

三島由紀夫「奥野健男著『太宰治論』評」より

296:無名草子さん
10/10/29 17:11:45 .net
歴史の欠点は、起つたことは書いてあるが、起らなかつたことは書いてないことである。
そこにもろもろの小説家、劇作家、詩人など、インチキな手合のつけ込むスキがあるのだ。

三島由紀夫「『鹿鳴館』について」より


オルフェは誰であつてもよい。ただ彼は詩に恋すればいいのだ。日本語では妙なことに
詩と死は同じ仮名である。

三島由紀夫「元禄版『オルフェ』について」より


恋が障碍によつてますます募るものなら、老年こそ最大の障碍である筈だが、そもそも
恋は青春の感情と考へられてゐるのであるから、老人の恋とは、恋の逆説である。

三島由紀夫「作者の言葉(『綾の鼓』)」より


かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の
心理作家よりも、北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。人は自ら
似せようと思ふものには、なかなか似ないものである。

三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より

297:無名草子さん
10/10/29 17:12:52 .net
世の中には完全に誤解されてゐながら、絶対に誤解されてゐないといふふうに世間に
思はれてゐる人もたくさんゐる。


人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間はなかば
シャイネン(ふりをする)の存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。
ザイン(存在)だけのものになつたら、シャイネンがほんたうに要らない人間になる。
それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。どんなに誠実さうな
人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく
見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の人間ぢやないのだから。
芸術家らしいシャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。
芸術家らしいシャイネンといへば、頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て
歩いてゐるといふのだらうが、そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。

三島由紀夫「作家と結婚」より

298:無名草子さん
10/10/29 17:17:01 .net
花柳界ではいまだに奇妙な迷信がある。不景気のときは黄色の着物がはやり、また矢羽根の
着物がはやりだすと戦争が近づいてゐるといふことがいはれてゐる。…かうした慣習や迷信は、
女性が無意識に流行に従ひ、無意識に美しい着物を着るときに、無意識のうちに同時に
時代の隠れた動向を体現しようとしてゐることを示すものである。女の人の髪形や、
洋服の形の変遷も馬鹿にはできない。そこには時代精神の、ある隠された要求が動いて
ゐるかもしれないのである。

三島由紀夫「私の見た日本の小社会」より


知的なものは、たえず対極的なものに身をさらしてゐないと衰弱する。自己を具体化し
肉化する力を失ふのである。

三島由紀夫「ボクシングと小説」より


知己は意外なところに居るものであります。

三島由紀夫「私の商売道具」より


退屈な人間は狂人に似てゐる。

三島由紀夫「大岡昇平著『作家の日記』」より

299:無名草子さん
10/10/29 17:18:01 .net
世間とは何だらう。もつとも強大な敵であると共に、いや、それなればこそ、最終的には、
どうしても味方につけなければならないもの。さういふものと相渉るには、政治学だけでは
十分ではない。何か「世間」に負けない、つひには「世間」がこちらを嫉視せずには
ゐられないやうな、内的な価値と力が要る。魅惑(シヤルム)こそ世間に対する最後の
武器である。(中略)
美しい病気を(いくら美しくても、病気である限り、もともと人に忌み避けられるものを)
世間全般に伝播伝染させ、つひには健康な人間の自信をも喪失させ、病気になりたいと
願はせるまでもつてゆくこと。すなはち、自分一個の病気を時代病にまでしてしまふこと。


人は、虚偽を以てまごころを購ふことには十中八九失敗するが、まごころを以て虚偽を
購ふことには時あつて成功する。

三島由紀夫「序(丸山明宏著『紫の履歴書』)」より

300:無名草子さん
10/10/31 19:14:17 .net
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、
根底的にデラシネ(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方では
その無用性に自立の根拠を置きながら、一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。


日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はない。


知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらいは弁えてゐなくてはならぬ。


命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しない。

三島由紀夫「新知識人論」より

301:無名草子さん
10/10/31 19:15:29 .net
知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的な「大義」が
何かを問ひつめてゐればよいのである。
…権力も反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐれば
よいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を見詰めてゐればよいのである。断固として
動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐればよいのである。
私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。

三島由紀夫「新知識人論」より


ゲエテがかつて「東洋に憧れるとはいかに西欧的なことであらう」と申しましたが、
これを逆に申しますと「西欧に憧れるとはいかに東洋的なことであらう」ともいへるのです。


他への関心、他の文化、他の芸術への関心を含めて、他者への関心ほど人間を永久に
若々しくさせるものはありません。

三島由紀夫「日本文壇の現状と西洋文学との関係―ミシガン大学における講演」より

302:無名草子さん
10/11/02 16:23:52 .net
無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。無気力も、徹底すれば
徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。近ごろはやりの反小説も、小説の裏返しにすぎぬ。


たとへば情熱、たとへば理想、たとへば知性、……何でもかまはないが、人間によつて
価値づけられたもののかういふ体系を、誰も抜け出すことができない。逆を行けば
裏返しになるだけのことだ。

三島由紀夫「川端康成再説」より


現実といふものは、いろんな面を持つてゐる。火口を眺め下ろした富士の像は、現実暴露
かもしれないが、麓から仰いだ秀麗な富士の姿も、あくまで現実の一面であり一部である。
夢や理想や美や楽天主義も、やはり現実の一面であり一部であるのだ。


古代ギリシャ人は、小さな国に住み、バランスある思考を持ち、真の現実主義をわがものに
してゐた。われわれは厖大な大国よりも、発狂しやすくない素質を持つてゐることを、
感謝しなければならない。世界の静かな中心であれ。

三島由紀夫「世界の静かな中心であれ」より

303:無名草子さん
10/11/02 16:29:46 .net
サドの文学はヒューマニズムで擁護される性質のものではない。また、芸術的見地から
弁護される性質のものではない。サドはこの世のあらゆる芸術の極北に位し、芸術による
芸術の克服であり、その筆はとつくに文学の領域を踏み越えてしまつてゐた。時代を経て
徐々にその毒素を失ふのが、あらゆる芸術作品の通例だが、サドほど、何百年を経ても
その毒素を失はない作家はなからう。それはあらゆる政治形態にとつての敵であり、
サドを容認する政府は、人間性を全的に容認する政府であつて、そんなものは政府の
埒外に在るから、政府は一日も存続しまい。つまりサドは芸術のみならず、政治に対しても、
政治による政治の克服、政治が政治を踏み越えることを要求せずにゐないのだ。

三島由紀夫「受難のサド」より


胃痛のときにはじめて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いて
ゐれば、存在を意識されるはずのものではなく、まして食卓の話題なんかになるべき
ものではない。政治家がちやんと政治をしてゐれば、カヂ屋はちやんとカヂ屋の仕事に
専念してゐられるのである。

三島由紀夫「一つの政治的意見」より

304:無名草子さん
10/11/02 16:43:14 .net
三島とかいうバカの着眼点はことごとく人間の本質からはずれてるな

305:無名草子さん
10/11/02 17:03:07 .net
主知主義の能力の限界は、人間が生の非連続性に耐へ得る能力の限界である。この限界を
究めようとする実験は、主知主義の側から、しばしば、且つ大規模に試みられたが、
ゆきつくところは、個人的な倫理の確立といふところに落ちつかざるをえない。

三島由紀夫「『エロチシズム』―ジョルジュ・バタイユ著 室淳介訳」より


実業人と文士のちがふところは、実業人は現実に徹しなければならないのだが、小説家は
この世の現実のほかのもう一つの現実を信じなければならぬといふことにあるのだらう。
そのもう一つの現実をどうやつて作り出すかといふと、その原料になるものは、やはり
少年時代の甘美な「文学へのあこがれ」しかない。その原料自体は、お粗末で無力な
ものであるが、それを精錬し、鍛へ、徐々に厚く鞏固に織り成して、はじめはフハフハした
靄にすぎぬものから、鉄も及ばぬ強靭な織物を作り出さねばならない。「人生は夢で
織られてゐる」とシェークスピアも言ふ。
その夢の原料は、やはり少年時代に、
つまりはあの汚ない、埃だらけの文芸部室にあつたと思ふのである。

三島由紀夫「夢の原料」より

306:無名草子さん
10/11/04 19:48:53 .net
作家の思想は哲学者の思想とちがつて、皮膚の下、肉の裡、血液の流れの中に流れなければ
ならない。


あるとき野球部に入つてゐる友だちが、肺浸潤の診断をうけて学校を休みだす直前、
かへりの電車の中で、突然私にかうきいた。
「君は sterben(死)する覚悟はあるかい?」
私は目の前が暗くなるやうな気がし、人生がひとつもはじまつてゐないのに、今死ぬのは
たまらない、といふ感じが痛切にした。
それから半年ほどのちその友だちは死んだ。(中略)
「君は sterben する覚悟はあるかい?」
といふ死んだ友人の言葉が又ひびいて来る。さうまともにきかれると、覚悟はないと
答へる他はないが、死の観念はやはり私の仕事のもつとも甘美な母である。

三島由紀夫「十八歳と三十四歳の肖像画」より

307:無名草子さん
10/11/04 19:50:19 .net
簡素、単純、素朴の領域なら、西洋が逆立ちしたつて、東洋にかなふわけはないのである。

三島由紀夫「オウナーの弁―三島由紀夫邸のもめごと」より


私は球戯一般を好まない。直接に打つたりたたいたり、ぢかな手ごたへのあるものでないと
興がわかない。見るスポーツもさうである。芸術にしろスポーツにしろ、社会の一般的に
許容しないところのものが、芸術でありスポーツであるが故に許される、といふのが
私の興味の焦点だ。

三島由紀夫「余暇善用―楽しみとしての精神主義」より


犬が人間にかみつくのではニュースにならない。人間が犬にかみつけばニュースになる。
ぼくら小説家は、いつも犬が人間にかみつくことに、かみついてゐるわけだ。


映画俳優は極度にオブジェである。


映画の匂ひをかいだり、少しでもその世界に足をふみ入れた人間には、なにか毒がある。

三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい」より


舞台の夜空に描きこまれたキラキラする金絵具の星のやうな、安つぽいロマンスこそ
女の心を永久に惹きつけるものだ。

三島由紀夫「『からっ風野郎』の情婦論」より

308:無名草子さん
10/11/04 19:51:17 .net
作家あるひは詩人は、現代的状況について、それを分析するよりも、一つの象徴的構図の下に
理解することが多い。それは多少夢の体験にも似てゐる。ところで犯罪者もこれに似て、
かれらも作家に似た象徴的構図を心に抱き、あるひはそのオブセッションに悩まされてゐる。
ただ作家とちがふところは、かれらは、ある日突然、自分の中の象徴的構図を、何らの
媒体なしに、現実の裡に実現してしまふのである。自分でもその意味を知ることなしに。

三島由紀夫「魔―現代的状況の象徴的構図」より


決して人に欺されないことを信条にする自尊心は、十重二十重の垣を身のまはりにめぐらす。


目がいつもよく利きすぎて物事に醒めてゐる人の座興や諧謔といふものは、ふつうでは
厭味なものだ。

三島由紀夫「友情と考証」より


作家にとつて、栄光といふものは、奇妙な疥癬(かいせん)みたいなもので、その痒みは
一種の快感であり、それをかくことは一種の快楽にほかならないが、それは仕方なしに
くつついて来たものにすぎない。

三島由紀夫「川端康成氏と文化勲章」より

309:無名草子さん
10/11/04 19:52:13 .net
人間は、自分のこととなれば、自分が実在するかどうかは大問題であつて、もし実在しない
といふ結論が出れば大変なことになるが、他人のこととなると、他人の実在如何は大して
気にかけないといふ性質がある。


われわれはめつたに会つたことのない遠い親戚なんかよりも、好きな小説の主人公のはうに
はるかに実在感を持つてゐる。

三島由紀夫「映画『潮騒』の想ひ出」より


青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。

三島由紀夫「堀江青年について」より


日本の芸能界では、憎まれたら最後、せつかくもつてゐる能力も発揮できなくなるおそれがある。

三島由紀夫「現代女優論―越路吹雪」より


一度自分の味はつた陶酔を人に伝へようとする努力は、奇妙に生理に逆行する。意気沮喪
するやうな努力である。

三島由紀夫「『花影』と『恋人たちの森』」より

310:無名草子さん
10/11/05 11:11:10 .net
三島作品は僕に文芸進化の行き止まりのようなものを連想させた。
遺伝子的後退。
間違えた方向に進んだまま後戻りできなくなった奇形生物。
進化のベクトルが消滅して、歴史の薄明りの中にあてもなく立ちすくんでいる孤児的生物。
時の溺れ谷。
それは誰のせいでもない。
誰が悪いと言うわけでもないし、誰にそれが救えると言うものでもない。
まずだいいちに三島は未成熟な思念を文章にするべきではなかったのだ。
過ちはまずそこから始まっていた。第一歩から、全てが間違っていた。
最初のボタンがかけ違えられ、それにあわせてすべてが致命的に混乱していた。
混乱を正そうとする試みはあらたな細かい混乱を生み出した。
そしてその結果、何もかもが少しずつ歪んで見えた。
そこにある何かをじっと見ようとすると、自然に首が何度か傾いてしまうのだ。
そのような歪み。
ずっとそこにいれば馴れてしまうのかも知れない歪み。
それに馴れてしまったら、今度はまともな世界を見るときに首を傾けることになる。

311:無名草子さん
10/11/05 11:29:49 .net
>>310
進歩だ、なんだかんだ言ってる大江健三郎みたいなのに奇形の子供が生まれてますよ。
ブサヨの自己紹介にしか見えませんが。

312:無名草子さん
10/11/06 19:47:02 .net
処女作とは、文学と人生の両方にいちばん深く足をつつこんでゐる。だから、それを
書いたあとの感想は、人生的感想によく似て来るのです。

三島由紀夫「『未青年』出版記念会祝辞」より


どんな芸術でも、根本には危機の意識があることは疑ひを容れまい。原始芸術にはこの危機が、
自然に対する畏怖の形でなまなましく現はれてゐたり、あるひはその反対に、自然を
呪伏するための極端な様式化になつて現はれてゐたりする。

三島由紀夫「危機の舞踊」より


青春が誤解の時期であるならば、自分の天性に反した文学的観念にあざむかれるほど、
典型的な青春はあるまい。またその荒廃の過程ほど典型的な荒廃はあるまい。しかも
そのあざむかれた自分を、一つの個性として全的に是認すること。……これは佐藤氏より
小さな規模で、今日われわれの周囲にくりかへされてゐる。

三島由紀夫「青春の荒廃―中村光夫『佐藤春夫論』」より


近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか。

三島由紀夫「一S・Fファンのわがままな希望」より

313:無名草子さん
10/11/06 19:48:18 .net
嘘八百の裏側にきらめく真実もある。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』について」より


二流のはうが官能的魅力にすぐれてゐる。

三島由紀夫「ギュスターヴ・モロオの『雅歌』―わが愛する女性像」より


人がやつてくれないなら、自分がやらねばならぬ。

三島由紀夫「ジャン・コクトオの遺言劇―映画『オルフェの遺言』」より


お客を怒らすことは必要だがナメることは禁物だ、といふのが、すべてのショウ・ビジネス
(古典から前衛にいたる)の鉄則だらう。

三島由紀夫「Four Rooms」より


顔と肉体は、俳優の宿命である。いつも思ふことだが、俳優といふものは、宿命を外側に
持つてゐる。一般人もある程度さうだが、文士などの場合は、その程度は殊に薄くて、
彼ははつきり宿命を内側に持つてゐる。これは職業の差などといふよりは、人間の
在り方の差で、宿命を外側に持つ人間と、内側に持つ人間との、両極端の代表的存在が、
俳優と文士といふものだらうと思はれる。


本当の芸の境地は、競争や戦ひの向うにある。

三島由紀夫「若尾文子讃」より

314:無名草子さん
10/11/06 19:49:20 .net
男らしさとは、対女性的観念ではなく、あくまで自律的な観念であつて、ここで
考へられてゐる男とは、何か青空へ向つて直立した孤独な男根のごときものである。
男らしさを企図する人間には、必ずファリック・ナルシシズムがある。


「男らしさ」といふことの価値には、一種の露出症的なものがあり、他人の賞賛が
必要なのである。


真に独創的な英雄といふものは存在しない。


あと何百万年たつても、女が男にかなはないものが二つある。それは筋肉と知性である。

三島由紀夫「私の中の“男らしさ”の告白」より


私の文学の母胎は、偉さうな西欧近代文学なんぞではなくて、もしかすると幼時に耽溺した
童話集なのかもしれない。目下SFに凝つてゐるのも、推理小説などとちがつて、それは
大人の童話だからだ。

三島由紀夫「こども部屋の三島由紀夫―ジャックと豆の木の壁画の下で」より

315:無名草子さん
10/11/06 19:50:34 .net
文学の勉強といふのは、とにかく古典を読むことに尽きるので、自国の古典に親しんだのち、
この世界文学の古典に親しめば、鬼に金棒である。


古典の面白さを一度味はつたら、現代文学なんかをかしくて読みなくなる危険がある。

三島由紀夫「小説家志望の少年に(『世界古典文学全集』推薦文)」


古典文学に親しむ機会の少なかつたことが、大正以後の日本文学にとつて、どれだけ
マイナスになつてゐるか。又、大正以後の知識人の思考の浅薄をどれだけ助長したかは、
今日、日ましに明らかになりつつある事実である。

三島由紀夫「時宜を得た大事業(『日本古典文学大系 第二期』推薦文)」より


文学だらうと、何だらうと、簡明が美徳でないやうな世界など、犬に食はれてしまふがいい。


文学が人の心を動かす度合は、享受者の些末な窄い関心事をのりこえて、文学独特の世界へ
引きずりこむだけの力を備へてゐるかどうかによつて測られる。

三島由紀夫「胸のすく林房雄氏の文芸時評」より

316:無名草子さん
10/11/07 17:31:21 .net
旅では、誰も知るやうに、思ひがけない喜びといふものは、思ひがけない蹉跌に比べると、
ほぼ百分の一、千分の一ぐらゐの比率でしか、存在しないものである。


私はいつも人間よりも風景に感動する。小説家としては困つたことかもしれないが、
人間は抽象化される要素を持つてゐるものとして私の目に映り、主としてその問題性によつて
私を惹きつけるのに、風景には何か黙つた肉体のやうなものがあつて、頑固に抽象化を
拒否してゐるやうに思はれる。自然描写は実に退屈で、かなり時代おくれの技法であるが、
私の小説ではいつも重要な部分を占めてゐる。


小説の制作の過程では、細部が、それまで眠つてゐた或る大きなものを目ざめさせ、
それ以後の構成の変更を迫ることが往々にして起る。したがつて、構成を最初に立てることは、
一種の気休めにすぎない。

三島由紀夫「わが創作方法」より

317:無名草子さん
10/11/07 17:32:29 .net
人のよい読者は、作家によつて書かれた小説作法といふものを、小説書き初心者のための
親切な入門書と思つて読むだらうが、それは概して、たいへんなまちがひである。
作家は他の現代作家の方法意識の欠如、甘つちよろさ、無知、増上慢、などに対する
限りない軽蔑から、自分の小説作法を書くであらう。

三島由紀夫「爽快な知的腕力―大岡昇平『現代小説作法』」より


自分に関するおしやべりが人を男らしくするといふことは、至難の業である。

三島由紀夫「アメリカ版大私小説―N・メイラー作 山西英一訳『ぼく自身のための広告』」より


いささかの誤解も生まないやうな芸術は、はじめから二流品である。


われわれは美の縁(へり)のところで賢明に立ちどまること以外に、美を保ち、それから
受ける快楽を保つ方法を知らないのである。

三島由紀夫「川端康成読本序説」より

318:無名草子さん
10/11/09 10:59:48 .net
大体、時代といふものは、自分のすぐ前の時代には敵意を抱き、もう一つ前の時代には
親しみを抱く傾きがある。

三島由紀夫「明治と官僚」より


日本人は、改革の情熱よりも、復興の情熱に適してゐるところがある。

三島由紀夫「幸せな革命」より


小さくても完全なものには、巨大なものには、求められない逸楽があり、必ずしも
偉大でなくても、小さく澄んだ崇高さがありうる。

三島由紀夫「宝石づくめの小密室」より


日本には妙な悪習慣がある。「何を青二才が」といふ青年蔑視と、もう一つは「若さが
最高無上の価値だ」といふ、そのアンチテーゼとである。私はそのどちらにも与しない。
小沢征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。

三島由紀夫「小沢征爾の音楽会をきいて」(昭和38年)より

319:無名草子さん
10/11/09 11:01:16 .net
猫は何を見ても猫的見地から見るでせうし、床屋さんは映画を見てもテレビを見ても、
人の頭ばかり気になるさうです。世の中に、絶対公平な、客観的な見地などといふものが
あるわけはありません。われわれはみんな色眼鏡をかけてゐます。そのおかげで、
われわれは生きてゐられるともいへるので、興味の選択ははじめから決つてをり、
一つ一つの些事に当つて選択を迫られる苦労もなく、それだけ世界はきれいに整備され、
生きるたのしみがそこに生じます。
しかし人生がそこで終ればめでたしですが、まだ先があります。同じ色眼鏡が、
ほかの人の見えない地獄や深淵をそこに発見させるやうになります。猫は猫にしか見えない
猫の地獄を見出し、床屋さんは床屋さんにしか見えない深淵を見つけ出します。

三島由紀夫「序(久富志子著『食いしんぼうママ』)」より

320:無名草子さん
10/11/09 11:02:48 .net
ボクシングのいい試合を見てゐると、私はくわうくわうたるライトに照らされたリングの
四角の空間に、一つの集約された世界を見る。行動する人間にとつては、世界はいつも
こんなふうに単純きはまる四角い空間に他ならない。世界を、こんがらかつた複雑怪奇な
場所のやうに想像してゐる人間は、行動してゐないからだ。そこへ二人の行動家が登場する。
そしてもつとも単純化された、いはば、もつとも具体的で同時にもつとも抽象的な、
疑ひやうのない一つの純粋な戦ひが戦はれる。さういふときのボクサーには、完全な
人間とは本来かういふものではないか、と思はせるだけの輝きがある。

三島由紀夫「ウソのない世界―ひきつける野生の魅力」より


狂言の「釣狐」ではないけれど、狐はある場合は、敢然と罠に飛び込むことで、彼自身が
狐であることを実証する。それは狐の宿命、プロ・ボクサーの宿命のごときものであらう。

三島由紀夫「狐の宿命(関・ラモス戦観戦記)」より

321:無名草子さん
10/11/09 11:06:08 .net
日劇のストリップ・ショウの特別席は、大てい外人の観光客で占められてゐるが、鬼をも
とりひしぐ顔つきの老婆と居並んで、ぽかんと口をあけてストリップを見てゐる老紳士ほど、
哀れな感じのするものはない。ああいふのを見ると、私はいつも、西洋人の夫婦を
支配してゐる或る「性の苛烈さ」を感じてしまふのである。尤も御当人の身にしてみれば、
鬼のごとき老妻に首根つこをつかまへられながらストリップを見るといふ、一種の
醍醐味があるのかもしれない。

三島由紀夫「西洋人の夫婦」より


現代の人間が、自分の良心の力だけで自己の魂にベルトを締めることができるかどうか。
人間は、目で見えるもの、なにか形のあるものに直面することによつて魂をゆすぶられるんです。
だからカトリックの荘厳な儀式、祭服、音楽、彫刻といつたものは大切です。ヒンズーも
同様だが、生きてゐる宗教とはそんなものなんですよ。


日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんな
あすこにあります。

三島由紀夫「インドの印象」より

322:無名草子さん
10/11/10 23:51:58 .net
一体、赤紙の召集ぢやあるまいし、芝居の大事なお客さまを「動員」するなどといふのは、
失礼な話だ。


芝居のお客は、窓口で、個々人の判断で、切符を買つてくれる人が、あくまで本体である。
われわれ小説家の著書を、団体で売りさばくといふ話はきいたことがない。部数の大小に
かかはらず、われわれの本は、われわれの仕事に興味を持つてくれる人の手へ、直接に
流れてゆくのであつて、さういふ読者の支持によつて、はじめてわれわれの仕事も実を
結ぶのである。


芝居といふものは絵空事で、絵空事のうちに真実を描くのだ。

三島由紀夫「私がハッスルする時―『喜びの琴』上演に感じる責任」より


芝居はとにかく芝居なのであつて、それ以下のものでも、それ以上のものでもない。
芝居を「しばや」と発音するほどの年齢の人にも、楽しんでもらへるのが芝居といふものだ。

三島由紀夫「三島さんと『喜びの琴』」より

323:無名草子さん
10/11/10 23:53:05 .net
旅は古い名どころや歌枕を抜きにしては考へられない。


旅には、実景そのものの美しさに加へるに、古典の夢や伝統の幻や生活の思ひ出などの、
観念的な準備が要るのであつて、それらの観念のヴェールをとほして見たときに、
はじめて風景は完全になる。


ストリップこそわが古典芸能の源であり、女性美の根本である。


苦行の果てにはかならずすばらしい景色が待つてゐる。


観光地といへば、パチンコ屋とバーと土産物屋が蠅のやうにたかつて来てそこを真黒に
してしまふ大都市の周辺は、私に黒人共和国ハイチの不潔な市場を思ひ出させる。
いやに真黒なものばかり売つてゐるな、と思つて近づくと、それがみな食料品に隙間なく
たかつた蠅なのだ。しかしバーや土産物屋などの蠅よりも、一等始末のわるいのは、
音を出す拡声器といふ蠅である。

三島由紀夫「熊野路―新日本名所案内」より

324:無名草子さん
10/11/11 23:36:31 .net
「いやな感じ」といふのは、裏返せば「いい感じ」といふことである。


人間と世界に対する嫌悪の中には必ず陶酔がひそむことは、哲学者の生活体験からだけ
生れるわけではない。行為者も亦、そのやうにして世界と結びつく瞬間があるのだ。

三島由紀夫「いやな、いやな、いい感じ(高見順著『いやな感じ』)」より


異国趣味と夢幻の趣味とは、文学から力を失はせると共に、一種疲れた色香を添へるもので、
世界文学の中にも、二流の作品と目されるものの中に、かういふ逸品の数々があり、
さういふ文学は普遍的な名声を得ることはできないが、一部の人たちの渝(かは)らぬ
愛着をつなぎ、匂ひやかな忘れがたい魅力を心に残す。


学生に人気のある、甘い賑やかな感激家の先生には、却つて貧寒な、現実的な魂しか
備はつてゐないことが多い。


正確な無味乾燥な方法的知識のみが、夢へみちびく捷径(せふけい)である。

三島由紀夫「夢と人生」より

325:無名草子さん
10/11/11 23:38:25 .net
相手を自分より無限に高いものとして憧れる気持は、半ばこちらの独り合点である場合が多い。
それがわかつて幻滅を感じても、自分の中の、高いもの美しいもの、美しいものへ憧れた
気持は残る。

三島由紀夫「愛(エロス)のすがた―愛を語る」より


憧れるとは、対象と自分との同一化を企てることである。従つて、異性に向つて憧れる、
といふのは、言葉の矛盾のやうに思はれる。

三島由紀夫「わが青春の書―ラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏会』」より


フランス人のドイツ恐怖はむしろ民衆の感性であつて、歴史上からも、フランス人は
ドイツに対する愛好心を貴族の趣味として伝へてきた。外交官でもあり、社交界に
精通したジロオドウの中には、このやうな貴族趣味が生き永らへてゐて、彼の親独主義は、
別に現実政治と見合つたものではない。いがみ合ひは民衆のやることであつて、
ドイツだらうが、フランスだらうが、貴族はみんな親戚なのだ。

三島由紀夫「ジークフリート管見―ジロオドウの世界」より

326:無名草子さん
10/11/11 23:39:48 .net
万物は落ち、あらゆる人間的な企図は人間の手から辷り落ちる。しかし落ちることのこの
スピードと快さと自然さに、人間の本質的な存在形態があることに詩人が気づくとき、
詩人はもはや天使の目ではなく、人間の目で人間を見てゐるのである。

三島由紀夫「跋(高橋睦郎著『眠りと犯しと落下と』)」より


時は移り、青春は移る。あるひは、文学は不変で、そこに描かれた青春も不変である。

三島由紀夫「(『われらの文学』推薦文)」より


本当に危険な作品は、感覚的な作品だ。どんな危険思想であつても、論理自体は社会的
タブーを犯さぬのであつて、サドのやうな非感覚的な作家の安全性はこの点にある。


これ(言語による言語からの脱出といふ自己撞着)を突破したのはアルチュール・
ランボオ唯一人だが、われわれが言語を一つの影像として定着するときに、われわれは
すでに自ら一つの脱出口を閉鎖したのである。

三島由紀夫「現代文学の三方向」より

327:無名草子さん
10/11/12 20:03:38 .net
ものごとの表面ほど、多く語るものはない。

不安自体はすこしも病気ではないが、「不安をおそれる」といふ状態は病的である。

三島由紀夫「床の間には富士山を―私がいまおそれてゐるもの」より


すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。

三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典―閉会式」より


美容整形も、因果物師も、紙一重のやうな気もする。因果物師とは、むかし見世物に出す
不具者ばかりを扱つた卑賎な仕事で、それだけならいいが、むかしの支那では、
子供のときから畸形をつくるために、人間を四角い箱に押しこめて、首と手足だけ出させて
育てたなどといふ奇怪な話が伝はつてゐる。美と醜とは両極端だが、実はそれほど
遠いものではない。

三島由紀夫「『美容整形』この神を怖れぬもの」より

328:無名草子さん
10/11/13 13:14:35 .net
蕗谷虹児氏の作品は幼ないころから親しんで来たものであるが、今度私の二十歳のときの作品「岬にての物語」を
出版するに当り、氏の画風ほど、この小説にふさはしいものはないと思はれたので、お願ひをして快諾を得た。
殊に口絵の百合の花束の少女像は、今や老境にをられるこの画家が、心の中深く秘めた美の幻を具現して
あますところがない。その少女のもつはかない美しさ、憂愁、時代遅れの気品、うつろひやすい清純、そして
どこかに漂ふかすかな「この世への拒絶」、「人間への拒絶」ほど、「岬にての物語」の女性像としてふさはしい
ものはないばかりでなく、おそらく蕗谷氏の遠い少年の日の原体験に基づいてゐるにちがひないこの美の
わがままな映像が、あたかも一人の画家が生涯忘れることのなかつた清らかさの記念として、私に深い感動を
与へたのである。

三島由紀夫「蕗谷虹児氏の少女像」より

329:無名草子さん
10/11/17 20:02:48 .net
小説を書くというのは、ことばの世界で自分の信ずる「あすのない世界」を書くことですね。そして、あすの
ない世界というのは、この現実にはありえない。戦争中はありえたかもしれないけれども、今はありえない。
今、われわれは、来週の水曜日に帝国ホテルで会いましょうという約束をするでしょう。戦争中は、来週の
水曜日に帝国ホテルで会いましょうといったって、会えるか会えないか、空襲でもあればそれまでなんで、
その日になってみなきゃ、わからない。それが、つまりぼくの文学の原質なのですけれども、今は、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えること、ほぼ確実ですよね。そして文学は、ぼくのなかでは依然として、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えるかどうかわからないという一点に、基準がある。それがぼくの、小説を書く根本原理です。
ぼくは文学では、そういう世界を、どうでも保っていくつもりです。それはぼくの悲劇理念なのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

330:無名草子さん
10/11/17 20:07:02 .net
悲劇というのは、必然性と不可避性をもって破滅へ進んでゆく以外、何もない。人間が自分の負ったもの、
自分に負わされたもの、そういうもの全部しょって、不可避性と必然性に向かって進んでゆく。ところが現実生活は、
必然性と不可避性をほとんど避けた形で進行している。偶然性と可避性といいますか、そうして今の柔構造の
社会では、とくにそういうような、ハプニングと、それから、可避性といいますか、こうしなくてもいいんだ
ということ、そういうことで全部、実生活が規制されてしまう。
そうするとわれわれも、ある程度、その法則に則って生活しなくては生きられないわけですから。それで来週の
水曜日、帝国ホテルで会うということについても、ある程度、迂回作戦をとりながら、その現実に到達するために
努力する。ところが、芸術では、そんなことする必要はまったくないのですから、来週の水曜日、会えないところへ
しぼればいいわけですよね。ぼくにとっては、そういう世界が絶対、必要なのです。それがなければぼくは、
生きられない。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

331:無名草子さん
10/11/17 20:09:34 .net
(中略)
ぼくの小説があまりに演劇的だ、と批評する人もありますけれども、必然性の意図と不可避性の意図が、
ギリギリにしぼられていなければ、文学世界というもの、ぼくは築く気がしない。それはぼくの構想力の問題であり、
文体の問題でもあるんですが、あるいは、法律を勉強したのが多少、役にたっているかもしれません。犯罪が
起これば、これは刑事事件ですから、そこで刑事訴訟のプロセスが進行するわけでしょ。これは完全に、
必然性と不可避性の意図のなかに人間をとじこめてしまいますからね。そういうものがぼくにとっては、
ロマンティックな構想の原動力になるので、私の場合「小説」というものはみんな、演劇的なのです。わき目も
ふらず破滅に向かって突進するんですよね。そういう人間だけが美しくて、わき目をするやつはみんな、愚物か、
醜悪なんです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

332:無名草子さん
10/11/17 20:12:59 .net
ヴァレリーもいってるように、作家というのは、作品の原因でなくて、作品の結果ですからね。自己に不可避性を
課したり、必然性を課したりするのは、なかば、作品の結果です。ですけれども、そういう結果は、ぼくはむしろ、
自分の“運命”として甘受したほうがいいと思います。それを避けたりなんかするよりも、むしろ、自分の
望んだことなんですから……。生活が芸術の原理によって規制されれば、芸術家として、こんな本望はない。
ぼくの生き方がいかに無為にみえようと、ばかばかしくみえようと、気違いじみてみえようと、それはけっきょく、
自分の作品が累積されたことからくる必然的な結果でしょう。ところがそれは、太宰治のような意味とは、
違うわけです。ぼくは芸術と生活の法則を、完全に分けて、出発したんだ。しかし、その芸術の結果が、生活に
ある必然を命ずれば、それは実は芸術の結果ではなくて、運命なのだ。というふうに考える。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

333:無名草子さん
10/11/17 20:15:28 .net
それはあたかも、戦争中、ぼくが運命というものを切実に感じたのと同じように、感ずる。つまり、運命を
清算するといいましょうか。そういうふうにしなければ、生きられない。運命を感じてない人間なんて、
ナメクジかナマコみたいに、気味が悪い。
…「新潮」の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の二元論というものを、私が
どういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて書いている。日本でいちばん理解しにくい考えは、
それなんですよね。それで、作品と生活との相関関係ということが、私小説の根本理念ですから、その相関関係を
断ち切ることは、絶対できない。私の場合は、作品における告白ももちろん重要ですけれども、実は告白自体が
フィクションになる。作品の世界は、さっきも申し上げたように、かくあるべき人生の姿ですからね。もし、
自分が作品に影響されてかくあるべき人生を実現できれば、こんないいことはないわけですけれども、逆に
そうなれないというのが、人生でしょ。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

334:無名草子さん
10/11/17 20:20:06 .net
そうなれないことが人生で、それでは、そうなれない人生をもっと問題にして、どうにもならんことを小説に
書けばいいではないか、という考え方も出てくると思う。しかし、ぼくは、それは絶対やりたくないですね。
死んでも、やりたくない。そういうことを書く作家というのが、きらいなのです。小島信夫の「抱擁家族」などと
いうのは、そうならない人生を一生懸命書いているわけです。そうなれない怨念を書くのが文学だとは、ぼくは
決して信じたくない。
文学というのは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じている。告白といいますけれども、
告白も、かくあるべきだ、こうなりたいんだ、けれども、こうならなかったという、それを語るのが、告白であって、
告白と願望との関係は、ひと筋なわではゆかないと思いますよ。人はいつでも、告白するとき、うそをついて、
願望を織り込んでしまうと思うのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

335:無名草子さん
10/11/17 20:22:45 .net
(中略)
文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから文学から、いつも
逃げてなければいけない。アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように……。それでも追っかけてくるのが、
ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、にせものの文学ですね。ぼくは作家というのは、
生活のなかでにせものの文学に、ばかな女にとり囲まれるように、とり囲まれていることが多いと思うのです。
だって、ふり払ったことがないから。自分が“もてる”と思ってますからね。
ところが、それをふり払って、砂漠の彼方に駈けだしたときに、そのあとをデートリッヒみたいに、はだしで
追いかけてくる女は、ほんとうの女ですよ。ぼくはそれが、ほんとの文学だと思います。ぼくの場合は、
できるだけ文学から逃げている。するとはだしで追っかけてきてくれる女がいる。それが、ぼくの文学です。
その女に、やさしくしますよ。そのときに、小説を書くわけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

336:無名草子さん
10/11/18 12:37:18 .net
(中略)
ぼくはいつも、あとから自分の素質を発見するのですけれども、―ぼく、剣道なんて、けっしてうまく
ありませんけれども、剣道やる人間になるなんていうことは、昔は想像もしなかった。おなじことで、論理的能力を
発見するなんて、昔は想像もしなかった。だから、人間って、あきらめないでじっくりやっていれば、何か出て
くるんだと思うのです。自慢じゃないですが、英語の会話ができるようになったのは三十越してからですからね。
それまで英語でしゃべれなかった。アメリカへ行っても、ほんとに語学で不自由いたしました。三十ごろになって、
アメリカに半年くらいいてから、まあまあしゃべれるようになった。人間の能力なんていうものは、ほんとに、
早く決めてしまうことないと思いますね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

337:無名草子さん
10/11/18 12:40:39 .net
(中略)
ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。それが源泉ですね。
その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。ですから自由意志には、無限定な自由は
ないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤をくりかえしますけれども、自由意志が源泉を発見した時に初めて、
自由意志が、自由になるのだ、と思います。それまでは自由意志は、なにものかにとらわれていて、もっと
自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それが、ぼくは源泉だと思う。ヘルダーリンの
「帰郷(ハイムクンフト)」のいう、一種の恐ろしさですね。最もなつかしいもので、最も恐ろしいものです。
現代社会は、そういう、源泉に帰ることを妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉からたえず
遠ざかって、前へ、前へ、上すべりしてゆくように、社会構造ができている。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

338:無名草子さん
10/11/18 12:45:42 .net
たとえば、テレビ、初め映りの悪いテレビ、それがまた、映りのいいテレビ、カラー・テレビになる。現代社会は、
その機械と同じことで、次々と、改良されたものは与えられますけれども、改良された果てに何があるか、
それはなにも与えないで、ぼくらを、先へ、先へ、進めるでしょ。
でもぼくらは、テレビより、もっと遠くみえるものがあるはずです、いちばん前に。ぼくはほんとに、それが
自分の夢でないと思ったのは、インドへ行ってからですよ。…インドへ行って、人間の、
ほんとの能力というのはあったんだ、という感じを強くもった。テレビより、もっと遠くがみえるはずです。
それから、人の心も、もっとよくみえるはずですし、つまり、みたいと思うものは、百万里先だろうが、
みなければならない。みえなくしてしまったのは、“文明”ですよね。ぼくはそう思います。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

339:無名草子さん
10/11/18 12:51:20 .net
(中略)
目ですね。
ぼくは、源泉にはそれがあったはずだと思うのです、ぼくにだって。失っただけですね。
剣道なんかやってますと、(そんなこというほどの資格はぼくにありませんが)“観世音の目”ということ、
いいますね。全体をみなければいけない。相手の目を見たら、負けてしまう。まして、相手の剣尖を見たら
負けてしまう。そうではなくて、“観世音の目”は相手を上から下まで、完全に見てしまう目です。そういう目を
鍛錬し、養成することが、剣道の極意だといわれているのですが、ぼくはそれ、源泉に帰ることだと思います。
それから、ネコ。ネコが寝たあと、クッションならクッションの跡みますと、ネコの寝た形が、ちゃんとできている。
あれが、寝るということ、休むということの本当の形なのですね。人間の寝た跡はそんな形になっていませんよ。
しゃっちょこばってますわね。寝てもまだ、からだがこわばっている。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

340:無名草子さん
10/11/18 12:55:20 .net
ネコは寝れば、完全に、ぐにゃあっと、液体のようになってしまう。あれが源泉なのですね。それから、
運動でもそうです。運動で、巧緻性とか、迅速性、いろいろ申しますけれども、運動能力というのは本来、
人間にはすべてあるはずなのが、なくなってしまった。そして、からだをこうやって曲げても、手の指先が足に
つかないようになってしまう。これはもう、源泉から遠ざかってしまっているわけですね。
…ぼくは、自由なものは美だと思うし、自由は源泉のなかにしかないと思うのです。プラトンと同じで、
動くものが、美しい。ぼくは静止したものはきらいですから、美術品なんて、あまり好きではないですね。
動くものが、美しい。“動くもの”というのは、自由ですし、自由は、それは未来にはなくて、源泉のなかに
あるのだ、という感じがする。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

341:無名草子さん
10/11/18 20:43:05 .net
25 :本当にあった怖い名無し:2010/11/18(木) 14:25:34 ID:jP1T7beKP
三島由紀夫は美輪を「金閣寺のように美しい」と形容したに違いない


26 :本当にあった怖い名無し:2010/11/18(木) 14:27:38 ID:FwzfGi7YO
美輪さん、信念があるから美しい。



342:無名草子さん
10/11/19 16:33:12 .net
男が女に化ける日本演劇の伝統様式を丸山はみごとに受けついでゐる。その伝統が時代に密着して花開いたのが
“丸山ブーム”の原因と考へる。
女形は、わづかにかぶきのジャンルにみられるだけで、新派でも早晩衰徴していくだらう。そのなかで
現代女形―丸山明宏の誕生は心づよい。西洋では“フィーメン・イン・パーソナリティー”といふ完全な
道化役者はゐるが、日本のやうな女形は、シェークスピア時代からさびれた。だから女形は日本のほこりで、
女形がなくなったらかぶきは消えてしまふとさへ断言できる。中村歌右衛門でもさうだが、丸山には女形特有の
我の強さ、意思の強さを猛烈に持つてゐる。よくいへば根性があるといふのか……。それだから彼の可能性は、
まだまだ発掘されるにちがひない。

三島由紀夫「可能性はまだまだ―現代の女形―丸山明宏」より

343:無名草子さん
10/11/19 16:40:27 .net
さてこの主人公の女賊黒蜥蜴は、十九世紀風フランス大女優の役どころで、どこから見ても、tres tres grande dame
でなければならない。現存の女優では、エドウィージュ・フィエールなんかがこれに当るだらう。初演のときには、
水谷八重子さんがみごとな成果をあげた。水谷さんのもつ堂々たる風格と、「無関心の色気」ともいふべきものと、
その古風なハイカラ味とは、余人の追随すべからざる成果を示した。
さて、これを他の女優に求めようとしても、この日本の中にちよつと求められない。新配役による再演が永いこと
実現しなかつたのはこのためもあるが、先ごろ「毛皮のマリー」を見て、丸山明宏君の演技に私は瞠目した。
君とは旧知の仲だが、歌は天才的であつても、長いセリフをこれほど堂々とこなせるとは、正直に言つて、
想像もしてゐなかつたのである。容姿から言つたら、「黒蜥蜴」にピタリのことはわかつてゐたが、セリフで
作者を唸らせてくれるかどうか未知数だつたのである。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』」より

344:無名草子さん
10/11/19 16:43:05 .net
「毛皮のマリー」で、丸山君は、長いセリフをみごとに構成し、一句一句を情感でふるはせながら、しかも強い
ハガネの裏打ちを施し、セリフが最後の頂点にいたると、噴出する悲劇的感情で観客の心をわしづかみにするといふ、
一種壮麗な技法を示した。おどろいたのは私ばかりではなかつた。演出の松浦竹夫氏も驚嘆し、二人で相談して、
実現をはかることになつた。そこへ今度松竹の重役になつた永山雅啓氏が、折よく手をさしのべてくれたのである。
もう一人の問題は、相手役の明智小五郎だつた。このダンディ、この理智の人、この永遠の恋人を演ずるには、
風貌、年恰好、技術で、とてもチンピラ人気役者では追ひつかない。種々勘考の末、天知茂君を得たのは大きな
喜びである。映画「四谷怪談」の、近代味を漂はせたみごとな伊右衛門で、夙に私は君のファンになつて
ゐたのであつた。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』」より

345:無名草子さん
10/11/25 19:36:49 .net
命日アゲ

346:無名草子さん
10/11/28 15:23:54 .net
最近東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。日本のあらゆる新聞が
この青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。(中略)
私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。ただあらゆる新聞が無名の一青年をこれほど
口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな反応を示したといふことに興味を持つたのである。
左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。
かういふヒステリー症状は、ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。この怒り、この罵倒の下に、
かれらは何を隠さうとしたのであらうか。
日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度も
ボロが出た。最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の列に入つて、
もうボロを出す心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ日本文化であると
宣伝してゐればよかつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

347:無名草子さん
10/11/28 15:25:12 .net
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。浅沼氏は右翼の十七歳の
少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。このとき丁度パリのムーラン・ルージュでは
Revue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。
在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。
誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。私がいつも思ひ出すのは、
今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな非合理な事件として
インテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

348:無名草子さん
10/11/28 15:26:21 .net
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、
明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。(中略)あらゆる西欧化に反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、
武士の魂である刀をとりあげるに及び、すでにその地方に配置された西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、
百名が日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の小銃で撃ち倒され、敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。正にその通りで、
一つの例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を作つたが、その際
起つたもつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。他の叛乱は、もつと政治的色彩が
濃厚であり、このやうに純思想的文化的叛乱ではない。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

349:無名草子さん
10/11/28 15:27:23 .net
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。それについて
探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を固執するはうを
選ぶだらう。しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついて
ゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の
歩みと共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。
そして日本の近代ほど、光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

350:無名草子さん
10/11/28 15:28:21 .net
私の四十年の歴史の中でも、前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、
戦後の二十年は、平和主義の下で、あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。
そして、失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が
起るのであつた。
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、
あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、
気づかれない。反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した
事例であつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

351:無名草子さん
10/11/28 15:30:09 .net
それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、ヴィエトナムが
どこにあるかさへ知らなかつたのである。
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題であることに
気づかない。九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、
そのやうな無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐた
のである。これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、
最初の過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした
予感の中にあつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。

三島由紀夫「日本文化の深淵について」より

352:無名草子さん
10/12/01 18:00:47 .net
僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。僕らの肯定は諦観ではない。
僕らの肯定には残酷さがある。―僕らの数へ切れない喪失が正当を主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦
正当である筈だ。なぜなら歴史に於ける蓋然性の正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは達するといふのか。
僕らは止められてゐる。僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。時空の凡ゆる制約が、僕らの目には
可能性の仮装としかみえない。僕らの形成の全条件、僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、―
そこに僕らはたえず僕らを無窮の星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。決定されてゐるが故に
僕らの可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は永遠である。

平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

353:無名草子さん
10/12/01 18:03:42 .net
(中略)
新らしさが「発見」であるとするならば、発見ほど既存を強く意識させるものはない筈だ。発見は「既存」の
革命であるが、それは既存そのものの本質的な変化ではなく、既存の現象的相対的変化に他ならない。既存の
革命といふよりも、既存の意味の革命といふべきだ。(中略)
読者は僕らがなぜ革命を云はうとするのか訝(いぶ)かるかもしれない。しかし手始めに僕らは、革命といふ
概念の古さを修正しようとかかつてゐるのだ。十八世紀以来使ひ古されたこの陳腐な概念そのものに、革命を
与へることからはじまるのだ。(中略)
僕らは永遠への思慕を忘れかねて革命を欲求する。衝動のはげしさは革命の概念によつて盲目にされはしない。
熱情の血との併有。信仰と懐疑との美はしい共在。僕らは革命のスツルム・ウント・ドランクを通じて、無風帯を
留保しておくだらう。(中略)
熱情に対して、より低い次元の侵入を警戒せねばならない。あらゆる批判と警戒の冷水も、真の陶冶されたる熱情を
昂(たか)めこそすれ、決してもみ消してしまふものではない。むしろあらゆる冷血にも耐へうる熱情の強さに
僕らは誇りを感じるべきだ。(中略)

平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

354:無名草子さん
10/12/01 18:09:28 .net
たえず高きを憧れる存在が同じくその存在にとつて本質的な他のものによつて掣肘される時醸し出される緊張は、
その存在から矛盾と衝突が取除かれ融和と協同のみが得られる所謂「完成」と之を比べる時、何れ劣らぬものを
もつてゐるのではあるまいか。形成とは本質的なるものの分裂とその対立緊張による刻々の決闘である。
結果たる勝敗を本質的なものとして固定的に考へるならそれは変様と過渡とにすぎぬが、併し真の普遍性と
永遠性は後者のなかに見出だされるかもしれないのだ。独創性は真の普遍性の海のなかでしか発見されぬ真珠である。
不変なるものは変様のうちにひそんでゐるかもしれない。僕らの若さはなるほど本質的なるものが分裂し互に
制約する点にもともと悲劇的なものであるといへるし、若さそれ自身が不吉であるとさへ感ぜられる。しかし
傍目には退屈なこの形成の過程は、それから生れ出る結果を俟(ま)つまでもなく、それがそのまま抽象されて
評価に耐へうる筈だ。未完的完結の形に於てその刹那刹那に終止する否定しがたい意味が見られる筈だ。

平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

355:無名草子さん
10/12/01 18:12:25 .net
その外見上の未熟と不完全とにも不拘(かかはらず)、(壮年老年の文学が表現によつて定型化されるなら)、
若年の文学は表現を掣肘せんとする凡ゆる時間的空間的因子によつて定型化されるであらう。いはゞそれは
ネガティヴな、これまた貴重な表現型式であるといはねばならない。若年の文学的作品はその言語的表現以前の
評価の基準となりうべき、或るかけがへのない不吉な「確かさ」に満ちてゐるものだ。
かくて僕らは若年の権利を提言する。「たゞ若年に可能性をのみ発掘しようとする努力に終るな。なぜなら我々の
最も陥りやすい信仰の誤謬は、存在そのものを信仰してゐるつもりでその存在の可能性のみを信仰してゐることに
存するのだから」かくの如く僕らは主張し警告することを憚るまい。(中略)
新らしい時代を築かうとする若年には夭折の運命がある。神の国を後にした古事記の王子(みこ)たちは、
凡て若くして刃に血ぬられた。彼等と共に矜り高くその道を歩むことを、恐らく僕らの運命も辞すまい。

平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

356:無名草子さん
10/12/07 10:08:16 .net
私が法廷で述べたことは、この映画の醜悪さは議論の余地がないこと、この映画の主題は(たとへば私の
映画「憂国」が、一定の政治状況下において、性が異常に美しく昂揚するのを描いたのとちやうど反対に)
一定の政治状況下において、性が極度に歪められ圧殺されるのを描いてゐること、性行為はそのやうな醜悪な
形でのみ描かれ、唯一の純情な恋人同士の間には性交が存在しないこと、能の居グセその他の様式を大胆に用ひ、
また長回しの技巧によつて、一時的な性的印象を政治的寓喩へ移行させる様式をはつきり意図してゐることであつた。
今も私のこのやうな考へに変はりはない。
すばらしく穢(きたな)らしい映画であるが、問題の米軍基地のそばを裸女が駆ける場面だけは、ふしぎに
美しい印象になつて残つてゐる。あそこには、何か壮烈なものがあつた。何もしひて、裸女を日本の象徴と
見立てなくても。

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より

357:無名草子さん
10/12/07 10:10:15 .net
(中略)私は事文化に関しては、あらゆる清掃、衛生といふ考へがきらひである。蠅のゐないところで、
おいしい料理が生まれるわけがない。アメリカ文化を貧しくさせたものは、清教徒主義と婦人団体であつて、
日本精神はもつともつと性に関して寛容なのである。日本文化の伝統は、性的な事柄に関する日本的寛容の下に
発展してきたものである。教育ママ的清潔主義(ミュゾフォビー)は、外来文化の皮相な影響であるから、
武智氏のいはゆる「民族主義」作品が、教育ママに死刑を宣告されることは、いかにもありさうな事態であつた。
そして、政治的にも、保守と革新が、仲よく手を握る分野は、かかる教育ママ的清潔衛生思想の分野であつて、
現下日本で、イデオロギーを越えたもつとも甘い超党派理念は「偽善」である。「黒い雪」に目クジラを立てた
婦人層の何割かは「清潔」な美濃部都知事には安心して投票したにちがひない。(中略)

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より

358:無名草子さん
10/12/07 10:12:45 .net
いくら「黒い雪」が穢らしくても、偽善よりはよほどマシである。映画も芸術の一種として、芸術のよいところは、
そこに呈示されてゐるものがすべてだといふことだ。芸術は、よかれあしかれ、露骨な顔をさらけ出してゐる。
それをつかまへて「お前は露骨だ」といふのはいけない。要するに、国家権力が人間の顔のよしあしを判断することは
遠慮すべきであるやうに、やはり芸術を判断するには遠慮がちであるべきである、といふのが私の考へである。
それが良識といふものであり、今度の判決はその良識を守つた。
この一線が守られないと、芸術に清潔なウットリするやうな美しさしか認めることのできない女性的暴力によつて、
いつかわが国の芸術は蹂躙されるにいたるであらう。われわれは、二度と西鶴や南北を生むことができなくなるであらう。

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より

359:無名草子さん
10/12/17 23:21:09 .net
伝播の速い世の中では、今日の独断も、明日の通念になる。あなたがロマンチストと言つて下さつた以上、明日から
私はロマンチストでとほりさうです。いづれにせよ、人がかぶれといふ帽子を、私は喜んでかぶるつもりです。
たとへそれが、あのルイ王がかぶらされたといふ三角帽子であつても。
ただ私の何とも度しがたい欠陥は、自分に関する最高の通念も、最低の通念も、同じやうに面白がることなのです。
これはほとんど私の病気です。おしまひにはいつもかう言ひたくなる。「何を言つてやがる。俺は実は俺ぢや
ないんだぞ」これが私の自負の根元であり、創作活動の根源です。そしてこれが、あらゆる通念を喜んで
受け入れる私の態度の原因なのです。

三島由紀夫「オレは実はオレぢやない(村松剛氏の直言に答へる)」より

360:無名草子さん
10/12/17 23:22:16 .net
私は不断の遁走曲であり、しかも、いつも逃げ遅れてゐる者です。子供のころ、学校で集団でイタヅラをすると、
いつも逃げ遅れるのが、私ともう一人Kといふ生徒でした。そこで私とKはつかまつて、先生から、鉢合せの罰を
うけるのでした。こんな痛い刑罰はない。しかしKのオデコにはコブができないのに、私のオデコにだけは
コブができた。これが爾後、私の宿命となつたやうに思はれます。

三島由紀夫「オレは実はオレぢやない(村松剛氏の直言に答へる)」より

361:無名草子さん
10/12/21 22:57:46 .net
聞くところによると、例の「風流夢譚」掲載のいきさつについて、中央公論の嶋中社長がその掲載を反対したにも
かかはらず、あたかもぼくが圧力かけて掲載させたやうに伝はつてゐるらしいんです。
これはとんでもない誤解で、推薦した事実さへない。第一、新人の原稿ならいざ知らず、深沢さんといへば
一本立ちの作家ですからね、だれそれの推薦なんてあり得ないぢやないですか。世間ではよく、ある出版社の
背後にはこれこれといふ作家がゐて、その作家の言ふことならきく、といふやうな考へを持つ人がゐるらしいが、
それは“編集権”の存在を知らない者の言ふことで、編集権を侵害しないといふモラルは、ぼく自身いつも
守つてきたはずだ。ただ例外があるとすれば、“文学賞”の審査員になつたときくらゐのものだらう。そのときだつて、
技術顧問的な役割で、作品の芸術的な判断以外の社会的な影響にまでは、タッチしないものだ。

三島由紀夫「『風流夢譚』の推薦者ではない―三島由紀夫氏の声明」より

362:無名草子さん
10/12/21 22:59:33 .net
かういふ事情を知つてゐれば、ぼくが「風流夢譚」を掲載するやうに圧力をかけたなんていふことがナンセンスだと
いふことがよくわかるはず。しかし、それにもかかはらずぼくの名が使はれたとすれば、それは一部の者が
苦しまぎれの逃げ口上に使つたのではないか。さう思へば使つた者にも同情の余地があるのだが、迷惑うけるのは
こちらだからね。ともかくふりかかつた火の粉ははらひ落としたいといふのが本音だ。この際、次第に
大きくなる風説―新聞雑誌でもそんな書き方をされてゐるんで―の誤解をときたい……。
(談)

三島由紀夫「『風流夢譚』の推薦者ではない―三島由紀夫氏の声明」より

363:無名草子さん
10/12/28 01:14:32 .net
福田 浅田彰が言うように、あまり日本、日本と言わなくてもみんなそうなんだか
らというのもあるじゃない。倫理不在のだらしのない日本人のあり方、みたいな。
「あなたがたがおっしゃるように国が大事だと言うのはわかるけれど、日本人は
みんな弱虫ばかりなんだから、みんな最後に国家、国が助けろと言うに決まって
いる。そんな連中相手に国と言ってもしようがないですよ」と言うような、ね。
宮崎 それはあまりに正確無比過ぎて、かえってつまらない観測(笑)。
福田 正しい。でも、そんな弱虫じゃ嫌じゃん。まあ大体そうだけど。ちょっと批判
すると、すぐピーピー騒ぐし。
宮崎 何でこいつ生きてるんだろうとかって思いたくなるよね(笑)。
福田 でも浅田氏の言うとおりなんだよ。弱者のナショナリズム、こうしたルサンチ
マンによる無意識な弱者の糾合。これが僕は一番嫌なんだ。国家的なナショナリ
ズムの問題だってね、自虐史観と言われている史観にしても、そのカウンターパー
トである自由主義史観トカナントカにしても、結局どっちも被害者史観でしょう。国家
にイジメられたか、あるいは国際社会にイジメられたか、これまでの定説では日本
はおとしめられていたとか、位相の違いがあるにしろ、イジメられっ子の話でしょう。
イジメられっ子はキライでね、私は。
(『愛と幻想の日本主義』pp.17-18)

364:無名草子さん
11/01/02 20:17:28 .net
少しでも自動車をころがしてみた人なら、白バイの存在を意識しなかつたといふ人はあるまい。それは、
ゐませんやうにと神に祈るほどの存在であり、しかも、どこかにゐてくれなくては物足らない存在である。だから
ますますそれは、小イキな服装と小イキな白いオートバイと共に、神秘化される。悪人の目から見たところの
鞍馬天狗のやうな存在、善良な市民にちよつぴり悪人の気持を味はせてくれる存在である。その威厳、その美しさ、
その神速、その権力、一つとして羨望の的ならざるはない。白バイを怖がつたことのある人なら、必ず一度は、
白バイになつてみたいと思ふだらう。

三島由紀夫「私はこれになりたかつた―それは白バイの警官です」より

365:無名草子さん
11/01/08 15:05:36 .net
「葉隠」の恋愛は忍恋(しのぶこひ)の一語に尽き、打ちあけた恋はすでに恋のたけが低く、
もしほんたうの恋であるならば、一生打ちあけない恋が、もつともたけの高い恋であると
断言してゐる。
アメリカふうな恋愛技術では、恋は打ちあけ、要求し、獲得するものである。恋愛の
エネルギーはけつして内にたわめられることがなく、外へ外へと向かつて発散する。
しかし、恋愛のボルテージは、発散したとたんに滅殺されるといふ逆説的な構造をもつてゐる。
現代の若い人たちは、恋愛の機会も、性愛の機会も、かつての時代とは比べものにならぬほど
豊富に恵まれてゐる。しかし、同時に現代の若い人たちの心の中にひそむのは恋愛といふものの
死である。もし、心の中に生まれた恋愛が一直線に進み、獲得され、その瞬間に死ぬといふ
経過を何度もくり返してゐると、現代独特の恋愛不感症と情熱の死が起こることは
目にみえてゐる。若い人たちがいちばん恋愛の問題について矛盾に苦しんでゐるのは、
この点であるといつていい。

三島由紀夫「葉隠入門」より

366:無名草子さん
11/01/08 15:08:46 .net
かつて、戦前の青年たちは器用に恋愛と肉欲を分けて暮らしてゐた。大学にはいると先輩が
女郎屋へ連れて行つて肉欲の満足を教へ、一方では自分の愛する女性には、手さへ
ふれることをはばかつた。
そのやうな形で近代日本の恋愛は、一方では売淫行為の犠牲のうへに成り立ちながら、
一方では古いピューリタニカルな恋愛伝統を保持してゐたのである。しかし、いつたん
恋愛の見地に立つと、男性にとつては別の場所に肉欲の満足の犠牲の対象がなければならない。
それなしには真の恋愛はつくり出せないといふのが、男の悲劇的な生理構造である。
「葉隠」が考へてゐる恋愛は、そのやうななかば近代化された、使ひ分けのきく、要領のいい、
融通のきく恋愛の保全策ではなかつた。そこにはいつも死が裏づけとなつてゐた。
恋のためには死ななければならず、死が恋の緊張と純粋度を高めるといふ考へが「葉隠」の
説いてゐる理想的な恋愛である。

三島由紀夫「葉隠入門」より

367:無名草子さん
11/01/12 11:36:52 .net
おそるべき人生知にあふれたこの著者(山本常朝)は、人間が生だけによつて生きるものではないことを知つてゐた。
彼は、人間にとつて自由といふものが、いかに逆説的なものであるかも知つてゐた。そして人間が自由を
与へられるとたんに自由に飽き、生を与へられるとたんに生に耐へがたくなることも知つてゐた。
現代は、生き延びることにすべての前提がかかつてゐる時代である。平均寿命は史上かつてないほどに延び、
われわれの前には単調な人生のプランが描かれてゐる。青年がいはゆるマイホーム主義によつて、自分の小さな巣を
見つけることに努力してゐるうちはまだしも、いつたん巣が見つかると、その先には何もない。あるのはそろばんで
はじかれた退職金の金額と、労働ができなくなつたときの、静かな退職後の、老後の生活だけである。(中略)
戦後一定の理想的水準に達したイギリスでは、労働意欲が失はれ、それがさらには産業の荒廃にまで結びついてゐる。

三島由紀夫「葉隠入門」より


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