□■□評論家・三島由紀夫■□■at BOOKS
□■□評論家・三島由紀夫■□■ - 暇つぶし2ch123:無名草子さん
10/09/20 11:21:53 .net
○ 同情について
―同情は特殊な情緒である。その情緒としての独立性に於て喜怒哀楽と対等であるとしての。
―同情は最も人間的な情緒である。
人間的なるものには人間冒涜的なるものが含まれる。神的なるものは神的なるもののみから、
悪魔的なるものは悪魔的なるもののみから形成さるゝのに。……かくて同情は、
かゝるものとしての人間的なるものゝ典型である。それは人類の最も本質的な病気であり、
愛の頽廃である。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

124:無名草子さん
10/09/20 11:22:17 .net
―同情の涙は嬉し涙と同類に数へらるべきであり、義憤と同範疇に入れらるべきではない。
義憤はある道徳観念(「正義感」その他を含む)と情緒との結合であり、その強度は
この結合の確信の強度に正比例する。偶発的な結合をも確信が之を必然化する。かくて
義憤は結合の一因子たる道徳観念の上によりも、結合の確信の上に、より多く立つが、
しかしなほ、その因子の故に価値判断の対象たりうるが、同情の涙は嬉し涙と同じく
単なる情緒間の結合であつて、何ら価値判断の対象たりえない。しかるに世間は、久しく
この「同情の涙」をば結果あるひは結果としての行為から判断して、価値判断の対象とする
底(てい)の誤謬を犯して来た。
―同情ほど偏見によつて意味づけられて来た、又意味づけられるべき情緒はない。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

125:無名草子さん
10/09/20 11:27:12 .net
○ 痒さには幸福に似た感情がある。一面幸福とは痒さに似たものではあるまいか。

○ いかなる兇悪な詐欺師からよりも、師から我々は欺かれやすい。しかしそれは
明らかに教育の一部である。

○ 精神の知恵では女は男にはるかに劣るが、肉体の知恵では女は男をはるかに凌ぐ。

○ フリードリヒ・ニイチェの思想は要約するに次の一行を以て足る。
「我愛さず。愛せられず。我唯愛さしむ」


詩人の中核にあるものは烈しい灼熱した純潔である。それは詩人たる出生に課せられた
刑罰の如きものであり、その一生を、常人には平和の休息が齎らされる老年期に於ても亦、
奔情の痛みを以て貫ぬく。どこまでこの烈しい純潔に耐へるかといふ試みが詩人の作品である。
それは生涯に亘る試作の連続である。然しながら「耐へる」(経験的ナルモノ)といふことと
「試みる」(意志的ナルモノ)といふこととの苦渋にみちたこの結婚には、本質的な
悲劇が宿るであらう。こゝに特殊な形成の形態が語られてゐる。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

126:無名草子さん
10/09/20 11:28:08 .net
かゝる純潔はラジウムの如きものである。恐るべき速度を以て崩壊し放射しつゝあるが、
この自己破壊は鉛に化するまで頗る長き時間を要する。詩人の営為もかくのごときものである。
詩人は自らの尾を喰つて自らの腹を肥やす蛇に似てゐる。単なる自己破壊ではない。
それは形成を通して輪廻に連なることができる。詩人の永遠性は自己自身の裡にはじまるのである。
(自己自身から唐突な仕方で永遠につながること)
アルチュウル・ランボオが言つてゐる。
「ひとつこの純潔の度合をじつくり値踏みしてやらう」と。併し神が彼に与へた
運命的な時間は、「じつくりと」値踏みする余裕をもたせなかつた。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

127:無名草子さん
10/09/20 11:30:38 .net
まことに小鳥の死はその飛翔の永生を妨げることはできない。中絶はたゞ散歩者が何気なく歩みを止めるやうに
意味のない刹那にすぎない。喪失がありありと証ししてみせるのは喪失それ自身ではなくして輝やかしい存在の
意義である。喪失はそれによつて最早単なる喪失ではなく喪失を獲得したものとして二重の喪失者となるのである。
それは再び中絶と死と別離と、すべて流転するものゝ運命をわが身に得て、欣然輪廻の行列に加はるのである。
別離が抑(そもそも)何であらうか。歴史は別離の夥しい集積であるにも不拘(かかはらず)、いつも逢着として、
生起として語られて来たではないか。会者必離とはその裏に更に生々たる喜びを隠した教へであつた。
別離はたゞ契機として、人がなほ深き場所に於て逢ひ、なほ深き地に於て行ずるために、例へていはゞ、池水が
前よりも更に深い静穏に還るやうにと刹那投ぜられた小石にすぎない。それはそれより前にあつたものゝ存在の
意義を比喩としつゝ、それより後に来るものゝ存在を築くのである。即ち別離それ自体が一層深い意味に於ける
逢会であつた。私は不朽を信ずる者である。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「別れ」より

128:無名草子さん
10/09/20 15:41:21 .net
石川淳氏の志操の高さ、現代文学に稀に見る気品については、語る人も多からう。私は殊に氏の文体が、
あらゆる意味で反時代的なところに敬愛の念を寄せてゐる。それは精神の迅速な運動を裸かのまま跡づけて
読者の目に示すことでは、正しく散文の重要な機能を果してゐるが、同時に、その豊富な語彙と柔軟性の
かぎりを尽した姿は軽業師の鍛へられた肉体を思はせ、文体を通じて、われわれは氏の精神の目もあやな運動に
見とれるのである。それは合せ鏡のやうな文体であり、われわれは氏の精神を喜ぶとき、たちまちその運動を喜ぶ。
しかしこのやうな神速のスピードは、日本の近代文学が忘れ去つた西鶴その他の江戸文学の文体の流れを引き、
同時に氏の西欧的教養は、日本の古い装飾的要素を剥奪して、ただ古い日本語の密度と、天空をゆくが如く
スピードを復活させるのに役立つた。この全集によつて、美しい日本語とはどんなものか知るがよい。

三島由紀夫「美しい日本語―石川淳全集推薦の言葉」より

129:無名草子さん
10/09/20 15:49:05 .net
刑事が被疑者を扱ふやうに、当初から冷たい猜疑の目で作家を扱ふ作家論が、いつも犀利な批評を成就するとは
限らない。義務的に読まされる場合は別として、私は虫の好かぬ作家のものは読まぬし、虫の好く作家のものは読む。
すでに虫が好いてゐるのであるから、作品のはうも温かい胸をひらいてくれる。そこへ一旦飛び込んで、
作家の案内に委せて、無私の態度で作中を散歩したあとでなければ、そもそも文学批評といふものは成立たぬ、
と私は信ずるものだ。ましてイデオロギー批評などは論外である。非政治主義を装つた、手のこんだ
政治主義的批評は数多いのである。
これが私の基本的態度であるから、はじめから気負ひ立つた否定などは、一度も企てたことがなかつた。
否定が逸するところのものを肯定が拾ふことがある。もしその拾つたものに批評の意味が発見されれば、
本書の目的は達せられたことにならう。

三島由紀夫「『作家論』あとがき」より

130:無名草子さん
10/09/21 00:35:29 .net
若い世代は、代々、その特有な時代病を看板にして次々と登場して来たのであつた。


退屈がなければ、心の傷痍は存在しない。戦争は決して私たちに精神の傷を与へはしなかつた。


「芸術」とは人類がその具象化された精神活動に、それに用ひられた「手」を記念するために
与へた最も素朴な観念である。

三島由紀夫「重症者の兇器」より

131:無名草子さん
10/09/21 00:36:28 .net
芸術とは私にとつて私の自我の他者である。私は人の噂をするやうに芸術の名を呼ぶ。
それといふのも、人が自分を語らうとして嘘の泥沼に踏込んでゆき、人の噂や悪口を
いふはづみに却つて赤裸々な自己を露呈することのあるあの精神の逆作用を逆用して、
自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。
これは、西洋中世のお伽噺で、魔法使を射殺するには彼自身の姿を狙つては甲斐なく、
彼より二三歩離れた林檎の樹を狙ふとき必ず彼の体に矢を射込むことができるといふ秘伝の
模倣でもあるのである。―端的に言へば、私はかう考へる。(きはめて素朴に考へたい。)
生活よりも高次なものとして考へられた文学のみが、生活の真の意味を明かにしてくれるのだ、と。

三島由紀夫「重症者の兇器」より

132:無名草子さん
10/09/21 11:42:52 .net
人間は結局、前以て自分を選ぶものだ。


逆説はその場のがれこそなれ、本当の言ひのがれにはなりえない。逆説家は逆説で自分を
追ひつめ、どどのつまりは自分自身から言ひのがれの権利をのこらず剥奪してしまふのである。
逆説家がしばしばいちばん誠実な人間であるのはこのためだ。逆説家がいちばん神に
触れやすいのもこの地点だ。神は人間の最後の言ひのがれであり、逆説とは、もしかすると
神への捷径だ。

*「捷径」の意味…近道

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

133:無名草子さん
10/09/21 11:43:47 .net
天才(ジェニー)。才能(タラン)。誰がそれを分割することができよう。


才能とは決して不完全な天才のことではない。才能と天才は別の元素だ。それにもかかはらず、
われわれはワイルドの作品のいたるところに不完全な天才を見出だすのである。


ワイルドの哄笑は、言葉の本来の意味での悪魔的な笑ひである。悪魔の発明は神の衛生学だ。
ワイルドの悪魔主義は衛生的なものだ。この笑ひは衛生的なものだ。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

134:無名草子さん
10/09/21 11:44:36 .net
苦痛は一種のドラマである。人がその欲しないものへ赴くためには、丁度子供が
歯医者へゆく御褒美に菓子をせびるやうに、虚栄心をせびらずにはゐられない。


社会はある男を葬り去らうとまで激昂する瞬間に、もつともその男を愛してゐるもので、
これは嫉妬ぶかい女と社会とがよく似てゐる点である。軽業師は観客の興味を要求することに
飽き、つひには恐怖を要求することに苦心を重ねて、死とすれすれな場所に身を挺する。
彼が死ぬ。それはもはや椿事だ。綱渡り師の墜死は、芸当から単なる事件への、
おそろしい失墜である。イギリス社会にはとりわけイギリス特産の、醜聞といふ「死」の
一つの様式があつたので、綱渡り師がこの危険に誘惑を感じない筈はないのであつた。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

135:無名草子さん
10/09/21 11:46:03 .net
生活とは決して独創的でありえない何ものかだ。ホフマンスタールの忠告にもかかはらず、
しかし運命のみが独創的でありうる。キリストが独創的だつたのは、彼の生活のためではなく、
磔刑といふ運命のためだ。もうひとつ立入つた言ひ方をすると、生活に独創的な外見を
与へるのは運命といふものの排列の独創性にすぎない。


虚栄心を軽蔑してはならない。世の中には壮烈きはまる虚栄心もあるのである。
ワイルドの虚栄心は、受難劇の民衆が、血が流れるまで胸を叩きつづけるあの受苦の
虚栄に似てゐたやうに思はれる。何故さうするか。それがその男にとつての、ともかく
最高度と考へられる表現だからである。ワイルドが彼の詩に、彼の戯曲に、彼の小説に
選択する言葉は、かうした最高度の虚栄であつた。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

136:無名草子さん
10/09/21 11:46:52 .net
音楽は詐術ではない。しかし俳優は最高の詐術であり、アーティフィシャルなものの最上である。
それは人間の言葉である台詞が無上の信頼の友を見出だす分野である。


ワイルドはその逆説によつて近代をとびこえて中世の悲哀に達した。イロニカルな作家は
バネをもつてゐる人形のやうに、あの世紀末の近代から跳躍することができた。
彼は十九世紀と二十世紀の二つの扇をつなぐ要の年に世を去つた。彼は今も異邦人だ。
だから今も新しい。ただワイルドの悪ふざけは一向気にならないのに、彼の生まじめは、
もう律儀でなくなつた世界からうるさがられる。誰ももう生まじめなワイルドは相手にすまい。
あんなに自分にこだはりすぎた男の生涯を見物する暇がもう世界にはない。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

137:無名草子さん
10/09/21 11:51:05 .net
作家といふものは、いつもその時代と、娼婦のやうに、一緒に寝るべきであるか? 
もちろん小説には、まぬがれがたい時世粧といふものは要る。しかし反動期における
作家の孤立と禁欲のはうが、もつと大きな小説をみのらせるのではないか? 
……それにしても、作家は一度は、時代とベッドを共にした経験をもたねばならず、
その記憶に鼓舞される必要があるやうだ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

138:無名草子さん
10/09/21 11:52:12 .net
第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。
第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ。女と心中したりする小説家は、
もう少し厳粛な風貌をしてゐなければならない。
私とて、作家にとつては、弱点だけが最大の強味となることぐらゐ知つてゐる。しかし
弱点をそのまま強味へもつてゆかうとする操作は、私には自己欺瞞に思はれる。(中略)
太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な
生活で治される筈だつた。生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ。
いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

139:無名草子さん
10/09/21 11:54:21 .net
絶望から人はむやみに死ぬものではない。


典型的な青年は、青春の犠牲になる。十分に生きることは、生の犠牲になることなのだ。
生の犠牲にならぬためには、十分に生きず、フランス人のやうに吝嗇を学ばなければならぬ。
貯蓄せねばならぬ。卑怯な人間にならなければならぬ。


芸術は認識の冷たさと行為の熱さの中間に位し、この二つのものの媒介者であらうが、
芸術は中間者、媒介者であればこそ、自分の坐つてゐる場所がひろびろと、居心地の
よいことをのぞまず、むしろつねに夢みてゐるのは、認識と行為とがせめぎ合ひ、
(那須の)与市のそれのやうに、ぎりぎりの決着のところで結ばれて、芸術を押しつぶして
しまふことなのである。そして芸術がいつもかかるものから真の養分を得て、よみがへつて
来たといふ事実以上に、奇怪な不気味なことがあらうか?


われわれが文明の利便として電気洗濯機を利用することと、水爆を設計した精神とは無縁ではない。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

140:無名草子さん
10/09/21 11:58:03 .net
さまざまな自己欺瞞のうちでも、自嘲はもつとも悪質な自己欺瞞である。それは他人に
媚びることである。他人が私を見てユーモラスだと思ふ場合に、他人の判断に私を売つてはならぬ。
「御人柄」などと云つて世間が喝采する人は、大ていこの種の売淫常習者である。


私はかつて、真のでくのばうを演じ了せた意識家を見たことがない。


傷つきやすい人間ほど、複雑な鎖帷子(くさりかたびら)を織るものだ。そして往々
この鎖帷子が自分の肌を傷つけてしまふ。しかしこんな傷を他人に見せてはならぬ。
君が見せようと思ふその瞬間に、他人は君のことを「不敵」と呼んでまさに讃(ほ)めようと
してゐるところかもしれないのだ。


都会の人間は、言葉については、概して頑固な保守主義者である。


正しい狂気、といふものがあるのだ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

141:無名草子さん
10/09/21 16:42:55 .net
少なくとも私の育つてきた時代には、「鴎外がわかる」といふことが、文学上の趣味(グウ)の目安になつてをり、
漱石はもちろん大文豪ではあるが、鴎外よりもずつとわかりやすい、「より通俗な」ものと考へられてゐたのである。
「わかりやすいものは通俗だ」といふ考へが、いかに永い間、日本の知識人の頭を占めて来たかを思ふと、
この固定観念が全く若い世代から払拭された今、かれらが鴎外を捨てて漱石へ赴くのは、自然な勢ひだとも
いへるのだが、しかし、鴎外が本当に「わかりにくいか」といふ問題には、前述のやうな鴎外伝説、鴎外の
神秘化の力が作用してゐて、一概には言へない。鴎外は、明治以来今日にいたるまで、明晰派の最高峰なのである。

三島由紀夫「解説(日本の文学2 森鴎外)」より

142:無名草子さん
10/09/21 16:43:45 .net
再び問ふ。森鴎外とは何か?
あらゆる鴎外伝説が衰亡した今、私にとつては、この問ひかけが、一番の緊急事に思はれる。
もちろん、綜合的人格「全人」としての鴎外を評価することは重要である。しかしすべての伝説が死に、
知識の神としての畏怖が衰へた今こそ、鴎外の文学そのものの美が、(必ずしも多数者によつて迎へられずとも)
純粋に鮮明にかがやきだす筈だと思はれる。

三島由紀夫「解説(日本の文学2 森鴎外)」より

143:無名草子さん
10/09/21 16:45:30 .net
鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの盲目的崇拝を失つた今、言葉の芸術家として真に復活すべき
人なのだ。言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創り上げてしまつたその天才を称揚すべきなのだ。
どんな時代にならうと、文学が、気品乃至品格といふ点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の
気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な檜のみで築かれた
建築のやうに、一つの建築的精華なのだ。現在われわれの身のまはりにある、粗雑な、ゴミゴミした、無神経な、
冗長な、甘い、フニャフニャした、下卑た、不透明な、文章の氾濫に、若い世代もいつかは愛想を尽かし、
見るのもイヤになる時が来るにちがひない。人間の趣味は、どんな人でも、必ず洗練へ向つて進むものだからだ。
そのとき彼らは鴎外の美を再発見し、「カッコいい」とは正しくこのことだと悟るにちがひない。

三島由紀夫「解説(日本の文学2 森鴎外)」より

144:無名草子さん
10/09/21 20:27:43 .net
竜灯祭へお招きをうけて、灯籠流しにもいろいろの趣きがあるのを知つた。今まで私がしばしば見たのは
熱海の灯籠流しであつたがこれはふつうの施餓鬼の行事で、ひろい海面の潮のまにまに灯籠が漂ふのは、淋しい
彼岸へ心を誘はれる心地がした。柳橋の竜灯祭は神事である上に、いかにもこの土地らしい華麗なものである。
川面いちめんに灯籠が流れ出す数分間はふだんはただ眺めてゐるだけの隅田川をわれとわが手で流した灯籠で、
占領してしまつたやうな快感を与へる。地上の豪奢を以て、水中の竜神の心を慰めるといふ趣きがある。それが
いかにも「竜灯祭」といふ名にふさはしいのである。
また、それから引き潮に乗つてあれほど夥しかつた灯籠が、数分間のうちにほとんど視界を没し去るのも、
いかにもいさぎよくて、江戸前の感じがする。執念が残らないで、さはやかなのである。

三島由紀夫「竜灯祭」より

145:無名草子さん
10/09/21 20:28:04 .net
最後まで料亭の舟着場の下などにまつはりついて離れない少数の灯籠もあるが、これも執念といふものではなくて、
そのすぐ上方の座敷のさんざめき、美妓のたたずまひなどに心を残して、無邪気にそこに居据つてしまつた感じで
可愛らしい。あたかもその十いくつの灯籠だけが、そろつて首をもたげてうすく口をあけて、地上の遊楽の
美しさを讃美してゐるやうだ。
灯籠流しといふと、人はすぐ暗い仏教的イメーヂを持つが、私の発見したのは別のものだつた。このごろの
大キャバレエの遊びよりも昔の人はもつと豪奢な遊びを知つてゐた。そして消えない電気の光りよりも、
波のまにまに夜のなかへ馳け込んでゆく灯籠の光りのはうに、はるかに、遊楽に一等大切な「時間」の要素が、
いきいきとこめられてゐるのを知つた。一度花やかな頂点に達してそれが徐々に消えてゆく、そのゆるやかな
時間の経過の与へる快さは、快楽の法則に自然に則つてゐて、いづれにしても花火よりも「快楽的」であると
思はれるのだつた。

三島由紀夫「竜灯祭」より

146:無名草子さん
10/09/21 20:32:13 .net
文学に刃物は無用や!

147:無名草子さん
10/09/22 12:38:18 .net
新人の辛さは、「待たされる」辛さである。


青春の特権といへば、一言を以てすれば、無知の特権であらう。


どんな人間にもおのおののドラマがあり、人に言へぬ秘密があり、それぞれの特殊事情がある、
と大人は考へるが、青年は自分の特殊事情を世界における唯一例のやうに考へる。


小説は書いたところで完結して、それきり自分の手を離れてしまふが、芝居は書き了へた
ところからはじまるのである。


芝居の仕事の悲劇は、この世でもつとも清純なけがれのない心が、一度芝居の理想へ
向けられると、必ずひどい目に会ふのがオチだといふことである。


芝居の世界は実に魅力があるけれど、一方、おそろしい毒素を持つてゐる。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より

148:無名草子さん
10/09/22 12:42:39 .net
大体私は「興ひたれば忽ち成る」といふやうなタイプの小説家ではないのである。
いつもさわぎが大きいから派手に見えるかもしれないが、私は大体、銀行家タイプの
小説家である。このごろの銀行が、派手なショウ・ウィンドウをくつつけたりしてゐる姿を、
想像してもらつたらよからう。


忘却の早さと、何ごとも重大視しない情感の浅さこそ、人間の最初の老いの兆(きざし)だ。


文学では、(日本の芸能の多くがさうであるやうに)、肉体が老い朽ちてから、芸術の
青春がはじまるといふ恵みがある。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より

149:無名草子さん
10/09/22 12:51:05 .net
足るを知る人間なんか誰一人ゐないのが社会で、それでこそ社会は生成発展するのである。


空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しない。


男はどんな職業についても、根本に膂力の自信を持つてゐなくてはならない。なぜなら
世間は知的エリートだけで動いてゐるのではなく、無知な人間に対して優越性を証明するのは、
肉体的な力と勇気だけだからだ。

三島由紀夫「小説家の息子」より

150:無名草子さん
10/09/22 19:34:56 .net
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、おかつたるい
ものはない。さて、西部劇に欠くべからざるインディアンのことだが、アメリカ人はインディアンに対しては、
ニグロに対するやうな人種的偏見を持つてゐないらしい。ユンクによると、アメリカ人の英雄類型は結局
インディアンの伝統的英雄に帰着するさうである。アメリカ人の集合的無意識は、自分の祖先を衰弱した白皙の
ヨーロッパ人としてよりも、精力にみちあふれた赤い肌のインディアンとして見てゐるらしい。開拓時代に
インディアンと戦ひながら、アメリカ人は敵の精力をしらずしらず崇拝し、模倣しようとしたかもしれない。(中略)
「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に限つたことでは
ないが)、どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。平和な市民生活に直接の身体的
危険が乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、自動車の制限速度の超過や、犯罪などに向ひ、
あるひは内攻してノイローゼに向ふことになる。西部劇はかういふ不満に対するいかにも
安全な薬品である。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より

151:無名草子さん
10/09/22 19:39:33 .net
ひところ歴史小説と現代小説といふささやかな論争が起こり、私は「作家は現代を描くべきものだ」といふ
高見順氏の説におほむね賛同したが、この論争の困難は要するに時点の設定であつて、太平洋戦争を題材に
歴史小説を書くこともできれば、その前の左翼運動弾圧の時代を題材に、高見氏のいはゆる現代小説を書くことも
できるわけである。
少なくとも自分の体験し生きてきた時期だけを現代小説の取り扱ひうる時期だと考へると、そんな現代意識は
歴史から除外されてゐるかのやうで「現代」といふ観念そのものが、経験主義と、あの悪名高い私小説理念によつて
毒されることになるであらう。そのとき作家にとつての現代とは、きはめて主観的な日々の体験の累積に
ほかならず、もつと厳密にいへば、現在のこの瞬間の、感覚的純粋体験そのものになつてしまふ。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

152:無名草子さん
10/09/22 19:39:48 .net
しかし高見氏はもとより、一般人も「現代」といふときに、そこにはおのづから、特殊の歴史意識を含ませてゐる。
歴史がなほ生成過程にあつて、歴史的創造の余地を残し、未決定の要素を含んでゐる場合に、これをわれわれは
通常「現代」と呼ぶのであつて、昭和初期から今までを現代と呼ぶか、安保闘争から今までを現代と呼ぶかは、
呼ぶ人の史観の相違にほかならない。一つづきの歴史を、どこまでを既済の箱に投げ入れ、どこまでを未済の
箱に残しておくかは、その人の考へ方によることである。といつても、平安朝から今までを一つづきの現代と
考へることは、常識上ありえないから、これも相対的な問題である。
が、私の考へるのに、現代小説か時代小説(あるひは歴史小説)か、といふ問題提起には、もう一つ「現代史」
といふものに関する特殊な思想が働いてゐるやうに思はれる。つまり現代史といふものは本当に未決定なのであるか、
本当にその中に住む人間の歴史的創造の余地があるものなのか、実際にわれわれの自由意志によつて選択される
可能性のあるものなのかといふ問題である。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

153:無名草子さん
10/09/22 19:40:02 .net
ここまで来ると、小説といふジャンルは、現代史を前にして、一体、自由意志の味方なのか、それとも何らかの
決定論的思想の援用なしには成立しないものなのか、そのへんはまだよくわかつてゐないのである。
たとへば、豊臣秀吉なり真田幸村なりを拉し来たつて、彼らの伝記をよく調べ、時代考証も綿密にして、
その上で、つまりがんじがらめの既定の歴史的諸条件を課した上で、彼らに小説家の自由意志を吹き込んでやれば、
ある程度まで巧みに、彼らを「自由意志の傀儡」とすることができる。かういふ場合、(少なくとも表面上は)、
小説なるものは明らかに自由意志の味方であらう。なぜなら、小説家は何らかの決定論的思想などを援用する
必要はないので、それはすでに歴史が決めてくれたことであり、宿命が選んでくれたことだからである。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

154:無名草子さん
10/09/22 19:40:18 .net
かうして書かれた人物は、(巧みに書かれさへすれば)、いかにも活々として見え、いかにも自由に見え、
しかも見事に完結してをり、小説として成功しやすいやうに思はれる。そして小説家の思想は、要するに既定の
歴史の解釈の問題であつて、たとへ作者の人間観が浅薄であつても、歴史そのものがこれを救つてくれる。
高見氏のきらつたのはおそらくこの点であらう。
これな反して、現代小説は成功がむづかしく、アラも見えやすい。第一われわれの耳目に親しい時代は、
読者自身が、目前の現象と作中の描写とを、居ながらにして比較することができるからである。作家はもちろん
むづかしいことへ進んで赴くべきである。この点でも私は高見氏に同意である。
(中略)あれほど意志を重んじたバルザックも、「人間喜劇」の総序に、「私はキリスト教と君主政体といふ
二つの永遠の真理に照らされて書く」と宣言してゐる。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

155:無名草子さん
10/09/22 19:40:32 .net
歴史小説や時代小説における「歴史」の代用となるものが、現代小説をともかくも芸術として成り立たしめるに
必要な「形式」として使はれてきたことは、否定しがたい事実であつた。そして現代小説に於ける形式とは、
何らかの決定論的思想の援用でなければならなかつた。あるときにはカトリシズムであり、あるときには悲観的
宿命論であり、あるときには進化論と遺伝の問題であり、最後には社会主義リアリズムであつた。これらは
すべて時代々々の、最も流行した決定論のサンプルである。そして読者や文学史家はゆめさらこれを形式とは
思はず、作品の「思想」と呼んだのであつた。
かう考へてゆくと、高見氏の投げかけた問題は意外に大きいのであつて、ひよつとすると、小説家が本当に
現代史といふものに直面したのは、今世紀の意外な事件であり、しかも小説ジャンルの衰退に歩調を合はせて
起こつた悲劇的な事件かもしれないのである。
その例証としては、プルウストとサルトルの二人を挙げるだけで十分であらう。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

156:無名草子さん
10/09/22 19:44:24 .net
プルウストの書いた現代小説は、まさに現代といふ時点が、プティット・マドレエヌといふお菓子を舌の上に
味はふその瞬間に凝結してをり、さまざまな現代の事象の大海の上に、彼が落とした一滴のオリーブ油のやうな
その「現代」と、彼が失ひかつふたたび見出した尨大な「時」とは、とてつもない対照を示してゐる。
自由意志による未決定といふ現代史の観念を、彼は、無意志的記憶といふ観念で、みごとに手袋を裏返すやうに
裏返してみせたのであるあるが、サルトルが「自由への道」でやつたこともプルウストと等しく(現代史を
決定論で押し包んで、小説形式を救ひ出さうといふやり方と反対の)決定論によらない思想で、現代小説を
書かうとした果敢な試みであつたといつてよからう。
しかしまた皮肉なことに、かうして書かれた作品の人物たちは、自由意志の恩寵からも見放され、プルウストの
「私」は影のやうにさまよひ、サルトルの小説は自由への道半ばに中絶してしまひ、保守的な、幸福な、
大河小説の作者たちが持つてゐた作品の「形式」は崩壊し、いづれもただ小説ジャンルの形式上の衰退に、
みごとな寄与をもたらすことになつた。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

157:無名草子さん
10/09/22 19:44:55 .net
小説にとつての現代史といふ怪物は一体どこにどんなふうにして棲息しどんな相貌をしてゐるのであらう。
一体現代史は、果たして自由意志による歴史的創造の余地を残した未決定のものであるのか、あるひは
ひよつとすると、過去のいかなる時代ともちがつた、あらゆる意志が無効であり、あらゆる歴史的創造が
不可能なものであるのか? かういふ疑問が、ますます先鋭になり、小説と現代史の関係がますます困難になつた、
ことに第二次世界大戦後の状況であつて核戦争の危機がその根本原因であることはいふまでもあるまい。
もし偶発戦争によつて、世界が滅びるなら、現代は美しい夕映えの時代であらうが、その夕映えのやうな美しい
決定論も、古典的な自由意志も、ひとしく時代おくれになつた現代では、テレビが刻々とあらはれ消える
無意味な影像によつて、人の心をとらへつづけるのもふしぎではない。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

158:無名草子さん
10/09/22 19:45:17 .net
(中略)
未決定の現代といふ観念が、もし怪しげになるならば、小説は無限に歴史に近づいてゆくか、あるひは一個の
架空の時点を設定するほかはない。そして後者への道には、抽象小説(寓話的な小説や風刺小説を含む)と、
戯曲との、二つしか残されてゐないのである。
カフカからアンチ・ロマンにいたる今世紀の異様な小説の系列は、現代小説を無限に歴史から遠ざけようとする
自己防衛の本能を暗示するものであらうし、小説を何とか純粋な自由意志の産物にするための困難な冒険で
あつたともいへよう。
一方、ピエエル・ルイスのいはゆる「煙草と小説を知らなかつた」古代ギリシャで、歴史文学は完全に歴史家の
手にこれをゆだねて、みごとな宿命論の枠組に押しこめられた劇文学のジャンルが、独立独歩してゐたやうに、
小説が決定論的思想に背反して、形式を失つた以上、ふたたび古代伝来の戯曲といふ純粋形式へ無限に近づく
ことが、もう一つ残された道であるかもしれない。しかしそれが小説の一種の自殺的行為であることには
かはりがないのである。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

159:無名草子さん
10/09/22 19:45:33 .net
それからもう一つ、日本人だけにゆるされた現代小説の一方法に、冒頭に述べたやうな私小説の道があつて、
いかなる天変地異が起こらうが、世界が滅びようが、現在ただ今の自分の感覚上の純粋体験だけを信じ、これを
叙述するといふ行き方は、もしそれが梶井基次郎くらゐの詩的結晶を成就すれば、立派に現代小説の活路に
なりうると思はれるが、これにはさまざまな困難な条件があつて、それは私小説が身辺雑記にとどまることなく、
小説ジャンル全体の現代の運命を負うて、無限に「詩」へ近づくことでなければならない。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

160:無名草子さん
10/09/23 10:30:24 .net
「BL作品の氾濫は少子化の原因。児童ポルノとは別枠で小説も含めた厳しい規制が必要」
「ゲーム脳」の提唱者・森昭雄日大教授の新著「ボーイズラブ亡国論」(産経新聞社刊)
スレリンク(news2板)

161:無名草子さん
10/09/23 12:40:11 .net
Q:若い人に対して、自由と規律について。

三島:十代二十代といふのは、身体の中に力がいつぱい余つてをりますからね。これを外へ爆発させたいといふ
気持があります。しかし、その力がどつちへ行くかわからないから、それに方向を与へてやらなければならないのです。
そのためには、剣道なりスポーツなりをやらせるのは非常に有効なんです。彼等は自分でもどうしたらいいのか
解らないのですから、どうしても必要ですね。
僕はいつも思ふんだけど、みんな青年に達したら団体訓練をやらせるといいと思ふんです。なにも戦争をやれと
いふのではないのですが……。それも義務的に一度団体訓練を経験させるといいと思ひます。
むかし、村落共同体には「宿」といふものがあつて、そこで団体訓練をうけてきました。もつと古くは、
成年式みたいなものがあつて非常に厳しい訓練を受け、辛ひ思ひをしてやつと一人前の男と認められたのです。

三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて―希望はうもん」より

162:無名草子さん
10/09/23 12:46:09 .net
ところが現代社会は技術の社会ですから、団体訓練が全くいらなくなつて、技術的知識が一人前であれば、
一人前の人間として認められる社会ですから、訓練ができてゐません。人間は技術的ないしは行政的知識だけでは
絶対に足りないと思ひます。人間には身体があるんだから、身体からしみこむものが必要です。

Q:「剣」のなかに「強く正しい者になるか、自殺するか、二つに一つなのだ」といふ文章がありますが……。

三島:この世の中で強く正しく生きるといふことは不可能なことです。みんな少しづつ汚れてゐます。
生きてゐるといふことは汚れてゐることですからね。

三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて―希望はうもん」より

163:無名草子さん
10/09/23 12:49:04 .net
Q:先生の皇室観について。

…僕は、天皇制といふものは、制度上の問題でもなく、皇居だけの問題でもない。日本人の奥底の血の中に
あるもので、しかもみんな気付いてゐないものだと思ひます。だからどんな過激なことをいつてゐる人でも、
その心の奥をどんどん掘りかへしていくと、日本人の天皇との結びつき、つまり天皇制といふものの考へが
ひそんでゐると思ひます。我々は殆(ほと)んど無意識のうちに暮してゐますけど、心の奥底で、天皇制と
国民は連なつてゐるのだと思ひます。それを形に表はしたのが皇室なんです。
ですから皇室で一番大切なのはお祭りだと思ひます。
“お祭り”を皇室がずつと維持していただく、これが一番大切なことです。歴代の天皇が心をこめて守つて
来られた日本のお祭りを、将来にわたつて守つていただきたいと思ひます。

三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて―希望はうもん」より

164:無名草子さん
10/09/23 12:53:13 .net
Q:現代かなづかひについて。

…僕は今の若い人は現代かなづかひでなければ小説など読まないと思つてゐたんですけど、かならずしも
さうではないやうです。
言葉をいぢるといふことは、言葉の魂をいぢることで、日本人の歴代を人為的にいぢるのと同じことです。
僕は大嫌ひですね。言葉を大切にしない民族は、三流ですよ。

Q:先生は「文章読本」の中で、プロとしての文章家を一般と区別してをられますが……。

三島:プロといふのは僕達のことです。文章といふのは、誰れにも書けるやうで書けないものなんです。
音楽でしたら勉強しなければ出来ないとはつきりしてゐるが、文章は誰れでも書けると思つてゐるんです。
そこに錯覚があると思ひます。
しかしプロといつても、何でも書けるか、といつたらさうでもない。私が大蔵省に入つたとき大臣の演説文を
書かされましたがね、(中略)僕達の文章では大臣の演説文は書けない。

三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて―希望はうもん」より

165:無名草子さん
10/09/23 16:56:43 .net
この叫び(剣道のかけ声)には近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。
それはもつとも暗い記憶と結びつき、流された鮮血と結びつき、日本の過去のもつとも正直な記憶に源してゐる。
それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐるところの、民族の深層意識の叫びである。このやうな
怪物的日本は、鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰へ呻吟してゐるが、今なほ剣道の道場においてだけ、
われわれの口を借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。私は今ではこの叫びを切に愛する。
このやうな叫びに目をつぶつた日本の近代思想は、すべて浅薄なものだといふ感じがする。それが私の口から出、
人の口から出るのをきくとき、私は渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る新しい高速道路を仰ぎ
見ながら、あちらには「現象」が飛びすぎ、こちらには「本質」が叫んでゐる、といふ喜び、……その叫びと
一体化することのもつとも危険な喜びを感じずにゐられない。

三島由紀夫「実感的スポーツ論」より

166:無名草子さん
10/09/23 16:58:52 .net
そしてこれこそ、人々がなほ「剣道」といふ名をきくときに、胡散くさい目を向けるところの、あの悪名高い
「精神主義」の風味なのだ。私もこれから先も、剣道が、柔道みたいに愛想のよい国際的スポーツにならず、
あくまでその反時代性を失はないことを望む。(中略)
スポーツは行ふことにつきる。身を起し、動き、汗をかき、力をつくすことにつきる。そのあとのシャワーの
快さについて、かつてマンボ族が流行してゐたころ、
「このシャワーの味はマンボ族も知らねえだろ」
と誇らしげに言つてゐた拳闘選手の言葉を私は思ひ出す。この誇りは正当なもので、何の思想的な臭味もない。
運動のあとのシャワーの味には、人生で一等必要なものが含まれてゐる。どんな権力を握つても、どんな放蕩を
重ねても、このシャワーの味を知らない人は、人間の生きるよろこびを本当に知つたとはいへないであらう。

三島由紀夫「実感的スポーツ論」より

167:無名草子さん
10/09/23 17:00:54 .net
バレーはただバレーであればよい。雲のやうに美しく、風のやうにさはやかであればよい。人間の姿態の最上の
美しい瞬間の羅列であればよい。人間が神の姿に近づく証明であればよい。古典バレーもモダン・バレーもあるものか。
(中略)
しかし芸術として、バレーは燦然たる技術を要求する。姿態美はすでに得られた。あとは日本の各種の
古典芸能の名手に匹敵するほどの、高度の技術を獲得すれば、それでよい。ただ、バレーのハンディキャップは、
西洋の芸能の例に洩れず「老境に入つて技神に入る」といふやうなことが望めないことであり、若いうちに
電光石火、最高の美と技術に達しなければならぬといふ点で、却つて伝統と一般水準の
問題が重く肩にかかつてゐるといふ点である。

三島由紀夫「スター・ダンサーの競演によるバレエ特別公演プログラム」より

168:無名草子さん
10/09/24 12:30:45 .net
ベラフォンテがどんなにすばらしいかは、舞台を見なければ、本当のところはわからない。ここには熱帯の
太陽があり、カリブ海の貿易風があり、ドレイたちの悲痛な歴史があり、力と陽気さと同時に繊細さと悲哀があり、
素朴な人間の魂のありのままの表示がある。そして舞台の上のベラフォンテは、まさしく太陽のやうにかがやいてゐる。
彼は褐色のアポロであつて、大ていの白人女性が彼の前に拝跪するのも、むべなるかなと思はせる。
ベラフォンテには、衰弱したところが一つもない。それでゐて、ソクソクとせまる悲しみと叙情がある。
これは、言葉は悪いが「ドレイ芸術」とでもいふべきものの神髄で、たとへば「バナナ・ボート」で、彼が
悲痛な声をふるつて「デオ、ミゼデオ」と叫び歌つて、強い声がハタと中空に途切れるとき、そのあとの間に、
われわれは、力の悲哀といふやうなものを感じ、はりつめた筋肉からとび散る汗のやうなものを感じ……これらの
激しい労働を冷然とながめおろしてゐる植民地の港の朝空のひろがりまでも完全に感じとる。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より

169:無名草子さん
10/09/24 12:31:03 .net
歌はれる歌には、リフレインが多い。全編ほとんどリフレインといふやうな歌がある。これは民謡的特色だが、
同時に呪術的特色でもある。わづかなバリエーションを伴ひながら「夏はもうあらかた過ぎた」(ダーン・
レイド・アラウンド)とか「夜ごと日の沈むとき」(スザンヌ)とかいふ詩句が、彼の甘いしはがれた声で、
何度となくくりかへされると、われわれは、ベラフォンテの特色である、暗い粘つこい叙情の中へ、だんだんに
ひき入れられる。声が褐色の幅広いリボンのやうにひらめく。われわれは、もうその声のほかには、世界中に
何も聞かないのである。
西印度諸島の黒人の声には、何といふ繊細さがあるのだらう、と私は、たびたびおどろかされたものだ。
黒人の皮膚のあの冷たいキメの細かさと、この繊細さとは、何か関係があるにちがひない。そして、あんな
激しい太陽と海風にさらされては、繊細な魂は、暗い涼しい体内の深部へ逃げ隠れ、わづかに声帯のすき間から、
外界をのぞかうとするのかもしれない。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より

170:無名草子さん
10/09/24 12:31:18 .net
ベラフォンテの舞台を見た人なら、だれでも首肯すると思はれるのは、その強烈な官能性である。彼もまた、
十分演出にそれを意識してゐると思はれる。けがれのない、素朴な、健康なエロティシズムの表現において、
もちろんその恵まれた外見に負ふところが多いとしても、彼ほどのボピュラー歌手は空前絶後であらう。
そしてその官能性が、詩にまで高まつてゐるのは、まさしく彼に黒人の血が流れてゐるからである。白人の男の
官能性とは散文的なものであり、いつたん昇華しなければ使ひものにならぬ。ベラフォンテの叙情は、カリブ海の
太陽の下のファロスの叙情である。しかもそれが海風に清められてゐるから、少しもきたならしくならないのである。
官能的な激しさにもかかはらず、彼の舞台が清潔なゆゑんである。私は第一部では「オール・マイ・トライアルス」の
美しい哀傷、「ク・ク・ル・ク・ク・パロマ」の逸楽、第二部では「さらばジャマイカ」の哀切な叙情、そして
有名な「バナナ・ボート」や、たのしい「ラ・バンバ」をことに愛する。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より

171:無名草子さん
10/09/24 15:42:13 .net
宮崎氏だけは、日本の敗戦の悲境を忘れず、英霊の鬼哭を忘れず、決して風化せず、内に憤怒を蔵して、
外は人間の信頼に生き、ふたたび日本男児の真骨頂を見せてくれるだらうと私は期待してゐる。

三島由紀夫「無題(三島由紀夫文学碑の栞)」より

172:無名草子さん
10/09/26 13:26:23 .net
清潔なものは必ず汚され、白いシャツは必ず鼠色になる。人々は、残酷にも、この世の中では、
新鮮、清潔、真白、などといふものが永保ちしないことを知つてゐる。


どんな浅薄な流行でも、それがをはるとき、人々は自分の青春と熱狂の一部分を、
その流行と一緒に、時間の墓穴へ埋めてしまふ。二度とかへらぬのは流行ばかりでなく、
それに熱狂した自分も二度とかへらない。

三島由紀夫「をはりの美学 流行のをはり」より


男にとつては生へぶつかつてゆくのは、死へぶつかつてゆくのと同じことだ。

三島由紀夫「をはりの美学 童貞のをはり」より

173:無名草子さん
10/09/26 13:27:26 .net
学校をでて十年たつて、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、「大学をでたから
私はインテリだ」と、いまだに思つてゐる人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがつて
彼または彼女にとつて、学校は一向に終つてゐないのだ、といふよりほかはありません。

三島由紀夫「をはりの美学 学校のをはり」より


美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。


美女は一生に二度死ななければならない。美貌の死と肉体の死と。一度目の死のはうが
恐ろしい本当の死で、彼女だけがその日付を知つてゐるのです。
「元美貌」といふ女性には、しかし、荒れ果てた名所旧跡のやうな風情がないではありません。

三島由紀夫「をはりの美学 美貌のをはり」より

174:無名草子さん
10/09/26 13:28:24 .net
手紙は遠くからやつてきた一つの小舟です。

三島由紀夫「をはりの美学 手紙のをはり」より


人生は音楽ではない。最上のクライマックスで、巧い具合に終つてくれないのが
人生といふものである。

三島由紀夫「をはりの美学 旅行のをはり」より


個性とは何か?
弱味を知り、これを強味に転じる居直りです。


私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を
外れた鼻に絶望して、人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。それが「生きてゐる」
といふことだからです。

三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より

175:無名草子さん
10/09/26 13:32:07 .net
自然は黙つてゐる。自然は事実を示すだけだ。自然は決して「宣言」なんかやらかさない。

三島由紀夫「をはりの美学 梅雨のをはり」より


何も形の残らないもののために、勲章と銅像の存在理由があるのです。なぜなら英雄とは、
本来行動の人物にだけつけられる名称で、文化的英雄などといふものは、言葉の誤用だからです。

三島由紀夫「をはりの美学 英雄のをはり」より


悲しみとは精神的なものであり、笑ひとは知的なものである。


肉体関係があつたあとに、おくればせに、精神的恋愛がやつてくるといふことだつてある。


日本では、恋とは肉の結合のことであり、そのあとに来るものは「もののあはれ」であつた。

三島由紀夫「をはりの美学 動物のをはり」より

176:無名草子さん
10/09/27 20:07:27 .net
ある小説がそこに存在するおかげで、どれだけ多くの人々が告白を免かれてゐることであらうか。


私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、新聞雑誌の人生相談の欄に
招かれることである。それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、
オレンヂの樹の栽培について答へてゐるやうなものだ。


人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は〈本心からではない〉ことをバタイユは
冷酷に指摘する。その〈本心〉こそ、バタイユの〈エロティシズム〉の核心であり、
ウィーンの俗悪な精神分析学者などの遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに
切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。

三島由紀夫「小説とは何か」より

177:無名草子さん
10/09/27 20:08:15 .net
この世には二種の人間があるのである。心が死んで肉体の生きてゐる人間と、肉体が死んで
心の生きてゐる人間と。心も肉体も両方生きてゐることは実にむづかしい。生きてゐる作家は
さうあるべきだが、心も肉体も共に生きてゐる作家は沢山はゐない。作家の場合、困つたことに、
肉体が死んでも、作品が残る。心が残らないで、作品だけが残るとは、何と不気味なことで
あらうか。又、心が死んで、肉体が生きてゐるとして、なほ心が生きてゐたころの作品と
共存して生きてゆかねばならぬとは、何と醜怪なことであらう。作家の人生は、生きてゐても
死んでゐても、吉田松陰のやうに透明な行動家の人生とは比較にならないのである。
生きながら魂の死を、その死の経過を、存分に味はふことが作家の宿命であるとすれば、
これほど呪はれた人生もあるまい。

三島由紀夫「小説とは何か」より

178:無名草子さん
10/09/27 20:08:53 .net
ドストエフスキーの「罪と罰」を引張り出すまでもなく、本来、芸術と犯罪とは甚だ近い
類縁にあつた。「小説と犯罪とは」と言ひ直してもよい。小説は多くの犯罪から深い恩顧を
受けてをり、「赤と黒」から「異邦人」にいたるまで、犯罪者に感情移入をしてゐない名作の
数は却つて少ないくらいである。
それが現実の犯罪にぶつかると、うつかり犯人に同情しては世間の指弾を浴びるのではないか、
といふ思惑が働らくやうでは、もはや小説家の資格はないと云つてよいが、さういふ
思惑の上に立ちつつ、世間の金科玉条のヒューマニズムの隠れ簑に身を隠してものを言ふのは、
さらに一そう卑怯な態度と云はねばならない。そのくらいなら警察の権道的発言に
同調したはうがまだましである。

三島由紀夫「小説とは何か」より

179:無名草子さん
10/09/27 20:09:26 .net
悪は、抽象的な原罪や、あるひは普遍的な人間性の共有の問題であるにとどまらない。
きはめて孤立した、きはめて論証しにくい、人間性の或る未知の側面に関はつてゐる筈である。
私はアメリカで行はれた凶悪暴力犯人の染色体の研究で、男性因子が普通の男よりも
一個多い異型が、これらの中にふつうよりもはるかに多数発見されたといふ記事を読んだとき、
戦争といふもつとも神秘な問題を照らし出す一つの鍵が発見されたやうな気がした。
それは又裏返せば、男性と文化創造との関係についても、今までにない視点を提供する筈である。


文学と狂気との関係は、文学と宗教との関係に似たところがある。

三島由紀夫「小説とは何か」より

180:無名草子さん
10/09/29 11:46:10 .net
体操といふものに、私は格別の興味を持つてゐる。それは美と力との接点であり、芸術とスポーツの接点だからである。
ほかのスポーツのやうに、芸術の岸から見て完全に対岸にあるものでない。
(中略)
はいつていきなり遠藤選手の床運動(徒手)を見たが、ひろいマットの上の空間に、ジョキジョキよく切れる
鋏を入れて、まつ白な切断面を次々に作つてゆくやうな美技にあきれた。私たちはふだん、自分の肉体の
まはりの空間を、どんよりと眠らせてはふつておくのと同じことだ。
あんなに直線的に、鮮やかに、空間を裁断してゆく人間の肉体、全身のどの隅々にまでも、バランスと秩序を
与へつづけ、どの瞬間にもそれを崩さずに、思ひ切つた放埒を演ずる肉体。……全く体操の美技を見ると、
人間はたしかに昔、神だつたのだらうといふ気がする。といふのは、選手が跳んだり、宙返りしたりした空間は、
全く彼の支配下にあるやうに見え、選手が演技を終つて静止したあとも、彼が全身で切り抜いてきた白い空間は、
まだピリピリと慄へて、彼に属してゐるやうに見えるからだ。

三島由紀夫「合宿の青春 『美と力』の接点―体操の練習風景」より

181:無名草子さん
10/09/29 11:46:27 .net
(中略)スポーツの奇蹟は、人間の肉体といふものが、鍛へやうによつては、どんな思ひがけないところに、
どんな思ひがけない楽園を発見するかわからないといふ点だ。常人の知らない別世界の感覚の発見……。
酒や阿片とは反対のものだが、スポーツがやめられなくなるのは、やはりそれがあるからであらう。
(中略)
さつき神のやうだつた選手は、かうして会つてみると、風貌、態度のどこにも人間離れのしたところはない。
むしろ休息時の選手の顔に浮んでゐるその平均的日本人の日常的表情と、あの神業との間をつなぐ、
「練習」といふ苛酷な見えない鎖が感じられる。それは神と人間をむりやりに結びつける神聖な鎖なのだ。

三島由紀夫「合宿の青春 『美と力』の接点―体操の練習風景」より

182:無名草子さん
10/09/29 11:46:55 .net
オリンピックの非政治主義は、政治の観念の浄化と見るほかなく、政治を人間の心から全然払拭することはできまい。
(中略)
「オリンピック東京大会、第一日目を開始いたします」
といふアナウンスのあとで、登場したこの二人の試合は、アラブ連合がしばしばスリップダウンをし、韓国が
判定で勝つたが、判定を待つあひだ、レフェリーを央にして、選手が二人直立して正面に向つてゐた姿は、
プロ・ボクシングを見馴れた目には、すがすがしく、気持がよかつた。
これで最初の日の勝敗が決まつたのであるが、韓国選手の謙虚な勝利者としての表情と共に、アラブ連合選手の
心を思つて、私はシャルル・ビルドラックの「兵卒の歌」の最後の聯を思ひ出して、一種の羨望を感じた。
「私は、むしろ私はなりたい、
戦争の第一日目に
第一に倒れた兵卒に。」(堀口大学氏訳)

三島由紀夫「競技初日の風景―ボクシングを見て」より

183:無名草子さん
10/09/29 11:47:31 .net
何といふ静かな、おそろしいサスペンス劇だらう。(中略)
もちろん選手がバーベルを高くさしあげたときの感動もさることながら、私は、いよいよバーベルにとりつく前の
選手の緊張に興味があつた。多少ともウエート・トレーニングをした人間には、この瞬間の恐怖と逡巡がわかるはずだ。
韓国のキン・ヘナム選手は必ずバーベルのぐあひをたんねんにしらべ、ポーランドのコズロスキー選手は、
手をかけてから長いこと腕の筋肉をふるはせ、日本の三宅選手は相撲の仕切りのやうに長い時間をかけて、
何度か天を仰いだ。
これはおのおのの就寝儀式のやうなものであつて、それをやらなければ安眠できない。ひとたび眠ることが
できれば、完全に眠ることができれば、眠りの中では、丸ビルを持ち上げることだつて可能だらう。精神集中の
究極の果てに、一つの自由な空白状態がポカリと顔を出すのだらう。そのとき力が、おそらく常の人間の能力を
超えるのだらう。

三島由紀夫「ジワジワしたスリル―重量あげ」より

184:無名草子さん
10/09/29 11:47:46 .net
地球を負ふアトラスの忍苦に似た、あくまで押へに押へぬいた努力のいるこのスポーツは、たしかに日本人の
一面に適してゐる。三宅選手は、リングの上ではむしろのんきに見え、豪放に見えるが、こんなに綿密な力の
計算を積み上げてゆくには、青空の下のスポーツとちがつて、研究室の中の科学者みたいな内向的な長い努力が
いつたはずだ。彼は金メダルを本当に計算づくでとつたのだと思ふ。鉄のバーベルの暗い、やりきれない、
うつたうしい圧力と戦ひながら。
(中略)
金メダルを受けた三宅選手は、実に自然なほほゑましい態度で、そのメダルを観衆の方へかかげて見せた。
彼はそのとき、あの合計397.5キロの鉄の全量に比べて、金のたよりない軽さを感じたかもしれない。
美麗のその黄金の羽根のやうな軽さを。

三島由紀夫「ジワジワしたスリル―重量あげ」より

185:無名草子さん
10/09/29 20:17:19 .net
体操でも、この飛び板飛び込みでも、落下のほんの瞬間に、人体が地球の引力に抗して見せるあの複雑な美技には、
ほとほと感嘆のほかはない。あの落下の一秒の間に、花もやうを描いてみせるその人間意志のふしぎな働きと
その自己統制力は、自然(引力)へのもつとも皮肉な反抗であり、犬が人間にじやれつくやうに人間がきびしい
自然にじやれつく最高の戯れだらう。(中略)
重量あげなどの、ジワジワと胸をしめつけるドラマチックな競技とちがつて、水泳競技は、単純なまつすぐな
人間意志の推進力を、美しくさはやかに見せるだけだから、その印象はひたすら直截で、ドラマといふより、
青いプールを縦に切るあの白いロープのやうに、一行の激しい白い叙情詩だ。(中略)
ガウンを脱ぎ捨てて黒い水着姿になつた彼女は、その強靭な、小麦色の体躯に、こまかいバネがいつぱい
はりつめてゐるやうな感じで、それはただ一人決勝に残つた日本女性の、しなやかな女竹のやうな姿絵になつた。

三島由紀夫「白い叙情詩―女子百メートル背泳」より

186:無名草子さん
10/09/29 20:17:37 .net
田中嬢が泳ぎはじめる。もうあと一分あまりの時間ですべての片がつく。彼女は長い長い練習の水路をとほつて、
ここにやつとたどりついた一艘の黒い快速船になる。水しぶきの列のなかで帰路、彼女の水しぶきは少し傾いて、
ともするとロープにふれる。……(中略)
泳ぎ終つた田中嬢は、コースに戻つて、しばらくロープにつかまつてゐたが、また一人、だれよりも遠く、
のびやかに泳ぎだした。コースの半ばまで泳いで行つた。その孤独な姿は、ある意味ですばらしくぜいたくに見えた。
全力を尽くしたのちに、一万余の観衆の目の前で、こんなにしみじみと、こんなに心ゆくまで描いてみせる
彼女の孤独。この孤独は全く彼女一人のもので、もうだれの重荷もその肩にはかかつてゐない。一億国民の
重みもかかつてゐない。
田中嬢は惜しくも四位になつたが、そのときすでに彼女はそれを知つてゐたにちがひない。

三島由紀夫「白い叙情詩―女子百メートル背泳」より

187:無名草子さん
10/09/30 10:41:18 .net
今日のハイライトである百メートルの決勝がはじまる。(中略)選手たちがスタート・ラインについた。
それから何が起つたか、私にはもうわからない。紺のシャツに漆黒な体のヘイズは、さつきたしかにスタート・
ラインにゐたが、今はもうテープを切つて彼方にゐる。10秒フラットの記録。その間にたしかに私の目の前を、
黒い炎のやうに疾走するものがあつた。しかも、その一瞬に目に焼きついた姿は、飛んでもゐず、ころがりもせず、
人間の肉体の中心から四方へさしのべた車輪の矢のやうな、その四肢を正確に動かして、正しく
「人間が走つてゐる姿」をとつてゐた。その複雑な厄介な形が、百メートルの空間を、どうしてああも、神速に
駆け抜けることができるのだらう。彼は空間の壁抜けをやつてのけたのだ。
しかし、十秒間の一瞬一瞬のそのむしろ静的な「走る男」の形ほど、金メダルの浮彫の形にふさはしいものはなかつた。

三島由紀夫「空間の壁抜け男―陸上競技」より

188:無名草子さん
10/09/30 10:41:38 .net
スタート台の上で、一コースの選手をチラと見てから、手首を振る。両手を楽に前へさしのべたフォームで、
柔らかに飛び込む。競技はこんなふうに、どんな会社よりも事務的にはじまるのだ。
水が佐々木の体を包んだ。それから先は、彼はもう重い水と時間と距離とを、一心に自分のうしろへかきのけて
ゆくしかない。
高い席からながめてゐると、八つのコースの選手たちの立てる音は、さわさわといふ笹の葉鳴りのやうな水音に
すぎない。ひるがへる腕は、みんな同じ角度で、褐色のふしぎな旗のやうに波間にひらめく。
―四百メートル。
佐々木は大分引き離された。ターンするところで、あと残つてゐる回数の札を示される。その大きなあきらかな
数字は、おそらく水にぬれた目に、水しぶきのむかうに、嘲笑的に歪んで映るのだらう。

三島由紀夫「17分間の長い旅―男子千五百メートル自由形決勝」より

189:無名草子さん
10/09/30 10:42:10 .net
出発点の水にぬれたコンクリートの上には、選手たちの椅子が散らばつてゐる。佐々木の椅子には、赤いシャツと、
足もとの白い運動靴とが、かなたに水しぶきを上げて戦つてゐる主人の帰りを、忠犬のやうにひつそりと待つてゐる。
これらの椅子のずつとうしろには、記録員たちが控へ、さらに後方に、今日はすでに用ずみの飛込用プールが、
いま水の立ちさわぐメーン・プールとは正に対照的に、どろんとしたコバルト・グリーンの水をたたへてゐる。(中略)
出発点へ選手が近づくたびに、大ぜいの記録員たちはおのがじし立ち上り、ぶらぶらと水ぎはへ近寄り、
スプリット・タイム(途中時間)を記録し、また、だるさうに席へ戻る。必死で泳いでゐる選手と記録員とは、
こんなふうにして、十五回も水ぎはで顔を合せるわけだ。そのときほど、この世の行為者と記録者の役割、
主観的な人間と客観的な人間の役割が、絶妙な対照を示しながら、相接近する瞬間もあるまい。

三島由紀夫「17分間の長い旅―男子千五百メートル自由形決勝」より

190:無名草子さん
10/09/30 10:42:26 .net
―千メートル。
オーストラリアのウィンドル、11分16秒3といふ途中時間のアナウンス。
千五十メートルのところで、あと九回といふ9の札が示される。
佐々木はひたすら泳ぐ。水に隠見する顔は赤らんでみえる。あの苦しげな、目をつぶり口をあいた顔、あの
ぬれた顔、ぬれた額の中に、どんな思念がひそんでゐるか? あんな最中にも、人間は思考をやめないのは
確実なことで「ただ夢中だつた」などといふのは、嘘だと私は思ふ。それこそ人間といふ動物の神秘なのだ。
たとへそれが、一点の、小さな炎のやうな思念であらうとも。
最後の百メートル。真鍮の鈴が鳴らされ、選手はラスト・スパートをかける。
佐々木は六位だつた。平然と上げてゐる顔を手のひらで大まかにぬぐひ、出発の時と同様、左の手首をちよつと振つた。
それが彼の長い旅からの、無表情な帰来の合図だつた。この若者はまた明日、旅の苦痛を忘れて、つぎの新しい
旅へ出るだらう。

三島由紀夫「17分間の長い旅―男子千五百メートル自由形決勝」より

191:無名草子さん
10/09/30 23:27:00 .net
体操ほどスポーツと芸術のまさに波打ちぎはにあるものがあらうか? そこではスポーツの海と芸術の陸とが、
微妙に交はり合ひ、犯し合つてゐる。満潮のときスポーツだつたものが、干潮のときは芸術となる。そして
あらゆるスポーツのうちで、形(フォーム)が形自体の価値を強めれば強めるほど芸術に近づく。どんなに
美しいフォームでも、速さのためとか高さのための、有効性の点から評価されるスポーツは、まだ単にスポーツの
域にとどまつてゐる。しかし体操では、形は形それ自体のために重要なのだ。これを裏からいへば、芸術の本質は
結局形に帰着するといふことの、体操はそのみごとな逆証明だ。
十月二十日の夜、東京体育館の記者席から、まばゆい光りの下、マット上に展開される各国選手の、人間わざとも
思へぬ美技をながめながら、私はそんな感想を抱いた。

三島由紀夫「完全性への夢―体操」より

192:無名草子さん
10/09/30 23:27:18 .net
双眼鏡で遠い鉄棒の演技をながめてゐると、手を逆に持ちかへるときに、掌にいつぱいまぶしたすべりどめの
粉がパッと散る。それは人体が描く虚空の花の花粉である。徒手体操では、人体が白い鋏のやうに大きくひらき、
空中から飛んできて、白い蝶みたいに羽根を立てて休み……ともかく、われわれの体が、さびついた
蝶番(てふつがひ)の、少ししか開かないドアならば、体操選手の体は、回転ドアのやうなものだ。そして、
極度の柔らかさから極度の緊張へ、空虚から突然の充実へ、力は自在に変転して、とどまるところを知らない。
もつともバランスと力を要する演技が、もつとも優美な静かな形で示される。そのとき、われわれは、
肉体といふよりも、人間の精神が演じる無上の形を見る。
ポオル・ヴァレリーが「魂と舞踊」の中で、肉体が「魂の普遍性を真似ようとするのだ」と書いてゐるのは、
この瞬間であらう。(中略)

三島由紀夫「完全性への夢―体操」より

193:無名草子さん
10/09/30 23:27:34 .net
小野は徒手で、遠藤はあん馬で、見のがしえぬミスをやつたが、実際、人間なら、あやまちを犯すはうがふつうで、
あやまちを犯さないのは人間ではない。それらのミスにこそ、むしろわれわれと共通した人間の日常感覚が
ひらめいてゐる。ほんのちよつとよろめくこと、ちよつと姿勢が傾くこと、ほんのちよつと足があん馬に
さはること、ほんのちよつと演技の流れが停滞すること……これこそわれわれが「人間性」と呼んでゐるところの
もので、半神であることを要求される体操競技では、人間性を示したら、たちまち減点されるのである。
この世に、ほんの数秒の間であらうと、真のあやまりのない秩序を実現するのはたいへんなことだ。体操選手たちは、
その秩序を、少なくとも政治や経済よりはるかに純度の高い形で、人間世界へもたらすために努力する。

三島由紀夫「完全性への夢―体操」より

194:無名草子さん
10/09/30 23:27:52 .net
遠藤選手のあん馬のあとで、十数分のものいひがついたあと、五月人形のやうな無邪気な顔と体をした三栗選手が
登場して、おちついた、正しい演技を示して九・六五をとつたのには感服した。
小野選手の右肩の負傷にめげぬ敢闘にも心を搏たれ、同じ三十代の私は、年齢と肉体のハンディキャップを
越えたその闘志に拍手を送つた。練習時間のあひだから、鉄棒は彼の肩を冷酷に責めてゐた。そのとき肩は、
彼の目ざす秩序の敵になり、敵軍に身を売つたスパイのやうに彼を内部から苦しめてゐた。
優勝者遠藤さへ、退場の際、心なしか暗い目をしてゐたのを考へると、体操選手を悩ます「完全性」の悪夢が、
どれほどすさまじいものであるかがうかがはれる。

三島由紀夫「完全性への夢―体操」より

195:無名草子さん
10/10/01 11:32:07 .net
選手たちの登場。宮本がそのすらりとしたからだと、栗鼠を思はせるかはいらしい顔で、機械人形のやうに
おじぎをする。
東側の選手家族席では、宮本のおとうさんがなくなつたおかあさんの大きな写真を膝に抱いて観戦してゐる。
練習がはじまる。お祭りの風船のやうに、たくさんのボールが空に浮ぶ。七時三十分。琴の音楽がはじまり、
いよいよ日本のアマゾンたちと、ソ連のアマゾンたちとの熱戦が開始される。
バレーボールの緊張は、ボールが激しくやりとりされるときのスリルにあることはいふまでもないが、高く
投げ上げられたボールが、空中にとどこほつてゐる時間もずいぶん長く感じられる。そのボールがゆつくりと
おりてくる間のなんともいへない間のびのした時間が、実はまたこの競技のサスペンスの強い要素なのだ。
ボールはそのとき、すべての束縛をのがれて、のんびりとした「運命の休止」をたのしんでゐるやうに見えるのである。

三島由紀夫「彼女も泣いた、私も泣いた―女子バレー」より

196:無名草子さん
10/10/01 11:32:21 .net
第一セットでやや堅くなつてゐた日本は、第二セットでははるかにソ連を引き離し、余裕のあるゲームを見せたが、
なかんづく目につくのは河西選手の冷静な姿である。
彼女が前衛に立つとき、水鳥の群れのなかで一等背の高い水鳥の指揮者のやうに、敵陣によく目をきかせ、
アップに結ひ上げた髪の乱れも見せず、冷静に敵の穴をねらつてゐる。ボールは必ず一応彼女の手に納まつたうへで、
軽くパスされて、ネットの端から、敵の盲点をつくやうに使はれる。
河西はすばらしいホステスで、多ぜいの客のどのグラスが空になつてゐるか、どの客がまだサラに首をつつこんで
ゐるかを、一瞬一瞬見分けて、配下の給仕たちに、ぬかりのないサービスを命ずるのである。ソ連はこんな
手痛い、よく行き届いた饗応にヘトヘトになつたのだつた。(中略)
―日本が勝ち、選手たちが抱き合つて泣いてゐるのを見たとき、私の胸にもこみ上げるものがあつたが、
これは生れてはじめて、私がスポーツを見て流した涙である。

三島由紀夫「彼女も泣いた、私も泣いた―女子バレー」より

197:無名草子さん
10/10/01 12:34:49 .net
刑事訴訟法は手続法であつて、刑事訴訟の手続を、ひどく論理的に厳密に組み立てたものである。それは何の
手続かといふと「証拠追究の手続」である。裁判が確定するまでは、被告はまだ犯人ではなく、容疑者にとどまる。
その容疑をとことんまで追ひつめ、しかも公平に審理して、のつぴきならぬ証拠を追究して、つひに犯人に
仕立てあげるわけである。
小説の場合は、この「証拠」を「主題」に置きかへれば、あとは全く同じだと私は考へた。小説の主題といふのは、
書き出す前も、書いてゐる間も、実は作者にはよくわかつてゐない。主題は意図とは別であつて、意図ならば、
書き出す前にも、作者は得々としやべることができる。そして意図どほりにならなくても傑作ができることがあり、
意図どほりになつても意図だふれの失敗作になることがある。

三島由紀夫「私の小説作法」より

198:無名草子さん
10/10/01 12:36:01 .net
主題はちがふ。主題はまづ仮定(容疑)から出発し、その正否は全く明らかでない。そしてこれを論理的に追ひつめ、
追ひつめしてゆけば、最後に、主題がポカリと現前するのである。そこで作品といふものは完全に完結し、
ちやんとした主題をそなへた完成品として存在するにいたる。つまり犯人が出来上がるのである。
(中略)
手続法は審理がわき道へそれて時間を食ふことを戒めてをり、いつもまつすぐにレールの上を走るやうに
規制されてゐる。私の考へる小説もさうであつて、したがつて私の小説には、およそわき道へそれた面白さ
といふやうなものがない。しかし、それは作家の性格であつて、一概に小説とはむだ話の面白味だなどと
いふのは俗論である。

三島由紀夫「私の小説作法」より

199:無名草子さん
10/10/01 12:37:00 .net
法律構成は建築に似たところがある。音楽に似たところがある。戯曲に似たところがある。だから、小説の
方法論としては、構成的に厳格すぎるのであるが、私は軟体動物のやうな日本の小説がきらひなあまりに、
むしろかういふリゴリスム(厳格主義)を固執するやうになつた。私には形といふものがはつきり見えて
ゐなければつまらない。
したがつて私の小説は、訴訟や音楽と同じで、必ず暗示を含んでごくゆるやかにはじまり、はじめはモタモタして、
何をやつてゐるのかわからないやうにしておいて、徐々にクレシェンドになつて、最後のクライマックスへ
向かつてすべてを盛り上げる、といふ定石をふんでゐる。私にとつては、これがすべての芸術の基本型だと
思はれるので、この形をくづすことはイヤである。
かういふ私の性格は、残念なことに、毎回が短い連載形式には全く合はない。さういふ形式では最初の数回が
勝負であるのに、私は最初の数回で切札を見せるのがきらひだからである。

三島由紀夫「私の小説作法」より

200:無名草子さん
10/10/01 20:48:38 .net
私は戦時下のあの時代を、一面的に見られることの腹立ちを、いつも抑へることができない。又、あの時代に
不適格者であつたことを誇りにする人の気持が知れない。あの時代に永い病床にあつて、つひに病死した青年は、
自分の心の傷とも闘はねばならなかつた。しかし文学は、克己的な青年にとつては、嘆きぶしでも愚痴の捨て場
でもなく、精神の或る明るい平静な矜持を保つための方法だつたのである。
なるほど繊細鋭敏な感受性は、戦争には何の役にも立たない。だが、さういふ感受性の受難の運命は、
戦時中だらうと平時だらうと同じことだと悟り、若くして自若とした心を獲得することは、いづれにしろ一つの
勝利だつた。東氏は自分の非運を、誰のせゐにもしなかつた。

三島由紀夫「序『東文彦作品集』」より

201:無名草子さん
10/10/01 20:53:32 .net
(中略)
明るい面持で、少女について語り、いささかの感傷もなしに、少年期について語り、感情の均衡を破ることなしに、
人間の日常について語ること、それも亦、あの時代にはとりわけ貴重なヒロイズムだつた。ただ耐へること、
しかも矜持を以て耐へること、それも亦、ヒロイズムだつた。
現在の芸術全般には、あまりにも「静けさ」が欠けてゐる。私は静けさの欠如こそ、ヒロイズムの欠如の顕著な
兆候ではないか、と考へる者である。戦時中の病める一青年作家が書いたこの静かな作品集が、必ずや現代の
青少年の魂の底から、埋もれてゐた何ものかを掘り出す機縁になることを、私は信ずる。

三島由紀夫「序『東文彦作品集』」より

202:無名草子さん
10/10/04 10:47:54 .net
硬派とは何ぞや?
第一に、それは紺絣(こんがすり)であり、高下駄であり、青春であり、暴力であり、
単純素朴であり、反社会性であり、小集団のヒエラルヒーであり、民族主義である。
さらに詳しく見てゆくと、そこではエモーショナルなものを、恋愛の代りに、政治が代表してゐると考へられる。
その東洋的な政治概念では、男性的な理想および男性的な人間関係のお手本として政治があり、その理想と
人間関係をつなぐ糸は、エモーショナリズムである。侠客が男なるとは、侠客道のエモーショナルな政治概念を、
わが身に体現することである。これらがあくまで恋愛とちがふ点は、恋愛のロマンチックな個性的主張とは
ちがつて、政治におけるエモーションは、自分を既成の理想型に従はせる情動だ、といふ点である。従つて
硬派は、あやまつて軟派的堕落に陥らぬかぎり、決して自己崩壊の憂目を見ることがない。

三島由紀夫「文学における硬派―日本文学の男性的原理」より

203:無名草子さん
10/10/04 10:49:23 .net
又、硬派では男性的表象が誇張されるが、この男性的原理の中心は、エモーションと力による政治であつて、
理論的知的政治概念はいはば無性のものとして、異性愛的情念は女性的なものとして斥けられる。
(中略)
私はごく大ざつぱに、右のやうな特色を列挙してみたのであるが、これらの諸要素の文学への類推を試みると、
思ひもかけない展望がひろがる。
硬派が持つてゐたやうな政治概念は、かつてのプロレタリア文学にも潜在してゐたし、その理論的知的なものの
排斥はまた、私小説の基盤であつた。硯友社を経、自然主義を過ぎて、われわれの近代小説の大勢を決した
「軟派的なもの」については、今日われわれは反吐が出るほど堪能してゐる有様だが、近代文学史に見えかくれ
して流れてゐる「硬派的なもの」については、ほとんど気づかれてゐない。むしろその点で、尾崎(士郎)氏や
林(房雄)氏は、近代日本人として稀な意識的な作家と云ひ得るのである。

三島由紀夫「文学における硬派―日本文学の男性的原理」より

204:無名草子さん
10/10/04 10:50:14 .net
恋愛の代りに政治を以て、文学のエモーショナルなものを代表させる遣口は、戦後文学の作家の或る者、
たとへば堀田善衞氏などに顕著であるが、氏がもつと硬派的に、知的理論的修飾を捨てたら、もつと純度の高い
文学を生むであらう。太宰治氏は硬派的エモーションを軟派的に誤用した結果、自己崩壊の憂目を見た。
かういふ例は、現代文学において実に枚挙にいとまがない。田中英光氏は自らのデスペレエトな力の弁護に、
民族的基底の助けを借りることができなかつた。石原慎太郎氏は自ら信じた男性的原理を、性愛の領域へ
誤用するとき一貫性を失ふ。阿部知二氏は理論的知的政治概念に縋(すが)つて、文学的に性を喪失する。
……これらの幾多の「硬派的なもの」の誤用の失敗(その最大の悲劇が横光利一氏であるが)を見ると、
谷崎潤一郎氏、川端康成氏の軟派の二大宗の、赫々たる成功が、今さらながら、日本文学伝統の女性的優雅の
強靭さを思はれるのである。

三島由紀夫「文学における硬派―日本文学の男性的原理」より

205:無名草子さん
10/10/04 10:53:01 .net
しかしここに面白いのは、硬派と軟派のただ一つの共通点があることで、それは理論的知的なものへの、日本人の
終始渝(かは)らぬ不信の念である。志賀直哉氏の文学が、一見硬派的に見えるのは、(実は氏の文学ほど
硬派から遠いものはないが)、この伝来の反理智主義の徹底性のためである。
近代文学の行き詰りの打破のためには、自らの中の硬派的要素の反省と発掘も、一つの必要な手続であると思ふ。
しかし硬派は硬派で、(少くとも一つの作品の中で)、首尾一貫してゐなければならない。硬派的一要素の
切り離した誤用、殊にその無意識の誤用ほど危険なものはないことは、右にあげた諸例からも明らかであらう。

三島由紀夫「文学における硬派―日本文学の男性的原理」より

206:無名草子さん
10/10/05 00:52:51 .net
この本は私の年来愛読してゐる本で、面白い個所は何度もくりかへし読んだが、特に右の(寅吉がわが身の
宿命について言ふ)一節は山人天狗をそのまま「芸術家」と置き換へて読むほどに興趣を増すのである。
わけても「山人天狗などは自由自在があるといふばかり」といふ一行は美しい。ここに語られた天狗道の無償性は、
なぜ天狗が存在するか、なぜ存在しなければならぬか、といふ根本義に触れてゐる。天狗は人間とちがつて
空を自由に飛行(ひぎやう)することができる。こちらの峰からあちらの峰へ、月下に千里を飛ぶこともできる。
しかもこの超自然的能力は、それ自体が幸福でなければならず、彼には何か、世間普通の幸福を味はふ能力が
欠けてゐるのである。
これを裏から言へば、「自由自在」は羨むべき能力かも知れないが、本来市民的幸福には属さない。それは
生活を快適にする能力ではなく、日常生活にとつては邪魔になるもので、むしろそれがあるために日常生活は
円滑を欠くであらう。

三島由紀夫「天狗道」より

207:無名草子さん
10/10/05 00:53:56 .net
自由自在は詩的概念であつて、市民的自由とは別物である。精神がそのやうな無償の自由を味はふといふことは、
辛うじて芸術にだけ許されてゐることで、一般社会では禁止されてゐる。
しかもこの魔的に自由な精神も、たえず「人間の幸福」を羨んでゐるのである。
天狗がこんなに自在であるにかかはらず、人間の生活に本当に感情移入ができず、「その道に入りて見」ることが
できないのは、ふしぎと言はねばならない。
相手方への完全な感情移入の不可能といふ点では、天狗も人間も同等同質なのであり、そこに相互の羨望が生れる。
私にとつては、天狗におけるこの「人間的」限界が甚だ興味がある。天狗はこの点では、「饗宴」篇中で
ディオティマの語るエロスに似てゐるのかもしれない。
天狗の自在な飛行は、もちろん天狗道の使命に従つて行はれるが、人間の目からはこの使命は見えず、従つて
飛行自体が戯れと見える。

三島由紀夫「天狗道」より

208:無名草子さん
10/10/05 00:55:47 .net
寅吉はなほ人間時代の記憶を留めてゐるから、その戯れを人間的倫理で以て考察しようとするが、「善事か
悪事か」さつぱり分からないのである。
人間は楽でいい、と言つて羨んでみせるときの天狗には、もちろん多大のエリート意識があるが、その
エリート意識を支へるものは、自在の飛行それ自体でなくて、日々種々の苦しい行である。これがなくては、
天狗はたちまち墜落して天狗でなくなる。
かくて天狗は、どうしても存在するために、日夜存在の努力を払ふ必要があり、このやうな存在学的努力は、
人間には本来不要なものである。
天狗にとつて人間は明らかに存在してゐるからであり、天狗のはうが分が悪いのは、或る人間たちにとつては
天狗は存在してゐる必要がないからである。

三島由紀夫「天狗道」より

209:無名草子さん
10/10/05 00:57:18 .net
ここにいたつて、天狗の存在の問題は、そのまま天狗の倫理になる。天狗にとつて、天狗はどうしても存在
しなければならない。それでなければ、天狗はマイノングのいはゆる存在外(アウセルザイン)にとどまるであらう。
そして天狗を存在せしめるものこそ、「日々種々」の苦しい行であり、その発現としての自在な飛行の戯れである。
後段の天狗たることの宿命について語られた一節では、その「我師」といふ一句に、川端康成氏の名を
当てはめたい誘惑にかられるが、それでは私も天狗の端くれを自ら名乗ることになつて、不遜のそしりを免れまい。
むしろ、目を泰西文学に放つて、たとへば「トニオ・クレエゲル」の美しく踊るハンスとインゲボルクの姿を、
暗いヴェランダから硝子ごしにじつと見つめてゐる奇怪なトニオの鼻―それは又作者トオマス・マンの鼻―
が、しらぬ間に長々と伸びて来て、他ならぬ天狗の鼻に変貌してゐたりするところを、想像してゐたはうが
無事かもしれない。

三島由紀夫「天狗道」より

210:無名草子さん
10/10/05 11:05:03 .net
音楽は生活必需品かといふと、人によつてちがふだらうが、私にとつては必ずしもさうではない。それは思考を
妨げるからだ。私には、音楽の鳴つてゐる部屋で物を考へるなど、狂気の沙汰としか思はれない。このごろの
青少年がジャズをききながら試験勉強をしてゐるのを見ると、私と別人種の感を新たにする。
では、音楽は休息の楽しみとして必要だらうか。私にとつては必ずしもさうではない。机に向かふのが仕事の私には、
休息とは、体を動かすことである。運動にはそれ自体のリズムがあつて、音楽を要しない。アメリカのジムなどで、
ムード・ミュージックを流してゐるところがあつたが、何だか運動に力が入らなくて困つた。
では、私にとつて音楽とは何なのだらうか。それは生活必需品でもなければ、休息の楽しみでもない。それは
誘惑なのである。

三島由紀夫「誘惑―音楽のとびら」より

211:無名草子さん
10/10/05 11:07:02 .net
むかし米軍占領時代に、家から三丁ばかり離れた大きな邸が接収されてゐて、週末といふと舞踏会が催ほされる
らしく、夜風に乗つてダンス音楽がかすかに流れてきて、食糧難時代の新米文士の仕事を攪乱したものだつた。
しかし、その音楽には、今そこにないものへの強烈な誘惑があつた。「今そこにないもの」を、音楽ほど強烈に
暗示し、そこへ向つて人を惹き寄せるものはない。もちろんただの幻である映画だつてさうかもしれない。
が、音楽のこの誘惑の力を借りてゐない映画はきはめて稀である。
「今そこにないもの」にもピンからキリまである。ピンは天国から、キリはつまらない観光的な熱帯の小島まである。
ピンは、人間精神の絶顛から、キリは性慾の満足まである。それに従つて、音楽にもピンからキリまであるわけだが、
かう考へると、音楽は生活必需品でなくても、人生の必需品、むしろその本質的なものとも思はれる。
「今そこにないものへの誘惑」にこそ、生の本質があるからである。

三島由紀夫「誘惑―音楽のとびら」より

212:無名草子さん
10/10/05 15:03:53 .net
「長安に男児ありき
 二十にして心已に(すでに)朽つ」
   (李長吉の詩「陳商に贈る」の冒頭の二行)
李長吉は中唐の天才詩人で西暦紀元七九一年に生れ、二十七歳で西暦紀元八一七年に死んだ。
耽美的で、難解で、デカダンで、華麗で、憂鬱で、鬼気を帯びて……、とにかくすばらしい詩人だ。
実生活は不幸で、二十歳のとき、人のねたみで、官吏登用試験を受けられず、失意に沈んだ心境を述べた詩だが、
私はそんな来歴にはかまはず、全く自分のものとしてこの詩を愛してゐる。二十歳の自分の心境告白として、
この二行を愛してゐるのである。二十歳にして敗戦日本の現実に投げ出された私は、すでに心朽ちたまま、
自分の美の国を建設せねばならなかつた。その気持を李長吉が歌つてくれたやうな気がするのである。

三島由紀夫「私の愛することば」より

213:無名草子さん
10/10/05 15:42:29 .net
革命には神秘主義がつきものであり、人間の心情の中で、あるパッションを呼び起こす最も激しい内的衝動は、
同時に現実打破と現実拒否の冷厳な、ある場合には冷酷きはまる精神と同居してゐるのである。(中略)

遠くチェ・ゲバラの姿を思ひ見るまでもなく、革命家は、北一輝のやうに青年将校に裏切られ、信頼する部下に
裏切られなければならない。裏切られるといふことは、何かを改革しようとすることの、ほとんど楯の両面である。
なぜならその革命の理想像を現実が絶えず裏切つていく過程に於て、人間の裏切りは、そのやうな現実の
裏切りの一つの態様にすぎないからである。革命は厳しいビジョンと現実との争ひであるが、その争ひの過程に
身を投じた人間は、ほんたうの意味の人間の信頼と繋りといふものの夢からは、覚めてゐなければならないからである。
一方では、信頼と同志的結合に生きた人間は、論理的指導と戦術的指導とを退けて、自ら最も愚かな結果に陥る
ことをものともせず、銃を持つて立上り、死刑場への道を真つ直ぐに歩むべきなのであつた。

三島由紀夫「北一輝論―『日本改造法案大綱』を中心として」より

214:無名草子さん
10/10/05 15:47:37 .net
もし、北一輝に悲劇があるとすれば、覚めてゐたことであり、覚めてゐたことそのことが、場合によつては
行動の原動力になるといふことであり、これこそ歴史と人間精神の皮肉である。そしてもし、どこかに覚めて
ゐる者がゐなければ、人間の最も陶酔に充ちた行動、人間の最も盲目的行動も行なはれないといふことは、
文学と人間の問題について深い示唆を与へる。その覚めてゐる人間のゐる場所がどこかにあるのだ。もし、
時代が嵐に包まれ、血が嵐を呼び、もし、世間全部が理性を没却したと見えるならば、それはどこかに理性が
存在してゐることの、これ以上はない確かな証明でしかないのである。

三島由紀夫「北一輝論―『日本改造法案大綱』を中心として」より

215:無名草子さん
10/10/06 12:01:54 .net
私は「擬制の終焉」から、はつきりと吉本氏のファンの一人になつたが、読みながら一種の性的興奮を感じる
批評といふものは、めつたにあるものではない。読者は観念の闘牛場の観客の一人になつて、闘牛士のしなやかな
身のこなしと、猛牛の首から流れる血潮に恍惚とする。
本書に収められてゐる批評の傑作「丸山真男論」をはじめ、氏の批評には、認識の運動が逞しく働らいてつひには
赤裸々な現実の真姿が現はれてくるときのスリルが充満し、三文小説でイカモノの現実ばかりつかまされて
困つてゐる人は、吉本氏の著書を読むがいい。それでゐて、氏の批評には、かよわい美食家など到底及ばぬ
文学的グルメの犀利な味覚がひらめいてゐる。谷崎潤一郎の「風癲老人日記」の末尾のカナ文字日記体を、
長歌に対する反歌の役割だ、といふ卓見などそのほんの一例である。

三島由紀夫「吉本隆明著『模写と鏡』推薦文」より

216:無名草子さん
10/10/06 12:35:06 .net
芸術が純粋であればあるほどその分野をこえて他の分野と交流しお互に高めあふものである。
演劇的批判にしか耐へないものは却つて純粋に演劇的ですらないのである。

三島由紀夫「宗十郎覚書」より


小説の世界では、上手であることが第一の正義である。
ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから正義なのである。

三島由紀夫「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より


少年がすることの出来る―そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、
おもふに恋愛と不良化の二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への
恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などがはひる。また、不良化とは、
稚心を去る暴力手段である。


神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は
拒否せぬ存在である。神は否定せぬ。

三島由紀夫「檀一雄『花筐』―覚書」より

無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。

三島由紀夫「恋する男」より

217:無名草子さん
10/10/06 12:36:18 .net
初恋に勝つて人生に失敗するのはよくある例で、初恋は破れる方がいいといふ説もある。

三島由紀夫「冷血熱血」より


美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。
まことに人生はままならないもので、生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。

三島由紀夫「夭折の資格に生きた男―ジェームス・ディーン現象」より


人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。

三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より


生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつたが、これは何も
浪漫派に限らず、芸術作品の形成がそもそも死と闘ひ死に抵抗する営為なのであるから、
死に対する媚態と死から受ける甘い誘惑は、芸術および芸術家の必要悪なのかもしれないのである。

三島由紀夫「日記」より

218:無名草子さん
10/10/06 12:38:24 .net
青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい。


精神的な崇高と、蛮勇を含んだ壮烈さといふこの二種のものの結合は、前者に傾けば
若々しさを失ひ、後者に傾けば気品を失ふむつかしい画材であり、現実の青年は、
目にもとまらぬ一瞬の行動のうちに、その理想的な結合を成就することがある。

三島由紀夫「青年像」より


ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。自分がはたして
誠実であるかどうかについてもたえず疑つてをります。

三島由紀夫「青春の倦怠」より


詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。
詩人的な生き方とは、短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。


小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。

三島由紀夫「佐藤春夫氏についてのメモ」より

219:無名草子さん
10/10/06 12:40:15 .net
小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。井戸から上つて来たときには、
日光を浴びなければならぬ。体を動かし、思ひきり新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。

三島由紀夫「文学とスポーツ」より


小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、
練習は必ず毎日やらなければならぬといふことである。

三島由紀夫「ボクシング・ベビー」より


愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。さういふ批評は、そして、
すぐれた読者にしかできないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。

三島由紀夫「作品を忘れないで……人生の教師ではない私―読者への手紙」より


あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。

三島由紀夫「班女について」より

220:無名草子さん
10/10/07 00:21:12 .net
論敵同士などといふものは卑小な関係であり、言葉の上の敵味方なんて、女学生の
寄宿舎のそねみ合ひと大差がありません。


剣のことを、世間ではイデオロギーとか何とか言つてゐるやうですが、それは使ふ刀の
研師のちがひほどの問題で、剣が二つあれば、二人の男がこれを執つて、戦つて、
殺し合ふのは当然のことです。

三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より


国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬといふのは、政治的
鉄則であるやうに思はれる。そして一時的に中道政治を装つて、国民を安心させて、
一気にベルト・コンベアーに載せてしまふのである。


ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必要な、
爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けてゐた。
ヒットラーは、二十世紀そのもののやうに暗い。

三島由紀夫「『わが友ヒットラー』覚書」より

221:無名草子さん
10/10/07 00:22:05 .net
私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓であり、
生活のモラルではサムラヒである。


何ごとにもまじめなことが私の欠点であり、また私の滑稽さの根源である。


孤独と連帯性は決して両極端ではない。孤独を知らぬ作家の連帯責任など信用できぬ。
われわれは水晶の数珠のやうにつなぎ合はされてゐるが、一粒一粒でもそれは水晶なのだ。
しかし一粒の水晶と一連の数珠との間には中庸などといふものはありえない。
バラバラだからつなげることができ、つながつてゐるからこそバラバラになりうる。

三島由紀夫「フランスのテレビに初主演―文壇の若大将 三島由紀夫氏」より

222:無名草子さん
10/10/07 00:24:10 .net
芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを吸ふことはできない。
四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。

三島由紀夫「文学座の諸君への『公開状』―『喜びの琴』の上演拒否について」より


われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。温和な、やさしい、典雅な
美しさに満足してゐられればそれに越したことはないのだが、それで満足してゐるやうな人は、
どこか落伍者的素質をもつてゐるといつていい。

三島由紀夫「美しきもの」より


芸術上の創造行為は存在そのものからは生れて来ない。自ら美しく生きようと思つた芸術家は
一人もゐなかつたので、美を創ることと、自分が美しく生きることとは、まるで反対の
事柄である。

三島由紀夫「女が美しく生きるには」より

223:無名草子さん
10/10/07 10:25:36 .net
現代におけるリリシズムがどんな形をとらねばならぬか、といふことが、現代芸術の一番おもしろい課題だと
私は考へてゐる。リリシズムは、現代において、否定された形、ねぢまげられた形、逆説的な形、敗北し流刑に
処された形、鼻つまみの形、……それらさまざまのネガティヴな形をとらざるをえず、そこから逆に清冽な
噴泉を投射する。もし現代において、リリシズムが一見いかにもこれらしい形をとつてゐたら、それは明らかに
ニセモノだと云つてよい。これが、私の「現代の抒情」の鑑定法である。
細江英公氏の作品が私に強く訴へるのは、氏がこのやうに「現代の抒情」を深くひそませた作品を作るからである。
そこには極度に人工的な制作意識と、やさしい傷つきやすい魂とが、いつも相争つてゐる。薔薇は元来薔薇の
置かれるべきでない場所に置かれて、はじめて現代における薔薇の王権を回復する。

三島由紀夫「細江英公氏のリリシズム―撮られた立場より」より

224:無名草子さん
10/10/07 10:28:53 .net
童話とは人間の最も純粋な告白に他ならないのである。

三島由紀夫「川端氏の『抒情歌』について」より


小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。


強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を
自分の裡に受容しなければならなくなる。

三島由紀夫「永遠の旅人―川端康成氏の人と作品」より


世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。

三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より

小説は芸術のなかでも最もクリチシズムの強いものだ。

三島由紀夫「文芸批評のあり方―志賀直哉氏の一文への反響」より

225:無名草子さん
10/10/08 10:37:45 .net
エロティックといふのは、ふつうの人間が日常のなかでは自然と思つてゐる行為が、
外に現はれて人の目にふれるときエロティックと感じる。

三島由紀夫「古典芸能の方法による政治状況と性」より


男子高校生は「娘」といふ言葉をきき、その字を見るだけで、胸に甘い疼きを感じる筈だが、
この言葉には、あるあたたかさと匂ひと、親しみやすさと、MUSUMEといふ音から来る
何ともいへない閉鎖的なエロティシズムと、むつちりした感じと、その他もろもろのものがある。
プチブル的臭気のまじつた「お嬢さん」などといふ言葉の比ではない。

三島由紀夫「美しい女性はどこにいる―吉永小百合と『潮騒』」より

226:無名草子さん
10/10/08 10:41:48 .net
緊張ばかりしてゐては疲れてしまふといふのは怠け者の考へで、弛緩こそ病気のもとで
あることはよく知られてゐる。いけないのはテレビ・プロデューサーのやうな末梢神経の
緊張の連続であつて、豹のやうに、全身的緊張を即座に用意できる生活こそ、健康な生活で
あることは言ふまでもない。


テレビによつて、いくらでも雑多な知識がひろく浅く供給されるから、暇のある人は
テレビにしがみついてゐれば、いくらでも知識が得られる代りに、「中国核実験」と
「こんにちは赤ちゃん」をつなぐことは誰にもできず、知識の綜合力は誰の手からも
失はれてゐる。無用の知識はいくらでもふえるが、有用な知識をよりわけることはますます
むづかしくなり、しかも忘却が次から次へとその知識を消し去つてゆく。


文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず
作者の夢が破れたところに出発してゐる。

三島由紀夫「秋冬随筆」より

227:無名草子さん
10/10/08 10:42:41 .net
われわれの祖先は、大らかな、怪奇そのものすらも晴れやかな、ちつともコセコセしない、
このやうな光彩陸離たる芸術を持ち、それをわが宮廷が伝へて来たといふことは、
日本の誇るべき特色である。だんだん矮小化されてきた日本文化の数百年のあひだに、
それと全くちがつた、のびやかな視点を、日本の宮廷は保つてきたのである。

三島由紀夫「舞楽礼讃」より


日本人の美のかたちは、微妙をきはめ洗煉を尽した果てに、いたづらな奇工におちいらず、
強い単純性に還元されるところに特色があるのは、いふまでもない。永遠とは、
くりかへされる夢が、そのときどきの稔りをもたらしながら、又自然へ還つてゆくことだ。
生命の短かさはかなさに抗して、けばけばしい記念碑を建設することではなく、自然の
生命、たとへば秋の虫のすだきをも、一体の壷、一個の棗(なつめ)のうちにこめることだ。
ギリシャ人は巨大をのぞまぬ民族で、その求める美にはいつも節度があつたが、日本人も
この点では同じである。

三島由紀夫「『人間国宝新作展』推薦文」より

228:無名草子さん
10/10/08 10:51:10 .net
アメリカでは、成功者や金持は決して自由ではない。従つて、「最高の自由」は、
わびしさの同義語になる。

三島由紀夫「芸術家部落―グリニッチ・ヴィレッジの午後」より


芝居の世界に住む人の、合言葉的生活感情は、あるときは卑屈な役者根性になり、あるときは
観客に対する思ひ上つた指導者意識になる。正反対のやうに見えるこの二つのものは、
実は同じ根から生れたものである。本当の玄人といふものは、世間一般の言葉を使つて、
世間の人間と同じ顔をして、それでゐて玄人なのである。

三島由紀夫「無題『新劇』扉のことば」より


ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日の
われわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、
人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。

三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より

229:無名草子さん
10/10/08 10:52:59 .net
人間がこんなに永い間花なしに耐へてゆけるには、その心の中に、よほど巨大な荘厳な
花の幻がなければならない。

三島由紀夫「服部智恵子バレエリサイタルに寄せて」より


あらゆる芸術ジャンルは、近代後期、すなはち浪漫主義のあとでは、お互ひに気まづくなり、
別居し、離婚した。


純粋性とは、結局、宿命を自ら選ぶ決然たる意志のことだ、と定義してもよいやうに思はれる。

三島由紀夫「純粋とは」より


新しい人間と新しい倫理とは別のものではないのである。倫理とは彼の翼にすぎぬ。
倫理とは彼の生きる方法だ。


金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。私たちは原稿の
代償として金を受取るとき、いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく感じなければ
ならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく撫でられた狂犬のやうにして。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より

230:無名草子さん
10/10/08 10:55:35 .net
知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではない。


芸術の根本にあるものは、人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、
ギョッとさせるといふことにかかつてゐる。


ちやうどギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から
生れてくるやうに、芸術といふものは一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を
把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ点では文学も古代の
秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅も
そのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

231:無名草子さん
10/10/08 10:56:29 .net
立派な芸術は積木に似た構造を持ち、積木を積みあげていくやうなバランスをもつて
組立てられてゐるけれども、それを作るときの作者の気持は、最後のひとつの木片を
積み重ねるとたんにその積木細工は壊れてしまふ、さういふところまで組立てていかなければ
満足しない。積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作者は、私は
芸術家ぢやないと思はれる。


最後の一片を加へることによつてみすみす積木が崩れることがわかつてゐながら、最後の
木片をつけ加へる。そして積木はガラガラと崩れてしまふのであるが、さういふふうな
積木細工が芸術の建築術だと私は思ふ。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

232:無名草子さん
10/10/09 22:09:37 .net
歴史劇などといふのは、本来言葉の矛盾である。芝居に現はれる現象としての事実は、
はじめから入念に選び出されたものであるのに、歴史では玉石混淆だからである。

三島由紀夫「歴史的題材と演劇」より


一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。


この世には情熱に似た憂鬱もあり、憂鬱に似た情熱もある。

三島由紀夫「六世中村歌右衛門序説」より


すぐれた俳優は、見事な舟板みたいなもので、自分の演じたいろんな役柄の影響によつて、
たくさんの船虫に蝕まれたあとをもつてゐるが、それがそのまま、世にも面白い舟板塀になつて、
風雅な住ひを飾るのだ。


俳優といふものは、ひまはりの花がいつも太陽のはうへ顔を向けてゐるやうに、
観客席のはうへ顔を向けてゐるものであつて、観客席から見るときに、その一等美しい、
しかも一等真実な姿がつかめるとも云へる。

三島由紀夫「俳優といふ素材」より

233:無名草子さん
10/10/09 22:10:42 .net
守る側の人間は、どんなに強力な武器を用意してゐても、いつか倒される運命にあるのだ。

三島由紀夫「若さと体力の勝利―原田・ジョフレ戦」より


守勢に立つ側の辛さ、追はれる者の辛さからは、容易ならぬ狡智が生れる。


「老巧」などといふ言葉は、スポーツの世界では不吉な言葉で、それはいつかきつと
「若さ」に敗れる日が来るのである。

三島由紀夫「追ふ者追はれる者―ペレス・米倉戦観戦記」より


巧くなつて不正直になるのは堕落といふもので、巧くなつてもなほ正直といふところが尊いのだ。

三島由紀夫「原田・メデル戦」より

234:無名草子さん
10/10/11 16:34:41 .net
世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、概して鈍感な人間である。


親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものがあるものだが、お節介な人間は、
善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。


人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると考へてよい。

三島由紀夫「私のきらひな人」より


人間のやることは残酷である。鳥羽の真珠島で、真珠の肉を手術して、人工の核を
押し込むところを見たが、玲瓏(れいろう)たる真珠ができるまでの貝の苦痛が、
まざまざと想像された。このごろ流行のダムも、この規模を大きくしたやうなものである。
ダム工事の行はれる地点は、大てい純潔な自然で、風光は極めて美しい。その自然の肉に、
コンクリートと鉄の異物が押し込まれ、自然の永い苦痛がはじまる。

三島由紀夫「『沈める滝』について」より

235:無名草子さん
10/10/11 16:35:52 .net
赤ん坊の顔は無個性だけれど、もし赤ん坊の顔のままを大人まで持ちつづけたら、
すばらしい個性になるだらう。しかし誰もそんなことはできず、大人は大人なりに、
又々十把一からげの顔になることかくの如し。

三島由紀夫「赤ちゃん時代―私のアルバム」より


一切の錯覚を知らぬ心は、大義に近づくことができない、といふのが人間の宿命である。


現代は、死を正当化する価値の普遍化が周到に避けられ、そのやうな価値が注意深く
ばらばらに分散させられてゐる時代である。


私は円谷二尉の死に、自作の「林房雄論」のなかの、次のやうな一句を捧げたいと思ふ。
「純潔を誇示する者の徹底的な否定、外界と内心のすべての敵に対するほとんど
自己破壊的な否定、……云ひうべくんば、青空と雲とによる地上の否定」
そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、「青空と雲」だけに属して
ゐるのである。

三島由紀夫「円谷二尉の自刃」より

236:無名草子さん
10/10/11 16:39:05 .net
ブラジルは人種的偏見の少ない国だが、それでも黒人の悲願は白人に生れ変ることであり、
かういふ宿命を抱いた人たちは、当然仮装に熱中する。仮装こそ、「何かになりたい」といふ
念願の仮の実現だからである。

三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より


別に酒を飲んだりごちそうをたべたりしなくても、気の合つた人間同士の三十分か
一時間の会話の中には、人生の至福がひそむ。

三島由紀夫「社交について―世界を旅し、日本を顧みる」より


他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。
たとへば、祭りのミコシをかついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。
われわれに本当に興味のある話題といふものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。
他人に通じない話ほど、心をあたたかく、席をなごやかにするものはない。

三島由紀夫「内輪のたのしみ」より

237:無名草子さん
10/10/11 16:39:32 .net
どんなに平和な装ひをしてゐても「世界政策」といふことばには、ヤクザの隠語のやうな、
独特の血なまぐささがある。概括的な、概念的な世界認識の裏側には必ず水素爆弾が
くすぶつてゐるのである。

三島由紀夫「終末観と文学」より


今日のやうに泰平のつづく世の中では、人間の死の本能の欲求不満はいろいろな形であらはれ、
ある場合には、社会不安のたねにさへなる。こんな問題は、浅薄なヒューマニズムや、
平べつたい人間認識では、とても片付かない。

三島由紀夫「K・A・メニンジャー著 草野栄三良訳『おのれに背くもの』推薦文」より


剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。今は人殺しの風儀も地に落ちたが、
昔は礼儀正しく人を斬ることができたのだ。人とエヘラエヘラ附合ふことだけに
エチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない現代とは、思へば不安な時代である。

三島由紀夫「ジムから道場へ―ペンは剣に通ず」より

238:無名草子さん
10/10/11 16:39:58 .net
現代は奇怪な時代である。やさしい抒情やほのかな夢に心を慰めてゐる人たちをも、
私は決して咎めないが、現代といふ奇怪な炎のなかへ、われとわが手をつつこんで、
その烈しい火傷の痛みに、真の時代の詩的感動を発見するやうな人たちのはうを、私は
もつともつと愛する。古典派と前衛派は、このやうな地点で、めぐり会ふのである。
なぜなら生存の恐怖の物凄さにおいて、現代人は、古代人とほぼ似寄りのところに居り、
その恐怖の造型が、古典的造型へゆくか、前衛的造型へゆくかは、おそらくチャンスの
ちがひでしかない。

三島由紀夫「推薦の辞(650 EXPERIENCE の会)」より


夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、結婚生活のかなり大事な要素である。
性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史のちがひにすぎぬことが多い。

三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より


「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、
ロックンロール的要素もあるのです。

三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

239:無名草子さん
10/10/12 10:33:31 .net
風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。つまり
新鮮な美学の発展期には、人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、それが次第に
一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、古くなるにしたがつて古ぼけた
滑稽なものと見られて行きます。


ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは
理知のもつともなごやかな形式なのであります。

三島由紀夫「文章読本」より


作家は作品を書く前に、主題をはつきりとは知つてゐない。「今度の作品の主題は何ですか」
と作家に訊くのは、検事に向かつて「今度の犯罪の証拠は何ですか」と訊くやうなものである。
作中人物はなほ被疑者にとどまるのである。もちろん私はストーリイやプロットについて
言つてゐるのではない。はじめから主題が作家にわかつてゐる小説は、推理小説であつて、
私が推理小説に何ら興味を抱かないのはこの理由による。外見に反して、推理小説は、
刑事訴訟法的方法論からもつとも遠いジャンルの小説であり、要するに拵(こしら)へ物である。

三島由紀夫「法律と文学」より

240:無名草子さん
10/10/12 10:33:50 .net
私はあくまで黒い髪の女性を美しいと思ふ。洋服は髪の毛の色によつて制約されるであらうが、
女の黒い髪は最も派手な、はなやかな色であるから、かうして黒い服を着た黒い髪の女は、
世界中で一番派手な美しさと言へるだらう。

三島由紀夫「恋の殺し屋が選んだ服」より


今でも英国では、午後の紅茶に「ミルク、ファースト?ティー、ファースト?」と丁重に
きいてまはつてゐる。同じ茶碗にお茶を先に入れようがミルクを先に入れようが、
味に変りはなささうだが、そんなことはどうでもいいかといへば、そこには非合理な
各人各説といふものがあつて、決してさうはいかないのが英国であることは、今も昔も
変りがない。「どつちでもいいぢやないか」といふ精神は、生活を、ひろくは文化といふものを、
あつさり放棄してしまつた精神のやうに思はれる。

三島由紀夫「英国紀行」より

241:無名草子さん
10/10/12 10:37:08 .net
「まづ身を起こせ」といふのが、生来オッチョコチョイの私の主義であつて、
「核兵器よりもまづ駆け足」といふことを、隊付をして学びえたと思つてゐる。
人間の脚は、特に国土戦において、バカにならぬ戦場機動速度を持つのである。

三島由紀夫「自衛隊と私」より


空手は武器を禁じられた沖縄島民の民族の悲願が凝つて成つた武道ときいてゐる。
日本の戦後も占領軍による武装解除がそのまま平和憲法に受けつがれ、徒手空拳で戦ひ、
徒手空拳で身を守るほかに、民族の志を維持する道をふさがれてゐる。
空手道が戦後の日本で隆盛になつたのは決して偶然ではない。

三島由紀夫「第十一回空手道大会に寄せる……」より


正しい力は崇高であり、汚れた力は醜悪であることは、あたかも、清い水は生命をよみがへらせ、
汚ない水は人を病気にさせるのに似てゐる。

三島由紀夫「『第十二回全国空手道選手権大会』推薦文」より

242:無名草子さん
10/10/12 10:37:31 .net
刀が武士の魂といはれ、筆が文士の魂といはれるのは、道具を使つた闘争や芸術表現が、
そのまま精神のあらはれになるためには、その道具と生体の一体化が企てられねばならぬ、
といふ要請から生れた言葉であらう。道具が生体の一部になればなるほど、道具はただの
道具ではなくなり、手段はただの手段ではなくなり、魂といふ幹の一本の枝になつて、
そこにまで魂の樹液が浸透して、魂の動くままに動き、いはば道具は透明になるであらう。
そのとき、手段と目的、肉体と精神、行動と思想の、乖離や二元性は完全に払拭されるであらう。

三島由紀夫「空手の秘義」より


「正義は力」だが「力は正義」ではない。その間の消息をもつともよく示してゐるのが、
空手だと思ふ。空手は正義の表現力であり、黙した力である。口舌の徒はつひに正義さへ
表現しえないのである。

三島由紀夫「『第十三回全国空手道選手権大会』推薦文」より

243:無名草子さん
10/10/12 10:40:01 .net
現代に政治を語る者は多い。政治的言説によつて世を渡る者の数は多い。厖大なデータを整理し、
情報を蒐集し、これを理論化体系化しようとする人は多い。しかもその悉くが、現実の
上つ面を撫でるだけの、究極的にはニヒリズムに陥るやうな、いはゆる現実主義的情勢論に
墜するのは何故だらうか。このごろ特に私の痛感するところであるが、この複雑多岐な、
矛盾にみちた苦悶の胎動をくりかへして、しかも何ものをも生まぬやうな不毛の現代社会に於て、
真に政治を語りうるものは信仰者だけではないのか? 日本もそこまで来てゐるやうに思はれる。

三島由紀夫「『占領憲法下の日本』に寄せる」より


電子計算機を使ふ人間が、ともすると忘れてゐることは、電子計算機の命令に従つて
動くのはよいが、人間は疲れるのに、電子計算機は決して疲れない、といふことである。
人間にとつて、疲労は又、生命力の逆の証明なのだ。

三島由紀夫「クールな日本人(桜井・ローズ戦観戦記)」より

244:無名草子さん
10/10/13 13:14:19 .net
私は歌舞伎といふものは、もちろん台本も大切、心理描写も大切だけれども、一瞬間で人を酔はせることが
できなければ、歌舞伎ではないんだ、といふことがだんだん分るやうになつたんです。(中略)
お客が喜ぶのは、二人の人間が何か一所懸命ぶつかり合つてゐる、しかもただ言葉でぶつかり合つてゐるのでは
なくつて型でぶつかり合つてゐる、性格でぶつかり合つてゐるのではなくて、型でぶつかつてゐる、そこにみな
感動するんです。
そしてその型が一つ一つ見事に磨きぬかれてゐる、たとへば喧嘩でも見悪(みにく)い喧嘩ぢやない、
コノヤロウといふ喧嘩なら、どこでも見せられる。腕の振りあげ方一つ、殴り方一つにもちやんと型がある。
さういふふうに感覚的な魅惑といふものに訴へることなしには、どんなことも歌舞伎は我々に伝へてこない。
もし感覚的魅惑を抜きにして、歌舞伎を分れといつても無理だし、そしてその狭い感覚的な魅惑の道を通つて
歌舞伎といふものが、にゆつと飛び出してくるんです。

三島由紀夫「悪の華―歌舞伎」より


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