□■□評論家・三島由紀夫■□■at BOOKS
□■□評論家・三島由紀夫■□■ - 暇つぶし2ch50:無名草子さん
10/09/12 10:41:46 .net
氏の生涯は芸術家として模範的なものだといふ考へは私の頭を去らない。
日本の近代の芸術家中の一流中の一流の天才である氏は、日本の近代といふ歴史的状況のあらゆる矛盾を
「痴態」と見てゐたにちがひない。そしてそれによつて犠牲にされたあらゆるものを、氏はあの豊じゆんな、
あでやかな言葉によつて充分に補つた。かつてわれわれが「日本語」と呼んでゐた、あの無類に美しい、
無類に微妙な言語によつて。

三島由紀夫「谷崎文学の世界」より


谷崎氏は日本古典を愛しつつ、一方、小説家として少しも旧慣にとらはれない天才であつた。この相反するかの
ごとく見える二つの特性は、日本の近代文学史の歪みの是正にもつとも役立つた。なぜなら日本の近代小説は、
日本古典の流れを汲まず、一方、自分たちのこしらへた奇妙な「近代的旧慣」のとりこになつてゐたからである。

三島由紀夫「谷崎潤一郎頌」より

51:無名草子さん
10/09/12 10:44:36 .net
谷崎氏のエロティックな領域の生活はともあれ、食生活の贅沢はいろいろと言ひ伝へられてゐる。戦時中の
食糧欠乏時代にも、美食に親しみながら「細雪」を書きつづけ、戦後は、熱海で客をもてなすのに京都から
料理人を呼び寄せたり、東京のパンはまづいからとて、京都からパンを飛行機で運ばせた、などといふ噂を、
嘘か本当か知らないが、きいたことがある。
しかし、史上伝へられるヴィクトル・ユゥゴオやデュマやプルウストの贅沢に比べれば物の数にも入らない。
住居も、青年時代の横浜の洋館の純洋風生活から、関西移住後の岡本の生活など、いろいろ話にはきいてゐるが、
王候を凌ぐ贅沢といふ風には感じられない。たまたま貧乏国の貧乏文士の間に置くから目立つただけで、氏の
豪奢な文学に比べれば、いかに氏が、生活に贅を尽くしても程度は知れてゐるのである。氏の場合は、節倹第一の
儒教的倫理感とも、社会主義者の世間を気にする貧乏演技とも、はじめから無縁だつただけの話である。

三島由紀夫「谷崎潤一郎、芸術と生活」より

52:無名草子さん
10/09/12 10:47:26 .net
では氏が、生活を享楽し、生を肯定し、生活第一と考へてゐたかと云へば、決してさうではあるまい。
このやうな美の執拗な構築者、美を現実に似せるために言葉の極限の機能を利用した芸術家にとつて、生活が
それほど根本的な関心であつたとは思はれない。大体氏には、花なら桜、食物なら鯛、医者なら一流の
国手といふ、大月並主義があつたのは事実だが、それが私には、氏が自分の夢想にリアリティーを与へる
手段であつたやうに思はれる。氏の文学的夢想はきはめて困難なものであり、これを万人の趣味の理想で
飾り立てることによつて、かつかつそのリアリティーが保障されるやうなものだつた。氏が御馳走が好きで
あつたことは疑ひがないが、御馳走は、氏の文学自体がもつとも美味しい御馳走となるための手段だつたのだから、
この芸術家の精神の中にある可食細胞にとつては、生活、人生、生自体はたえず「美味しいもの」に見えてゐる
絶対の必要があつたのである。

三島由紀夫「谷崎潤一郎、芸術と生活」より

53:無名草子さん
10/09/12 10:54:15 .net
氏はうるさいことが大きらひで、青くさい田舎者の理論家などは寄せつけなかつた。自分を理解しない人間を
寄せつけないのは、芸術家として正しい態度である。芸術家は政治家ぢやないのだから。
私はさういふ生活のモラルを氏から教へられた感じがした。それなら氏が人当りのわるい傲岸な人かといふと、
内心は王者をも挫(ひし)ぐ気位を持つてゐたらうが、終生、下町風の腰の低さを持つてゐた人であつた。
初対面の人には、ずつと後輩でも、自分のはうから進み出て、「谷崎でございます」と深く頭を下げ、又、
自分中心のテレビ番組に人に出てもらふときには、相手がいかに後輩でも、自分から直接電話をかけて丁重に
たのんだ。秘書に電話をかけさせて出演を依頼するやうな失礼な真似は決してしなかつた。

三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より

54:無名草子さん
10/09/12 10:56:06 .net
深沢七郎氏の本の出版記念会が日劇ミュージック・ホールでひらかれたとき、私は谷崎氏の隣席でショウを
見てゐた。ショウがをはつて席を立つた私のあとから、谷崎氏が、「お忘れ物」と云ひながら、席に忘れた
私のレインコートを持つて来て下さつたのには恐縮した。ふつうの世界なら、「おい君、忘れてるよ」と、私の
肩でも叩いて注意してくれるのが関の山であらう。文士の世界では、どんなにヒヨッコでも一応、表向きは
一国一城の主として扱へ、といふ生活上のモラルも、私がかうして氏から教はつたものであつた。
そんなに深いお附合はなかつたが、私が氏から無言の裡に受けた教へは、このやうに数多い。それといふのも
氏は大芸術家であると共に大生活人であり、芸術家としての矜持を守るために、あらゆる腰の低さと、あらゆる
冷血の印象を怖れない人だつたからだ。

三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より

55:無名草子さん
10/09/12 11:00:25 .net
もし天才といふ言葉を、芸術的完成のみを基準にして定義するなら、「決して自己の資質を
見誤らず、それを信じつづけることのできる人」と定義できるであらうが、実は、この定義には
循環論法が含まれてゐる。といふのはそれは、「天才とは自ら天才なりと信じ得る人である」
といふのと同じことになつてしまふからである。コクトオが面白いことを言つてゐる。
「ヴィクトル・ユーゴオは、自分をヴィクトル・ユーゴオと信じた狂人だつた。

三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より


天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのはうに作家の
諸特質や、その後発展させられずに終つた重要な主題が発見されることが多いのである。

三島由紀夫「解説(新潮日本文学6 谷崎潤一郎集)」より


天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。

三島由紀夫「舟橋聖一との対話」より

56:無名草子さん
10/09/12 11:03:51 .net
若い人の清純な心中が、忽ち伝説として流布され、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」の
証左にされるのは、少なくともこのやうな架空の幻影のために彼らが身命を賭したといふ
誠実さの証拠にはなる。といふのは、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」なるものは、
生きてゐようが、自殺してみようが、心中してみようが、青春といふ肉体的状態にとつては
不可能な文字なのであつて、青春のあらゆる特質と矛盾する性質のものであるから、
それゆゑに、さういふものは美しいのである。

三島由紀夫「心中論」より


女体を崇拝し、女の我儘を崇拝し、その反知性的な要素のすべてを崇拝することは、実は
微妙に侮蔑と結びついてゐる。(谷崎)氏の文学ほど、婦人解放の思想から遠いものは
ないのである。氏はもちろん婦人解放を否定する者ではない。しかし氏にとつての関心は、
婦人解放の結果、発達し、いきいきとした美をそなへるにいたつた女体だけだ。エロスの
言葉では、おそらく崇拝と侮蔑は同義語なのであらう。

三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より

57:無名草子さん
10/09/12 16:17:38 .net
白日夢が現実よりも永く生きのこるとはどういふことなのか。人は、時代を超えるのは
作家の苦悩だけだと思ひ込んでゐはしないだらうか。

三島由紀夫「解説(日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花)」より


よき私小説はよき客観小説であり、よき戯曲はよき告白なのである。

三島由紀夫「解説(日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁)」より


「浅草花川戸」「鉄仙の蔓花」「連子窓」「花畳紙」「ボンボン」「継羅宇」「銀杏返し」
「絎台」「針坊主」「浜縮緬」などの伝統的な語彙の駆使によつて、われわれは一つの世界へ
引き入れられる。生活の細目のあらゆる事物に日本風の「名」がついてゐたこのやうな時代に
比べると、現代は完全に文化を失つた。文化とは、雑多な諸現象に統一的な美意識に
基づく「名」を与へることなのだ。

三島由紀夫「解説(現代の文学20 円地文子集)」より

58:無名草子さん
10/09/12 16:19:28 .net
右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である。


共産主義と攘夷論とは、あたかも両極端である。しかし見かけがちがふほど本質は
ちがはないといふ仮定が、あらゆる思想に対してゆるされるときに、もはや人は思想の
相対性の世界に住んでゐるのである。そのとき林氏には、さらに辛辣なイロニイが
ゆるされる。すなはち、氏のかつてのマルクス主義への熱情、その志、その「大義」への
挺身こそ、もともと、「青年」のなかの攘夷論と同じ、もつとも古くもつとも暗く、かつ
無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」であつたといふ
イロニイが。


日本の作家は、生れてから死ぬまで、何千回日本へ帰つたらよいのであらうか。日本列島は
弓のやうに日本人たちをたえずはじき飛ばし、鳥もちのやうにたえず引きつける。

三島由紀夫「林房雄論」より

59:無名草子さん
10/09/12 16:34:10 .net
近代日本が西洋文明をとりいれた以上、アリの穴から堤防はくづれたのである。しかも、文明の継ぎ木が
奇妙な醜悪な和洋折衷をはやらせ、一例が応接間といふものを作り、西洋では引つ越しや旅行の留守にしか
使はない白麻のカバーをソファーにかける。私はさういふことがきらひだから、いすが西洋伝来のものである以上、
西洋の様式どほり、高価な西洋こつとうのいすにも、家ではカバーをかけない。
昔の日本には様式といふものがあり、西洋にも様式といふものがあつた。それは一つの文化が全生活を、
すみずみまでおほひつくす態様であり、そこでは、窓の形、食器の形、生活のどんな細かいものにも名前がついてゐた。
日本でも西洋でも窓の名称一つ一つが、その時代の文化の様式の色に染まつてゐた。さういふぐあひになつて、
はじめて文化の名に値するのであり、文化とは生活のすみずみまで潔癖に様式でおほひつくす力であるから、
すきや造りの一間にテレビがあつたりすることは許されないのである。

三島由紀夫「日本への信条」より

60:無名草子さん
10/09/12 16:35:30 .net
私はただ、畳にすわるよりいすにかけるはうが足が楽だからいすにかけ、さうすれば、テーブルも、じゆうたんも、
窓も、天井も、何から何まで西洋式でなければ、様式の統一感に欠けるから、今のやうな生活様式を選んだのである。
それといふのも、もし、私が純日本式生活様式を選ばうとしても、十八世紀に生きてゐれば楽にできたであらうが、
二十世紀の今では、様式の不統一のぶざまさに結局は悩まされることになるからである。
私にとつては、そのやうな、折衷主義の様式的混乱をつづける日本が日本だとはどうしても思へない。
また、一例が、能やカブキのやうなあれほどみごとな様式的美学を完成した日本人が、たんぜんでいすにかけて
テレビを見て平気でゐる日本人と、同じ人種だとはどうしても思へない。
こんなことをいふと、永井荷風流の現実逃避だと思はれようが、私の心の中では、過去のみならず、未来においても、
敏感で、潔癖で、生活の細目にいたるまで様式的統一を重んじ、ことばを精錬し、しかも新しさをしりぞけない
日本および日本人のイメージがあるのである。

三島由紀夫「日本への信条」より

61:無名草子さん
10/09/12 16:37:12 .net
そのためには、中途はんぱな、折衷的日本主義なんかは真つ平で、生つ粋の西洋か、生つ粋の日本を選ぶほかはないが、
生活上において、いくら生つ粋の西洋を選んでも安心な点は、肉体までは裏切れず、私はまぎれもない
日本人の顔をしてをり、まぎれもない日本語を使つてゐるのだ。つまり、私の西洋式生活は見かけであつて、
文士としての私の本質的な生活は、書斎で毎夜扱つてゐる「日本語」といふこの「生つ粋の日本」にあり、
これに比べたら、あとはみんな屁のやうなものなのである。
今さら、日本を愛するの、日本人を愛するの、といふのはキザにきこえ、愛するまでもなくことばを通じて、
われわれは日本につかまれてゐる。だから私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことに
なるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである。

三島由紀夫「日本への信条」より

62:無名草子さん
10/09/12 16:39:58 .net
低開発国の貧しい国の愛国心は、自国をむりやり世界の大国と信じ込みたがるところに生れるが、かういふ
劣等感から生れた不自然な自己過信は、個人でもよく見られる例だ。私は日本および日本人は、すでにそれを
卒業してゐると考へてゐる。ただ無言の自信をもつて、偉ぶりもしないで、ドスンと構へてゐればいいのである。
さうすれば、向うからあいさつにやつてくる。貫禄といふものは、からゐばりでつくるものではない。
そして、この文化的混乱の果てに、いつか日本は、独特の繊細鋭敏な美的感覚を働かせて、様式的統一ある文化を
造り出し、すべて美の視点から、道徳、教育、芸術、武技、競技、作法、その他をみがき上げるにちがひない。
できぬことはない。かつて日本人は一度さういふものを持つてゐたのである。

三島由紀夫「日本への信条」より

63:無名草子さん
10/09/12 23:25:12 .net
愛するといふことにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠の素人である。
男は愛することにおいて、無器用で、下手で、見当外れで、無神経、蛙が陸を走るやうに
無恰好である。どうしても「愛する」コツといふものがわからないし、要するに、
どうしていいかわからないのである。先天的に「愛の劣等生」なのである。
そこへ行くと、女性は先天的に愛の天才である。どんなに愚かな身勝手な愛し方をする女でも、
そこには何か有無を言わせぬ力がある。男の「有無を言わせぬ力」といふのは多くは暴力だが、
女の場合は純粋な精神力である。どんなに金目当ての、不純な愛し方をしてゐる女でも、
愛するといふことだけに女の精神力がひらめき出る。非常に美しい若い女が、大金持の
老人の恋人になつてゐるとき、人は打算的な愛だと推測したがるが、それはまちがつてゐる。
打算をとほしてさへ、愛の専門家は愛を紡ぎ出すことができるのだ。

三島由紀夫「愛するといふこと」

64:無名草子さん
10/09/13 10:52:15 .net
電熱器ばやりの今の人には火鉢と云つてもピンと来ないだらうが、むかしは炭火をカンカン起して、鉄の網を
五徳にのせて、東京人が「おかちん」と呼ぶところの餅を、火鉢で焼いて喰べるのが、冬の夜の家庭のたのしみの
一つであつた。その鉄の網目の模様がコンガリと焼けた餅にのこり、私たちは、熱い餅をフーフー吹きながら、
醤油をかけて、おいしく喰べたものだ。
さて、いくら早く焼きたいからと云つて、餅を炭火につつこんだのでは、たちまち黒焦げになつて、喰べられた
ものではない。餅網が適度に火との距離を保ち、しかも火熱を等分に伝達してくれるからこそ、餅は具合よく
焼けるのである。
さて、法律とはこの餅網なのだらうと思ふ。餅は、人間、人間の生活、人間の文化等を象徴し、炭火は、人間の
エネルギー源としての、超人間的なデモーニッシュな衝動のプールである潜在意識の世界を象徴してゐる。

三島由紀夫「法律と餅焼き」より

65:無名草子さん
10/09/13 10:54:06 .net
人間といふものは、おだやかな理性だけで成立つてゐる存在ではないし、それだけではすぐ枯渇してしまふ、
ふしぎな、落着かない、活力と不安に充ちた存在である。
人間の活動は、すばらしい進歩と向上をもたらすと同時に、一歩あやまれば破滅をもたらす危険を内包してゐる。
ではその危険を排除して、安全で有益な活動だけを発展させようといふ試みは、むかしからさかんに行はれたが、
一度も成功しなかつた。
どんなに安全無害に見える人間活動も、たとへば慈善事業のやうなものでも、その事業を推進するエネルギーは、
あの怖ろしい炭火から得るほかはない。一例が、プロヒューモ氏は、例の醜聞事件以後、すばらしく有能な
慈善事業家として更生してゐるさうである。
人間の餅は、この危険な炭火の力によつて、喰へるもの、すなはち社会的に有益なものになる。

三島由紀夫「法律と餅焼き」より

66:無名草子さん
10/09/13 10:55:18 .net
しかし、もし火に直接に触れれば、喰へないもの、すなはち社会的に無益有害なものになる。だから、餅と火の
あひだにあつて、その相干渉する力を適当に規制し、餅をほどよい焼き加減にするために、餅網が必要になるのである。
たとへば殺人を犯す人間は、黒焦げになつた餅である。そもそもさういふ人間を出さないやうに餅網が存在して
ゐるのだが、網のやぶれから、時として、餅が火に落ちるのはやむをえない。さういふときは、餅網は餅が
黒焦げになるに委(まか)せる他はない。すなはち彼を死刑に処する。餅網の論理にとつては、罪と罰は一体を
なしてゐるのであつて、殺人の罪と死刑の罰とは、いづれも餅網をとほさなかつたことの必然的結果であつて、
彼は人を殺した瞬間に、すでに地獄の火に焼かれてゐるのだ。

三島由紀夫「法律と餅焼き」より

67:無名草子さん
10/09/13 10:56:25 .net
そして責任論はどこまで行つてもきりがなく、個人的責任と社会的責任との継目は永遠にはつきりしないが、
少くとも、殺人といふ罪が、人間性にとつて起るべからざることではなく、人間の文化が、あの怖ろしい炭火に
恩恵を蒙(かうむ)つてゐるかぎり、火は同時に殺人をそそのかす力にさへなりうるのである。かくて、終局的に、
責任は人間のものではないとする仏教的罪の思想も、人間には原罪があるとするキリスト教的罪の思想も
生れてくるわけであるが、餅網の論理は、そこまで面倒を見るわけには行かない。
ただ、餅網にとつていかにも厄介なのは、芸術といふ、妙な餅である。この餅だけは全く始末がわるい。
この餅はたしかに網の上にゐるのであるが、どうも、網目をぬすんで、あの怖ろしい火と火遊びをしたがる。
そして、けしからんことには、餅網の上で焼かれて、ふつくらした適度のおいしい焼き方になつてゐながら、
同時に、ちらと、黒焦げの餅の、妙な、忘れられない味はひを人に教へる。

三島由紀夫「法律と餅焼き」より

68:無名草子さん
10/09/13 10:58:02 .net
殺人は法律上の罪であるのに、殺人を扱つた芸術作品は、出来がよければ、立派な古典となり文化財となる。
それはともかくふつくらしてゐて、黒焦げではないのである。古典的名作はそのやうな意味での完全犯罪であつて、
不完全犯罪のはうはまだしもつかまへやすい。黒焦げのあとがあちこちにちらと残つてゐて、さういふところを
公然猥褻物陳列罪だの何だのでつかまへればいいからである。それにしても芸術といふ餅のますます厄介なところは、
火がおそろしくて、白くふつくら焼けることだけを目的として、おつかなびつくりで、ろくな焦げ目もつけずに
引上げてしまつた餅は、なまぬるい世間の良識派の偽善的な喝采は博しても、つひに戦慄的な傑作になる機会を
逸してしまふといふことである。

三島由紀夫「法律と餅焼き」より

69:無名草子さん
10/09/13 11:36:43 .net
電気の世の中が蛍光電灯の世の中になつて、人間は影を失なひ、血色を失なつた。
蛍光灯の下では美人も幽霊のやうに見える。近代生活のビジネスに疲れ果てた幽霊の男女が、蛍光灯の下で、
あまり美味しくもなささうな色の料理を食べてゐるのは、文明の劇画である。
そこで、はうばうのレストランでは、蝋燭が用ひられだした。磨硝子(すりガラス)の円筒形のなかに蝋燭を
点したのが卓上に置かれる。すると、白い卓布の上にアット・ホームな円光がゑがかれ、そこに顔をさし出した
女は、周囲の暗い喧騒のなかから静かに浮彫のやうに浮き出して見え、ほんの一寸した微笑、ほんの一寸した
目の煌めきまでがいきいきと見える。情緒生活の照明では、今日も蝋燭に如くものはないらしい。
そこで今度は古来の提灯(ちやうちん)がかへり見られる番であらう。

三島由紀夫「蝋燭の灯」より

70:無名草子さん
10/09/13 11:37:58 .net
…私の幼年時代はむろん電気の時代だつたが、提灯はまだ生活の一部に生きてゐた。内玄関の鴨居には、
家紋をつけた大小長短の提灯が埃まみれの箱に納められてかかつてゐた。火事や変事の場合は、それらが一家の
避難所の目じるしになるのであつた。
提灯行列は軍国主義花やかなりし時代の唯一の俳句的景物であつたが、岐阜提灯のさびしさが今日では、生活の中の
季節感に残された唯一のものであらう。盆のころには、地方によつては、まだ盆灯籠が用ひられてゐるだらうが、
都会では灯籠といへば、石灯籠か回はり灯籠で、提灯との縁はうすくなつた。
「大塔宮曦鎧」といふ芝居があつて、その身替り音頭の場面には、たしか美しい抒情的な切子(きりこ)灯籠が
一役買つてゐた。切子灯籠は、歳時記を見ると、切子とも言ひ、灯籠の枠を四角の角を落とした切子形に作り、
薄い白紙で張り、灯籠の下の四辺には模様などを透し切りにした長い白紙を下げたもの、と書いてある。
江戸時代の庶民の発明した紙のシャンデリアである。

三島由紀夫「蝋燭の灯」より

71:無名草子さん
10/09/13 20:02:58 .net
私は証言する。むかしの日本人は、さびしかつた。今よりもずつと多い涙の中で生きてゐた。
嬉しいにつけ、悲しいにつけ、すぐ涙だつた。そして軍隊の記念の風呂敷の、あの
ノスタルジックな極彩色は、その紫がただちに打身の紫、その赤がただちにヒビ、アカギレの
血の色を隠してゐた。人間といふものはもともと極彩色なのだ。


さびしい極彩色の日本人の生活を私はなつかしむ。家のどこかでは必ず女がこつそりと
泣いてゐた。祖母も、母も、叔母も、姉も、女中も。そして子供に涙を見られると、
あわてて微笑に涙を隠すのだ。私は女たちがいつも泣いてゐた時代をすばらしいと思ふのである!
しかし泣いてゐた女たちの怨念は、今のやうな、いたるところで女がゲラゲラ高笑ひをし、
歯をむき出してゐる時代を現出した。むかしの女の幽霊は、さびしげに柳のかげからあらはれ、
めんめんと愚痴をこぼしたが、今の女の幽霊は、横尾忠則の絵にあるやうな裸一貫の
赤鬼になつて跋扈してゐる。うわア怖い!

三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」より

72:無名草子さん
10/09/13 20:04:00 .net
恥部とは何だらうか。それはそもそも、人に見せたくないものだらうか。それとも人に
見せたいものだらうか。これは甚だ微妙な、また、政治的な問題である。

三島由紀夫「ポップコーンの心霊術―横尾忠則論」より


恋愛では手放しの献身が手放しの己惚れと結びついてゐる場合が決して少なくない。
しかし計量できない天文学的数字の過剰な感情の中にとぢこめられてゐる女性といふものは、
はたで想像するほど男をうるさがらせてはゐないのだ。それは過剰の揺藍(ゆりかご)に
男を乗せて快くゆすぶり、この世の疑はしいことやさまざまなことから目をつぶらせて、
男をしばらく高いいびきで眠らせてしまふのである。私は時には、さういふ催眠剤的な女性を好む。

三島由紀夫「好きな女性」より

73:無名草子さん
10/09/13 23:47:17 .net
あのヨーグルトを固めたやうな男が、男性の性的魅力の代表であるといふことについては、異論のある人が
多いと思ふ。(中略)
年増女の母性愛をくすぐる憂愁も、あどけなさも、少女の英雄崇拝にうつたへる体力も、不良つぽさも、
性的経験のある女に対する魅力も、それのない女からの憧れも……何もかも一身に具備して、歌の一ふし、
体の一ひねり、ことごとくセクシーならざるはないといふこの男。しかもそれを男の中の男と呼ぶには、
何か欠けてゐるやうな男。なまぐさい若さの、動物電気みたいなものを、存在すべてにしみこませて、それで
成功した男……。(略)
しかし、男といふものは、別にそんな存在になるために生まれてくるわけぢやない。プレースリーは、男性に
おける突然変異であり、ひどく自然に反したもので、一種の「性の神」になるやうに生まれついた男である。
ひよつとすると、彼がアメリカ人であるといふことは、女性の権力が強くなりすぎた社会における、男性の
側からの永い怨みと復讐のしるしかもしれない。

三島由紀夫「第一の性 各論エルヴィス・プレースリー」より

74:無名草子さん
10/09/13 23:48:29 .net
「ああ、女たちよ。威張れ。威張れ。いくらでも威張れ。お前たちのおのぞみの歌、大好きな歌をうたつて
やるからな。ほら、俺が歌ふと、どうしたんだい? 今まで威張つてたお前たちが、急にしびれて、引つくり
かへるぢやないか。男の暴力を封じ、経済力をむしばみ、権力を弱めてきたお前たちが、
ハ、ハ、ハ、ハートブレーク・ホテル
だなんて、俺が下らない歌を、ふるへ声で歌ふと、とたんに降参して城を明け渡すぢやないか。なんて君らは
低俗な趣味なんだ。どうだい、腰を振つてやらうか。うれしいか。ざまあみろ。俺の前ぢや、みんな仮面を
はがれてしまふんだ。いくらとりすました顔をして、威張つてゐたつて、こんな下品な歌一つで一コロなんだ。
どうだ。男にはやつぱりかなはないといふことがわかつたろう。(略)」
―プレースリーの歌をきいてゐると、私は砂糖菓子みたいな歌詞のむかふがはで、彼がたえず右のやうに
歌つてゐる声をきくやうな気がします。

三島由紀夫「第一の性 各論エルヴィス・プレースリー」より

75:無名草子さん
10/09/14 10:17:21 .net
劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点で
もうおしまひである。かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家に
なり果て、「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では
見るもむざんな政治主義に堕してゐる。
一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。「もーれつア太郎」の
スラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。ヤングベ平連の高校生と話したとき、
「もーれつア太郎」の話になつて、その少年が、
「あれは本当に心から笑へますね」
と大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳を離れない。大人はたとへ「ア太郎」を愛読してゐてもかうまで
含羞のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。

三島由紀夫「劇画における若者論」より

76:無名草子さん
10/09/14 10:18:37 .net
(中略)世の中といふのは困つたもので、劇画に飽きた若者が、そろそろいはゆる「教養」がほしくなつてきたとき、
与へられる教養といふものが、又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつては
たまらないのに、さうなりがちなことである。それはすでに漫画の作家の一部の教養主義になつて現はれてをり、
折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮(ふる)ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(一九六五年)を
描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。若者は、突拍子もない劇画や漫画に飽きたのちも、
これらの与へたものを忘れず、自ら突拍子もない教養を開拓してほしいものである。すなはち決して大衆社会へ
巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養を。

三島由紀夫「劇画における若者論」より

77:無名草子さん
10/09/14 10:23:53 .net
感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである。
いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠つて以て人が死に得るところの一個の古い徳目、
一個の偉大な道徳的規範の象徴である。その滅亡は、一つの信仰の死である。
この死を前に、戦死者たちは生の平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春ははからずも
「絶対」に直面する。この美しさは否定しえない。ある世代は別なものの中にこれを求めた。作者の世代は
戦争の中にそれを求めただけの相違である。

三島由紀夫「一読者として(吉田満著『戦艦大和の最期』)」より

78:無名草子さん
10/09/14 10:46:01 .net
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▽▲▽三島由紀夫の社会学▼△▼
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79:無名草子さん
10/09/14 11:14:16 .net
私の貧しい感想が、この本に何一つ加へるものがないことを知りながら、次の三点について読者の注意を
促しておくことは無駄ではあるまいと思ふ。
第一は、もつとも苛烈な状況に置かれたときの人間精神の、高さと美しさの、この本が最上の証言をなしてゐる
ことである。
玉砕寸前の戦場において、自分の腕を切つてその血を戦友の渇を医やさうとし、自分の死肉を以て戦友の飢を
救はうとする心、その戦友愛以上の崇高な心情が、この世にあらうとは思はれない。日本は戦争に敗れたけれども、
人間精神の極限的な志向に、一つの高い階梯を加へることができたのである。
第二は、著者自身についてのことであるが、人間の生命力といふもののふしぎである。
舩坂氏の生命力は、もちろん強靭な精神力に支へられてのことであるが、すべての科学的常識を超越してゐる。

三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より

80:無名草子さん
10/09/14 11:15:33 .net
あらゆる条件が氏に死を課してゐると同時に、あらゆる条件が氏に生を課してゐた。まるで氏は、神によつて
このふしぎな実験の材料に選ばれたかのやうだ。(中略)
体力、精神力、知力に恵まれてゐたことが、氏を生命の岸へ呼び戻した何十パーセントの要素であつたことは
疑ひがないが、のこりの何十パーセントは、氏が持つてゐたあらゆる有利な属性とも何ら関はりがないのである。
それでは、ひたすら生きようといふ意志が氏を生かしてゐたか、といふと、それも当らない。氏は一旦、
はつきりと自決の決意を固めてゐたからである。

三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より

81:無名草子さん
10/09/14 11:16:51 .net
氏が拾つた命は、神の戯れとしか云ひやうがないものであつた。その神秘に目ざめ、且つ戦後の二十年間に、
その神秘に徐々に飽きてきたときに、氏の中には、自分の行為と、行為を推進した情熱とが、単なる僥倖としての
生以上の何かを意味してゐたにちがひない、といふ痛切な喚起が生じた。その意味を信じなければ、現在の生命の
意味も失はれるといふぎりぎりの心境にあつて、この本が書き出されたとき、「本を書く」といふことも亦、一つの
行為であり、生命力の一つのあらはれであるといふことに気づくとは、何といふ逆説だらう。氏はかう書いてゐる。
「彼ら(英霊)はその報告書として私を生かしてくれたのだと感じた」
(中略)そして氏の見たものは、他に一人も証人のゐない地獄であると同時に、絶巓における人間の美であつた。

三島由紀夫「序 舩坂弘著『英霊の絶叫』」より

82:無名草子さん
10/09/14 12:45:39 .net


        /⌒〉 /^ヽ                ,, '' ̄ ̄ ‐- ,,
  i´`!  /  / /   /              ,,ィ´: :,,ィ''⌒ ̄''''ー、: : `ヽ、
  |  |  /  / /  //´〉           /: : :ツ        `'^ヾ,,: `''ヽ
  |  | /  //  .//  /           /: : : :シ            '゙ー、: :\
  |  | /  //  //  ./          r{ : : / __r==、,,           ヾ : :,
  |  |ノ  |'゙  /  ./          /シ:/!/´  ̄``ミミ、 ノ        ゙l : :li
  /          /          / レ'  | `゙'\、, `ヽ'゙  、       | : :|
. /           /  ,,-─、     ,// ::   ',    `ミゝノ\,-≡=,,,,    ノ: : :i
/      >─  {/  /    (_/ ::    `ー __,,/  / ,,,  `ヾミ、 ./ : : :/
     /   ヽ/   /.      /       ./(r、   |  ゙゙\,  〉 f : : :/
            /       :{       ´    'ー''ヶ`ト    `'',ノ〉/ : /
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         ,,ィ        _ノ'  ト,   /  {ffrrr::\ヽ } . . ..: ::   /K\
      _,, ノ        /゙/   :|ヘ  {   弋`\frノ) : : :    /::/    いやっ!犯されるっ!!
    /          /::/    :| ∧ 、    `ー‐' . :' : :   / /}
   /    |       /::/     :| ∧ ` ,,  ,,,,,,, : :    . :: :: ノ~_    ,,__
/'ハ     l        |::/     :|  \ミ..,, ゙゙゙゙゙゙'      _,,ィ゙   `ヽ/:::::::::::::
 / }   /       ヘ/      |  /ヘ二ニ──'''''''´ ヘ \  /::::::::::::::::::::

83:無名草子さん
10/09/15 00:46:05 .net
日本人の明治以来の重要な文化的偏見と思はれるのは、男色に関する偏見である。
江戸時代までにはかういふ偏見はなかつた。西欧では、男色といふ文化体験に宗教が対立して、宗教が人為的に、
永きにわたつてこの偏見を作り上げたのである。しかるに日本では明治時代に輸入されたピューリタニズムの
影響によつて、簡単に、ただその偏見が偏見として伝播して、奇妙な社会常識になつてしまつた。そして
元禄時代のその種の文化体験を簡単に忘れてしまつた。
男色は、男色にとどまるものでなく、文化の原体験ともいふべきもので、あらゆる文化あらゆる芸術には、
男色的なものが本質的にひそんでゐるのである。
芸術におけるエローティッシュなものとは、男色的なものである。そして宗教と芸術・文化の、もつとも先鋭な
対立点がここにあるのに、それを忘れてしまつたのは、文化の衰弱を招来する重要な原因の一つであつた。

三島由紀夫「偏見について思ふこと」より

84:無名草子さん
10/09/15 10:21:35 .net
政敵のない政治は必ず恐怖か汚濁を生む。

三島由紀夫「憂楽帳 政敵」より


プルターク英雄伝の昔から、少なくともウイーン会議のころにいたるまで、政治は巨大な
人間の演ずる人間劇と考へられてゐた。人間劇である以上、憎悪や嫉妬や友情などの
人間的感情が、冷徹な利害の打算と相まつて、歴史を動かし、歴史をつくり上げる。

三島由紀夫「憂楽帳 お見舞」より


チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。共産主義に対する
反乱といふ言葉は、何だか妙で、ひつかかる。


中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに
潜行して反乱軍に参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は
弱い者に味方しようといふ気概を失つてしまつたやうだ。世界中で一番自分が弱い者だと
思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんでしまつたらしい。

三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より

85:無名草子さん
10/09/15 10:23:19 .net
どうも私は、民主政治家の「強い政治力」といふ表現が好きでない。(中略)
強面で通して、実は妥協すべきところでは妥協する、といふのと、表面実にたよりなく、
ナヨナヨしながら、実は抜け目なく通すべき筋はチャンと通す、といふのと、どつちが
民主主義の政治家として本当かと考へると、明らかに後者のやうに思はれる。

三島由紀夫「憂楽帳 強い政治力」より


思想といふものは、古からうが、新らしからうが、所詮は人間の持物で、その思想に
ふさはしい器となる人物は、とにかく魅力を持ちつづける。

三島由紀夫「憂楽帳 思想の容器」より

86:無名草子さん
10/09/15 10:24:39 .net
一九五九年の、月の裏側の写真は、人間の歴史の一つのメドになり、一つの宿命になつた。
それにしても、或る国の、或る人間の、単一の人間意志が、そのまま人間全体の宿命に
なつてしまふといふのは、薄気味のわるいことである。広島の原爆もまた、かうして
一人の科学者の脳裡に生れて、つひには人間全体の宿命になつた。
こんなふうに、人間の意志と宿命とは、歴史において、喰ふか喰はれるかのドラマを
いつも演じてゐる。今まで数千年つづいて来たやうに、(略)…人間のこのドラマが
つづくことだけは確実であらう。ただわれわれ一人一人は、宿命をおそれるあまり
自分の意志を捨てる必要はないので、とにかく前へ向つて歩きだせはよいに決つてゐる。


結婚の美しさなどといふものは、ある程度の幻滅を経なければわかるものではない。


子供は天使ではない。従つて十分悪の意識を持ち得る。そこに教育の根拠があるのだ。

三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)」より

87:無名草子さん
10/09/15 10:29:01 .net
教育も教育だが日本人と生まれて、西鶴や近松ぐらゐが原文でスラスラ読めないで
どうするのだ。秋成の雨月物語などは、ちよつと脚注をつければ、子供でも読めるはずだし、
カブキ台本にいたつては、問題にもならぬ。それを一流の先生方が、身すぎ世すぎのために、
美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。
みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐるからである。


現代語訳などといふものはやらぬにこしたことはないので、それをやらないで滅びて
しまふ古典なら、さつさと滅びてしまふがいいのである。ただカナばかりの原本を、
漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい
脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか、さういふ仕事は先生方にうんとやつて
もらひたいものである。

三島由紀夫「発射塔 古典現代語訳絶対反対」より

88:無名草子さん
10/09/15 10:29:58 .net
ユーモアや哄笑は、無力な主人公や、何らなすところなきフーテン的人物のみの
かもし出すものではないと信ずる。有為な人物はユーモリストであり、ニヒリストは
なほさら哄笑する。

三島由紀夫「発射塔 ヒロイズム」より


だれだつて年をとるのだから声変はりもしようし、いつまでもキイキイ声ばかり張り上げても
ゐられない。古くなる覚悟は腹の底にいつでも持つてゐなければならない。その時がきたら
ジタバタして、若い者に追従を言つたりせず、さつさと古くなつて、堂々とわが道をゆく
ことがのぞましい。
しかし「オレはもう古いんだぞ。古くなつたんだぞ」と、吹聴してまはるのもみつともない。
オールドミスが「私、もうおばあさんだから」と言つてまはるのと同じことだ。古くなるには、
やはり黙つて、堂々と、新しさうな顔をしたまま平然と古くなつてゆくべきだらう。

三島由紀夫「発射塔 古くなる覚悟」より


自分に似合はないものを思ひ切つて着る蛮勇といふものも、作家の持つべき美徳の一つである。

三島由紀夫「発射塔 文壇衣装論」より

89:無名草子さん
10/09/15 12:04:27 .net
埴谷雄高氏は戦後の日本の夜を完全に支配した。氏は黒い神話になり、ねぢ曲つた現実の回路が或る一個所で
底なしの闇に通じてゐるのをわれわれが発見するとき、必然的に不可避的に埴谷氏の顔に会つた。
あらゆる絶望の予言はすでに埴谷氏の本の中に語られてゐた。だからこれを読むことが希望の唯一の根拠になつた。
明晰な文体と異常な人物、正確な悟性と異様な幻想……そのすべてが氏の容赦なき人間認識から出て、闇の風を
孕んだ深いお告げになつた。氏は分析に足をとられたことのない稀な近代人である。世界は崩壊の一歩手前で
言葉によつて引き止められ、闇は凝視にとつて最小限必要な光りを許してゐることによつて逆説的である。
埴谷氏の文学はただ青年の書であるだけではない。人間と世界の書であることが、今や明らかになつたのである。

三島由紀夫「推薦のことば(『埴谷雄高作品集』)」より

90:無名草子さん
10/09/15 19:24:28 .net
サルヴァドル・ダリの「最後の晩餐」を見た人は、卓上に置かれたパンと、グラスを夕日に射抜かれた赤葡萄酒の
紅玉のやうな煌めきとを、永く忘れぬにちがひない。それは官能的なほどたしかな実在で、その葡萄酒は、
カンヴァスを舐めれば酔ひさうなほどに実在的に描かれてゐる。
…吉田健一氏の或る小品を読むたびに、私はこのダリの葡萄酒を思ひ出す。単に主題や思想のためだけなら、
葡萄酒はこれほど官能的これほど実在的である必要がないのに、「文学は言葉である」がゆゑに、又、
文学は言葉であることを証明するために、氏の文章は一盞の葡萄酒たりえてゐるのである。

三島由紀夫「ダリの葡萄酒」より

91:無名草子さん
10/09/16 17:52:05 .net
子供のころの私は、寝床できく汽車の汽笛の音にいひしれぬ憧れを持ち、ほかの子供同様一度は鉄道の機関士に
なつてみたい夢を持つてゐたが、それ以上発展して、汽車きちがひになる機会には恵まれなかつた。今も昔も、
私がもつとも詩情を感じるのは、月並な話だが、船と港である。
このごろはピカピカの美しい電車が多くなつたが、汽車といふには、煤(すす)ぼけてガタガタしたところが
なければならない。さういふ真黒な、無味乾燥な、古い箪笥のやうなきしみを立てる列車が、われわれが眠つて
ゐるあひだも、大ぜいの旅客を載せて、窓々に明るい灯をともして、この日本のどこか知らない平野や峡谷や
海の近くなどいたるところを、一心に煙を吐いて、汽笛を長く引いて、走りまはつてゐる、といふのでなければ
ならない。なかんづくロマンチックなのは機関区である。夜明けの空の下の機関区の眺めほど、ふしぎに美しく
パセティックなものはない。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

92:無名草子さん
10/09/16 17:53:15 .net
空に朝焼けの兆があれば、真黒な機関車や貨車の群が秘密の会合のやうに集ひ合ふ機関区の眺め、朝の最初の
冷たい光りに早くも敏感にしらじらと光り出す複雑な線路、そしてまだ灯つてゐる多くの灯火などは、一そう
悲劇的な美を帯びる。
かういふ美感、かういふ詩情は、一概に説き明すことがむづかしい。ともかくそこには古くなつた機械に対する
郷愁があることはまちがひがない。少くとも大正時代までは、人々は夜明けの機関区にも、今日のわれわれが
夜明けの空港に感じるやうな溌剌とした新らしい力の胎動を感じたにちがひない。(中略)
機械といふものが、すべて明るく軽くなる時代に、機関区に群れつどふ機関車の、甲虫のやうな黒い重々しさが、
又われわれの郷愁をそそるのである。頼もしくて、鈍重で、力持ちで、その代り何らスマートなところの
なかつた明治時代の偉傑の肖像画に似たものを、古い機関車は持つてゐる。もつと古い機関車は堂々と
シルクハットさへ冠つてゐた。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

93:無名草子さん
10/09/16 17:55:13 .net
しかし夜明けの機関区の持つてゐる一種悲劇的な感じは、それのみによるものではない。産業革命以来、
近代機械文明の持つてゐたやみくもな進歩向上の精神と勤勉の精神を、それらの古ぼけた黒い機関車や貨車が、
未だにしつかりと肩に荷つてゐるといふ感じがするではないか。それはすでにそのままの形では、古くなつた
時代思潮ともいへるので、それを失つたと同時に、われわれはあの時代の無邪気な楽天主義も失つてしまつた。
しかし人間より機械は正直なもので、人間はそれを失つてゐるのに、シュッシュッ、ポッポッと煙をあげて
今にも走り出しさうな夜明けの機関車の姿には、いまだに古い勤勉と古い楽天主義がありありと生きてゐる。
それを見ることがわれわれの悲壮感をそそるともいへるだらう。そしてそこに、私は時代に取り残された無智な
しかし力強い逞ましい老人の、仕事の前に煙草に火をつけて一服してゐる、いかつい肩の影までも感じとるのである。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

94:無名草子さん
10/09/16 17:57:29 .net
それは淋しい影である。しかしすべてが明るくなり、軽快になり、快適になり、スピードを増し、それで世の中が
よくなるかといへば、さうしたものでもあるまい。飛行機旅行の味気なさと金属的な疲労は、これを味はつた
人なら、誰もがよく知つてゐる。いつかは人々も、ただ早かれ、ただ便利であれ、といふやうな迷夢から、
さめる日が来るにちがひない。「早くて便利」といふ目標は、やはり同じ機械文明の進歩向上と勤勉の精神の
帰結であるが、そこにはもはや楽天主義はなく、機械が人間を圧服して勝利を占めてしまつた時代の影がある。
だからわれわれは蒸気機関車に、機械といふよりもむしろ、人間的な郷愁を持つのである。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

95:無名草子さん
10/09/16 19:23:50 .net
能は、いつも劇の終つたところからはじまる。


能がはじまるとき、そこに存在するのは、地獄を見たことによつて変質した優雅である。
芸術といふものは特にこのやうなものに興味を持つ。芸術家は狐のやうに、この特殊な餌を
嗅ぎ当てて接近する。それは芸術の本質的な悪趣味であり、イロニイなのだ。


現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の
実相は、時たま起る酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、
病院や葬儀屋の手で、手際よく片附けられる。宗教にいたつては、息もたえだえである。
……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、煙のやうに消えてしまふ。

三島由紀夫「変質した優雅」より

96:無名草子さん
10/09/16 19:26:41 .net
現代の問題は、芸術の成立の困難にはなくて、そのふしぎな容易さにあることは、周知の
とほりである。
それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、人間の死と腐敗の実相は、
赤い血のりをふんだんに使つたインチキの残酷さでごまかされ、さらに宗教の代りに
似非論理の未来信仰があり、といふ具合に、三者の代理の贋物が、対立し激突するどころか、
仲好く手をつなぐにいたる状況である。そこでは、この贋物の三者のうち、少くとも
二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、文学らしきものが
生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、悩まされることに
なつたのである。

三島由紀夫「変質した優雅」より


若い女性の多くは、能楽を、退屈に感じて見たがらない。そして、日本でしか、日本人しか、
真に味はふことのできぬ美的体験を自ら捨ててゐるのだ。

三島由紀夫「能―その心に学ぶ」より

97:無名草子さん
10/09/16 20:06:25 .net
私は残念ながら、大阪における武智歌舞伎時代に、世評の高かつた君の「妹背の道行」の求女を見てゐない。
しかし、その後、映画で見る君の芸風、容姿から考へて、求女がいかに適(はま)り役であつたか、想像するに
難くない。目の美しい、清らかな顔に淋しさの漂ふ、さういふ貴公子を演じたら、容姿に於て、君の右に
出る者はあるまい。
君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、「炎上」の君には全く感心した。
市川崑監督としても、すばらしい仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考へられぬ
ところまで行つていた。ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げた
あらゆるものを注ぎ込んだのであらう。私もあの原作に「金閣寺」の主人公に、やはり自分の人生から汲み上げた
あらゆるものを注ぎ込んだ。さういうとき、作家の仕事も、俳優の仕事も、境地において、何ら変るところがない。

三島由紀夫「雷蔵丈のこと」より

98:無名草子さん
10/09/17 10:36:55 .net
純文学には、作者が何か危険なものを扱つてゐる、ふつうの奴なら怖気をふるつて
手も出さないやうな、取扱のきはめて危険なものを作者が敢て扱つてゐる、といふ感じが
なければならない、と思ひます。つまり純文学の作者には、原子力を扱ふ研究所員のやうな
ところがなければならないのです。


小説の中に、ピストルやドスや機関銃があらはれても、何十人の連続殺人事件が起つても、
作者自身が何ら身の危険を冒して『危険物』を扱つてゐないといふ感じの作品は、
純文学ではないのでせう。


純文学は、と云つても、芸術は、と云つても同じことだが、究極的には、そこに幸福感が
漂つてゐなければならぬと思ふ。それは表現の幸福であり、制作の幸福である。
どんな危険な怖ろしい作業であつても、いや、危険で怖ろしい作業であればあるほど、
その達成のあとには、大きな幸福感がある筈で、書き上げられたときその幸福感は遡及して、
作品のすべてを包んでしまふのだ。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

99:無名草子さん
10/09/17 10:38:19 .net
日本に生れて日本人たることは倖せである。老いの美学を発見したのは、おそらく中世の
日本人だけではないだろうか。


五十歳の野球選手といふものは考へらないが、七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の
実力を持つてゐる。
肉体の領域でもこれだから、精神の領域では、日本人ほど「老い」に強い国民はないだらう。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

100:無名草子さん
10/09/17 10:42:07 .net
このごろは町で想像もつかないことにいろいろぶつかる。小説家の想像力も、こんなことに一々おどろいてゐる
やうでは貧寒なものだ。
旧文春ビルのTといふ老舗の菓子屋で買物をしたら、私の目の前で、男の店員が、私の買物を包んでゐる女の店員に、
「領収書は要らないんだろ。もう金もらつた?」
ときいてゐた。
客の前で、大声で「もう金もらつた?」ときく心理は、どういふのだらう。
やはり銀座の五丁目のMデパートで、菓子売場の女店員に、
「舶来のビスケットある?」
ときいたら、
「チョコレートならありますけど、ビスケットは舶来はありません」
と言下に答へた。売場を一まはりして、さつきの女店員の立つてゐる飾棚を見たら、ちやんと英国製ビスケットが
二缶並んでゐる。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

101:無名草子さん
10/09/17 10:44:22 .net
「ここにあるぢやないか」
と言つたら、
「あら」とゲラゲラ笑つてゐた。
この二種類だけかときいたら、二種類だけです、と答へ、別の女の子が、他にも
二種類あります、と持つて来たはいいが、値段をきくと、全然同じ缶を二つ並べて、片方を八百円、片方を
千五百円といふ無責任さ。そのあひだゲラゲラ笑ひどほしで、奥の売場主任も我関せず焉で知らん顔をしてゐた。
(中略)
―かういふいろんな不条理か事例は、小説に使つたら、みんな嘘と思はれるだらう。もし今忠実な風俗小説
といふものが書かれたら、超現実主義風な作品になるのではないかと思はれる。

三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より

102:無名草子さん
10/09/17 18:09:31 .net
別離だから悲しからう、悲しければもたもたするだらう、といふのが浅薄な心理主義と
私の呼ぶところのものである。別離は、劇に於ける超人間的なモメントだといふことが、
そこでは完全に忘れ去られてゐる。それは別離を人間の常態だと説いた哲学からの、
なまぬるい離反なのであつた。


舞台の上では、裸体ほど抽象的で観念的なものはなく、セリフほど具体的なものはない。


芸術家の値打の分れ目は、死んだあとに書かれる追悼文の面白さで決ると言つてよい。


「トスカ」で、私が主要な俳優たちにしばしば忠告したのは、この種の芝居における
登場と退場の大切さであつた。
役の人物があらはれる一瞬前に、役者が登場しなければならぬ。役の人物が退場した一瞬あとに、
役者が退場しなければならぬ。


能以外の劇は、すべて、運動会のピストルみたいな幼稚な効果にたよつてゐる点で、
大きな顔はできない。

三島由紀夫「芸術断想」より

103:無名草子さん
10/09/17 18:12:03 .net
遠い花火があのやうに美しいのは、遅く来る音の前に、あざやかに無言の光りの幻が
空中に花咲き、音の来るときはもう終つてゐるからではないだらうか。光りは言葉であり、
音は音楽である。光りを花火と見るときに、音は不要なのだが、あとからゆるゆると来る音は、
もはや花火ではない、花火の追憶といふ別の現実性のイメーヂをわれわれの心に定着しつつ、
別の独立な使命を帯びて、われわれの耳に届くのである。


『真相』なんて、大ていまやかしものに決まつてゐる。いつでもすばらしいのは事件そのもので、
それだけなのだ。


「希望は過去にしかない」といふ悲観哲学は、伝統芸能の場合、一種特別な意味合ひを帯び、
「昔はよかつた」といふ言葉にたえず刺戟されないかぎり、芸術的完成はありえないことを、
特に若い歌舞伎俳優に銘記してもらいたい。

三島由紀夫「芸術断想」より

104:無名草子さん
10/09/17 18:13:06 .net
小説の文体その他形式上の模倣は、小説における形式が非本質的かつ知的なものであるから、
その模倣も、多少とも知的なものと考へられて恕される。


ワグナーとは、あらゆる純粋性に対する反措定なのだ。その点では、ワグナーは、
象徴主義にとつてさへ敵である。


「トリスタン」は、ただ単に官能的だから怖ろしいのでもなく、ただ単に形而上学的だから
崇高なのでもない。そこではバスを待つ人の行列のやうにお互ひに無関心に、官能と
形而上学とが一小節づつ平然と隣り合つて並んでゐる。こんなグロテスクな無差別の
最高原理である「綜合」や「全体」が、死神にしか似てゐないのは当然だらう。死神の鎌の
無差別が、人間精神の全体性への嗜慾の象徴になる。それだから「トリスタン」は
怖ろしいのである。

三島由紀夫「芸術断想」より

105:無名草子さん
10/09/17 18:15:20 .net
芝居とはSHOWであり、見せるもの、示すものである。すべてが観客席へ向つて
集約されてゆく作業である。それだといふのに、舞台から向ふ側に属する人たちのはうが、
観客よりもいつも幸福さうに見えるのは何故だらう。何故観客席のわれわれは、安楽な椅子を
宛はれ、薄闇の中で何もせずに坐つてゐればよく、すべての点で最上の待遇を受けて
ゐるのにもかかはらず、どうしてこのやうに疲れ果て、つねに幾分不幸なのであらう。
私は妙な理論だが、こんなことを考へる。つまり人生においても、劇場においても、
観客席に坐るといふ人間の在り方には、何かパッシヴな、不自然なものがあるのである。
示されるもの、見せられるものを見る、といふ状況には、何か忌まはしいものがある。
われわれの目、われわれの耳は、自己防衛と発見のためについてゐるので、本来、
お膳立てされたものを見且つ聴くやうにはできてゐないかもしれない。

三島由紀夫「芸術断想」より

106:無名草子さん
10/09/17 18:16:18 .net
芸術の享受者の立場といふものには、何か永遠に屈辱的なものがある。すべての芸術には、
晴朗な悪意、幸福感に充ちた悪意がひそんでをり、屈辱を喜ぶ享受者を相手にすることを
たのしむのである。そのもつとも端的なあらはれが劇場芸術だと言つてよい。


劇場の暗闇へなど入らぬかぎり、われわれはみなそれぞれの社会で固有の役割を果してをり、
決して「観客」などといふ、十把一トからげの、不名誉な呼称で呼ばれないですむのである。

三島由紀夫「芸術断想」より

107:無名草子さん
10/09/18 11:39:37 .net
女のまねをする女形は、女形芸術の墓穴を自ら掘つてゐるものだと思ふ。女形の範はあくまで能の鬘物の
シテにあるので、世にも高貴な美女の仮面をとほして、神秘的な、暗い男の声がひびいて来、美しい唐織の
衣装の袖から、無骨な男の手がむき出しになつてゐるべきなのだ。
といふことは、女形の真骨頂は仮面劇にあるのであつて、歌舞伎の女形といへども、変成男子の神秘感を
失つてはならないのだ。
といつて、私は、女形が日常生活でスポーツ・シャツを着てゴルフをしたり、「僕が」とか「僕が」とかいふ
一人称を使ふのを、推賞してゐるわけではない。ただ、女形美といふものが、女性美とは別の独自性を持つて
ゐることを忘れてはならない、といつてゐるのである。(中略)

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美―女形は亡びるかどうか」より

108:無名草子さん
10/09/18 11:40:41 .net
女形芸のうちで悪婆(毒婦)や若衆方に接近した要素が、一等早く衰退の気配を見せてゐるのは、悪婆的女性や
若衆的女性がふえてきたからである。逆に女性的女性が減つてきたので、真女形の稀少価値が生じて珍重されるにつれ、
女形は女の模倣の方向へ傾きがちになり、女優と見紛ふやうな芸を見せる役者も出て来て、歌舞伎の女形の
セリフからは義太夫の暗い渋い律調が失はれてしまつた。先々代時蔵の最後の政岡を見たときに、私は哀惜の念に
耐へなかつた。(中略)
さて、その女形の将来であるが、今は万事にアメリカ風の、浅薄な健全第一主義の時代であるけれど、日本人の
血の澱みは、一朝一夕に浄化されるものではない。
女形を気味がわるいと思ふ観客がふえたこともたしかだが、そんならその気味のわるさに将来性がある筈で、
芸術の歴史はみんなさういふ試練を経て来たのである。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美―女形は亡びるかどうか」より

109:無名草子さん
10/09/18 11:42:26 .net
私はつねづねふしぎに思つてゐることがある。
前述したやうに、今はむしやうに女が強くなつて男性化した時代のやうにいはれながら、女の顔自体は、昔に比べて、
だんだん男性的威厳を失つてきてゐるのである。理想の美女は、現代では、イタチが猫か少年の顔にちかく、
明治時代の女性のやうに、むしろ男性的威厳を帯びた顔は、ゐなくなつたか、少なくとも、流行らなくなつて
ゐるのである。(中略)顔はますます小さくなる傾向にあり、髷の似合ひさうな顔は一つもない。明治時代の
名妓の面影はあとをとどめない。
女性が女性的であつた時代に、却つて、女形風な顔や美がもてはやされ、沢山生存してゐた、とはどういふこと
だらうか。あれこれ思ふと、現代の女優で片はづしのカツラの似合ふやうな人は一人もなく、過去の壮大な
悲劇に似合ふ舞台上の女性は、どうしても、男にカツラをかぶせるほかはなくなるのである。ブリジット・
バルドーみたいな顔をした八重垣姫なんか、どう考へてもをかしいではないか。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美―女形は亡びるかどうか」より

110:無名草子さん
10/09/18 11:44:03 .net
男が女に化けてゐるといふ芝居のウソの前提を、観客がもつと強く意識するやうになれば、女形の将来は
捨てたものではなく、また女形自身も、舞台では女、日常生活では男、などといふコセコセした枠を作らず、
舞台の上で女形であること自体に、堂々たる男性的威厳を発揮することに努めれば、世間の目も変つてくる
ことであらう。
重ねていふやうに、日本人の血の澱みの深さは、アメリカ人などとは比べものにならないのである。
女形のやうな、面白い、気味のわるい、エクストラオルディネール(異常)なものを、さうむやみに捨て去る
ことのできる日本人ではない。その点はもつと安心して、大悟徹底してゐるべきだと思ふのである。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美―女形は亡びるかどうか」より

111:無名草子さん
10/09/18 20:03:16 .net
川端さんは、暗黒時代に生きる名人で、川端さんにとつて「よい時代」などといふのはなかつたにちがひない。
「葬式の名人」とは、川端さんにとつて、「生きることの名人」の同義語に他ならなかつた。この世は巨大な
火葬場だ。それなら、地獄の火にも涼しい顔をして生きなければならないが、現代はどうもそればかりでは
ないらしい。地獄の焔が、つかんでも、スルスル逃げてしまふのである。そして頬に当るのは生あたたかい風
ばかりである。
これには川端さんも少し閉口されたらしい。「眠れる美女」は、そのやうな精神の窒息状態のギリギリの舞踏の
姿である。あの作品の、二度と浮ぶ見込のなくなつた潜水艦の内部のやうな、閉塞状況の胸苦しさは比類がない。
そこで川端さんの睡眠薬の濫用がはじまり、濫用だけに終つてゐればよかつたが、その突然の停止が、あたかも、
潜水夫が急に海面に引き上げられたやうな、怖ろしい潜水病に似た発作を起した。(中略)

三島由紀夫「最近の川端さん」より

112:無名草子さん
10/09/18 20:04:15 .net
幼少のころ病弱で、このごろになつてバカに健康第一になつた私などには、殊に健康の有難味がわかる一方、
生れつき健康な人の知らない、肉体的健康の云ひしれぬ不健全さもわかるのである。
健康といふものの不気味さ、たえず健康に留意するといふことの病的な関心、各種の運動の裡にひそむ奇怪な
官能的魅力、外面と内面とのおそろしい乖離、あらゆる精神と神経のデカダンスに青空と黄金の麦の色を与へる
傲慢、……これらのものは、ヒロポンも阿片も、マリワーナ煙草も、ハシシュも、睡眠薬も、決して与へない
奇怪な症状である。

三島由紀夫「最近の川端さん」より

113:無名草子さん
10/09/19 17:56:38 .net
「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。


子惚気ばかり言ふ男は、家庭的な男といふ評判が立ち、へんなドン・ファン気取の
不潔さよりも、女性の好評を得ることが多いさうだが、かういふ男は、根本的にワイセツで、
性的羞恥心の欠如が、子惚気の形をとつて現はれてゐる。


動物になるべきときにはちやんと動物になれない人間は不潔であります。


男が女より強いのは、腕力と知性だけで、腕力も知性もない男は、女にまさるところは
一つもない。

三島由紀夫「第一の性」より

114:無名草子さん
10/09/19 17:57:38 .net
女は「きれいね」と、云はれること以外は、みんな悪口だと解釈する特権を持つてゐる。
なぜなら男が、「あいつは頭がいい」と云はれるのは、それだけのことだが、女が
「あの人は頭がいい」と云はれるのは、概してその前に美人ではないけれどといふ言葉が
略されてゐると思つてまちがひないからです。


「積極的」といふのと、「愛する」といふのとはちがふ。最初にイニシァチブをとる
といふことと、「愛する」といふこととはちがふ。


相手の気持ちをかまはぬ、しつこい愛情は、大てい劣等感の産物と見抜かれて、ますます
相手から嫌はれる羽目になる。

三島由紀夫「第一の性」より

115:無名草子さん
10/09/19 17:58:47 .net
愛とは、暇と心と莫大なエネルギーを要するものです。


小説家と外科医にはセンチメンタリズムは禁物だ。


男性操縦術の最高の秘訣は、男のセンチメンタリズムをギュッとにぎることだといふことが、
どの恋愛読本にも書いてないのはふしぎなことです。


変はり者と理想家とは、一つの貨幣の両面であることが多い。
どちらも、説明のつかないものに対して、第三者からはどう見ても無意味なものに対して、
頑固に忠実にありつづける。

三島由紀夫「第一の性」より

116:無名草子さん
10/09/19 18:00:07 .net
男には謎に耐へられない弱さがある。
…男に与へられてゐる高度の抽象能力は、この弱さの楯であつたらしい。抽象能力によつて、
現実と人生の謎を、カッチリした、キチンと名札のついた、整理棚に納めることなしには、
男は耐へられない。


人間は安楽を百パーセント好きになれない動物なのです。特に男は。


スタアといふものには、大てい化物じみたところがあるものです。


政治家の宿命は、死後も誤解を免かれないところにある。

三島由紀夫「第一の性」より

117:無名草子さん
10/09/19 18:00:43 .net
俳優といふショウ・アップ(見せつける)する職業には、本質的にナルシスムと男色が
ひそんでゐると云つても過言ではない。


宗教家ほどある意味では男くさい男はありません。


宗教家といふものには、思想家(哲学者)としての一面と、信仰者としての一面と、
指導者、組織者としての一面と、三つの面が必要なので、それには、男でなければならず、
キリストも釈迦も、男でありました。

三島由紀夫「第一の性」より

118:無名草子さん
10/09/19 19:38:35 .net
軽蔑とは、女の男に対する永遠の批評なのであります。


女性の特徴は、人の作つた夢に忠実に従ふことでせうが、何よりも多数決に弱いので、
夫の意見よりも、つねに世間の大多数の夢のはうを尊重し、しかもその「視聴率の高い夢」は
大企業の作つた罠であることを、ほとんど直視しようとしません。
「だつて私の幸福は私の問題だもの」
たしかにさうです。しかし、あなたの、その半分ノイローゼ的な、幸福への夢への
たえざる飢ゑと渇きは、実は大企業が、赤の他人が作つてゐるものなのです。


一から十まで完全に良い趣味の男といふのは、大てい女性的な男ですし、ニヒリズムを
持たない男といふのは、大てい脳天パアです。

三島由紀夫「反貞女大学」より

119:無名草子さん
10/09/19 19:39:27 .net
貞女とは、多くのばあひ、世間の評判であり、その世間をカサに着た女の鎧であります。


芸術および芸術家といふものは、かれら自身にとつては大事な仕事であるものが、女性からは
暇つぶしに使はれるといふ宿命を持つてゐる。モーツァルトがどんなにえらからうと、
トルストイがどんなに天才だらうと、暇がなければ「戦争と平和」なんて読めたものではない。


芸術家といふのは自然の変種です。
角の生えた豚は、一般の豚から見れば、たしかに魅力的かもしれませんが、何も可愛い
わが豚娘に、わざわざ角を生やしてやるには及ばない。

三島由紀夫「反貞女大学」より

120:無名草子さん
10/09/19 19:40:09 .net
ある女は心で、ある女は肉体で、ある女は脂肪で夫を裏切るのである。


女性はそもそも、いろんな点でお月さまに似てをり、お月さまの影響を受けてゐるが、
男に比して、すぐ肥つたりすぐやせたりしやすいところもお月さまそつくりである。


愛から嫉妬が生まれるやうに、嫉妬から愛が生まれることもある。


ちやうど年寄りの盆栽趣味のやうに、美といふものは洗練されるにつれて、一種の畸型を
求めるやうになる。
…そして、さういふ奇妙な流行を作るのは、たいてい男の側からの要求であり、パリの
デザイナーもほとんど男ですし、ほかのことでは何でも男性に楯つくことの好きな女性が、
流行についてだけは、素直に男の命令に従ひます。

三島由紀夫「反貞女大学」より

121:無名草子さん
10/09/20 11:18:33 .net
○ 森を切り拓いて一本の道をつけることは、道そのものの意義の外に与へるのみでなく、
その風景、大きくは自然、全体の意義をかへる。風景(万象)は、道の右、道の左、
道の上方、道の下方といふ観念を以て新たに認識され、再編成される。預言並びに
unzeitgemaβな仕事の意味は茲(ここ)にある。預言とは、「あるがままの変革」である。

○ 人が呼んで以て無頼の放浪者といふ唯美派の詩人たちは、俗世間の真面目な人間よりも、
更に更に生真面目な存在である。
いかなる荒唐に対しても真面目であるといふ融通のきかぬ道学者的な眼差を、道徳をでなく
美を守るためにもつ人々である彼等は、また真の古代人たりうる資格を恵まれた人等である。

○微妙なのは恋愛でなくて男女関係なのだ。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

122:無名草子さん
10/09/20 11:19:53 .net
○ 近代人にとつては、虚心坦懐に真情を吐露せよと命ぜられるほど苦痛なことはない。
それは苛酷な殆ど不可能な命令である。近代人は手許に多彩な百面相を用意してゐるが、
そのなかのマスクの一つに、自分の「真情」が入りこんでゐることは確かだが、おしなべて
マスクと信ずることの方が却つて容易なので。即ち真情を吐露することの困難は選択の
困難にすぎない。
しかし一方確固たる「真の」マスクをかぶる者たることも近代人には不可能になりつゝある。
私はむしろ古代の壮大な二重人格を思慕する。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

123:無名草子さん
10/09/20 11:21:53 .net
○ 同情について
―同情は特殊な情緒である。その情緒としての独立性に於て喜怒哀楽と対等であるとしての。
―同情は最も人間的な情緒である。
人間的なるものには人間冒涜的なるものが含まれる。神的なるものは神的なるもののみから、
悪魔的なるものは悪魔的なるもののみから形成さるゝのに。……かくて同情は、
かゝるものとしての人間的なるものゝ典型である。それは人類の最も本質的な病気であり、
愛の頽廃である。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

124:無名草子さん
10/09/20 11:22:17 .net
―同情の涙は嬉し涙と同類に数へらるべきであり、義憤と同範疇に入れらるべきではない。
義憤はある道徳観念(「正義感」その他を含む)と情緒との結合であり、その強度は
この結合の確信の強度に正比例する。偶発的な結合をも確信が之を必然化する。かくて
義憤は結合の一因子たる道徳観念の上によりも、結合の確信の上に、より多く立つが、
しかしなほ、その因子の故に価値判断の対象たりうるが、同情の涙は嬉し涙と同じく
単なる情緒間の結合であつて、何ら価値判断の対象たりえない。しかるに世間は、久しく
この「同情の涙」をば結果あるひは結果としての行為から判断して、価値判断の対象とする
底(てい)の誤謬を犯して来た。
―同情ほど偏見によつて意味づけられて来た、又意味づけられるべき情緒はない。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

125:無名草子さん
10/09/20 11:27:12 .net
○ 痒さには幸福に似た感情がある。一面幸福とは痒さに似たものではあるまいか。

○ いかなる兇悪な詐欺師からよりも、師から我々は欺かれやすい。しかしそれは
明らかに教育の一部である。

○ 精神の知恵では女は男にはるかに劣るが、肉体の知恵では女は男をはるかに凌ぐ。

○ フリードリヒ・ニイチェの思想は要約するに次の一行を以て足る。
「我愛さず。愛せられず。我唯愛さしむ」


詩人の中核にあるものは烈しい灼熱した純潔である。それは詩人たる出生に課せられた
刑罰の如きものであり、その一生を、常人には平和の休息が齎らされる老年期に於ても亦、
奔情の痛みを以て貫ぬく。どこまでこの烈しい純潔に耐へるかといふ試みが詩人の作品である。
それは生涯に亘る試作の連続である。然しながら「耐へる」(経験的ナルモノ)といふことと
「試みる」(意志的ナルモノ)といふこととの苦渋にみちたこの結婚には、本質的な
悲劇が宿るであらう。こゝに特殊な形成の形態が語られてゐる。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

126:無名草子さん
10/09/20 11:28:08 .net
かゝる純潔はラジウムの如きものである。恐るべき速度を以て崩壊し放射しつゝあるが、
この自己破壊は鉛に化するまで頗る長き時間を要する。詩人の営為もかくのごときものである。
詩人は自らの尾を喰つて自らの腹を肥やす蛇に似てゐる。単なる自己破壊ではない。
それは形成を通して輪廻に連なることができる。詩人の永遠性は自己自身の裡にはじまるのである。
(自己自身から唐突な仕方で永遠につながること)
アルチュウル・ランボオが言つてゐる。
「ひとつこの純潔の度合をじつくり値踏みしてやらう」と。併し神が彼に与へた
運命的な時間は、「じつくりと」値踏みする余裕をもたせなかつた。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より

127:無名草子さん
10/09/20 11:30:38 .net
まことに小鳥の死はその飛翔の永生を妨げることはできない。中絶はたゞ散歩者が何気なく歩みを止めるやうに
意味のない刹那にすぎない。喪失がありありと証ししてみせるのは喪失それ自身ではなくして輝やかしい存在の
意義である。喪失はそれによつて最早単なる喪失ではなく喪失を獲得したものとして二重の喪失者となるのである。
それは再び中絶と死と別離と、すべて流転するものゝ運命をわが身に得て、欣然輪廻の行列に加はるのである。
別離が抑(そもそも)何であらうか。歴史は別離の夥しい集積であるにも不拘(かかはらず)、いつも逢着として、
生起として語られて来たではないか。会者必離とはその裏に更に生々たる喜びを隠した教へであつた。
別離はたゞ契機として、人がなほ深き場所に於て逢ひ、なほ深き地に於て行ずるために、例へていはゞ、池水が
前よりも更に深い静穏に還るやうにと刹那投ぜられた小石にすぎない。それはそれより前にあつたものゝ存在の
意義を比喩としつゝ、それより後に来るものゝ存在を築くのである。即ち別離それ自体が一層深い意味に於ける
逢会であつた。私は不朽を信ずる者である。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「別れ」より

128:無名草子さん
10/09/20 15:41:21 .net
石川淳氏の志操の高さ、現代文学に稀に見る気品については、語る人も多からう。私は殊に氏の文体が、
あらゆる意味で反時代的なところに敬愛の念を寄せてゐる。それは精神の迅速な運動を裸かのまま跡づけて
読者の目に示すことでは、正しく散文の重要な機能を果してゐるが、同時に、その豊富な語彙と柔軟性の
かぎりを尽した姿は軽業師の鍛へられた肉体を思はせ、文体を通じて、われわれは氏の精神の目もあやな運動に
見とれるのである。それは合せ鏡のやうな文体であり、われわれは氏の精神を喜ぶとき、たちまちその運動を喜ぶ。
しかしこのやうな神速のスピードは、日本の近代文学が忘れ去つた西鶴その他の江戸文学の文体の流れを引き、
同時に氏の西欧的教養は、日本の古い装飾的要素を剥奪して、ただ古い日本語の密度と、天空をゆくが如く
スピードを復活させるのに役立つた。この全集によつて、美しい日本語とはどんなものか知るがよい。

三島由紀夫「美しい日本語―石川淳全集推薦の言葉」より

129:無名草子さん
10/09/20 15:49:05 .net
刑事が被疑者を扱ふやうに、当初から冷たい猜疑の目で作家を扱ふ作家論が、いつも犀利な批評を成就するとは
限らない。義務的に読まされる場合は別として、私は虫の好かぬ作家のものは読まぬし、虫の好く作家のものは読む。
すでに虫が好いてゐるのであるから、作品のはうも温かい胸をひらいてくれる。そこへ一旦飛び込んで、
作家の案内に委せて、無私の態度で作中を散歩したあとでなければ、そもそも文学批評といふものは成立たぬ、
と私は信ずるものだ。ましてイデオロギー批評などは論外である。非政治主義を装つた、手のこんだ
政治主義的批評は数多いのである。
これが私の基本的態度であるから、はじめから気負ひ立つた否定などは、一度も企てたことがなかつた。
否定が逸するところのものを肯定が拾ふことがある。もしその拾つたものに批評の意味が発見されれば、
本書の目的は達せられたことにならう。

三島由紀夫「『作家論』あとがき」より

130:無名草子さん
10/09/21 00:35:29 .net
若い世代は、代々、その特有な時代病を看板にして次々と登場して来たのであつた。


退屈がなければ、心の傷痍は存在しない。戦争は決して私たちに精神の傷を与へはしなかつた。


「芸術」とは人類がその具象化された精神活動に、それに用ひられた「手」を記念するために
与へた最も素朴な観念である。

三島由紀夫「重症者の兇器」より

131:無名草子さん
10/09/21 00:36:28 .net
芸術とは私にとつて私の自我の他者である。私は人の噂をするやうに芸術の名を呼ぶ。
それといふのも、人が自分を語らうとして嘘の泥沼に踏込んでゆき、人の噂や悪口を
いふはづみに却つて赤裸々な自己を露呈することのあるあの精神の逆作用を逆用して、
自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。
これは、西洋中世のお伽噺で、魔法使を射殺するには彼自身の姿を狙つては甲斐なく、
彼より二三歩離れた林檎の樹を狙ふとき必ず彼の体に矢を射込むことができるといふ秘伝の
模倣でもあるのである。―端的に言へば、私はかう考へる。(きはめて素朴に考へたい。)
生活よりも高次なものとして考へられた文学のみが、生活の真の意味を明かにしてくれるのだ、と。

三島由紀夫「重症者の兇器」より

132:無名草子さん
10/09/21 11:42:52 .net
人間は結局、前以て自分を選ぶものだ。


逆説はその場のがれこそなれ、本当の言ひのがれにはなりえない。逆説家は逆説で自分を
追ひつめ、どどのつまりは自分自身から言ひのがれの権利をのこらず剥奪してしまふのである。
逆説家がしばしばいちばん誠実な人間であるのはこのためだ。逆説家がいちばん神に
触れやすいのもこの地点だ。神は人間の最後の言ひのがれであり、逆説とは、もしかすると
神への捷径だ。

*「捷径」の意味…近道

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

133:無名草子さん
10/09/21 11:43:47 .net
天才(ジェニー)。才能(タラン)。誰がそれを分割することができよう。


才能とは決して不完全な天才のことではない。才能と天才は別の元素だ。それにもかかはらず、
われわれはワイルドの作品のいたるところに不完全な天才を見出だすのである。


ワイルドの哄笑は、言葉の本来の意味での悪魔的な笑ひである。悪魔の発明は神の衛生学だ。
ワイルドの悪魔主義は衛生的なものだ。この笑ひは衛生的なものだ。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

134:無名草子さん
10/09/21 11:44:36 .net
苦痛は一種のドラマである。人がその欲しないものへ赴くためには、丁度子供が
歯医者へゆく御褒美に菓子をせびるやうに、虚栄心をせびらずにはゐられない。


社会はある男を葬り去らうとまで激昂する瞬間に、もつともその男を愛してゐるもので、
これは嫉妬ぶかい女と社会とがよく似てゐる点である。軽業師は観客の興味を要求することに
飽き、つひには恐怖を要求することに苦心を重ねて、死とすれすれな場所に身を挺する。
彼が死ぬ。それはもはや椿事だ。綱渡り師の墜死は、芸当から単なる事件への、
おそろしい失墜である。イギリス社会にはとりわけイギリス特産の、醜聞といふ「死」の
一つの様式があつたので、綱渡り師がこの危険に誘惑を感じない筈はないのであつた。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

135:無名草子さん
10/09/21 11:46:03 .net
生活とは決して独創的でありえない何ものかだ。ホフマンスタールの忠告にもかかはらず、
しかし運命のみが独創的でありうる。キリストが独創的だつたのは、彼の生活のためではなく、
磔刑といふ運命のためだ。もうひとつ立入つた言ひ方をすると、生活に独創的な外見を
与へるのは運命といふものの排列の独創性にすぎない。


虚栄心を軽蔑してはならない。世の中には壮烈きはまる虚栄心もあるのである。
ワイルドの虚栄心は、受難劇の民衆が、血が流れるまで胸を叩きつづけるあの受苦の
虚栄に似てゐたやうに思はれる。何故さうするか。それがその男にとつての、ともかく
最高度と考へられる表現だからである。ワイルドが彼の詩に、彼の戯曲に、彼の小説に
選択する言葉は、かうした最高度の虚栄であつた。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

136:無名草子さん
10/09/21 11:46:52 .net
音楽は詐術ではない。しかし俳優は最高の詐術であり、アーティフィシャルなものの最上である。
それは人間の言葉である台詞が無上の信頼の友を見出だす分野である。


ワイルドはその逆説によつて近代をとびこえて中世の悲哀に達した。イロニカルな作家は
バネをもつてゐる人形のやうに、あの世紀末の近代から跳躍することができた。
彼は十九世紀と二十世紀の二つの扇をつなぐ要の年に世を去つた。彼は今も異邦人だ。
だから今も新しい。ただワイルドの悪ふざけは一向気にならないのに、彼の生まじめは、
もう律儀でなくなつた世界からうるさがられる。誰ももう生まじめなワイルドは相手にすまい。
あんなに自分にこだはりすぎた男の生涯を見物する暇がもう世界にはない。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

137:無名草子さん
10/09/21 11:51:05 .net
作家といふものは、いつもその時代と、娼婦のやうに、一緒に寝るべきであるか? 
もちろん小説には、まぬがれがたい時世粧といふものは要る。しかし反動期における
作家の孤立と禁欲のはうが、もつと大きな小説をみのらせるのではないか? 
……それにしても、作家は一度は、時代とベッドを共にした経験をもたねばならず、
その記憶に鼓舞される必要があるやうだ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

138:無名草子さん
10/09/21 11:52:12 .net
第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。
第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ。女と心中したりする小説家は、
もう少し厳粛な風貌をしてゐなければならない。
私とて、作家にとつては、弱点だけが最大の強味となることぐらゐ知つてゐる。しかし
弱点をそのまま強味へもつてゆかうとする操作は、私には自己欺瞞に思はれる。(中略)
太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な
生活で治される筈だつた。生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ。
いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

139:無名草子さん
10/09/21 11:54:21 .net
絶望から人はむやみに死ぬものではない。


典型的な青年は、青春の犠牲になる。十分に生きることは、生の犠牲になることなのだ。
生の犠牲にならぬためには、十分に生きず、フランス人のやうに吝嗇を学ばなければならぬ。
貯蓄せねばならぬ。卑怯な人間にならなければならぬ。


芸術は認識の冷たさと行為の熱さの中間に位し、この二つのものの媒介者であらうが、
芸術は中間者、媒介者であればこそ、自分の坐つてゐる場所がひろびろと、居心地の
よいことをのぞまず、むしろつねに夢みてゐるのは、認識と行為とがせめぎ合ひ、
(那須の)与市のそれのやうに、ぎりぎりの決着のところで結ばれて、芸術を押しつぶして
しまふことなのである。そして芸術がいつもかかるものから真の養分を得て、よみがへつて
来たといふ事実以上に、奇怪な不気味なことがあらうか?


われわれが文明の利便として電気洗濯機を利用することと、水爆を設計した精神とは無縁ではない。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

140:無名草子さん
10/09/21 11:58:03 .net
さまざまな自己欺瞞のうちでも、自嘲はもつとも悪質な自己欺瞞である。それは他人に
媚びることである。他人が私を見てユーモラスだと思ふ場合に、他人の判断に私を売つてはならぬ。
「御人柄」などと云つて世間が喝采する人は、大ていこの種の売淫常習者である。


私はかつて、真のでくのばうを演じ了せた意識家を見たことがない。


傷つきやすい人間ほど、複雑な鎖帷子(くさりかたびら)を織るものだ。そして往々
この鎖帷子が自分の肌を傷つけてしまふ。しかしこんな傷を他人に見せてはならぬ。
君が見せようと思ふその瞬間に、他人は君のことを「不敵」と呼んでまさに讃(ほ)めようと
してゐるところかもしれないのだ。


都会の人間は、言葉については、概して頑固な保守主義者である。


正しい狂気、といふものがあるのだ。

三島由紀夫「小説家の休暇」より

141:無名草子さん
10/09/21 16:42:55 .net
少なくとも私の育つてきた時代には、「鴎外がわかる」といふことが、文学上の趣味(グウ)の目安になつてをり、
漱石はもちろん大文豪ではあるが、鴎外よりもずつとわかりやすい、「より通俗な」ものと考へられてゐたのである。
「わかりやすいものは通俗だ」といふ考へが、いかに永い間、日本の知識人の頭を占めて来たかを思ふと、
この固定観念が全く若い世代から払拭された今、かれらが鴎外を捨てて漱石へ赴くのは、自然な勢ひだとも
いへるのだが、しかし、鴎外が本当に「わかりにくいか」といふ問題には、前述のやうな鴎外伝説、鴎外の
神秘化の力が作用してゐて、一概には言へない。鴎外は、明治以来今日にいたるまで、明晰派の最高峰なのである。

三島由紀夫「解説(日本の文学2 森鴎外)」より

142:無名草子さん
10/09/21 16:43:45 .net
再び問ふ。森鴎外とは何か?
あらゆる鴎外伝説が衰亡した今、私にとつては、この問ひかけが、一番の緊急事に思はれる。
もちろん、綜合的人格「全人」としての鴎外を評価することは重要である。しかしすべての伝説が死に、
知識の神としての畏怖が衰へた今こそ、鴎外の文学そのものの美が、(必ずしも多数者によつて迎へられずとも)
純粋に鮮明にかがやきだす筈だと思はれる。

三島由紀夫「解説(日本の文学2 森鴎外)」より

143:無名草子さん
10/09/21 16:45:30 .net
鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの盲目的崇拝を失つた今、言葉の芸術家として真に復活すべき
人なのだ。言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創り上げてしまつたその天才を称揚すべきなのだ。
どんな時代にならうと、文学が、気品乃至品格といふ点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の
気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な檜のみで築かれた
建築のやうに、一つの建築的精華なのだ。現在われわれの身のまはりにある、粗雑な、ゴミゴミした、無神経な、
冗長な、甘い、フニャフニャした、下卑た、不透明な、文章の氾濫に、若い世代もいつかは愛想を尽かし、
見るのもイヤになる時が来るにちがひない。人間の趣味は、どんな人でも、必ず洗練へ向つて進むものだからだ。
そのとき彼らは鴎外の美を再発見し、「カッコいい」とは正しくこのことだと悟るにちがひない。

三島由紀夫「解説(日本の文学2 森鴎外)」より

144:無名草子さん
10/09/21 20:27:43 .net
竜灯祭へお招きをうけて、灯籠流しにもいろいろの趣きがあるのを知つた。今まで私がしばしば見たのは
熱海の灯籠流しであつたがこれはふつうの施餓鬼の行事で、ひろい海面の潮のまにまに灯籠が漂ふのは、淋しい
彼岸へ心を誘はれる心地がした。柳橋の竜灯祭は神事である上に、いかにもこの土地らしい華麗なものである。
川面いちめんに灯籠が流れ出す数分間はふだんはただ眺めてゐるだけの隅田川をわれとわが手で流した灯籠で、
占領してしまつたやうな快感を与へる。地上の豪奢を以て、水中の竜神の心を慰めるといふ趣きがある。それが
いかにも「竜灯祭」といふ名にふさはしいのである。
また、それから引き潮に乗つてあれほど夥しかつた灯籠が、数分間のうちにほとんど視界を没し去るのも、
いかにもいさぎよくて、江戸前の感じがする。執念が残らないで、さはやかなのである。

三島由紀夫「竜灯祭」より

145:無名草子さん
10/09/21 20:28:04 .net
最後まで料亭の舟着場の下などにまつはりついて離れない少数の灯籠もあるが、これも執念といふものではなくて、
そのすぐ上方の座敷のさんざめき、美妓のたたずまひなどに心を残して、無邪気にそこに居据つてしまつた感じで
可愛らしい。あたかもその十いくつの灯籠だけが、そろつて首をもたげてうすく口をあけて、地上の遊楽の
美しさを讃美してゐるやうだ。
灯籠流しといふと、人はすぐ暗い仏教的イメーヂを持つが、私の発見したのは別のものだつた。このごろの
大キャバレエの遊びよりも昔の人はもつと豪奢な遊びを知つてゐた。そして消えない電気の光りよりも、
波のまにまに夜のなかへ馳け込んでゆく灯籠の光りのはうに、はるかに、遊楽に一等大切な「時間」の要素が、
いきいきとこめられてゐるのを知つた。一度花やかな頂点に達してそれが徐々に消えてゆく、そのゆるやかな
時間の経過の与へる快さは、快楽の法則に自然に則つてゐて、いづれにしても花火よりも「快楽的」であると
思はれるのだつた。

三島由紀夫「竜灯祭」より

146:無名草子さん
10/09/21 20:32:13 .net
文学に刃物は無用や!

147:無名草子さん
10/09/22 12:38:18 .net
新人の辛さは、「待たされる」辛さである。


青春の特権といへば、一言を以てすれば、無知の特権であらう。


どんな人間にもおのおののドラマがあり、人に言へぬ秘密があり、それぞれの特殊事情がある、
と大人は考へるが、青年は自分の特殊事情を世界における唯一例のやうに考へる。


小説は書いたところで完結して、それきり自分の手を離れてしまふが、芝居は書き了へた
ところからはじまるのである。


芝居の仕事の悲劇は、この世でもつとも清純なけがれのない心が、一度芝居の理想へ
向けられると、必ずひどい目に会ふのがオチだといふことである。


芝居の世界は実に魅力があるけれど、一方、おそろしい毒素を持つてゐる。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より

148:無名草子さん
10/09/22 12:42:39 .net
大体私は「興ひたれば忽ち成る」といふやうなタイプの小説家ではないのである。
いつもさわぎが大きいから派手に見えるかもしれないが、私は大体、銀行家タイプの
小説家である。このごろの銀行が、派手なショウ・ウィンドウをくつつけたりしてゐる姿を、
想像してもらつたらよからう。


忘却の早さと、何ごとも重大視しない情感の浅さこそ、人間の最初の老いの兆(きざし)だ。


文学では、(日本の芸能の多くがさうであるやうに)、肉体が老い朽ちてから、芸術の
青春がはじまるといふ恵みがある。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より

149:無名草子さん
10/09/22 12:51:05 .net
足るを知る人間なんか誰一人ゐないのが社会で、それでこそ社会は生成発展するのである。


空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しない。


男はどんな職業についても、根本に膂力の自信を持つてゐなくてはならない。なぜなら
世間は知的エリートだけで動いてゐるのではなく、無知な人間に対して優越性を証明するのは、
肉体的な力と勇気だけだからだ。

三島由紀夫「小説家の息子」より

150:無名草子さん
10/09/22 19:34:56 .net
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、おかつたるい
ものはない。さて、西部劇に欠くべからざるインディアンのことだが、アメリカ人はインディアンに対しては、
ニグロに対するやうな人種的偏見を持つてゐないらしい。ユンクによると、アメリカ人の英雄類型は結局
インディアンの伝統的英雄に帰着するさうである。アメリカ人の集合的無意識は、自分の祖先を衰弱した白皙の
ヨーロッパ人としてよりも、精力にみちあふれた赤い肌のインディアンとして見てゐるらしい。開拓時代に
インディアンと戦ひながら、アメリカ人は敵の精力をしらずしらず崇拝し、模倣しようとしたかもしれない。(中略)
「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に限つたことでは
ないが)、どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。平和な市民生活に直接の身体的
危険が乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、自動車の制限速度の超過や、犯罪などに向ひ、
あるひは内攻してノイローゼに向ふことになる。西部劇はかういふ不満に対するいかにも
安全な薬品である。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より

151:無名草子さん
10/09/22 19:39:33 .net
ひところ歴史小説と現代小説といふささやかな論争が起こり、私は「作家は現代を描くべきものだ」といふ
高見順氏の説におほむね賛同したが、この論争の困難は要するに時点の設定であつて、太平洋戦争を題材に
歴史小説を書くこともできれば、その前の左翼運動弾圧の時代を題材に、高見氏のいはゆる現代小説を書くことも
できるわけである。
少なくとも自分の体験し生きてきた時期だけを現代小説の取り扱ひうる時期だと考へると、そんな現代意識は
歴史から除外されてゐるかのやうで「現代」といふ観念そのものが、経験主義と、あの悪名高い私小説理念によつて
毒されることになるであらう。そのとき作家にとつての現代とは、きはめて主観的な日々の体験の累積に
ほかならず、もつと厳密にいへば、現在のこの瞬間の、感覚的純粋体験そのものになつてしまふ。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

152:無名草子さん
10/09/22 19:39:48 .net
しかし高見氏はもとより、一般人も「現代」といふときに、そこにはおのづから、特殊の歴史意識を含ませてゐる。
歴史がなほ生成過程にあつて、歴史的創造の余地を残し、未決定の要素を含んでゐる場合に、これをわれわれは
通常「現代」と呼ぶのであつて、昭和初期から今までを現代と呼ぶか、安保闘争から今までを現代と呼ぶかは、
呼ぶ人の史観の相違にほかならない。一つづきの歴史を、どこまでを既済の箱に投げ入れ、どこまでを未済の
箱に残しておくかは、その人の考へ方によることである。といつても、平安朝から今までを一つづきの現代と
考へることは、常識上ありえないから、これも相対的な問題である。
が、私の考へるのに、現代小説か時代小説(あるひは歴史小説)か、といふ問題提起には、もう一つ「現代史」
といふものに関する特殊な思想が働いてゐるやうに思はれる。つまり現代史といふものは本当に未決定なのであるか、
本当にその中に住む人間の歴史的創造の余地があるものなのか、実際にわれわれの自由意志によつて選択される
可能性のあるものなのかといふ問題である。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

153:無名草子さん
10/09/22 19:40:02 .net
ここまで来ると、小説といふジャンルは、現代史を前にして、一体、自由意志の味方なのか、それとも何らかの
決定論的思想の援用なしには成立しないものなのか、そのへんはまだよくわかつてゐないのである。
たとへば、豊臣秀吉なり真田幸村なりを拉し来たつて、彼らの伝記をよく調べ、時代考証も綿密にして、
その上で、つまりがんじがらめの既定の歴史的諸条件を課した上で、彼らに小説家の自由意志を吹き込んでやれば、
ある程度まで巧みに、彼らを「自由意志の傀儡」とすることができる。かういふ場合、(少なくとも表面上は)、
小説なるものは明らかに自由意志の味方であらう。なぜなら、小説家は何らかの決定論的思想などを援用する
必要はないので、それはすでに歴史が決めてくれたことであり、宿命が選んでくれたことだからである。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

154:無名草子さん
10/09/22 19:40:18 .net
かうして書かれた人物は、(巧みに書かれさへすれば)、いかにも活々として見え、いかにも自由に見え、
しかも見事に完結してをり、小説として成功しやすいやうに思はれる。そして小説家の思想は、要するに既定の
歴史の解釈の問題であつて、たとへ作者の人間観が浅薄であつても、歴史そのものがこれを救つてくれる。
高見氏のきらつたのはおそらくこの点であらう。
これな反して、現代小説は成功がむづかしく、アラも見えやすい。第一われわれの耳目に親しい時代は、
読者自身が、目前の現象と作中の描写とを、居ながらにして比較することができるからである。作家はもちろん
むづかしいことへ進んで赴くべきである。この点でも私は高見氏に同意である。
(中略)あれほど意志を重んじたバルザックも、「人間喜劇」の総序に、「私はキリスト教と君主政体といふ
二つの永遠の真理に照らされて書く」と宣言してゐる。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

155:無名草子さん
10/09/22 19:40:32 .net
歴史小説や時代小説における「歴史」の代用となるものが、現代小説をともかくも芸術として成り立たしめるに
必要な「形式」として使はれてきたことは、否定しがたい事実であつた。そして現代小説に於ける形式とは、
何らかの決定論的思想の援用でなければならなかつた。あるときにはカトリシズムであり、あるときには悲観的
宿命論であり、あるときには進化論と遺伝の問題であり、最後には社会主義リアリズムであつた。これらは
すべて時代々々の、最も流行した決定論のサンプルである。そして読者や文学史家はゆめさらこれを形式とは
思はず、作品の「思想」と呼んだのであつた。
かう考へてゆくと、高見氏の投げかけた問題は意外に大きいのであつて、ひよつとすると、小説家が本当に
現代史といふものに直面したのは、今世紀の意外な事件であり、しかも小説ジャンルの衰退に歩調を合はせて
起こつた悲劇的な事件かもしれないのである。
その例証としては、プルウストとサルトルの二人を挙げるだけで十分であらう。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

156:無名草子さん
10/09/22 19:44:24 .net
プルウストの書いた現代小説は、まさに現代といふ時点が、プティット・マドレエヌといふお菓子を舌の上に
味はふその瞬間に凝結してをり、さまざまな現代の事象の大海の上に、彼が落とした一滴のオリーブ油のやうな
その「現代」と、彼が失ひかつふたたび見出した尨大な「時」とは、とてつもない対照を示してゐる。
自由意志による未決定といふ現代史の観念を、彼は、無意志的記憶といふ観念で、みごとに手袋を裏返すやうに
裏返してみせたのであるあるが、サルトルが「自由への道」でやつたこともプルウストと等しく(現代史を
決定論で押し包んで、小説形式を救ひ出さうといふやり方と反対の)決定論によらない思想で、現代小説を
書かうとした果敢な試みであつたといつてよからう。
しかしまた皮肉なことに、かうして書かれた作品の人物たちは、自由意志の恩寵からも見放され、プルウストの
「私」は影のやうにさまよひ、サルトルの小説は自由への道半ばに中絶してしまひ、保守的な、幸福な、
大河小説の作者たちが持つてゐた作品の「形式」は崩壊し、いづれもただ小説ジャンルの形式上の衰退に、
みごとな寄与をもたらすことになつた。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

157:無名草子さん
10/09/22 19:44:55 .net
小説にとつての現代史といふ怪物は一体どこにどんなふうにして棲息しどんな相貌をしてゐるのであらう。
一体現代史は、果たして自由意志による歴史的創造の余地を残した未決定のものであるのか、あるひは
ひよつとすると、過去のいかなる時代ともちがつた、あらゆる意志が無効であり、あらゆる歴史的創造が
不可能なものであるのか? かういふ疑問が、ますます先鋭になり、小説と現代史の関係がますます困難になつた、
ことに第二次世界大戦後の状況であつて核戦争の危機がその根本原因であることはいふまでもあるまい。
もし偶発戦争によつて、世界が滅びるなら、現代は美しい夕映えの時代であらうが、その夕映えのやうな美しい
決定論も、古典的な自由意志も、ひとしく時代おくれになつた現代では、テレビが刻々とあらはれ消える
無意味な影像によつて、人の心をとらへつづけるのもふしぎではない。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

158:無名草子さん
10/09/22 19:45:17 .net
(中略)
未決定の現代といふ観念が、もし怪しげになるならば、小説は無限に歴史に近づいてゆくか、あるひは一個の
架空の時点を設定するほかはない。そして後者への道には、抽象小説(寓話的な小説や風刺小説を含む)と、
戯曲との、二つしか残されてゐないのである。
カフカからアンチ・ロマンにいたる今世紀の異様な小説の系列は、現代小説を無限に歴史から遠ざけようとする
自己防衛の本能を暗示するものであらうし、小説を何とか純粋な自由意志の産物にするための困難な冒険で
あつたともいへよう。
一方、ピエエル・ルイスのいはゆる「煙草と小説を知らなかつた」古代ギリシャで、歴史文学は完全に歴史家の
手にこれをゆだねて、みごとな宿命論の枠組に押しこめられた劇文学のジャンルが、独立独歩してゐたやうに、
小説が決定論的思想に背反して、形式を失つた以上、ふたたび古代伝来の戯曲といふ純粋形式へ無限に近づく
ことが、もう一つ残された道であるかもしれない。しかしそれが小説の一種の自殺的行為であることには
かはりがないのである。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

159:無名草子さん
10/09/22 19:45:33 .net
それからもう一つ、日本人だけにゆるされた現代小説の一方法に、冒頭に述べたやうな私小説の道があつて、
いかなる天変地異が起こらうが、世界が滅びようが、現在ただ今の自分の感覚上の純粋体験だけを信じ、これを
叙述するといふ行き方は、もしそれが梶井基次郎くらゐの詩的結晶を成就すれば、立派に現代小説の活路に
なりうると思はれるが、これにはさまざまな困難な条件があつて、それは私小説が身辺雑記にとどまることなく、
小説ジャンル全体の現代の運命を負うて、無限に「詩」へ近づくことでなければならない。

三島由紀夫「現代史としての小説」より

160:無名草子さん
10/09/23 10:30:24 .net
「BL作品の氾濫は少子化の原因。児童ポルノとは別枠で小説も含めた厳しい規制が必要」
「ゲーム脳」の提唱者・森昭雄日大教授の新著「ボーイズラブ亡国論」(産経新聞社刊)
スレリンク(news2板)

161:無名草子さん
10/09/23 12:40:11 .net
Q:若い人に対して、自由と規律について。

三島:十代二十代といふのは、身体の中に力がいつぱい余つてをりますからね。これを外へ爆発させたいといふ
気持があります。しかし、その力がどつちへ行くかわからないから、それに方向を与へてやらなければならないのです。
そのためには、剣道なりスポーツなりをやらせるのは非常に有効なんです。彼等は自分でもどうしたらいいのか
解らないのですから、どうしても必要ですね。
僕はいつも思ふんだけど、みんな青年に達したら団体訓練をやらせるといいと思ふんです。なにも戦争をやれと
いふのではないのですが……。それも義務的に一度団体訓練を経験させるといいと思ひます。
むかし、村落共同体には「宿」といふものがあつて、そこで団体訓練をうけてきました。もつと古くは、
成年式みたいなものがあつて非常に厳しい訓練を受け、辛ひ思ひをしてやつと一人前の男と認められたのです。

三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて―希望はうもん」より

162:無名草子さん
10/09/23 12:46:09 .net
ところが現代社会は技術の社会ですから、団体訓練が全くいらなくなつて、技術的知識が一人前であれば、
一人前の人間として認められる社会ですから、訓練ができてゐません。人間は技術的ないしは行政的知識だけでは
絶対に足りないと思ひます。人間には身体があるんだから、身体からしみこむものが必要です。

Q:「剣」のなかに「強く正しい者になるか、自殺するか、二つに一つなのだ」といふ文章がありますが……。

三島:この世の中で強く正しく生きるといふことは不可能なことです。みんな少しづつ汚れてゐます。
生きてゐるといふことは汚れてゐることですからね。

三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて―希望はうもん」より

163:無名草子さん
10/09/23 12:49:04 .net
Q:先生の皇室観について。

…僕は、天皇制といふものは、制度上の問題でもなく、皇居だけの問題でもない。日本人の奥底の血の中に
あるもので、しかもみんな気付いてゐないものだと思ひます。だからどんな過激なことをいつてゐる人でも、
その心の奥をどんどん掘りかへしていくと、日本人の天皇との結びつき、つまり天皇制といふものの考へが
ひそんでゐると思ひます。我々は殆(ほと)んど無意識のうちに暮してゐますけど、心の奥底で、天皇制と
国民は連なつてゐるのだと思ひます。それを形に表はしたのが皇室なんです。
ですから皇室で一番大切なのはお祭りだと思ひます。
“お祭り”を皇室がずつと維持していただく、これが一番大切なことです。歴代の天皇が心をこめて守つて
来られた日本のお祭りを、将来にわたつて守つていただきたいと思ひます。

三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて―希望はうもん」より

164:無名草子さん
10/09/23 12:53:13 .net
Q:現代かなづかひについて。

…僕は今の若い人は現代かなづかひでなければ小説など読まないと思つてゐたんですけど、かならずしも
さうではないやうです。
言葉をいぢるといふことは、言葉の魂をいぢることで、日本人の歴代を人為的にいぢるのと同じことです。
僕は大嫌ひですね。言葉を大切にしない民族は、三流ですよ。

Q:先生は「文章読本」の中で、プロとしての文章家を一般と区別してをられますが……。

三島:プロといふのは僕達のことです。文章といふのは、誰れにも書けるやうで書けないものなんです。
音楽でしたら勉強しなければ出来ないとはつきりしてゐるが、文章は誰れでも書けると思つてゐるんです。
そこに錯覚があると思ひます。
しかしプロといつても、何でも書けるか、といつたらさうでもない。私が大蔵省に入つたとき大臣の演説文を
書かされましたがね、(中略)僕達の文章では大臣の演説文は書けない。

三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて―希望はうもん」より

165:無名草子さん
10/09/23 16:56:43 .net
この叫び(剣道のかけ声)には近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。
それはもつとも暗い記憶と結びつき、流された鮮血と結びつき、日本の過去のもつとも正直な記憶に源してゐる。
それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐるところの、民族の深層意識の叫びである。このやうな
怪物的日本は、鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰へ呻吟してゐるが、今なほ剣道の道場においてだけ、
われわれの口を借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。私は今ではこの叫びを切に愛する。
このやうな叫びに目をつぶつた日本の近代思想は、すべて浅薄なものだといふ感じがする。それが私の口から出、
人の口から出るのをきくとき、私は渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る新しい高速道路を仰ぎ
見ながら、あちらには「現象」が飛びすぎ、こちらには「本質」が叫んでゐる、といふ喜び、……その叫びと
一体化することのもつとも危険な喜びを感じずにゐられない。

三島由紀夫「実感的スポーツ論」より

166:無名草子さん
10/09/23 16:58:52 .net
そしてこれこそ、人々がなほ「剣道」といふ名をきくときに、胡散くさい目を向けるところの、あの悪名高い
「精神主義」の風味なのだ。私もこれから先も、剣道が、柔道みたいに愛想のよい国際的スポーツにならず、
あくまでその反時代性を失はないことを望む。(中略)
スポーツは行ふことにつきる。身を起し、動き、汗をかき、力をつくすことにつきる。そのあとのシャワーの
快さについて、かつてマンボ族が流行してゐたころ、
「このシャワーの味はマンボ族も知らねえだろ」
と誇らしげに言つてゐた拳闘選手の言葉を私は思ひ出す。この誇りは正当なもので、何の思想的な臭味もない。
運動のあとのシャワーの味には、人生で一等必要なものが含まれてゐる。どんな権力を握つても、どんな放蕩を
重ねても、このシャワーの味を知らない人は、人間の生きるよろこびを本当に知つたとはいへないであらう。

三島由紀夫「実感的スポーツ論」より

167:無名草子さん
10/09/23 17:00:54 .net
バレーはただバレーであればよい。雲のやうに美しく、風のやうにさはやかであればよい。人間の姿態の最上の
美しい瞬間の羅列であればよい。人間が神の姿に近づく証明であればよい。古典バレーもモダン・バレーもあるものか。
(中略)
しかし芸術として、バレーは燦然たる技術を要求する。姿態美はすでに得られた。あとは日本の各種の
古典芸能の名手に匹敵するほどの、高度の技術を獲得すれば、それでよい。ただ、バレーのハンディキャップは、
西洋の芸能の例に洩れず「老境に入つて技神に入る」といふやうなことが望めないことであり、若いうちに
電光石火、最高の美と技術に達しなければならぬといふ点で、却つて伝統と一般水準の
問題が重く肩にかかつてゐるといふ点である。

三島由紀夫「スター・ダンサーの競演によるバレエ特別公演プログラム」より

168:無名草子さん
10/09/24 12:30:45 .net
ベラフォンテがどんなにすばらしいかは、舞台を見なければ、本当のところはわからない。ここには熱帯の
太陽があり、カリブ海の貿易風があり、ドレイたちの悲痛な歴史があり、力と陽気さと同時に繊細さと悲哀があり、
素朴な人間の魂のありのままの表示がある。そして舞台の上のベラフォンテは、まさしく太陽のやうにかがやいてゐる。
彼は褐色のアポロであつて、大ていの白人女性が彼の前に拝跪するのも、むべなるかなと思はせる。
ベラフォンテには、衰弱したところが一つもない。それでゐて、ソクソクとせまる悲しみと叙情がある。
これは、言葉は悪いが「ドレイ芸術」とでもいふべきものの神髄で、たとへば「バナナ・ボート」で、彼が
悲痛な声をふるつて「デオ、ミゼデオ」と叫び歌つて、強い声がハタと中空に途切れるとき、そのあとの間に、
われわれは、力の悲哀といふやうなものを感じ、はりつめた筋肉からとび散る汗のやうなものを感じ……これらの
激しい労働を冷然とながめおろしてゐる植民地の港の朝空のひろがりまでも完全に感じとる。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より

169:無名草子さん
10/09/24 12:31:03 .net
歌はれる歌には、リフレインが多い。全編ほとんどリフレインといふやうな歌がある。これは民謡的特色だが、
同時に呪術的特色でもある。わづかなバリエーションを伴ひながら「夏はもうあらかた過ぎた」(ダーン・
レイド・アラウンド)とか「夜ごと日の沈むとき」(スザンヌ)とかいふ詩句が、彼の甘いしはがれた声で、
何度となくくりかへされると、われわれは、ベラフォンテの特色である、暗い粘つこい叙情の中へ、だんだんに
ひき入れられる。声が褐色の幅広いリボンのやうにひらめく。われわれは、もうその声のほかには、世界中に
何も聞かないのである。
西印度諸島の黒人の声には、何といふ繊細さがあるのだらう、と私は、たびたびおどろかされたものだ。
黒人の皮膚のあの冷たいキメの細かさと、この繊細さとは、何か関係があるにちがひない。そして、あんな
激しい太陽と海風にさらされては、繊細な魂は、暗い涼しい体内の深部へ逃げ隠れ、わづかに声帯のすき間から、
外界をのぞかうとするのかもしれない。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より

170:無名草子さん
10/09/24 12:31:18 .net
ベラフォンテの舞台を見た人なら、だれでも首肯すると思はれるのは、その強烈な官能性である。彼もまた、
十分演出にそれを意識してゐると思はれる。けがれのない、素朴な、健康なエロティシズムの表現において、
もちろんその恵まれた外見に負ふところが多いとしても、彼ほどのボピュラー歌手は空前絶後であらう。
そしてその官能性が、詩にまで高まつてゐるのは、まさしく彼に黒人の血が流れてゐるからである。白人の男の
官能性とは散文的なものであり、いつたん昇華しなければ使ひものにならぬ。ベラフォンテの叙情は、カリブ海の
太陽の下のファロスの叙情である。しかもそれが海風に清められてゐるから、少しもきたならしくならないのである。
官能的な激しさにもかかはらず、彼の舞台が清潔なゆゑんである。私は第一部では「オール・マイ・トライアルス」の
美しい哀傷、「ク・ク・ル・ク・ク・パロマ」の逸楽、第二部では「さらばジャマイカ」の哀切な叙情、そして
有名な「バナナ・ボート」や、たのしい「ラ・バンバ」をことに愛する。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より

171:無名草子さん
10/09/24 15:42:13 .net
宮崎氏だけは、日本の敗戦の悲境を忘れず、英霊の鬼哭を忘れず、決して風化せず、内に憤怒を蔵して、
外は人間の信頼に生き、ふたたび日本男児の真骨頂を見せてくれるだらうと私は期待してゐる。

三島由紀夫「無題(三島由紀夫文学碑の栞)」より

172:無名草子さん
10/09/26 13:26:23 .net
清潔なものは必ず汚され、白いシャツは必ず鼠色になる。人々は、残酷にも、この世の中では、
新鮮、清潔、真白、などといふものが永保ちしないことを知つてゐる。


どんな浅薄な流行でも、それがをはるとき、人々は自分の青春と熱狂の一部分を、
その流行と一緒に、時間の墓穴へ埋めてしまふ。二度とかへらぬのは流行ばかりでなく、
それに熱狂した自分も二度とかへらない。

三島由紀夫「をはりの美学 流行のをはり」より


男にとつては生へぶつかつてゆくのは、死へぶつかつてゆくのと同じことだ。

三島由紀夫「をはりの美学 童貞のをはり」より

173:無名草子さん
10/09/26 13:27:26 .net
学校をでて十年たつて、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、「大学をでたから
私はインテリだ」と、いまだに思つてゐる人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがつて
彼または彼女にとつて、学校は一向に終つてゐないのだ、といふよりほかはありません。

三島由紀夫「をはりの美学 学校のをはり」より


美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。


美女は一生に二度死ななければならない。美貌の死と肉体の死と。一度目の死のはうが
恐ろしい本当の死で、彼女だけがその日付を知つてゐるのです。
「元美貌」といふ女性には、しかし、荒れ果てた名所旧跡のやうな風情がないではありません。

三島由紀夫「をはりの美学 美貌のをはり」より

174:無名草子さん
10/09/26 13:28:24 .net
手紙は遠くからやつてきた一つの小舟です。

三島由紀夫「をはりの美学 手紙のをはり」より


人生は音楽ではない。最上のクライマックスで、巧い具合に終つてくれないのが
人生といふものである。

三島由紀夫「をはりの美学 旅行のをはり」より


個性とは何か?
弱味を知り、これを強味に転じる居直りです。


私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を
外れた鼻に絶望して、人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。それが「生きてゐる」
といふことだからです。

三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より


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