16/10/03 20:22:41.41 P5/O9SDI.net
>>927
その前に、まずは>>917の発言の趣旨を明らかにするのが筋ではないですか?
>朽木氏に「武家の棟梁」として足りないものは何か
この質問に何故自分が答えなければいけないのかがよく分からないけれど、とりあえず自分は以下のようなことだと思います。
平安末期に律令制と荘園制が事実上崩壊した後も建前上は中央と地方の新興諸勢力の結びつきは未だ断ち切られた訳ではなかった。
ある者は在庁官人から、ある者は荘官から身を起こして武士団を形成し力を蓄えていたが、彼らの勢力伸長に正当性を与えたのは、
国衙における地方官や荘園管理者としての身分や権限であり、その意味で中央との関係はまだまだ切れていなかった。
ところが、頼朝が本邦初の武家政権を開くと、各地の武士団はそれまでの律令制や荘園制の下請け的立場から、御恩と奉公を通じて
直接に鎌倉殿(頼朝)と結びつき、鎌倉殿によって自分達の所領の支配権を直接に保障してもらう立場になった。
つまり、それまでか細い関係ではあっても中央と結びつき、中央の権威によって所領の支配権を正当化していた武士団に対して、
頼朝が武士たちの盟主として彼らの欲する御恩を直接に施すようになったがために、各地の武士たちもまた鎌倉殿を盟主と認め、
彼の権力と権威に服することを受け入れたのではないかと。