26/05/05 19:54:43.51 HvswTxPl.net
リトルモア
欠片を探して
―― 日本映画の陋巷へ
荻野洋一
Ogino Yoichi
ケアとは映画である
監督の中川駿は、朝井リョウ原作、河合優実主演の『少女は卒業しない』
(2023)、住野よる原作、奥平大兼&出口夏希W主演の『か「」く「」し
「」ご「」と「』(2025)と、高校生映画で頭角を表した1987年生まれの
新鋭であるが、両作品で高校生の心の揺れを扱ってはいても、いわゆるキラ
キラ映画のたぐいとは様相を異にする。
今春、ある文芸誌の対談連載で、「『ケア』という語彙の氾濫ぶりに苛立
ちを覚えることが、あのヴァージニア・ウルフを介して、映画を映画として
見ずに映画を語ることへの怒りへと変わってゆくのは、理由のないことでは
ありますまい」という偏屈かつ歯切れの良い批判的言辞が躍って、読み手た
る筆者を楽しませた。たしかに「ケア」という外来単語はいかにも現代用語
的な紋切り型の臭みを放ってはいるから、文芸誌のページをめくる筆者の首
肯は決して嘘ではない。
ところが、文芸批評的側面において「苛立ちを覚えること」が、必ずしも
「ケア」の再帰を禁じきれないことも念頭に置かなければならない。「ケ
ア」とはまなざしであり、差し出される両の手であり、小道具や衣装の当て
がいであり、横臥であり、咀嚼であり、指示であり、包装であり、ショット
であり、エディットであり、セリフであり、トラベリングであり、カットで
ある。危うさを孕みつつも、「ケア」とは優等生の身振りのそつのなさとは
まったく異質の、小さな狂気をぷくぷくと生み出し続けて、受け手を翻弄す
る様態たりうるのである。語彙としての「ケア」の氾濫ぶりを押し流すよう
に、「ケア」それじたいの氾濫に晒されることも、映画がなしうる事柄であ
る。
766:吾輩は名無しである
26/05/05 19:55:20.04 HvswTxPl.net
先ほどの、変な場所にある自動販売機。フラストレーションを払拭するか
のごとくドリンクを飲み干す佑のそばを、赤ん坊を抱いた若い母親が通過す
る。道にプラスティック細工の玩具が落ちている。ALSを患う母の介護に疲れ
果て、また思春期の鬱屈からも逃れられない佑としては珍しく爽やかな声色
をつくって、「すみません、これ、ちがいますか?」と、若い母親の後ろ姿
を呼び止める。礼を言いながら玩具を受け取る若い母親と佑の横打ちのショ
ットの背景には、先述したようにスクリーン右側に自販機、左側にひだまり
が垂直に伸びている。若い母親はひだまりをくぐり抜け、スクリーン左にフ
レームアウトする。
この配置、この短い声の応酬、このフレームアウトこそが、「ケア」とし
ての映画の形成である。
佑は高校バスケットボール部のエースだったようだが、母の介護を理由に
途中退部した。その鬱屈がどのように解消されていくかのシナリオが、ヤン
グケアラーの苦悩譚という重苦しいメロドラマ性から主人公を少しばかりは
解放し、青春映画の桜色へ近づけている。おずおずとバスケットボール部員
たちとの絶縁状態を修復し、卒業記念撮影に収まる体育館のシーン。最初は
整列の一番端に遠慮がちに。まるでフレームの中央部を自販機とひだまりが
占有しているのを思い出したかのごとく。ところがすぐ次のショット、スマ
ホでの自撮りではチームメイトたちの笑顔の中心に、佑の姿がある。喪失に
よって大きな穴が生じても、その穴を埋め合わせることすらなく、ポジショ
ニングを再調整できる。フレーミングとは再調整の可能性を最大化すること
であり、その最大化こそ「ケア」なのである。「ケア」とは欠落に対するブ
ラックホールの製作としてある、とここではやや性急に仮説を立てておこ
う。
『90メートル』
監督・脚本:中川駿
2026年03月25日
767:吾輩は名無しである
26/05/07 20:29:22.13 bjKzXvD2.net
オリバー・ストーンと大林宣彦、ふたりの創作家の根底にあるポリシーを賭けた論争に、清々しいまでのルッキズムで殴り込む怪人・淀川長治
URLリンク(x.com)
768:吾輩は名無しである
26/05/09 17:19:40.64 57RUE05p.net
蓮實重彦のモノマネ芸を練習してかなり上手くなったと思うのだが披露する場も人もいないので墓場まで持って行くことになりそう
769:吾輩は名無しである
26/05/09 19:01:46.54 h3WhMIBl.net
URGT-B(ウラゲツブログ)
2026年 05月 03日
月曜社近刊:表象文化論学会『表象20:表象文化論の二〇年』
月曜社新刊案内【2026年5月新刊:人文書1点】
取次搬入:5月15日*人文・現代思想
表象20 特集:表象文化論の20年
表象文化論学会[発行] 月曜社[発売]
本体2,200円 A5判(210x149x18mm)並製276頁 355g ISBN978-4-86503-223-9 C0010
表象文化論学会の設立20年、そして本誌『表象』の創刊20号を記念する特集には、拡大版巻頭言として松浦寿輝、岡田温司、佐藤良明、田中純、門林岳史の歴代会長5名が寄稿。
学会という制度、大学という場、そして表象文化論の現在が各人各様に立ち上がる。研究者/大学教員8名による共同討議は、大学教育の現場における具体的なニーズと表象文化論
の理念とのあいだで「教育」の方法論を実践的に探る。蓮實重彥の言説をあえて記号論の文脈に置き、表象文化論的アプローチの明確化を試みる入江哲朗の論文を併せて掲載。
目次:
◆特集「表象文化論の20年」
20号記念・拡大版巻頭言
「シンボル形式としての単眼視像―江戸の表象空間・序説」松浦寿輝(初代会長、2006~10年)
「学会20年に思うこと」岡田温司(第2代会長、2010~14年)
「イン・マイ・ライフ」佐藤良明(第3代会長 2014~18年)
「アソシエーションの20年─アジールとしての遊び場〔シュピールラウム〕」田中純(第4代会長、2018~22年)
「学会を再発明する」門林岳史(第5代会長、2022~26年)
論文「蓮實重彥における記号と反記号―表象文化論のメソドロジーに向けて」入江哲朗
共同討議「表象文化論と教育実践」入江哲朗+小澤京子+北村紗衣+関根麻里恵+常石史子+星野太+渡部宏樹+海老根剛(司会・構成)
「表象文化論の20年」ブックガイド
770:吾輩は名無しである
26/05/10 10:00:26.60 JXsZRVWg.net
フランス人の同僚にゴダールの話題をふっかけて
「あんなの観てるの日本人だけ。フランスでは上映すらされてないw」
と返されたのを思い出した😅
ベルモンドはお茶の間的国民的スターだそうだけど、彼がゴダールの映画に出ていたことすら初耳だそう
URLリンク(x.com)
771:吾輩は名無しである
26/05/10 10:12:47.12 NcfCs/gr.net
ルッキズムで言うと美男の文学者は意外と多いけど(芥川龍之介、小林秀雄、太宰治、平野謙、柄谷行人、島田雅彦、町田康etc)美男の映画監督っているんだろうか?
772:吾輩は名無しである
26/05/10 10:34:22.49 M58G4bwF.net
吉田喜重とかは?
773:吾輩は名無しである
26/05/10 10:38:18.32 yvJGKjHl.net
でも映画監督は女優と結婚出来るから…
774:吾輩は名無しである
26/05/10 10:42:53.90 yvJGKjHl.net
ゲイに圧倒的に人気あるのは短髪、ヒゲ、筋肉質のマッチョ
短髪、ヒゲ、マッチョのゲイはイカホモ(いかにもホモ)と呼ばれる
ゲイの間ではジャニー喜多川や浅田彰みたいなジャニーズ好きは案外少数派なんだとか
775:吾輩は名無しである
26/05/10 11:00:06.66 M58G4bwF.net
高峰秀子と結婚した松山善三もいたな
木下惠介はゲイで有名で助監督はルックスのいい人間しか採用しないという話があったな
鈴木清順は松竹時代に助監督に就くのを木下惠介に拒否されたという話もある
吉田喜重や松山善三は木下惠介の助監督
>>このいわゆる「木下学校」からは小林正樹、川頭義郎、松山善三、今井雄五郎、勅使河原宏、吉田喜重、山田太一他、多数の映画人が巣立っていっている。
776:吾輩は名無しである
26/05/10 16:19:05.79 Jx3X6Jkf.net
大島渚も美青年だったな
777:吾輩は名無しである
26/05/11 22:35:07.35 Fq227cp3.net
URLリンク(youtu.be)
778:吾輩は名無しである
26/05/12 13:00:03.93 TsZisXJ+.net
三宅秀道 Hidemichi MIYAKE
@hidemichimiyake
これは裏返すと、桑原先生みたいにたくましく生活力を獲得できていないので涙を呑んでいる若い研究者や院生の方は声を上げられずずっとつらい、ということですよね。それはやっぱりよくない事態なのよ。既にポストを得て、生活も安定した査読者たちの側が、もし仮に、若手が投稿してきた論文に問題を感じたとしても(桑原先生の論文がどうだったかについては精神分析門外漢の私は評価する資格はないですが)、そんならフェアに査読で指摘してスパッとリジェクトすればいいじゃないですか。相手の立場の弱さにつけこむなんて醜悪ですよ。だからこれは単に、学問上の意見対立で運営側に不手際があった、という問題ではなくって、地位と権力と経済力を利用して、それがある強者の側がない弱者の側を嬲ってた、という可能性がある事案なんじゃないですか?いやそうじゃない、と運営側が桑原先生に反論をするのなら私はそれを真摯に読みたいけれど、いまはまだそれをしていないようです。それをするまでは、桑原先生の意見の方に納得する印象を感じています。
桑原旅人
@KuwaharaTabito
私自身も、日本ラカン協会の査読コメントを受け取ってから、それを公に投稿するまでに、六年ほどの時間を要しています。その間、少しずつ力をつけ、仮にアカデミアから完全に排除されたとしても生きていける環境を整えたうえで、公の場で発言を始めました。現時点でも、声を上げることができず、沈黙に
779:吾輩は名無しである
26/05/13 22:34:54.89 1T6XOoY+.net
榎本啄杜
@enomoto_system2
査読じゃないけど、「深い人生観が見えてこない」「もっと濃い時間を過ごして自分にしか書けないものを書いてほしい」みたいな意味不明のコメントを初老研究者からされたことはある。
その場でキレたけど、あとで「若いから仕方ないけど、あんまり尖ってると大変だよ😅」とDMがきてブロックした。
780:吾輩は名無しである
26/05/16 07:20:36.39 DMQPgwc9.net
蓉堂居士
@rongtangjushi
清朝の文人がやってきたから、日本の漢詩を読ませたら、どれもこれも「和臭がある」というので、こっそりと李白のあまり有名ではない詩を取りだして見せたら、やはり「和臭がある」と言ったので、おもむろに「李太白詩也」と書いて見せたら、たまらずに泣き出したという話がある。
Hiroo Yamagata
@hiyori13
本物のモネの一部を出して「モネをAI生成したよ!」と言ったらみんなが「ふん、AIは本物には及びもつかないね、あそこがダメ、ここがダメ、自分はすぐにわかったよ」と知ったかぶるのを曝す、残酷ながら笑えるスレ
781:吾輩は名無しである
26/05/16 10:24:01.27 hJmz70R4.net
蓮實も修士論文でヌーヴェルクリティックやって仏文の先生方から怒られて留学先のソルボンヌはヌーヴェルクリティック御法度で屈服してつまらない博士論文仕上げたみたいだが大学飛び出て筆一本でやってやるって気概はなかったんだろうか?
782:吾輩は名無しである
26/05/17 00:02:31.79 VCTrUU5E.net
ジャン・ユスターシュのリュミエールへの回帰とは何か?
ChatGPT
ジャン・ユスターシュの「リュミエールへの回帰」という言い方は、単に古典映画へのノスタルジーではなく、「映画を出来事の記録へ引き戻す」という志向を指す場合が多いです。ここでいう「リュミエール」は、もちろんリュミエール兄弟です。
観測可能な事実として、ユスターシュ作品には以下の特徴があります。長回し、非演技的な会話、偶然性の保持、街路や室内の空気感の保存、編集による意味操作の抑制、そして「物語」より「人がそこに存在した痕跡」を優先する構図です。代表作であるママと娼婦や、ドキュメンタリー的作品群では、出来事がドラマとして整理されるより、「ただ起きていること」として置かれる傾向が強い。
これはしばしばジョルジュ・メリエス的映画観への反動として理解されます。メリエス的とは、映画を幻想・演出・物語構築の装置として使う方向です。対してリュミエール的とは、「現実の断片をカメラが受け止める」という方向です。ユスターシュは、1960年代以降の映画が洗練された演出や映画言語の自己意識へ向かいすぎたと感じていた節があります。
783:吾輩は名無しである
26/05/17 00:02:46.70 VCTrUU5E.net
>>782
ChatGPT
ただし、ここで重要なのは、ユスターシュは単純なシネマ・ヴェリテ作家ではないという点です。彼の映画は「生の現実」をそのまま出しているように見えながら、実際には非常に精密に構築されています。例えば『ママと娼婦』の長大な会話は即興的に見えるが、反復や沈黙の配置は異様に計算されている。つまり彼の「リュミエールへの回帰」は、「演出を消す演出」とでも言うべきものです。映画が透明な窓であるかのように見せながら、その透明性自体が高度に人工的です。
この点で、ユスターシュはロベール・ブレッソンとも近い部分があります。ブレッソンが俳優を「モデル」と呼び、演技の演劇性を削ろうとしたのに対し、ユスターシュは会話や身体のぎこちなさ、退屈、沈黙、繰り返しをそのまま残そうとした。どちらも「映画的すぎる映画」への抵抗です。
さらに1968年後のフランスという時代背景も重要です。五月革命後、多くの知識人や映画人は政治的高揚の後に幻滅を経験しました。ユスターシュの映画には、「革命後に残った日常の空虚」が漂っています。大きな物語が崩壊した後、人間がカフェで延々と話し、恋愛し、煙草を吸い、虚無を持て余す。その空気を、ほとんど昆虫採集のように定着させる。ここで映画は思想を語るより、「時代の疲労」を記録する装置になる。
したがって「リュミエールへの回帰」とは、単なる技術的ミニマリズムではなく、 「映画を再び“現実が映り込む危険な装置”に戻すこと」 と言った方が近いです。
ヌーヴェルヴァーグ後期の自己言及的映画が、しばしば映画について語る映画へ向かったのに対し、ユスターシュは「人が生きてしまっている時間」を執拗に残そうとした。フィルムが一種の時間の化石になる感覚です。彼の映画には、物語以上に「1970年代初頭のパリの呼吸」が封じ込められている。そこがリュミエール的なのです。
784:吾輩は名無しである
26/05/17 00:16:44.73 VCTrUU5E.net
ゴダールの「正しい映像というのはない、ただ映像がある」というのは?
ChatGPT
ジャン=リュック・ゴダールの「正しい映像というのはない、ただ映像がある(Il n’y a pas d’image juste, juste une image)」という有名な言葉は、フランス語の語義の二重性を利用した極めてゴダール的な文です。
フランス語の “juste” には、「正しい(correct)」と「ただの・単なる(just)」の両義があります。したがってこの文は同時に二つの意味を持つ。
第一義: 「正しい映像など存在しない。ただ映像が存在するだけだ。」
第二義: 「“正しい映像”ではなく、“ただ一つの映像”がある。」
この言葉の背景には、1960年代末以降のゴダールの政治的・映画理論的転回があります。特に五月革命以後、ゴダールは「映画は現実を正しく表象できる」という古典的映画観を深く疑うようになります。
観測可能な変化として、彼の作品は次第に以下を強めます。物語の解体、編集の断絶、字幕やスローガンの挿入、ニュース映像との衝突、音声と映像の分離、引用の氾濫。つまり「映像が透明な窓である」という幻想を壊し始める。
古典映画では、カメラは「世界を正しく映している」かのように振る舞う。しかしゴダールにとって、映像は常に切り取りであり、編集であり、権力やイデオロギーを含む。ニュース映像も、広告も、革命映画も、中立ではない。だから「正しい映像」という発想自体が危うい。
785:吾輩は名無しである
26/05/17 00:17:03.28 VCTrUU5E.net
>>784
ChatGPT
ここで重要なのは、彼が単純な相対主義へ行ったわけではないことです。「真実はない」と言いたいのではなく、「映像は真実を直接所有できない」と言っている。
むしろ彼は、映像同士の“関係”に真実の火花が生じると考えた。これはセルゲイ・エイゼンシュテイン的モンタージュ理論の変形でもあります。一枚の映像自体は不完全だが、異質な映像の衝突によって観客が思考を始める。
たとえば後期ゴダールでは、 ・戦争映像 ・広告 ・絵画 ・映画史 ・文学引用 ・テレビニュース が断片的に接続される。そこでは「これが真実です」という提示ではなく、「この映像とこの映像を並べたとき、あなたは何を見るか?」という問いが発生する。
つまり彼の映画は、意味を“伝達”するより、“思考を誘発”する方向へ移行した。
この文には、20世紀後半の映像不信も凝縮されています。ナチズム、スターリン主義、広告資本主義、テレビ政治などを経て、「映像は真実を示す」どころか、「映像は容易に人を操作する」ことが明らかになった。ゴダールはその後の時代の映画作家です。
興味深いのは、この言葉がアンドレ・バザン的リアリズムとも緊張関係にあることです。バザンは映画の写真性に現実との特権的関係を見ていた。一方ゴダールは、写真性そのものがすでに制度化され、消費され、政治化されていると感じていた。
したがって、「正しい映像はない」というのは、 「映像は世界そのものではなく、常に選択され加工された断片である」 という認識であり、 「ただ映像がある」というのは、 「だからこそ映像を批判的に見よ」 という要求でもあります。
ここでは映画は“世界を映す鏡”ではなく、“世界について考えさせる破片”になっています。ゴダール後期の映画が、物語よりエッセイや哲学断章に近づいていくのはそのためです。