☆☆☆ドストエフスキー統一スレッド①☆☆☆at BOOK
☆☆☆ドストエフスキー統一スレッド①☆☆☆ - 暇つぶし2ch200:吾輩は名無しである
20/12/30 09:16:46.35 RFCl6bIO.net
ググったらGか
しかもアントン・ラヴレンチエヴィチという名前まであって新聞記者でした
この人も常識人ですね 作家の分身的人物
Kはカフカかw

201:吾輩は名無しである
20/12/30 13:07:38.29 Z5T907vz.net
>>198
ドストエフスキーが存在論の立場で書いたのはキリーロフだけだと思うんすよね
なので一際目立ってキリーロフがお気に入りです
犬でも飼ったらキリーロフと名付けますw

202:吾輩は名無しである
20/12/30 13:14:44.23 Z5T907vz.net
かつてこの地上に一つの日があった。
そしてこの地球の真ん中に、三つの十字架が立っていた。十字架の上 にあった一人は、きわめて深い信仰を有していたので、いま一人の者に向って「お前は今日わしと一緒に天国におもむくだろう」と言った。
やがてその日は終わって二人とも死んでしまった。
そして、ともに旅路につい たけれど、天国も復活も発見できなかった。予言は適中しなかった。
いいか、この人は全地球における最高の 人で、地球の生活の目的となっていたのだ。その上にある一切のものを含めてこの一個の遊星全体もこの人が いなかったら、ただの狂乱にすぎない。この人の前にも後にもこれほどの人は決していたかったし、また絶対に現われないだろう。
それは実際、奇蹟といってもいい位だ。
こういう人はこれまでにあいなかったし今後も決して現われないだろうというところに奇蹟が含まれているわけなのだ。
もしそうとすれば、自然律がこの人童容赦しないでその奇蹟さえ容赦しないで、彼をして偽りの中に生き、偽りのために死なしめたとすれ ば、当然この遊星全体が虚偽で、虚偽と愚かしい剛笑の上に存在しているわけなのだ。
して承ると、この遊星 の法則そのものが虚偽なのだ。
悪魔の喜劇なのだ。一体何のために生きるのだ。
前に三本の十字架の話で触れたけど、ここに出てくるセリフ「一体何のために生きるのか」こんな話はドストエフスキーの中でキリーロフくらいです

203:吾輩は名無しである
20/12/30 16:01:40.51 3BgJwxy4.net
>>202
この宇宙の存在意義を論じたものでしょうか
おもしろいですね
これ出典は悪霊ですか
ちょっと記憶にないので

204:吾輩は名無しである
20/12/30 16:33:57.47 8vQr8PLg.net
来年はドストエフスキーメモリアルイアー、略してドスメモですからね
悪霊は岩波文庫改版でよかですか?

205:吾輩は名無しである
20/12/30 17:25:29.90 3BgJwxy4.net
>>204
おー
言われてみれば生誕200周年だ

206:吾輩は名無しである
20/12/30 17:32:22.83 RWde5f79.net
イヤーに慎んで訂正いたします

207:吾輩は名無しである
20/12/30 17:39:52.16 Z5T907vz.net
>>203
悪霊のキリーロフのセリフです
もし本当に復活なんてものがなかったとすれば、壮大な喜劇なんすよね
どれほどの人たちが復活を信じて自らの命を犠牲にしてきたか測ることすらできなくなる
>>204
URLリンク(www.aflo.com)
フョードル・ドストエフスキー生誕200年(1821年11月11日)
苦悩と矛盾に満ちた人間の内面を巧みに描き20世紀文学に多大な影響を与えたロシアの文豪。代表作『カラマーゾフの兄弟』『地下室の手記』。
200年前の作家、と言われると不思議な気持ちになります
ちなみにオレは新潮がよかったです

208:吾輩は名無しである
20/12/30 18:14:20.10 Z5T907vz.net
キリーロフってとても良心的なんだと思います
スタヴローギンなんかはとことん世界の欺瞞を否定してやろうと思っている節がある
例えばキリーロフとスタヴローギンの会話でこんなことがある
スタヴローギン
この地球で散々悪行の限りをつくし千年も万年も爪はじきになっていても月の世界に居を移してそれを眺めていれば何の揃痒も感じないだろう。
キリーロフ
わかりません、ぼくは月に住んだことがないから
そういえば、ゴーンが逃亡した時なんかはスタヴローギンを思い出した
月とは別世界という象徴でもある
日本の法の下に逸脱する行動をいくらとろうとも、レバノンに帰ってしまえばなんてことはない
誰も裁けない法律なんて、起訴されようと、重刑を課されようと、その国から出てしまえばゼロでもある
この問題にキリーロフは、そんなこと考えたこともない、と答えます
キリーロフは思ったより良心的なんだと思います

209:吾輩は名無しである
20/12/30 18:29:40.92 3BgJwxy4.net
>>208
良心的だし純粋
しかし考えようによってはキリーロフほど恐るべきキャラはそういないんじゃないか
自らの思想に忠実であるために悪党ピョートルの注文通りの文書を残し思想を実践するとか
ふと三島由紀夫が思う浮かびました

210:吾輩は名無しである
20/12/30 18:51:54.84 yC9y8ekz.net
>>207
どうもありがとうございます新潮ですか
新潮は表紙のでかい字での悪霊がかなり気に入りません
ただあなたには一目置かせていただいてるので、
図書館で両方借りて最初だけ読み決めたいと思います

211:吾輩は名無しである
20/12/30 18:56:22.59 3BgJwxy4.net
>>207
このキリーロフのセリフとかはキリスト教を知らないと理解できないでしょうね
そもそもどの作家であれより深く理解するためにはその作品が書かれた背景
例えば作家が生きた時代や生まれ育った文化・宗教・思想などを知ることによってさらに見えてくるものがあるから
それらを知っておいた方がいいのは火を見るより明らかですね
むしろ背景知識なしでは単に理解することすらままならないでしょう

212:吾輩は名無しである
20/12/31 00:07:14.93 HADEnU1J.net
>>210
幸運な時代です
翻訳が一冊ではなくて数冊ある恩恵の時代に生まれました
評価してくれたことを感謝します
ぜひ自分にあった訳を見つけて下さい
>>211
背景を知るということは分析することでもありますね
分析には理性の働きが欠かせません
人は何かを知ろうと欲すると、まずは対象を想像する
想像知によってどういうものであるのか判断します
ただし想像は間違えやすい
なぜなら想像は多種多様であり人の数だけ存在し、想像は対象物に触発されるという受動の働きが先になってしまう
対象を正確に理解して、理解の間違いを避けるためには「共通の概念」を探さなくてはならないと仮定でき得る
つまり分析です
その人を知りたいなら「私からどう見えるのか」ではなく「その人が見ていたもの」知らなければならなくなる
ドストエフスキーを分析するにあたって「キリスト」はその共通概念になり得る、とオレも同意します

213:吾輩は名無しである
20/12/31 01:11:48.62 HADEnU1J.net
>>202を理解するために聖書を知らなければなりません
該当部分はルカによる福音書などです
これを知らずしてキリーロフが語った「三本の十字架」は理解できないと考えます
ルカによる福音書 23:35-43
民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。
兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、
「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。
イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。
十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

214:吾輩は名無しである
20/12/31 11:18:18.13 s0MYqNSi.net
新潮文庫の『悪霊』江川卓訳はスタヴローギンの告白を巻末に置いているのが気にいらない
米川正夫訳は岩波文庫でなく河出の全集を持っていて愛読している

215:吾輩は名無しである
20/12/31 13:28:43.13 2D4M0vAQ.net
新潮文庫『悪霊』江川卓訳
「序に代えて
 今日までなんの特記すべきこともなかったわが町において、最近、相次いで起こったまことに奇怪なる事件の叙述に手を染めるにあたり、私は、おのが非才のいたすところとはいえ、いささか迂遠なところから、
すなわち、才能ゆたかにして最も尊敬すべきステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキー氏の一代記にかかわる若干のディテールからして、稿を起すことを余儀なくされている。…」
光文社「古典新訳」文庫『悪霊』亀山郁夫訳
「序に代えて
 今日まで何ひとつきわだったところのないわたしたちの町で、最近たてつづけに起こった奇怪きわまりない事件を書きしるすにあたり、わたしはいくらか遠回りを覚悟して、
まず手はじめに、才能ゆたかにして敬愛すべきステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェンスキー氏の経歴にまつわる細かい話を、いくつか紹介することからはじめなくてはならない。…」
残念ながら名訳で知られる米川正夫訳は手許にないので併記できません

216:吾輩は名無しである
20/12/31 18:52:27.23 atbHAu7C.net
新潮文庫『悪霊』江川卓訳(1回目)

光文社「古典新訳」文庫『悪霊』亀山郁夫訳(2回目)
なんでも文庫で読みたいので大体この順番で新潮社と光文社にはお世話になってる

217:吾輩は名無しである
20/12/31 19:13:00.65 s0MYqNSi.net
河出書房新社ドストエーフスキイ全集第9巻『悪霊』米川正夫訳
「序に代えて
わたしは今この町、―べつにこれという特色もないこの町で、つい近頃もちあがった、
奇怪な出来事の叙述にとりかかるに当たって、凡手の悲しさで、少し遠廻しに話を
始めなければならぬ。つまり、スチェパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキイ
という、立派な才能もあれば、世間から尊敬も受けている人の、やや詳しい身の上話から
始めようというのである。」

218:吾輩は名無しである
20/12/31 20:16:23.09 2D4M0vAQ.net
それぞれ訳文の味わいが微妙に違っていて面白いですね
米川正夫訳 →「凡手の悲しさで、少し遠廻しに話を始めなければならぬ。」
江川卓訳  →「私は、おのが非才のいたすところとはいえ、いささか迂遠なところから、…稿を起すことを余儀なくされている。」
亀山郁夫訳 →「わたしはいくらか遠回りを覚悟して、まず手はじめに、…いくつか紹介することからはじめなくてはならない。」
明治の頃には英語やドイツ語からの間接翻訳しかなかったけどロシア文学者である米川正夫が初めてすべての作品をロシア語から直接翻訳したということですね
その歴史的偉業を受けてドストエフスキー研究も進み江川卓訳も名訳として知られてますし
用語も言い回しも現在の読者に合わせてアップデートした亀山郁夫訳はまだ評価が定まってないようですが
今の若者にはより読みやすいのかもしれません

219:210
20/12/31 20:42:57.73 PN+eTCqo.net
>>217
俺のためにだけではないでしょうが親切にありがとうございます
スタヴローギンの告白を調べたら上巻に収められている方がよさそうに思います
亀さんのが1番読みやすいのですが、新カラ兄弟の出版は俺にはまったく相容れないものですので可能な限り避け続けます
河出書房新社か岩波文庫を買ってみようと思います
そして恩を仇で返すようになってしまい当方も心苦しく思いながら、
この後映画鬼滅の刃について書こうと思っています
もちろん俺としてはおもしろいことだと思ってのことです
せいぜい2回に留めますので

220:吾輩は名無しである
20/12/31 22:08:11.21 2D4M0vAQ.net
博多華丸大吉通じで
全集中水の呼吸だけは知ってる

221:吾輩は名無しである
21/01/01 01:04:44.81 Gwnilf7O.net
米川「慶賀慶祝の至りにて誠に喜ばしく存じ奉ります」
亀山「あけおめ」

222:吾輩は名無しである
21/01/01 10:29:27.23 jOxwFKWU.net
アイデアを借りて悪ふざけ
新年早々ゴメンナサイ
「オレらの地元はゼンゼンふつーの町なんだけど、最近なんかチョーやべー事が起きまくったんで、今からその話をすんだけど、
オレ頭わるくてウマく言えねーから、初めにオレらが全員リスペクトしてるステパン先生の話からしていい?」

223:吾輩は名無しである
21/01/01 12:10:08.76 Gwnilf7O.net
皆様明けましておめでとうございます
新年早々暗い話題はなんですが、ーとか、倒置法を使っていたりして、江川訳の地下室のこの文章は大好きです
『地下室の手記』 江川卓・訳 新潮文庫
ぼくは意地悪どころか、結局、何者にもなれなかった-意地悪にも、お人好しにも、卑劣漢にも、正直者にも、英雄にも、虫けらにも。かくていま、ぼくは自分の片隅にひきこもって、残された人生を生きながら、およそ愚にもつかないひねくれた気休めに、わずかに刺戟を見いだしている、-賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない、何かになれるのは馬鹿だけだ、などと。
さよう、十九世紀の賢い人間は、どちらかといえば無性格な存在であるべきで、道義的にもその義務を負っているし、一方、性格をもった人間、つまり活動家は、どちらかといえば愚鈍な存在であるべきなのだ。

224:吾輩は名無しである
21/01/01 12:16:22.08 OEwZv4eT.net
映画鬼滅の刃で描かれるエピソードは物語の途中、全体の3分の1(原作コミック全23巻のうちの7、8巻)に位置するものです
現在の動員数はのべ2千5百万人です
俺が言いたいのはこの映画に登場する人物の生き様を点とした時、
物語の始点とこの点に定規を当てて線を引いた延長線上に物語の終点があることがすばらしいと思うのです
つまり物語の結末から振り返ってみても正しかったことがわかるのです
そればかりかこのエピソードが物語にふさわしい結末に向かう定規の役割りとなったとも思うのです
人は誰でも数十年ほどで人生を終えます
そしてその後も世界が続いていくことを知っています
自らの人生を大まかにいって1つの点ととらえたとき、
世界の始点と終点を結んだ線上に自分の人生の点が含まれるということはこの上ないことだと思うのです
以上はキリスト教とドストエフスキーに決して無縁なことではないと思います
コロナ禍に映画に行くことを薦めるのは常識的ではありませんが、
果たしてこの作品をたとえば俺の自宅の23インチのモニターで観て、同じように感動できたかというとできなかっただろうと思うのです

225:吾輩は名無しである
21/01/01 14:31:43.95 jOxwFKWU.net
『地下室の手記』という語弊を恐れずに言えば厭な奴を描いた中編が
作家の転換点になったというところが面白いですね
興行収入歴代1位って凄いよねマンガも映画も見てないけど
でも観客をこれだけ熱くさせる作品だからこその大ヒットなんでしょう
それにしても無限列車編てタイトルがロマンチックかつどことなく文学的で惹かれるけど列車は出てくるのかと疑問
無限列車編が分量にして3分の1で序とするなら破・急と作られるのかしらエヴァみたいに

226:吾輩は名無しである
21/01/01 14:40:17.31 jOxwFKWU.net
>>216
オレも悪霊はそのパターンで読みました
亀山訳は読みやすくてあれはあれでありだとは感じました

227:吾輩は名無しである
21/01/01 14:58:08.95 bOehLOWW.net
亀山訳はベストセラーになったために、ロシア文学者から嫉妬され、
重箱の隅をつつくような貶し方をされたが、決して悪い訳ではない
数十年前流行したシドニー・シェルダンの超訳に比べれば、まともだ

228:吾輩は名無しである
21/01/01 15:30:40.99 vXoh5h8s.net
>>225
興味があまりないでしょうけど、少なくともレンタルになったら早めに観ることをお薦めします
俺はこの映画をどんな理由であっても観られなくなったら、人間としては終わっていると思っています
だからといって観れれば人間として大丈夫だという訳でもありませんけどね
いつか観ようと思ったらぜひ観てくださいというだけです

229:吾輩は名無しである
21/01/01 16:35:16.43 jOxwFKWU.net
>>228
口コミ喚起力ハンパないですね
それほどおっしゃるならいつか見てみたいと思いますが
何故に無限列車編なんでしょうか

230:吾輩は名無しである
21/01/01 17:21:29.40 ODXzIvUk.net
>>229
東京駅と無限駅(架空)を走る蒸気機関車が舞台となるからです
知性の高い人でも観てよかったと思える映画だと強く思っています
全員じゃないでしょうけれどね
といっても特に新しいところがあるとは思えないんです
でもおそらくあなたの人生にしろ俺の人生にしろ、新しさばかりが重要ではないのではないでしょうか?

231:吾輩は名無しである
21/01/01 18:49:12.40 Gwnilf7O.net
映画はまだ見てないけど、かなり頻繁に名前を聞くのでアニメは一応全部見ました
映画はレンタルされたら見る予定です
映画を見ていないから物語論はなにも言えないけど、内容の一角の部分、罪の強調をしているところは触れられるかもしれない
罪によって堕落して鬼となる、そういうストーリーだったと思う
この罪を犯して鬼になるものにはキッカケがあった
人間側を善として鬼側を悪とする二元論的な立場はあるんだろうけど、主人公は鬼にも同情的であり、鬼になってしまった、つまり堕落してまった「理由」には心を寄せていたように見ていて感じた
ようは、自分も鬼になった人たちと同じことが起こっていたら鬼になっちゃっていたかもしれない、みたいな見方が含んでいるところがよかったと思いました

232:吾輩は名無しである
21/01/01 19:05:43.54 bOehLOWW.net
鬼滅の刃はもういいから、ドストエフスキーに戻れ

233:吾輩は名無しである
21/01/01 20:30:36.81 Gwnilf7O.net
悪に対してどう対処していくのかは日常的な問題だったりもします
そもそも悪には2種類あります
一つは生存に不利益を与えるという意味での悪
多くの人がコレを悪と勘違いしやすい
自分の生活における、快/不快、利益/不利益、などを悪としてしまうと、自分の欲望をさまたげるものはすべて悪と考えてしまう
もう一つは道徳的な悪
問題となるのは道徳的な悪についてであるし、ドストエフスキーで語られるのも道徳的な悪についてがほとんどでもある
道徳はそもそも「自分」に集約される戒めである
他者が自分に与える行為を道徳とは呼ばない
道徳は、自分が他者にどう接するかを問題としている
問題は、この生存を脅かす悪と道徳的な悪はたまに連鎖するということ
この連鎖によって行われた悪に責任をどこまで問うことが出来るのか、そもそも人間がその責任を負えるのか、そういう問題は法解釈にもつながっていくし、各人の倫理にも関係していきます
死の家の記録では囚人たちを「不幸な人たち」と呼びました
囚人は悪い人たちではなくて不幸な人たちと表現されました
彼らは彼ら自身の不利益をはらった人たちでもある
はらうために道徳的な悪を「手段」として行った人たちと言える
囚人になるのは不幸な環境に不運にも置かれた人たち(演繹:なので罪人こそ裁かずに哀れんでやらなければならない)というのがドストエフスキーの考え方だったりします
誰もがそうなっていた、もしくはそうなる可能性を秘めている
ここにドストエフスキーの線引きが存在します
連鎖の渦中に陥った不幸な人たちは(神に)許される
行いは許されざる人たちではあるけど、哀れみがその上をいく可能性を認めている
許されざるべきは、悪意だけに寄せて道徳的な悪を犯した者たちである
虐げられた人々でも、この類の人は許されざる人たちとして書かれています
この法則は他者の道徳には語りやすい
最大の問題は、自分が当事者になった時にこの道徳律を維持でき得るのか、それが問題です
この連鎖に「自分が巻き込まれた被害者」である時、果たして人を許せるのだろうか

234:吾輩は名無しである
21/01/02 00:23:01.89 GbYJpQ1Y.net
ちょっと話がずれるかもですが
キリスト教のような一神教では善と悪は絶対的に峻別されるべき概念であり神及び神にまつわるものは当然かつ絶対的に善とされ
神に敵対する者や概念は絶対的悪として排除・矯正の対象となるのでしょう
(それゆえに人間においては「悪」は規範の侵犯/原初的欲望の開放/自由などの概念と親和性が強くそれがカウンターカルチャーとしての悪魔信仰発生の契機となる)
つまりキリスト教的一神教の世界では「キリスト教徒=味方にして善なる仲間」と「アンチキリスト=悪なる敵」が峻別される
一方多神教や無神論においては善悪は相対的概念であり
例えば日本人の多くは恣意的な概念である「人としての道に沿って生きる」ことを善としますが何をもって「人としての道」とするかはまちまちです
日本においては悪魔すなわち鬼は絶対的悪とはならずむしろ日常を超えた力を持つものとして神と同じ範疇で考えられたりもするので
鬼滅の刃が日本人の心を打ち大ヒットした理由も人間vs鬼(善vs悪)という善悪二元論に打ち勝とうとする人としてあるべき姿としての兄妹愛が日本人の心の琴線をかき鳴らしたからではないかと
鬼滅をよく知らないままに思いました

235:吾輩は名無しである
21/01/02 12:35:26.09 L+2i6+B5.net
>>234
ずれていないですよ
いつかは善悪の話になるしかないですからね
旧約聖書と新約聖書でも一神教は変わらないけど、裁く主体は変わっていますので、神学的な話だと聖書も旧/新の時代で道徳的な基準は分けていかないとだと思います
ドストエフスキーは新約聖書の時代の基準です
旧約聖書の時代では、人が神の代理(預言者からの伝達)として人を裁きました
新約聖書の時代では、裁き司が遣わされ、その右に座するものがすべてを裁く権能を持っています
ヨハネによる福音書 5:22-23
父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。
それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。
裁く主体が変わったということです
新しい契約により道徳律は変わりました
迫害するのではなく愛することが新しい戒めとなりました
悪は対峙するのではなく避ければいいのです
それがドストエフスキーで問われている道徳的基準だと思っています
>日本においては悪魔すなわち鬼は絶対的悪とはならずむしろ日常を超えた力を持つものとして神と同じ範疇で考えられたりもする
ほんとその通りですね
アニミズムが根底にある日本人は自然を神と見做したりもしますので、多神教では神は身近なものに宿ると考えられるのかもしれません

236:吾輩は名無しである
21/01/02 14:23:08.72 GbYJpQ1Y.net
>>235
ちょっとわからないところがあるんですが
>旧約聖書の時代では、人が神の代理(預言者からの伝達)として人を裁きました
>新約聖書の時代では、裁き司が遣わされ、その右に座するものがすべてを裁く権能を持っています
のところで
(モーゼ五書くらいしかまともに読んだことはないんですが)
出エジプトの頃は神が直接教えに従わない人間を裁き(罰し?裁くことと罰することは別概念ですか?)てたような気がするんですが
そのことと「人が神の代理(預言者からの伝達)として人を裁きました」とは
どう理解すべきなんでしょうか
また
「裁き司」と「その右に坐するもの」ってどっちかがイエスなんだろうと思いますが
だとしたらイエスはどっちでもう一人は誰なんでしょうか

237:吾輩は名無しである
21/01/02 15:36:50.11 Cgs5qdCg.net
自分を含めたうえで善悪を語ろうとする機会はなかなかないんじゃないでしょうか?
多くの場合は善悪といいながら自分の損得になっているのではないでしょうか?
大抵の人は自分が悪いこともしているのを自覚して生きていると思います
だから目をつむったりあまり深く考えないようにして生きている
でもこれでは本当に生きているとはいえないと思うんですね
でも俺もほとんどはそうしているのではとも思います
過去の自分の罪を突き詰めていくとそれだけで崩壊するのに十分ではないでしょうか?
別の視点からするとそれはそれで知性が高いとはいいきれないとも思います
非常に難しいことで、まったく考えなくなっても終わりで、突き詰めてしまっても終わってしまいます

238:吾輩は名無しである
21/01/02 19:20:06.48 L+2i6+B5.net
>>236
言葉が足らなかったようです
オレの中で「罰」は生存を保証されている叱責と理解しています(罪と罰とかもそうで)
「裁き」は生存を問わないかたちでの叱責、殺すことも含まれています
裁きの概念で真っ先に思いつくのはノアの洪水です
ノア一家以外の人類は裁かれて命を失います
これが裁きの概念だとオレは理解しています
>人が神の代理(預言者からの伝達)として人を裁きました
これは、旧約聖書では神が預言者に語りかけます
どこどこの民は腐敗しているので殺せとか奴隷にしろとか
で、預言者は自分たちの民を引き連れて侵略します
なので、神の代理として裁いている、という意味で書きました
> 裁き司とその右に坐するもの
両方ともイエスのことです(説明を省きすぎました)
地上でのリーダーと天上でのリーダーという象徴でオレが勝手に使っただけです(聖書から引用したあだ名みたいなもんです)
実はオレ自身、言葉が足りないことが多い自覚はあります
分かりずらい表現があるときは指摘して下さい
すいません

239:吾輩は名無しである
21/01/02 19:44:41.91 GbYJpQ1Y.net
>>238
なるほど
旧約では神が直接もしくは神の代理人である預言者を通じて間接的に人間を裁いていたが
契約が更改され
新訳ではイエスが裁き司すなわち神の右に坐するものとして人間を愛をもって赦し人間を他者を許せというルールで縛ったという理解で合ってますかな

240:吾輩は名無しである
21/01/02 19:47:22.89 GbYJpQ1Y.net
新訳て
新約です

241:吾輩は名無しである
21/01/02 19:54:09.88 l4+xQjEP.net
このスレもドストのテクストから離れてしまっている
また別のスレを作ろうかな

242:吾輩は名無しである
21/01/02 20:25:48.23 GbYJpQ1Y.net
>>241
スレ主降臨キターーーーーー
万能の創造主たる貴方にこんなこと言ったら即バン地獄行き決定という事なんでしょうが
ここは敢えて言わせてもらいます
ドストエフスキーがパロディ(先行するテクストを利用して作品に笑いや深遠さなどの作用を引き起こす手法)を随所に取り入れていることはバフチンにも指摘されており
ドストエフスキーのテクスト内に埋め込まれたそれ以外のテクストとの関連性を分析する間テクスト性の視点は
ドストエフスキーのテクスト分析には欠かせんもんでしょましてや
ドストエフスキーの思想のバックボーンである聖書にまつわる話題が
ドストエフスキーから離れてしまっているわけがない
と思いませんか
ドストエフスキーが知る由もない日本の仏教の一宗派のテクスト並びに一知半解の一宗徒の理解を延々と並べるような単なるスレ荒らしとの違いを全能なる貴方ならわかるはず
まあ別スレ作るかどうかは貴方の勝手だし面白そうなら遊びに行きますがね
というかドストのテクストで語りたいことがあるならどんどん書き込めよスレ主!
あ すいません生意気言いましたゴメンナサイ

243:吾輩は名無しである
21/01/02 21:07:26.61 L+2i6+B5.net
>>239
その通りです
トルストイもそうだし、ドストエフスキーの道徳の基準は新しい契約をベースに考えられています
裁き主が定められた以上は裁いてはならなくなりました
人が人を裁いたならば、もうそれは越権行為です
すべては「拡大解釈」です
神を愛すること、隣人を愛すること、これに留まる行為は善としこれに違反する行為が悪になります
ドストエフスキーの善悪はすべてこれで理解可能だと思っています
新しい戒め ヨハネによる福音書 13:34
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
マタイによる福音書 22:37-39
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
1864年のメモはこの「新しい戒め」が人間の本性(自己保存の努力)と相反しているのかを問題としました
ちなみにトルストイの人生論もこれと同様です
「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする……人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟を守れないとき、つまり、愛によって自身の自我を人々のために、他者(私とマーシャ)のために犠牲に供しえないとき、人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。
そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣合うのである。ここにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう。」

244:吾輩は名無しである
21/01/02 21:11:02.19 L+2i6+B5.net
>>241
希望するルールがあるならば是非言ってください
秩序のためにルールは必要だと思っているので、気になることがあれば是非ご提案を

245:吾輩は名無しである
21/01/02 21:34:41.01 GbYJpQ1Y.net
>>237
まだ若いだろうに自省できるってだけで
オレなんかキミに感心しちゃう

246:吾輩は名無しである
21/01/02 21:40:13.36 GbYJpQ1Y.net
>>243
なるほど
概念として旧い契約と新しい契約があってぐらいはわかってた気になってましたが
そんなにでかい差があるとは正直思いもよりませんでした

247:吾輩は名無しである
21/01/02 22:00:04.60 L+2i6+B5.net
>>237
そのパラドックスを定義したなら身も蓋もないっすよ
死に至る病じゃないけどすべて絶望になってしまう
けど、その欺瞞を克服する良心がないなら動物と変わらないと思います
動物は自己を保存することのみが原動力だし、罪に対する概念は人間だけに与えられたロゴスでもあるとオレは信じています
言われたように、もっと鈍感に生きていく方が別の意味では賢いと言えると思いますけどね
>でもこれでは本当に生きているとはいえないと思うんですね
結局はこれがすべてじゃないんすか
少なくとも人間にとどまるしかないように思います

248:吾輩は名無しである
21/01/02 22:29:35.11 cPNSiJu6.net
>>245
なんというか若くはないです言いにくいですが

249:吾輩は名無しである
21/01/02 22:34:20.18 cPNSiJu6.net
>>247
やっぱり善人であろうとする意志だと思うんです
そこには知性伴ったうえで

250:吾輩は名無しである
21/01/02 22:48:52.31 GbYJpQ1Y.net
>>248
じゃあ青年ということで手を打ちましょう

251:吾輩は名無しである
21/01/02 23:34:39.24 Ke2vxNV5.net
カラマーゾフの兄弟は若いうちに読んでほんとうによかったと思っています
数年前読んだ時はアリョーシャが毒にも薬にもならない影の薄い人物に感じてしまいました
でも若い頃に読んではっきり印象に残っているのは、アリョーシャが善人であるということです
もっともここで指摘されたようにリーザの告白に同意した面もありますけれど
でも河合隼雄が名著猫だましいで書いているように、
どんな人間にも必ず暗い部分はあると思うのです
これは以前まったく同じことを書いた気がします
坂口安吾も言ってたはずです、アリョーシャを書いたからドストエフスキーを評価するみたいなことを
俺はドストエフスキーの本はそれほど読んでいないので想像にすぎませんが、ずっと書くことを望んでいたのに書けなかったんでしょうねアリョーシャのような人物を
カラマーゾフの兄弟という物語のなかでアリョーシャは光輝いている
これが若い頃読んで今もはっきり覚えている感想です
この間否定された意見をまた書いてしまいました
それは違うと前書いた等、否定は短めでかまいません
2度目ですから

252:吾輩は名無しである
21/01/03 00:47:43.70 hb5LzbJ4.net
否定することはないように思うけど
リーザの告白に同意したってどういうことでしょうか

253:吾輩は名無しである
21/01/03 01:04:59.93 skkePjZp.net
たしかにわかりづらいですね
過去スレからコピって来ましたご容赦ください
悪魔がでてくる夢を見ると言ってニヤける少女に、僕も同じ夢をみる、
という指摘です

254:吾輩は名無しである
21/01/03 01:17:33.07 FvvKSMT/.net
>>242
聖書を語りたいなら、ここで今後も書き込めばよい
別にドストスレが立ったから、もうこのスレに用はない

255:吾輩は名無しである
21/01/03 01:26:49.41 skkePjZp.net
聖書の話題もお気に召さないとはハードですね
新しいスレを確認しました
そちらにはスレタイにそぐわない書き込みはしないようにいたします

256:吾輩は名無しである
21/01/03 01:45:22.03 fUKP9lCJ.net
>>251
見つけましたよ
リーザの無意識の描写に違いないけど、何を意味しているのか解釈するには前後を読み直さないとのようです
捕まえられそう、ということは「何かを恐れている」と推測できるけど、追い返すやり方も知ってはいるようです
そして最後の、面白い、という感情で終わる夢
一体なにを意味しているのか考えることはとても楽しい
私は時々夢で、悪魔を見るの。夜、私が自分の部屋でろ うそくをつけると、突然、あちこちに、悪魔がいるの。部 屋の隅やテーブルの下にもいるし?扉を開けると悪魔は扉の向こうにたくさんいて、中へ入って私をつかまえようと しているの。近寄ってこようとするやつや、つかまえようとするやつがいるの。
そして私が急に十字を切ると、悪魔 たちは後ろに下がって,怖がって入ってこようとはせずに、扉のところで待っているの。そして私が突然神様の悪口を言いたくなって、悪口を言い始めると、悪魔たちは急に一 斉に私のほうへ寄ってきて、喜んで私をつかまえようとするの。
私がまた急に十字を切ると、また彼らは後ろへ下がるわ。
とっても面白いわよ。」

257:吾輩は名無しである
21/01/03 01:46:55.95 hb5LzbJ4.net
>>254
文学的にとは難しい縛りをかけたな
あとキミも相当ユニークな人だね

258:吾輩は名無しである
21/01/03 01:49:11.46 fUKP9lCJ.net
オレはドストエフスキーに宗教も哲学もぬいて論じるのは味気ないと思っています
もちろんそれぞれ思惑や希望は違うんだから、そのスレにあったことをレスしていけばいいと思いますけど
ということでオレは当分ここで、宗教的側面や哲学もしくは心理学的な側面からドストエフスキーを論じようと思っています

259:吾輩は名無しである
21/01/03 01:55:52.81 skkePjZp.net
匿名なわけだからそこはおのおのシレッと書き込めばいいと思うんです
新しいスレは専門性に留意して

260:吾輩は名無しである
21/01/03 02:06:54.85 skkePjZp.net
大げさすぎるけど俺はドストエフスキーは彼の作品の内に、特にカラマーゾフの兄弟の中に世界を作ったと思っているんです
そこにははっきり言って創価学会も存在することができます
ただ彼には限度がないので非常に困りました

261:吾輩は名無しである
21/01/03 02:11:22.53 hb5LzbJ4.net
悪魔がウジャウジャと出てくるリーザの夢
言われてみればあったかも
悪魔がらみで覚えてるのはゾシマ長老が亡くなる前後
修道院で暮らす奇人的な修道僧フェラポント神父が
ウソかマコトか悪魔が辺りにうろちょろしてると言ったとこ
あと神経衰弱に陥ったイワンの前に悪魔が現れるシーンもあった記憶があるし
カラマーゾフの兄弟には悪魔のイメージが繰り返し出てくる
ドストエフスキーは何らかの意図をもって書いてるのは確かだろう

262:吾輩は名無しである
21/01/03 02:15:15.02 skkePjZp.net
>>256
はっきり覚えてないので少し違和感がありますがおそらくそこです
読んで今はなんかパイーシー神父みたいだと思ってしまいました不本意ながら

263:吾輩は名無しである
21/01/03 02:16:23.53 fUKP9lCJ.net
>>260
彼は、ドストエフスキーを使ってそうかを語りたかったのだと思っています
そうかを使ってドストエフスキーを語るということはしませんでした
その違いがよく分かっていなかっただけったのかもしれません

264:吾輩は名無しである
21/01/03 02:17:13.92 skkePjZp.net
>>261
あれ?俺の記憶違いでしょうか?尻尾をドアで挟んでやったという

265:吾輩は名無しである
21/01/03 02:19:55.24 skkePjZp.net
>>263
いい意見だと思います
彼が創価を通してドストエフスキーを語っていたら

266:吾輩は名無しである
21/01/03 02:21:14.98 fUKP9lCJ.net
>>261
結構カラマーゾフではみんな悪魔をみているんすよね
怖いけどw
悪魔は甘いもの好きとかなんとかもイワンが言っていたし
>>264
そうでしたか
今日はもう眠れなくなるので、あとで読んで該当部分を探してみます

267:吾輩は名無しである
21/01/03 02:27:39.83 hb5LzbJ4.net
>>264
>尻尾をドアで挟んでやった
そうです
あれは誰だったっけなと新潮文庫をパラパラめくって名前を確認しました
近くでパイーシー神父も出てくるのでごっちゃになったのでは
よくあることです

268:吾輩は名無しである
21/01/03 02:38:28.23 skkePjZp.net
>>267
申し訳ありません
自分の間違った記憶を通さなくてよかったです

269:吾輩は名無しである
21/01/03 02:39:15.65 hb5LzbJ4.net
宗教や哲学の知識に触れずに大審問官についてのレスをするって可能なんだろうか
って思ったら大審問官にも悪魔が出てくる!!
カラマーゾフは悪魔だらけや

270:吾輩は名無しである
21/01/03 02:41:05.85 hb5LzbJ4.net
>>268
申し訳ありませんなんてそんな
申し訳ないことしたわけでもないのに
逆に恐縮です

271:吾輩は名無しである
21/01/03 02:50:44.39 skkePjZp.net
自分で調べなかったことにに引け目を感じてのことです
それではまた夜が明けたらです

272:吾輩は名無しである
21/01/03 12:08:44.96 hb5LzbJ4.net
スレ主の新スレ
>>2-3と素晴らしい内容のカキ込みが続いてる
持ってんな

273:吾輩は名無しである
21/01/03 12:58:23.86 fUKP9lCJ.net
リーザの残虐性の話が出たので気になったので少し読み返してみました
リーザは明らかにイワンに影響を受けている節があるのかもしれない
リーザ
「最初まず両手の指を全部切りおとして、それから壁にはりつけにしたんですって。 釘で打ち付けて、はりつけにしたのね。そのあと法廷で、子供はすぐに死んだ、4 時間後に、 と陳述しているのよ。これでも、すぐにですってさ!その子供がうめきつづけ、うなりつ づけている間、ユダヤ人は突っ立って見とれていたそうよ。すてきだわ!」
「すてき?」
「すてきよ。あたし時々、その子をはりつけにしたのはあたし自身なんだって考えてみる の。子供がぶらさがってうめいているのに、あたしはその正面に座って、パイナップルの砂糖漬けを食べるんだわ。あたし、パイナップルの砂糖漬けが大好きなんですもの。あな たも好き?」
イワン
「赤ん坊をあやし、何とか笑わせようとして、しき りに笑ってみせる。やっと成功して,赤ん坊が笑いをたてる。と、そのとたん、一人のト ルコ人が赤ん坊の顔から20センチたらずの距離でピストルを構えるんだ。赤ん坊は嬉し そうに笑い声をあげ、ピストルをつかもうと小さな手を差し伸べる。と、突然、その芸術 家がまともに赤ん坊の顔をねらって引き金を引き、小さな頭を粉みじんにぶち割ってしま うんだ・・・芸術的じゃないか、そうだろう?ついでだけど、トルコ人は甘いものが大好きだ そうだ。」

274:吾輩は名無しである
21/01/03 14:51:31.16 Vzcceol3.net
俺も2回読んでますが、
2人とも雑誌などで見聞きした話を元にしてますよね
仮に自分でしたなら大問題ですがセーフじゃないでしょうか
1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365で、罪と罰をあげてドストエフスキーのことを現代人の意識を記した先駆けとして紹介していることを思い出しました
話は変わりますがイワンの幻覚について思うのは、
彼が統合失調症ではないかということです
むかし少し知り合った人がある時虚空を凝視して怒鳴っている光景を見たことがあります
彼が精神科を受診していることを周囲に言っていることを伝え聞いていましたが、
見るにいたたまれない光景でした
どうも統合失調症の罹患率は人口の1%らしいですね
そんなにいるとは信じられませんが

275:吾輩は名無しである
21/01/03 14:59:27.56 hb5LzbJ4.net
イワンが大審問官をアリョーシャに聞かせる前に延々と幼児虐待の例を挙げてこの宇宙の存在に刻まれた罪を告発してたのは記憶に残ってるけど
リーザの方はエキセントリックな女の子だとは思ってたけどこんな子だったか と改めて読むとちょっと衝撃的ですね
これがアリョーシャの内々の婚約者ですからね
アリョーシャをからかう為の偽悪の意味合いもあるんだろうけど
それにしてもエッジが効いてる
リーザで思い出すのは文芸評論家の対談かなんかでドストエフスキーの作品で明確なマゾヒズムの表現は少年に指をかなり深くまで噛みつかれたアリョーシャが帰った後リーザが自分の指を窓枠で思いっきり挟むところだって指摘してたけど
こんな子と結婚してアリョーシャは大丈夫なんだろうか

276:吾輩は名無しである
21/01/03 15:23:28.39 Vzcceol3.net
言うまでもないことですがドストエフスキーの急逝により予告されていた物語は書かれることがありませんでした
ですからリーザやアリョーシャの話はこれ以上ないことになります
でもここでふと思うのです俺や他の人の話はこれからも続いていくのだと
ちょっと前にドストエフスキーはカラマーゾフの兄弟という世界を作ったと書きましたが、
それは自分の人生に今でもつながっていると感じるのです
つまりカラマーゾフの兄弟の続きは私やあなたの人生だと思うのです
亀さんが新カラを書きましたが以上をふまえるともっともなことだとも思えてきます読む気はないですが

277:吾輩は名無しである
21/01/03 18:42:17.81 fUKP9lCJ.net
>>274
ある人間が精神病であるかどうかを決めるのは、彼と私との一致の欠如、不一致、衝突である
レインはそう定義しました
テーブルの上にリンゴが置いてある
私にはそのリンゴは青色に見える
多くの人にはリンゴ自体が見えていない
この場合は病気と認定できるのかもしれない
彼が嘘を言っている、もしくは曖昧な言い方をして何かを隠している、そういう理由がなければ妄想とみなします
より多くの人が「そこにリンゴはない」という立場であるならば、「青色のリンゴがある」という人が精神病とされます
で、結局のところリンゴはあったのかなかったのか
「私」には青色のリンゴはテーブルにあるのです
この「私」がなんと言われようと、精神病と認定されようとリンゴは妄想ではなく実在を伴った現実として確かに存在しているのです
「私」には、リンゴがないという人が妄想に陥っている人である、と確かに言えるのです
これがイワンの幻覚、悪魔と言われる正体だとオレは思っています
悪魔
「僕は君の幻覚でこそあるけれど、ちょうど悪夢の中のように、君がこれまで頭に思いうかべたこともないような、独創的なことを話しているだろう。だから、こうなるともう僕は君の考えを蒸し返しているわけじゃない。にもかかわらず、僕は君の悪夢でしかないし、それ以上の何物でもないんだからね」
イワン
「嘘をつけ。お前の目的は、ほかでもない、お前が一個の独立した存在で、俺の夢ではないってことを、俺に信じこませることじゃないか。だから今だってお前はわざと、自分が夢だってことを強調しているんだ」

278:吾輩は名無しである
21/01/03 18:52:27.46 fUKP9lCJ.net
>>275
オレが思うに、だからアリョーシャはリーザに惹かれるんすよ
アリョーシャがリーザに傾くのは蓋然的なことだと思われます
ムイシュキンがナスターシャだったのと同じ理由です
苦しんでいる人、腐敗している人こそ自分を必要としてくれるんすよ
医者は健康な人にはいらない、病人にこそ必要です

279:吾輩は名無しである
21/01/03 18:54:44.48 fUKP9lCJ.net
> 亀さんが新カラを書きましたが以上をふまえるともっともなことだとも思えてきます読む気はないですが
亀山さんいいね、すごく分かる
まあ読みはしないけどね
シュールで爆笑しました
その気持ちは分かるw

280:吾輩は名無しである
21/01/03 19:09:11.28 fUKP9lCJ.net
>>278
>医者は健康な人にはいらない、病人にこそ必要です
これだって聖書からの引用です
ムイシュキンがアリョーシャのひながただし、キリストがムイシュキンのひながたです
リーザが残酷になればなるほどアリョーシャは傾いていくのだとオレは結論づけました
マタイによる福音書 9:10-12
それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。

281:吾輩は名無しである
21/01/03 19:12:07.50 fUKP9lCJ.net
ガチ訂正
○アリョーシャはムイシュキンのひながただし、ムイシュキンはキリストのひながたです
反対にしてしまった、すいません

282:吾輩は名無しである
21/01/03 19:17:00.85 hPJkDZKW.net
2回目を亀さんで読んだとき虚空への怒号を目の当たりにした経験もあり、
イワンを統合失調症だと思ったのですが、
>>277を読むと、そうでしたイワンの幻覚の登場人物はめんどくさいことを言ってくるんでした
それでも俺はイワンは精神病だと思うのですが、
あなたは違うという意見のようですね
イワンもフェラポント神父のように見たいから見えているんでしょうかね?
俺はフェラポント神父は見たいから見えているんだと思っています

283:吾輩は名無しである
21/01/03 19:25:04.13 hPJkDZKW.net
>>281
訂正の必要がないと思うのですが?
ひながたを元という言葉に置き換えても最初の方だと思うのですが

284:吾輩は名無しである
21/01/03 19:32:05.83 hPJkDZKW.net
このスレを立てた人が新しいスレを立てましたね
そちらにも注目はしていますが
まずはこのスレを立ててくれたことに感謝します
今までだけでも学ぶところがありましたから
新しいスレにもそのうちふさわしい書き込みをする人が現れるとまた学べることになると思っています
別にすぐ結果が出る必要はないでしょうし

285:吾輩は名無しである
21/01/03 19:39:34.37 fUKP9lCJ.net
>>282
誤解だらけの言い方で申し訳ないけど、オレは基本的に精神病という概念自体を疑っているんすよ
それならあらゆる神秘が説明できなくなります
という個人的な見解の上で、という「注」を入れるべきでした
イワンは明らかに精神病ですね、同意します
現代だったら、イワンは一時的にか否かはともかく、精神が分裂しているので統合失調症に間違いないと診断されると思います
言いたかったのは、病気としてしまうと、イワンの苦しみ=妄想だから「ない」ものとされれしまうような結論も出せる気がします
特殊な人に起こっている現象だから、みたいな差別化を避けていかないと、遠い国での御伽噺ってことになりかねないような気がしたのでレスしました
妄想の現実化は架空の想像ではなく、実在論的に現実を伴った不一致なんだとオレは理解しています
と、哲学的にしか説明できません、ごめんね

286:吾輩は名無しである
21/01/03 19:40:21.67 fUKP9lCJ.net
>>283
もう頭がこんがらかってきたw
前の方(訂正する前)でいいみたいっす

287:吾輩は名無しである
21/01/03 19:43:58.97 fUKP9lCJ.net
>>284
文学的ってどういうことだと思いますか
オレはいまいち文学的の意味が分からないようです

288:吾輩は名無しである
21/01/03 20:00:59.31 hb5LzbJ4.net
>>280
病人(ぽい人)に惚れちゃうパターンてドストエフスキーの最初の結婚とそれに次ぐ恋人との愛憎劇を考えると
骨がらみの性(さが)ですかね
悪女に惹かれる無垢な青年てパターン? しかしアンナ・グリゴーリエヴナは悪女ではないな
ドストエフスキーは登場人物を精神的拷問に近い状況にわざとおいて作品を書いていった(バフチン)らしいけど

>>281
ひながたって実物模型って意味だから前ので合ってる?
よくわからなくなってきた

289:吾輩は名無しである
21/01/03 20:26:02.74 fUKP9lCJ.net
>>288
>ドストエフスキーは登場人物を精神的拷問に近い状況にわざとおいて作品を書いていった(バフチン)らしいけど
なるほどー、そういう読み方もできるかしれない
思考実験みたいな感じですね
まあ、ドストエフスキーで恋愛譚の対象になるのはかわいそうな人が多いので(アンナを省く)、哀れみは恋に落ちやすいと分析してみるw

290:吾輩は名無しである
21/01/04 09:23:20.66 YgRYXvzO.net
>>289
哀れみの感情を抱いているうちにその人を好きになっちゃうパターンが
ムイシュキン→ナスターシャ
アリョーシャ→リーザ
と繰り返されているってことですか
やっとわかりました確かにありますね
そう考えると
ラスコーリニコフ→ソーニャ
も哀れみ→無関心又は奉仕に対する感謝→愛情という感情の流れの大枠は
哀れみ→恋愛感情というパターンと似てますね

291:吾輩は名無しである
21/01/04 09:30:31.69 YgRYXvzO.net
それはオタク風にまとめると
ドストエフスキーにおける純情男子が地雷系女子を好きになる構造
ということになりますか
スミマセン飲み疲れで脳がバカになっちゃってて

292:吾輩は名無しである
21/01/04 09:40:20.19 YgRYXvzO.net
>>276
亀山郁夫の『新カラマーゾフの兄弟』と同じ疑似続編として
乱歩賞を取った高野史緒の『カラマーゾフの妹』というのもありますよね
どっちも未読ですが

293:吾輩は名無しである
21/01/04 10:37:08.49 QiZFoEUb.net
新カラ兄弟は読んだことない
ぴんから兄弟の「女のみち」なら知っている
ラスコーリニコフに恋するソーニャがモデル

294:吾輩は名無しである
21/01/04 12:59:53.14 YgRYXvzO.net
『演歌の虫』で直木賞を獲った作詞家山口洋子が作詞した「よこはま・たそがれ」(五木ひろしの唯一のオリコン1位獲得作)に
ハンガリーの代表的詩人アディ・エンドレの詩「ひとり海辺で」からのパクリ疑惑事件があったように
当時の先端ポピュラーミュージックの一角を担っていた演歌の作詞家が文学的素養を備えていたのはある意味当然と言えば当然だけど
「女のみち」のモデルが『罪と罰』のソーニャだったとは知りませんでした
面白い話なので出典があれば知りたいです

295:吾輩は名無しである
21/01/04 14:13:50.01 QiZFoEUb.net
当時、レコード大賞を争った「喝采」と「瀬戸の花嫁」より、
「女のみち」の方がレコードの売り上げは上回っていたのに、
あれは売春婦の歌だからという理由で賞レースから外されたという

296:吾輩は名無しである
21/01/04 16:23:53.78 r4cCoaZL.net
面白い記事見つけた。
ドストエフスキー の描いた落書きだって
URLリンク(rewaniwa.com)

297:吾輩は名無しである
21/01/04 16:26:41.94 hG8S6OnL.net
>>295
穿った見方をすれば「喝采」を選ぶため選考委員会があえて外す理由を探したのかもしれませんね
というのはいいとして
煽る気はさらさらないのですが
売春婦の歌なら例えば「肉体の門」が元ネタの可能性も出てきませんか

298:吾輩は名無しである
21/01/04 16:29:33.95 hG8S6OnL.net
>>296
絵心あるね

299:吾輩は名無しである
21/01/04 16:42:36.45 QuTJWgD7.net
>>296
こういうの素顔が分かって面白いと思う
誰を被写体にしていたのかすごーく気になります

300:吾輩は名無しである
21/01/04 17:16:04.22 lgX7K4Wz.net
300

301:吾輩は名無しである
21/01/04 19:47:36.48 QuTJWgD7.net
けっこう続編書いている作家がいるもんですね
亀山さんだけかと思っていた
時間ができたら一度読んでみたいとか思うけど、どうせオレのことだから粗探しが始まるんだろうと思った
こんなのアリョーシャじゃない!とか言って

302:吾輩は名無しである
21/01/04 20:09:06.49 LzBJZyCi.net
レ・ミゼラブルや高慢と偏見の続編を書いた人もいたような

303:吾輩は名無しである
21/01/04 22:12:01.26 hG8S6OnL.net
續明暗もあるね

304:吾輩は名無しである
21/01/05 10:55:29.57 o+rVHX6/.net
>>277
横から失礼します
オレはレインを読んだことはないですが今でいう統合失調症(以前は精神分裂病と呼ばれてましたね)に関心があって木村敏が書いた講談社現代新書「異常の構造」とかの一般書は読んだことがあり
あと精神と物質が別々に存在するってどういうこと?と考え込んだ時期があります
レスを読んでお聞きしたいことが二つあって
正常(健全な状態とされる状態)と異常(精神病とされる状態)について
オレは人間は遺伝子の存続と承継に沿った状態を正常と判断するようにできてると考えてますが
ご自身は正常と異常についてどうお考えですか(スイマセン質問が曖昧で)
もう一つは存在論というか認識論について
イワンが悪魔と対話していた時イワンにとって悪魔は実在していたというお考えのようですが
とすると物が存在するかどうかは認識する人次第ということになりますよね(オレはそっち系で考えてます)
では物が存在するってどういうことだとお考えですか
もっとオレの問題意識に引き寄せて質問させていただけば(一知半解の素人考えですが)
デカルトやカント風に精神と物質は別ものと考えるのか
それとも物自体が実体として存在するかどうかはいったん置いといて
精神に現れる現象を問題にすべきだ(フッサール?)
とか
精神と物質が実体として存在するに先立ってその間の関係が存在する(ソシュール?)
とか
精神物質二元論ではない方向でお考えなのか
それとも別のお考えをお持ちなのか
お時間がありましたらお願いします

305:吾輩は名無しである
21/01/05 20:06:48.93 UjyRTfxz.net
>>304
質問されたのは、人格的な正常と異常についてということっすよね?
どの分野に置いて正常か否かを判断するかで意味合いは変わってくるけど、人格的な場合について言うとすれば、それは他ならずアイデンティティの問題だと思われます
世界の構成は自分と他者です
対自存在と対他存在が一致していないものを異常とオレは定義します
対自存在とは自分の目にうつる自分
対他存在とは他人の目にうつる自分
これは人格に問題がない場合は大体が同じになるんすよ
簡単に言うと、「自分がこういうことをやれば相手はこういう印象を持ってくれるよね」と想像して人は行動するわけです
「一致しないこと」ではなくて「どうやっても一致できない」人は異常と言えます
この二つが一致しないならば、彼は世界と分裂していると言えるからです
他にも色々あるけど、大きなところでは、もう一つは時間的連続性の欠如がある場合も異常だと定義できます
簡単に言えば、過去の自分が自分であることを「どうやっても同じだとは思えない」人は異常です
「私」は自分という存在を時間の中で認識します
過去の自分が現在の自分と同じであり、同じ自分が未来でなにをやろうとも自分であることを疑ったりはしません
それが出来ない場合、彼は自己と分裂しているといえます
ここまでくれば分かると思うだろうけど、イワンがとても例なんです
イワンは、アリョーシャが「犯人じゃない」と言ってくれても信じられません
自分の目にうつる自分と他人のそれが分裂しているからです
イワンは、悪魔が過去の自分であることをいつまでも疑っています
過去の自分が自分だと思えないからです
受け入れられないのではありません、思えないんです
彼は時間的な感覚を失っているからです
イワンは異常であり精神病者である、と結論できます
このへんの定義がオレが思う正常と異常です

306:吾輩は名無しである
21/01/05 20:34:25.63 0uEJaRJo.net
>>305
なるほど
ご回答ありがとうございます

307:吾輩は名無しである
21/01/05 20:51:30.50 UjyRTfxz.net
>>304
>精神物質二元論ではない方向でお考えなのか
>それとも別のお考えをお持ちなのか
オレは基本的に観念論だけど、肉体の存在が「ない」とか世界は「現象」にすぎないとか考えるのは危ういと思っています
人間の本質が魂であるにしろ精神であるにしろ、この「私」は肉体をもった、受肉した存在として現在なお生きていることを分離すべきではないと思っているからです
魂と肉は並行するのかもしれません
そして上下する概念も必要だと個人的には考えています
それをなんと呼ぶか、キリスト教なら霊というのかもしれません
形而上の言葉を並べることになってしまうので割愛しますが、観念論がオレには一番近いのではないかと自覚しています
あなたはなんですか?

308:吾輩は名無しである
21/01/05 21:21:54.02 0uEJaRJo.net
>>307
オレは魂とか霊とかはまだよくわからないんで
ヒョードル・カラマーゾフと同じです
で存在論認識論的にはソシュール的な関係論ですね
精神も物質も実体はなく関係が生じると世界が現象するというイメージです
お聞きしたいのですが
対自・対他の概念て吉本隆明やサルトルが使ってたと思いますが元はどこですか
(ググれって話ですが)
あと観念論というとカントが思い浮かぶんですが
ご自身の考え方に近い思想家なり哲学者はいますか

309:吾輩は名無しである
21/01/05 22:04:50.73 UjyRTfxz.net
>>308
精神分析なんかで使うんすよ
なので今回は心理学的な用語として使いました
元はサルトルの言葉であっているけど、イワンを例にあげられるように「精神的な異常」についてレスしたので、つまり精神病者の判定についてなので、「自分の目から見た自分」の自分と他人という意味で使ったのはレインです
今回はサルトル的な解釈ではなくレイン的な解釈に基づいて対自/対他としました
参照されるならばレインについてググってみてください
プラトンです、ティマイオスを読んでみればオレなんてすべて見透せますよw
短いし、文庫は出てないけど、読みやすいので機会と時間があったら読んでみてください
あとはキルケゴールかな
キルケゴールの宗教的な部分ではなくて、自己を分析している箇所についてはドストエフスキーとかなり近いものがあると思っています
短絡的にいえば破滅型なんすよね
究極に自分について問い詰めると破滅するしかない、みたいな感じが好きなのかもしれません

310:吾輩は名無しである
21/01/05 22:12:10.95 0uEJaRJo.net
>>309
プラトンとキルケゴールですか
シックリきますね

311:吾輩は名無しである
21/01/05 22:29:17.16 UjyRTfxz.net
>>308
一つだけ伝えておきたいことがあります
今誰もが持っている常識とか、もっと言うと、自分自身についての見方もそうだし、目に見えるものの存在を「本当のところはどうなのか」は別にして、なんの疑いもなく存在していると確信していると思います
精神も物質も現象ではなく存在していると確信していると思います
で、本当は何もないことを知るとか、すべては空であり色にすぎないとか、もちろんその類の探求は魂の質を向上させより高いところに流れられるかもしれません
でも、当たり前の確信があるから正常でいられるということを忘れるべきではないと思います
善悪もそうです、誰もが持っている倫理観を興味から手放してしまうと人格が分裂します
伝統的な言葉で言えば「魔境」です
心理学的に言えば自己肥大化です
なのでこういう話を読む時も、誰かと話す時だって、思想は思想、自分は自分だとおもって飲み込まれないようにしてもらいたいと思っています
道具は道具なんです
余計な一言かもしれないので、そうだったらスルーしてください
これはドストエフスキーの言葉では以下です
「善悪、すべての偏見から自由になりうるのだが、その自由を手にいれた瞬間、私は破滅する」悪霊

312:吾輩は名無しである
21/01/05 23:02:30.04 0uEJaRJo.net
>>311
ご心配いただきありがとうございます
思想や観念に呑み込まれないように気を付けます

313:吾輩は名無しである
21/01/06 01:13:02.83 4yhK8cMh.net
>>311
それにしても
関係論が色即是空で野狐禅でやると魔境/自己肥大に陥るとまで見抜くとは
恐るべき慧眼ですね
自分でも善悪のリミッターが外れてたら確実にサイコパスだったと思います

314:吾輩は名無しである
21/01/06 11:25:47.39 4yhK8cMh.net
ちびちびと読み進めてる「貧しき人びと」
折り返しを過ぎてワルワーラの保護者然としてきたジェーヴシキンが保護者然とするために借金を重ねていたことがワルワーラにもばれて
逆にワルワーラから小銭を恵んでもらったり
ワルワーラにちょっかいを出してきた小金持ちの若者の家に飲んだくれて押し掛ける等の醜態を見せ始め
前半のほのぼのした雰囲気が一変
再読ゆえ結末はしってるものの
処女作とはいえ構成もしっかりしてると感心する

315:吾輩は名無しである
21/01/06 23:21:43.55 wOX6Pgza.net
『貧しき人々』
ドストエフスキーの処女作とされる中編小説。1846 年『ペテルブルグ文集』に発表。物語は、ペテルブルグの裏 町に住む 50 歳に近い小官吏ジェーブシキンと薄幸の娘ワ ルワーラとの往復書簡の形で進められる。二つの善良な魂 の間に芽生えた恋は実らずに終わるが、作者はこの不幸な 恋を語りながら貧しく無力な人々の孤独と屈辱を訴え、人 生の意義を追求する。この原稿を読んで感激したグリゴロ ービチとネクラーソフが早朝に作者をたたき起こし、「新 しいゴーゴリの出現」を祝福し、彼をベリンスキーに紹介したことが、24 歳の無名作家を一躍文壇の寵児と押し上げ る契機となった。 【参考出典:江川卓解説、『原久一郎訳『貧しき人々』(岩 波文庫)▽木村浩訳『貧しき人びと』(新潮文庫)

316:吾輩は名無しである
21/01/07 00:16:29.33 gwZTyYeZ.net
江川卓大先生に楯突くつもりは毛頭ないけど
あれは恋なのかなぁ
ジェーヴシキンは表向きかわいい娘と疑似家族的関係ができてウキウキで実は秘めた恋心があっただろうけど
ワルワーラは全然でしょ
母親を亡くし天涯孤独の身となり
世話になってた遠縁のおばさんに望まぬ縁組を押し付けられそうになって困窮してたところを助けてくれた
ジェーヴシキンを恩人友人として親しく思いこそすれ
恋? それはないと思うがどうでしょう

317:吾輩は名無しである
21/01/07 01:40:06.56 AeokSSz3.net
解説に限っては恋愛譚なんでしょうね
ただし、ワルワーラの思いを恋心と認めない人はおそらく誠実な人でもあるとさえ思います
個人的に面白いのは、書簡のやりとりで恋心を抱くということ
真っ先に思い浮かぶのは、現代でもゲームやメールからいつのまにか「会っていないのに」恋におちる人々がいるということ
ワルワーラの思いを恋心と言えるのかどうかは怪しいのかもしれないけれど、もし恋心は身勝手な相手へのイメージの執着と仮定するのならば、ワルワーラもそれと同じであるとさえ言えるのかもしれない
貧しい少女は素直で穢れなき存在と盲信する中年も、それを、いつかこの貧窮から救い出してくれる王子様と思い込む少女も理想が恋心に変わっていたのかもしれない
捻くれた解釈で恋心なんていうものを説明すれば、という話ですけどね

318:吾輩は名無しである
21/01/07 10:34:31.96 gwZTyYeZ.net
「貧しき人びと」は書簡体小説ですが
二人の手紙の中にはワルワーラの手記やジェーヴシキンの知り合いの三流作家ラタジャーエフの小説(作家によるセルフ引用)
更にはプーシキン全集やゴーゴリの外套など様々なテクストが顔を出します
バフチンのいうパロディの手法なのでしょうが
似たようなテクストごちゃまぜ小説(と言ったら怒られそう)として思い出したのが
ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」とスティーブン・キングのデビュー作「キャリー」
あと小説ではないけれど放送時アメリカにパニックを巻き起こしたと言われるオーソン・ウェルズによるラジオ放送「宇宙戦争」
で思ったのがこのパッチワーク的手法って雑誌や新聞の編集と似てるのかなと
という事は雑誌等の出版文化が花開いた19世紀(かどうか知らんけど)的小説作法なのかなと思ったりした
それはそれとして
そのワルワーラの手記の中に薄幸の青年ポクロフスキーとの淡い恋の思い出がでてきますよね
その時のワルワーラの感情とジェーヴシキンに対する感情はちょっと違うものなのかなぁと今は思ってます
余談ですが病で亡くなったポクロフスキー青年の葬式の場面
言葉は悪いけどベタでメロドラマ的(と言ったらまた怒られるか)な場面ですが
息子を亡くした父親の悲しみが切々と胸に迫ってきて上手いなあと感心する

319:吾輩は名無しである
21/01/07 15:06:51.42 dudxWywj.net
パッチワークと言えばあれだ
夢野久作の「ドグラマグラ」もそうだ
オレの片寄った読書歴から思い浮かぶのはエンタメばかり
海外では純文学と大衆文学という区分けはないらしいが
芸術系とエンタメぐらいの区分けはあるのかしら

320:吾輩は名無しである
21/01/09 01:10:57.82 ty5roM2J.net
純文学っていう区切りは日本特有の分野みたいですね
エンタメかそれ以外、という認識みたいです
あとは作者が死んでるか生きてるかの違いもあるみたいです
ちなみにオレが海外で本棚で見かけた人第一位は村上春樹だったけど、エンターテイメントのジャンルで売られていました

321:吾輩は名無しである
21/01/09 01:35:30.47 ty5roM2J.net
>>318
貧しい人々って、プーシキンやゴーゴリのテクスト出てきてました?
そうだったのか、やはりロシア作品はつながりまくりですね

322:吾輩は名無しである
21/01/09 03:22:08.80 TWXA3Wsa.net
>>321
文章の引用はされてませんが
作中の三流作家が三流たる所以をプーシキンと対比して表現したり
下っ端官吏のジェーヴシキンがゴーゴリの「外套」をのぞき見趣味だ的に憤慨したり
ドストエフスキーは敬意をもって二人の名前を作品の重要なモチーフに使ってますね

323:吾輩は名無しである
21/01/09 12:33:27.59 NNLa5AAk.net
なるほど、やっぱり外套はいつか読まなきゃと思う
ドストエフスキーを読んでいるとプーシキンとゴーゴリあたりの名前をよく聞く
よく思うのは、オレらからすれば古典であり純文学でもあるけど、当時の人からすれば大衆文学だったし、雑誌に搭載されている1コマに過ぎなかったんだと思うとなんか不思議な気持ちになります

324:吾輩は名無しである
21/01/09 14:18:09.51 PofjrqsQ.net
外套なんて短いからさっさと読めばいいのに。あの小説は味があって好きだ

325:吾輩は名無しである
21/01/09 15:12:53.79 TWXA3Wsa.net
忙しいとちょっとした短編でもなかなかね
ググったら青空文庫にもあった「外套 ニコライ・ゴーゴリ 平井肇訳」
青空文庫の横書きで小説を読みたいとは思わんけど

326:吾輩は名無しである
21/01/09 18:10:25.33 NNLa5AAk.net
外套は短編なんですね
ほんとだ、岩波で外套と鼻になっている

327:吾輩は名無しである
21/01/09 20:50:13.90 Rz7z1vPO.net
ついでに、ゴーゴリスレも覗けばいいよ

328:吾輩は名無しである
21/01/09 22:10:35.51 NNLa5AAk.net
>>325
まだはじめたばかりの読んでる本があるのと、物語って新しく読み始めるのに、よし読むぞ!みたいな気持ちが必要じゃないすか
登場人物も新しく覚えていかなきゃいけないし、世界観も作者によって変わってくるし
もちろんこういう気持ちは初めて読む本に限ってのことで、再読にはわきおこらないですけど
それにしてもカラマーゾフなんていう長編を、オレは初めて目にした時によく読む気になったと思う
みんなそういう感じを持っているんだと思っています

329:吾輩は名無しである
21/01/10 00:24:53.43 Pb3Iblye.net
わかります
話はズレますけど
オレなんかドストエフスキーの小説を読んでる途中でさえなんていうかお腹一杯になっちゃって
食休みに半月とかあけてよし読むぞ!みたいな気持ちになってからまた読み始めることの繰り返しです
ホントは読みだしたら止まらなくなって徹夜で読んじゃいましたみたいでありたかったけど

330:吾輩は名無しである
21/01/10 22:01:08.98 WuvCr2sP.net
>>329
文字による物語はイメージが必要だからなのかもしれないし、想像することが満たされるとお腹いっぱいになるのかもしれないっすね
漫画やアニメなんかだとすでに映像化されていて、イメージは代行されているから徹夜気味になったりする
そう考えると、ドストエフスキーも漫画化されているのをちらほらみるけど、漫画で読んでみるのもあるなのかもしれない、なんて思ったりしました
そういう意味で言うと、オレは本でも物語じゃなくてなんかの解説とか評論文なんかは疲れないんすよね
多分、イメージ化する想像力を必要としていないからだと思っています

331:吾輩は名無しである
21/01/10 23:50:59.15 WuvCr2sP.net
話は変わるけど面白いサイトを見つけた
テクスト論と作品論について
URLリンク(liberal-arts-guide.com)
テクスト論は多様な解釈で読み手側に委ねられていると考えるようです
作者自身も意識していないことを読み取っていこうとする解釈論
作品論は、作者=作品を前提としている
作品を書いた作者が正しい解釈を持っているはずだから作者に委ねられていると考える解釈論
読む限り、バルトが考え出したような感じだけどオレは彼について縁がなかったのでよくは分かりませんが、スレが分裂した(このスレとのこと、前スレは違う)理由もこんなところなんだと思いました
個人的にはテクスト論を支持するのかもしれない
なぜなら理由は単純で、オレは無意識の部分をかなり重要視しているから
作者ですら気が付かずに書いてしまったものが作品にはあると思う、それが作者の無意識的創作だと思うからです

332:吾輩は名無しである
21/01/10 23:55:43.80 UyJF/lrN.net
今誰か漫画やアニメと言いましたね?
書きづらかったけど書きたいことを書きます(強引)
先日アマゾンプライムでどろろ(2019年版アニメ)を観て登場人物のどろろと百鬼丸のことが大好きになってしまいました
ちょうど映画天気の子もテレビで観て、どろろと天気の子ってテーマが一緒じゃーん!と感心してしまいました
天気の子は1、2年前に映画の歴代興行収入13位を記録したので、最近多くの人が支持したものと言えましょう
またドストエフスキーと関係ないことを。とお怒りになる方がいるかもしれません
ですが俺はこの2つの作品に共通するテーマに対し、それぞれの主人公たちがとった行動をみなさんにも観てもらいたいのです
これはキリスト教に重きを置きながら日本という東洋で生きる人間にとってぜひふまえる必要があることだと強く思うからです
どろろはトータルで8時間ほどになってしまいますが、ぜひ最後まで観ていただきたい
手塚治虫の原作1巻を今日借りてちょっと見たのですが、原作とは違うところがけっこうある印象です
天気の子は実はそれほど好みではないのですが、このテーマを多くの人に受け入れられるように作り上げたことに頭が下がります
これらの作品を観てみなさんはきっと、こんな話は前から知っていたと思うことだろうと思いながら、それでもこうして書かずにはいられないのです

333:吾輩は名無しである
21/01/11 01:33:13.37 xfjmfPM9.net
天気の子、元旦辺りにやってましたよね
見忘れた…

334:吾輩は名無しである
21/01/11 02:06:37.19 Q67mH/Q+.net
>>331
「ある作品が「永遠」なのは、さまざまな人に唯一の意味を強いるからではなく、ひとりの人間にさまざまな意味を示すからである。」
なんなんこの人 天才? あ これがロラン・バルトか

335:吾輩は名無しである
21/01/14 01:38:20.41 amNO+BNe.net
>>334
視点をどこに置くかで物事や事柄さえも変わりますね
あらゆる解釈の客体は主体に含まれている、と考えるのは正しいのかもしれない
認識論や独我論は人間存在について語ることが基本だけど、読書そのものの性質が主体にせざるを得ない気がする
書く人間の目的は読んでもらうことであるし、読まれる意図を持たないならば日記と変わらない
もうそこで作者も作品も誰かの客体を演じることを目的としているような気がする
だから主体は読者である、と言い切ってしまってもいいとさえも思います
> 「ある作品が「永遠」なのは、さまざまな人に唯一の意味を強いるからではなく、ひとりの人間にさまざまな意味を示すからである。」

336:吾輩は名無しである
21/01/14 10:04:13.03 HLEsk6p3.net
>>335
名前だけは知ってたロラン・バルト
それこそ文学的と言うか詩的な表現で通念を180度転換する物事の本質を突いた視点をサラッと書いて見せる洗練された知性に舌を巻きました
俗っぽいオレのイメージするフランスの知識人そのままを地でいく知の巨人という感じ(オレの表現がダサい)
『作者の死』から読書は始まるってことですかね
今まで敬遠してたけど著作に手を出してみようかな

337:吾輩は名無しである
21/01/16 00:17:27.43 IUlIKG9v.net
このスレ(?)で話題に挙がってたので図書館から中央公論社のお手軽世界の名著「オウエン サン・シモン フーリエ」「ショーペンハウアー」を借りてざっと読んでみた
このスレで誰かが言ってた通りフーリエは天才 というか狂人? いややっぱり天才? かわからんけど
空想的社会主義者とマルクスに煽られた3人だがその信者がアメリカでその思想を実践すべく武者小路実篤の新しき村的な実験を行ってたことを知った
「悪霊」でシャートフとキリーロフがアメリカに行ってどっかでゴロゴロしてたってエピソードがあるけどそれってこれのことかなと思った
フーリエの「新しき村」に参加してゴロゴロしてロシアに帰ってきたってこと?
フーリエはオウエンのことをボロクソに書きショーペンハウアーはヘーゲルのことを蛇蝎のごとく忌み嫌ってて
二人とも思想廃人的な晩年を送ったところも似てて(ショーペンハウエルは最晩年大逆転の大人気文筆家になるが)面白かった
フーリエはドストエフスキー(ただし青年時代限定)一方ショーペンハウアーはニーチェという弟子(?)を持ったという事でもって瞑すべし という感じかな

338:吾輩は名無しである
21/01/16 01:55:54.73 T4heprOZ.net
>>337
読んだんですか、ちなみにオレは愛の新世界と四運動の理論を読んだけどほとんど理解できませんでした
デカルトの情念論を延長させて天体の運動と関連付けれたら立派なフーリエが出来上がる、みたいな感じでした
アソシアシオンで人間は生きていくべきとしました
ようは協同体ですね
ちなみに意外ですが、幼稚園なんかはアソシアシオンの「ファランジュ」です
アソシアシオンとは非営利の福祉団体のことで、今で言うボランティアの延長ですね
フーリエが目指すユートピアでは、その団体にキリスト教社会主義を足した世界観なんだと思われます
ドストエフスキーはフーリエ主義を研究するサークルであの有名な逮捕に繋がります
協同体はある意味で独自のルールを設けるので、政府から見れば異分子なんすよね
ショーペンハウエルは「生きる意志を否定せよ」です
ニーチェは「生きる意志を肯定せよ」です
ニーチェはショーペンハウエルの「意志」については影響を受けていますが、演繹された答え、最後に行き着く結論は背反対になったようです
ちなみにオレのオススメは「自殺について」です

339:吾輩は名無しである
21/01/16 02:17:21.59 IUlIKG9v.net
>>338
読んだは盛り過ぎました
正直に言うとページをめくりながら印字を眺めたってところです
デカブリストの乱を経験してるロシア官憲からしたらフーリエ主義は超危険分子でしょうね

340:吾輩は名無しである
21/01/16 02:30:21.66 T4heprOZ.net
きっとそうですね
奇人狂人の本なんでしっかり読もうとするならかなりの覚悟が必要だと思われますw

341:吾輩は名無しである
21/01/16 03:25:53.35 IUlIKG9v.net
ロシアのロマノフ王朝は最終的にフーリエ主義等の後継のマルクス主義信者によって命脈を絶たれるわけですから
ドストエフスキーが生きたロシアの19世紀が激動の時代であることは間違いないですね

342:吾輩は名無しである
21/01/16 15:13:20.27 IUlIKG9v.net
ついでにゴーゴリの外套を再読してみようと光文社古典新訳文庫版ゴーゴリ「鼻/外套/査察官」浦雅春訳も図書館から借りてきた
冒頭部分を無断引用すると
「えー、あるお役所での話でございます……。まあ、ここんところはそれがどこのお役所であるかは申し上げない方がよろしいでしょうな。なにしろ、省庁にしろ、連隊にしろ、官庁にしろ、ひとことで申しまして、お役人ってえ人ほどこの世で気のみじかい人はございませんから。」
この調子で延々と終わりまで続くんだが正直最初のページで読む気が失せた
ゴーゴリのおもしろさを広く現在の読者に伝えようと編集部と翻訳者が決めたんでしょうな
落語の文体で訳せばみんなおもしろがるに違いないと
初代三遊亭圓朝の落語口演筆記を参考にして二葉亭四迷が『浮雲』を書いたと言われ明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼしたということは聞いたことがあるし
オレ自身も5代目古今亭志ん生が好きでCDを何枚か持ってるけど
この翻訳は少なくともオレには合わなかった
今の時代の若者はあまり本は読まないけどお笑い好き→お笑い?なら落語で って発想はどうなんでしょ
昔志ん生の落語をそのまま本にしたのを読んだことがあるけどイマイチだった覚えがある
落語は噺家が話すのを聞くのが面白いのであって素人が落語を読んでも噺家の話術レベルで読むことは難しいってことなのかもしれない
しかも江戸落語文体
上方こそがお笑いの本場とおそらく思ってるであろう上方の読者に受け入れられるんだろうか
「落語言うたら上方落語や辛気臭い江戸落語ことばで書いた本なんか読んでられるか」と一蹴されるのではないか
青空文庫からコピペ(岩波文庫版「外套・鼻 」平井肇訳と同一)
「ある省のある局に……しかし何局とはっきり言わないほうがいいだろう。おしなべて官房とか連隊とか事務局とか、一口にいえば、あらゆる役人階級ほど怒りっぽいものはないからである。」
岩波文庫を借りてくればよかった

343:吾輩は名無しである
21/01/16 15:41:53.62 P6ySqfkh.net
ゴーゴリスレに書いて欲しい…なぜドストに書くのか

344:吾輩は名無しである
21/01/16 17:13:08.71 IUlIKG9v.net
>>343
赦してつかーさいよ
ウィキによると
「ドストエフスキーは、「我々は皆ゴーゴリの『外套』から生まれ出でたのだ」と語ったと言われる。」
がそれは誤りで
「ドストエフスキーの全著作および書簡に、この言葉は存在しない(『作家の日記』に書いたとする松岡正剛の記述は誤り)。
この言葉(Nous sommes tous sortis du Manteau de Gogol)の初出は、フランスの外交官で文人のウージェーヌ=メルシオール・ド・ヴォギュエ(Eugène Melchior de Vogüé, 1848-1910)がその著作『ロシア小説』(Le Roman russe, 1886年刊)のドストエフスキーを論じた章で、
「四十年来文学の歴史に深く関わってきた一人物」の口に託した言葉であり、それがあたかもドストエフスキーその人の発言であるかのように誤って広まったとされている(青山太郎著『ニコライ・ゴーゴリ』(河出書房新社、1986年9月)、411ページ)。」
とのことです
ちなみに(前にも書きましたが)オレがいまだに読み終わらない「貧しき人びと」で言えば
ゴーゴリの「外套」が作品の重要なモチーフとして使われていますよね

345:吾輩は名無しである
21/01/16 17:14:28.19 IUlIKG9v.net
(続き)
ところでこの作品のエピグラフ
「いやはや、世間の小説家たちときたら、困ったものだ!
……ただもう地下の秘密を洗いざらいほじくり出すばかりではないか……
いや、なんとしても、あの連中がものを書くのを禁じるべきだ……
                    V・F・オドエフスキー公爵」
オレは昔からなんでドストエフスキーは処女作であるこの書簡体小説のエピグラフにこれを置いたのかわかりませんでした
今回
下っ端官吏のジェーヴシキンがゴーゴリの「外套」を読んでのぞき見趣味だ的に憤慨する場面を読んで
ああこれかと
つまり
バルザックが大成させた写実主義小説は貧富にかかわらず市井の人々の生活・心情の実際を掘り下げて活写する面白さが身上だと思います
下っ端官吏の悲劇(?)をペーソスとユーモアを持って書いた「外套」を読んだジェーヴシキンは
オレの惨めな人生を世間にバラしやがって##
と憤慨するわけです
この作品を書く前にドストエフスキーはバルザックの「ウジェニー・グランデ」を翻訳しています
文体修業ですかね
ドストエフスキーは自らも写実主義で小説を書くにあたって
人々の人生をリアルに切り取って物語にする写実主義小説というものが
一面から見れば暴露趣味露悪趣味のケシカランものだ
しかしそこが面白い
という思いをこのエピグラフで表現したのかなと思いました
それにしても処女作の冒頭に小説家がモノを書くのを禁止しろって文章を置くあたり
やはりタダ者ではない?

346:吾輩は名無しである
21/01/16 20:59:13.20 T4heprOZ.net
>>342
なるほど
岩波の方が良さそうですね
これから読もうと思っているオレにはタイムリーなレスに感謝します

347:吾輩は名無しである
21/01/16 21:11:26.69 IUlIKG9v.net
>>346
是非感想を教えてください
ゴーゴリスレにも 是非

348:吾輩は名無しである
21/01/17 03:59:15.28 UcybN1Ol.net
ナボコフはドストエフスキーは芸術未満下手くそで仰々しいだけの三流作家と
こき下ろしてますが、もちろん悪霊扱いされた西洋化したロシア人そのもの、ユダヤ人の妻を
持つナボコフからしたらあらゆる意味で否定しなければいけない存在だと思いますが
今、日本人がドストエフスキーを読む価値ってどういうところにあると思いますか?

349:吾輩は名無しである
21/01/17 08:20:05.13 Vaf0HwN7.net
光文社の外套はあれはあれで好きだけどね
外套も鼻も真面目に読むというよりあれくらいバカバカしい態度で読んだほうが楽しいのでないかい

350:吾輩は名無しである
21/01/17 11:27:16.04 fLG0w89q.net
>>348
完全に芸術音痴のオレがお返しするのも烏滸がましいのですが私見として
個人的には時間に余裕のあった学生時代にはいろいろな作家の作品に手を出す余裕がありましたが
だんだんと暇も興味もなくなり今となっては娯楽趣味として単におもしろいから読んでるだけなので
今、日本人がドストエフスキーを読む価値とは何かという問いは難しいですね
ここからは脱線しますが最近思ったことを書きます
ユングによると個々の人間は思考・感情・感覚・直観タイプに分かれ
それぞれ生まれつき得手不得手の分野がありしかもそれぞれ外向的内向的に分かれるらしいんですが
例えばたまの休みにチェスの修行に海外へ行く棋士の羽生さんは(たぶん)思考タイプ
死の床の枕辺に夏目漱石の草枕の翻訳本が置いてあったというピアニストのグレン・グールドは感覚タイプじゃないかと
芸術(美)を好み素で楽しみ批評できるのが感覚タイプの人なのかなと思います
オレはむかし俗流心理テストでどのタイプかやってみたところ感情タイプと直観タイプに同点で当てはまるということでした
つまりものを考えることと感覚的に世界を感受し美しいものを美しいと感じる能力に乏しいと判定されたということで非常に憤慨した覚えがあります
でも当たってるなと
いまだにそのまんま生きているオレにとってドストエフスキーの芸術的価値を語るのは荷が重いですスイマセン

351:吾輩は名無しである
21/01/17 11:30:11.04 fLG0w89q.net
>>349
同意です
でも関西人の方にはどうなんでしょうと今でも思います

352:吾輩は名無しである
21/01/17 12:19:06.19 Vaf0HwN7.net
>>351
ゴーゴリ作品の語り口が上方言葉であろうが江戸弁であろうが、ほとんどの読者はそんなこと気にもしないと思うけど、どうですか

353:吾輩は名無しである
21/01/17 13:03:02.59 fLG0w89q.net
>>352
確かに
同意します

354:吾輩は名無しである
21/01/17 13:32:19.06 HQu7Fc6M.net
>>348
価値自体が個人的な側面を持つので、すべての人に値する実りを求めることは難しいように思われます
まずは社会的な基準という意味で価値を求めれば教養です
世界的な文豪の内容を知ることは知識の獲得であり、特に知識を重んじる文明国において教養がある人間とは、社会的な人間の評価につながります
もう一つは私的な意味での価値
私が持つ形式の中でどれだけ根拠を求められるかどうかによっているような価値基準です
質問は、日本人が、ということなので、教養としての価値くらいしかないんじゃないでしょうか

355:吾輩は名無しである
21/01/17 14:08:40.44 UcybN1Ol.net
>>350
いえいえとんでもないです。
ただキリスト教圏の読者と日本人では明らかに享受のされ方が違うと思うのですが
ドストエフスキーをきっかけに作者の思索する魂の問題に同化するために東洋の島国の人間が
聖書を読みだしたりする例も多々あるじゃないですか、そういう魔術的というか一種の洗脳下というかそういうところでまともな批評は成立しないし、それはもちろん聖書も教養としてはいいと思いますけれど、文学者は教祖でも聖人でもないのでそうではなく文学(虚構の作り話)としての面白さを今みなさんどう受け取られているのか興味があります。

356:吾輩は名無しである
21/01/17 14:41:52.71 Aubj8Gpo.net
とても簡略化してしまうと、ドストは知性より心を大事にせよと
言いたいがために物語を構築している
心を重視する日本人に人気があるのは当然だ

357:吾輩は名無しである
21/01/17 15:24:35.00 hMjSogNM.net
>>355
たまたまスマホのオススメ記事に
「佐藤優氏が解説、生誕200年ドストエフスキーの今読むべき2作品と読み方」というのがあったので知ったかぶりして貼ろうとしたら2ページめから有料でした(泣)
怪人佐藤優は「未成年」の愛読者としても有名ですが未成年とカラマーゾフをあげてるようです
ただタダで読める最初のページに
彼が外交官として赴任していた末期ソ連で
カラマーゾフの大審問官が予言書のようによく読まれてたというエピソードがあり
記憶にないのですが聖書の黙示録から苦よもぎ(国家崩壊の前兆?)の話が大審問官に引用してあって重ね合わせて読まれてたようです
ロシア語で苦よもぎのことをチェルノブイリと言うんだそうです
このスレでもどなたかが苦よもぎの話を書かれてますが
ドストエフスキーをより深く理解しようとした時どうしても聖書の知識は避けて通れないようですね
かく言うオレもロレンスの黙示録論は読みましたが黙示録だけでなく福音書も使徒行伝も手紙もましてや旧約もパラパラめくったことがある程度ですけど

358:吾輩は名無しである
21/01/17 17:26:32.55 hMjSogNM.net
でも考えてみると作品を享受する価値が問われる作家というのも珍しいかも知れませんね
例えばキューブリックが監督しナボコフ自身が原作を脚色した映画「ロリータ」は名画らしいですが(読んでもないし観てもないオレが語るなって話になりますけど
でも時計仕掛けのオレンジと博士の異常な愛情は好きです)
今、日本人がキューブリックを観る価値はあるのかとかナボコフを読む価値はあるのかとかは考えたり話したりする機会は余りないかなと

359:吾輩は名無しである
21/01/17 21:34:47.65 UcybN1Ol.net
>>356
小説には作者の主張が書かれているという考えは根本的に間違っていると思います。
比較検証できない以上日本人が地球上の他地域の住人よりも心を重視しているとは言えない。
そもそもドストエフスキーが扱っているのは心というよりもっと具体的な自意識では?
>>357
予言書のように小説を読むって危険ですね。。それって権威の信奉ですよ、いかにもロシアな話ですね。

360:吾輩は名無しである
21/01/17 23:00:41.89 Aubj8Gpo.net
>>359
お前の考えが間違いだ

361:吾輩は名無しである
21/01/17 23:53:43.73 fLG0w89q.net
>>359
ハインラインのSF小説「異星の客」は1960年代アメリカのヒッピーたちに経典とあがめられ
チャールズ・マンソンが自らの聖典として愛読していたという噂(ウィキによるとデマらしい)があるくらいですから
予言書のように小説を読むって危険というのはあるかもしれないですね
でも権威の信奉すなわち悪いことという評価はどうなんでしょう
確かに無批判に権威を信奉し他者を巻き込んで不幸にするとしたらそれは完全に悪でしょうけど
そうでないなら権威を信奉するもしないも個人の自由ではないでしょうか
いかにもロシアというのもちょっと決めつけすぎてるかなーと

362:吾輩は名無しである
21/01/18 00:03:53.30 vS3fYyXo.net
聖書の言葉は象徴の解釈の歴史でもあるのかもしれません
言葉通りに理解するか、象徴として解釈するかはその時々によるため分かりません
黙示録だと、「第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。」になります
この通り受け取るならば、物質的に何かかが落ちてくると解釈できますが、象徴として解釈するならば、ニガヨモギとはある種の苦難や不正、不道徳、偶像的廃教を指します
ニガヨモギという単語は旧約からあるようです
旧約において、ニガヨモギとは神からの解離を意味していると理解できます
申命記 29 17-18
またあなたがたは木や石や銀や金で造った憎むべき物と偶像とが、彼らのうちにあるのを見た。
それゆえ、あなたがたのうちに、きょう、その心にわれわれの神、主を離れてそれらの国民の神々に行って仕える男や女、氏族や部族があってはならない。またあなたがたのうちに、毒草や、「にがよもぎ」を生ずる根があってはならない。
ドストエフスキーもそうだけど、終末論における予兆(その時、もしくはその前の期間)はとても苦い苦難の訪れがあると多くの聖句に書かれています
産みの苦しみと呼ばれる苦難はキリストの再臨の条件になるため、再臨を望む人たちにははずせない患難なのかもしれません
正教会、とくにドストエフスキーでよく取り上げれた分離派の人々は「苦しみ」を重く見ていたように思います
個人的に虐げられた人々が好きだけど、心に引っかかって無意識的に染みつくような言葉があります
老人は言う、苦しみは違う苦しみで贖うしか方法はない、と

363:吾輩は名無しである
21/01/18 00:45:24.53 uwB3qwRm.net
>>362
老人は言う、苦しみは違う苦しみで贖うしか方法はないってなんなんですかこの絶望的なフレーズ
虐げられた人々は未読ですが(犬が出てきて老人が死ぬ出だしまでは読んだことがある)
このフレーズが出てくるんでしょうか(自分で読めで終わる話ですいません)

364:吾輩は名無しである
21/01/18 01:13:05.34 vS3fYyXo.net
>>363
反証可能性がないことなんてあり得ないから、個人的に断言することはしない主義なんだけど、そんなオレでも「虐げられた人々」はあらゆるドストエフスキーの中でもオススメです
時間が許すならばぜひ読んでみてください
この本のテーマは「あわれみ」だと思っています
アゾルカという犬が死んでスミス老人が死んで物語は始まりますね
ちなみに今、再読中です
どこの何ページだったかをメモっとかなかったので分かりませんが、このセリフに行き着いたらレスしておきます
まだ先になるだろうけどね

365:吾輩は名無しである
21/01/18 06:19:25.82 uwB3qwRm.net
>>355
レスの流れを読んできて思うのが
人間がナニを面白いと思うかというと
コレは真実を突いてるな!ってことをオモシロイと思うんじゃないかと
昨今のテレビ離れツイッターユーチューブ等SNS全盛の時代の趨勢を見ても
手の込んだ作り事より単純でも人間の生の姿に人はより興味を持つのかと
ドストエフスキーの小説がいまだに日本で読まれ続けているのは
作品は手の込んだ作り事なのでしょうが人間の生の姿を表現することに(少なくともある程度は)成功しているからなのかなと思いました

366:吾輩は名無しである
21/01/18 08:36:43.11 hc9YIewu.net
>>361
いや読んでるロシア人のことではなく、佐藤優の物言いがロシアくさいなーと
『ソビエト崩壊末期、人々はドストエフスキーを予言書のようにこぞって読んだ』
(引用元がないので実際の発言は知りませんが)
こんな抹香臭くて大仰な物言いをする日本人はちょっとないなと、あ、この人正教の信者でしたっけ?

367:吾輩は名無しである
21/01/18 10:47:30.24 uwB3qwRm.net
>>366
昨日はスマホで書いたんで貼れなかったですけど
引用元を貼っときますんでご自身でお読みになってご判断ください
URLリンク(diamond.jp)

368:吾輩は名無しである
21/01/18 15:22:44.71 oPma2BKS.net
日本ドストエフスキー協会のホームページに良い記事があったので少し長いですが引用させて頂きます。
ロシアの研究者の方のようです。
目的としてのドストエフスキー-------- リュドミラ・サラスキナ

 「ドストエフスキーはもうすみずみまで研究されつくしているのではありませんか」―私は何とも答えに窮する質問をこれまで幾度となくされたものである。そんな場合、私はいつもこう答えることにしていた。ドストエフスキーの本当の理解はたった今始まったばかりです、なぜなら、ロシア古典作家の偉大な作品の真の読解をかつて妨げていた様々な足枷がようやく解けたのですから。
 だが、どの時代にもその時代なりの足枷が存在する。思想的には無内容、倫理的には無節操、美学的には雑食性といった現今の風潮を目の当たりにするにつけ、そんな答えでは精神的には不誠実だし、言葉の上では不正確なことになりかねないと言われれば、確かにその通りだと納得せざるをえない。新しい状況になっても、さしあたりはある記号が別の記号に入れ替わっただけで、ドストエフスキーの測り知れない精神的自由と底知れない深淵性を、状況は相変わらず扱いかねている。ドストエフスキーをめぐる論争が、ものごとの些事ではなく、本質それ自体に関わることはいつの時代でも変わらない。

369:吾輩は名無しである
21/01/18 15:23:44.46 oPma2BKS.net
人々はいつもドストエフスキーの中に真実=正義の可能性を探し求めてきた。「ネクラーソフを超え、プーシキンを超え、民衆を超え、ロシアを超え、森羅万象を超える」あの真実=正義である。だが、それと同時に人々は効用の可能性も探し求めてきた―それはまるで、具体的な課題の数々、政治的、国家的あるいは宗教的な課題の遂行にドストエフスキーをあたらせ、その任務に差し向けることができるといわんばかりであった。ソヴィエトの政治宣伝が推奨したのは、資本主義体制に対する有能な論敵、公式的宗教とロシア貴族に戦いを挑む闘士、自由主義および小市民(プチブルジョワ)的なユートピア社会主義への批判者としてドストエフスキーを遇することであった。ドストエフスキーを知ることは有益でもあり、不可欠なことでもあると考えられたが、それは民衆にとってではなく、イデオロギー戦線で階級の敵との闘争に従事するインテリゲンツィア層にとってであった。ドストエフスキーが自ら引き受けることになろうとはよもや思いもよらなかったようなくさぐさが、彼のはたすべき任務と見なされたのである。
 今や彼に期待されているのは、教導者、指揮者、精神的指導者としての役割である。ドストエフスキーならば、読者の手を引いて、どこかの終着点に先導して行ってくれるだろう、というわけだ。それというのも、その終着点はどうやらドストエフスキーの読者が目指すべき真の目的地のように考えられているからである。作家は予定のルートを律義に踏破した後で、終着点に向かって出発せんとする新たな一団を先導するために、ふたたび出発点に戻ってもかまわない。なぜならば、一度、終着点にたどり着いた人々は、もう決して彼を必要としないからである。


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