ドストエフスキーPart52at BOOK
ドストエフスキーPart52 - 暇つぶし2ch92:吾輩は名無しである
20/11/25 02:08:09.50 zJ7Me1rJ.net
予定説の問題があります
予め定められた自由は必然的と同じ意味を持つ
ドストエフスキーは生涯に渡って苦しんだ存在がいると言うが、それは他ならず神のことである
「もし神がいないとすれば、その時は僕が神なのだ。」
「もし神があれば、神の意志がすべてだ。したがって、僕も神の意志から一歩も出られないわけだ。ところが、神がないとすれば、もう僕の意志がすべてだ。ところが、神がないとすれば、もう僕の意志がすべてだ、したがって、僕は我意を主張する義務があるわけだ。」
神が定めた大きな流れを変えることはできない
預言は成就するし終末の杯を飲まないわけにはいかないだろう
ただし二重に偶有性は与えられているのかもしれない
神は神を愛し契約を守るものを祝福するが、一方で神を愛さず神から離れれば神はのろうだろう
ドストエフスキーにはいくつかの顔があった
彼は神のいない世界がどう言うものかも知っていた
それは「神の法則」からのがれた自由の世界
この世界では自由は必然性を持たず。自己の中ですべてが完了する世界
彼は立つ、ただ一人でこの世界に立つことができる
でもドストエフスキーはこうも言う
たとえ数学的に正しいといえるような何かが見つかろうとも、自分はキリスト教に留まる、と
これは意志の問題の範疇を越えている
予定説の問題なのかもしれない
予め神によって選ばれた人間はただそれを選ぶ(ように決められている)
選ばれない人間はただそれを選ばない(ことに決められている)
この予定説的な大きな流れの中で、個々の自由な意志、偶有性がどこまで「許されているか」がカラマーゾフの兄弟では描かれています
親鸞について彼がどういう思想を持っていたのかは知りませんが、ドストエフスキーと親鸞は類似性があるとよく話されているみたいですね


次ページ
続きを表示
1を表示
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch