17/01/18 20:58:02.69 PYfoiEjc0.net
>>537
>北支・中支から外蒙の侵攻作戦でなく満洲内での防御戦に大転換したのか
重量が30t級へ達したのはS18年構想のチリが先ですが(チトは20t⇒25tとなったあとチリが構想に上がり続いて75mm砲に変更する際に30tへ)、
日本が対ソ戦で満州国内での持久守勢に方針転換したのはS19年9月。S18年頃には攻勢は無理との見方が既に出始めていましたがS18年度までは攻勢作戦が関東軍の基本ですね。
とするならチリは必ずしも満州国内の防衛作戦のために初めて出てきた戦車とは言い難いように思われます。
日本軍はS17年にはT34やKB(KV)戦車の存在を、少なくとも18年7月頃にはM4「重戦車」が北阿戦線に登場したことも掴んでいます。
また攻勢作戦全盛時S17年7月の関東軍戦闘教令では、対戦車野砲大隊は重戦車撲滅に専用し、
配置は対戦車防御の第二線とするを本則とすると指示しています。
東ソへの攻勢作戦であっても従来の速射砲では撃破困難な重戦車との遭遇を予期し、
これの撲滅には少なくとも野砲級の威力を必要と考えていたと見られます。
チトの備砲変更と重量増大、そしてチリの諸元は単純にソ(米)重(中)戦車への対抗が主で想定される戦場の変化についてはそれほど重きを置いていないのではないかと思います。
まあ相手が重(中)戦車を使える戦場であれば日本側も使い得るわけですから。運び込むことが出来ればですが、攻城重砲も前進させるつもりでしたし。