13/10/21 23:56:02.80 f345MFit
自分が本当に生きる価値のある人間なら、慈悲の申請などしなくとも誰かが助けてくれる。
目の前で誰かが溺れているのに、その人が「助けてくれ」と叫ばなければ誰も救助に動か
ないなんてことがあるだろうか? そんな考えるだけで不気味な事態を「慈悲の申請」は
現実化しようとしているのである・・・・。
人間なら誰もが生きる価値をもっている。それと同時に個々の人間には生きる価値の無い
者もいるにちがいない。このことは矛盾ではない。
なぜなら、溺れている者が特定されていない状況では、人間なら誰もが生きる価値をもっ
ている、とその溺れている者を指し示すことができるだろう。しかし、溺れている者が特
定されている時、場合によっては、生きる価値の無い者という認識が、それを見ている側
に働くかもしれないからだ。
たとえば、自分の娘を付け狙う非常に危険度の高いストーカーの男が、目の前で溺れてい
るとする。助けなければそいつは確実に死ぬ。自分のアクションがあれば救うことができ
る状況である場合、どうするだろうか?
このとき、人間なら誰もが生きる価値をもっている、という一般原則に従い、そいつを助
けるという奇特な者もいるかもしれない。しかし、オレなら、そうはしない。
悪霊を封じ込めた豚は、溺死させるにかぎるからだ!w
助けた途端に刺されでもしたら、たまったものではないからだ!!
「助けてくれ」と「慈悲を申請」する者というのは、自分が生きる価値の無い人間と看做
されることを恐れているかのようである。
おそらくは身に覚えがあるからなのだろうが、自分には生きる価値があるのだから誰かが
助けてくれるはずだと信じきれない何かが「慈悲を申請する」行為に駆り立てているのだ
ろう。
この手の、つねに過剰がもたらすグロテスクな存在は、当たり前に生きている我々にとっ
て脅威以外の何者でもないのだ。
それは、我々の影というわけではない。影が実体を無化しようと企てることはないからだ。
オケ?w