11/12/17 17:10:09.00 dI4lRrY9
>>207この問題をその法則で
どこが一番大事なのかどこが問題にでてきそうなのか演習してよ?
次の文章を読み、後の問いに答えなさい。
どう説き聞かされても、
また、どう笑い去られても、
私には自分の生れた光景を見たという体験が信じられるばかりだった。
おそらくはその場に居合わせた人が私に話してきかせた記憶からか、
私の勝手な空想からか、どちらかだった。が、
私には一箇所だけ『 』自分の目で見たとしか思われないところがあった。
産湯を使わされた盥のふちのところである。
下したての爽やかな木肌の盥で、内がわから見ていると、
ふちのところにほんのりと光りがさしていた。
そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金でできているようにみえた。
ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐めるかとみえて届かなかった。
しかしそのふちの下のところの水は、反射のためか、
それともそこへも光りがさし入っていたのか、なごやかに照り映えて、
小さな光る波同士がたえず鉢合せをしているようにみえた。
―この記憶にとって、いちばん有力だと思われた反駁は、
私の生れたのが昼間ではないということだった。
午後九時に私は生れたのであった。射してくる日光のあろう筈はなかった。
では電燈の光りだったのか、そうからかわれても、
私はいかに夜中だろうとその盥の一箇所にだけは日光が射していなかったでもあるまいと考える背理のうちへ、さしたる難儀もなく歩み入ることができた。そして盥のゆらめく光りの縁は、何度となく、たしかに私の見た私自身の産湯の時のものとして、記憶のなかに揺曳した。